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坂野潤治著『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書、2004年)をご紹介いたしますB(古村治彦の酔生夢死日記)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/864.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 4 月 20 日 01:27:32: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 坂野潤治著『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書、2004年)をご紹介いたしますA(古村治彦の酔生夢死日記) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 4 月 18 日 10:23:58)

http://suinikki.blog.jp/archives/25319490.html

2015年04月19日

D宇垣一成流産内閣について、坂野氏はその重要性を指摘しています。政友会は議会で過半数を占め、それを基盤にして政党内閣を成立させること(政友会の総裁を首相にすること)を目指していました。5・15事件に対する弔い合戦という気持ちもあったと推定されます。そのために、ライヴァルである民政党や民政党が協力した非政党内閣である岡田内閣を倒そうとし、皇道派や新官僚たちと近づいたのです。しかし、「政党政治自体が危機に瀕している」という危機感が政友・民政両党にありました。そこで、出てきたのが、「協力内閣」構想です。これは、政友・民政両党が恩讐を超えて団結するというものでした。そして、具体的には陸軍の長老で当時は朝鮮総督だった宇垣一成を首相にする内閣を結成し、軍部の台頭と政治への容喙を抑えるというものでした。

 宇垣一成は、加藤高明内閣時代に陸軍大臣として、軍の近代化と共に削減を行いました。これは「宇垣軍縮」と呼ばれています。宇垣はそれ以降、陸軍内で「首相として名前が挙がる人物」となりました。陸軍の台頭と政治への容喙を止めることが出来る実力者として、評価を受けていました。

宇垣が首相候補として名前が挙がったのは、検察によるでっち上げであったと後に判明する「帝人事件」で斎藤内閣の総辞職時(1934年)、そして岡田内閣不信任案提出時(1936年1月→岡田内閣による議会解散→2月20日の総選挙で与党的立場の民政党勝利)でした。岡田内閣への高橋是清と政友会穏健派が宇垣を首班とする協力内閣実現の方向で動いていましたが、民政党側が乗り気でなかったこともあり、実現しませんでした。岡田内閣が議会を解散し、民政党は1936年2月20日の選挙で勝利を収め、岡田内閣が続投となりました。そして、6日後に2・26事件が発生したのです。

1936年、2・26事件の発生後、それまで廃止されていた「軍部大臣現役武官制(陸海軍大臣は現役の大将と中将に限定する。予備役は認めない)」を復活させました。軍部大臣現役武官制は長州派で陸軍の大物であった山県有朋が導入していたのですが、これを薩摩派で海軍の大物であった山本権兵衛が廃止しました。これに対して宇垣一成は反対し、一時陸軍中央から左遷されていました。陸軍はこの軍部大臣現役武官制を楯にして、「適任者なし」として陸軍大臣の候補者を推薦しませんでした。自身が導入に反対した「軍部大臣現役武官制の廃止」が残っておれば、自分が陸軍大臣を兼任していれば組閣ができたことでしょうが、人生は何とも皮肉です。また、宇垣が陸軍大臣時代に進めた「宇垣軍縮」が彼個人にとっては大きな吹き戻しとなって戻ってきてしまったのです。

結果的に、陸軍の反対で組閣ができなかった宇垣一成に代わって、同じ陸軍大将の林銑十郎(宇垣は朝鮮総督、林は朝鮮軍司令官で共に朝鮮半島に赴任していた経験を持っています)が内閣を組織しました。林内閣は、重化学工業の振興を決定しそれを軍事力増強につなげることにしたのです。限定的な「狭義国防」で政友・民政両党との間で妥協をすることで政権を運営しようとしました。「広義国防論」に含まれていた社会改革を行わないということで妥協しようとしました。「狭義国防」論を唱える林内閣に対して社会大衆党は協力する意義を失いました。その結果、社会大衆党は林内閣の下で反軍部・反林政権の立場を鮮明にしました。林内閣の予算案に対して、政友・民政両党はかなり突っ込んだ質疑を行い、林内閣側としては両党に妥協的な姿勢を示したのにという不満が残りました。そして、予算成立後に議会を解散しました。これを「食い逃げ解散」と言います。

 林銑十郎が議会を解散したのは、「政党に反省を促す」という理由であった訳ですが、具体的には林内閣に対して与党的な立場を取った昭和会・国民同盟・東方会の議席を伸ばすことにありました。しかし、結果は、与党的な立場の三党の議席を伸ばすこともできず、政友・民政両党もそこまで議席を減らすことはありませんでした。この選挙で大躍進したのが社会大衆党で議席を36に倍増させました。林内閣は解散の目的を果たせずに、総辞職となりました。

E社会大衆党は、戦前の選挙で大躍進を果たしました。これは都市部の有権者からの支持を集めたからです(都市部の有権者を支持基盤とした民政党は支持を落としました)。1936年の選挙では、都市部の有権者が社会的な不平等の是正と軍部独裁に対する批判のために社会大衆党に投票をしたと著者の坂野氏は分析しています。

しかし、前述したように、社会大衆党は、社会革新を含む広義国防論に基づいて軍部(特に統制派)を支持していました。それなのに軍部に対する批判票が社会大衆党に向かったのはおかしな話です。それについて、坂野氏は 林内閣において、軍部と政友・民政両党が軍事力増強だけを目指す「狭義国防」論で妥協を図ったからだと述べています。

政友・民政両党は、社会革新を好まず、広義国防論を唱える軍部に反対でした。そのために「粛軍」「軍縮」の立場を取っていたのですが、林銑十郎内閣で、教義国防論に転換することで、軍部と政友・民政両党の妥協が成立したのです。軍部にしてみれば、資本家や実業家が経営する大企業がなければ大砲も戦車も軍艦も作れない訳ですから、妥協することになる訳ですし、「軍隊は軍事のことに専念する」というのは当然の原則ですから、社会革新なども方便でしかないのです。それに対して、「裏切られた」社会大衆党は、軍部を批判して、批判票を集めることに成功したのです。

 坂野氏は、この後、合法的社会主義政党である社会大衆党が勢力を伸張していけば、官僚機構も社会改革を重視する社会民主主義時代へと動いていったに違いないと主張しています。そして、戦争に対して批判的であった財界の意向を受けた政友・民政、広義国防論を放棄した軍部と袂を分かった社会大衆党が揃って議会政治を通じて戦えば、もしかしたら日本を大きな絶望へと叩き込んだ戦争を戦わずに済んだかもしれないと述べています。そして、社会民主主義勢力が戦前の日本において伸長する兆しがあったことを坂野氏は指摘しています。現在の状況を考えると、これは何とも「羨ましい」ことだと私は思います。

Fこの時期、世界的に見てみると、反ファシズムの「人民戦線」結成が叫ばれていました。イタリアやドイツの成功に触発された各国のファシズム勢力に対して、「大同団結」で反ファシズム的な諸勢力を糾合すべきだという考えがありました。日本でも非合法化され、弾圧されていた共産党が、ソ連のコミンテルンの指令を受けて、人民戦線を結成すべきだと主張していました(後にスパイだったことが分かり除名された野坂参蔵など)。またインテリ層が読む雑誌『中央公論』や『改造』などでも人民戦線結成についての記事が発禁になることなく掲載されていました。著者の坂野氏は、私たちが抱きがちなイメージである「軍部が弾圧したために、言論の自由は既になかった」という虚構に対して、「そんなことはなかった、ある程度はあった」ということを主張しています(もちろん現在のような自由度はなかったとは当然ですが)。

 反ファシズムの動きですが、日本において問題となるのは、合法的社会主義政党である社会大衆党の立場です。他国であれば、共産主義者、社会主義者、自由主義者といった勢力が大同団結して、ファシズム勢力に対して人民戦線を作る訳です(フランスなど)。しかし、日本の場合は、コミンテルンの指令を受けた共産党は人民戦線を主張するのですが、社会主義政党である社会大衆党は人民戦線作りに反対するのです。かえって、「自由主義」「議会政治」「政党政治」を守るという立場から政友・民政両党の方が人民戦線作りを容認する立場になります(フランスにおける自由主義者の立場)。

 しかし、共産党と政友・民政両党が直接つながることはできません。そこにワンクッションとして、社会大衆党が入ってこそ、広範な人民戦線ができるのですが、ファシズム的勢力である軍部とつながりを持つ社会大衆党が人民戦線作りに反対している状況では、人民戦線作りは不可能でした。

G本書を読んで、私はこれまで疑問に思っていたことがいくつか氷解しました。社会大衆党という社会主義政党の麻生久が大政翼賛会に進んで協力したのか、とか、戦後、岸信介が巣鴨から出てきてまず日本社会党に入党申請して断られたということがあったがどうしてこういうことが起きたのかと不思議に思っていました。しかし、本書を読むことで、戦前日本の合法的社会主義政党であった社会大衆党が「社会革新」の点から、軍部の「広義国防論」に共鳴し、革新官僚たちとも協力関係にあったということが分かりました。

また、近衛文麿が始めた「革新運動」である新体制運動やその結果として生まれる大政翼賛会に麻生久が協力的であったのも当然ですし、革新官僚の親玉であった岸信介が社会大衆党の流れを汲む日本社会党に親しみを感じたのも当然でしょう。また、麻生久の息子である麻生良方が戦後社会党に参加して代議士となりながら、1965年の民主社会党の結党に参加していることも頷けます。自民党よりも右と言われ、日本の核武装まで容認していた民社党は麻生久の流れでもあったのでしょう。

 本書『昭和史の決定的瞬間』は、日本の保守勢力と革新勢力が交差し、捻じれている部分を歴史的に解明し、分析したものであり、戦前の歴史について理解したい人にとっては必読の良書です。

(終わり)  

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コメント
 
01. 前田クラッカー 2015年4月20日 14:58:34 : amXXq9lfXGKMY : PtgED7cDbk
坂野潤治氏ご本人の講義を受けたことがあります。
丁度昭和天皇死去の時、他学部(文学部の国史特殊という科目だったと思います)
の講義が単位になるので半期でしたが、ゼミの先生(政治学)の薦めで受講しま
した。ご自分の筆になる原稿用紙の束を垣間みながらお話しされるのが印象的で
した。また、原典や引用資料の原本等、その時は伊藤博文の「憲法義解」や家永
三郎の「植木枝盛研究」を高々とかかげながら講義をされたのを鮮明に覚えてい
ます。あの伊藤隆氏の弟子でもあるが、右にも左にも旋回せず、資料を読み込み
淡々と書をものにしていく。全学連の闘士であったことや、西部邁とも同士であ
ったことなどは、後に知りました。ヒロヒト死去の時に国民が皇居に記帳しに蝟
集する有り様を「目をつぶっていれば見えない」といい、なにより講義の合間に
おっしゃった「こんなに豊かになったのだから歴史三昧もいいのではないか」と
いう言葉をなぜか今でも覚えています。
近代史板いいですね。

02. 2015年4月20日 18:04:00 : w3M1BHSquE
>またインテリ層が読む雑誌『中央公論』や『改造』などでも人民戦線結成についての記事が
>発禁になることなく掲載されていました。
>著者の坂野氏は、私たちが抱きがちなイメージである「軍部が弾圧したために、言論の自由は既になかった」
>という虚構に対して、「そんなことはなかった、ある程度はあった」ということを主張しています
>(もちろん現在のような自由度はなかったとは当然ですが)。

確かに、↑ このあたりは重要です 「虚構」とまで言ってしまうのは言い過ぎですが
マスコミが 常に言い訳のように使ってきた【軍部の弾圧】は、あくまでも昭和15年の大政翼賛会からであり
日本の国が戦争への道を走り出した と言われる昭和ひと桁の頃は、ある程度自由な報道が出来たのです

つまり、軍部や体制の圧力に関係なく マスコミは勝手に軍国主義励賛に走って行ったのです

あの戦争を ふり返り反省する事は大事な事ではありますが、何でもかんでも軍部のせいばかりにし
自己批判の姿勢が あまり感じられないマスコミによる 一方的な反省では
本当にあの悲惨な戦争の歴史を繰り返さない確証が得られるのかどうか 疑問が残ります

もちろん、「実行犯」は軍部です だから軍部に最も大きな責任が有る事は間違いは有りません しかし
「共犯者」の存在が有るのです これこそがマスコミの役割だったのです
この部分を 正確に考察しなければ、本当の意味での反省にはならない訳で
「いつか来た道」 を、ふたたび歩み出す可能性は 無きにしも非ずとしか言えません

【日本国民を軍国主義励賛に走らせた最大の責任はマスコミに有る】

決してそれは 軍部や体制の擁護ではなく、同じ事を繰り返さないためにする「再発防止策」 なのです

1、満州事変の発端となった柳条湖事件は 関東軍の謀略であった事を 事前に聞かされ知っていた
にも関わらず、張学良軍による仕業であると 軍部とグルになって国民を欺いたのは新聞マスコミです

2、満州国建国が国際法違反とされたのを受けて 国際連盟に脱退状を叩き付けた 時の外相 松岡洋右を
当の松岡でさえ困惑するほどの 英雄扱いをしたのも新聞マスコミの責任である訳で
この後、松岡は 「昭和天皇が最も忌み嫌った男」 と、呼ばれる 大衆迎合のパフォーマンス男と
なっていき、歯止めが利かなくなる軍国体制を象徴するような人物となるのです
(実際、後に日本が外交的勝利と言えたかもしれない“日米諒解案”を潰してしまうのも松岡の仕業でした)

3、5.15事件において、決起した海軍将校たちに対して 殺人を犯し本来ならば極刑に処すのが当然なのに
国民から山のように提出された助命嘆願書によって 全員が微罪になってしまった経緯も
新聞マスコミの影響は絶大だったのです
そしてこれ以降、「反乱を起こしても大義が有るなら微罪で済む」 という前例を作ってしまったのです
これに一転して2.26事件では、新聞報道に規制を加えたため 国民から助命運動は起らず
首謀者達は皆 銃殺刑に処せられております。


以上、これはほんの一部で 挙げればキリが無いほど 新聞マスコミの影響と責任は絶大だったのです
それは決して、軍部や体制を擁護するためではないのです 最大の責任は軍部と体制に有りますが
あの悲惨な戦争の歴史を 二度と繰り返さないための“再発防止”としての追及としては
マスコミの責任というものを、絶対に忘れてはならない と思うのです。


3. 2019年6月30日 21:23:59 : bsgOlDN0SM : cy5JbDV2bkF1VEU=[10] 報告
五月さんは最近登場しないがどうされたのかな。たそがれのプロカメラマンや神輿の黙示録を読んで、古事記、日本書紀を初めて読んで、天才的と思った。

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