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天皇の陰謀 翻訳にあたって 献辞 はじめに 著者から読者へ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/492.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2013 年 9 月 26 日 08:44:04: tZW9Ar4r/Y2EU
 

翻訳に当たって

 ●脚注 : 著者は以下の二種類の脚注を入れています。 
1. 各パラグラフの直後に注記されているもので、文中に「(#)」の記号で示されています。
2. 膨大な情報の出所や記述の根拠を表すために用いられるもので、文中に「(1)」と番号で示し、その説明は、巻末にまとめて述べられています。この翻訳サイトでは、それぞれをリンクさせてありますので、番号をクリックしてください。
 ●訳者の判断で、以下の二種類の訳注が挿入されています。 1. (訳注) として、やや長い脚注を、そのパラグラフの後に挿入。
2. 文章の途中に、〔 〕に入れて、短い訳者のコメントを挿入。
 ●天皇に関連する特殊用語はできる限り用いず、原文にそった表現を用いています。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_01_honyakuniatatte.htm

献 辞

アメリカ海兵隊員ジャックと、日本人子守り きのさん
へ捧ぐ。


二人は、文化の衝突、避けられたかもしれない野望と
誇り高き欺瞞、そして両サイドの多くの人々の怠慢な
無知によって、その命を失った。


http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_01_kenji.htm

は じ め に


私の手元にあるこの著作は、私もかつて司法の領域において取り組んだことのある、ある歴史についてのさらに詳しい再調査である。オーストラリアのクイーンズランド州の主席判事であり、後にオーストラリア最高裁判所の判事を勤めた私は、1946年5月から1948年11月まで、東京に設置された、極東国際軍事法廷とよばれた11ヶ国からの11人からなる判事団を率いた。日本の新聞ですらその公平さを認める、その2年半にわたる審問の後、日本人指導者25人に対し、侵略戦争をくわだて、その部下によってなされた残虐行為という戦争犯罪の責任において、死刑ないし投獄刑が科された。
 デービッド・バーガミニが著した『天皇の陰謀』の原稿が私のもとに郵送されてきた時、私はすぐさまにそれを紐解いたのだが、著者のジャーナリスティックかつ学研的な資質や資料文献の幾年にもわたる調査を発見し、その著者に多くの期待をいだいた。今、彼の努力の結晶を読み終え、私は、期待をはるかに上まわるものを発見している。
 『天皇の陰謀』は、偉大な作品である。私はこれまで、込み入った状況を興味深いストリーに仕上げたものや、論理性と明晰性をもって、歴史的経緯についての斬新な論文にまとめたものといった、いくつかの歴史物語を読んできた。人々の営為としての歴史を扱う上での本著者の主張は新たなスタイルのもので、複雑な社会的、経済的圧力による陰鬱な作用という視点とは対極に位置する。この著書に、関係者による適正な評価が定まるには、しばらく年月を要するだろう。この著作にあらわされた半分を越える情報は、英語圏の世界には初めて公開されるもので、そのいくつかの解釈については、物議をかもすものとなろう。しかし、この著書は、もっとも重要で、かつ、東洋史における西洋人の視野に大きな見直しを与えるものとなることは疑いない。
 かなりの程度、『天皇の陰謀』は、私が率いた極東法廷における発見を補完するものである。つまりこのことは、そうした発見が、検察側によって示されたものよりいっそう確かに、有罪の証拠になりうることを表している。これは、審問が日本の降伏のわずか8ヵ月後の1946年5月3日に始まり、著者の資料の大半は1960年以前には入手不可能であったことを思えば、当然のことである。法廷の判事は、存在する証拠の多くが、検察側によっても弁護側によっても提示されえず、検察側も弁護側も未発見なものがあることを認識していたが、法廷は、調査や取調べを命ずる自身の力を持っていなかった。
 本書は、天皇が果たした役割を掌握した法廷がつかんだ事実から口火をきっている。裕仁の取り巻きの日記より得られた見事なばかりの詳細をもって、バーガミニ氏は、天皇が、1941年の米国への攻撃ばかりでなく、その内部的扇動の許可にも責任を負うと考えた。私は、この点について、天皇がその法廷の審問対象とはなっていなかったがゆえに、判事としての権限に抵触することなく、コメントをつけることができる。
 その法廷は、英米式の審問方式をとっていた。その方式は、数世紀にわたって、英語圏の国では有効に機能しており、公正な結果が期待されていた。しかし、英米式の法理論においては、告発をおこす権利は、検察側のみに属していた。法廷の検察は、日本の指導者を絞り込んで告発したが、ことに天皇は、その法廷の審問対象からは除外されていた。
 審問が開始される前、私は、専制君主である天皇は、一見して明らかに、戦争の許可に責任があるとする見解をもち、私の政府の要請にもとずき、そのように意見をのべた。そして、もし天皇が告発されたら、そのような予断の持ち主であるがゆえ、私は判事の地位を辞さねばならない、と付け加えた。審問で明らかにされた証拠は、私の事前の判断を支持しており、天皇は戦争に許可を与え、したがって、それに責任を負うことを示していた。
 天皇についての疑問は、被告への処罰を与える段となった際、重要な問題となった。被告が命令に服従する部下でしかない限り、そして、その指導者が審問を逃れている限り、処罰の決定にあたっては、強く、酌量すべき情状が考慮されなければならない。検察側の証拠には、天皇は戦争を不承不承に承認したと解釈するよう余地が残された。私は、こうした証拠の解釈に完全に納得してはいなかったが、それは何がしの検討の価値は持っていた。
 天皇の内大臣、木戸侯爵の日記の、1941年11月30日の箇所に、天皇は戦争をいくらかの躊躇をもって許可したと記録していた。それはまた、この躊躇は、彼の平和への固執によるものではなく、敗戦への恐れによるもので、天皇は、海軍大臣と海軍参謀長による「全面的保証」を求めることによってその恐れを晴らしていた。
 1941年当時の首相で、また同法廷の被告の一人、東条元帥は、最初、天皇の意思には決して反したことはないと証言し、そしてさらに証言席に立ち、戦争を許可するよう天皇を最大の努力をはらって説得したと付け加えた。だがこのいずれの発言も、木戸侯爵の日記の趣旨に、大きな付加を与えるものにはならなかった。
 1936年当時の首相で、軍部過激派による暗殺をかろうじてまぬがれた岡田海軍大将は、天皇は平和の人だとする趣旨の証言を行った。被告席に天皇がいたなら、岡田の証言は、天皇の本来の性格に触れるものとして、刑の軽減に役立ったであろう。
 天皇が有罪か無罪かについての判断は、この法廷の対象外のことであったので、そうした断片の証拠は付随的なものだった。それでも、検察側は、告発されている犯罪を始めるにあたっての被告の権限について、疑問をなげかけるきっかけとなった。不公正の根を取り除くため、私は、どの被告にも極刑を科さず、代わって、日本国外のしかるべき場所での、厳しい条件での投獄を求めた。しかし、被告のうちの七人には絞首刑がくだった。
 私は、死刑が明らかな過剰とは判断できなかったので――オーストラリアの最高裁で採用される上告の審査基準にてらし――、自分の異論を主張せず、死刑あるいは投獄との判断が決まった。
 『天皇の陰謀』は、松井石根の絞首刑がありえた除外として、そうした判決のいずれもが誤判決ではなく、死刑となった者らは、ほしいままの殺人や野蛮行為の防止を怠ったことを悔いていたとしても、その責任があったことを再び確証したものである。天皇自身については、米国と連合軍それぞれの政府の高度な政治レベルにおいて、審問せずという判断に達した。天皇のケースに関するオーストラリア政府よりの求めにも、私は、政治的、外交的レベルにおいて取り扱われるべきであると助言した。
 民主的政府の連合軍が、生命や資産を費やして専制政府に対する戦争をおこし、その結果、その政府の専制の主をいまだその指導者の地位に残すというのは、実に奇異なことと思われる。しかし、裕仁は、単に個人であるばかりでなく、象徴であった。個人的にはとがめられるべきではあったが、しかし、彼は、その国全体の精神的体現であった。1945年、日本人の大多数は、宗教的信条として、天皇と日本は不可分で、共に生きるか、共に死すべきであると信じていた。
 私が東京法廷の席にあった30ヵ月の間、日本の君主を案じそして尊敬する証言と、そのケースを弁護する熱心さと正直さに、私はたびたび感動させられた。私は幾度となく、1941年に日本が戦争にうったえたことを告発することが正しいのかと自問した。日本は九千万人の人口をかかえる小国で、しかもその15パーセントしか耕地はなく、まして、外からの厳しい経済封鎖をうけていた、という弁護側の主張に、私は、おおくの正義と酌量の余地を覚るようになった。米国や英国なら、そして米国や英国の国民なら、そうした状況に、どう反応したであろうかと考えた。そして私は、一世紀前、ロンドンの法曹協会で、ダニエル・ウェブスターが行った演説を思い出した。この著名なアメリカ人法学者は、小国イギリスが偉大な帝国に拡大したことに、以下のような言葉をもって喝采をおくっていた。

英国の朝の鼓動は太陽の栄光とともに始まり、時の女神を友とし、軍事的威風もつ英国の不断の血統は地球をおおう。

拡大は、そのすべてが、平和的交渉の結果によるものではないのである。
 20世紀になるまでは、戦争に訴える権利は、敗戦の恐れによる抑制はあるものの、あらゆる国家によって実行される主権のひとつであった。敗戦国は、金あるいは領土による賠償を払い、勇猛果敢という荒々しいルールが、国際的な正悪の判断に持ち込まれていた。しかし、第一次世界大戦の後、列強国は、誰が戦争を開始したかを判断するさいに用いられる、戦争行為の基準や国際法の原則にそうよう努力するようになった。そして1928年には、63カ国が、自衛を除き、手段として戦争に訴える政策を有罪とするパリ条約に調印した。日本は、こうした諸国のひとつであった。しかし、日本政府は、署名国に、日本は帝国君主の名において署名するのであって、他国のように、国民の名においてするものではない、と断言したのであった。
 パリ条約は、もしある国が同条約を犯して戦争を始めた場合、署名国の戦争指導者が個人として責任をもつと明確に規定はしていなかった。著名な国際的法律家の幾人かは、この条約は個人的責任を科すものではないとの見解を示した。しかし、私は、違反しても個人は罰せられない国際法に署名したという無益を63カ国に帰させることはできなかった。ともあれ日本は、1945年9月2日、裕仁天皇に代わって署名された降伏文書のなかで、連合国が国際法に反する犯罪として、日本の戦争指導者を個人として訴追する権利があることを明確に認めた。天皇の内大臣、木戸侯爵の1945年8月の日記には、裕仁は、「戦争犯罪」が戦争にかかわる、彼を入れたすべての人を含むことを理解していた、と記している。
 簡潔に言って、以下が東京法廷が始まった段階での法的位置であった。つまり、もし日本に、パリ条約および署名した降伏文書に言う侵略戦争の罪があるとするなら、政治的、軍事的、およびその外の指導者は、個人的に責任が問われうる。その際の唯一の弁護は、それが「自衛」であったかどうかである。同法廷は、この弁護を取り調べ、それを拒否し、自衛は不成功に終わった。日本は、タイやフィリピンといった国を、日本によって脅かされたわけではなかったと反論した。要するに、日本がおこした戦争は、その当然たる目的が賠償や領土割譲であるものとしての、単なる国の行為ではなかった。それは、その国の指導者が犯罪者として罪をおう、国家の不法行為であった。
 2年半にわたる、賛否両方の証言の後、同法廷もそのように判断した。温情ある判決として、情状酌量された25ケースのうちの18ケースに、投獄のみが科された。そのほかの7ケースには、証拠にのっとり、被告は、侵略戦争ばかりでなく、よく統制のとれた日本軍部隊を、戦闘区域以外の場所での、略奪、強姦、殺人に加担することを許す指導を行ったという面でも責任を負うとの理由で、極刑が下された。
 文章上の表現はないものの、天皇の訴追なくして、日本の指導者の死刑判決をすべきでない、というのがバーガミニ氏の見解である。私は、たとえそれに同意しないにせよ、その見解に共感を抱く。バーガミニ氏の見方では、天皇は、現実に対する、理論的で、科学的で、研究没頭的な理解力を持っていた。氏が言っているように、天皇はあやつり人形ではなく、有能でエネルギッシュな人物で、力強く、知的な指導者であった。しかし、天皇は、彼に仕える大臣たちの上にそびえる世界に暮らしていた。彼は、善良な国民のために、国を愛し、自己犠牲の精神をもって行動しているかのようであった。彼は、タカ派の役を演じて、1941年以前の数十年間、西洋に対する戦争を企てたかもしれなかった。しかし、私は、裕仁が1946年から48年の間に被告席にあったとしても、他のほとんどの日本の指導者のもつ人格より、より高いものを見出していたかは疑わしい。いみじくも、裕仁の価値は、今日のこの国の地位より出てきているもので、彼の治世のもと、戦争と敗戦を克服し、世界第三位の産業国となったのである。
 共犯者に不利な証言をする犯罪者、あるいは逆に、法秩序を守ろうとする犯罪者は、常に寛大な扱いを受ける。同じことが裕仁にも言える。彼は、告発の淵からのがれ、日本の敗戦の屈辱を、アジアの安定した国家へと変えることによって生き延びた。彼は、最終的には核攻撃へと至った敵意を終了させた絶対君主として、自らの権威を意義付ける。だが、広島と長崎での原子爆弾の炸裂による衝撃にうろたえた日本であるがゆえに、彼はそうあれたが、バーガミニ氏が白日のもとにさらしているように、1945年8月14日から15日の夜間、皇居でおこった奇妙な出来事があばかれた場合には、彼はおおいに個人としての危険に遭遇しただろう。
 バーガミニ氏は、裕仁が、日本をアジアを征服する構想と謀略に導いたと見るに充分な論拠を提示している。今日の環境のもとで、天皇は救済するに値するとする私の見方は、シニカルで手段優先的なものだ。氏の、天皇への根拠ある賞賛も同様であろう。また、トルーマン、チャーチル、アトリー、スターリンという政治家たちの異質な見解が一致して天皇に免罪を与えたのも、同様であろう。
 裕仁は日本人である。彼は、他の国民からは孤立した、数世紀にわたって引き継がれてきた、奇異に狭量な世界で育った。人類学者、詩人、牧師、外交官、それぞれがその専門の分野で、日本の社会が独自の論理と審美感をもっていることを発見してきた。今、バーガミニ氏が、長期の資料調査の後、そうした世界の政治的側面を提示している。彼は、それを明晰な西洋用語で行っているが、日本的価値観を表現することに成功している。氏の本を読み終えて、私は、宮中で成長したどの日本人も、裕仁がしたことをしようとしても、それをうまくは成し遂げられなかっただろうと、確信を持たされた。端的にいって、戦争をこころみ、ほぼそれに成功しかかった裕仁は、敗戦の教訓から利益を得るにも、また、彼の人民を新たな方向に率いるにも、他のどの日本人よりも秀でていた。
 読者をこうした理解へと導きながら、バーガミニ氏は、私の知る限り、新しい日本についてのリアリズムを提示している。一方で、氏は、冷血で抜かりのない策謀者という戦時下の日本人への嫌悪を否定している。その他方、氏は、狂信的で感情的な失敗者としての日本人という戦後の弁明を遺憾としている。バーガミニ氏の見解では、日本人はつねに理性的で、所有するわずかな物的資源を活用して、世界を恐れさせることに成功してきた。また同時に、日本人は両親と子供を愛し、生活の平安と快適をもたらす生き方のために奮闘してきた。そうして、床に畳をしき、熱い風呂に入り、障子を通した照明を用い、大根の漬物と炊いたご飯を食してきた。東京に何年もいたが、私は、こうした日本式慣習を何も取り入れなかったが、バーガミニ氏は、私にそうすればよかったと、ほとんど思わせるばかりとしてくれた。氏の著作を読みながらそれに釘付けとなり、私は自分が彼の物語の主唱者となっていることを発見していた。
 氏の日本人の価値観とその業績を評価する主張がゆえに、判断の曇りや弁明を抜きに、バーガミニ氏は日本の歴史を再解釈しなければならなかった。氏の著作は、紀元50年の出来事についても、1945年のそれについても、同じく新鮮な考えを提供してくれている。私は、氏の洞察力が、極めて首尾一貫しており、強い説得力を持っていることを発見した。一言だけ言っておきたい。「読者の諸君、読み進みたまえ」。

 W.F.ウェッブ
  オーストラリア、ブリスベンにて


http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_03_hajimeni.htm


著者より読者へ

「もちろん、日本が勝つさ。」  
 「日本人は清潔だけど、中国人は汚い。日本人は勤勉だけど、中国人は物乞いだ。日本人は機械をつくるが、中国人はそれを壊すだけだ」と私は言った。
 「じゃあ言うけど、お前は血生臭いナチだ」と、英国人の少年が言い返した。こうしてわれわれ二人は、その遊び場で取っ組み合いとなり、灰色の半ズボンと制服のブレザーを土まみれにし、さらに、一週間前の日本軍の最初の空襲以来積み上げられていた土嚢に、頭を打ち付けあっていた。
 それは、1937年の10月のことだった。われわれは、中国の中心都市、漢口〔今の武漢〕にある小さな英国男子校の9歳の生徒だった。それは、漢口私立学校での、私の初めてのけんかで、その後二ヶ月、同じことが原因で、クラスの他の生徒とも、何度もけんかすることとなった。私は日本生まれで、その一年前の家族の移転とともに、中国に連れてこられていた。日本は中国に侵略を開始し、いまや日本軍部隊は、中国の首都、南京に向け、進撃を続けていた。
 そのほぼ一年後の1938年9月、私は、中国の聖山、廬山にある、草履をはき、お経を唱える仏教僧侶が寺として使っていた洞窟の入り口に、父といっしょに座っていた。夏のシーズン、廬山――漢口から揚子江を南京方向に半分ほど下ったところにある――は、西洋人たちの避暑地となっていた。父と私は、双眼鏡を通じ、1,500メートル眼下の、日本軍の前線を見下ろしていた。その距離からでは、日本軍兵士の一人ひとりがようやく識別して見えた。彼らは、中国人の農家に報復攻撃をしかけており、住民を銃剣で突き、家屋を焼き払う作戦を展開していた。その煙は空をおおい、雨の日も晴れの日も、平和の日も戦の日も、休まず働く山麓の炭焼きの煙のたなびきをも飲み込んでいた。その翌日には、私たちのいる山頂部へと、あまたの難民が押しかけようとしていた。その多くは親を失った子供たちで、中には、わずか数歳年上の姉に背負われたひどい銃剣創を負った幼児も含まれていた。またその夜には、山の頂上に陣取る中国人ゲリラが、下界への突撃を行い、幾つかの日本人の首を竹ざおの先に突き刺して持ち帰り、勝利の行進を行おうとしていた。
 もはや私は、日本人びいきではなくなっていた。私が少年へと成長する間、私の周囲で接した、物静かで、思慮深く、思いやりがあって親しみのもてる人々は、いま、おぞましくも、また、もっとも不可解にも、変貌をとげていた。ここ戦場では、日本兵はただ戦闘をしていただけでなく、えばりくさって人の横っ面を張り飛ばし、飢える人から食料を、家を失った人から寝具を、貧乏人から銅貨を徴発し、少女を強姦し、妊婦の腹を裂き、赤ん坊を空に放り上げて銃剣で突き刺し、拷問による告白以外の真実を認めず、その統治は脅迫以外の手段を持っていなかった。私は、どうして日本人がそのようなことをするのか理解できなかったが、やがてそうした日本人の行為を、当たり前かのごとくみなすようになっていた。父の友人たちは、それを明らかな「日本人の劣等感」のゆえとしていた。近くに住んでいた中国人将軍は、それは日本の指導層に責任があると言っていた。彼によれば、日本は世界を征服しようと望む尊敬すべからぬ天皇によって統治されていた。私は、この将軍の見方を、そのシンプルさゆえに、受け入れていた。
 1939年の初め、私の家族と他の西洋人は、廬山の山頂部から避難し、日中の前線を通過し、上海に向かう日本船に乗った。揚子江を下る三日間の航海の間、日本人の売店は、パン、バター、塩漬イワシ、コーヒーのみを提供していた。私は、船内には、豊富な日本食があることを見つけ、調理室の中で、コックや衛兵といっしょに、ご飯や醤油、たくわんなどをいっしょに食べるようになった。私は、日本兵が、記憶にあるように、戦場以外ではけっこう朗らかで、分別のある人々であることを発見していた。その多くが、私の父が建てた東京の聖路加病院を知っていた。彼らは、父が日本の建築技術に貢献したことを、真に感謝していたようだった。


 1941年のクリスマスの二日後、私はふたたび、ある山の頂上に家族とともにいた。今回は、フィリピンの避暑地、バギオで、相変わらず、スーツケースのみで暮らす難民であった。われわれは、他の300人ほどの米国人の一団として、地元のアメリカンスクールで、日本軍によって捕らえられ、公式な捕虜となるべく、事態を待っていた。大工として、私の父に仕えた一人の現地日本人移民は、私たちが床に寝具をしいて仮り住まいしていた校長宅を訪れ、いかにも丁重に、いよいよ日本軍が到着したと告げにきた。われわれは、それを迎えるために、学校のテニスコートに集合した。
 二台の武装車両を先導とした一台の宣伝カーが、ほこりのなかでキィーと音をあげて止まった。軽機関銃がいっせいに向きをかえ、われわれを捕らえた。一人の日本人メソジスト派司祭がその宣伝カーから飛び降り、長い説教を始めた。日本軍の果敢なる働きによって、アジア人によるアジアがついに実現した、と彼は宣言した。われわれは、大東亜共栄圏の捕虜であった。「銃を放棄しなさい」と彼は言った。われわれの代表者は、すでにわれわれはひとつの銃も持っていない、と彼に告げた。だがその司祭はわれわれを信用していなかった。彼は、部下に、捜査し、もし武器を発見した場合、その者を射殺せよと命じた。そしてさらに、ひとつの銃ごとに、十人を射殺すると威嚇し、遂には、「もし我々が銃をひとつでも発見したならば、全員を射殺する」と宣言した。
 2年生の少年が震えながら空気鉄砲を差し出し、「お母さんを撃たないで」と泣きながら言った。武装した日本兵が一斉に笑い、わたしたちを安堵させた。司祭はしかめ面をしたままその場を立ち去った。
 われわれは学校の宿舎に集められていた。日本軍がバギオの町を平定し、その宿舎を拘禁の場と決定するまでの2日間、我々は空腹のまま放置されたが、苦悶からは解放されていた。13歳の私は、たとえ戦場にあっても、日本兵は、子供に対してなんらかの好意を示すことがあるものだということを感じとっていた。
 さらに私を驚かせたことに、中国においての日本の捕虜とはまったく違って、私たちは、銃剣ではなく、言葉をもって扱われていた。日本人の野蛮さは、上から命ぜられたことへの仕方のない服従によるものなのだろうか? この私の疑問は、数日後、在外中国人商人たちが、隣の宿舎に拘禁された時に、その答えがえられるところとなった。我々を見張っていた同じ日本兵が、ほんの数時間のうちに、その中国人の一人を柱に縛りつけ、他の同胞の面前で、容赦なく殴打したのだった。そこで私がさとったことは、中国人はアジア内部の問題であるのに対し、私たちは西洋という外部問題に分類される事項なのだということであった。


 われわれは、最終的には、かつての米軍駐屯地に落ち着くこととなった。そこにあったのは、一日にどんぶりに二杯の米と野菜の薄いかゆで生きてゆくことと、宿舎の床の一畳の広さの上での共同生活に親しんでゆくことであった。
 ある日のこと、一人の日本衛兵がやってきて、われわれの管理委員に、収容所の中での学校を開設する用意のあることを告げた。拘禁されている誰もがそうであるように、委員会メンバーも、何か面倒な事ならなければと心配していた。当面の生き抜く問題に関心が集中し、誰もそうした計画に関心すら示さなかった。しかし、衛兵は執拗であった。彼は、収容者の中で、最年長の少年たちに、本を持ってくることに手を貸すようにと働きかけた。そうして彼は、5人の少年をトラックに乗せ、防水シートでおおって秘密裏に守衛所を通過し、戦争の始まる前、私たちが学んでいたブレント校へと向かった。
 「日本帝国陸軍管理施設。略奪者は銃殺」との警告が示され、学校は閉鎖されていた。私たちは閉鎖をやぶり、教科書をトラックに積み、収容所に持ち帰った。教育を受ける私たちの生来の権利は否定されているものと思っていたが、私たちの大半は、それ以後の数年間、こうした教科書をぼろぼろになるまで使ったのであった。そうした結果、収容者のうちの高校生の一人だけが、3年間の収容所生活のため及第点を取れなかっただけで、他の二人は進級すらできた。
 各グループごと毎日5時間の授業を終えると、私たちの胃袋は空っぽで、読書をする余力も残っていなかった。そこで思い出すのであるが、午後の食事までの間、幾何学の本とともに寝台に横になり、日本人が99パーセントの読み書き率をほこり、衛兵すらが私たちに教科書を与えるという共謀に考えをおよぼす、そうした教育について、いつものようにかすかに目まいを感じながら、空想的な考えに思いをめぐらせていたのであった。


 戦争の前、バギオの登録住民であった私たちや他の多くの家族は、1942年、フィリピン現地人に生活が正常にもどったことを印象付けるために日本人がとった試みのため、数ヶ月の間、収容所から開放されたことがあった。その自由な数ヶ月間、私たちは借金をし、食料を買い、充分に腹を満たした。バギオは、バターンで負傷した日本兵の治療基地となっていた。町は兵士でいっぱいとなり、私たちの大半は、週に一度、町のプラザで開かれる青空食料品市場に出かける以外、自宅周辺にとどまっていた。商業地区へ出かけるこうした機会に、私には、英語で書かれ、市場に掲示された日本軍司令官の告示を収集することが趣味となっていた。私は、人目のあるところで、それを書き取りたくはなかったので、それを記憶できるまで繰り返し読み、住んでいる小さな家に帰るとすぐ、それを書き留めた。そうした告示は私を注目させた。というのは、そうした告示には、日本語や他の言語と、日本人が英語で表そうとする時に現れるぎこちない軽さとの間には、食い違いがあったからである。ことに、以下のような掲示を思い出す。

バギオやその近辺に住むイゴロットの人々が、バギオやその近辺の資産に、火をつけたり略奪することがいまだに続いている。ともあれこれは望ましい行為ではない。日本帝国軍隊がこれを発見した時は、そうしようとする人を、銃で撃つ。
 親愛をもって
 間森中佐

一年半の後、収容所の宿舎に付属する小屋の籐のポーチに、暗くなった中、一人で座っていた。私たちは、赤十字からの最初で最後の、戦時パッケージを受け取っていた。私のものには、食用には役立たない、10箱のタバコが含まれていた。その午後、日本軍の守衛所の台所から、毎日ごみを運び出す雑用という特権の最中、名古屋出身の清潔そうで無邪気な顔をした整備士の守衛に、タバコ一箱とバナナ二房とを交換しようと持ちかけた。私は彼に先払いで十本のタバコを与え、彼は、私が運ぶゴミ缶の底にバナナ一房を隠した。そうして、私がその小さなポーチに座っていた時、背後の暗闇から「シー」と言う声を聞いた。私は用心して小屋のまわりの明るみから出て、暗闇の中で、大きなバナナの房を差し出しているその名古屋出身の衛兵と会った。
 「我々に命令が下った」と彼は言った。
 私は彼に「宿舎までいっしょにきれくれますか。そこの寝台の下にタバコがありますので」と聞いた。
 「そのことはもういい。我々はもう対等だ。私にも腹を空かせた息子が日本にいる」と私に言った。
 私は彼に礼を言い、どこへ送られるのかとたずねた。
 「南方だよ」と彼は答えた。
 それはニューギニアを意味していたようなので、身体に気をつけてと言うと、彼は思いつめた風に「いや、我々は全員、死ななければならない。天皇陛下のために死ぬ以外の道はないから」と言った。彼はわずかながら頭を下げて几帳面におじぎをし、敵国民に親しくしたことが発覚する前に、急いで守衛所に向かって戻っていった。彼の悲しみと望みのなさのこもった声が、耳に残っていた。私は、彼らの大半は、私たちがそうであるように、それをいやがっていると思った。彼らは、その最終命令に従って死ぬため、それが命ぜられることをただ待っていた。もしそれが命令なら、彼は自分の息子すらをも殺しただろう。私は、悲痛な思いをもって、当時常用していたふんどしの紐を締めなおし、使いにくい下駄をあらためて履きなおして気持ちを切り替え、受け取ったバナナを宿舎に持ち込むという私の仕事に取りかかった。


 1944年の初め、東京からわれわれのもとへ、新しい指揮官が赴任してきた。彼は、第三期の梅毒に冒され、非情なかんしゃくを起こす人物として知られていた。到着やいなや、彼は、人の頭を野球のバットで殴る以外のことに関心を持っていないことを私たちに見せつけた。そうした殴打は、もし、その収容所に立会人として配置されている一人の民間日本人が居なかったら、私たちの間に幾人もの死人がでていただろう。その民間人とは、1936年の天皇に対する反乱〔2・26事件〕を支援し、またそれ以前には、軍の「南下政策」、つまり、マレーシアの英国領、東インドのオランダ領、そして必要とあらば、フィリピンの米国領を最終的には領有しようとする政策の決定に反対した、有名な真崎〔甚三郎〕大将の子息であった。その帝国的計画への彼の父親の反対のため、若き真崎は軍に参加できなかったが、しかし、父のそれまでの地位により、彼は、いかにして軍人に働きかけうるかを知っていた。そして、その狂気の指揮官に立ち向かえる彼の力量によって、多くの私たちは脳震盪と、少なくとも一人の死だけで、救われていた。
 ある日のこと、門の付近の将校宿舎のゴミ片づけをしながら、私は、真崎が指揮官に、午後9時半の消灯まで、私たちが読書ができるよう電球をえる権利について進言しているのを耳にした。指揮官は、東京から厳しくせよと命令を受けており、私たちが最後には死ななければならないという「新秩序」にあって、私たちの居場所はないのだ、と答えていた。それに真崎は、もちろん我々は、こうした状況のもとでは死ぬかもしれないが、しかし、万が一にも過ちがなされれば、戦争の後、そのつけを払わされることになるかも知れない、と反論していた。そして、天皇陛下の地位が国際条約に背くことなぞによって汚されることはあってはならないと、断固とした態度をもって指揮官をさとしていた。
 その私たちの恩人、若き真崎は、その後、日本のトラック車列への米軍機による機銃掃射によって殺された。そのトラック隊は、マニラ南部の収容所に拘禁されている六千人の西洋人に、救命物資として食料を運搬していただけであった。その収容所は、1945年のルソン島への米軍の最初の上陸の後の混乱によって、物資の補給を絶たれていた。後になって、私は、真崎家族の経歴を知り、彼らが、日本を正当でない戦争に訴えることを止めさせようとした勇気ある人々で、最後までその戦いを止めなかったという事実に、心を打たれたのであった。
 1944年12月、戦争が終局を迎える中、私たちの収容所はマニラへとトラックで移動させられた。私たちは、一ヵ月半の間、飼料用トウモロコシ、野草、カタツムリで命をつないだ。そして突然、アメリカ軍第一機甲部隊がやってきた。マッカーサーは、ある無名の日本人から、東京は収容所の捕虜を解放せず始末するよう命令を与えているとの情報――これは、後に私たちの収容所委員会の一委員が言っているように事実のものであった――を受け取っていた。私たちの始末は1945年2月5日、月曜の朝に執行される予定であった。
 2月3日の土曜午後、北マニラの湖沼地帯を第一機甲部隊の戦車が進撃していた。暗くなってから、同機甲部隊はマニラに到着した。私たちは、ビリビッド刑務所の病院のコンクリートの床の上で生活していた。この病院は、寒々とした白い建物で、波状鉄板で屋根をおおい、周囲は古いスペインの砦の苔むした壁で囲まれていた。病院の屋上からでは、戦車の車体に描かれたディズニーの漫画の紋章も、日本の漫画のようにも見え、それが誰かを証明してはいなった。最初、日本軍は散発的な銃声でもってそうした戦車を迎撃していたが、すぐ、道路にそった建物に砲兵を配置し、私たちは急遽、階下に降ろされ、一階の床に伏せさせられた。誰も、遂にアメリカ軍がやってきているとも、日本軍がゲリラ部隊を制圧しているとも、いずれも半信半疑だった。幾人かの物持ちの収容者が、フィリピンのタバコとピーナッツバターという最後の財産を賭け、そのどちらかをうらなっていた。
 四つの目標が、赤い円で戦車部隊の地図上に印されていた。私たちのいるビリビッド刑務所、より大規模な収容施設のセントトーマス大学、そして二つのビール醸造所が、その四目標であった。増援を待つ間、戦車部隊はこうした目標の四地点を包囲するように円形に展開していた。市街地には、日本の基幹部隊が残されているのみで、しかも南部高台のスペイン時代の古城に集中していた。この基幹部隊は、日本帝国海軍――天皇の貴族的血族――の陸戦隊によって補充されたばかりで、しかも、こうした新参者にあおられて、フィリピン人スラム街で、強姦や殺人という断末魔の乱行に明け暮れていた。そのため、潜入部隊による発砲や数発の迫撃砲弾をのぞいて、私たちの地域での戦闘は軽微であった。放棄された日本軍の軍需物資が数区画先で爆破され、まるでお祭りの花火のように夜空を飾った。戦車部隊は、単調なきしり音をたなびかせて、私たちの建物のまわりをぐるぐると回っていた。私たちは、なおも、それがアメリカ軍とは知らなかった。
 そこで、探究心あふれる収容者の一人が上の階へとはい上がり、こうした戦車隊がなにをしているのかを、屋上の手すり越しにのぞいてみた。彼がそうして見ている間、二台の戦車が停止し、砲塔のふたを開け、隊員たちがタバコを吸い始めた。一人の隊員は他の戦車の隊員に何やら叫んでいた。覗き見の彼は階下にはいもどり、その見てきた光景を報告した。聖職に携わってきた五十がらみの独身女性がとなりの男にこう言う声が私に聞こえた。「ねえ、あなた、私たちってこれまで、こんなどえらい所にいたんでしたっけ」。その瞬間、私たちは、賭けに勝てるかもしれず、取っておきの食料が食べられそうで、そして、その戦車隊がアメリカ軍であることをさとったのであった。
 次の朝、日本軍士官の台湾人と朝鮮人守衛が機関銃と火炎瓶を、収容所の屋上へ運び上げ、最後の抵抗の準備をしていた。私の父親は、収容所管理委員会の会長より、人のいない2階に残してきた私たちの貧弱な財産を見張るようたのまれた。戦車とのしばらくの交戦のあと、日本軍士官は、収容所の門において、門外に位置する戦車部隊員より、すべての捕虜と収容者の無傷なままの解放と引き換えにジープによる市域外までの移動とマニラ郊外の日本軍への自由な帰属、という日本側の条件を受け入れるとの知らせを受けた。そして、日本人士官たちは、屋上から降りてきた。彼らは、父が二階へと通ずる階段の上端に一人で座っているのを見つけた。門で行われた双方の合意を知る由もない父は、士官たちが死ぬために外に出てゆくところで、自分もその通りがかりで殺されるものと思い込んだ。混同した父はていねいに、「さよなら」とつぶやいた。退却してゆくひとりの士官は、父の方を振り返り、嫌悪の一べつを与えた。父は、「東京でまたすぐにお会いしましょう」と朗らかに付け加えた。もうひとりの士官は、上着を開き、その内ポケットから何やらを取り出し、一瓶のビールを彼のひざの上においた。
 たちどころにして、日本人はその建物から撤退した。呆然としたままの父は、日本人の先への希望の象徴であった、なかば空となったブランデー入りの携帯容器やビール瓶に囲まれていた。アメリカ軍の戦車部隊は、日本衛兵たちを郊外へと追放し、フィリピンの不正規部隊が待つ地域に置き去りにした。その当時、私は、こうした衛兵たちに同情は感じなかったが、彼らの役人的な律儀さには感謝するところがあった。私たちへの処理の執行がその翌日になっていたことが守られたことが、私たちの生命を救ったからであった。


 20年の後、ダートマウスとオクスフォードの学位と雑誌ライフにおける10年の経験をもって、私は、科学の哲学に関する、自分の5冊目の著作を終えようとしていた。その出版社と編集者のウィリアム・モロウは、日本側の第二次世界大戦について、日本の文書に基づいた本を出版したいという意向をもっていた。
 日本人の二重な性格についての子供の頃からの疑問を解明したいとの考えは、私を強くとらえていた。私はほぼ丸一年を米国のいくつもの図書館で費やした。私はまた、ふたたび、うまくはないが日本語を話すことを習い、また、ゆっくりだが、初めて、日本語を読むことを学んだ。そして、私なりの方法で、英語、フランス語、ドイツ語の延べ14万ページにわたる関連文献、戦後の戦争犯罪東京法廷についての5万ページの記録、そして、計3万ページの押収された日本語の文書と米国諜報部の報告を読んだ。そして、日本の古都、京都にある歴史ある帝国大学の農学部の実験農場を見渡す小さな日本家屋に、妻、4人の子供、そして272冊の参考文献とともに移り住んだ。
 1965年9月の午後、私は、引退した元海軍航空隊司令官とテーブル越しで向かい合い、寿司を食べていた。彼は、日本の対中国、および対米国の戦争の生き残りの名戦闘機パイロットの一人だった。私は、数週間前の日本到着以来、くつろげない気持ちでいた。日本は、建物の規模が変わっただけで、他は何も変わっておらず、その司令官にも、好意がもてない場合にそなえた心構えを用意していた。彼の顔の半分は吹き飛ばされ、傷跡を紫色の皮膚が覆っていた。彼は物静かで英語を話すことができた。私が39ヶ月間、日本の捕虜収容所で過ごしたことを知って、「負い目を感じている人々」のため、私を援助するつもりであると語った。彼によれば、彼は、私が子供の時、日本軍が家々を焼いているところを目撃した二つの山頂へ、急降下爆撃をしていた。我々はそれらがいつだったかを照らし合わせ、1938年と41年の二回、私が爆音をとどろかせて飛んでゆくのをみた機は、多分、彼の機であったことを発見したのだった。彼はまた、その後、グアムにいたとも語った。グアムは、海兵隊員であった私の兄が、1944年、フィリピンの捕虜収容所を解放しに行く途上、日本軍の機関銃射撃により死んだ場でもあった。
 不思議なことに、私はすぐに、こうしたかっての敵軍兵と、生きいきと話していることに気がついた。彼の顔は半分吹き飛ばされているにもかかわらず、彼には苦悩が見られなかった。戦争は、彼にとって、それが専門の仕事であり、一種のゲームであった。彼は、そういう私に関心をもち、これまで取材や調査の対象となったことのない引退した元将官たちへの紹介の手立てをとってくれた。私は、日本の戦場や第二次大戦の戦略的構想についての、一種の権威者となっていたといってもよかった。そして私は、日本の英雄主義や戦術的天才たちの物語を聞き取るため、あちこちを旅した。そうして聞き取った物語に、退屈も、不信も感じなかったが、そうした物語も行為も、戦争がつくりだしたものではないと、確信するものがあった。私はいまだに、子供時代以来の疑問――愉快で、知的で、そして美的でもある日本の人々が、戦争を起こし、アジアの半分をおおう狂気の沙汰をもたらしたものは何なのか?――に捕らわれていた。
 この質問への通常の回答は、1930年代に、一部の野心的将校が共謀して日本の社会をあやつって出来上がったとされる集団的狂気、すなわち軍国主義であった。私は、私が面会した軍人たちを研究した。そのほとんどは、終戦時には中将であった。その全員が知的で、陸軍士官学校の後、幕僚大学に進んでおり、そして、東京にある陸軍参謀本部――日本の軍国主義の中枢――に数年、仕えていた。みな熱心な軍事技術者で、ヴェトナムでの戦争の遂行についての全面的助言もおこなっていた。その誰もが、政治的技巧をもっているようには見えなかった。彼らは、私の質問にまともな回答が出せない時、なにも言わず、ぽかんとして無知をさらけるか、あるいは、偉ぶって、まだ機密上の制限があると言い逃れした。
 一度は、それ以前では知られていなかった重要な事実について、口をすべらせることもあった。ある67歳の退役大将は誇らしげに、1938年8月、ノモンハンでの対ソ戦争のため、空対地通信の開発に取り組んでおり、その地域の詳細な地図が用意されていた、と私に語った。この発言は明らかに、以下のような事実を理解していないものであった。すなわち、この1939年5月に始まった戦争は、日本政府により、偶発的国境紛争と公表されていたものであり、かつ、彼の上官は戦争犯罪東京法廷において、その偶発的紛争勃発の際、参謀本部のファイルの中に、どこがノモンハンかを知る地図を見つけることなど不可能であった、と証言していた。
 この大将の記憶の年月が不正確ではないのか? 私は信ずることができず、1938年以前の陸軍航空隊の飛行機は、無線通信なしで飛んでいたのか、と彼にたずねた。 彼は、となりの部屋で書類をひっくりかえし、一冊の自分の日記帳を得意げに持ってきた。彼は、彼の赴任を記録した部分の日付を私に見せた。彼との面会には、二人の日本人も立ち会っており、その面会が終わった時、彼の言ったことについて、私に誤りがないかを、その二人に確認した。彼らは、間違いはなく、その一人はさらに、私がなぜそんなにその日付にこだわるのか、不思議さすら示した。
 その週の末、その67歳の大将は、現在、自衛隊のコンサルタントをしているかっての同僚に会うため、800キロを旅して上京し、そしてまた引き返した。彼は帰ってから私に電話をかけてきて、自分の不注意で、日記の1938年と1939年を混同していたと言った。だが私は、「昭和13年」とその表紙にも内部にも明瞭に記されていたその日記帳を見ていたので、それは些細なことと聞き流し、その将軍の顔を立てることに気を使った。 
 こうして、私は、ひとりの特権階級生まれの男と同一集団をなす将官たちのほとんどと会う機会をもった。しかし私は、彼らがもつ、その男との違いに印象を受けた。彼らは、かれらの立場をわきまえていた。明らかに、彼らは日本社会のひとつの歯車にすぎなかった。彼らは、日本の身分階層社会のなかでの上昇を暗黙のうちに志向する以外、優越した社会的地位も、その中で日本の軍国主義を推し進めるに足る自己正当性をも持っていなかった。
 私は、かって私が見た、中国で日本兵が行った残虐行為と、フィリピンでのいくらか低程度ながらの同様な行為について、こうして会った全員の将官たちに議論を投げかけてみた。私は、それが、日本人のもつ潜在的執念深さに由来するものか、それとも、命令のもとで日本兵が実行した周到な恐怖の作戦によるものかを見極めるつもりであった。ほとんどの将官たちは、この問題について、日本軍が行った野蛮行為は、他国のどの軍も行う程度のものと主張し、それ以外にはほぼ何も語らなかった。彼らは、古い憲兵報告や中国語の新聞を引き合いに出し、ある都市をとりあげた場合、通常、臨戦日本軍千人当たり、殺人2件、強姦20件程度であったと、私を説得しようとした。私は、その程度の数字がいずれの軍隊にも付随すると示されそうなことは、あらかじめ予期していた。
 しかし、偶発的残虐行為に加え、中国では、日本軍は村民全員を虐殺することを、頻繁に行っていた。面会した将官のひとりは、それは事実であると認め、限られた部隊で広い地域を掌握しなければならない場合の指揮官は、現実策として、近接する村落への教唆の目的で、村民に対する懲戒的報復行為を強いられる場合があった、と語った。彼は、こうした行為もまた、すべての軍隊に共通のものであると、冷ややかに繰り返した。彼はさらに、ことに有能な指揮官は、「汚い」報復行為を行う特別部隊を設け、汚染が他の兵員に拡大しないよう区別を図っていた、とも述べた。
 私は、バターンの死の行進や南京強奪にように、日本軍は、偶発的残虐性のなかの十件の殺人でも、報復的攻撃における百件の殺人でもなく、数千、数万にのぼる殺人を行ったと、なおも指摘した。当の将官の全員は、そうした「悪い事例」があったことは聞いたことがあると告白したが、ひとりの意外なほど率直な将官は、「それらは政治家たちの殺人だ」とコメントをつけ、繰り返してはならないと言いたげに、顔にしわを寄せた。
 私は、それが「政治家」の殺人であるとの発言に関心を呼び起こされ、日本の戦前における一般人の意思決定のメカニズムについて、突っ込んだ研究にとりかかった。
 京都で、私はひとりの優秀な調査アシスタントを雇った。彼、ひじのしげき〔漢字名は不明〕氏は、正直で政治的には穏健なリーダー格の学生で、同志社大学の大学院で学んでいた。彼は、私のために、日本人の回顧録や関係史の書籍を買い集め、その約3万ページを読み、下線を付けてくれた。ただ彼は、純粋に調査の必要上で私のためにそう働いてくれたのであって、ここに記された見解や判断に、いかなる責任を負うものではない。政治家に生まれついたような彼は、私に、日本の政界を推し量る識見をもたらしてくれた。彼は、私では不可能な動員力を発揮して、調査員の一群を組織してくれた。その根気強い調査員たちは、日本のおびただしい戦争文学のすべてに目を通し、そしてそれを抜粋してくれた。こうしてこの調査チームが収集した1920年代末の論評や小説の中に、私は、軍国主義への傾向を示す、いかなる証拠をも発見できなかった。そしてむしろ逆に、平和に対する大衆的な望みや、猛々しい武士道精神への拒否すらを見つけた。その一方、当時の主流の経済や軍事雑誌に、私は、戦争を計画するさまざまの証拠――国民的支持を欠く、日本の特権階級が頂点より先導する中央集権化した計画――を発見した。
 私は、元在日米国大使で、マッカーサー将軍の甥、ダグラス・マッカーサー二世より、皇室への紹介がえられた。私はこの機会を、裕仁天皇に近い皇室の人々との面会をもって、私の強まる不信感をテストする場とした。彼らは、魅力にとみ、抜け目がなく、博識で、そしていかなる困窮とも縁のない、私の面会した将官たちとは明白な対比をなしていた。確かに、日本の総帥たちであった。
 私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。
 私は、調査の最初までさかのぼり、すべてをやり直さなければならないことを覚った。裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。
 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。
 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。
 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。
 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

(訳注)1885年(明治18年)内閣制度創設の時、宮中に設けられた重職。天皇の側近に奉仕して皇室・国家の事務について常侍輔弼の任に当たり、御璽・国璽〔天皇や国の判〕を尚蔵し、詔書・勅書、その他内廷の文書および請願に関する事務をつかさどった。1945年廃止。【広辞苑より。〔〕は訳者による】

私は、姿勢を新ためて日本人の橋渡し役との接触を開始し、非公式に面会しては、私が読んだ裁判記録、日記、回想録のページに出没する、おびただしいしい数の謎の人物について、その血縁上の詳細をたずねた。その作業には手ごたえある反応があって成果をもたらし、いまだ注意を必要とし、かつ、又聞き的な事柄ではあるものの、逸話と具体例には事欠かないものとなった。ただ、そうしてえがける全体図は、蝶の羽根のように繊細で、また商売女の寝物語のように確証を欠くもので、油断のおけぬ、アイロニカルなものであった。それでも、私にとって、日本の戦前の閉じられた内部世界の実像を一見するものではあった。
 こうした面会は、まるで悪い夢を見ているかのような体験で、だれもが丁寧な口調で、しかも、秘密裏の話や永遠に秘された策謀のばくろ話には、その声音が変わった。脚光をあびる人物は、常に、背後で誰かがひもをあやつていた。ひとりの人物が演ずる役割を分析していると、彼の行動は彼の言葉以上のものを、彼の交際相手や忠義心は彼自身の人となり以上のものを物語っていた。国家政策は、舞台裏のそのまた裏舞台で作られ、国民の意見はまったくの埒外であった。通常は、政党政治家や有力な企業家ですら、そうした、ひもであやつり影響力を行使する国家的内輪集団から排除されていた。国民大衆は、烏合の衆以上の何者でもなく、こうした手法と金力、そして、千年以上も使われてきたうわさ操作の世論形成システムによって支配されていた。
 戦前の日本についての理解が深まるにつれ、私には、1966年の日本社会にいることが、次第しだいに居心地の悪いものとなった。1926年から45年までの間、すべての日本人に神として信奉された人物について、私は不敬な考えを暖めていた。それに、私は、私を友としてくれている京都の多くの日本人が、戦時中の諜報員にも等しいことに遭遇するという、信じ難いことでありながら、危険に瀕しつつある自分を感じざるをえなかった。というのも、私は、京都での私の最良の情報提供者との最後の面会にあたり、彼らより、人目のつかぬ小さな喫茶店で行いたいとの申し出をうけた。また、私の米国からの郵便物は、所轄の郵便局長によって開封されたと印されていた。あるいは、私の荷物が神戸港で出港を待っている間に、「南京強奪」と記した二冊のノートとフィルム一巻が、私の六つの書箱から抜き取られていた。
 船が埠頭を離れ、私と家族が米国への帰国の旅についた時、私は、遠ざかりつつある日本の沿岸風景を眺めつつ、安堵と残念な感覚の入り混じったものを抱いていた。それは、私は見張られているという被抑圧感からの解放であり、また、私が執筆を構想する本が、私の生まれた国でありながら、再度、私をして歓迎されざる人物とするという、遺憾な感覚であった。
 私は、この旅に、八冊の厚いルーズリーフのホルダーを携えていた。それには、932人の日本の指導的官僚と軍事官吏の個人記録を刻んだカードがつづられていた。そのほかにも、乱雑に記録した2,000ページのノート、雑誌100冊、日本人の日記と回顧録60冊、そして、面会とその印象を録音した240時間分の磁気テープがあった。
 本国までの旅の途上、私は10日間をシンガポールで、5週間をオーストラリアで過ごし、こうした多量の資料にさらに資料を付け加えた。シンガポールでは、日本の占領軍が発行した戦時英語紙『Shonan Times』の完璧なファイルを読むことができた。オーストラリアのキャンベラでは、私は、親切にも閲覧を許され、第二次大戦中のオーストラリアの民間諜報記録、日本の戦後占領期にマッカーサー将軍へ助言を与えたはずの極東委員会の書類、そして、1946年から48年まで、日本のA級戦犯を裁いた11ヶ国連合軍東京裁判の裁判長を勤めたクイーンズランドの判事長であるウィリアム・ウエッブ卿のメモと手紙、を読むことができた。終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。
 コネチカット州の自宅への帰途、私が持ち帰ろうとしている大量の未消化の資料の、整理と解読を始めた。8冊の個人情報綴りから、私は、日本の軍、宮中、そして要職についている官僚の、壁にはる大きな図を作った。日本人の人名辞典からは、いくつもの宮中の系図(#)を作った。日本の古い新聞や5,613ページにわたる日本の高官の日記をもとに、日本の最も秘められた8,125日間の歴史に関する、日別年表を作り上げた。こうして次第に、正犯者と取り巻き部隊とを区別していった。そうした結果、ある特徴、つまり、年月を経るにしたがって確固とした地位を築いてゆく、派閥や秘密結社の存在が、浮かび上がってきたのであった。数え切れない「事件」は、当初は、底知れない東洋的なものと思えたが、しだいに、堅固で理性的なものに見えてきた。すべてが、裕仁こそ、まさに天皇であった、という点に収束し、私の明快で当然な見解を、さらに確固なものにしていった。

(#) 私は、日本語でも英語でもかって印刷されたことのない、皇室の生存者の完璧なリストという、前代未聞ものを作り上げた。第二次大戦中、日本人が天皇を神とよび、多数の自殺者を生んでいる際ですら、西洋の分析家の誰も、天皇の伯父や従弟の将官の経歴を調べ上げなかった。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。
 それを私は、宮中の記者会見からいくつもの実例を見出してきたのだが、巧妙な神話の形成は、誤ったイメージの浸透を説明していたが、実像が容易に消え去ってしまうのではないかと、私を困惑させた。すべての国民や外国の報道関係者を、終始一貫して盲目状態に置くということが、私には信ずることさえ困難なことだった。天皇は、その衣服の質と美麗さを賞賛する外国使節を含むすべての人々を前にして、本当に自身の裸を誇示することが可能であったのか? 明らかに、彼にはそれが可能であった。というのは、1967年、明らかな現象が出現するのを目撃したからであった。
 その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。
 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。
 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。
 以上の私の発見は、したがって、歴史上の重要な前進である。これに相当するものは、戦時中の国務長官、ヘンリー・L・スティムソンの手書きのノートに新たに発見された、1941年夏、ルーズベルト大統領が、日本の攻撃のえさとし、アメリカ国民の第二次大戦への参加の理由とするため、真珠湾に老朽した軍艦を明らかに無防備なままに係留する可能性を調査することを命じたという、米国版のそれである。
 私は、そうした文献上の発見が、米国で作り出すであろう新聞一面級の話題となることを想像することができた。そして私は、『杉山メモ』の出版への日本社会の反応を、食い入るように観察していた。日本の大手紙は、いずれも社会面で、杉山参謀総長の文書が二巻の本となって出版されたとのみ報じ、そのどれもが、評論も解説も掲載していなかった。そうした影響で、米国の新聞は何も触れず、本書が1971年に出版されてニューヨーク・タイムスが言及するまで、裕仁の真珠湾計画への個人的関わりが報じられることはなかった。
 『杉山メモ』への沈黙は、日本では、今日においても、天皇に触れることは極めて控えられている事柄であることを私に教え、言語的、文化的ギャップにさらされている駐日欧米報道関係者が、意図的に秘されていることに気がつかないのも、ありえることであった。こうした事象がよく見られることを知るにつけ、私の内の懐疑は軽減されていった。そしてそれは1967年の夏のことであった。1930年代最後の反乱と暗殺について考察を終え、私は、裕仁がその多くに関わっていたと見る自分自身に、私は自信を深めていた。私はついに、自分の調査の新規で物議をかもしそうな部分のすべてを述べ終わり、計三十万語の一次原稿を完成していた。それは、一冊の本ではなかったが、私の手のとどく限りのすべての証拠を検証した、一種の法的告発書であった。それは、すべての出来事が私の解釈に合致し、すべての歴史研究家を一貫して動機付けうるものであった。
 私は、その一次原稿を一ヶ月の間、その意味の解釈をさぐるために、脇に放置しておいた。その緻密なページがもたらす物語は、不可解でもあり、新鮮でもあった。それは、日本的でも、アメリカ的でもなかった。その半分以上の情報は、かつて、英語では報じられたことのないものであった。またその主旨は、裕仁は、軍事的命令に判をおしてその国を戦争へと導いたばかりでなく、彼の取り巻き集団を通じ、彼に反対する人々を、宗教的欺瞞、脅迫、暗殺を含む異様な東洋的策謀に巻き込むことにより、暴力的に沈黙させた、というものであった。
 私は、私が書いたことが、欧米の日本専門家にもほとんど知られておらず、また、日本をよく知る人にすら新たなことである時、それが真実だとは、誰にも理解が困難だということをさとった。すなわち、そうした不信を取り消してもらうには、疑い深い読者に、多くの予備知識が与えられなければならなかった。たとえば、いまだに日本の天皇にまつわる古代の宗教的タブーや、1945年にいたるまで日本の庶民は、「ひ・ろ・ひ・と」という音を口にしたこともなかったということや、1945年まで、日本の平民は、天皇の行列をほぼ路上にひれ伏した姿勢から覗き見する以外、天皇を見たこともなかったこと、あるいは、日本の宮中の侍従は、遠い昔より、国家の災い事への主人の確かな関わりを隠すため、手の込んだ物語を創作してきたこと、などなどである。神王という考えは、西欧世界では、数世紀前に記憶から消え去ってしまったもので、日本に駐在する西欧報道陣は、天皇家族についての情報のスクラップを、改めて組み立てなおす必要も感じなかった。すなわち、彼らは、裕仁は象徴的存在だという形式的言い方を、すでに受け入れていた。というのは、彼らは、ヴィクトリア女王がそうした存在であった「立憲君主」という考えを、予備知識としてもっていたからであった。裕仁をあつかった日々の直接的記録は、日本では1966年まで出版されなかった。そしてもっとも重要なことは、マッカーサー将軍は、日本人の性格をアメリカ人の鋳型にはめこんで作り直そうとする狙いで、1945年、天皇を利用することを決定し、そして、天皇を、退任させたり追放したりせずに、ごまかして糊塗したのである。
 こうした異様な状況を人に理解してもらうためには、数ページにわたりその詳細をえがく必要があるだろうが、私の記述は、一般的な読者の目にふれる前に、さんざんに酷評されるだろうと予測する。わずか25年前、何百万人もの日本人は、「万歳」つまり、「天皇に万年の命を」との祈祷を口にしながら死んでいった。その日本が、1967年、国民総生産高において西ドイツを抜き、世界で第三位の国となった。
 1961年には、一人の強盗が皇居に侵入して天皇の首を切るという小説をある日本の雑誌が掲載したのだが、その後、その出版者は不敬罪をおかしたとの理由でのテロ攻撃にさらされた。暴力団より雇われた「愛国者」たちは、その印刷工場を襲い、印刷機を破壊し、さらに出版者の自宅をも襲撃、使用人を殺し、妻を負傷させた。一方、その小説を書いた三文文士は姿を隠し、報道によれば、彼はひそかにブラジルに移民したという。
 皇室の初めての本格的文書が部分的ながら出版され、歴史の見直しが始まった時期、それは私自らの成果ではないものの、私の日本再訪の契機となった。この出版は残りの文書にもあらたな着目をもたらすものとなり、ことに、私のような者にはひとつの光明となり、そのすべてに一通り目を通した。
 この見直しは、裕仁自身によって手がけられたものと、私は後に、一人の日本人外交官高官から告げられた。1963年の秋、出版を賛助する宮中晩餐会が催された際、裕仁は、彼のテーブルに同席する著者たちに、広島の惨禍を乗り越え、日本の戦前、戦中の歴史の精神を再興することに取りかかる時期であると示唆した。あたかも第二次大戦は、1946年には歴史的過ちであったが、もはや今ではそうではなく、日本の産業化の完成を急がせることとなった、前向きな政治手腕の一部であるかのようであった。1965年という年は、終戦20周年を記するとともに、1966年が、その戦争開始の25周年記念とでも言いたげでもあった。
 1965年に始まったこの歴史見直しは、極めて慎重に取り組まれ、主に知識階級をねらいとして行われた。私はその意味を、アメリカの人々に伝えなければならないと感じた。私は、日本人が当然と受け止めている感覚や動機、ことに天皇についてのそれらを、説明しなければならならなかった。そして、私は、裕仁の生涯の暗部に迫ってゆかねばならず、状況的なものから、口頭および文書による証拠や手がかりを発掘してゆかねばならない使命を感じた。
 さらに、歴史とは連続しているものであり、私は、自らの解釈を、日本史の全体の流れにも適用すべきでもあったかもしれない。だが、私は、1866年から1911年までの時期について、1931年から1945年までのそれと同等な見識を持っているとの自信はなく、私はその時代について、何が解っているのかと言わねばならない。というのは、これまでにそう問うたこともなく、かつ、私の著書の内容は、それが20世紀について触れているほどに、19世紀とか17世紀とか、まして21世紀について関連しているのか、と問うたこともないからである。
 また、私は、裕仁を「陰謀」の首謀者として登場させるつもりである。だが陰謀というこの言葉は、過剰使用と盲目的愛国心のおかげで、一般的には不信をもたれる言葉となっている。だが国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。
 私は、私の著作のタイトルを『天皇の陰謀』とすることに躊躇はない。私は、自分の調査にもとづき、最も機軸となる出来事を選出し、それらを白日のもとにおいた。そのいずれにも、私は確証にたる情報を得たもののみを著述し、読者がありありとしたものを感じるよう最大の努力を傾けた。もし、私自身の経験をつうじた特定の時期のある光景が重要である場合、私はその光景の再現につとめた。つまり、ある人が吸う煙草の銘柄に注目していたなら、私は、彼が煙草を吸っていると記録する際は、その銘柄にも言及した。また、もし、誰かが指間接を鳴らす癖に気付いていた場合、どんな時に指間接を鳴らしたのか、それにもためらいなく触れている。
 また、日本についてすでに詳しい読者には煩雑さを与えるかも知れないが、私は、いくつかの表現上の規定をおいた。日本人の名前についての困難と混乱を避けるために、識別の形容語を繰り返し付した場合も多い。そうすることにより、私は、専門家といえども、日本史に登場する脇役の追跡に失敗することや、彼らの全体的な経歴の把握をし損なうことがよくあるのを発見した。
 私は、この本の最終原稿を執筆している1967年から1970年の間、私に面会を求めてきた日本人からも、いろいろと収穫をえた。有名な銀行家の息子、先導的な出版者、皇室の義理の家族、要職の外交官など、私は、こうした人々の訪問をここに記すことを誇りに思う。これらの人々はみな、裕仁に密着する助言者の友人や子供たちである。彼らは、ニューヨークでの日々を過ごしつつ、米国の自由を満喫し、人間関係の煩わしさからも解かれて、日本の最も有力な情報源以上にも、もっと快活に話しを提供してくれた。私への情報提供を自ら名乗り出たのはそのうちのただ一人だったが、私は今や、彼らの親戚や交友関係を詳しく知っているため、私は彼らからそれ以上のものを引き出すことができた。ささいな質問への回答の中に、彼らは秘密を明らかにしているのであった。
 彼らは、私が必要だった、そして、重要なことだが、私は正しいと私をして確信させた、多くの補助情報を与えてくれた。彼らは、私の解釈に確証を与え、それは私を、アメリカ人が欧州の共産主義やファシズムに気を奪われている時代に、この私が東洋のイデオロギーの実像を提示しているのだと、勇気付けてくれるものとなった。
 欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
 文献調査や資料のノートに、私は、一千冊の書籍や文書からの引用を残し、私にとっての情報の諸細目とした。しかし、そのほとんどは、個別の詳細あるいは洞察を提供するのみであった。百に一つがおおいに役立ったのみで、百に二つほどは1960年以降に出版されたものであった。
 戦後、占領軍に移管された一次資料のうちでもっとも重要であったのは、日記であった。要職にある日本人のすべてが、脅迫や、日本の政界にあってはよく起こりうる事実無根の責任を負わされないために、公的生活についての記録を残していた。もちろん、こうした日々の記録はすべて、他人や後世の目を意識した中で書かれたものである。それらは、いつでも、特高警察の手によって押収され、裁判所での証拠とされるかも知れなかった。またそれらは、後に、無一文となった孫が出版しないとも限らなかった。そして、皇居の官吏の場合、裕仁自身による徴発やきまぐれな閲覧にさらされる恐れもあった。
 用心深く書かれたこうした日記のうち、最も有力な議員によるの二つの日誌は、占領が始まって二年間の間に、アメリカ人の手にわたった。一つは木戸日記であり、内大臣をつとめ、1940年から45年まで裕仁の主席民間輔弼であった、木戸幸一侯爵が書いたもので、1930年から45年までを記したものである。うち、十分の一に満たない部分が、弁護あるいは告発のいずれかの観点から翻訳され、極東国際軍事法廷に証拠として提出された。残りの九割は、現在、入手可能なものとしてある限りでは、1966年に東京大学出版局より出版されるまでは公表されなかった。それでも、この日記は、もっとも出来事の多発した日々が「特記事項なし」とノートされており、不完全な記録のように思われる。
 アメリカ占領軍に入手された第二の日誌は、『西園寺・原田回顧録』として知られるものである。これは、表面上は日本のもっとも著名な自由主義政治家、西園寺候――彼が91歳の1940年11月まで、天皇に代々の首相を指名するにあたっての助言をする役にあった――のノートである。ただ実際は、この回顧録は、西園寺の政治秘書であった原田熊雄男爵――西園寺の部下として天皇の密使として動いていたゴシップ好きで陰険な便宜主義者――がまとめたものである。
 この『西園寺・原田回顧録』の英語版は、25巻からなり、国際軍事法廷の弁護側が使用する目的で、1946年から47年の間に、自発的な日本人チームによって作成された。その翻訳は名文ではるが不正確である。たとえば、幾箇所かで、内大臣――天皇の主席民間輔弼――が内務大臣――警察行政にあたる内閣官僚――と訳されている。
 その日本語版は、1952年から1956年の間に、『西園寺公と政局』との書名のもとで、八巻にわたって出版された。欧米の学術界に代わってそれを読んだ英国人学者は、明らかに通読したのみで二冊の本を書き、その中で、国際軍事法廷の弁護目的で用意されたその不注意な翻訳をもっぱら引用していた。
 1956年、この回顧録は、さらに、9巻のシリーズとして、限定版で再出版された。それは、原田のノートも含み、8巻が本文で、最後の1巻は索引となっている。これはたいへん有用である。私が知る限りだが、私を別にして、ほとんどの欧米学者は、この入手の困難で高価な第9巻を活用していない。
 戦争が終わって22年後の1967年、日本で二つのさらに重要な日記が出版された。その一つは、1931−1936年の間に書かれた本庄繁大将の日記である。彼は満州侵略を指揮し、また、侍従武官おおよび軍事輔弼として裕仁に仕えた。第二の日記は、杉山元大将のメモで、彼が、参謀本部を代表して天皇本部に仕えた1940年から1945年にわたって書かれたものである。これらの一次資料は、1970年以前には、いずれも、欧米の日本専門家には消化されず、また、欧米の学術雑誌にもさして引用されなかったものである。また、それらは、裕仁の軍事輔弼らによる話を含んでおり、1946年より部分的に入手可能であった木戸や原田による二つの日記類を補完する貴重な資料である。
 これら、木戸、原田、本庄、杉山の四つの日記類は、1930年から1945年までの日本の指導者たちの最高の討議内容として知られるものの半分以上を含んでいる。
 それに加えて、私は、占領の初期数ヶ月の間にアメリカの諜報員が入手したほとんどの、警察記録、人事記録、政党などの討議資料、軍事記録を調べた。また、私は、極東国際軍事法廷に、日本および西側関係者により記録として残された、20万ページ余りの、証言、法廷手続き、証拠の書類に目を通した。私はさらに、1940年代末から1950年代初めの間に、東京で発刊された暴露記事や追想録などの類をも洗ってみた。
 私はまた、いっそうの注意を払い、1952年の占領の終了以後、日本の報道機関が表した、およそ30万ページの、伝記、再現報道、そして省かれていた文書の復元物などを調べた。そうして私は、ことに、多くのインタビューを基にした再現報道の中から、一語一語に注意して読むに値する数千ページの資料を発見した。私は、高い当局筋に関する資料(#)は二次資料として最重要なものであり、それはなまじの一次資料より、はるかに正直に事を語っていると思う。また、戦争を生き延び、いまだ生存している、有力な老人たちから口述で得られる情報も、価値あるものである。

(#) ことに、退役した特高警察少将、おおたに けんじろう〔漢字名不詳〕による2巻の回想録、皇后の兄〔弟〕の私的出版による小冊子、退役した陸軍諜報部の、たなか たかよし〔漢字名不詳〕中将による未発表の5,000ページの大作、そして、むろふし てつろう、たかはし まさえ、ふじしま たいすけ、しまだ としひこ、秦郁彦、おやけ そういち、あがわ ひろし、くろだ ひさた〔各漢字名不詳〕、による文献である。

私は、こうしたすべての資料を、慎重にではるが、徹底的に使用した。それらを扱うにあたっては、時間的前後関係と因果関係に高い信憑性をおいた。私は、古い新聞記事であるとか、日本人が着いていた地位であるとか、個人記録にある記述(ж)とかといった、日本人のとった行動の論争の余地のない記録をことのほか重視した。私が著したニュアンスや説明は、ほとんどそのすべてが口述によって表されたものである。情報提供者の何人かは、匿名を条件としたが、それを求めなかった人もいた。幾人かは、私が彼らに会見したことを、まったく秘密にするよう望んだ。現代の日本でも、あまりに自由に語ると危険をもたらすことがあるため、私は彼らとのそういう約束を守った。

(ж) そのほとんどは、自衛隊の非制服職員である秦郁彦の好意によって提供されたものである。秦氏は『日中戦争史』や『軍ファシズム運動史』の著者である。

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。私は裕仁を子供の頃から存じている。彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
 厳格な歴史家は、特権的な情報源に頼るようなことはしない。アメリカやヨーロッパの歴史を扱うにあたっては、それは正しい原則である。しかし、日本や、おそらく、すべてのアジアの歴史においては、特別の裁量が許される場合もある。東洋の大半のでは、公共文書という考えそのものが存在していない。欧米よりはるかに顕著に、国家の文書は、それを作成した者に属する。また、報道の自由という伝統は、深く根を下ろしていない。金品譲渡にともなう文書契約においてすら、名誉をかけた約束という口頭の合意に代わるものでしかない。
 そうではあるが、この本の巻末にかかげた情報出典詳細を丹念に当たってみる労をいとわない思慮深い学者は、私の記述に、それぞれの文書化された日記やメモや自伝を出典とする、重大な事実を発見するであろう。私は、一次資料より明らかとなった事実や特色や動機についての私の見解に確証を与え、かつ、出来事の因果関係をできる限り正確に再現する、特権的な口述による情報源に、基本的な信頼を置いていきた。それに、私は何も創作はしておらず、ただ、多くを組み合わせてきたのみである。私は、日本の歴史の日ごと月ごとの記録に没入することを是とし、それによって、私に、誤りよりむしろ洞察を与える、情況や意味合いについての理解を獲得してきた。


 私は、本書の執筆に、あまりに多くの人々の協力を得てきており、そのうちの誰かを、リストに上げ漏らしているのではないかと心配になるほどである。私はことに、エール大学のベイネックおよび法学スクール図書館、同志社大学と京都大学の図書館、キャンベラの戦争博物館、スタンフォード大学のファーガッソン図書館、ヴァージニア州アレキサンドリアの国立戦争資料センターの図書館員に、感謝を表したい。私は、また、トーマス・E・ホーマンに、どの政府の内部、外部のいずれでも出会ったことのない、もっとも知識豊富な情報の非官僚主義的発掘者として、ことに注目を表したい。
 きたがわ ひろし〔漢字名不詳,、以下同じ〕、小泉信三、ヘンリー・R・ルース、ダグラス・マッカーサー二世そして父からは、特に、日本への扉を開く援助を得た。歴史家の秦郁彦は、彼が15年以上にわたって編纂した私的記録を、私に提供してくれた。退役した、たなか たかよし中将は、未発表の5,000ページの自伝の一部の拝読を許可してくれた。あそう しげる、レスター・ブルックス、ドン・ブラウン、ロバート・J・C・バトウ、蒋介石、オーチス・カリー、ウィリアム・クレイグ、ジェームス・クロウリー、グレース・フォックス、ふじもと かず、ふしさわ しげぞう、フランク・ビブニー、、ぎが しょういちろう、はしもと ひろとし、アーサー・ヒューメル、いのき まさみち、いのうえ いちろう、かじま ぎんじろう、かがみ みでお、かわまた よしや、こばやし よしあき、こたに ひでじろう、松本重治、もりしげ よし、ウォルター・ニコルス、R・K・オチアイ、おがわ まさお、おくみや まさたけ、大宅正一、エドウィン・O・ライシャワー、さとう よしじろう、オサム・シミズ、ロイ・スミス、スン・ユエ、たちばな よしもり、たかはし しゅん、たかた いちたろう、たかた もとさぶろう、たなか かつみ、鶴見俊輔、うえむら かずいちろう、エリザベス・グレイ・ビニング、ウィリアム・P・ウッドアード、チトシ・ヤナガ、はすべて、私に、時間、親切、丁重な関心を与えてくれた。私は、原稿への助言や批判を得た以下の人に、多くを負っている――ヒレル・ブラック、ジョン・キューネオ、アラン・フレイザー、ロウレンス・ヒューゴ、ピーター・レビット、エリザベス・ルーカス、マリー・ニューマン。私の妻には、生活を共にし、この六年間、各ページを一度ならずタイプしてくれた。最後に、私は、京都の僧侶や寺守り、四人の退役将官、三人の裕仁の侍従、そしてその所在を明かせない三人の裕仁の側近グループ員の二世たちに、ことさらの感謝を表したい。


日本人の名前を表記するにあたっては、日本語による語順に従った。つまり、苗字が先で個人名〔「下」の名前〕を後とした。日本人以外は一貫しておらず、たとえば中華民国の支配者、蒋介石は、英語風に介石蒋と書いてしまうと混乱を生ずるのでそのままとした。西洋人名の扱いについては、現代の日本人は、中国人はそうしないが、苗字を先にする日本風に改めている。そうした箇所では、読者は、苗字が先で個人名が後の語順となっていることに留意する必要がある。
 日常生活では、日本人の成人男子の下の名前は、ほとんど使われないことが多い。たとえ親しい友人間でも、ジムとかハリーとかと呼ばずに、ジョーンズさんとかスミスさんと呼ぶ。さらに、下の名前の表音の仕方には、よく、独特の呼び方によるものがある。つまり、その人が子供の時、両親がどう呼んだかが正式の名であるが、成長してから、親しい人々でもそれを知らず、〔表記されたその漢字から〕別の呼び方をする場合がある。たとえば、戦時中の東条首相の場合、とうじょう ひでき、が正しい名前であるが、英語による日本人名辞典には、とうじょう えいき、と記されていた。こうした誤読が英語の歴史記録にいったん残されると、ほぼ永久なものとされてしまう。たとえば後続の章で言う、ただ はやお中将は、多くの他の本では、ただ しゅん、として知られている。本書の中では一貫して、人の名は、親によって名付けられたものを使うようにしている。しかし、間違いがあるかもしれないので、その場合は、あらかじめ、ここでお詫びしておきたい。

最後に、私は本書をむしろ、ただ、単純で、古くからの問題にささげたい。つまり、歴史は無目的な経済的、人口学的な要因によって決定されるものではなく、また、間違った大衆意識が演ずる役もほどんどなく、ただその責任は、第一義的に、政府の責務を専任して負う、少数の意図的個々人に帰されるものである。小さな都市国家の民主主義や無政府主義の餌食となる瓦解社会を別として、国民は政策立案には関わらない。政策をつくる指導者たちは、その個人的な先取性を国の利益と合致させてしまう没頭した愛国者であると、私は見る。彼らは、ただ、困難を克服するためという場合か、あるいは、その指導者としての地位が信奉者の眼前で揺らいでいるとの恐れにかられた場合のみに、信念を決してことに当たる。
 本書は、そうした自分勝手な信念を抱く指導者たち、自分自身を、個人としてでなく機関としてとらえる指導者たち、世界にまれな、中断されたことのない長い順調な国内的政治発展の歴史を持つ社会の指導者たち、について語るものである。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

 

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01. BRIAN ENO 2013年9月26日 09:12:12 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
ダブル・フィクションとしての天皇   (第1回)

 連載最初のコメントですが、まず、この題名についてです。
 原題は、翻訳出版されている題名のように 「天皇の陰謀」 との訳がもっとも近いものと思います。ただ、いわば敵・味方という見方からはそうなるでしょうが、私を含む日本人側としては、「陰謀」 であろうが 「オープンな政策」 であろうが、それに巻き込まれた国民として、その当事者とされていることは間違いありません。つまり、その 「陰謀」 の影響が、同一文化の粘性に溶解し、自分のどこか一部に忍び込んでしまっているわけです。要するに、餌食化です。
 加えて、一般日本人は、そうした 「天皇の陰謀」 によってあやつられていたばかりでなく、さらにその天皇を利用し、天皇ごと日本全体をあやつってきている、アメリカの 「陰謀」 があるわけです。(後発国の王の弱みや腐敗を逆手どり、それを見逃したふりをしつつ結託し、王と国民の両方を支配する米の “手口” は、今もちっとも変わっていません)。そうした意味では、そこには二重の 「陰謀」 の餌食化があるわけです。
 そうした判断から、「陰謀」 との語句は用いず、二重性を重視して、「ダブル・フィクション」 としました。また、もし、「陰謀」 という語句にこだわるなら、「アメリカとの二重陰謀としての天皇」 とせねばなりません。
 それに、今日の資本主義制度自体が、競争という名の、姿を変えた大小無数の陰謀の巣窟でもあるわけで、こちらも、対抗陰謀に手を染めなければ、ということになります。この視点を加えれば、「三重陰謀」ということになりましょうか。
 ただ、私の翻訳版のそのもののタイトルには、他の翻訳と同様、 「天皇の陰謀」 としてあります。

 ところで、私は、このバーガミニという著者が、この 「謎解き」 にふさわしい人物なのかどうか、実はまだ断定し切れていません。少なくとも、全編を読み終えた後でないと、その判断は下せません。ですが、読まなければ知りようもありませんので、エイヤーとねらいを定めて、作業を開始しました。結果、ねらい外れだったとなる恐れもあります。

 今回、掲載した 「まえがき」 と 「著者から読者へ」 について。
 「まえがき」 を書いている推薦者は、終戦直後、戦争犯罪を裁いた東京法廷で裁判長をつとめた、オーストラリア人判事によるものです。
 東京法廷で、なぜ、天皇の訴追が行われなかったのか、その裁判側の事情を語っています。また、国際法において、戦争は、どこまでが適法で、どこからが違法なのか、その辺のアウトラインについても、よくわかります。
 ここオーストラリアから見ると、フェアー精神あふれるオーストラリア人らしい彼の人柄とともに、日本を左右した歴史の深層構造が垣間見られるイントロです。

 第二の 「著者から読者へ」 は、読んで字のごとく、著者からのメッセージです。彼のまじめで几帳面な人柄のあふれている文章であると同時に、彼がなぜ、この大仕事にとりくむこととなったのか、その経緯について詳しく語っています。
 彼の父親は築地の聖路加病院を建てた建築家で、彼は日本に生まれて8歳までを育ち、日中戦争に巻き込まれて家族ごと日本軍の捕虜となり、九死に一生をえて生還しえてゆく記述は息をのみます。
 戦争という大決定がどこかでなされ、その潮流に運命をさらわれた個人や家族の、現代史上のリアリティーが如実に語られ、彼がなぜこの仕事にとりくまざるを得なかったのか、よく了解できます。
 私もいま、外国で生活する身ですが、もしもですが、戦争に巻き込まれたと仮定すると、他人事とは思えないストーリーがそこに見出せます。逆に、そうした 「もし」 を引き起こしてはならないと、ひしひしと感じさせられる体験でもあります。
 また、著者バーガミニが執筆にあたった60年代末のアメリカから考えると、今日のアメリカは想像もできません。しかし、その民主主義の守護神であったかのアメリカが、半世紀近くもたつと、まるで司馬のいう 「鬼胎」 のように、この本が語る戦前の日本と大きく重ってくるような、歴史上のアイロニーとも言うべき変貌が見られます。
 著者は今でも存命中のようで、78歳ほどになっているはずですが、今日の自国アメリカを、どう見ているのでしょうか。
 つまり、彼にとって二重目の「陰謀」は、陰謀ではなく 「賢明な決定」 であったわけで、それは彼自身もそう表現 しています。
 ですが、彼はこの 「陰謀の二重性」 をどこまで認識していたかは、今後の読み進めで確認してゆかねばならない点です。
 また、日本は、戦後、平和国家を看板に、急速に経済成長をとげ、アジア第一の先進国となったわけですが、彼は、天皇が、そこまでも見通していたかに書いています。
 これは私の直感ですが、それは見通しというより、戦後の天皇は、アラブの王様たちのように、アメリカという、長いものに巻かれていた君主になりさがっていたのではないか。むしろ、バーガミニは、見通していたかに書くことで、アメリカの陰謀の二重性に目をつぶろう、あるいは、自国の優越性に酔おう、としていたかにも読めます。
 そこでですが、では、日本人として、敗戦の段階での選択は何が正しかったのか、という問いが浮かび上がってきます。
 仮に、天皇にも極刑が執行されていたとすると、日本は本当に混迷の極に達していたのでしょうか。
 ここから先は想像の世界ですが、その判決を契機に、天皇制を見直さなければならなくなったのは当然の結果でしょう (それで日本人が総くだけとなり、烏合の衆となった? それは陰謀側の宣伝で、そうはならなかったでしょう)。 むしろ、明治維新を契機に、政策的に利用されてきた天皇制が、そうしてむしろ江戸末期の非力な天皇制の状態に舞い戻り、天皇家が、自然な形で、普通の名家のひとつにもどっていく過程がみられたのではないでしょうか。
 むしろ、たしかに、当時避けられなかった共産主義の影響は受け、日本も朝鮮半島のように、二分される状況に至っていたかもしれませんし、いなかったかもしれません。もちろん、一人勝ちの経済成長もなかったでしょう。そうしたありえた状況を想像する時、先のエッセイ 「星友 良夫」 だった人について にも表されているように、朝鮮半島で現に生きてきた人々のリアリティーも、いっそう真に迫ってくるはずです。
 ともあれ、そうした選択をしようにも何にも、当時は、占領軍の命令がすべてを決定し、日本人に、歴史的方向を自己決定する自由はありませんでした。つまり、アメリカの国力の前に降伏した結果です。
 しかし、そうした無力状態が解消されて半世紀以上がたち、しかも、アメリカの国力の影響力にもかげりの見える今日、日本をめぐる 「ダブル・フィクション」 について思いをめぐらすのは、時宜にかなったことと思います。またそこで初めて、戦後の混乱期を、日本とは異なった環境の中で生き抜いてきた他のアジア諸国との、共通基盤の形成が始まるのではないでしょうか。
 そうした考察のテキストとして、この 「訳読」 を続けて行きたいと思います。

 (松崎 元、2006年6月11日、23日一部修正)
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_00_df_01.htm


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