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ヒトラーは戦争を欲したか?−−1939年9月1日の「開戦」の真実    西岡昌紀
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/766.html
投稿者 西岡昌紀 日時 2013 年 9 月 01 日 15:56:12: of0poCGGoydL.
 

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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6768237.html

3年前、ミクシイ日記に書いた文章を再録してお送りいたします。

2013年9月1日(日)

西岡昌紀


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1939年9月1日 (2010年09月01日、02日、03日、05日、6日、07日、ミクシイ日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1573545462&owner_id=6445842


           1


又、9月1日が巡って来ました。


9月1日は、1939年にドイツがポーランドに侵攻した日です。

歴史に「もし」は無い、と言はれます。


確かに、歴史は一つしか有りません。ですから、「もし・・」等と言っても、歴史が変はる訳ではありません。しかし、それでも、「もし・・」と言ふ言葉をもって歴史を考えずに居られない事は有るものです。


私にとって、1939年9月1日と言ふ日は、そう言ふ日の一つです。

この日をもって、第二次世界大戦が始まったとする見方が一般的ですが、その見方の当否はともかく、この日が、ポーランドにとって大きな悲劇であった事は言ふまでもありません。特に、ドイツの侵攻に続いて、同年の9月中旬にポーランドがソ連からも侵略され、大戦後は、ドイツの敗北に続いて、ポーランドが、そのまま、ソ連の支配下に置かれ、その状況が、半世紀に渡って続いた事を思へば、この日(1939年9月1日)と言ふ日が、ポーランドにとって、いかに運命的な日であったかは明らかです。ですから、毎年、9月1日に成ると、私が、ふと、「もし、あの日(1939年9月1日)が無かったら・・・」と思ってしまふ気持ちも仕方が無いとは、思って頂けないでしょうか?

その1939年9月1日の悲劇は、回避可能であったと、私は、確信して居ます。

つまり、第二次世界大戦は全く必要の無い戦争だったと言ふ事です。

1939年9月1日の、ドイツによるポーランド侵攻が、一体何故、 起きてしまったかを当時の諸事実に即して調べてみると、それが、実は、全く必要の無い戦争であった事が分かるのです。つまり、あの戦争は、そして、ひいては第二次世界大戦その物が、実は回避可能だった事を確信せずには居られないのです。


言ひ換えるなら、その回避可能だった戦争が現実に起き、世界中で、あれだけの人々の命と幸福を奪った大戦に繋がったと言ふ事実に直面させられて、愕然とせずに居られないのです。

そこに、この日(1939年9月1日)の悲劇性が有ります。

1939年9月1日は、その全く必要の無かった戦争が勃発し、人類史上未曽有の悲劇へと発展した歴史の重大な節目であったが故に、ポーランド人だけの悲劇とは見なせません。日本人を含めた全人類にとって、この日は、戦争と平和の意味を考える重要な日だと、私は思ひます。

(2010年9月1日(水))


              2


昨年(2009年)の9月1日に、私は、この日記で、こう書いて居ます。


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(2009年9月1日ミクシイ日記より)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1271695211&owner_id=6445842

ドイツのポーランド侵攻(1939年9月1日)から、70年の年月が経ちました。


私の古い友人は御存知だと思ひます。私は、ポーランドを深く愛する日本人です。私とポーランドの出会ひについて、ここでは語りませんが、私は、この国(ポーランド)には、若い頃から、本当に深い思ひ入れを持って来た人間です。そして、ポーランドで「連帯」が誕生し、やがて、戒厳令が布告されるに至ったあの時代、親しいポーランド人と共に、ポーランドの運命を見守って居た日本人です。その事を始めに言っておきます。


その私にとって、9月1日と言ふ日は、8月6日や8月9日、或いは、8月15日と同じほど、深い感情を持って、迎える日です。日本人で、毎年、9月1日を、これほど深い感情を持って迎える人間は、決して多くない筈です。1939年9月1日は、ポーランドが、あの悲劇に突入した日であり、更に、ここが重要な事ですが、この日から戦後の「共産主義」時代を含めた50年もの停滞の時代の始まりであった日として、私は、毎年、この日を、本当に深い感情と共に迎えて居ます。


その私は、永い間、この日(1939年9月1日)の悲劇は、ドイツの一方的侵略によって、ポーランドが悲劇を体験した日であると考え、疑ひませんでした。しかし、今から20年前、二冊の本との出会ひによって、私は、そうした「公式の歴史」に根本から疑問を抱くに至ったのでした。


http://www.amazon.co.jp/Origins-Second-World-Penguin-History/dp/014013672X/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=english-books&qid=1251800475&sr=1-2

http://www.amazon.co.jp/Forced-War-Peaceful-Revision-Failed/dp/0939484285/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1251800343&sr=1-1
         ↑
この二冊の本を入手出来る方は、是非、お読み頂きたいと思ひますが、今の私が、この日(1939年9月1日)について思って居る事を言ひましょう。私も、開戦の責任は、当時のポーランド政府に在ったと思ひます。あの開戦は、当時のポーランド政府が、平和的に解決できた筈のダンツィヒ(Danzig)問題を、イギリス外務省の扇動に乗せられて危機にまで高め、ドイツが開戦せざるを得ない状況を生んだ事に原因が有ったと、今の私は思ひます。


ダンツィヒ(Danzig)は、歴史的に見れば、中世以来、明らかに、ドイツ人ばかりが住む、ドイツの一都市だったのです。それを、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約はドイツから切り離したのですが、これは、例えて言へば、第二次大戦後、韓国が独立した際に、九州北部が国際都市とされて、その行政の一部が韓国に委託された様な、余りにも理不尽な決定だったのです。更に、ヴェルサイユ条約は、ダンツィヒ以外の、歴史的にはドイツ人が居住し、明らかにドイツの一部であった地域を新生ポーランドに編入してしまひました。ポーランドが独立を回復した事は良いのですが、その様な、余りにも歴史的経緯を無視した国境画定をしたのですから、第一次世界大戦後、ポーランド領内に編入された地域のドイツ人が、ドイツへの復帰を求め、新生ポーランドの暴力的な支配から逃れたいと思った事は、全く当然だったのです。もし、それがいけなかったと言ふのなら、第二次世界大戦後、アメリカに統治された沖縄で、住民が日本への復帰を求めた事もいけなかった事に成る筈です。先程の例えで言ふならば、ヴェルサイユ条約が決めた第一次世界大戦後のポーランドと国境は、九州を韓国に編入した様な、滅茶苦茶な物だったのであり、ドイツ人が、これを見直す様、ポーランドに対して、平和的に交渉を申し入れた事は、全く当然だったのです。実際、当時の記録や、ドイツ政府からの提案は、平和的な申し入ればかりであり、それを、かたくなに拒んだばかりか、戦争の可能性まで明言した当時のポーランド指導者たちは、そうする事で、ポーランド国民の運命を誤ったと非難されても仕方が無いと、私は考えます。言ふなれば、当時のポーランド政府は、李承晩ラインを引いて竹島を占領した韓国以上に、常軌を逸した姿勢で、この問題に臨んだのです。(ポーランドのこうした強硬姿勢の背後には、イギリス外務省やアメリカの工作が有りました)


例えて言へば、湾岸戦争に先立つイラクのクウェート侵攻に似て、「侵攻」の前には、こうした複雑な歴史が有ったのであり、アメリカやイギリスの影が有ったのです。

(後略)


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つまり、当然の事ですが、1939年9月1日の悲劇には、その前史が有ったと言ふ事です。


しかし、マスメディアにおいては、1939年9月1日の戦争勃発については時々取り上げられる事は有っても、その前史については、殆ど全く語られる事が有りません。


その前史の中にこそ、この戦争は避けられた事を示す事実が幾つも有るにも関はらず、です。ですから、日本人を含めた多くの人々は、1939年9月1日の悲劇が、そして、それに続く第二次世界大戦その物が、実は、全く不必要な物であった事に気が付かずに居ると、私は、思ひます。


これは、私だけの見方ではありません。マスコミや御用歴史家が語らない、1939年9月1日の前史を知る人の多くは、私のこの見方に同意して居ます。その一人であるアメリカ人の言葉を以下に御紹介しましょう。


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 考えてみれば、ポーランドと全東ヨーロッパの運命が、ダンチヒという小都市のために犠牲とならなければならなかったのは、言いようもなく悲劇的なことであった。 ほとんどのアメリカ人は、ダンチヒなんて聞いたことが
なかった。

 第二次大戦は、不必要で誰も望まなかった戦争であり、史上、最も破壊的かつ破滅的な戦いであった。そして、それは百万人以上のヨーロッパの人々、つまり、ポーランド、チェコ、ハンガリーのみならず、バルト諸国、バルカン半島の国々にとって、自由の終焉であった。
 大戦中の駐米イギリス大使であったロージアン卿は、一九三七年六月二十七日、チャタム・ハウスで行なった講演で次のように述べた。


「民族自決の原則は、かつてドイツにとって不利な形で適応されたが、もし逆に、ドイツの利益となるように適用されたならば、それは、オーストリアのドイツへの再統合、ズデーテン地方、ダンチヒ、そしておそらく、メーメルのドイツとの合併を意味するだろうし、さらにシュレジェンとそれにアクセスするための回廊について、ポーランドとある程度の調査がなされることを意味する だろう」


 ロージアン卿は、すぐれて知的であり、情報通であり、 愛国的な英国人であって、この発言を、ダンチヒをめぐる危機が起こる二年前に行なっていたのだった。
 戦争というのは、明らかな作為、不作為、あるいは引き延ばしによって起こる。
 第二次大戦の破局は、もう手遅れになるまで引き延ばし作戦をとったポーランドの外務大臣、ジョゼフ・ベック外相にその責任の一端がある。ベック外相は、ポーランド政府は、ダンチヒ返還交渉に関してドイツと直接に交渉するようにとの、英国の外務大臣、ハリファックス卿と駐独フランス大使とボネ仏外務大臣に支援された、駐独イギリス大使ネヴィル・ヘンダーソン卿からの要請に従うことを拒否した。ヘンダーソン大使は公然と、ドイツの提案は、公正で合理的なものであると発言していた。
 恐らく、ベック外相は、情勢の深刻さを理解せず、戦争を阻止するのに手遅れになるまで、直接交渉を引き延ばした責任を負ってしまったのだろう。


(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP 文庫1992年)146〜147ページより)
(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

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 これは、アメリカで永く下院議員を務めた政治家ハミルトン・フィッシュ(1888−1991)氏が、1983年に発表した自著の一節です。1919年から1945年まで、12回に渡って下院議員(共和党)に選出されたフィッシュ氏は、当時、この戦争を回避する為に精力的に行動し、開戦直前のダンチヒを自ら訪れても居た人物です。そのフィシュ氏が、この本の中で糾弾して居る事は、まさしく、上に書かれてある通り、この戦争は全く必要の無い戦争だったと言ふ事なのです。


(2010年9月2日(木))


        3


当時の状況を、フィッシュ氏は、こう要約します。


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 ほとんどすべての著名人たちが、ポーランドにドイツとの直接交渉に同意させて戦争を回避させようとした。しかし、そこには一つの障害物があった。ポーランドの外務大臣、ジョセフ・ベックは、当初、ドイツ側の主張を理解していたが、やがて全く役に立たない英国の軍事保障を得てから、完全に態度を変え、交渉に対し非常に強硬な立場を取るようになったのである。
 ダンチヒは住民の九〇%がドイツ人で、民族自決の原則に従った住民投票では絶対的多数がドイツへの復帰に賛成した。ドイツのチェコスロヴァキアに対する侵略は情け容赦ないものであり、弁護の余地のないものであった。しかしナチス・ドイツがダンチヒとポーランド回廊(訳注:ベルサイユ条約により、ポーランドへ分割されたドイツ領プロイセンとドイツ本国との間を結ぶ地帯)の返還を行ないたいとの希望は理解しうるものであり、英・仏によって第二次世界大戦の原因とすることが許されるべきものではなかった。
 ダンチヒの復帰をめぐるドイツ・ポーランド間の直接交渉を遅らせ、妨げ、最終的に不可能とした真の理由はなんであろうか。
 当時、英・仏は、首脳部を通じて、ダンチヒ問題を平和裡に解決するために、全権を与えられた使節を送るようポーランドに対し、要請していた。英・仏とも、もしドイツが、ポーランドに侵攻したら、ドイツに対し宣戦を布告する旨を、はっきりさせてはいたが、チェンバレン首相は、極端に、局面の破局を恐れており、ケネディ駐英アメリカ大使を通じて、ルーズベルト大統領に対してすら、大統領がそのために影響力を行使するよう要請していた。
 他方、ヒットラーも、英・仏を参戦させないために、ダンチヒ問題を平和的に解決することに熱心であった。ヒットラーは、ダンチヒに関して何らかの譲歩を考慮したり、問題を討議するために、全権使節を任命することすら拒否するポーランド側のかたくなな態度に非常に困っていた。八月二十四日、彼はついに、ポーランド侵攻を命じたが、各方面から嘆願を受けて、最後の瞬間になって、命令を撤回したのであった。
 英・仏両国からの必死の懇願、ローマ法王、ベルギー国王、米国大統領からのメッセージを受けて、ポーランド政府は、ようやく最後の瞬間になって、リプスキー駐独ポーランド大使を、フォン・リッベントロープ外務大臣に面会させ、ポーランドが、ドイツ側が提案した交渉の条件に関心があると申し入れさせることを許可した。
 フォン・リッベントロープは、リプスキー大使に、「それでは閣下は、交渉の権限をお持ちでここへみえたのですか」と尋ねた。
 そして、大使がそうではないことを認めると、それが平和維持のための努力の終わりであった。
 あらゆる方面からもっと圧力をかければ、ポーランドが交渉に応じたであろうことは明らかであり、もう数日待つことができず、力ずくで問題を解決しようとしたヒットラーが、究極的には責めを負うべきであろう。しかし、ベルサイユ条約体制の最後の清算であるダンチヒ問題に関して、譲歩を考えることすら拒否したポーランドも責めを受けるべきである。特にほんの六日前に、ヒットラーが、ソ連と不可侵条約を結び、今や、明らかにソ連は、ドイツに味方するであろうという悲痛な事実があったことを考えれば、(ポーランドの頑固さは)残念なことであった。

(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)135〜137ページより) (原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


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これが、1939年当時の、開戦直前の状況だったのです。


関口宏氏のテレビ番組などを見て居てのでは、こう言ふ事は分からないと思ひます。即ち、1939年の開戦直前の状況において、国際世論は、今日、私たちが思ふのとは違って、この問題(ダンツィヒ問題)に関する限りは、ドイツの要求は正当であり、冷静さを欠いて居るのは、ポーランドの方だと見なして居たのです。


それにも関わらず、戦争が起きてしまったのは何故だったのか?


それこそが、問題の核心です。



(2010年9月3日(金))

          4


フィッシュ氏は、1939年9月1日の開戦直前、議員として、自らドイツとポーランドを訪れ、戦争回避の為に努力をした、アメリカの尊敬すべき政治家です。つまり、フィッシュ氏は、1939年の開戦前夜の外交の舞台裏を知る歴史の生き証人だった訳ですが、その歴史の生き証人であったフィッシュ氏は、この全く不必要だった戦争が起きてしまった原因は、当時のアメリカ大統領、フランクリン・D・ルーズヴェルトに在ったと断言します。


即ち、ヨーロッパで戦争が起きる事を望んで居たルーズヴェルト大統領が、腹心のブリット駐仏アメリカ大使を通じて、裏でポーランドを戦争へとけしかけて居た事を、フィッシュ氏は、次の様に暴露して居るのです。


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 ポーランドの、緩慢な行動は、第二次世界大戦を発火させるスパークの役割を果たした。ルーズベルト大統領は、平和のための偉大な功績者となるチャンスがあったが、彼は、チェンバレン首相の要請を拒否し、事態の解決を遅れさせたので、第二次大戦の勃発を防ぐために何もすることができなかった。
 当時のルーズベルトの対ポーランド政策は、一九三〇年代、ポーランドの駐米大使であったイェルジー・ポトツキーの報告に詳しい。
 この報告は、ワルシャワで、ドイツ側に押収されたポーランドの外交文書の中から見つかり、後に、当時、南米に住んでいたポトツキーにより確認されたものである。
 以下の発言は、一九三九年一月十六日、ルーズベルトのヨーロッパにおける重要な代表であったウィリアム・ブリット駐仏大使が、パリに帰任する際に、ポトツキー大使と会談した時に行われたものである。


「英仏は、全体主義国家と、いかなる種類の妥協もやめなければならないというのが、大統領の確固とした意見である。領土的変更を目的としたどんな議論も許されてはならない。合衆国は、孤立政策から脱却し、戦争の際には英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある旨を同義的に確約する。」


 これこそが、介入を約し、ダンチヒ問題に関して、いかなる平和のための妥協に対しても、はっきりと反対した、ルーズベルト大統領の戦前の干渉政策の忌むべき証拠である。ルーズベルトが、一九三九年の初めから「全体主義国家とのいかなる種類の妥協もやめなければならない」として、英仏に対し、影響力を行使していたのを証明しているのだ。ブリット大使は、合衆国は、


「戦争の際には、英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある」


 ということを確約しているのである。

 ブリット大使の発言は、アメリカの不干渉主義者たちが、ヨーロッパで戦争が勃発する前に主張していたことを、まさに裏ずけるものである。それはまた、もしルーズベルトが、余計な介入をせず、英仏を戦争に追い込まなかったならば、ヨーロッパで戦争は起きず、ダンチヒ問題も、平和的に解決されていたであろうとする、対ルーズベルト非難が正しかったことを証明するために極めて重要なものである。
 チェンバレン英国首相とジョルジュ・ボネ仏外務大臣の二人も、ドイツに対して戦争を起こすよう、ルーズベルトからの圧力があったことを公に認めている。
 このブリット大使との会談についてのポトツキー大使の報告は、ルーズベルト大統領が、ブリット大使を通じて、また直接チェンバレン首相に対して、強力な戦争を起こすための影響力を行使したことの明確な証拠の一つである。
 合衆国大統領が、ヨーロッパの政治に直接介入し、平和ではなく、戦争を推進したのはアメリカの歴史が始まって以来の出来事である。
 私は、歴史と行政学で優等の成績で卒業した後、ハーバード大学の歴史の講師の地位をオファーされたことがある。今では、それを引き受けなかったことを後悔している。しかし、私は議会の外交委員会に二十年間籍を置き、わが国の外交政策に関しては、だいたいフォローしてきていた。
 その中で、合衆国大統領が、大使やその他のチャンネルを使って、ヨーロッパで戦争を起こそうとした例は知らない。われわれの大統領は、全員が不変の政策として、平和に賛成であった。かつて戦争を扇動したり、推し進めようとするために、自己の影響力を用いたような大統領はいなかった。
 ルーズベルト大統領が、ヨーロッパで、枢軸勢力に対抗するために、戦争を使そうしたということは、ブリット大使の行動と発言やジョルジュ・ボネ仏外相からの手紙、またチェンバレン英国首相からケネディ大使に宛てた同様の発言、フォレスタル海軍長官宛ての同趣旨の発言−−これは長官の日誌にも引用されている−−からも明らかである。
 また、第三章で引用した、ピアソンとアレンの書きものは、どうやってルーズベルト大統領が、チェンバレン首相にドイツとの戦争を強いたのかを教えている。
 これらすべての記述は、ルーズベルトが、英・仏・ポーランドをヒットラーと戦わせようとして、影響力を行使したことを証明しているのだ。

(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)143〜145ページより) (原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


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ルーズヴェルトにとって、ベック外相をはじめとする当時のポーランド政府指導者達は、東アジアにおける張学良や蒋介石と同様の役割を演じるチェスの駒だったのです。

これこそが、ポーランドの悲劇の核心だったと、私は思ひます。



(2010年9月5日(日))



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次の言葉をお読み下さい。


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"Poland wants war with Germany and Germany will not be able to avoid it even if she wants to." (Polish Marshal Rydz-Smigly as reported in the Daily Mail, August 6th, 1939)

「ポーランドはドイツとの戦争を欲して居る。ドイツは、それ(戦争)を避けたくても、避ける事は出来無い。」


(イギリスの新聞デイリー・メイル(1939年8月6日)紙上で伝えられたポーランド参謀総長ルジ・シミグリの発言)


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これは、1939年9月1日の開戦直前(同年8月6日)、当時、ポーランドの参謀総長だったポーランドの将軍が、イギリスの新聞で行なった発言です。

ダンツィヒを巡る緊張が頂点に達し、ハミルトン・フィッシュ氏をふくめた欧米の心ある政治家や外交官が、戦争を回避する為に必死に行動して居たさ中、当のポーランドでは、ポーランド軍のトップに在った人物が、白昼堂々、こうして、「ポーランドは戦争を欲して居る」と公言して居たのです。

もう一度お読み下さい。

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"Poland wants war with Germany and Germany will not be able to avoid it even if she wants to." (Polish Marshal Rydz-Smigly as reported in the Daily Mail, August 6th, 1939)

「ポーランドはドイツとの戦争を欲して居る。ドイツは、それ(戦争)を避けたくても、避ける事は出来無い。」


(イギリスの新聞デイリー・メイル(1939年8月6日)紙上で伝えられたポーランド参謀総長ルジ・シミグリの発言)


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皆さんは、これを読んでも、1939年9月1日の開戦に、ポーランドは、何も責任を持って居なかったと、お考えになるでしょうか?

1939年9月1日の開戦の悲劇は、本当に、ドイツだけが、一方的に責められるべき出来事だったのでしょうか?

(2010年9月6日(月))



              6


開戦の責任がどちらに在ったか、と言ふ議論とは別に、当時のポーランド政府とポーランド軍の指導者たちが、ドイツと開戦した場合に、自分たちの国がどう成るか、について思慮を欠いて居た事には、驚かずに居られません。


フィッシュ氏は、こう述べます。


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 西部国境にはヨーロッパ最強のドイツ軍がひかえ、東部国境では、膨大なソ連軍がひかえているという、言葉で言い表せないほど戦慄すべき情況だったのにもかかわらず、ベック外務大臣や他の政府首脳が、この軍事情勢について、かくも完全に判断を誤っていたとは、ほとんど信じ難いことであった。
 当時イギリスは、たった二、三個師団しか動員可能ではなく、ポーランドを軍事的に助けるために、空気銃やかんしゃく玉を提供することすら不可能であった。英・仏に対し、公平を期すれば、英・仏両国とも、ポーランドに戦争を強いたりはしなかった。
 両国の有する外交力を行使して、ポーランドに対し、ダンチヒ問題に関し返還交渉に応じるよう説得に全力を費やしたのであった。

(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)137〜138ページより)(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

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 開戦の責任論とは別に、これが当時の軍事的現実だった訳であり、実際、9月1日に戦争が起きた際、ポーランド軍は、機械化されたドイツ軍に向かって騎兵で立ち向かひ、「玉砕」して居ます。


 それにも関はらず、開戦直前に、ポーランド軍の参謀総長が、「ポーランドは戦争を欲して居る。ドイツは、それを避けたくても避ける事は出来無い。」等と発言して居た事は、本当に信じられない事です。その様な愚かな人々が、政府と軍を指導する立場に在った事こそは、当時のポーランド国民の悲劇でしたが、その背景には、ポーランド政府と軍の指導者の資質のみならず、フィッシュ氏が暴露して居る、ルーズヴェルトと、彼の圧力を受けたイギリスの扇動が有った事を忘れてはいけません。そこに、アメリカと言ふ国の恐ろしさが有ります。


フィッシュ氏は、続けます。


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 ダンチヒはドイツ人の街であり、もしドイツ側に返還されたならば、ドイツは、ポーランドの独立と統一を保障する条約に署名するのに同意していたことを考えると、両国の指導者、軍上層部の政策は無益で、悲劇的であった。
 ピルスドスキー元帥は、ポーランド史上、最も偉大な英雄であり、政治家であるが、もし彼が生きていたならば、ダンチヒを返還してドイツと和解し、ポーランドの独立と統一の保障をドイツから取りつけたであろう。それは、ピルスドスキー元帥が親独的だからではなく、彼がソ連を知っており、共産主義を恐れ、憎んでいたからである。
 ポーランドにとって不幸なことに、元帥は、第二次大戦の始まる五年前に、この世を去っていた。元帥は、ヒットラーすら一目置いていたほどの強力な指導者で、偉大な軍事的指導者であった。
 私は、数多くのポーランド亡命者たちと話したが、彼らは一致して、もしピルスドスキー元帥が健在であったら、ダンチヒ問題は平和的に解決され、ポーランド侵攻も、第二次世界大戦も、共産主義者による一万二千人のポーランド軍士官の虐殺も起こらず、自由なポーランドも共産化しなかったであろうという意見に同意した。
 一九三九年八月の時点で、最も重要で議論の的となった問題は、ダンチヒ自由市の地位であった。このドイツ人の街の回復は、ヒットラーとドイツのめんつにとって不可欠の条件であったのだ。ダンチヒに対し、ドイツが正当な権利を有することは、すべての人々−−ベック外相ですら、しぶしぶと−−が認めていた。多分、そのために、ベック外相は、手遅れになるまで、ドイツと交渉するのを避けようとしていたのであろう。
 数カ月後、自由を愛するバルト海諸国は、フィンランドを除いて、ソ連に支配され、しばらくして共産主義化されてしまった。このことを、私は数年にわたって警告し続けていたのだ。つまり、いったん戦争が始まるならば、貪欲な共産主義者の禿鷹(はげたか)が舞い降りて来て、東ヨーロッパの血塗られた屍体を浚(さら)って行くだろうということである。
 もしポーランドがダンチヒと回廊の返還に応じていたとすれば、どうなったか考えてみよう。
 ベック外務大臣は、返還に応じる意志があった。しかしルーズベルト大統領とポーランド軍将軍たちが、手遅れになるまで、それを妨げたのであった。
 ダンチヒをドイツに返還していれば、ナチス・ドイツは、ポーランドへ侵攻する口実を失い、独ソ不可侵条約から方向を変え、ポーランドの共産化を防いだであろうし、ヒットラーの、ポーランド在住ユダヤ人絶滅政策を未然に防いだであろう。

(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)138〜140ページより)
(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


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歴史に「もし」は無い、と言はれます。


しかし、その「もし」について考える事で、歴史の真実が何であったかのかに気が付かされる事は有ると、私は思ひます。

核時代65年(西暦2010年)9月7日(火)


西岡昌紀
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6768237.html


*  

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コメント
 
01. 2013年9月01日 19:20:57 : W18zBTaIM6
西岡昌紀氏の今迄阿修羅に投稿したものは殆ど見てきましたが、文化・芸術関係も歴史関係もすべて嘘と出鱈目でしたね。

基礎学力と一般教養の欠如がこういう結果になっているんでしょう。

こんなアホが医者やってて大丈夫かな?

戦争というのは元々景気対策でやるものなので、不況期に戦争をやらなければ軍需産業も重工業も破綻してしまうというのが常識でしょう。


02. 2013年9月02日 02:29:09 : DwCqp5Z07I
>>01さん

西岡さんは確信犯でしょう、戦前の軍国主義体制下ならば

出自が所属する村の長で、村民の娘たちに夜這いをし放題の

「特権階級」だったとか。戦前戦時中の「天皇共産主義体制」とやらは

農村の風習まで叩き潰す政策は採用しなかったですから。

歴史から農村の夜這いの風習を「自然消滅」させようとの政策は、

高度成長期からですので「日本国憲法」を憎んでも当然かと。


3. 中川隆[-10467] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:18:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1824] 報告

電撃作戦 ポーランド侵攻 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=KZtU0l6w9g8


▲△▽▼


ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。

ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


▲△▽▼


【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405


筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。

「ブラッドランド」には、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ナチ西部占領地域は含まれていない。ルーマニアではファシスト政権の反ユダヤ政策により、強制収容所や移送中の列車の中で30万人が死亡したが、これはナチやソ連政府とは無関係な殺害政策である。ハンガリーでは戦争末期に40万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られて死亡したが、ソ連は関与していない。ユーゴではナチ傀儡「クロアチア独立国」により数十万人のユダヤ人やセルビア人が殺害されたが、ユーゴがソ連に支配されたことはない。フランスでも反ユダヤ政策によりユダヤ人が絶滅収容所に送られたが、「ブラッドランド」からは外れる、とのこと。

その理由は、あくまで上記のようにポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域のみに的を絞っているからだ。これらは戦前にはソ連に、戦間期にはナチスの大量殺人政策に痛めつけられた地域である。双方の無慈悲なテロに晒され夥しい数の人が死んだ”流血地帯”である。

筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。

ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。


ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

Soviet_and_German_Troops

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。

ドイツ国防軍の末端兵士に至るまで、ポーランド人は支配民族(=ドイツ人)に尽くすための奴隷民族であると教えられた。ドイツ将兵はポーランド人を気まぐれに虐待し、ドイツ兵一人が傷つけば身近なポーランド人を報復として数百人規模で銃殺した。また、ドイツ兵は平然とポーランド女性やユダヤ人女性を強姦した。銃声が聞こえれば付近の村人をフェンスの前に並ばせて皆殺しにした。またポーランド軍捕虜から軍服を奪い去り、ゲリラと決めつけて問答無用に銃殺にした。ポーランドにはユダヤ人が数多くいたが、ドイツ兵は彼らも気まぐれに虐待を加え、婦女子を強姦し、村人を銃殺し村を焼き払った。また、ドイツ空軍は開戦以来都市に無差別の爆撃を加え続け、戦闘の混乱により東に逃げる人々の列に機銃掃射を加えて楽しんだ。

1939年末までにドイツ兵に殺されたポーランド民間人は45000人に上った。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


戦後はドイツ軍政と、諜報機関のトップであるラインハルト・ハイドリヒによって編成されたナチス親衛隊の移動抹殺部隊により、ポーランドのエリート階層は根絶やしにされ、銃やガスや人為的飢餓でのきなみ絶滅の憂き目にあった。これは「AB行動」と呼ばれる。

ヒトラーの目的はポーランドをドイツの人種差別主義者の理想通りの世界とすること、社会からドイツの支配に抵抗する力を奪うことだった。とはいえ、当時のドイツの殺戮班はこの手のテロにまだ不慣れで、NKVDほど効率的に敵を排除することができず、総督府領内で徐々にレジスタンス活動が活発化して行く。


独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。


独ソ開戦ー犠牲者?

horocaust

ドイツは第一次大戦で英軍の海上封鎖により76万人が餓死した苦い記憶を持つ。その歴史を熟知していたヒトラーは、食糧不安を解消するためになんとしてもウクライナが欲しかった。ウクライナはソ連の穀物生産の90%をしめるヨーロッパ有数のカロリー源であった。ヒトラーは東方総合計画を策定した。これは端的にいえばウクライナを占領し、農民を全て餓死させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった。

ドイツの計画立案者たちは、33年のウクライナ大飢饉に倣い、集団農場を使って農民を餓死させる計画を立てた。また、戦争によって拡大した領土に住まうドイツ人や前線に送るドイツ兵に食糧を効率的に供給するために、スラブ人やユダヤ人から食べ物を取り上げ、餓死させる計画を立てた。これはつまり、ソ連地域の大都市を破壊し、森に帰すことで冬の寒さに晒し、1942年の春までに3000万人を餓死させるというものだった。


しかし、戦況が思ったよりも長引き、ドイツ国防軍は苦戦し、進軍が遅れたために計画通りにはいかなかった。都市や集団農場の住民を殺して食糧源がなくなれば戦況は壊滅的に悪化するだろう。このような事情に加え、ナチス親衛隊やドイツ国防軍にソ連NKVDほどの実力はなかった。実際には飢餓計画は実行不可能だったのである。しかし、ドイツ国防軍に捕らえられた300万のソビエト兵捕虜は、冬の荒野に鉄条網を張り巡らせただけの収容所ともいえぬような場所に拘禁され、食べ物を与えられずほとんど全員が餓死した。またドイツ国防軍やナチス親衛隊は、50万人の捕虜を銃殺し、260万人の捕虜を餓死させるか、移送中に死に至らしめた。初めから殺すつもりだったのだ。犠牲者は310万人ともいわれる。

また、ドイツ兵はポーランド人よりもさらに劣等な人種としてロシア人を見ていた。ドイツ兵は彼らをためらうことなく銃殺したが、このような民間人に対する犯罪行為は、バルバロッサ命令という形で合法とされた。

また、コミッサール命令という政治将校、共産党員、赤軍将兵、または市民のふりをしたゲリラは問答無用に処刑して良いことになっていた。この定義にユダヤ人が含まれるようになると殺戮は拡大した。犠牲者はあまりにも膨大で、はっきりとした数字は未解明である。

1941年の9月までにドイツ軍が包囲した、ソビエト北の要衝レニングラードでは本格的な兵糧攻めが行われた。900日間にわたる包囲戦により、100万人の市民が餓死した。ヒトラーは東方総合計画により、レニングラードを完全に破壊して更地にしたうえでフィンランドに引き渡すつもりだった。はじめから住民を全て殺すつもりだったのである。包囲下のレニングラードでもNKVDは微塵も揺らぐことなく健在で、裏切り者を探し回っては銃殺していた。レニングラード市民は独ソ双方から過酷なテロを受けたのである。

また、1944年のワルシャワ蜂起では、20万人の市民が戦闘の巻き添えになって死亡し、70万人の市民が市内から追放された。

ホロコーストー犠牲者540万人

holocaust2

ホロコーストはバルト諸国のリトアニアから開始された。ナチス親衛隊はリトアニアやラトヴィアで現地民を扇動してポグロムを引き起こし、ユダヤ人やNKVD、共産党員を殺害。ドイツ軍や警察はユダヤ人の成人男性をスパイやゲリラと見なして銃殺した。

1941年の8月ごろになると、ヒトラーは既にソ連への奇襲作戦が失敗し、戦争終了を予定していた9月中旬までにモスクワを占領することは不可能そうであると悟った。総統はせめてユダヤ人を皆殺しにすることを考えた。こうしてユダヤ人の女性や子供・老人がゲリラの定義の中に含まれた。

ポーランドの時と同じように、ソ連の指導者たちを排除するため、保安諜報部(SD)と警察の特殊部隊が編成されていたが、彼らの任務はいつしかユダヤ人を全て殺すことへと変化して行った。SDと警察の移動抹殺作戦により、リトアニアのユダヤ人20万人のうち19万5千人が銃殺された。その他の地域でも気の狂ったような大量銃殺が繰り広げられ、その凶行をとめることができる者はいなかった。全ては総統命令として正当化されたのである。

ウクライナ、ベラルーシ、西部ソ連地区でも状況は似たようなものだった。ドイツ軍が版図を広げるたびに移動抹殺隊が影のように現れ、現地徴集兵を雇ってユダヤ人や共産党員、精神障害者や同性愛者を手当たり次第に銃殺した。ウクライナのキエフではたった2日で3万人以上のユダヤ人婦女子が銃殺され、ベラルーシでは過酷なパルチザン戦が繰り広げられ、国民の4分の1が巻き添えになって殺された。移動抹殺作戦の犠牲者は100万人以上と推計される。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


ポーランドには6つの絶滅収容所が設置され、ヨーロッパ各地からユダヤ人や政治犯、思想犯、同性愛者や障害者がかき集められて、飢餓や強制労働や銃やガスによって命を絶たれた。犠牲者は250万人を超える。

ホロコーストの結果、ヨーロッパの全ユダヤ人のうち3分の2が殺害され、なかでもポーランドの被害が最も深刻で、90%以上、300万人のユダヤ人が絶滅された。


抵抗の果てに

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戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。

戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。


おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。

アウシュビッツはホロコーストの象徴だが、アウシュビッツで死亡したユダヤ人は死亡したユダヤ人の6分の1に過ぎない。アウシュビッツが本格的に稼働するころには、既にユダヤ人の多くは命を落としていた。

ベルゲン・ベルゼンやダッハウ解放後の悲惨な写真は人々の記憶に刻みつけられたが、それらはどちらも絶滅収容所ではなく、西側の連合軍が解放した絶滅収容所は一つもなく、カティンの森もバビ・ヤールも、西側の目に触れたことは一度もない。

ナチス崩壊後も、スターリンの赤い帝国が厳重に引いた鉄のカーテンによって、ロシアばかりでなく、ドイツの犯罪行為も闇に葬られてしまった。ナチスドイツの東部捕虜収容所は、絶滅収容所以上の絶滅施設であった。そこでは310万人が飢餓や銃によって殺害され、ソ連兵捕虜の死亡率は60%近くに上った。ヒトラーの東方総合計画の検証もほとんど進まなかった。”ブラッドランド”は、全て戦後スターリンの帝国に覆い隠されてしまったからである。

激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4



4. 中川隆[-10466] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:19:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1825] 報告

『ヒトラー思想』とは何か ーまとめ 2017/7/31 ニッチな世界史


『ヒトラー思想』が降りてきた……

2016年7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に男が侵入し、わずか1時間程度の間に45人の入所者を殺傷する事件が起きました。犠牲者は全員体や脳に重い障害を負っていました。犯人は自ら出頭し、その場で逮捕されました。その男の名は植松聖(26歳)。彼が精神病院へ措置(=強制)入院中に医師に話したとされる言葉……それが冒頭の『ヒトラー思想』です。


数々のメディアが、ナチスドイツの障害者絶滅※政策「T4作戦」に注目し、各所で歴史の見直しと考察がなされましたが、どれもこれも表層をなぞるのみに終始し、根本的な理解が得られたようには思えません。ヒトラーがなぜ「T4作戦」を許可したのか、そしてなぜ途中で中止命令を出したのか、中止命令が出されたのにひっそり続けられたのは何故なのか、そもそもT4作戦がいかなる規模でどのような官僚制度のもとで現実に実行されたのか、あなたは答えられますか?

※よく「安楽死」と表現されるんですが、現実にはディーゼルエンジンの排気ガスで窒息死させたり(死ぬのに1時間以上かかりました)、穴を掘らせてその淵で銃殺するなどの方法がとられ、「安楽死」などと呼べるものではなく、「安楽死」という表現はナチスのプロパガンダです

「T4」は『ヒトラー思想』の副産物のひとつにすぎない、と思います。
ナチスが政治的人種的にスケープゴートに定めたのは、多岐にわたります。反政府活動家、社会主義者、民主主義者、同性愛者、エホバの証人、労働忌避者(ニート)、精神障害者、、、、、様々ですが、最も大きなカテゴリーに属し、人種の最も憎むべき宿敵と規定されたのがユダヤ人です。

あるナチス親衛隊員は「西には職務が、東には国会社会主義の使命がある」と言いました。
『国家社会主義の使命』は、もちろんユダヤ人の絶滅を意味する言葉です。当時、ヨーロッパユダヤ人のほとんどは東ヨーロッパに点在し、それぞれで巨大なコミュニティを築いていたのです。

『ヒトラーの思想』はシンプルでしたが、既存のレジームを都合よく解釈しながらも極めて独創的であり、狂気と言えるぐらいに首尾一貫としていました。ヒトラーはそんなユニークなポリシーを頑として曲げることなく冷徹に実行しようとしましたし、その戦略は高度な計算に基づいていました。

冷酷な独裁者と言われ、高度な文明国ドイツで突如、ナチ党を率いて政権の座に就いた男……彼が何を考えていたのか、本当に理解している人は少ないでしょう。ヒトラーに関するあらゆることは、正確さに欠けていたり、偏見や決めつけで凝り固まっていたり、半ば伝説化している場合さえあります。『慶應義塾大学出版界』発行の『ブラックアース』や、ヒトラーの著作『わが闘争』、彼の発言集『ヒトラーのテーブルトーク』などを探りながら、『ヒトラー思想』の源流と基礎をまとめます。
http://3rdkz.net/?p=535


引用・参考文献


ブラックアース ―― ホロコーストの歴史と警告 – 2016/7/16
ティモシー・スナイダー (著), Timothy Snyder (著), & 1 その他
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わが闘争―民族主義的世界観(角川文庫) – 1973/10/1
アドルフ・ヒトラー (著), 平野 一郎 (翻訳), 将積 茂 (翻訳)
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ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944 – 1994/12/1
アドルフ・ヒトラー (著)
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イェール大学教授ティモシー・スナイダー教授著『ブラックアース』序章に「ヒトラーの世界」と題す短いチャプターがあります。訳文自体は硬くて読みにくいですが、ここに『ヒトラー思想』がシンプルにまとめられていますのでオススメしたいと思います。以下は、大部分が『ブラックアース』からの引用です。

ヒトラー思想@ 人生は土地を求める闘い

ヒトラーの世界観の中では、ドイツ人はわずかな土地から必死で食糧を掘りだそうとする存在ではなかった。土地は食糧の供給を意味したが、その土地からより多くの恵みを得ようという、農業のイノベーションをヒトラーは拒絶した。しかるに、食べ物をより多く得るために、自然の中で動物に過ぎない人間が行うことはただ一つであった。それは敵の土地を征服することであり、新たな土地を獲得することだった。それはドイツ人種の生存と豊かな生活を約束したのだった。

比較的に新しい陸軍国たるドイツは、英仏をはじめとする海洋国家に対して植民地獲得競争に乗り遅れていた。新たな領土として野心の対象となったのは、ロシアやそれに従属する東ヨーロッパ諸国の領土である。彼らから土地を没収するのを正当化するための、スラヴ人を奴隷と捉える人種イデオロギーが必要とされたのだ。

ヒトラーの思想は、ユダヤ人を反「自然」反「人種」として捉え殲滅することを正当化するイデオロギーと、スラヴ人から土地を奪取し、彼らを奴隷化することを正当化するイデオロギーの、大きく二つに分かれた。ヒトラーは、当時自然科学として人々の間で隆盛を誇った「優生学」「ダーウィニズム」「ニヒリズム」「マルクシズム」「心理学」「一元論」「唯物論」などなどを曲解・歪曲することで思想的根拠とした。また、ヒトラーは、聖書や神の言葉など、人々に根付いた伝統的な宗教観や道徳観を刺激し、独自解釈することで理論を補強した。その思想は、ゲッベルスをはじめとした天才的なプロパガンディストたちによって繰り返し大衆へ伝えられたのだ。

ヒトラーだけでなく、当時のドイツ人の多くは第一次大戦中の英海軍による海上封鎖によって、数十万人のドイツ人が餓死するという苦い心的外傷を記憶していた。この時優先的に食糧を配給されたのは兵士など戦争に役立つ人間であり、多くの障害者や病人は冷遇され、食糧を剥奪されて餓死した。戦争に役立たない人間から食糧を奪う、ということは当時から行われていたのだ。ヒトラーはこの苦い記憶から、食糧を確保することが何よりも生存と支配の原理を維持するのに大切であると学んだ。ヒトラーの観ずるところ、食糧を与えたり奪取したりする権力を単独で保有するイギリスこそ、世界経済を支配する黒幕なのである。ヒトラーは英国人以外の誰もが食糧保証が欠如している現状を「平時の経済戦争」と呼んだのである。食糧を確保することは、権力の一形態であるばかりか、それを恒久的に保証さえしたのである。

とはいえ、ヒトラーはイギリスを打倒すべき敵とは見ていなかった。イギリスは人種的に血縁であり、世界中に大帝国を築いたので敬意を払うべき存在であった。見習うべき偉大な海洋国家と見ていたのだ。大英帝国とのハルマゲドンを避けつつ、新興の陸軍国であるドイツを世界的強国にし、しかるのちにイギリスと同盟を組むことが彼の夢であった。西へ行っても英海軍にはとても叶わないから、英国を脅かすことのない東方へ野心が向かったと思われるのだ。

ヒトラー思想A 人間は動物

ヒトラーは人間を動物だと思っていた。そこに妥協や甘えは一切なく、強い種が弱い種から奪い、餓えさせるのは当然にして唯一の理だった。弱者に対する情や憐みは造物主に対する罪だった。

ヒトラーは人種の違いを、動物の種の違いと同じものだと考えていた。優良人種は能うかぎり劣等人種から奪い続けるべきであったし、捕食して生き残り凱歌を上げるべきであった。優良人種は劣等人種とは異なり、進化を続けているし、よって異人種間の交配はあり得ることだが大変罪深いのだ。動物がそうであるように、種は同じ種と交配するべきであったし、異種はあらゆる手段を動員して絶滅させるべきだった。ヒトラーにとってはこれこそが法であった。重力の法則と同じぐらい確かな人種闘争の法であったのだ。この闘争は果てることなく続くかも知れなかったし、勝利して凱歌を上げることもあれば、敗北し、餓えて消滅することもまたあり得るのだ。ヒトラーはそのような思想で世界を見ていたのである。

ヒトラー思想B 弱者の保護は反「自然」

ヒトラーにとって「自然」は非凡で獣的で圧倒的な真実だったし、他の考え方をしようとする歴史は丸ごと幻想だった。ヒトラーの世界ではジャングルの法が唯一の法であった。人々は慈悲の念を持とうなど欠片も思ってはならない。ナチス法理論家のカール・シュミットは「政治は我々が抱く敵意から生じるのだ」と説明した。「我々の人種的な敵は生まれつき選ばれているのであり、我々の仕事は闘い、殺しあうことだ」と。弱者は強者に支配されるべきだった。闘争はヒトラーにとってアナロジーやメタファーなどではなく、まごうことなき真実そのものであった。

ヒトラーの闘争では、つかめるものをつかまないのは人種に対する罪であり、異種の生存を赦すのも人種に対する罪だった。慈悲の念は、弱者が繁殖するのを赦すので事物の秩序を冒すとみなされた。ヒトラーの言では、十戒を拒むのこそまずやらねばならぬことだった。万人の万人に対する闘争はこの宇宙の唯一の理だった。「自然」は人類にとっての資源だったが、それはすべての人間を意味せず、勝利した人種のためのものであった。

勝利し凱歌を上げた人種は交わらなければならない。ヒトラーの理論では、殺人の後に人類が為すべきことはセックスであり、繁殖することだった。ヒトラーにとってみれば、我々の不幸な弱点は、我々が考えることができ、異人種も同じことができると納得してしまい、そのことで異人種を同胞と認めてしまえることにあった。ヒトラーの天国は絶え間ない闘争とその結果だった。人類がエデンを追われたのは、性交によってではなく、善悪をわきまえたからであった。

弱者を率先して絶滅させ、強い者だけが糧を得る…これこそがヒトラー思想の根幹である。ヒトラーの代理執行人ヒムラーに言わせれば、大量殺戮へ参加することは良き振る舞いであった。というのも、大量殺戮は「自然」を取り戻すことを意味したし、人種内部に、共通の敵を倒しその罪悪感を共有するという、美しい調和をもたらしたからだ。

ヒトラー思想C この惑星の「自然」な状態を歪ませたのはユダヤ人

ヒトラー思想は単純に、人間を動物とみなして弱者からの収奪を正当化することであったが、その「自然」な状態を歪ませたのはユダヤ人であった。
http://3rdkz.net/?p=535&page=2


ヒトラーにとって、第一次大戦の敗北はこの惑星の秩序が破壊され、この世界の全ての枠組みに歪みが生じている良い証明だった。ヒトラーはユダヤ人が「自然」の秩序を支配してしまったことの証しと捉えたのだ。このヒトラーの理解は、当時の同胞ドイツ人の土地をめぐる怨嗟やナショナリズムとは一線を画していた。
「国内に巣食うユダヤ人を戦争の最初にガス殺さえしておけば、ドイツは勝利していただろう」と、ヒトラーは主張した。

ヒトラーによれば、この惑星の「自然」の秩序を、人々に善悪の知識をもたらすことによって破壊したのはまごうことなくユダヤ人であった。人類に向かって、人類は動物よりも高位の存在であり自ら未来を決定する能力を持っていると最初に告げたのはユダヤ人だった。ヒトラーは自らが思い描く血塗られたエデンを取り戻すことが自分に課せられた運命であると悟った。ホモ・サピエンスは誰にも抑制されることなく人種間の殺戮を続けることによって繁栄するはずであった。ユダヤ人が言うように、人々が善悪をわきまえ、異種を同胞とみなし、衝動を抑制して理性的に振る舞えば、種は終焉を迎えてしまうのだ。

仮にユダヤ人が勝利すれば、彼は続ける。
「さすれば勝利の王冠は人類にとっての葬儀の花輪になるだろう」

ヒトラーは徹底した人種論者だったが、ユダヤ人が人種であることは否定した。彼に言わせれば、ユダヤ人は優等人種とか劣等人種とかいうものではなく、人種に非ざるもの、「反人種」であった。人種たるものは本能の赴くままに食べ物と土地を求めて闘うのだが、ユダヤ人はそのような「自然」とは相反する論理に従っていた。ユダヤ人は異種の土地を征服して満足するのを否定し、「自然」に抗しようとしていたし、他の人種にもそれを勧めた。地球が人類に提供するのは血と大地以外なかったが、ユダヤ人は薄気味の悪いやり方でこの世界を歪めていた。政治的な互恵性の発達や、人間が他の人間をやはり人間であると認める習慣は、ユダヤ人から発したのだ。

人間は動物であり、倫理的な熟考を重ねることなどそれ自体がユダヤ的腐敗の徴なのだ。普遍的な理想を掲げそれへ向けて精一杯努力することそのものが、まさに忌むべきことなのだ。数千の死の穴で朽ち果てた何十万もの屍を眺めるのに精神的疲労を起こすのは、陳腐なユダヤ的道徳が優越している証しなのだ。殺害への心労は、人種の将来への価値ある犠牲に過ぎないのである。

ヒトラー思想D 人種への忠誠が全てを正当化する

ヒトラーの考えでは、いかなる反人種的態度もユダヤ的であったし、いかなる普遍的考えもユダヤ支配のからくりであった。資本主義も共産主義もユダヤ的であった。それらが見かけ上闘争を容認したとしても、単にユダヤの世界支配の隠れ蓑に過ぎない。国家や法という抽象概念もユダヤ的である。
「国家自体が目標である国家など存在しないのだ」と彼は言う。
「人間の最高の目標は何処か特定の国家なり政府なりを維持することではなく、その種を維持することである」
かりそめの国境線など、人種闘争によって自然に洗い流されてしまうだろう。

法も同じように捉えられた。法も人種に尽くすために存在するべきなのであった。ヒトラーの個人的弁護士であり、占領ポーランド総督のハンス・フランクによれば、人種を外れたいかなるものにそった伝統も「血の通わぬ抽象」なのである。法はフューラーの直覚を成文化する以上の価値を持たない。
カール・シュミットによれば、法は人種に奉仕し、国家は人種に奉仕したので、人種が唯一的を得た概念だった。外的な法的基準や国家の概念など、強者を抑圧するために目論まれたまがい物に過ぎないのだ。

ヒトラー思想E ユダヤ人を取り除くことで、この惑星は「自然」の秩序へ復する

ヒトラーにとっては、人類の歴史など存在しないも同然だった。「世界の歴史で起きたことなど、善かれ悪しかれ人種の自己保存本能のあらわれだ」と彼は喝破した。記憶に留めるべきは、ユダヤ人が自然界の構造を歪ませようとする絶え間ない試みだけだった。この試みは、ユダヤ人が地球に存在する限り続くだろう。
ヒトラーは言う。「秩序を常に破壊するのはユダヤ人どもだ」

強者は弱者を飢えさせるべきだが、ユダヤ人は強者が飢えるように事を運ぶことができた。これは「存在の論理」を侵害しているのだ。ユダヤ思想によって歪まされている宇宙においては、闘争は思いもよらぬ結果を招くことがあり得た。適者生存どころか適者の飢えと消滅である。

この論理では、ドイツ人はユダヤ人が存在している限り常に犠牲者となろう。最優良人種として、ドイツ人種は最大のものを受けるに値するはずなのに、失うもののほうが大きいのだ。ユダヤ人の反「自然」はドイツ人種の未来を殺すのである。ユダヤ人がドイツ人を飢えさせている限り、世界は不均衡の最中にあるのだ。

1918年の敗北から、ヒトラーは将来の戦争について結論を引き出した。ユダヤ人がいなければドイツ人は常に勝利するだろう。しかし、ユダヤ人がこの惑星の全てを支配しているし、その思想をドイツ人にさえも浸透させている。

ドイツ人種の闘争は否応なく二種の目的を持つことになった。劣等人種を飢えさせその土地を奪うことに加え、健全な人種闘争を台無しにしてしまうグローバルな普遍主義を掲げるユダヤ人を打倒する必要があったのだ。出会う人種を支配するのと同時に、彼らをユダヤ支配から解放する責務をおっていた。領土を求めて劣等人種と闘争するのは地球の表面をめぐる争いに過ぎないが、ユダヤ人に対する闘争はそれと異なり生態学的だった。それは特定の敵人種や領土を巡る戦いではなく、地球上の生命の条件に関わるものだったからだ。ユダヤ人は「黒死病よりも悪い疫病、精神的な疫病」なのである。
http://3rdkz.net/?p=535&page=3


ユダヤ人は思想を持って戦うので、彼らの力はどこに行っても見られたし、誰もが自覚のあるなしにかかわらず工作員になり得た。

そうした疫病を取り除く唯一の方法は絶滅だった。仮にユダヤ人家族が一家族でもヨーロッパに残っていたなら、ヨーロッパ全体にその思想を感染させることができたのだから。ヒトラーは言った。ユダヤに毒された惑星は癒すことができると。
「ユダヤ人を取り除いた民族は、自ずと自然の秩序に復する」
「自然」はヒトラーによれば、二種類しかあり得なかった。まず、優良人種が劣等人種を虐殺する天国。もう一つは超自然的な存在であるユダヤ人が、優良人種に当然得るべき恩恵を与えず、可能な場合には飢え死にさせてしまう堕落させた世界であった。

ヒトラー思想F 国家や政府、法の支配が失われた場所でのみ、ユダヤ人を打倒できる

ヒトラーの観ずるところ、世界の問題はユダヤ人が誠実さのかけらもなく科学と政治とを分離し、進歩と人類愛について偽りの約束をばら撒いたことだった。ヒトラーが提案した解決方法は、ユダヤ人をして、自然と社会は一にして二ならぬものだという残忍な真実に触れさせることだった。ユダヤ人は他の者達から分離し、どこか侘しい荒れ果てた土地に住まわせるべきなのだ。ユダヤ人は彼らの反「自然」が他の人間達をユダヤ人に惹きつけるという点で力を持っていた。けれど、ユダヤ人は、残忍な現実に直面できないという点で弱かった。どこか野蛮な土地に再定住させれば、ユダヤ人も超自然的な観念で他の者達を操ることはできなくなるし、ジャングルの法に屈するようになるだろう。ヒトラーの当初の強迫観念は自然環境の最たるもの、「ある島における無政府状態」であった。後にヒトラーの考えはシベリアの荒れ野に向けられた。ユダヤ人がどこに送られようが「関心事ではない」とヒトラーは述べた。

ヒトラーがそう述べてからほぼ一ヶ月後の1941年8月に、ヒトラーの親衛隊やドイツ警察・国防軍は、ヨーロッパのど真ん中、政府を解体し国家を破壊した無政府状態のウクライナで、一時で万という単位のユダヤ人を銃殺し始めたのだ。

※※※※※※※※

終わりに

いかがですか?『ヒトラー思想』の一端がうかがえたでしょうか?『ヒトラー思想』は端的に言って弱肉強食を正当化する思想ですが、一口では語れない複雑な人種観を孕んでもいます。

強者は弱者から奪うべき。それこそが正義である…このような思想は魅力的です(特に男性にとっては)。この「秩序」に、何ら罪悪感に苛まれる必要もなく従えば良い、それこそが種を強化する、望ましい。正義である……これこそが『ヒトラー思想』の根幹です。彼に言わせれば、障害者や病人を慈しむことでさえ、強者を飢えさせようとするユダヤ的陰謀なのです。

しかるに、相模原で事件を起こした植松に、ヒトラーの如き深遠な人種観があったでしょうか?彼は単なる無学なアジア人です。深い考えがあったはずありません。彼は単にT4作戦の歴史を見て、特に思想も主義もなく自分の日ごろの鬱屈を弱者にぶつけただけです。それを『ヒトラー思想』だとこじつけてもっともらしくパフォーマンスしただけであり、それは明らかな間違えであり、見当違いです。

強者を崇拝する価値観は今もなお男子たる我々を惹きつけてやまないのは確かなのですが(それは弱者の否定とほとんど同じことです)、それを声高に訴えた国が、たったの12年で自滅に近い形で崩壊した歴史を、我々は忘れるべきではないでしょう。
http://3rdkz.net/?p=535&page=4

5. 中川隆[-10465] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:23:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1826] 報告
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった


ワーグナーの手紙、イスラエルで競売へ ユダヤ人の「腐食的影響」に言及
2018年4月23日 12:13 発信地:エルサレム/中東・アフリカ


反ユダヤ的な内容が記されたドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの手紙。エルサレムで
(2018年4月16日撮影)。(c)AFP PHOTO / MENAHEM KAHANA


【4月23日 AFP】ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)がユダヤ人による文化への悪影響を危惧した内容の手紙が24日、イスラエルで競売に掛けられる。反ユダヤ主義者だったワーグナーの作品はイスラエルでは公の場での演奏が実質的に禁じられているが、これを機に国内で議論が再燃しそうだ。

 ワーグナーが19世紀に作曲した壮大で国粋主義的な作品は、反ユダヤ主義やミソジニー(女性への嫌悪や蔑視)、民族純化思想に満ちている。

民族純化は後にナチス・ドイツ(Nazi)が大々的に掲げ、その指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった。

 出品される1869年4月25日付の手紙は、ワーグナーがフランス人の哲学者エドゥアール・シュレー(Edouard Schure)に宛てたもの。その中では、ユダヤ人がフランス社会に同化すれば「ユダヤ精神による近代社会への腐食的影響」を観察できなくなるとし、フランス人はユダヤ人について「ほとんど何も」知らないなどとも記している。

 イスラエルにはワーグナー作品の演奏を禁止した法律はないが、過去に演奏が試みられた際に国民から強い反発が起き、騒ぎになった経緯があることから、オーケストラや会場が演奏や上演を自粛している。

 ワーグナーは1850年、偽名で「音楽におけるユダヤ性」と題した論文を発表し、激烈な反ユダヤ批判を展開。1869年にはこの論文を実名で出している。(c)AFP


▲△▽▼

ニーチェとナチス〜レニの意志の勝利〜


■ワーグナーの信奉者

神は死んだ ・・・ ニーチェは自著「ツァラトゥストラはかく語りき」でかく語った。

この不用意な一言が、キリスト教徒の心情を逆なでにし、反キリストの烙印を押されたことは想像に難くない。大哲学者ニーチェも、熱心なキリスト教徒からみれば、ただの背信者なのだ。つまり、20億人が敵!?

さらに ・・・

ニーチェは「ナチスのシンパ(賛同者)」の嫌疑もかかっている。もし、それが本当なら、全人類が敵!?

歴史的名声をえているニーチェ像も、じつは薄氷の上にあり、いつ水没してもおかしくないわけだ。

では、本当のところはどうなのだろう?

第一の疑惑はワーグナーがからんでいる。

ワーグナーは、言わずと知れたドイツの大音楽家である。19世紀ロマン派歌劇の王様で、「ニーベルングの指環」、「トリスタンとイゾルデ」など、荘厳かつ芝居がかった楽曲で名声をえている。

そのワーグナーの熱烈な信奉者がニーチェだったのである。ニーチェは、学生時代にワーグナーの楽曲に感銘をうけ、個人的な交流が始まった。その後、ワーグナーを讃える書を書いて、インテリからひんしゅくを買った。

そして ・・・

ヒトラーも熱心なワーグナー信奉者だった。ヒトラーは、17歳のとき、シュタイアー実科中学校を放校処分になり、ウィーンに旅行したが、そのとき、友人のアウグスト・クビツェクに絵葉書を送っている。そこにはこう書かれていた。

「僕は今、ワーグナーに夢中だ。明日は『トリスタン』を、明後日には『さまよえるオランダ人』を観るつもりだ」

ヒトラーは、その後、ドイツの総統にまで上りつめるが、ワーグナー熱が冷めることはなかった。定期的に劇場に出かけ、ワーグナーの荘厳な歌劇に酔いしれたのである。

ということで、ニーチェはワーグナーをハブに、ヒトラー(ナチス)のお仲間とみられたわけだ。とはいえ、音楽の趣味が同じだからといって、ナチスシンパ呼ばわりされてはたまらない。

ところが ・・・

ワーグナーは偉大な音楽家にみえるが、うさん臭いところもあった。天上天下唯我独尊で傲慢不遜、しかも、金遣いがあらく、年中金欠だったが、問題はそこではない。

彼の代表作「ニーベルングの指環」は、天界と人間界をまたぐ、壮大な戦争叙事詩だが、モチーフは北欧神話。つまり、神々と北欧ゲルマン人を讃える物語なのだ。

北欧ゲルマン?

じつは、ワーグナーは、北欧ゲルマン人至上を信じる偏屈な反ユダヤ主義者だった。しかも、彼の2度目の妻コージマも反ユダヤ主義者で、夫婦そろって人種差別主義者だったのである。

ゲルマン人最高&ユダヤ人最低?

ナチスの教義そのままではないか。

じゃあ、ワーグナー夫婦はナチス信奉者だった?

ノー!

この二人がナチス信奉者であるはずがない。ナチスが創設される前に死んでいるから。

それに、17歳のヒトラーがワーグナーに魅せられたのは音楽であって、偏屈な人種差別ではない。この頃、ヒトラーのユダヤ人に対する差別意識は、ヨーロッパ人としては平均的なものだった。驚くべきことに、21歳の時、ヒトラーには、ヨーゼフ ノイマンというハンガリー系ユダヤ人の親友がいた。彼に自分の描いた絵を売ってもらっていたのである。

ニーチェもしかり。はじめに、ワーグナーの楽曲に感動し、個人的なつき合いが始まり、彼の知性に魅了されたのである。

そもそも、ニーチェは人種差別主義者ではなかった。彼は「ユダヤ教」を嫌っていたが(厳密には一神教)、「ユダヤ人」を差別していたわけではない。

というわけで、ワーグナーをからめて、ニーチェを「ナチスシンパ」呼ばわりするのは正しくない。

ところが ・・・

やっかいなことに、そう思われてもしかたがない事実があるのだ。ニーチェは著書の中でこう書いている。

「ちっぽけな美徳やつまらぬ分別(道徳)、惨めな安らぎ(宗教)を求めることなかれ、強固な意志と不屈の精神で成し遂げるのだ」

つまり、「道徳」と「宗教」を否定し、内なる声に従い、雄々しく生きよと鼓舞したのである。

これがニーチェ哲学の根幹をなす概念「力への意志」である。そして、この勇ましい思想が、ナチスに利用されたのである。

■ナチスの映画

1934年、ナチスは党のプロパガンダ映画「意志の勝利」を制作した。1934年9月4〜5日に開催されたナチスの全国党大会の記録映画である。

タイトルといい、内容といい、ニーチェの「力への意志」を彷彿させる。

ところが、この映画は、現在、ドイツで上映が禁止されている。ドイツでは、映画であれ、TVであれ、Tシャツであれ、「ナチス」の露出は禁じられているのだ。

禁じられると、よけいに観たくなる!

心配無用。日本ではDVDがふつうに手に入る(amazonで3,730円)。

それにしても日本はいい国だ。言論・思想の自由とかで、言いたい放題、見せたい放題、何をしても許されるのだから(皮肉です)。そこで、DVD版「意志の勝利」(※1)を購入してみると ・・・ 暴力シーンやエロいシーンはゼンゼンない。むしろ、荘厳で美しく、芸術的(そして眠くなる)。

ということで、発禁の理由は、ひとえに「題材=ナチス」。

では、映画の内容はどうなのか?

「ナチス」がムンムン伝わってくる。

冒頭、いきなり、鷲と鉤十字をかたどった像の下に、「Triumph des Willens(意志の勝利)」が映し出される。

そして、重々しい文言 ・・・ 1934年9月5日、世界大戦勃発から20年後、ドイツの受難から16年が経過、ドイツの復興が始まって19ヶ月、アドルフ・ヒトラーは閲兵のため、ニュルンベルクを再訪した ・・・

シーンは変わって、飛行機のコックピット。眼前にみごとな大雲海が広がっている。重厚なサウンドと相まって、気分が高揚する。飛行機は徐々に高度を下げ、雲の割れ目から古都ニュルンベルクが見える。大聖堂をはじめ、荘厳な石造りの建物が整然と並ぶ。中世を思わせる美しい街だ。

飛行機がニュルンベルクの飛行場に着陸する。大勢の民衆が出迎え、歓声をあげている。ヒトラーが飛行機から降り立つと、「ハイル、ハイル、ハイル」の大合唱だ。

オープンカーで、ドイッチャー・ホーフ・ホテルに向かうヒトラー。その途中、道の両側の建物から鉤十字のナチス旗が垂れ下がり、人々が熱狂的に手を振っている。

ホテルに到着すると、母と娘がヒトラーに花束をわたし、笑顔でこたえるヒトラー。絵に描いたような演出だ。ヒトラーがホテルに入ると、

「われらの指導者、姿をみせて!」

の大歓声がわきおこる。ヒトラーが窓から姿をあらわし、それに笑顔でこたえる。強固な意志と不退転の決意を秘めながら、民衆には心を開く、我らが指導者というわけだ。

映像はモノクロだが、美しく、荘厳で、力強い。演出もカメラワークも、時代を考慮すれば新鮮だ。映画全体に一大叙事詩のような風格がある。こんな映画を撮れる監督はそういない。現代なら、スタンリー・キューブリック(故人)かリドリー・スコットか?

■レニ リーフェンシュタール

ところが ・・・

「意志の勝利」を撮ったのは、キューブリックやリドリースコットのような映画界の重鎮ではなかった。レニ リーフェンシュタール、当時まだ32歳の美しい女性だった。

この映画の2年前、1932年3月、レニ リーフェンシュタル監督兼主演の映画「青の光」が公開された。ヒトラーはこの映画をみて感動したのである。その後、レニはヒトラーの大のお気に入りになり、1938年のベルリンオリンピック「民族の祭典(オリンピア)」の監督も任されている。

「意志の勝利」は高い芸術性が評価され、数々の賞を受賞し、レニも栄光と名誉を手に入れた。ところが、戦後、評価は一変する。ナチスが全否定されたのだ。結果、「意志の勝利」は上映が禁じられ、レニ自身も、ナチスに協力した罪で訴えられた。最終的に無罪になったものの、誹謗中傷はその後もつづいた。

この不遇に対し、レニはこう反論した。

「わたしはナチスに加担したわけではない。美を追求しただけだ」

たしかに、レニの映像は「美」をねらっている。しかし、その「美」は穏やかな自然の美ではない。超越した力の美である。そして、脚本は明確に「ナチス礼賛」。これでは、「ナチスの協力者」と言われてもしかたがないだろう。もっとも、そうしないと、映画は完成しなかったのだが。実際、ナチス宣伝相ゲッベルスがあまりに口うるさいので、レニはヒトラーに苦情を訴えている。

ということで、レニはヒトラーから依頼されてこの映画を撮ったのだが、結果として、ナチスを利用して自己実現することになった。フォン ブラウンが、ナチスの超兵器V2ケットを利用して、ロケットの夢を叶えたのと同じように。

論より証拠、映画の内容を精査してみよう。

脚本と演出から、この映画のテーマは3つ確認できる。
1.ヒトラーは偉大な指導者
2.ドイツの若者は健全でパワフル
3.ナチスドイツは階級のない社会

では、この3つが映像でどう表現されているかみていこう。

【ヒトラーは偉大な指導者】

飛行場に到着したヒトラーを出迎える熱狂的な民衆。オープンカーで移動中、道すがらナチス式敬礼でヒトラーを讃える民衆。母娘から花束を渡され、笑顔でこたえるヒトラー ・・・ ヒトラーは国民から崇拝されると同時に、愛される指導者でもある。

さらに ・・・

ヒトラーの演説は分かりやすく、力強い。要点をしぼって、カンタンな言葉で何度も繰り返す ・・・ ヒトラーは頭がよくて、頼りがいがある。ドイツを再び繁栄に導いてくれるに違いない。

というわけで、ヒトラーの演出は「偉大な指導者」にフォーカスされている。

【ドイツの若者は健全でパワフル】

ニュルンベルク郊外に設営された無数のテント。ヒトラーユーゲント(青少年団)の野営地だ。ここで、多くの若者が共同生活をおくっている。

朝起きて、ヒゲをそり、顔を洗う、こんな日常でさえ、限りなく健全で明るい。水掛けをしてふざけあうカットも、民族の一体感を感じさせる。そして、みたこともない大鍋でスープをつくって、大量のソーセージを煮込んで、みんなでモリモリ食べる。調理と食事という日常の風景なのに、物量が多いだけで、力強さを感じさせる。

食事が終わると、相撲とボクシングをあわせたような格闘技や騎馬戦に興じる ・・・ じつは、スポーツは疑似暴力(アグロ)。

というわけで ・・・

ドイツの若者は、共同生活を楽しみ、スポーツを愛する。だから、健康的で、明るく、パワフル。心の病気などどこ吹く風だ。

そして ・・・

こんな若者にささえられたドイツの未来は明るい!

とはいえ、これが当時のドイツ青少年のスタンダードと言うわけではない。この映画が撮られた1934年、ドイツの若者がすべてヒトラーユーゲントとは限らなかったから。ところが、1936年、「ヒトラーユーゲント法」が成立し、すべての青少年の入団が義務づけられた。つまり、「ドイツの青少年=ヒトラーユーゲント」。

以前、265代ローマ教皇ベネディクト16世が、ヒトラーユーゲントの団員だったことが取り沙汰された。もちろん、的外れ。この時すでに、ヒトラーユーゲント法が成立していたから。

【ナチスドイツは階級のない社会】

民族衣装に身を包み、収穫の行進をする農民たち。ナチスは農業・農民を重視します!が映像からヒシヒシ伝わってくる。そもそも、ヒトラーが東方生存圏の拡大をもくろんだ理由は、ドイツの食料不足にあったのだから。

ヒトラーがドイツ労働者戦線指導者ロベルトライをともない、労働戦線の隊員たちを観閲する。続いて、ナチス幹部の労働者を讃える熱い演説。

この2つの映像は、ナチスドイツが農民と労働者を重視する、つまり、「階級のない社会」であることを示唆している。また、先の「ヒトラーユーゲントの野営地」の映像は、ナチスドイツが個人が全体に従属する「全体主義」であることを暗示している。

つまり、ヒトラーの狙いは、「階級のない社会=共産主義」と「個人より国家=全体主義」にあったのである。

そして ・・・

後者の「全体主義」は、おそらく、ヒトラーの戦争体験によっている。

1918年10月13日、第一次世界大戦中、イープルの前方の南部戦線で、イギリス軍は毒ガス「マスタードガス(ドイツ軍は黄十字ガスとよんだ)」を使用した。ヒトラーはその毒ガスをもろにあびたのである。

その時の苦悩と覚醒が、ヒトラーの著書「わが闘争」に記されている ・・・

ガスに倒れ、両眼をおかされ、永久に盲目になりはしないかという恐怖で、一瞬、絶望しそうになったときも、良心の声がわたしを怒鳴りつけたのだ。あわれむべき男よ、なんじは、幾千の者がなんじより幾百倍も悪い状態に陥っているのに、それでも泣こうとするのかと ・・・ わたしは、祖国の不幸にくらべれば、個人的な苦悩というものが、すべてなんと小さいものかということを知ったのだ(※2)。

まさに、全体主義 ・・・

でも、「共産主義+全体主義」なら、まんまボリシェビズム(レーニン式共産主義)では?

たしかにやってることは変わらない、では身もフタもないので、ムリクリ両者の違いを捻出すると ・・・ 憎む相手。

ボリシェビズムの敵は、資本家、つまり「階級」。一方、ナチスの敵は、ユダヤ人とスラヴ人、つまり「人種」。

ヒトラーは「ヨーロッパの新秩序」を掲げ、人種ヒエラルキー社会をもくろんでいたのである。それが、イデオロギーとよべるかどうかはさておき、上から順番に ・・・
第1位:ゲルマン人(ドイツ・オーストリア)
第2位:ラテン人(南ヨーロッパ)
第3位:スラヴ人(東ヨーロッパおよびロシア)
第4位:ユダヤ人

ヒトラーは、ドイツの資源不足(特に食糧)を憂慮していた。そこで、新たな生存圏を獲得するため、上記リストの下位の土地をねらったのである。ところが、第4位のユダヤ人は広い領土をもたない。一方、第3位のスラヴ人が住むロシアは広大で、天然資源は無尽蔵(特に鉱物資源は世界トップ)。そこで、ヒトラーはロシアを征服しようとしたのである。

ヒトラーは、「優れたドイツ人が狭い土地に住み、劣ったスラヴ人が広い土地に住むのはがまんならない」と側近にもらしていたという。その意識が、第二次世界大戦を招いたのである。

ただし、第二次世界大戦の直接原因はヒトラーにあるのではない。イギリス首相チェンバレンの愚策にある(イギリス議会の総意でもあったが)。ヒトラーはフランスはもちろん、ポーランドも侵攻するつもりはなかったのだから。

ということで、ナチズムもボリシェビズムも「敵を憎んでやっつけろ」が基本で、異民族や価値観の違いを認めて、折り合う気がさらさらない。だから、隣国にとってはハタ迷惑なのだ。

日本のお隣にも、お仲間がいるって?

否定はしませんけどね。

話をレニにもどそう。ゲッベルスにちゃちゃを入れられたか、身の危険を感じたか分からないが、結果として、映画は「ナチス礼賛」になってしまった。

その真骨頂が、ナチスの副総統ルドルフ・ヘスの演説だろう。映像を観ていると、歯が浮いてくる ・・・

わが総統 ・・・ 人々は理解することになるでしょう。我々生きるこの時代の偉大さを、我が国にとって、総統がいかに重要な存在であるかを。

あなたはドイツです。

あなたの指導のもと、ドイツは真の祖国となる目的を達成するでしょう。世界中すべてのドイツ民族のために。あなたは我々に勝利を約束なさった。そして、今、我々に平和を与えてくださる。ハイル・ヒトラー!ジークハイル!

それにつづく、「ジークハイル!」の大合唱。

ところが ・・・

このヘスの演説の合間に、2秒ほど、ナチスナンバー2のゲーリングの表情が映るのだが ・・・ その白けた顔。そこにはこう書いてある。

「よう言うわ」

これはカットですよ、レニ監督。

■ニーチェとナチス

というわけで、ニーチェの思想とナチスの教義は似ているが、共通するのはイケイケぐらい。そもそも、ニーチェの「力への意志」の核心は個人主義にあるが、ナチスは頭のテッペンからつま先まで全体主義。だから、根本が真逆なのだ。つまり、ナチスは、都合のよいところだけ、ニーチェ・ブランドを利用したのである。宗教的道徳を捨て、力を信じて、お国のために死んでくれ!と。

ところが、ヒトラーがニーチェを愛読していたという証拠はない。ヒトラーは大変な読書家だったが、ジャンルは歴史と地理と戦争物に限られていた。ただし、第一次世界大戦中、戦場でショーペンハウアーを読んでいたという記録がある。

ショーペンハウアーといえば、19世紀を代表する大哲学者だが、大学入試(大阪大学)の現国の問題にもなっているので、特別難解というわけではない。とはいえ、個人的には難解だし、そもそも陰気臭い。でも、ひとつだけ感動した言葉がある。

「人間、40才までが本文、それを過ぎたら注釈の人生」

偉人の名言の中でも、ひときわ目立っている。あまりのインパクトに卒倒しそうになった。

それはさておき、ショーペンハウアーは「意志」にからんで、ニーチェに影響を与えているので、ヒトラーの心をとらえた可能性はある。

一方、イタリアのファシスト党首ムッソリーニは、ニーチェを愛読していた。彼は自著「力の哲学」の中で、

「ニーチェは19世紀最後の4半世紀で、最も意気投合できる心の持ち主だ」

と持ち上げている。

ムッソリーニの「覇道の人生」を正当化しているのだから、無理からぬ話だ。とはいえ、ムッソリーニは、世間に流布されたような無教養で粗野な人物ではなかった。大変な読書家で、数カ国語をあやつるインテリだったのである。

というわけで、ヒトラーがニーチェの信奉者だった証拠はないが、お仲間のムッソリーニはそうだった。だから、ニーチェはファシズムを産んだわけではないが、加担したことは否定できない。

しかし、ニーチェの一番の問題はそこではない。

彼の理想と現実の埋めようのないギャップ。

■ニーチェの末路

ニーチェは読者にむかって ・・・

「己の内なる声に耳を傾けよ。その声に従って、生きよ。道徳やルールに惑わされてはならない」

と、危険な生き方を強要しておきながら、自分は35歳でニートになってしまった。体調不良で、大学の教授をやめたのである。その後、気候の良い土地を転々としながら執筆に専念した。早い話が在野の学者。

ところが、ニーチェの転落はここでとどまらなかった。45歳で、生きながらにして、アリ地獄に落ち込んだのである。

1889年1月3日、トリノの街を散歩中に、老馬が御者に鞭打たれるのをみて、突然、馬の首にしがみつき、泣き崩れてしまった。気が触れたのである。その後、実家のナウムブルクから近いイェーナの精神病院に入院した。

病室では、たいてい口をきかず、ふさぎ込んでいた。かとおもうと、突然、大声でわめきだし、自分を皇帝とか公爵とよんで、窓を叩き壊すこともあった。そして、頭痛がはじまると、看護人をビスマルクだと言って、ののしるのだった。

「私は愚かだから死んでいる。私は死んでいるから愚かだ」

と、芝居のセリフのような呪文を繰り返した。

これはうつ病レベルではない。重度の精神障害「統合失調症」である。

やがて、病院は回復の見込みがないことを認め、1890年5月、ニーチェは退院した。その後、ナウムブルクの実家にもどり、一度も回復することなく、55歳でこの世を去った。

じつは、ニーチェの狂気は、鞭打たれる老馬をみて、突然、発現したわけではない。子供の頃、すでに、予兆があったのだ。ニーチェはこう書いている。

「僕が恐ろしいと思うのは、僕の椅子の後ろの、ぞっとする姿ではなく、その声である。どんな言葉だって、その姿が発する声ほど、身の毛もよだつ、言葉にならない非人間的なものはない。人間がしゃべるように話してくれさえすればいいのだが」(※3)

幻聴や幻覚は統合失調症の典型的な症状である。誰もが子供のとき経験する夢想世界とは別ものだ。結局、ニーチェの幼少時の予兆は現実になったのである。

■クラーク博士の末路

ニーチェの理想と現実の人生をみると、

「Boys,be ambitious(少年よ、大志を抱け)」

を残したクラーク博士を思いだす。

ウィリアム・クラークは、アメリカ合衆国の教育者で、札幌農学校(現北海道大学)の立ち上げに尽力した。先の名言は、これから巣立つ若者へのはなむけの言葉として有名である。

ところが、そのクラーク博士 ・・・

帰国後、大学の学長になり、順風満帆だったのに、自分の名言を実践することにした。学長を辞めて、新しい大学の創設、会社の創業に挑戦したのである。

「Old boys,be ambitious(中年よ、大志を抱け)」

ところが ・・・

結果はすべて失敗。最後は破産に追い込まれた。その後、心臓病をわずらい、寝たり起きたりで、59歳でこの世を去ったという。

大志を抱き、現実で失敗し、悲惨な末路をたどり、名声だけが残る ・・・ 詳細はさておき、大枠、ニーチェと同じではないか。

というわけで ・・・

挑戦する人生は素晴らしいが、身の丈を超えると、後が良くない。欲をかかず、つつましく生きるのも良き人生かな ・・・

■ゲーテの末路

ニーチェは、寄宿学校時代、文学サークル「ゲルマニア」をつくり、シェークスピアやゲーテをよみあさった。

そのゲーテだが、詩人、劇作家、小説家、科学者、弁護士にして政治家と、ニーチェの「力への意志」を地で行くような「攻め」の人生だ。

ところが ・・・

その「攻め」のゲーテが、晩年、こんな言葉を残している。

気持ち良い人生を送ろうと思ったら ・・・

済んだことをクヨクヨしないこと、
むやみに腹を立てないこと、
現実を楽しむこと、
人を憎まないこと、
そして、未来を神にまかせること。

人生は複雑である。

参考文献:

(※1)意志の勝利[DVD] 販売元:是空

(※2)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫) アドルフ・ヒトラー (著), 平野 一郎 (翻訳), 将積 茂 (翻訳)

(※3)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳) 白水社
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-249/


6. 中川隆[-10464] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:24:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1827] 報告
ウィーンには、どこの馬の骨かも判らぬ人間が蝟集していて、若きアドルフ・ヒトラーが戦慄を覚えた
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763179.html

現代でも、ボスニアやセルビアで民族対立が勃発し、銃撃戦どころか「民族浄化」が行われていた。復讐に燃える兵卒たちは、敵の女を見つけると集団で襲いかかり、自分たちの精子をネジ込んで喜んでいたのだ。これは殺人よりも忌まわしいことかも知れない。なぜなら、輪姦された女性はケダモノに等しい異人の子を宿し、誰が父親なのかも判らぬ子供を育てる破目になるからだ。もし、息子が生まれると別の意味で悲惨である。我が子が成長するに従い、段々と強姦魔に似てくるから、忘れたい過去がフラッシュバックのように蘇ってしまうのだ。彼女の祖父母だって、心から孫を愛することができない。孫の顔に一族の敵が浮かび上がってくるんだから、拷問のような仕打ちである。

  ボスニア紛争以前にも、我々はオーストリア・ハンガリー帝國の悲劇を知っているはずだ。この多民族国家はハプスブルク家によって統合されているだけで、その臣民の間には国民的紐帯は無かった。国家の要(かなめ)である軍隊でも、民族ごとに分かれており、号令だって複数の言語でなされていたのだ。帝國内ではドイツ語を始めとして、ポーランド語、チェコ語、マジャール(ハンガリー)語、ウクライナ語、クロアチア語、ルーマニア語、そしてユダヤ人のイディッシュ語など、多数の言葉が飛び交っていたから不思議じゃない。

とりわけ、コスモポリタンの大都市でもあるウィーンには、どこの馬の骨かも判らぬ人間が蝟集していたから、若きアドルフ・ヒトラーが戦慄を覚えたのも当然である。将来のドイツ第三帝國総統はこう述べていた。

   この国の首都が示している人種集団は、わたしにとって不愉快であり、チェコ人、ポーランド人、ハンガリー人、ルテニア人、セルビア人やクロアチア人等の諸民族の混淆は、いとわしいものだった。しかしそれよりも人類の永遠のバクテリアはなお不愉快だった。------ ユダヤ人、そしてもう一度ユダヤ人だ。

  わたしにはこの巨大都市が、近親相姦の権化のように思えた。(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』 上巻、平野一郎・将積茂 訳、角川書店、 昭和48年、 p. 184)


Hitler 2( 左 / ヒトラー総統)


  ウィーンに群がるユダヤ人を毛嫌いしたヒトラーは、当時のオーストリアを「古いモザイク」に譬えていたが、第20世紀初頭のオーストリアなんか、現在のオーストリアーと比べれば白人天国である。特に、現在のドイツを目にしたら、ヒトラーはもちろんのことゲッペルス、ヒムラー、ゲーリングも卒倒したことだろう。「砂漠の狐」と呼ばれたドイツ軍の英雄ロンメル元帥やヒトラー暗殺を企てたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク(Claus von Staufenberg)伯爵、リートヴィッヒ・ベック(Ludwig A. T. Beck)上級大将だって、眉を吊り上げ絶叫するに違いない。(逆説的だが、ネオ・ナチを存続させるのは人種混淆を称讃する平等主義者で、ドイツがアーリア人だらけになったら、ネオ・ナチの存在は半減するだろう。) 今では、さほど抵抗が無くなったけど、当時のドイツ社会でアフリカ人や褐色のアラブ人、くすんだ肌のトルコ人などがゲルマン人女性と結婚するなんて論外というか、犯罪に近い行為であった。アシュケナージ系ユダヤ人との結婚だって大反対されたのに、有色人種となんて勘当ものである。


チャーチルが嫌った茶色いイングランド

Winston Churchill 1( 左 / チャーチル首相)
  現在の欧米諸国ではナチスの人種衛生学や優生思想が糾弾されているが、ヒトラーを倒したウィンストン・チャーチルならナチズムの復活を望んでしまうだろう。何しろ、チャーチル自身が人種差別主義者であったから、アジア人やアフリカ人との混血は御法度が当たり前。同盟相手の日本人だって嫌いなんだから、植民地の茶色のインド人やパキスタン人、ビルマ人、黒いケニア人などは論外。マルバラ公爵の御曹司は彼らを原始的な「野蛮人」と思っていたのだ。ただし、チャーチルはユダヤ人の富豪からお金をもらっていたので、英国内のユダヤ人に寛容であった。当時のイギリス人貴族が、自宅にユダヤ人を招き、一緒にディナーを楽しむなんてあり得なかったのに、チャーチル家だけは例外で、商人や富豪、シオニストらと交流を持っていたのである。今は墓場で眠っているチャーチルだが、現在の英国を目にしたら、びっくり仰天して飛び起きるんじゃないか。青ざめたチャーチルは、「ヒトラーと手を組んでいれば良かった」と後悔するはずだ。実際、ヒトラーはアングロ・サクソン国家との同盟を望んでいたから、好戦的なのはチャーチルの方であった。

  チャーチルはユダヤ人を救いたかったのに、「イングランドをドイツの魔の手から救え !」という大義名分で第二次世界大戦を起こしたものの、その結果は無残なものだった。ご自慢の大英帝國は崩壊するし、属していた保守党は野党に転落。チャーチル自身も落選となった。栄光に輝くイングランドは激戦で優秀な人材を失い、植民地も手放したのに、国内には不愉快なユダヤ難民が流入し、チャーチルが嫌ったインド人やジャマイカ人までもが入ってきて民族のモザイク状態。世界各地に植民地を持っていたイングランドには、現地人が逆流してきて、今や王国各地に「ネオ・デリー(新ニューデリー?)」とか「リトル・カブール」、「ニュー・バクダッド」といった入植地が出来ている。とりわけ、ロンドンは著しく、もはやイギリス人の首都ではない。シティーの東に位置するタワー・ハムレッツ(Tower Hamlets)には白人よりも有色人種の方が多く、イスラム教徒やアジア人の方が主流になっている。また、人口統計に記される「白人」といっても、その正体はポーランド人やブルガリア人、スロヴァキア人、ロシア人、東欧系ユダヤ人であったりするから、「白いブリテン人」がどんな連中なのか、よく確かめてからじゃないと、政府の統計は信用できない。

Muslims in Britain 2Muslims in Bradford 1
( 写真 / イングランドに住むイスラム教徒)

  明らかに、第21世紀のイングランド王国は別の国家に成り果てている。例えば、ウェスト・ヨークシャーの都市、ブラッドフォード(Bradford)はイギリス人の街ではない。街角には、パキスタン人やアラブ系のイスラム教徒が溢れており、チャドルを着た女性が堂々と歩いている。アジアからの移民が増えれば街並みが変わるのも当然で、道沿いにはハラル料理を出すパキスタン人の食堂とか、不気味な雰囲気を醸し出す骨董屋、エスニック料理の食材を扱う小売店、奇妙な民族衣装を取り揃える雑貨店などが目立っている。こうしたエスニック商店街には、まともなアングロ・サクソン人は立ち寄らないから、薄暗い貧民窟とか犯罪者がたむろする租界になりやすい。東京上野にあるアメ横にも、トルコ人の屋台があって、中東アジア人がシシカバブ(肉の串焼き)を食っている。いずれ、「アメリカ横町」じゃなくて「ムスリム通り」になるんじゃないか。新大久保は既に「リトル・ソウル」だから、アジア・タウンは全国各地に広がるだろう。フィリピン人やクルド人が群がる埼玉県の蕨市は、別名「ワラビスタン」と呼ばれているから、首都圏に「リトル・サイゴン」とか「ニュー・バンコック」が誕生するのは時間の問題だ。支那人が訪れる東京湾も、やがて「トンキン湾」と呼ばれるかも知れない。在日米軍のアメリカ兵も「トキヨー・ベイ」よりも「トンキン・ガルフ」の方に馴染みがある。

  以前、英国の移民問題に関しては度々述べてきたので、詳しくは過去のブログを参照してもらいたい。(参照記事A、 記事B、記事C 記事D ) それでも、英国の現状は悲惨である。つい最近、英国南東部、ケント州のウァルダースラッドで交通事故が起きたのだが、その状況を記録した映像を見ると、マシェト(Machete / 長めの鉈)を持った黒人が逃走する姿が映っていた。これを見たイギリス人は驚愕したそうだ。以前はアングル人やザクセン人が主流の地域だったのに、今じゃソマリアのモガディシューみたいになっている。「イングランドの庭園」と呼ばれるケント州には、有名なカンタベリー大聖堂とロチェスター大聖堂があって、中世の美しさを残しているのに、黒人が浸透すると、モザンビークやジンバブエに様変わり。麻薬の密売や組織売春、強盗、引ったくり、強姦・輪姦が横行した上に、刃物を持ったアフリカ人が歩いているんだから、温厚なイギリス人でも「責任者出てこい !」と怒鳴ってしまうだろう。人気コメディーの「モンティー・パイソン」で有名なジョン・クリーズ(John Cleese)は、数年前、「ロンドンはもはやイングランドの都市ではない」と嘆いていたが、他の地域でも非英国化は進んでいたのだ。

Blacks in Britain 1John Cleese 1
(左 : 刃物を持って疾走する黒人 / 中央 : 自動車事故 / 右 : ジョン・クリーズ)

  同じ立憲君主国でも日本と違い、英国には貴族が存在する。しかし、その顔ぶれを眺めると、全くイギリス人とは思えない貴族が存在するのだ。正直な日本人だと思わず「これがイギリス貴族なの?」と呟いてしまうが、左翼教育に染まったイギリス人は、不満を抱きつつも、無言のまま堪えるしかない。祖国を愛するイギリス人なら、BNP(ブリテン国民党)やEDL(イングランド防衛同盟)に入りたくなる。(ただ、悲しいことに両組織とも凋落し、メンバーは激減しているそうだ。) 日本では英国の惨状は報道されないので、筆者が代わりにパキスタン系貴族を何名か紹介してみる。例えば、ウィンブルドン男爵となった保守党のタリク・アフメド(Tariq Ahmed)、上院議員のザヒダ・マンズール(Zahida Manzoor)、サイーダ・ワルシ(Sayeeda Hussain Warsi)男爵夫人、労働党上院議員のナジール・アフメド(Nazir Ahmed)男爵、モハメッド・A・カーン(Mohammed Afzal Khan)、自由民衆党のキシュワー・フォークナー(Kishwer Falkner)男爵、ロンドン市長のサディク・カーン(Sadiq Khan)、メイ内閣で内務大臣となったサジド・ジャヴィッド(Sajid Javid)などである。

Tariq AhmedZahida Manzoor 2Sayeeda Warsi 1Nazir Ahmed
(左 : タリク・アフメド /ザヒダ・マンズール / サイーダ・ワルシ / 右 : ナジール・アフメド )

  他人の国だから、どうこう言いたくはないが、こんな異邦人を目にしてもアングロ・ブリテン人は、本当に「貴族」として彼らを尊敬するのか? 戦前の日本で、もし朝鮮人の伯爵や子爵が出現したら、日系庶民は小馬鹿にして相手にしないぞ。子供だって「ギャハハ、ヨボの華族だって !」と笑ってしまうだろう。(「ヨボ」とは庶民が朝鮮人につけた呼称。) 貴族というからには、立派な血統や輝く権威が条件で、国会議員を務めたくらいじゃ「貴族」に相応しくない。やはり、封建領主じゃないとねぇ〜。ウェリントン将軍のように武勲を誇る軍人なら「公爵」でいいけど、百貨店や金融業で出世したユダヤ人が「男爵」なんてチャンチャラ可笑しい。日本でも同じだ。コ川御三家や御三卿、あるいは島津家とか前田家、毛利家のお殿様や家老ならいいけど、朝鮮の両班なんかロクでなしの穀潰しだから、とても仰ぎ見る存在ではない。貴族は血統と人種が重要となる。たとえ、一橋家出身の公爵が誕生してもタイ人との混血児じゃ嫌だし、田安家から出た伯爵でも、ベトナム人の養子じゃ日本人は尊敬しないだろう。

何のために死んだか判らないイングランドの英霊

  異民族の増殖は誠に恐ろしいもので、家系を大切にする旧家や血統を自慢する堅気の家庭にとり脅威だ。良識と伝統に基づいた教育で成長した親は、祖先の肉体を守ろうとするが、左翼教育で大きくなった娘や、コスモポリタン思想にかぶれた馬鹿息子は、「現在」だけを生きている。こうした子供は義務の観念に欠けるから、子孫への配慮など微塵も無い。惚れた相手なら誰でもいいという了簡(りょうけん)だ。リベラル思想が猛威をふるう現代では、実家に住む両親は「もしかしたら・・・」と不安に駆られ、居ても経っても居られなくなる。ある日、年頃になった娘が電話を掛けてきて、恋人に会って欲しいと頼んできたら、「最悪の事態」を覚悟せねばならない。指定されたレストランに赴くと、そこには有色人種の男がいて、娘と談笑していたりするから、親は心臓が止まるくらいショックだ。たとえ黒人じゃなくても、白人に見えない混血青年だったりするから、目眩がしてくる。一応、父親は冷静に振る舞うが、心の底では「何で、こんな奴と付き合うんだ !」と怒りを隠せない。母親も、「他に良い男性がいっぱい居るのに、どうしてこんな人を選んだの !」と不満爆発だ。確かに、溢れんばかりの愛情を注いで育ててやったのに、非西歐世界の有色人種じゃ泣けてくる。これでもし結婚となったら卒倒してしまうだろう。初孫がインド人やアフリカ人との混血児なんて、あまりにも残酷すぎる。生まれたての赤ん坊を抱いたときの涙は、嬉し涙じゃないぞ。

  多民族主義を毛嫌いする保守派のイギリス人にとって、異人種間結婚(miscegenation)は身近に感じられる恐怖だ。とりわけ、藝能界で活躍する娘がいると、その親は心配でたまらなくなる。例えば、ラザ・ジェフリー(Raza Jaffrey)とミランダ・レイゾン(Miranda Raison)の結婚は、現代の恐怖を象徴するニュースだった。ラザは英国の人気TVドラマ『スプークス(Spooks)』にレギュラー出演したインド系男優で、嘗てアメリカのTVドラマ『ホームランド』に出演し、現在は『内なる敵(The Enemy Within)』に出演している。彼は『スプークス』に出演していた時、共演者のミランダと交際し、2007年に結婚した。しかし、2009年に別れている。幸い、二人の間に子供はいなかった。だが、彼は又もや異人種の女優に手を出した。同番組の出演女優ララ・パルヴァー(Lara Pulver)と親密になり、2012に結婚する。だが、それも長くは続かず、2017年に離婚したという。


Raza Jaffrey 2Miranda Raison 6Lara Pulver 3
(左 : ラザ・ジェフリー / 中央 : ミランダ・レイゾン / 右 : ララ・パルヴァー )

  ミランダ・レイゾンの両親がどう思ったかは知らないが、普通のイギリス人ならゾっとするような結婚である。というのも、異民族が大量に流入する英国では無防備な子供が有色人種と毎日接触するからだ。年頃の子供を親は、「もし、自分の子があんな婚約者を連れてきたらどうしよう」と心配になる。一方、ララ・パルヴァーの親なら結構平気だろう。なぜなら、彼女の父親はユダヤ人で、イギリス人の母親は夫に従いユダヤ教へと改宗しているし、二人はララが七歳の時に離婚しているからだ。こんな母親なら、娘の結婚に反対できるはずがない。それに、第21世紀の英国だと、親の世代もリベラルで、多少の抵抗はあっても、概ね異人種間結婚を許してしまうのだ。イングランドの地と血を守るために亡くなった将兵は、墓の底でどう思っているのか? 中流階級以上の陸軍士官とか、パブリック・スクール卒の海軍士官は、まさか、自分の子孫にパキスタン人やアラブ人の遺伝子が混ざるとは考えていなかったはずだ。あの世のチャーチルも絶句するんじゃないか。隣のヒトラーが笑っているぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763179.html

7. 中川隆[-10463] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:26:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1828] 報告

ヒトラーの目的はユダヤ人とスラブ人を絶滅させて、東欧とロシアにドイツ人を移住させる事だったのです。

イギリス人はゲルマン系なので、最初から戦う気は無かったのですね。

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