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ナチスとシオニストの協力関係
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 09 日 20:20:50: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 「キリスト教シオニスト」の実態〜 シオニズムとキリスト教原理主義の関係 〜 投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 5 月 05 日 17:33:16)

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1998.2

■■■第1章:ドイツ・シオニスト連合とアイヒマン


■■同化主義ユダヤ人と異化主義ユダヤ人の対立


●シオニストたちが最も恐れていたこと、それは反ユダヤ主義者たちの策動ではなくて、むしろ、世界のあちこちに散らばっているユダヤ人たち(ディアスポラ)が彼らの民族としてのアイデンティティを失って、それぞれの住む国家社会に「同化」してしまう、ということだった。


●金沢大学教授で中東現代史専攻の前田慶穂氏は、『ユダヤ人とは何か/ユダヤ人1』という本の中で、ナチスとシオニストの協力関係を指摘している。

「ナチ党が政権を獲得した直後の1933年、『世界シオニスト機構』の議長代理だったユダヤ人ヨアヒム・プリンツはこう書いていた。『強力な勢力(ナチス)がわれわれの支援に訪れてくれ、われわれを改善してくれた。同化論は敗れた』と。」


●このナチスがユダヤ人の組織を「支援に訪れた」とは、意外も意外の表現だが、これには切実な理由がある。

当時のユダヤ人社会の中には、西欧文化に「同化」しようとするユダヤ人と、「異化」してイスラエル共和国の建国をめざすシオニスト・ユダヤ人との対立があった。狂信的な「異化」論者のシオニスト・ユダヤ人にとっては、「同化」論者のユダヤ人こそが、打倒すべき当面の敵であったのだ。だから、ユダヤ人全体の排斥を政策とするナチスは、「敵の敵は味方」という戦国の論理で、「味方」に位置づけられたのだ。


●実際、第二次世界大戦が起こる前、ユダヤ人の大半はシオニズム運動に無関心であった。これは数字にも表れている。1880年から1925年の間に、アメリカへ移住したユダヤ人400万人に対し、パレスチナへの移住者はたった15万人しかいなかった。

当時、西欧や東欧のシオニストたちが提唱するようなユダヤ国家建設に興味を示すユダヤ人は少数グループであった。ユダヤ人の大半は、ユダヤ国家建設など、あまりにも現実離れしすぎた妄想的計画だとみなしていた。それよりも自分たちが住む国家社会に「同化」することのほうが大事だと思っていた。

しかし、「異化」してユダヤ国家樹立を夢見るユダヤ人たちは、自分たちのプランを絶対に成功させようと躍起になっており、目的のためには手段を選ばない姿勢であった。そして、彼ら異化主義のシオニスト・ユダヤ人たちは一様に、同化主義のユダヤ人同胞には非常に冷淡であった。



●ドイツの著名な歴史研究家で、数多くの歴史書を書いているセバスチャン・ハフナーは、ヒトラー政権下でイギリスに亡命したユダヤ人であるが、1978年に『ヒトラー注釈』という本を出して、ヒトラーを鋭く批判した。(この本はたちまちベストセラーになった)。

彼はこの本の中で、当時のユダヤ人社会の「内部分裂」状態について、次のように述べている。

「ユダヤ主義は、まさしくヒトラーの時代にその3000年の歴史にかつてないほどひどく引き裂かれ、その傾向は様々に内部分裂していた。つまり『伝統的な宗教性』と『近代的な世俗化』との間に、『同化主義』と『シオニズム』との間に、『民族主義』と『国際主義』との間に内部分裂していたのである。そして世界のあらゆる大きな党派的対立と分裂も、ユダヤ人の市民としての解放以降、それまでとは違って世界に統合されていたユダヤ人社会をまっぷたつに割る原因となったことはいうまでもない。

ユダヤ人社会は、この一世紀もしくは半世紀のあいだ、同化と改宗と婚姻により、かなりの程度までそのユダヤ人としての自己同一性を意識的に放棄し、それぞれの国に完全に溶け込もうとしているところだった。そしてほかならぬここドイツにおいてほど、それが確信をもって、いや情熱をもって行なわれていたところはほかのどこにもなかったのだ。むろんこれに対して激しく抵抗したユダヤ人もかなり多かった。」

 ■■パレスチナに招待されて感銘を受けていたアイヒマン


●もともと、シオニストとナチスは「ウルトラ民族主義」と「暴力的手段の行使」の2つの主要な柱で一致している。一連のホロコースト疑惑騒動の中で、シオニスト勢力が最も触れられたくない部分は、ナチス高官とシオニスト組織の上層部が水面下で手を結んでいた、あるいは「共生関係」にあったという奇妙な構造があったという事実である。

例えば、次のような事柄はあまり公にされない。


●今や世界中からユダヤ人虐殺の頭目のように見なされているアドルフ・アイヒマン。彼は1935年頃、SSの保安諜報部(SD)のユダヤ人問題担当官に就任したばかりの頃、上司の勧めでシオニズムの父テオドール・ヘルツルが書いた『ユダヤ人国家』を読み、シオニズムに心酔していた。

そして、1937年2月に彼は、パレスチナのシオニスト組織「ハガナ」の司令官ベングリオンとベルリンで会談。この時に2人は合意に達し、アイヒマンは書面で「ドイツのユダヤ人を代表する組織は、ドイツを去るユダヤ人がパレスチナにのみ移住するように圧力をかけるものとする」と約束していたのである。

また同年、アイヒマンはパレスチナに招待されており、彼の帰途の報告によると、「シオニスト・ユダヤ人たちは、ドイツのユダヤ政策に非常に喜んでいる。その理由は、それによってパレスチナのユダヤ人口を数倍に増大させたから」であった。ゲシュタポとパレスチナのユダヤ人(シオニスト)の協力関係は、アイヒマンの努力によって緊密になったのである。

 ●このアイヒマンは敗戦とともに南米へ逃亡したが、イスラエルによって不法に拉致され、口封じのため、名目上「死刑判決」によって殺害された。

アイヒマンは裁判中、次のように反論したことで知られている。

「自分はナチスという巨大な組織の中の一員にすぎず、すべて上司の命令を忠実に守っただけである」

「我々(ナチス)が欧州からあなたたち(ユダヤ人)を追い出さなかったら、あなたたちの国(イスラエル)はここには作られなかった」

 ●なお、アイヒマンは南米での逃亡生活中、パレスチナでの経験の一部始終をテープに録音し、このほんの短期間の滞在を、次のように回顧していた。

「私は実際ユダヤ人入植者が自らの国を作り上げている様子にきわめて強く印象づけられた。私自身、自分が理想主義者であったから、またそれだけユダヤ人の生きようとする捨て身の意志を賛美した。それに続く数年間、私は交渉相手のユダヤ人によく語った。もし私がユダヤ人だったら、狂信的なシオニストになっていたであろう。違ったことを想像することは不可能だ。実際、私は考えられる限り最も熱心なシオニストになっていたであろう。」

 

■■ナチスの機関紙に親シオニズムの記事が掲載される


●ドイツ・シオニズム運動の指導者のひとり、ヴェルナー・ゼナートアは、かつて次のように述べていた。「シオニズム運動は活動している国の政治に溶け込むものだ」と。ヒトラー政権誕生当時、このドイツ・シオニスト連合の目標は、若い世代のユダヤ人がパレスチナへ出国できるようナチスに支援させるというものであった。


●ドイツ・シオニスト連合の執行部のひとりクルト・トゥーフラーは、ナチス親衛隊のレオポルト・フォン・ミルデンシュタインに接触して、ナチスの機関紙に親シオニズム的な論稿を書いてもらうよう説得した。ミルデンシュタインは、パレスチナへ旅する条件に同意し、ヒトラー政権誕生から2ヶ月後に2人はそれぞれ夫人を同伴してパレスチナへ向かった。帰国して論稿を書くまでの6ヶ月間、ミルデンシュタインはパレスチナに滞在した。


●ミルデンシュタインが6ヶ月間のパレスチナ訪問を終えてドイツに帰ってきたときには熱烈なシオニスト・シンパになっていた。SS保安諜報部の「ユダヤ人問題課」の課長として、このミルデンシュタインは今やヘブライ語を学び始め、ヘブライ語のレコードを収集しはじめた。

ミルデンシュタインは約束を守る男であった。パレスチナの入植地で見聞したことすべてを好意的に書いて紹介しただけでなく、ゲッベルスを説得してナチスの機関紙『アングリフ』にも堂々12回にわたる報告シリーズを掲載させた。このミルデンシュタインの旅を記念して、ゲッベルスは表がカギ十字、裏がシオニストの星というメダルを作らせた。

●この親シオニズムになったSSミルデンシュタインの子分がアイヒマンである。

ミルデンシュタインはアイヒマンにヘルツルの著作『ユダヤ人国家』を与えたが、この本はアイヒマンの愛読書になった。またアドルフ・ベームの『シオニズム運動』もアイヒマンの好きな一冊となり、ウィーンにおいては、ユダヤ人指導者たちとの会見の席で、まる1ページ分をそらで引用して見せたほどであったという。そして、アイヒマンもヘブライ語を勉強するようになった。

 

 


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■■■第2章:「シオニスト=ナチ通商協定」(ハーヴァラ協定)の実態


■■「世界シオニスト機構」の対ナチ協力


●世界中のユダヤ人グループや反ファシズム団体は、ナチスに対抗するためにドイツ製品の「ボイコット運動」を計画していた。しかし、シオニスト・ユダヤ人の中にはボイコット運動に反対する者も多くいたため、ほとんど成功しなかった。

反ボイコット派の中でも最も重要な役割を果たしたのは「世界シオニスト機構(WZO)」であった。このユダヤ人組織は、ドイツ商品を購入したばかりか、それをさらに販売し、ヒトラーとその産業界の支援者のために新しい顧客まで捜しだしてやったのである。

●ヒトラーに抵抗せず、むしろヒトラーと共働しようとした「世界シオニスト機構」は、独自にドイツ政府と交渉をはじめ、1933年8月に「ハーヴァラ協定」(シオニスト=ナチ通商協定)を締結することに成功した。これはパレスチナへ移住するドイツ・ユダヤ人の資産の移転に関する協定で、双方にとって都合が良かった。ナチスは、これによってボイコット破りに成功した。


●この「ハーヴァラ協定」の締結で、ドイツ・ユダヤ人のパレスチナへの移送が始められたのであるが、移住に際して高額の呈示金を必要としたために、貧困層のユダヤ人移住は進まなかった。「ハーヴァラ協定」そのものは1939年9月の大戦勃発まで維持され、ドイツからパレスチナへのユダヤ人の国外移送は1941年まで続けられた。


●「ハーヴァラ協定」によって「世界シオニスト機構」はおいしい蜜を吸った。「世界シオニスト機構」のドイツ支部は、ナチスの支配下で唯一のユダヤ人組織として機関紙発行を許され、当局との交渉権を握り、急速に成長した。第二次世界大戦が勃発する2ヶ月前の1939年7月はじめには、シオニスト組織を含む全てのドイツ・ユダヤ人組織が、ナチスの御用機関「帝国ユダヤ人同盟」にまとめられたのであった。

この間、シオニスト=ナチ交易関係は他の領域でも発展し続けた。「世界シオニスト機構」は、1936年にはイギリスで、ナチス・ドイツの商品を売り始めた。1937年にはカギ十字の旗の下、20万個の梱包されたオレンジがドイツに運ばれ、更に150万個が北海沿岸の低地諸国に送られた。

エジプト・レバノン・シリア・イラクにおいてはドイツのための新規顧客の袖を引くようになった。ベルギー・オランダ向けオレンジ輸出は、最後にはナチスの船を使用するまでになった。


●東京大学名誉教授で中東現代史専攻の板垣雄三教授は次のように述べている。

「シオニスト・ユダヤ人により設立された『パレスチナ船舶会社』は、ドイツ客船を購入して『テル・アヴィヴ号』と改称し、船長はナチ党員、船尾には船名のヘブライ文字、マストにはナチスの鉤十字を掲げて、1935年ブレーマーハーフェン・ハイファ間に就航し、移民の輸送にあたった。 〈中略〉 1919年パレスチナのユダヤ教徒の人口は住民の9%だったが、1939年には、パレスチナの『ユダヤ人』の人口は全体の30%を占め、イシューヴ(パレスチナ・ユダヤ人社会)の自立的経済が成立するに至った。1933年を転換点として、中・東欧からの『ユダヤ人』入植者が激増したからである。ナチズムなしにはイスラエル国家の誕生はありえなかった、ともいえるであろう。」


●また、『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』では、次のような驚くべき事実が紹介されている。

「1944年という遅い時期に至ってさえ、ドイツ海軍の援護の下に数隻の船がルーマニアから黒海をぬけて、ユダヤ人移住者を運んでいた。」



●ところで、この「シオニスト=ナチ通商協定」について、最近の研究家の中には、「ユダヤ人をドイツ国外へ移住させるという点で、ナチスとドイツ・シオニストの利害は一致していたのだから、両者の協力関係は当然の流れであり、何の問題もない」みたいな肯定的な意見を口にする人がいるようだが、これは当時のユダヤ人の心情を完全に無視した全く無責任な発言といえる。そう主張する人は、当時のユダヤ人の多くがこの協定に対して反対していた事実を無視している。

当時、世界のユダヤ人の大多数は、このあからさまな対ナチ協力の「ハーヴァラ協定」に大反対だった。「世界シオニスト機構」を除いてハーヴァラ協定を弁護する者はいなかった。ナチスと取り引きするようになった「世界シオニスト機構」に対して、「ボイコット破り!」、「紛れもない対ナチ協力!」という非難の声が殺到していたのである。

それに、もともとドイツに住む一般ユダヤ人のほとんどは、1938年の段階でも、ドイツを離れて縁もゆかりもないパレスチナの「荒地」へ行きたいとは、全く思っていなかった。



●当時シオニスト執行部の1人で、その後1939年にイギリス・ユダヤ人議員委員会総裁となったセリグ・プロデツキーは、「ハーヴァラ協定」のせいで世界の人々がシオニストたちを蔑んだと非難した。

また、1933年8月、ユダヤ教指導者のアッバ・ヒレル・シルヴァーは「ハーヴァラ協定」に関して次のような不満を述べた。

「迫害されているドイツ・ユダヤ人のために正義を要求せず、ヒトラーとビジネスの交渉をするというパレスチナ・ユダヤ人(WZO関係者)の発想そのものが何故でてくるのか、まるで分からない。全ては破産セールの問題であり、またパレスチナ・ユダヤ人がつとめて努力しているのも、自分たちにとっての掘り出し物を少しでも拾い出そう、そういう考えなのであろう。」


●同じくユダヤ教指導者のワイズも、「ハーヴァラ協定」について不満を述べていた。「理由が何であれナチ政府と商協定を結ぶ企てを持つユダヤ人」に対して嫌悪感を表明していた。また、パレスチナの土地が他のユダヤ人の要求よりも遥かに重要になっているとして、「世界シオニスト機構」の腐敗を嘆いていた。

●アメリカでは「ハーヴァラ協定」に対する反対は、数十万人のユダヤ人労働者を擁する婦人服産業の労働組合で特に強かった。ユダヤ労働委員会議長バルーフ・チャーニイ・ヴラデックは、「ハーヴァラ協定」を推進する組織指導者ベルル・ロッカーと、ニューヨークで公開討論を行なった。ヴラデックはベルル・ロッカーの明らかな言い逃れによってごまかされず、攻撃をやめなかった。

ヴラデックは言った。

「諸君は今から最後の審判の日までしゃべり続ければよい。しかしそれはきわめて破廉恥な二重帳簿をつけ続けるようなものだ。誰もボイコット破りをすべきでない、しかしパレスチナのユダヤ人は別! 誰もドイツと取り引きしてはならない。しかしシオニスト機構は別! 

……『ハーヴァラ協定』の主目的はドイツのユダヤ人を救うことではなく、パレスチナの様々な組織を強化することにある。パレスチナは近東のボイコット破りを公然と行なうエージェントになっている。『ハーヴァラ協定』のニュースが最初に明らかになった時、ベルル・ロッカーは『シオニスト機関はひとつとしてハーヴァラとは通じていない』と言った。

……ここから私が出せる結論はただ1つ。『ハーヴァラ協定』はユダヤ人の汚点であり世界の汚点である。」


●反シオニズムのユダヤ人で、著名な歴史研究家のレニ・ブレンナーは次のように述べている。

「『ハーヴァラ協定』がユダヤ人のたくさんの命を救ったというような言い訳は全て、事柄を真剣に検討する埒の外としておく必要がある。……1930年代に『ハーヴァラ協定』が機能していた時期には、できる限り多くのユダヤ人を助けるという観点からこの協定を弁護する者はまるでいなかった。その当時の言い訳も、富を救えるというものであって、ユダヤ人の命を救うなどというものではなかった。」

 

 


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■■■第3章:ナチスはユダヤ人内部の違いを見分けていた


■■ハイドリヒのユダヤ人論


●興味深いことに、ナチスの幹部ラインハルト・ハイドリヒは、SS保安部長時代の1935年に、親衛隊の機関紙『黒服将校団』に寄せた「見えざる敵」と題する論文で、ユダヤ人内部の違いを見分ける理論を展開し、次のように書いていた。

「ユダヤ人を、シオニストと同化主義者の集団の2つのカテゴリーに分けるべきである。

シオニストは率直に人種主義の信念を表明し、パレスチナへの移民による独自のユダヤ人国家建設計画を推進している。……われわれの正しい願望と、優れた公式命令には、彼らと共通するものがある。」

●また、ナチス・ドイツ内部のシオニスト組織の特権的地位については、ババリアのゲシュタポが1935年1月28日に、警察に対して出した回状がある。

「シオニスト組織のメンバーは、パレスチナへの移住を方針とする活動を行なっているので、ドイツの同化主義者のメンバーに対するのと同様な厳密さで対処してはならない。」(『1930年代のナチ法の下におけるシオニストと非シオニスト』)

 

■■ローゼンベルクのユダヤ人論


●ナチ党の理論的指導者として活躍したアルフレート・ローゼンベルクは、1937年に発表した論文『転換期におけるユダヤ人の足跡』の中で、「シオニズムを積極的に支援すべきである」とし、「相当数のドイツのユダヤ人を毎年パレスチナに向けて送り出すべきだ」と論じていた。

●そしてこの言葉通り、ナチスのユダヤ人「東方移送計画」の最初の目標地は、シオニスト指導者との会見の中で、すでにユダヤ人の入植が進んでいたパレスチナに定められた。

しかし、パレスチナの信託統治権を握っていたイギリスとの間で費用の問題などの話がつかなかったため、以後、フランス領だったマダガスカル島が候補に挙がったり、占領下のロシアという話になったり、まさに二転三転したのである。が、その間にも、さまざまなルートを使ったパレスチナへの移住は続いていたのであった。

 ●ところで、ヒトラーの本心はどうだったのだろう? 前出の、反シオニズムのユダヤ人で、歴史研究家のレニ・ブレンナーは次のように述べている。

「ヒトラーは、ユダヤ人を促してパレスチナへ赴かせたからといって彼の手から逃しているとは決して考えていなかった。ユダヤ人が遥か彼方のアメリカへ行ってしまえば、ヒトラーの手は届かなくなり、ヨーロッパでは絶えずナチスの敵になるであろうが、パレスチナであれば手を伸ばすことができたからだ。ゲシュタポのエージェントは、あるユダヤ人指導者に言い放っている。『パレスチナだったら我々は諸君に追いつこうと思えば追いつけるのだ』と。」

「ヒトラーに協力したユダヤ人たちは、ヒトラーがあらゆるユダヤ人を憎悪している事実、また分けてもシオニスト自身を非難している事実を無視した。この時代を通じてナチスとシオニストとの関係は、猫と鼠のそれであって、ナチス=猫は、あくまで弄ぶ側で、それに弄ばれた対象がシオニスト=鼠であった。実際、『ハーヴァラ協定』から利益を他の誰よりも得ていたのはナチスだった。」

 

■■チェンバレンのユダヤ人論


●ところで、これは余談になるが、ヒトラーが「国家社会主義の父」と呼んで崇拝していた文化哲学者のヒューストン・S・チェンバレンも、ユダヤ人内部の違いを見分けていたようである。

(イギリス生まれの文化哲学者ヒューストン・S・チェンバレン:(1855〜1927年):彼が書いた人種主義歴史観の古典とされる『19世紀の基礎』(1899年)は、ヒトラーにとっても、「ナチ党」にとっても大きな存在であった。『19世紀の基礎』は、ローゼンベルクのナチ・イデオロギーの理論書『20世紀の神話』など、ナチスの人種主義理論に多大な影響を及ぼした。ローゼンベルクはチェンバレンを称え、自著『20世紀の神話』の中で、「チェンバレンこそ、ゲルマン民族が伝統を受け継ぐ想像の役割を担い得た民族であることを最初に指摘した人である」という趣旨の文章を書いている。ヒトラーもチェンバレンを「国家社会主義の父」と呼んで、称えていた。)

●『ナチスと動物』(青土社)の著者ボリア・サックスは、次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

「アーリア民族の優越性と反ユダヤ主義を唱えた指導的理論家ヒューストン・S・チェンバレンは、古代ヘブライ人や比較的近世のスファラディ系ユダヤ人にはむしろ好意を寄せていた。

チェンバレンが嫌悪したのはアシュケナジー系ユダヤ人(主として欧州の中部および東部に分布)で、これを彼は『古代イスラエルで始まった人種混交でそのアイデンティティを喪失したグループ』と断じ、こう続けている。『ユダヤ人の特徴が最も著しい丸い頭部とワシ鼻は、原ヘブライ人が混血した相手のヒッタイト族に帰せられる』と。」

■■■第4章:ルドルフ・カストナー事件


■■ナチスと取り引きしたハンガリーのシオニスト組織


●1944年、ナチス帝国の敗色が濃厚になる中、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーなどのナチス指導者は、ハンガリーに残るユダヤ人は、殺すよりもスイスを仲介とした西側との交渉のためのカードとして温存したほうが得策かもしれない、と考えていた。

ハンガリーの首都ブダペストでは、シオニスト組織の最高幹部であるルドルフ・カストナーとアドルフ・アイヒマンの2人が、ヒムラーと連絡をとりつつ様々な可能性を模索し、ある秘密の合意に達した。それは、カストナーが選び出したユダヤ人1685人を列車で秘密裏にスイスへ脱出させるというものだった。カストナー自身も加わって作成した乗客リストには、彼の家族、友人、シオニズム運動の長老指導者たちの名前が並んでいた。

●この計画を実行するに際してカストナーは、SS中佐のクルト・ベッヒャーを相棒にした。1944年6月30日、カストナーによって選ばれたユダヤ人たちは、「VIP列車」に乗ってハンガリーを脱出し無事にスイスに到着した。

このSS中佐ベッヒャーとカストナーは、その後も親密な関係を続け、ドイツが降伏した後、ベッヒャーが戦犯として逮捕されると、カストナーは「ニュルンベルク裁判」でこのナチの友人の弁護に駆けつけ、彼が人格者であることを訴えたのだった。この結果、ベッヒャーは釈放され、その後西ドイツで実業家として名を馳せることになる。

 ●この告発に怒ったカストナーは、グリーンワルドを名誉毀損で訴えた。

しかし裁判の焦点はすぐに、大戦中のカストナーとアイヒマンおよびSS中佐ベッヒャーとの関係に移った。ベンヤミン・ハリーヴァイ判事は証拠説明の中で、カストナーがナチスと交渉を行なったことを、「悪魔に魂を売り渡す」行為として非難した。

イスラエルの一部のメディアによって、カストナーは「悪魔」として戯画化された。
そして次のようにカストナーを批判する人も出た。

「自分の一番身近な人々をも含めてわずかの人々を救うために、カストナーはユダヤ人を金で買い取る交渉をアイヒマンと行なうことで、ユダヤ人が何の抵抗もせずに生け贄として死に駆り立てられることに寄与をした。彼はハンガリーでナチス側と協力をして、アイヒマンと獲物を分け合って、儲けたのだ!」

(ルドルフ・カストナー:戦後、姓名をルドルフ・カストナーからイスラエル・カストナーに変え、家族とともにハンガリーからイスラエルに移住し、イスラエル政府の高官となる。1957年3月、射殺された。)

●長い裁判が続いたあと、この件はイスラエルの最高裁判所に持ち込まれ、1957年1月、審理が開始された。

しかし、思わぬ展開が待ち受けていた。

1957年3月、真夜中直前、カストナーは自宅を出たところを射殺されてしまったのである。

カストナーを射殺した犯人は逮捕され投獄された。しかし、そこにもっとどす黒いものの臭いを嗅ぎ取り、カストナーの暗殺をイスラエル諜報機関が仕組んだ罠だと主張する人は少なくなかった。(後にイスラエル最高裁判所は、ナチスが罪を逃れるのに手を貸した点を除いては、カストナーを無罪とする決定を下した)。

結局、ハンガリーのシオニスト組織とアイヒマンとの間にどんな密約があったのか、当事者カストナーの口が封じられてしまった以上、その真相は歴史の闇に葬られたことになる。


●ちなみに、この事件の3年後に、南米アルゼンチンにいた
アイヒマンは拉致され、イスラエルで処刑されたのである。

 

 


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■■■第5章:正統派ユダヤ教徒たちによる告発


■■同胞を裏切ったシオニスト・ユダヤ人


●ユダヤ人のベン・ヘクトが、1961年に書いた『裏切り』は、第二次世界大戦中にシオニストたちが、同胞ユダヤ人の抹殺にどれほど協力したかをあからさまに暴いたものである。

彼の証言によるとシオニストはヨーロッパの正統派ユダヤ教徒(同化主義ユダヤ人含む)を犠牲の生け贄にしたという。狂信的な「異化」論者のユダヤ人たちは、同胞である正統派ユダヤ教徒を裏切ってイスラエル共和国を建国したと告発しているのだ。

彼の主張によれば、これらシオニスト指導者たちは、前もって同胞の虐殺が行なわれる時期、方法、場所を知っていたが、犠牲者たちに警告することを拒んだ。なぜなら彼らの関心事は、ユダヤ人を1人でも多く救うことよりも、パレスチナにイスラエル国家を建設することの方に向けられていたからだという。

ベン・ヘクトは語る。
「エルサレムやロンドンやアメリカの臆病なユダヤ・ロッジのメンバーたち……これらのシオニスト指導者たちは、抗議もせず、ただ無関心に、彼らの何百万人の同胞が焼かれ、首を絞められ、吊り下げられるのをそのままにしていた。」



●アメリカの孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、「ルーズベルトはユダヤ難民に無関心だった」と告発している。

そして彼は、この本の中でベン・ヘクトを高く評価している。

少し長くなるが、参考までに紹介しておきたい。

「1942年の初めに、私はヒトラーの非人道的な人種差別政策と、ドイツ、ポーランドにおける、何百万人にものぼるユダヤ人の虐殺を非難する決議案を議会に提出した。

これに対して、国務省はよくわからない理由から、虐殺について何も知らないと主張して、全世界の国々にユダヤ人に対する残虐な虐殺に反対するよう呼びかけようという私の提案の採択を妨害したのだった。その時には、ヨーロッパ中の国が、すでにヨーロッパのユダヤ人に対する残忍な虐殺を知っていたのだ。

しかるに、ルーズベルトの国務省は、説明のつかぬ、わけのわからぬ理由で私の提案に反対したのだった。」

「ユダヤ人のベン・ヘクトは、その自伝の中で、次のように述べている。

『ルーズベルト大統領が、ユダヤ人の虐殺を防ぐ人道主義のために、指一本上げなかったこと、ユダヤ人の置かれた境遇に対して消極的なコメントを繰り返したこと、史上最悪の大虐殺に対し無関心だったことは──』理解し難い。

ベン・ヘクトは、続けて、『ルーズベルトの首席秘書官でユダヤ系のデビット・ニイルズから、大統領はドイツのユダヤ人殺戮を非難するような演説や声明を発表したりしないだろう、ということを知らされた』とも書いている。

我々は、ベン・ヘクトの勇気のみならず、彼のこの問題に対する先見性を高く評価しなければならない。

彼は『次の事件』と題された、一幕物の劇を完成しようとしていた。

それは、ルーズベルト大統領が歴史の証言台の前に立たされ、お前はユダヤ人を救うために何をしたのかを述べさせられるのである。そしてナチの火葬場から蘇った12人のユダヤ人が、事件を裁く陪審員を務めるのだ。

ベン・ヘクトはビバリーヒルズ・ホテルで、この原稿を書き終えた時、ちょうど、ルーズベルトの死が発表されたのを、ラジオで聞いたのだった。

私は、ベン・ヘクトを心から尊敬する。

彼は、『ルーズベルト大統領は世界中の人々と、中立国であろうとなかろうと、すべての国に対し、ナチス政権(ヒトラー)にその絶滅政策を止めるよう要求する、人道的なアピールを行なうべきであり、さもなくば全世界が道徳的汚名に苦しむことになる』と主張するだけの、先見の明と勇気を持ち合わせていたのである。

もしホワイトハウスから、そのような声明がはっきりと発表されていたならば、ヒトラーの誇大妄想を止められたかもしれないし、少なくとも、ヒトラーの残虐さについて、おそらく全く知らないドイツ、ポーランド国民に、真相を教えることができたであろう。

〈中略〉

1943年の初めには、世界中のすべての国と政府が、ヒトラーのユダヤ人撲滅政策を知っていた。

ルーズベルト大統領と国務省は、恐るべき虐殺行為を容赦なく世界の耳目に曝(さら)すべきであったのだ。そして、すべての連合国と中立国に対し、国際法と人道にもとる、無防備の人種的、宗教的少数派を絶滅させようとする恥ずべき政策を止めさせるために、ヒトラーとナチス・ドイツに公的に影響力を行使するよう要請すべきであった。」

●ラビ(ユダヤ教指導者)であるモシェ・ションフェルドが、1977年に書いた『ホロコーストの犠牲者たち』も、ベン・ヘクトと同じくシオニスト指導者たちの残忍な素顔を告発するものであった。

同書によれば、当時の「ユダヤ機関」の議長だったシオニスト指導者イツァク・グリーンバウムは、東欧のユダヤ人たちを救うために金が必要になったとき、繰り返し「だめだ!」と返事したという。そして次のような言葉を口にしたという。

「我々はシオニスト活動、すなわちイスラエル国家の建設を二義的な問題に押しやるこうした風潮に抵抗すべきである。」

更に彼はこうも言ったという。
「パレスチナの1頭の乳牛は、ポーランドの全てのユダヤ人よりも価値がある。」

このイツァク・グリーンバウムの言葉は、仮にポーランドなどの東欧においてどれほど多くのユダヤ人が殺されようとも、イスラエル国家の建設の方が大切であると公言しているのである。

●ユダヤ人デイヴィッド・ウェインが、1985年に書いた『ユダヤ人の放棄』という本があるが、この本も、シオニスト・ユダヤ人たちがヨーロッパの正統派ユダヤ教徒を救う代わりに、イスラエル国家の建設に集中する決断を下したと書かれている。

彼はこの本の中で、ナチスに殺されたユダヤ人の大半は正統的な信仰を保持していた正統派ユダヤ教徒であり、ホロコーストを口実にイスラエル共和国建設を世界に認めさせたのだから、正統派ユダヤ教徒はその犠牲にされたのだと告発している。

また、ユダヤ国際金融機関が何故ヒトラーを後援したかについても書いている。シオニスト・ユダヤ人はライバルである正統派ユダヤ教徒を壊滅させ、シオニスト勢力のパレスチナ保有の熱望を世界に認めさせる機運を醸成させるように図ったというのだ。



●ユダヤ人ラビ・ウェイスマンデルのことも触れておきたい。

彼はドイツにいたラビ(ユダヤ教指導者)であった。シオニストではない。ナチス・ドイツ占領下にいた200万人にものぼるユダヤ人を何とか救おうとして、シオニスト機関に金を要求したのであった。

シオニスト指導者の答えは、「彼らが流す血によってこそ私たちは土地を得ることができるのである」というものであった。

200万人以上のユダヤ人の血があればこそ世界から同情を得て、シオニスト国家をつくることができるという意味であった。


●しかしなおラビ・ウェイスマンデルは同胞を救うための金を要求した。そのときシオニスト機関は次のように言ったという。

「チェコスロバキアから出てくる20人のあなたの親しい友と、あなた自身の命を救うための金だ。そしてその他の残れる者たち、すなわち老若男女、乳児などの血によって、その土地は私たちのものになるのだ。」


●ラビ・ウェイスマンデルはなお多くの同胞を救いたいと心から願っていた。

だが、彼はシオニストに助けを求めることは無駄であるとわかった。

彼らにとってはパレスチナの土地こそが人間の命より重要だったからである。

 

 


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■■■第6章:同胞を裏切ったシオニスト・ユダヤ人


■■更なる告発


●最も著名なユダヤ人の立場の擁護者としての研究と著作を発表しているユダヤ人ハンナ・アレント女史も、この問題の論争に参加している。

彼女は著書『イェルサレムのアイヒマン』の中で、ナチス当局者とシオニスト指導者たちの間に親密な結びつきがあったことに触れ、「同胞の移送に協力したユダヤ人自治組織もあれば、『同胞を売る』ことで生きながらえたユダヤ人もいた」ことを指摘した。

そして、当時その3分の2がシオニストの指導下にあった「ユダヤ人評議会」の受動性と、さらには加担の有様を示し、「ユダヤ人評議会」とナチスとの協力関係について大変厳しい判断をした。

彼女によれば、シオニスト指導者たちは、反シオニズムのユダヤ人たちやシオニズムに無関心なユダヤ人たちの信用を傷つけ、ユダヤ人の同化を防ぐためにナチスがユダヤ人をパレスチナに送り出すのを助長するため、「誇りをもって黄色いバッジをつけよう」というスローガンの採用を迫ったという。(この本の出版後、彼女はユダヤ人社会から袋叩きの目に遭わされている)。

●イザイヤ・トランクの著書『ユーデンラート』によると、「フロイディガーが計算したところでは、『ユダヤ人評議会』の指示に従わなければ、ユダヤ人の100分の50の救出が可能だった」という。

また、バチカンがホロコーストに無関心であったとされる問題を討議する中で、米国正統アガダサ・イスラエルの機関紙『ジューイッシュ・オブザーバー』は、ユダヤ人たちの2つの相入れない路線を指摘した。

「……文書は明らかに、ユダヤ人を実際に救出する機会は何回かあったが、それは無視されるか、ときには意図的に邪魔されたということを証明している。なぜなら彼らを救出することは、形成中のイスラエル建国に最終決着をつけたいとするシオニスト指導者たちの計画にそぐわなかったからである。」



●反シオニズムのユダヤ人マーク・レインは、次のように語っている。

「ヒトラーはユダヤ人絶滅命令を一回として出してはいない。彼が部下に命じたのは追放することのみであった。そのユダヤ人追放が大量に達したとき、ヒトラーは当時のシオニズムの指導者であったハイム・ワイツマン(後の初代イスラエル大統領)にある取り引きを申し出た。ユダヤ人たちをそちらに渡す代わりにドイツへの経済援助を求めたのである。これは歴史的事実である。

しかし、ワイツマンはそれを断った。ユダヤ人たちが迫害され、あるいは殺されることによってそれがイスラエル建国のバネとなり、また戦争後のユダヤ人たちが世界にアピールしていくときのバネになると、彼ははっきり答えたのだ。」

マーク・レインによれば、このようなことは多くのユダヤ人たちの知っていることであるという。

(ハイム・ワイツマン:「世界シオニスト機構」の総裁を務め、その後、何年にもわたって世界のシオニズム運動の指導者となった。イスラエル建国後、初代イスラエル大統領になる。)

●このシオニズムの指導者ワイツマンに対しては、ピンチャス・エリヤフというユダヤ人も著書『聖地の戦い』という本の中で批判している。

「ユダヤ・コミュニティにおいてシオニストたちは社会制度の支配権を握ろうとして多くのキャンペーンを張った。例えば第二次世界大戦中、エルサレムでは食料がなく、多くのユダヤ人たちが飢餓状態に置かれていた。そこへワイツマンが海外からの大量の食料援助を船に積んでやってきたのである。だからといってワイツマンは、飢餓状態にあるユダヤ人たちにそれを無条件に与えたのではない。彼らが宗教学校のカリキュラムから宗教色を除いてシオニズム化するならば、それを与えようという条件を出したのであった。当然、現地のユダヤ人たちは断固としてそれを拒んだ。そして、その結果、多くのユダヤ人たちが餓死したのである。多くの施設は非宗教化され、今日でもシオニストの支配下に置かれている。」



●かつてイスラエルで活躍したジャーナリストのナイム・ギラディ。彼は典型的なスファラディム(スファラディ系ユダヤ人)で、建国と同時にアラブ世界からイスラエルに移住した。しかし彼が目にしたものは、思いもつかない想像を絶するイスラエルの現状であったという。彼は見たこともないユダヤ人と称する人々(東欧系白人/アシュケナジーム)を見て大変とまどったという。

イスラエル国内ではスファラディムは二級市民に落とされているが、彼はその二級市民の代表として、イスラエルであらゆる運動を展開した。幾度も刑務所につながれたこともあったという。しかし一貫して彼は本当のユダヤ人とは何かを主張し続けた。本当のユダヤ人に対する住宅、社会生活、就職などの改善を訴え続けたのであった。

 ●このナイム・ギラディは『ベングリオンの犯罪』という本を書いているが、この本では、シオニスト・ユダヤ人とナチスのつながりがあらゆる証拠をもって述べられている。彼によれば、ユダヤ人がナチスによって犠牲になったことは明らかである。しかし、その犠牲になった人々は決してユダヤ人指導者たちではなかった。哀れな一般庶民としてのユダヤ人たちだったという。

彼は語る。

「いつでも歴史において犠牲になるのは特権階級ではない、金持ちでもない、指導者たちでもない、一般庶民たちなのである。」

「ナチス・ドイツの犠牲となったのは、そのような哀れむべきユダヤ人たちだった。しかしシオニスト指導者たちは、その犠牲となったユダヤ人たちの上に立って自分たちの主義主張を今に至るまで展開しているのである。言葉を換えれば、一般のユダヤ人の犠牲を利用しているといっても過言ではないだろう。」



●戦後南米に逃亡した元ナチスの高官は、シオニスト・ユダヤ人について次のように語っている。参考までに。

「アイヒマンはシオニスト・ユダヤ人について知りすぎていた男だった。ヒトラーはユダヤ問題解決のため、アメリカやイギリスと極秘のうちに話し合いを進めていた。その時の連絡係を果たしたのがアイヒマンだった。役目上彼は国際ユダヤ組織のトップたちと何度となく話し合っている。そして彼らの考えを克明に記録に残したのだ。

アイヒマンは彼らに対して、もしアメリカもイギリスもユダヤ国家建設に協力しないなら、ドイツとしては彼らを隔離するために収容所に入れざるをえないだろうとまで言った。すると彼らは反対するどころか、大賛成の意を表明したのだ。さすがにアイヒマンもこれにはビックリしていた。彼らのうちの誰が何を言ったかまでアイヒマンは記録していた。」

「アイヒマンはシオニスト・ユダヤ人の実態について、いつかは記録に残しておくとたびたび語っていた。南米での逃亡生活中、サッスンというオランダ人の元SSとインタビューした時に、アイヒマンの言葉はテープに記録された。アイヒマンも馬鹿なことをしたものだ。あんなインタビューなど決してするべきではなかった。あの裏切り者サッスンの甘言に乗せられてしまったのだ。サッスンはそのテープをイスラエル側に1万ドルで売り渡した。たったの1万ドルとは彼の命も安く見られたものだ。あのテープを聞いてユダヤ人はビックリしたに違いない。シオニストの秘密が逐一語られていたのだから。」

 

 


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■■■第7章:シオニスト組織の最高幹部たちの衝撃的な発言


■■国家の建設(シオニズム)はすべてに優先する


●シオニスト組織の最高幹部たち自身の口からも、衝撃的な発言が出ている。

イスラエル国家の最初の指導者、ベングリオンは、1938年12月7日に、シオニストの労働党指導者たちを前にして、つぎのように率直に公言している。

 「もしも、ドイツにいる子供(ユダヤ同胞)をイギリスに連れて行けば全部救うことができるとしよう。一方、エレツ・イスラエル(パレスチナの地)に移住させたなら、その半分しか救えないと分かっているとしよう。この場合、どちらかを選べといわれるならば、私は後者の方法を選ぶ。なぜなら、われわれは、その子供たちの命だけでなく、それ以上にイスラエル民族の歴史をも勘定に入れなければならないからだ。」(『シオニストの政策とヨーロッパのユダヤ人の運命』)

「ヨーロッパのユダヤ人の救出では、指導的階級の優先権にもとづくリストを念頭に置くのではなくて、国家の建設を最大の目的として見定めなくてはならない。」(『第七番目の百万人』)

「……各自の特色を見分けもせずに、希望する者は誰でも助けるべきなのか? われわれは、この活動にシオニストの国家主義の特色を与え、『イスラエルの領土』またはユダヤ主義に役立つ者の優先的な救出を試みるべきではないのか? このような形の設問が残酷に見えることは分かっている。だが、われわれは不幸なことに、明確な基準を確立しなければならない。

国家建設と民族の再生に貢献し得る5万人の内の1万人か、それとも、われわれにとって負担となる100万人以上のユダヤ人を救うことができるとした場合、われわれは前者の1万人に限って救うべきだ。勘定外として残される100万人が、いかに非難をし、訴えようとも、われわれは、そうしなければならない。」(『ユダヤ機関の「救出委員会」覚書き』1943年度)

●このベングリオンの発言から、シオニストの基本的な目的は、

ユダヤ人の命を可能な限り大量に救うことではなくて、多くの犠牲を強いながら

パレスチナにユダヤ人国家を創設することにあったことがわかる。

●「世界シオニスト機構」議長と「ユダヤ人評議会」議長を務めたナフム・ゴールドマンは、著書『自伝』の中で、チェコの外務大臣、エドゥアルト・ベネスと1935年に会った際に、ベネスから非難を受けた経過を、ドラマチックに語っている。

その際、ベネスが非難したのは、シオニストが移送協定(ハーヴァラ協定)でヒトラーヘのボイコットを破ったことと、「世界シオニスト機構」がナチズムに対する抵抗運動の組織化を断ったことに関してである。

「私の人生には、辛い会談に参加した経験も数多いが、あの2時間ほどに不幸で不名誉に感じたことはない。私は全身のすべての神経で、ベネスが正しいと感じていた。」(ナフム・ゴールドマン著『自伝』)

●「ユダヤ機関」の議長で、「シオニズムはすべてに優先する」と宣言していたシオニスト指導者イツァク・グリーンバウムは、次のような見解を表明していた。

「私は反ユダヤ主義者だと言われるかもしれない。私が『亡命者』を救おうとしなかったとか、私がイディッシュ(東欧系ユダヤ人)の暖かい心を持っていないとか、……言いたい人には言わせて置くが良い。私は、ユダヤ機関に対して、ヨーロッパのユダヤ主義を助けるために30万もしくは10万ポンドもの金額を割り当てろ、などと要求したことはない。私の考えでは、いったい誰が、これだけの仕事を、シオニストに反対する方の運動に対して、やり遂げろと要求したかということだ。」(『破壊の日々』)

「シオニストの事業は、ヨーロッパにいるイスラエルの“余計者”を救うことではなくて、ユダヤ民族のためにイスラエルの土地を救うことにある。ユダヤ機関の指導者は、救出が可能な少数者の選別に関して、パレスチナにおけるシオニストの計画の必要性に応じて行なうべきだという方針に同意した。」(『ベングリオンとシェルトック』)


●ちなみに、このシオニスト指導者イツァク・グリーンバウムの息子はエリエゼルといった。

彼は「アウシュヴィッツ収容所」で非常に有名なナチス協力者だった。

このエリエゼル・グリーンバウムは密告活動およびゲシュタポも驚くほどの残虐行為を行なうことで、そのブロックの指導者に選ばれ昇進していったのである。

 

※ 追記: 

●第二次世界大戦中、ドイツで公然と行なわれたユダヤ人迫害に対して、ヨーロッパの国々もアメリカも、長い間沈黙を守った。第二次世界大戦中、アメリカはユダヤ人に対する入国査証の発給を非常に制限し、ほとんどシャットアウトの政策であった。

明治学院大学法学部教授の丸山直起氏は、著書『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)の中で、次のように述べている。

「アメリカのルーズベルト大統領はユダヤ難民の境遇に同情し、亡命者あるいは難民としてアメリカに入国した多くの優秀なユダヤ人の能力を高く評価し、彼らを通じてドイツ国内の悲惨な状況を把握していた。しかし、移民法を改正してユダヤ難民のために門戸を全面的に開放することまでは考えなかった。

1939年5月、ユダヤ難民を乗せドイツからキューバに到着したものの、アメリカを目前にヨーロッパに送り返された『セント・ルイス号』難民の悲劇ほど、ユダヤ難民に対するアメリカの冷淡さを象徴する事件はなかった。

また、1942年以降、ユダヤ人虐殺の悲報がホワイトハウスに届けられたにもかかわらず、ルーズベルト大統領は積極的な行動に出ようとはしなかった。

1943年10月6日、ワシントンでナチスのユダヤ人虐殺を糾弾する正統派ユダヤ教徒による集会と行進が挙行された際、ユダヤ教のラビ代表とルーズベルト大統領との会見の調整が試みられたが、ルーズベルトは、こうした会談は国務長官が行なうべきであると判断し、ホワイトハウスを訪れたラビ代表に対して、その到着前に外出し会見を回避する道を選んだのであった。

〈中略〉

正統派のユダヤ教団体は、ヨーロッパのユダヤ人を脱出させるため、パスポートやビザなどを偽造したが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちはこうした不正な方法に反対し、自国の移民政策に反してまで気の毒な難民に支援の手を差し伸べる気はなかった。

とりわけ、ポーランドで救援を待ち望む聖なるユダヤ教学者を救うことこそ、何ものにも優先すべきとする正統派ユダヤ教団体と、アメリカ国内世論の動向に神経質なスティーブン・ワイズら米国ユダヤ人社会の指導者たちの対立は深刻であった。

例えば、1940年8月初めにアメリカの主要ユダヤ人団体が参加した会議で、正統派のラビ(ユダヤ教指導者)たちは、リトアニアから3500人のラビ、学生たちを入国させるための特別ビザを発給できるよう国務省に圧力をかけて欲しいと要請したが、スティーブン・ワイズらは、これほど多数のユダヤ人を定住させることは容易ではないとして、アメリカ政府に圧力をかけることに反対したのである。

アメリカのシオニスト運動指導者たちは、ホロコーストの間もパレスチナに将来のユダヤ人国家を建設する計画に精力を傾けており、ヨーロッパのユダヤ人の救済は二の次であった。」

■■■第8章:同胞ユダヤ人を“神に捧げる犠牲”にして建国されたイスラエル共和国


●すでに繰り返し述べたように、ヒトラーの犠牲になった膨大な数のユダヤ人のほとんどはシオニストではなかった。特にポーランドのユダヤ人の場合、ホロコースト前夜には大多数がシオニズムと縁を切っていたし、ポーランドのシオニスト指導者のひとりであったメナヘム・ベギンの政治はポーランドのユダヤ人にはひどく嫌悪されていたのである。

●ヒトラーの犠牲になったユダヤ人の多くは、正統派ユダヤ教徒だった。ヒトラーがユダヤ人を追放しようとし、どの国も引き取り手の無かった時に、シオニスト・ユダヤ人の力はこの正統派ユダヤ教徒たちをドイツから逃れさせ、抗議するには十分であったはずだ。しかし、あろうことかシオニストたちは、第二次世界大戦前には、各国に対して正統派ユダヤ教徒が安全に移民することを禁止するように働いていたのである。

狂信的な異化主義に染まっていたシオニストたちにとって、非シオニストの同化主義者は煙たい存在だったので、彼らを助けるどころか、逆に、邪魔したのである。


●ロスチャイルド家を始めとするシオニストたちは、ドイツからまんまと逃れ、残された貧しい正統派ユダヤ教徒は捨てられた。そしてシオニストたちによって見捨てられた正統派ユダヤ教徒はホロコーストの犠牲者(生け贄)になったのである。

シオニストたちは、何よりも「ユダヤ国家建設」を全てに優先させた。そして、多くのユダヤ人が殺されれば殺されるほど、全世界の同情はユダヤ人に集まり、シオニストによるユダヤ国家建設が正当化されたのであった。自分たちの目的達成のためには同胞さえも見捨てる。それがシオニスト・ユダヤ人たちの本性だった。

そして、人工国家イスラエルの建国という途方もない巨大計画は、一時的にナチス・ドイツの協力をえながら具体化され、ある段階から逆に「ナチ批判」、「ホロコースト批判」を跳躍台にして、第二次世界大戦の廃墟の上に展開されたのであった。


●なお、ナチスが敗北した後に、ユダヤ国家建設の地として再びマダガスカル島を候補にあげたイギリスの植民地担当大臣モイン卿は、シオニスト・ユダヤ人によって暗殺された。シオニストの目的は、あくまで「シオンの地」パレスチナでの国家建設にあり、結果として彼らは、1878年以来、ロスチャイルド家が土地買収を続けてきたパレスチナに、ユダヤ国家を建設することに成功したのである。


(略)

●また、イスラエルの現実に失望してイスラエルを去ったユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツも、著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)の中で、次のように述べている。

「イスラエルの状況を知るにつれ、私は猜疑心の固まりになり、何故ユダヤ人が、という思いが絶望感とともに広がったが、たった一つ確信をもって言えることがあるように感じた。それは『選ばれた民』とか『ユダヤ人の純血性』を信じる時代は終わったのだ、ということだった。そしてそのうち、これらの言葉こそファシズムの常套語だったのだと知るようになった。

ユダヤ人は人種的民族的存在であると考えた人々が、この歴史上に2種類いた。

1つはヒトラーを頂点とする反ユダヤ主義者、もう1つはシオニストである。」


「ヒトラーのニュールンベルグ法は人種差別法として有名だが、そこには『父母または祖父母の一人がユダヤ教徒であれば、その人間はユダヤ人である』と規定してある。

イスラエルの現在採用しているユダヤ人定義は『母親がユダヤ人か、あるいはユダヤ教徒』というものである。そしてイスラエルは宗教法の支配のもとに、いよいよ非ユダヤ人差別を進めた。

これに対してユネスコは、イスラエルを人種差別国家であると非難した。もちろんイスラエルの側はそんなことを気にもかけていない。

ナチスは、同化を求めた人にさえ、『ユダヤ民族』というアイデンティティを与えた。その人々の死と引き換えに。そしてイスラエルも私たちに『ユダヤ民族』というアイデンティティを与えようとしている。そして今度はパレスチナ人の犠牲の上に、である。私はこのような身分証明はいらない。」

●更に彼女は、次のように述べている。

「ヒトラーが権力を握った当時、ドイツのユダヤ人社会に最大の影響力を持っていたのは『CV』(ユダヤ教徒ドイツ市民の中央協会)だった。ドイツに同化することによって問題解決をはかろうという党である。 〈中略〉

一切の妥協を拒絶するファシズムの姿が明確になるにつれ、同化派の影響力は決定的に弱まり、シオニズムの諸党派の力が増していった。ユダヤ人問題の解決をパレスチナへの移民と国家建設という形ではかろうという勢力である。ユダヤ人をドイツの外へ、という点ではシオニストとナチスの目的は一致していたので、シオニストはナチスと交渉し、自分たちをユダヤ側の正統な代表と認知するようにと働きかけていた。」


「当時私の両親だけでなく、世界中のユダヤ人をシオニストの側に押しやる強力な状況が存在していた。

ユダヤ難民の引き受けを渋り、ユダヤ人問題を自国内で解決せずにアラブの国に押し付けたヨーロッパ諸国。そして石油産出地帯に打ち込んだ楔(くさび)としてイスラエル国家を位置付けようとした帝国主義的野心を持つ大国。最後に解放の具体的プロセスを提出することに失敗し、ホロコーストを経たあとのユダヤ人の状況の変化を把握しきれなかった社会主義者たちとスターリンのソ連。これら全てがユダヤ人をシオニズムの方向に向けようとした。」


●また、彼女は、次のように述べている。

「……1981年10月13日、1000人を超える出席者と、100人ものジャーナリストが集まる会場で、私はアラファト議長と握手し、その後このシーンはテレビや新聞で流れた。この日の出来事は私の生涯で感動的な瞬間だった。

しかし私の踏み越えた世界は、単にドイッチャーの言う『非ユダヤ的ユダヤ人』とか『ユダヤ人村の境界を越えた者』以上にタブーの世界であることは、私は心得ておかねばならなかった。イスラエルにとっては、私は『魂を売り渡した裏切り者』ということになるのだから。

しかし私は誰にも魂は売っていない。私は一人の人間として自立を求め、私を束縛してきた全てのものから解放されたいと思った。そしてその過程で、それまで見えなかったものが見えてきた。そして私は自分一人の責任で自分の行動を決定し、YESとかNOとか言ったまでだ。

そしてまた、私は600万人の犠牲者を裏切ったという非難も受け付けることはできない。その反対なのだ。ホロコーストに消えた人々を汚して裏切ったのは、現在のイスラエルの指導者の方ではないか、と私は思うのだ。」

 

 


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■■■第10章:シオニストにとって「同化主義」が最大の敵


●“近代シオニズムの父”テオドール・ヘルツルの提唱で、「第1回シオニスト会議」がスイスのバーゼルで開かれたのが今から100年前の1897年だったが、イスラエル共和国は100周年を記念して、1997年、この年を「シオニズムの年」と名付け、学術会議など各種イベントを行なうなど、民族意識の高揚を図った。

エルサレム市内の大統領官邸で開かれた「シオニズムの年」の開会式典では、ワイツマン大統領はじめイスラエル政府関係者が、今後とも更に多くのユダヤ人をイスラエルに移民させる必要があることを力説した。

●同式典のあいさつでネタニヤフ首相は、全世界に散らばるユダヤ人が現地に“同化”する傾向を見せ、ユダヤ人としてのアイデンティティーを失いつつあることへの危機感を以下のような言葉で表明した。

「ホロコーストの後で、生き残りのユダヤ人の人口は今日までに2400万人になるはずだった。ところが“同化”のため約1200万人を失っている。この数字はヒトラーによって失われた数字の2倍にあたる。」

「シオニズムの最初の50年間は反ユダヤ主義が主要な脅威だった。しかしそれ以降、シオニズムは“同化”の問題と闘うことを余儀なくされている。」

 ●『エルサレム・リポート』誌(9月19日号)の編集長コラムでも、この「同化問題」が取り上げられ、以下のようなデータが掲載されていた。


【1】 現在のアメリカでは濃淡の差はあれ、ユダヤ人としてのアイデンティティーを維持している世帯は44万しかなく、宗教を超えた、つまり非ユダヤ人とユダヤ人のカップル(世帯)はその約3倍の130万いるという。また4歳以下の子供の数(総数)を比較しても、ユダヤ人のカップルのそれより、非ユダヤ人とユダヤ人のカップルのそれの方が上回っている。

【2】 イギリスでも、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)で結婚式を挙げるべきユダヤ人のうち、それを実際に行なう人は3人に1人にすぎないという。また過去30年間で、当初40万5000人いたユダヤ人コミュニティーが30万人にまで減った、とも報告されている。

【3】 スイスでも、ユダヤ人が非ユダヤ人と結婚する割合が60%から70%にも達しているという報告がある。

【4】 ノルウェーでも地元専門家の予測では、現在700のユダヤ人コミュニティーが今後数年以内に消え去ると指摘している、など世界各地での同化現象が顕著になっている。

●また、「世界ユダヤ人会議」が1996年1月に発表した統計によると、世界のユダヤ人の総人口は1350万人で、うちアメリカに580万人、イスラエルに460万人居住しているという。そして在米ユダヤ人のうち、ユダヤ教徒の学校に通っている児童は全体の15%にすぎず、在イスラエルのユダヤ人の35%はシナゴーグ(ユダヤ教会堂)に一度も行ったことがないという。そして、特にアメリカのユダヤ人はユダヤ人同士の結婚が減り、21世紀の半ばにはユダヤ人は1万人くらいになるだろうという大胆な予測まで出ている。


●このユダヤ人の「同化問題」に関し、ある新聞記者は次のように批評している。

「かつては外からの迫害があることで、ユダヤ人は世界各地でアイデンティティーを保つことができた。しかしそれがなくなりつつある今、“同化の問題”がユダヤ人としてのアイデンティティーを脅かしているのは歴史の皮肉である……」  

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