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中川信夫 『東海道四谷怪談』 1959年 新東宝
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投稿者 中川隆 日時 2018 年 4 月 14 日 14:12:28: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 映画 震える舌 1980年 松竹 投稿者 中川隆 日時 2016 年 4 月 28 日 23:42:49)


中川信夫 『東海道四谷怪談』 1959年 新東宝

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E6%80%AA%E8%AB%87+%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E5%A4%AB

監督 中川信夫

脚本
大貫正義
石川義寛

原作 鶴屋南北

キャスト

民谷伊右衛門: 天知茂
お岩: 若杉嘉津子
お袖: 北沢典子
直助: 江見俊太郎
お梅: 池内淳子


評価

『映画評論』1959年8月号における佐藤重臣の作品評が、最も早く書かれた批評である[20]。佐藤は「中川信夫のお化け映画は、ひとつの定評がある」と中川恐怖映画に当時ある一定の人気があったことを紹介しながら、そうした作品の中でも「快心の作」「「新東宝という紙芝居下請工場に完全に埋没してしまった筈の中川信夫が、こんな形で執念の世界をヒッサゲテくるとは」「日本のシュル(シュール)の伝統は、いまや再生運動をおこし始めている」と、本作が際立った傑作であると絶賛している[20]。

『映画評論』1966年10月号特集「怪奇と幻想映画展」において、「怪奇映画二十選」第4位[21]。選者は澁澤龍彦、山崎忠昭、石上三登志、赤坂のバー「カミーラ」の女主人(原文ママ。氏名不詳)、佐藤重臣らが結成した「怪奇映画クラブ」である[22]。佐藤重臣は同特集『選考記』において本作品を「日本映画では世界に誇れる唯一のもの」と評している[23]。

上位3作品は、

1位=『吸血鬼ドラキュラ』(テレンス・フィッシャー監督)
2位=『血とバラ』(ロジェ・ヴァディム監督)
3位=『怪人マブセの挑戦』(ハロルド・スタイン監督)

であり、本作品は第5位の『悪魔のような女』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)よりも上位に位置している[21]。なお『地獄』は23位である[21]。


映画評論1974年10月号「怪奇映画ベストテン」第1位。

滝沢一『再評価されるべき「東海道四谷怪談」』[24]。

淀川長治は蓮實重彦、山田宏一との対談『映画千夜一夜』において「『四谷怪談』いうもん自身がいいが、今までつくられてきた中では中川信夫のが一番よかったな」と語っている[25]。

中川信夫に関する多くの文章を残した桂千穂は、中川へのインタビューにおいて「他の映画(※中川作品)が無くなってもこの『(東海道)四谷怪談』だけは残ると思います」と語って中川を感動させた[26]。

キネマ旬報『オールタイム・ベスト 映画遺産200』日本映画106位[27]。
黒沢清『ホラー映画ベスト 50』第10位[28]。寸評で本作品を「ホラー映画の基本をきっちり守ったお手本」と評している[28]。ただし黒沢は、同ベスト50では大映版を第7位にランキングしており「お岩さんもので何と言ってもいちばんこわいのがこれ」と絶賛している[29]。

三島由紀夫は本作品で伊右衛門を演じた天知茂にぞっこん惚れ込んだ。三島は天知伊右衛門について「近代味を漂わせたみごとな伊右衛門」と絶賛し[30]、後の自作戯曲の舞台化『黒蜥蜴』(1968年)において「このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人」である主人公・明智小五郎役に天知を抜擢する契機となった[30]。三島は『黒蜥蜴』初演のプログラムにおいて、天知について「(『東海道四谷怪談』以来)夙に私は君のファンになっていたのであった」とラブコールを捧げている[30]。また、『黒蜥蜴』の共演者である美輪明宏は、『東海道四谷怪談』における天知の演技が『黒蜥蜴』の明智小五郎役につながったように、『黒蜥蜴』で天知が演じた明智小五郎のイメージは、そのまま後の人気テレビシリーズ『江戸川乱歩の美女シリーズ』へと受け継がれていることを指摘し、天知の演技者としての原点は『東海道四谷怪談』にあると語っている[31]。

フランシス・フォード・コッポラ監督は、本作を「世界のオカルト映画の中で最高傑作だ」と高く評価している[32]。


もともとは主役の民谷伊右衛門には、嵐寛寿郎が配役される予定だった(予算表には嵐の名がある)が、「イメージが違うから」とのことで代わりを探すことになり、次に丹波哲郎に決まった。が、脚本を書いた石川義寛助監督が「冗談じゃない、全然下手で話にならないからと、中川監督と相談して引きずり落した」という。石川は代わって天知茂を推薦。天知はこの頃まだ主演経験は少なかったが、まじめな人柄と、昭和33年の『憲兵と幽霊』でよく演っていたということで、石川は天知を推したと語っている[14]。

嵐の降板について天知は、同時期に大映が三隅研次監督、長谷川一夫主演でカラー作品『四谷怪談』の撮影に入ったことが判明、しかも公開日時も同じ1959年7月1日という競作状態になったため、長谷川一夫対嵐寛寿郎の対決になって新東宝の看板俳優である嵐を傷つけることを大蔵が恐れ、既に直助役に配役されていた天知茂を伊右衛門役につけ、直助役には江見俊太郎を配役したとしている[15]。また天知は、嵐が配役される以前から、自分に伊右衛門をやらせてくれと大蔵と中川に直訴したと語っている[15]。また、嵐寛寿郎降板後、一時期天知が伊右衛門と直助の二役を演じるという案が会社側から出されていた[15]。

江見はもともと現代劇俳優であり、時代劇である本作での起用は異色だった。冒頭で殺しをした伊右衛門に直助が擦り寄るが、毛利監督版で同じ直助を演じた田中春男が警戒して少し下がってから擦り寄るところ、江見はただ前進するだけである。高村洋三(高橋勝二)は「その(現代劇の)江見ちゃんらしさを、中川さんはケツまで持ってってる」と表現している。

また、天知の伊右衛門が狂乱する場面では「1対2」という立ち回りのため、高村洋三が殺陣をつけた。高村は「天知はそれ以前から立ち回りの稽古に出てきたりしてたから、僕たちにしても何とかしてやりたいって気持ちがあるし、彼も必死だったね」と述懐している。

お岩役には『毒婦高橋お伝』など年1本ペースで中川作品に出演している若杉嘉津子が抜擢された。お岩のメイクがおどろおどろしいが、高村洋三は「若杉さんは別に嫌がってなかったよ。それに失礼だけど、女優としてはそんなに二枚目じゃないからね」としており、また新東宝での序列は上位の、若杉によるお岩役については、「他にいなかったからね、だから敵役をあえて若杉さんは演ったんじゃないかね。役者としても、やっぱり出られることの喜びじゃないかな。それに主役だしね。中川さんがやってくれるっていうのもあったしね」と語っている[16]。

池内淳子が伊右衛門の運命を狂わせるお梅役で出演しているが、池内は、のちに1965年(昭和40年)、豊田四郎監督の『四谷怪談』(東京映画製作、東宝配給)では、お袖(豊田監督作品での表記は「おそで」)役で出演した[17]。

原作との比較

原作は『仮名手本忠臣蔵』の一挿話であり民谷伊右衛門は塩冶(赤穂)浪人だが、本作では備前岡山藩に舞台が移され赤穂事件との関連は一切省略されている。

四谷左門殺害の犯人は、本作では御金蔵破りをした藩士に被せる形とされている。

佐藤与茂七は、原作では塩冶浪士の一人として江戸へ出て、地獄宿で春を売っているお袖と偶然出会い更に直助とも出会ったために命を狙われるが、本作では伊右衛門一行の一人として江戸へ向かい、曾我兄弟の墓の近くにある白糸の滝に、直助と伊右衛門によって突き落とされる。

小仏小平が本作には登場しない。小平の代わりにお岩とともに戸板にくくりつけられ隠亡堀に捨てられるのは、本作では宅悦になっている。したがって伊右衛門が渡された毒薬の包みを小平が盗もうとして押し入れに閉じ込められるエピソードも本作にはない。ちなみに本作で宅悦が発する呪いの言葉は「旦那、お金を下さい」。伊右衛門にお岩強姦を依頼された宅悦が手に入れるべき報酬のことである。

原作の三角屋敷に相当する直助とお袖の小屋の場面があるが、本作ではお袖は葦原の中でお岩と出会うなど随所に映画的なアレンジが施されている。

お岩の亡霊が伊右衛門の悪仲間を次々と始末していく原作の見せ場の一つが、伊右衛門を悪に徹しきれない弱い人間として性格づけたせいか一切映画では省かれている。したがって仏壇返しの仕掛けも、伊右衛門が地面に置いた傘を頭上に掲げると、それにつられるようにしてお岩の亡霊が現れる場面も本作にはない。仏壇返しに相当する大がかりな仕掛けは、亡霊に取り憑かれた伊右衛門が蛇山寺本堂の阿弥陀像に祈ると、その阿弥陀像が伊右衛門を見捨てるように彼から遠ざかっていく幻想場面で生かされている。

本作は結末で伊右衛門がお袖と与茂七の襲撃を受けるところまでは原作と同じだが、その後の展開が大きく異なっていて、伊右衛門はお袖が突き出した脇差を持つ手をつかみ、自らの手でそれを腹に突き刺すという、自刃とも見える結末になっている。また死ぬ間際に伊右衛門は「お岩、許せ」と謝罪する。天知茂はこうした伊右衛門の性格づけを「現代の若者にも共通する、悪の一点張りではない人間の弱さと脆さ」と語っている[19]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E6%80%AA%E8%AB%87_(1959%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)  

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コメント
 
1. 中川隆[-9660] koaQ7Jey 2018年4月14日 14:17:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10306]


中川信夫 〜異界の視点〜 2017.09.25
http://www.hananoe.jp/movie/kantoku/kantoku070.html

中川信夫は怪談映画で名を馳せた監督だ。その代表作『東海道四谷怪談』(1959年)は日本映画史上屈指の大傑作と言われている。

緊張感あふれる脱獄・逃亡シーン(ちょっとしたレズシーンもある)で息もつかせぬサスペンス映画『女死刑囚の脱獄』(1960年)を撮ったのも中川監督である。

私はこの二作を同時期にビデオで観て、「こんなにすごい監督がいたのか」と興奮したものだ。


 無論、そこは大蔵貢社長の意向で低予算の時代劇、怪談映画、お色気映画を量産していた頃の新東宝の監督だけあって、突拍子もない内容の作品も沢山撮っている。それでも大半が手堅くまとめられ、エンターテイメントとして成立しているのは、中川監督の手腕によるところが大きい(片腕とも言える美術の黒沢治安の功績も無視できない)。

 中川監督は若い頃苦労した人で、マキノ映画、市川右太衛門プロダクション、マキノ・トーキー、嵐寛寿郎プロダクションなど、身を寄せた所がことごとく閉鎖された上、東宝からも追い出され、松竹でも芽が出なかった。その間、ジャンルを問わず臨機応変に何でも撮った。師匠である山上伊太郎(脚本家)の言葉、「人間一生に一度は気を吐く時があるものです」を胸に、中川監督は失意の時を乗り切った。

 戦後、42歳で新東宝に入り、怪談映画で世の脚光を浴びたのは50歳を過ぎてからのこと。1960年代以降はテレビの仕事も多く手がけ、1984年に79歳で亡くなった。その後、酒と豆腐を愛した監督を偲ぶ「酒豆忌」が定着。熱心なファンだった若者たちが大人になってからも変わらず支持し続け、再評価を力強く促したこともあり、中川信夫の名が忘れられたことは今日に至るまで一瞬たりともない。

 そういえば、澁澤龍彦もいくつかの論文やエッセイで中川作品を取り上げていた。そのうちの一つ、「空前絶後のこわい映画」という小文では、『東海道四谷怪談』での小道具の扱い方を絶賛し、その上で、「この映画のこわいことは無類で、私は生まれてから、こんなこわい映画を一度も見たことがないのである。まさに空前絶後というべきだろう」と書いている。内外の怪奇映画をしらみつぶしに観た上で、このように評価しているのである。

 中川監督の映画をある程度注意して観ている人は、川、海、湖、沼など水が映っているカットの多用性に驚かされるだろう。監督が撮る水は、時に怖くなるほど美しい。水場に幽霊がいるという話は今も耳にするが、監督の中にも、水と死を結びつける意識があったのだろう。水への執着ぶりは尋常ではなかった。遺作となった『怪異談 生きてゐる小平次』(1982年)のラストに賽の河原が出てきて、川と美人(宮下順子)の画で締め括られるのは、いかにもこの監督らしい。

 俯瞰のショットが効果的に用いられているのも、中川作品の特徴だ。天知茂が極悪の憲兵を好演した『憲兵と幽霊』(1958年)では、それが不自然なほど活用されている。例えば、波島中尉(天知茂)が部下の田沢(中山昭二)に無実の罪を着せてその母親と妻の明子(久保菜穂子)を拷問にかけるところや、田沢を謀殺した後、明子を犯す前に酒で酔わせるところ(遺影のカットが挿まれる)など、ほとんど異界の視点のように感じられる。「お前のやっていることは全部見ているぞ」という意味を持つ、誰もそこから身を隠すことの出来ない目である。この死角なきアングルが『東海道四谷怪談』ではより充実した演出力を以て駆使され、川を背景に、直助(江見俊太郎)が民谷伊右衛門(天知茂)にお岩(若杉嘉津子)を殺すようそそのかす猛烈に素晴らしいシーンに結実する。

 その関連で言うと、ラストシーンのカメラも異界的である。『憲兵と幽霊』と『東海道四谷怪談』については、これを死者の視点と呼びたい。『憲兵と幽霊』では地の底のように思えるほど下の方から明子と田沢の弟(いずれ結ばれるであろう二人)を見上げるロングショット、『東海道四谷怪談』ではお岩が赤子を抱えて成仏するところを見上げるカットで幕をおろす。前者の視点は「きっとお義母さんも地下で喜んでくださるわ」という未亡人の台詞を踏まえたものであり、後者はお岩に許しを乞いながら死んだ伊右衛門のものだろう。

 こんな風に中川作品を観ている私にとって、中川信夫は単なる職人監督ではない。むしろ思想を持った映像作家と呼びたいくらいである。『地獄』(1960年)は映画が始まって一時間ほどで登場人物が全員死亡する豪快な展開で、後半は実験的な映像を駆使した地獄の描写が延々と続く。中川監督は「文字を、画面に移行させる。この当然のことが、非現実の世界の具象化という段階で如何に困難を極めるかを如実に痛感しました」と書いているが、現世で続発する不幸な出来事がすでに圧倒的質量を持っているため、現世と地獄の不条理ぶりには差がほとんど感じられない。その点で、これは地獄のような現世を生きた人間が、死んだ後も地獄で生き続ける永遠の地獄を描いた作品と言い得る。ここで私が思い出すのは、監督が自叙伝で皆に伝えたいこととして選んだ言葉ーー「希望は全て消え失せた。しかも生きねばならぬ」である。「しかも」の一語は重い。

 勧善懲悪型の怪談は時代錯誤だ、と言う人もいるかもしれない。たしかに大学紛争盛んなりし頃、『怪談 蛇女』(1968年)のような作品を撮り、忌むべき悪党たち(河津清三郎、根岸明美、山城新伍)を制裁していた中川監督は、前時代的なオカルト崇拝者のように見えただろう。しかし、その見方は誤っている。監督は怪談映画を「人間悲劇の一つの表現形態」とみなし、普遍的な心理映画としての性格を具備させようと腐心していた。「お化けを想像し、お化けを見たという錯覚におちいる当人の心理状態が、ストーリーの流れの上に正確に掴めていれば、お化け映画は或る程度その目的を果たしたというべきでしょう」という言葉は、きちんと実行に移されている。その結果、怪談としても単純に怖いし、心理映画としても重みのある作品となっているのだ(全部が全部というわけではないが)。

中川監督は女優を撮るのもうまい。若き日の三原葉子、高倉みゆき、北沢典子、三ツ矢歌子、万里昌代といった女優を実に魅力的に撮っている。この中では北沢典子がお気に入りだったようで、後年のインタビュー記事でも褒めていた。大映から新東宝に移籍した若杉嘉津子も中川作品に欠かせない女優。『怪談累が渕』(1957年)や『東海道四谷怪談』のお化け役ばかりでなく、『毒婦高橋お伝』(1958年)ではタイトルロールを妖艶に演じている。傑作『女死刑囚の脱獄』でヒロインの高倉みゆきを励ます女囚役も忘れがたい。大蔵貢時代の新東宝はエログロ路線のイメージがあり、それ自体は事実でもあるのだが、そんな中で各人の演技力を引き出しているところが中川監督らしいと言える。

 監督が「僕の作品のベスト・スリーに入ります」と語っていた『「粘土のお面」より かあちゃん』(1961年)は、大蔵退陣後に撮られた文芸映画で、極貧ながらも踏ん張って生きようとするブリキ屋の家族を描いている。原作者は『綴方教室』の豊田正子。もともと小津安二郎を贔屓にしていた中川監督としては、こういったホームドラマを撮ることは念願だったにちがいない。役者の演技は自然であり、貧困を描くリアリズムは徹底している。ブリキ屋の隣に住む修繕屋の病妻のやつれ具合など目も当てられない。それでも健気な子供たちの存在が光明となり、暗い映画にはなっていない。

 暗さを感じさせないのは、映像の力のなせるわざでもある。ブリキ屋は淀んだ川に面しているが、家賃を払えず電気を止められていよいよ行き詰った後、生命の淀みから脱するようにその川を離れ、リアカーをひいて夜逃げをする。そして、父親は子供のために何をしてでも生きていく決意を固め、最後に大きな川を渡る。橋には外灯が並び、一家の行く先が明るく見渡せる。このラストは異界の視点ではなく、「しかも生きねばならぬ」を前向きにとらえた表現だ。少々穿ちすぎかもしれないが、当時倒産寸前だった新東宝に身を置いていた中川監督が、自らを投影させたラストシーンと言えるかもしれない。

(阿部十三)

[引用文献]
滝沢一・山根貞男編『映画監督 中川信夫』(リブロポート 1987年1月)※
澁澤龍彦『澁澤龍彦 映画論集成』(河出書房新社 2009年5月)
※中川監督による自叙伝、インタビュー、評論のほか、詳細年譜、評伝、フィルモグラフィーなどを網羅した資料集


[中川信夫略歴]

1905年4月18日、京都生まれ。実家は料理屋。

文学青年で小説を書いていたが、映画界へ。24歳でマキノ映画の助監督になり、その傍ら脚本も執筆。市川右太衛門プロダクションへ移り、1934年に『弓矢八幡剣』で監督デビュー。その後撮影所を転々とし、戦中は中国で記録映画を撮っていた。1947年に新東宝に誘われ、翌年『馬車物語』で映画界に復帰。

『私刑』(1949年)、『思春の泉』(1953年)などで注目され、大蔵貢が社長に就任した1950年代後半からは怪談映画や怪奇映画を撮りまくり、監督としての地位を確立した。

1961年に新東宝が倒産すると、活躍の場をテレビに広げ、『柔道一代』『父子鷹』『アッちゃん』『鳴門秘帖』『プレイガール』で腕をふるう。1982年、久々の映画『怪異談 生きてゐる小平次』を撮り、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。

1984年6月17日、心不全のため死去。酒と豆腐を愛したことから忌名を「酒豆忌」という。

[主な監督作品]

1934年『弓矢八幡剣』/1935年『恥を知る者』『悪太郎獅子』/1936年『修羅八荒』『槍持街道』/1937年『旗本八万騎』『女左膳』/1938年『日本一の岡っ引』/1939年『エノケンの森の石松』『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』/1940年『エノケンのワンワン大将』/1941年『虞美人草』/1948年『馬車物語』/1949年『私刑』/1950年『月の出の決闘』/1951年『若様侍捕物帖 謎の能面屋敷』/1953年『思春の泉』/1954年『若き日の啄木 雲は天才である』/1955年『番場の忠太郎』/1956年『吸血蛾』/1957年『怪談累が渕』/1958年『毒婦高橋お伝』『亡霊怪猫屋敷』『憲兵と幽霊』/1959年『女吸血鬼』『東海道四谷怪談』/1960年『女死刑囚の脱獄』『地獄』/1961年『「粘土のお面」より かあちゃん』『八百万石に挑む男』/1968年『怪談 蛇女』/1982年『怪異談 生きてゐる小平次』
http://www.hananoe.jp/movie/kantoku/kantoku070.html


2. 中川隆[-9659] koaQ7Jey 2018年4月14日 14:22:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10306]

全68作品。中川信夫監督の映画ランキング - 映画格付
http://cinema-rank.net/s-kantoku/258983

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