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2014年 ― 追憶の年(ドイツ連邦共和国大使館・総領事館)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/812.html
投稿者 無段活用 日時 2014 年 8 月 02 日 19:57:04: 2iUYbJALJ4TtU
 

http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/050-aktuelles/2014Gedenkjahr.html



2014年 ― 追憶の年




今から100年前、第一次世界大戦が勃発し、75年前第二次世界大戦の火ぶたが切られ、そして25年前、ベルリンの壁が崩壊しました。


2014年は、3つの歴史的に重要な出来事の記念の年に当たります。ドイツ史はこれらすべて出来事から決定的な影響を受けていて、ドイツの役割は何か、そこからいかなる責任が生じるかという論点は、ドイツでは特別丹念に論じられています。100年前の1914年8月、ヨーロッパは第一次世界大戦に突入しました。毒ガス、戦車、機関銃といった工業製品が史上初めて投入されたこの大戦は、想像もつかなかったような激烈さでヨーロッパ人が慣れ親しんだ秩序を根底から覆しました。戦死者の数は、世界中で1700万人。不可避な自然災害ではなく、人間が引き起こした人為災害であるのに、大戦は“20世紀のビッグバン型カタストロフィー”とも言うべきダイナミズムを生み出しました。1918年の終戦によってドイツの君主制は瓦解し、代わってドイツ史上初の民主主義体制が誕生しました。しかしその後に続いたのは、ベルサイユ講和条約調印から15年を待たずしてのワイマール共和国の挫折、ナチスの台頭と政権掌握といった出来事でした。


(© dpa/picture-alliance)


ドイツでは、第一次世界大戦に関する記憶は、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に端を発した第二次世界大戦、並びに独裁者ヒトラーの元で起きた文明崩壊や大犯罪ホロコーストと重なり合うことが多くあります。ドイツの東西分断は第二次大戦の帰結のひとつでしたが、それはほんの25年前に克服されました。2014年が記念するこの3つ目の重大な歴史的事件、旧東ドイツにおける平和革命と1989年11月9日のベルリンの壁の崩壊も、すでに歴史の一章となりました。2014年は、20世紀の歴史、つまり第一次、第二次世界大戦の関連とそれがもたらした結果について深く考える契機を多数与えてくれることでしょう。今年一年を通して、討論会、展覧会、プロジェクト、多数の新しい調査・研究のなかで20世紀の歴史が取り上げられることになっています。視線は現代とその先の時代にも向けられるでしょうが、今日、多くの国々に根を下ろしている多国間主義。この政治的原則は、両世界大戦の破局から生まれたものです。

今日、28カ国が加盟し、市民が平和と自由のうちに暮らしている欧州連合(EU)のサクセスストーリーもまた、歴史的な出来事の帰結に他なりません。フランク・ヴァルター・シュタインマイヤー外務大臣は、「1914年―外交の挫折と効果」と題する新聞寄稿のなかで、「今日のヨーロッパ人にとって、重要なのは『強者の正義なり』より『法は正義なり』の方だ」と簡潔かつ的確に表現しています。今日の世界には、“法の正義”が実現していない地域がまだまだあります――2014年はそのことを思い起こす年にもなるでしょう。


(© dpa/picture-alliance)


第一次世界大戦

1914年6月オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されたことが火種となり、その5週間後に第一次世界大戦の戦火が燃え上がりました。ドイツに重大な責任がある帝国主義的な拡張政策と外交判断の誤りは、当時ヨーロッパに充満していた危機を未曾有の惨事をもたらす4年にわたる戦争に変えました。終戦後、ヨーロッパの地図は大きく塗り替えられました。


第二次世界大戦

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻して第二次世界大戦を引き起こしました。戦死者は6000万人に上り、ヨーロッパと東アジアの広い地域は破壊され尽くしました。国家社会主義者(ナチス)のユダヤ人殲滅政策により、600万人のユダヤ人が殺害されました。1945年5月にドイツが降伏したことにより、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結。戦勝国はドイツを4つの占領地域に分割しました。


(© dpa/picture-alliance)


ベルリンの壁崩壊

1945年のドイツ分断によって生まれ、当初から独裁体制が敷かれたドイツ民主共和国(DDR=東ドイツ)で平和革命が起こり、1989年11月9日、ベルリンを二分していた壁が倒れました。それにより、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と旧東ドイツを隔てていた国境も消滅しました。壁崩壊後1年後に、再統一によって旧東ドイツは終焉。ドイツの国家的統一は回復しました。


(c)ジャネット・シャイアン www.deutschland.de  

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コメント
 
01. 2014年8月05日 11:49:23 : nJF6kGWndY

http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/41408
第1次大戦開戦から100年:ドイツ人が抱く複雑な感情
2014年08月05日(Tue) Financial Times
(2014年8月4日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)


ベルギー・ヴラズロのドイツ軍墓地にあるケーテ・コルヴィッツの彫像(写真はWikipediaより)
 第1次世界大戦の悲劇を伝えるドイツの有名な象徴の1つに、悲しみに打ちひしがれてひざまずく父母の彫像がある。

 母親は胸の前で両腕を交差させ、頭を垂れて祈りをささげている。涙が頬を伝っている。となりの父親は背筋を伸ばし、自分の胸を腕で堅く包み込むような姿勢で、怒りを漂わせながら真正面を向いている。

 芸術家ケーテ・コルヴィッツによるこの作品はドイツで非常に高い評価を受け、瓦礫だらけになった第2次世界大戦後のケルンの街にその複製が設置された。そして今年には、2つ目の複製がロシア領内のドイツ軍墓地に設置されることになっている。

 この作品のオリジナルを見たことがあるドイツ人はほとんどいない。オリジナルはベルギーのヴラズロという町のドイツ軍墓地にある。この父母の像は、1914年10月に19歳で戦死したコルヴィッツ夫妻の息子ペーターの墓前でひざまずいているのだ。

 ここには、夫妻の息子のほかに2万5600人のドイツ人が眠っている。かつて西部戦線だった地域の墓地には、第1次大戦を戦ったドイツ軍兵士が計90万人埋葬されている。

ドイツ人が訪れないドイツ軍墓地

 しかし、こうしたドイツ軍墓地では、ドイツからの訪問者よりもベルギーや英国、フランスからの訪問者の方が圧倒的に多い。ベルギーで最もよく知られるドイツ軍墓地ランゲマルクでは、年間の訪問者18万5000人のうちドイツ人の割合は1〜2%にすぎない。大多数は英国人だ。

 個人的な追悼のしるしとして残されるものも、修学旅行で訪れた英国の生徒たちが置いていくポピーの造花*1ぐらいしか見当たらない。これらの造花には「亡くなられた方々すべてに敬意を表します」といったメッセージが添えられている。

 昔からずっとこうだったわけではない。1920年代や1930年代には、フランス軍墓地や英国軍墓地と同様にドイツ軍墓地にもたくさんの人が押し寄せた。その多くは、戦場で命を落としたクラスメートを悼む若者たちだった。しかし、ドイツの20世紀の歴史には第2次大戦が非常に大きな影を投げかけているために、1914〜18年の第1次大戦のことは記憶からほとんど取り除かれてしまっている。

*1=戦死者を追悼するシンボルとして英国では広く用いられている

忘れたいほどの忌まわしい記憶

 「たぶん、ドイツ人は歴史に関心がないのでしょう。とにかくひどい歴史ですから」。ランゲマルクを訪れていた数少ないドイツ人旅行者の1人、アンドレアス・ヤマーズ氏(68歳)はこう語る。「私は特別な関心を抱いています。1945年の最後の空襲があった時に生まれた人間だからです。ドイツの歴史はあれ以降、まずまず普通なものになりましたが、それでも私たちは歴史を忘れるべきではありません」

 第2次大戦の後、多くのドイツ人はその歴史を忘れようとした。ナチズムに対する自分の責任、そしてそれとともにあの戦争に関係するものすべてを、自分が失ったものも含めて忘れようとした。子供や孫が成長するにつれて、戦争を経験した世代は、かつての苦労に対する同情ではなく、つらい質問――特にホロコースト(ユダヤ人大虐殺)に関する質問――にさらされるようになった。

 その結果、多くのドイツ人は、つらかった経験の記憶を家族レベルでも国レベルでも共有することなく、戦時の罪を巡る議論に巻き込まれていった。

 ドイツ人の苦しみ――例えば、第2次大戦終結時に東欧から強制送還された数百万人の苦労など――を公の場で口にした人の多くは疎外された。

 亡くなった兵士の墓は、政府の資金や寄付金などにより維持管理がなされているが、彼らの死を悼むことは手控えられている。今日でも、ドイツの政治家がドイツ人の戦争犠牲者について話をすれば、罪を軽視しているとの批判にさらされかねないのが実情だ。

 ドイツ戦争墓地委員会のマークス・メケル議長は言う。「ドイツには、第1次大戦についての国民的な記憶がない。第1次大戦の頃の祖父や曾祖父の手紙や写真を保存しているという家庭を、私は1つとして知らない」

 第1次大戦に詳しい歴史家のゲルト・クルマイヒ氏は次のように書いている。「かつて侵略国だったという不面目のために、ドイツはほかの国々とは違い、戦死した英雄たちを誇りに思うことができなかった。また、英雄の名誉を称えたり追悼したりすることによって社会のトラウマを克服するというようなことができなかった」

100周年を迎え新たな認識も

 政府のレベルでは、1914年の開戦から100周年ということで第1次大戦の認知度は高まっているが、ドイツ政府に行動を促したのは一般市民ではなく、主に英国とフランスからの要請だった。

 ドイツの外務省は追悼行事をいくつか予定している。ヨアヒム・ガウク大統領も同様で、8月4日には、ベルギーのモンスにある英国とドイツの共同墓地での式典に英国のウィリアム王子とともに出席する予定だ。この墓地には、1914年8月に西部戦線で最初に亡くなった兵士たちが埋葬されている。

 知識人の間でも関心は高まっている。ドイツの出版界では、オーストラリアの歴史家クリストファー・クラーク氏が第1次大戦の発端について書いた『The Sleepwalkers(夢遊病者たち)』が、ノンフィクションの売り上げランキングで首位を7週間維持した。どの国にも特別な責任がない戦争に欧州は突入したのだという同書の主張は、ドイツは第2次大戦だけでなく第1次大戦も始めたのだと教わってきた多くのドイツ人の心に訴えた。

 第1次大戦をもっと理解しなければドイツはその後の歴史を――あるいは今日の世界を――適切に理解できない、とガウク大統領は述べている。大戦の引き金となったサラエボでの暗殺事件からちょうど100年目に当たる6月27日に行った演説でガウク氏は、ウクライナの危機とともに昔の亡霊が欧州にまたやって来たとの見方を示した。

 「私たちが今日(ロシアから突きつけられて)目の当たりにしているのは、力と勢力圏に基づいた昔風の理屈であり、それに従って行われた第三国の不安定化と外国領土の併合である。私たちは、対立と暴力の政策に逆戻りする運命なのだろうか」。ガウク氏はそう問い掛けた。

 しかし、ドイツの追悼行事はやはり控えめだ。ベルリンの国立ドイツ歴史博物館では1914〜18年を振り返る特別展示が行われているが、そこでの最大の展示品は戦車でも銃でもなく、戦場に設けられた野外炊事場だ。

 豊富な資料が展示されてはいるものの、家族の思い出を蘇らせてくれそうなものはほとんどない。ドイツの若い世代の心を揺さぶり、フランドルの戦場やケーテ・コルヴィッツの傑作を見に行きたいと思わせるものもほとんどない。恐らく、そうするには、もう遅すぎるのだろう。

By Stefan Wagstyl in Berlin


02. 2014年8月05日 11:54:16 : nJF6kGWndY

ドイツでも、過去を直視しようとする人々は少ない

免疫がない結果として、若者間には歴史を歪曲するネオナチのようなウヨク的民族主義者が蔓延るようになる


03. 2014年8月07日 08:43:46 : nJF6kGWndY

http://diamond.jp/articles/print/57244
【第34回】 2014年8月7日 田岡俊次 [軍事ジャーナリスト]
開戦100年!第1次世界大戦の教訓
今年は第1次世界大戦が始まって、ちょうど100年に当たる。8月はまさに戦火が欧州に拡がった月だ。大戦の直接の引き金は、1914年6月にボスニアの州都サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたことだが、わずか1週間で世界大戦に発展したのはなぜか。その過程と、それ以前の戦争に比べてケタ違いの死傷者を生み出した背景を探ることで、現代への教訓を考えてみる。

世界史の転換点

?1914年8月は第1次世界大戦の戦火が欧州に拡がった月である。その100周年に当たって欧州各国では記念行事が盛大に行われる一方、甚大な惨禍を招いたこの戦争の原因などについて論議が再燃している。日本も日英同盟を理由に参戦したが、中国・山東半島のドイツ租借地だった青島の要塞を2週間で攻略し、青島を脱出してインド洋で通商破壊を行っていた軽巡洋艦「エムデン」を追いかけ、地中海での輸送船護衛に巡洋艦2隻、駆逐艦12隻を派遣しただけで、人的損害は死者350人、負傷者900人程度だったから、日本では第1次世界大戦はほぼ忘れられている。

?だがこの戦争はドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリアの4ヵ国(動員兵力2285万人)に対し、ロシア、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、日本、ルーマニア、セルビア、ベルギー、ギリシャ、ポルトガル、モンテネグロの12ヵ国(動員兵力4219万人)が戦い、軍人の死者853万人、負傷者2119万人、民間人の死者775万人、計3747万人もの死傷者が出た大戦争だった。その結果ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国が崩壊し、戦勝国の主役だったイギリス、フランスも大打撃を受け、ヨーロッパの衰退をもたらして世界史の転換点となった。

?1918年11月11日にドイツは力尽きて降伏し、翌1919年6月パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で講和条約が調印されたが、そのとき連合軍総司令官のフランスのフェルナンド・フォッシュ元帥は「これは平和条約ではない。20年間の休戦だ」と予言した。その通り1939年に第2次世界大戦が勃発した。日本とイタリアがドイツ側に回ったが、他の敵味方の配役は第1次世界大戦とほぼ同じで、休憩時間を挟んだサッカーの前半、後半に似て一連の「世界大戦」だったから、第2次世界大戦で惨敗した日本にも、第1次世界大戦は大きな影響を与えた、と言えよう。

交差点で急停車したところに刺客

?この戦争の直接原因は1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国(以下オーストリアとする)皇太子フランツ・フェルディナンド大公(52)とその妃ゾフィー(43)がボスニアの州都サラエボでボスニア人青年ガブリロ・プリンチップ(19)に拳銃で射殺された事件だ。バルカン半島は1520年代から約300年オスマン・トルコ帝国の版図だったが、トルコの衰退に乗じてギリシャが1829年に独立し、セルビアも反乱、内戦ののち1878年に欧州諸国のベルリン会議で独立が認められた。

?だが、バルカン諸国の独立の背後には何度もトルコと戦い、圧迫して南下政策を進めたロシアがいた。バルカン半島の民族の多くはスラブ系で、宗教もロシアと同じキリスト正教だから好都合だった。もしセルビアがアドリア海の沿岸部も領有すればロシアが地中海に進出する、と案じた欧州諸国は海に面したボスニア、ヘルツゴビナの2州を名目上トルコ領として残し、当時欧州有数の大国で、ボスニアの北のクロアチアを領有していたオーストリアが占領し行政権を握る、と決めた。

?ロシアと共にトルコと戦い独立を勝ち取ったセルビア人は同じ民族のボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアが支配し、セルビアは内陸に封じ込まれたことに不満で、ボスニアなどの民衆にも不穏な動きが拡がった。オーストリアはそれを抑え込もうとし、1905年に日露戦争でロシアが大敗し弱まったのを機に、1908年ボスニア・ヘルツェゴビナを正式に併合する強硬策に出た。このためセルビアとボスニアなどでは反オーストリアの民族主義運動が一層激化し、それに対してオーストリア軍は威嚇のため1914年6月にボスニアで大演習を行い、その視察に皇太子夫妻が出向いたのだから危険極まる無謀な行動だった。

?暗殺の日にはサラエボに7人の刺客が待ち構え、1人が皇太子の車に爆弾を投げ、後続の車の下で爆発、12人が負傷した。このためコースを変更したが先導車の運転手に伝わっておらず、元のコースを走ろうとした。皇太子の車に同乗していたボスニア総督が「道が違う」と曲がるよう指示したため、交差点で急停車したところ、丁度その街角にプリンチップが立っていて至近距離からブローニング拳銃で2発を発射、2人を殺した。当時の情勢から考え、この偶然がなければ第1次世界大戦は起きなかった公算もかなりあったから、これは最悪の結果を招いたテロ事件だった。

複雑な同盟網を伝わって世界大戦に

?この事件はオーストリア領のボスニアでボスニア人が起こしたものだが、オーストリアはプリンチップらがセルビア民族主義団体「黒手組」の支援を受けていたことから、「セルビアの陰謀」と決めつけた。「黒手組」が一部のセルビア軍将校の影響下にあったのは確かなようだが、この右翼団体はクーデターを企てたこともあり、セルビア政府はこれを監視対象にしており、事件の調査に当ったオーストリア外交官はセルビア政府の関与を示す証拠はないことを認めていた。だがオーストリアはセルビアに対して、反オーストリア運動の禁止や、暗殺に関与した者の処罰、裁判にオーストリア政府代表を加えること、など受諾不可能な要求を突き付け、セルビアが「外国政府代表の裁判への参加は法的に無理」と拒否すると7月28日、史上初めて電報で宣戦布告をして侵攻した。

?当時のオーストリア帝国は人口5300万人、東欧南部を支配する大国で、人口450万人の小国セルビアを侮り、懲罰のつもりで攻め込んだが、それ以前のバルカン戦争などで歴戦のセルビア軍は意外に強く、当初攻め込んだオーストリア軍は撃退された。オーストリアが侵攻すると、セルビアの後ろ盾だったロシアは2日後の7月30日に動員令を出して予備役を招集、オーストリアの背後を突く構えを示して、オーストリアを牽制した。これに対しオーストリアと同盟関係にあったドイツは8月2日にロシアに、3日にはロシアの同盟国フランスに宣戦を布告、フランスと協商(やや柔軟な同盟)関係にあったイギリスも、ドイツ軍が中立国ベルギーを通ってフランスに侵攻しようとしたため、4日にドイツに宣戦を布告した。

?日本の新聞は当初「墺塞(オーストリア、セルビア)戦争」と報じたが、戦火は当時の欧州に張り巡らされていた複雑な同盟網を伝わってたちまち延焼し、1週間で「欧州大戦」に発展した。イギリスと同盟関係にあった日本も8月23日に宣戦を布告、10月29日にはトルコがロシア領クリミアを砲撃して参戦、イタリアは元々は独、墺と3国同盟を結んでいたがオーストリアと領土問題で対立していたから、1915年5月23日に英、仏側に付いて参戦、アメリカはドイツの無制限潜水艦戦で商船の被害が続発したため1917年4月6日に参戦し「世界大戦」に拡大した。

技術進歩に疎かった将軍たち

?欧州ではナポレオン戦争が1815年に終って以後、第1次世界大戦が1914年に始るまで約100年間大戦争は起こらず、大国間では1870〜71年のプロシア対フランスの普仏戦争から第1次大戦までの43年は全く戦争が無かったため、軍人も政治家も外交官も戦争の悲惨さや結果の重大性について実感が薄れ「クリスマスまでには勝って帰れる」などと軽々しく考えがちだったことが指摘されている。

?特に1870年から1910年頃までの約40年間は「第二次産業革命」により重化学工業が飛躍的に発達した時期だった。世界の鉄鋼生産は1870年の年間100万tから1900年には3300万tに急増し、発電機、電灯、電気モーター、電話、無線通信、内燃機関、自動車、飛行機、化学肥料や合成繊維、合成染料、アルミニウム、鉄筋コンクリート、木材パルプ、輪転式印刷機、写真フィルムなど、今日の我々を取り巻く機械文明の要素の大半はこの時代に誕生した。それ以前からあった鉄道、汽船なども工業生産力の拡大で爆発的に普及し、世界の鉄道は1869年の20万kmから1900年には92万kmに増大し、船舶も鋼鉄製が普通となった。工場の機械化、自動化が進み、大量生産が可能となったのもこの40年間だった。

?この技術の進歩と工業力の拡大は当然兵器の開発、生産に直結し連発小銃、機関銃、1分間に最大20発を発射できる速射砲、破壊力の大きい重砲などが作られ、軍の火力は飛躍的に増大した。見落とされがちだが1886年にフランスで発明され、英、独などで改良された無煙火薬の意味は大きい。それ以前の黒色火薬だと白煙が噴出して視界をさえぎるため、風が強くないと連続射撃は困難だったが、無煙火薬が実用化して機関銃や連発小銃、速射砲が真価を発揮するようになった。

?だがヨーロッパの大国間では、丁度その40年間戦争が無かったため、軍人、特に将軍たちは技術の進歩と工業生産力の急増で戦場が「殺人工場」と化したことへの認識が乏しく、ナポレオン戦争時とあまり変わらない戦法と「攻撃精神」に頼っていた。開戦後2年経った1916年6月から11月の第1次ソンム会戦でも、なお英軍は観兵式のように各人の間隔1ヤード(約91cm)の横隊で整列し、30kg以上の背のうを背負ってドイツ軍の陣地に向って前進したから機関銃、速射砲の絶好の標的となり、7月1日の総攻撃初日だけで死傷者6万人(うち死者1.9万人)を出し、11月13日の攻撃中止までに英軍に42万人、仏軍に19.5万人、独軍に60万人の死者が出たが、英仏軍は戦線を13km前進させただけにすぎなかった。

?第1次世界大戦の10年前、日露戦争では砲兵火力が戦闘の主体となり、砲弾の消費が途方もなく増えたこと、陣地防御での機関銃の威力が大きいこと、騎兵の乗馬戦闘は不可能に近いこと、などが観戦武官の報告で欧州に伝わっていたが、欧州列強の将軍たちは「アジアでの特異な例」と軽視しがちで、第1次世界大戦が始まって砲弾の欠乏に悩んだ。英陸軍大臣のホレイショ・キッチナー元帥は「機関銃は歩兵1個大隊(約1000人)に4丁で十分」と主張し、挙国一致内閣で軍需相となったデビッド・ロイドジョージ(自由党員、左派弁護士出身)が秘書官に「陸軍省に行って議論し、彼らの言う最大の数を聞いてくれ。それを2乗して2倍し、余力があればさらに2倍すれば足りるだろう」と言ったが、それが的中、この戦争末期には1個大隊に43丁が標準となった。

?頭の固さは英海軍も同様で、海上交通路を確保する戦略として大西洋に「航路帯」を設定し、哨戒していたが効果は乏しく、1917年4月にはUボートによる英国商船の喪失が月87.5万tに達し、英国では「あと2ヵ月で食糧が尽き、降伏するしかない」との論が出ていた。首相となっていたロイドジョージは海軍首脳部の猛反対を押し切り、商船に船団を組ませ、その周囲を護衛用の艦艇で守る「船団護衛方式」を採用させたところ、防御密度が格段に高まるため損害は劇的に低下し英国は敗戦を免れた。この他にも英陸軍は、機関銃火を冒して敵陣地を突破できる「戦車」の提案に対しても「空想科学小説」と冷淡で、海軍大臣だったウインストン・チャーチルが海軍予算で「陸上軍艦」と称して試作させた、など当時の軍人の保守性と無能を示した例は数多い。

?一方、ドイツ軍人はフランス軍、ロシア軍の能力を過小評価し、まずドイツ軍兵力の8分の7を西部戦線に投入し、ベルギー領を突破して西側からフランスを席巻、6週間で降伏させたのち、東に向かってロシア軍を制圧する、という1905年にアルフレッド・フォン・シュリーフェン参謀総長が立てた作戦計画を元に、若干変更した戦略で戦争を始めた。だがドイツからベルギーを横切りパリまでは約500kmもある。自動車が少ない時代に徒歩で一気にその距離を突進する計画には元々無理があり、ベルギー軍が鉄道を破壊したこともあって補給が苦しく、パリの北東約50kmでマルヌ川を渡った時にはドイツ将兵の疲労困憊は極に達していた。フランス軍はここで反撃に転じたため、ドイツ軍は約50kmも退却、塹壕を掘って陣地を守る態勢になり、短期決戦は幻となった。

新聞の煽情と政治家の迎合

?こうした失策が双方で相次ぎ、毎日数千人の死傷者が出たのだから、フランス首相のジョルジュ・クレマンソーが「戦争は将軍達に任せるにはあまりにも重大な問題だ」と言ったのは無理もない。

?だが公平に考えれば、開戦に至る経緯でも、戦争中でも、戦後処理でも、政治家の判断ミスの例もまた多い。戦争が人も財力も工業力も、国力のすべてを注ぎ込む「総力戦」となったため、国民に犠牲を強いる必要上「正義と悪の戦い」として戦意を煽らざるをえず、それ以前の戦争のように巧みなかけ引きで停戦することは困難となった。明敏なロイドジョージすら「カイザー(ドイツ皇帝)を吊るせ」と叫んでいた。講和条約でも英、仏が「戦争責任は全てドイツ側にあった」として莫大な賠償を課し、ドイツ人の怨恨を残したことは、20年後のヒトラーの台頭を招く一因となった。

?第1次世界大戦前、ドイツ製品の最大の輸出先はイギリスで、イギリスの最大の投資先は工業の拡大で資金需要が多かったドイツだった。このため両国間には相互依存関係が確立していたから「英独が戦争をすれば共に大損害を被る。戦争はあるまい」との見方が経済人の間には多かった。またイギリスは20世紀初頭まではフランス、ロシアを仮想敵視し、ドイツとは友好関係にあったから、英独の貴族階級は複雑な姻戚関係で結ばれ、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はイギリスの故ヴィクトリア女王の孫だった。両国の政体はともに貴族主体の立憲君主制で、白人の優越を信じ植民地支配を是認する価値観も同じだった。

?だがドイツ工業の進展でイギリスは経済的優位を失いつつあり、ドイツが1890年の「艦隊法」、1900年の「第2次艦隊法」で、戦艦38隻、巡洋艦58隻などを建造して大海軍を作ろうとし、英国民に警戒心が拡がっていったことが戦争の遠因だった。また木材パルプから紙を大量生産する技術が開発されて紙が安くなり、庶民も新聞を買えるようになり、西欧では義務教育が拡がって新聞を読める程度の人口が急増した。だが、大衆は海外情勢をよく知らないから感情的な強硬論に傾きがちで、新聞は発行部数を競って愛国心を煽り、選挙権の拡大で政治家もそれに迎合することになったことが、20世紀を戦争の世紀にした原因の1つ、とも言われる。

同盟のリスクにも目配りを

?第1次世界大戦が終わって冷静さを取り戻した英国では、軍人の死者90.8万人、負傷者209万人、民間人死者(商船員、爆撃など)3万人を出し、戦時中に乱発した国債の償還に歳入の半分を費やす程の財政危機に陥り、アメリカの台頭で国際的地位も低下したため「バルカン半島でのオーストリアとセルビアの戦争に参戦する必要があったのか」との議論も起こった。同盟政策(集団的自衛)は平時には抑止効果がある半面、一部で戦争が始まると同盟網が導火線となり延焼して大火災になる危険性があることを身に沁みて認識した欧州では、戦争を非合法化し、それを破る国には国際的組織で制裁を加えようという「集団的安全保障論」が流行し、米国のウッドロウ・ウィルソン大統領が唱えた国際連盟が1920年1月に生まれた。

?だが米国上院の反対で米国自身が加盟できず、敗戦国ドイツも革命後のソ連も当初入らなかったし、1935年エチオピアを征服したイタリアへの経済制裁は効果が無く、日本、ドイツ、イタリア、ソ連、中南米諸国の脱退が相次ぎ、第2次世界大戦への流れを阻止できなかった。第2次世界大戦後に作られた国際連合は戦勝国の米、英、仏、ソ連(現ロシア)、中国に拒否権を与え、各国が同盟を結ぶ「集団的自衛権」を認めているから、第1次世界大戦の反省から生じた国際連盟の理想主義とは全く異なるものと言えよう。

?日本では同盟関係の強化が自国の安全に繋がることを、疑いの余地のない原理のように考えている人が多いが、第1次世界大戦はそれとは逆の例だ。「かつては日米安保条約で戦争に巻き込まれる、と言う人も少なくなかったが、日本は平和を保ちえたではないか」との説も有力だが、1962年10月の「キューバ・ミサイル危機」で米国はソ連の弾道ミサイルのキューバへの配備を阻止するためキューバに対して海上封鎖を行い、米国は核戦争を覚悟して日本の米軍基地も「「デフコン2」(第2防衛態勢、5段階の上から2番目の臨戦態勢)を取り、水爆を搭載したB52爆撃機が発進、ソ連に近い公空で待機したり、弾道ミサイル「ポラリス」搭載の原潜や、地上発射の弾道ミサイルも発射準備に入った。

?ソ連のニキータ・フルシチョフ首相が、米国は再びキューバに侵攻しない(1961年4月に侵攻して失敗、再攻撃を準備していた)ことなどを条件に、キューバに配備していた弾道ミサイルを撤去したため全面核戦争は避けられたが、もし衝突となれば米、ソで各1億人、欧州で数百万人の死者が予測され、多分日本でも米軍基地数ヵ所が核攻撃を受けて10万人以上の死者が出てもおかしくない状況だった。

?また米国は1980年代、NATO正面での数的劣勢を補うため、もし欧州で戦争になれば、米側が優勢な極東で攻撃に出て、ソ連の戦力をできるだけ東に割かせる「水平エスカレーション」を公言していた。日本は西欧諸国を救うため、ソ連の戦力を吸収する役回りになる形だった。日米共同作戦計画の作成過程でそれを知った自衛隊の将官が「我々は日本が攻撃された際、米軍が来援してくれることばかり考えていたが、実は、米軍はこちらに戦争を波及させようと考えている」と私に話したこともあった。

?こうした状況を思い出せば、「安保条約があったから日本は安全だった」と言うのは「飲酒運転をしても無事に家に着いたではないか」と言うに近いと感じざるをえない。第1次世界大戦から100年の今年は、同時にスイス、スウェーデンがナポレオン戦争末期の1814年以後欧州の2度の大戦の中でも、簡単に制圧されない軍事力を備えると同時に、たくみな外交で中立を保って戦火を免れた200周年でもある。今日の日本にとって対米関係は大事だから俄かに日米同盟を解消するのは危険だが、第1次世界大戦が示した同盟の危険性にも目配りをする必要があると考える。


04. 無段活用 2014年8月09日 12:57:34 : 2iUYbJALJ4TtU : zBtbxdmej6
この投稿に興味を持った方がおられましたら、「ドイツ連邦共和国大使館・総領
事館」のサイトをたまに訪問なさってみては如何でしょうか。

ベルリンの壁が崩壊する有様を、25年の時を置いて追体験する試みのようです。


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(ドイツ連邦共和国大使館・総領事館)
http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/2014-25jahre-mauerfall.html


ベルリンの壁崩壊25周年

ドイツ分断によって生まれたドイツ民主共和国(DDR=東ドイツ)。

1961年、その国境警備隊がベルリンの舗装道路を壊して石でバリケードを作り、
町を横切る有刺鉄線を張りました。そして西ベルリンの周りを取り囲むように、
人が乗り越えることのできない3メートルの高さの壁を建設しました。このいわゆ
る「ベルリンの壁」は、1989年11月9日に崩壊するまで28年もの間存在し続けま
した。

2014年は、このベルリンの壁崩壊から25周年に当たります。
そこで8月5日から11月9日まで、1989年に起こった重要な出来事、壁崩壊までの
道のりを、当時の写真と共にこちらのページで順次紹介・説明します。

1989年8月5日

ドイツ民主共和国(東ドイツ)が初めて国外脱出者に対する公式声明を発表し、
この問題の存在を認めました。10万人以上の東ドイツ市民がドイツ連邦共和
国(西ドイツ)への出国申請をしたり、プラハ、ブダペスト、ワルシャワにある西
ドイツ大使館や、東ベルリンの西ドイツ常駐代表部に保護を求めました。

1989年8月5日
http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140805-mauerfall-1.html


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