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Isao Okano - A Passion For Judo 岡野 功 /山口香 「女姿三四郎」が、柔道界の問題点の
http://www.asyura2.com/09/sports01/msg/516.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 8 月 31 日 03:40:23: ulZUCBWYQe7Lk
 


岡野 功(おかの いさお、1944年(昭和19年)1月20日 - )は日本の柔道家、流通経済大学名誉教授。1964年(昭和39年)東京オリンピックの柔道男子中量級金メダリスト。身長171cm。体重80kg[1]。


来歴・人物[編集]

茨城県龍ケ崎市出身。福井英一の漫画『イガグリくん』[2]に影響を受け中学から柔道を始める。 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校卒。中央大学法学部に在学中の1964年(昭和39年)、東京オリンピックに中量級の日本代表として出場し、金メダルを獲得[1]。翌1965年(昭和40年)の世界選手権でも優勝し、わずか21歳にして柔道中量級における世界のトップ選手となる。

1967年(昭和42年)には全日本選手権で優勝し、中量級選手としては当時史上初となる柔道三冠を獲得。しかし直後の日ソ親善試合で右肩を負傷したため、同年8月にソルトレイクシティで開催された世界選手権への出場は辞退した。翌1968年(昭和43年)、全日本選手権で準優勝し、さらに1969年(昭和44年)では優勝と、3年間連続で体重無差別の全日本選手権において決勝に進出した事は、身長170cm[3]、80kg以下の体重を考慮すれば特筆すべき偉業である(80kg以下の体重は、歴代の全日本選手権の優勝者で最軽量)。マスコミから「昭和の三四郎」[3]と称された。

右の釣り込み腰から次第に背負投、左の袖釣り込み腰から次第に一本背負投に進化させ左右の担ぎ技を得意技とした。大きな相手には、小内刈りなどの足技や相手の足を取る掬い投げなどを武器に体重差を克服した。また奥田義郎やロシアの選手に寝技で敗れた経験から、寝技も鍛錬し、立って良し、寝て良しと当時の柔道界で評価された。中央大学卒業後は、天理大学助手となり当時は交流の少ない関西独特の柔道を修行し、その後日本武道館へ移籍して東京へ戻った。特定の学閥に属さない姿勢は、一線級の選手達には評価され、正気塾には派閥や国籍に関係なく塾生が集まった。ただし、その姿勢は日本柔道界からは異端児と見られることも多く、実績と功績から観れば日本の柔道界では不遇な扱いをされている(例えば、同じく柔道三冠で遥か後輩の上村春樹九段や山下泰裕八段などに対して、柔道六段から昇段が止まっている)。

1964年東京オリンピックで岡野が使った得意の絞め技に両者が横転する形で絞める十字絞がある。当時この技は知られていなかったため、主審は相手選手の抑え込みを宣誓するという珍事が起きている(相手選手が失神したため主審が気付き、岡野の勝利とした)。これは奥田義郎が佐藤宣践を試合で絞め落とした「ネズミ捕り」という、相手を押さえ込みに誘い込み、自分が下になりながら絞める技を参考に工夫したと本人が語っている。なお、総合格闘技でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが使い有名になったスピニングチョークと同じ技との誤解があるが違う技である。岡野の技は相手の襟で絞めている。

特に「後の先」という、相手を追い込んで技を掛けさせ、その力を利用して一本を取るという理念を実践し、後進にも指導している。

引退後[編集]

25歳で“体力の限界”として突如引退[4]した後は、1970年(昭和45年)に正気塾(現在は流通経済大学柔道部の合宿施設)を設立。のちに世界チャンピオンとなる二宮和弘や津沢寿志らを育て上げた。1973年(昭和48年)のスイス・ローザンヌの世界選手権では日本代表チームのコーチとして参加し、6階級全ての金メダル獲得に貢献した。1976年(昭和51年)のモントリオールオリンピックでは、日本柔道界悲願の無差別級金メダルを上村春樹が獲得し、6階級で金メダル3個、銀及び銅各1個となるも、大会後、日本代表チームのコーチを更迭された[3]。その後も慶應義塾大学(1989年(平成元年)[元号要検証]-1998年(平成10年))、東京大学(1989年(平成元年)[元号要検証]-2000年(平成12年))の柔道部で師範を歴任し、流通経済大学スポーツ健康科学部の教授、体育指導センター所長及び柔道部部長として後進の指導にあたり、流通経済大学名誉教授に就任した。

『バイタル柔道』[編集]

全日本のコーチ時代に出版した2冊の『バイタル柔道』は、日本柔道が階級内で勝てばよしとし、技が単純化する傾向を見て抱いた危機感から執筆された。空手やキックボクシング界で撮影をしていたカメラマン松永秀夫を起用し、一つの技あたり5枚から場合によっては10枚以上の連続写真を掲載し、解説は簡単なものにとどめた。そうして多少型が崩れていても技をかける一連の流れを重視した[3]。

主な戦績[編集]
1961年 - インターハイ 無差別 3位
1962年 - 優勝大会 3位
1963年 - プレオリンピック大会 中量級 優勝
1964年 - モスクワ国際 中量級 優勝
1964年 - 東京オリンピック 軽量級 優勝
1965年 - 世界選手権 中量級 優勝
1966年 - 選抜体重別 中量級 優勝
1967年 - 全日本選手権 優勝
1968年 - 全日本選手権 2位
1969年 - 全日本選手権 優勝

著書[編集]
『バイタル柔道―投技編』 日貿出版社 (初版1972年(昭和47年)) 佐藤哲也(共著) 当時、柔道の教本では背負い投げといえば作り、崩し、掛けの3つの動作を1・2種類解説する程度であったが、本書では例えば背負い投げだけでも7種類、連続技を含めれば二桁の異なる動作を説明し、それらが全て当時の一線級選手の得意技であり、かつその選手自身が実演するという内容で、特に一線級の選手に接する機会のない地方の大学、高校の指導者及び部員の必読の書になった。

『バイタル柔道―寝技編』 日貿出版社 (初版1975年(昭和50年)) 実践において寝技で一本を取るための、使える寝技をパターン別に解説している。投技編に引き続き、寝技の名手である佐藤宣践や柏崎克彦など一線級の選手が惜しむことなくその得意技を披露している。

『柔道チャンピオン―剛力をねじふす』 ベストセラーズ(ワニブック) (初版1977年(昭和52年)) 中学・高校生向きの内容で、著者の生い立ちから柔道との出会い、選手生活から現役引退までの自伝。

『底力人生を切り開け』 三笠書房  (初版1982年(昭和57年)) 翻訳 ランス・ラーガー著  アメリカ人実業家の著者が、いかに柔道精神をビジネス及び日常生活に生かすかを説いたものである。


ビデオ[編集]
『バイタル柔道』(「得意技」「指導上達法」「柔道にかける情熱」全三巻 1996年(平成8年)発刊)

出典・脚注[編集]

1.^ a b Biography and Olympic Results
2.^ イガグリくん - 絶版マンガ図書館(外部リンク)
3.^ a b c d 西所正道「岡野功の『バイタル柔道』は隠れたロングセラー」『Sports Graphic Number』2010年9月16日号、文藝春秋、2010年、雑誌26853・9・16、56-57頁。
4.^ DVD激闘の轍 全日本柔道選手権大会-昭和編-(財)講道館、(財)全日本柔道連盟、2010年



山口 香(やまぐち かおり、1964年12月28日 - )は、東京都豊島区生まれの元女子柔道選手、柔道指導者。現在は筑波大学体育系准教授、全日本柔道連盟女子強化委員、日本オリンピック委員会理事、コナミ取締役。元筑波大学柔道部女子監督。段位は六段。得意技は小内刈。


人物[編集]

欧州と米国の女子柔道の方がレベルが高く、日本人女性柔道家はメダルに届くことが少なかった1980年代、第3回世界選手権で日本人女性柔道家として史上初の金メダルを獲得。

ソウルオリンピックでも銅メダル獲得など、日本女子柔道が世界のトップに通用することを証明した伝説の女子柔道家として「女姿三四郎」と称賛された。

2011年にはJOCの理事に選出された[1]。

また、女子柔道強化選手による暴力告発問題では告発した選手のサポート役を引き受けていたが、2013年3月20日付けで新たに全柔連強化委員にも加わることになった[2]。

さらに、4月1日には瀬古利彦の後任として東京都教育委員会の教育委員に就任した[3]。

6月21日には日本バレーボール協会の理事にも登用されることになった[4]。

8月21日には全柔連の監事に登用された[5]。

略歴・戦歴[編集]
1978〜1987年:全日本体重別選手権10連覇(第1・2回:50kg級、第3〜10回:52kg級)
1980年(第1回)、1982年(第2回)、1986年(第4回)、1987年(第5回):世界選手権銀メダル
1981年 環太平洋柔道選手権大会 優勝
1979年、1981年、1983年、1985年 強化選手選考会 優勝
1984年:第3回世界選手権 金メダル(日本女子史上初の快挙)
1985年:第3回福岡国際大会金メダル(72kg級の田辺陽子と並んで日本人として初優勝)
1986年:第4回福岡国際大会金メダル
1987年:筑波大学体育専門学群柔道方法論専攻卒業
1988年:ソウルオリンピック銅メダル(当時は公開競技)
1989年:筑波大学大学院体育学研究科コーチ学専攻修士課程修了、同年現役を引退
1993年:日本オリンピック委員会の在外研修制度で1年間イギリスに留学
1998年:武蔵大学人文学部助教授
2007年:武蔵大学人文学部教授
2008年:筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システム・ マネジメント専攻准教授
2011年:筑波大学体育系体育専門学群スポーツ健康システム・マネジメント専攻准教授、日本オリンピック委員会理事
2013年:全日本柔道連盟監事・強化委員、東京都教育委員会委員、日本バレーボール協会理事
2014年:コナミ取締役[6] 上月スポーツ・教育財団評議員、茨城県スポーツ推進審議会委員、つくば市スポーツ振興審議会委員なども務める。


雑誌連載[編集]

『現代柔道に活!』(武道雑誌『月刊秘伝』) - 柔道の諸問題を鋭い論で斬る同誌の看板連載。

その他[編集]
劇場版『YAWARA!』(1989年、東宝)にカメオ出演。
1992年、阪急ドラマシリーズ(関西テレビ放送)として『めざせ!金メダル 山口香物語』という伝記ドラマが放送された(少女時代編=4-6月とオリンピックを目指した「新」編=7-9月がある)。
山口は現役時代、52kg級の選手であったが、ある大会の時には体重調整に失敗して52kg級から外されそうになり、計量の際に少しでも体重を軽くしようと、 パンツまで脱いで全裸で体重計に乗ったというエピソードを、自らの講演でたびたび語っている[要出典]。ちなみにその時は、ぎりぎりで52kg級に合格できたという。
2009年から2年間にわたりブログ「山口香の柔道を考える」を執筆。

関連項目[編集]
柔道家一覧
東京都出身の人物一覧
めざせ!金メダル_山口香物語

脚注[編集]

1.^ ソウル五輪で銅メダルを獲得した“女三四郎”山口香さんがJOC新理事に スポーツニッポン 2011年6月15日
2.^ 山口氏が全柔連強化委に 環境改善に意欲 スポーツニッポン 2013年3月27日
3.^ 東京都教育委員会委員の任命に係る議会の同意について 2013年3月28日
4.^ 日本協会理事に柔道・山口さんやセッター竹下 MSN産経ニュース 2013年6月21日
5.^ 宗岡氏が全柔連新会長=副会長は山下氏−再建へ新体制発足 時事通信 2013年8月21日
6.^ 「みずほ、ソニー、SB…導入加速、顔ぶれ多彩な社外取締役 法改正で“義務づけ”へ 」MSN産経ニュース2014.5.21
 

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コメント
 
01. 2014年8月31日 03:58:54 : r2hkpE6I9E
柔道とは関係ないですが、知ってる人から聞いた話だと、岡野氏は一般入試で法学部入っているそうですし、そういうところも好ましく思えます。

02. 2014年8月31日 04:32:23 : r2hkpE6I9E
プーチン大統領の柔道観とそれにまつわる話 (2007年)

ロシアのウラジミール・プーチン大統領は若い頃に柔道とサンボの本格的な経験があり、どちらもロシア連邦スポーツマスターの称号を有する上級の熟練者であることはつとに有名です。現在も柔道とサンボをこよなく愛しているのです。

2000年9月の訪日の際にはプーチン大統領は、講道館館長から贈られた六段の紅白帯をその場で締めることを丁重に辞した上、こう言葉を続けました。「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、一日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」。また、山下泰裕とは初対面から7年間に10回以上も対面し、柔道について語り合い、すっかり意気投合しています。

そればかりか、今年の4月にはサンクトペテルブルグで行われた総合格闘技のイベント「ボードッグ」を観戦。柔道、サンボ出身の総合格闘技世界ヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルの試合を観戦し、試合後には大統領主催のパーティに招待して激励しました。そして5月にはロシア連邦大統領令により、ヒョードルに「祖国に対する功労」勲章2級を授与しているのです。

そんな、柔道、サンボの熱烈な支援者プーチン大統領は、明確な「柔道観」、「サンボ観」を持っています。
柔道については、「柔道は単なるスポーツではない。柔道は哲学だ。日本人の心や考え方、そして文化である」と答えています。
サンボについては、「サンボは創造的なスポーツであり、常に新しい技術・戦術がつくられ発展するロシアの格闘技である」と答えているのです。

全く別の機会のインタビューであり、2つの格闘技を対比する意図の質問に対する回答でないにもかかわらず、
「柔道は『様式的哲学的』であり『正々堂々』と戦う武道であること」
「サンボは『創造的実践的』であり『自由奔放』に戦うスポーツであること」
を大統領は大変簡潔かつ的確に表現しています。両格闘技の本質を完璧に理解していることに、私は尊敬の念を禁じえません。

柔道とサンボの関係は、レスリングのグレコローマンスタイルとフリースタイルの関係に酷似してます。「柔道とグレコローマンスタイル」は伝統的なスタイルで、「正々堂々」と戦うことを本質とし、「サンボとフリースタイル」は革新的なスタイルで、「自由奔放」に戦うことをモットーとしています。
それが理由であるかどうかは定かではありませんが、日本では柔道からレスリングに転向する人はグレコローマンスタイルを選択する比率が高く、旧ソ連ではサンボからレスリングに転向する際にフリースタイルを選択する比率が高いというデータがあります。

日本では、大きく分けて、「高校からレスリングを始める人」と「高校卒業以降からレスリングを始める人」に分類されます。
柔道からレスリングへ転向する場合、高校からレスリングを始める人は、自動的にフリースタイルから先に習います(インターハイにはフリー種目しかない)ので、フリーの選手になることが比較的多いです。高田裕司や富山英明といった金メダリスト、重量級で2大会連続の銀メダルを獲得した太田章などはこのケースです。また、日本のレスリングはフリーの本場のアメリカから入ってきたため、戦前や戦後まもなくの時期はフリースタイルの大会しか実施されず、大部分の転向者はフリーの選手になりました。日本レスリングの父・八田一朗(早大柔道部出身)や柔道界の重鎮・小谷澄之十段(東京高師出身)、一時期、レスリング選手を兼ねてトルコ遠征もした曽根康治(明大柔道部出身、58年全日本、および世界選手権者)などがこのケースです。

しかし、昭和30年代以降、柔道出身で高校卒業後からレスリングを始めて、五輪に出場した選手は、大部分がグレコローマンスタイルを選択しています。
花原勉(東京五輪フライ級金)、市口政光(東京五輪バンタム級金)、宮原厚次(ロス五輪57キロ級金)といった五輪金メダリスト、
さらには、重岡完治(関西大柔道部)、中浦章(拓殖大柔道部)、
杉山恒治(東海高・柔道インターハイ、国体優勝)※プロレスラーのサンダー杉山
長尾猛司(柔道国体成年の部優勝)、森山泰年(全国自衛隊柔道3連覇)、
三宅靖志(東海大相模高柔道部)、松本慎吾(愛媛・津島高柔道部インターハイ中量級2位)
などの柔道出身者のレスリング五輪代表選手がグレコローマン・スタイルです。

例外的にフリースタイルで活躍した柔道選手には拓殖大時代の正木照夫選手がいます。
正木は柔道と並行してレスリングを学び、フリーの全日本チャンピオンになり、ミュンヘン五輪代表は確定的でしたが、大学4年で全日本学生柔道選手権者(体重無差別)になったこともあって柔道に比重を置くようになり、「本業の柔道ではまだ全日本選手権に出ていない(71年初出場)のにレスリングで五輪を狙うわけにはいかない」と言って、レスリングでの五輪代表という道を自ら放棄しました。

柔道出身者がグレコに向いているという説について、レスリング識者の意見では「グレコローマンは習得するのに時間がかからないため遅く始めたハンデが少ない」、「グレコは投げ技が主体になるため柔道出身者に有利」ということが言われています。
しかし、この理由の根拠は希薄です。日本の選手層の厚い軽量級やせいぜい中量級くらいまでは除いて、層の薄い重量級では多少遅く始めたとしても国内の試合に限定した場合、さほどハンデはありません。また、柔道の投げ技は、「一本背負い、大腰、腰車」など少数の技を除いて「足」を使わない技はありませんのでグレコに応用するのが難しく、グレコの主要な投げ技である「反り投げ」や「俵返し」は経験がありません。にもかかわらず、さほど大きな技術的類似点があるわけではないのに「柔道選手→グレコローマン」が圧倒的に多いという特異な状況となっているのです。

一方、旧ソ連にはサンボ出身のレスリング五輪・世界王者、もしくはレスリングとサンボを兼業した五輪・世界王者が多数いますが、その中の多くがフリースタイルのレスラーです。何故かグルジア出身の選手が多く、バロワーゼ、ロミーゼ、サガラーゼ、ルバシビリ、ティディアシビリなどが該当者です。そもそも、「河津掛けや大外刈り、内掛け、タックル」が投げ技の主力武器のサンボの選手が、足を攻撃できないグレコローマンを選択する理由はほとんどありません。この傾向はモンゴルにおいても同様です。

「柔道とグレコローマンスタイル」の類似点は、哲学的な共通点にあります。

柔道は、日本においては、合戦時の白兵戦の組打ちを想定した柔術諸流派の影響を受けて、嘉納治五郎師範によって創設されたので、根本に流れる精神は「日本武士道」のものです。
嘉納師範は「柔道という広い、また深い原理によって、武士道のみならず、全ての人間に共通の道を説こうとするものである」と柔道の目的を述べています。
日本人は現在でも柔道の公式ルールに認められているにもかかわらず、変則的な組み手や双手刈りや朽木倒しのような足を取る技を邪道だと思う傾向があります。
「正しい柔道」と「正しくない柔道」を区別し、「正々堂々とした試合態度であるかないか」という規範をルールとは別に持っています。これこそが日本武士道の精神です。

一方、ローマ時代に原型が形成され、長い歴史を経て、19世紀にフランスでほぼ現在のルールが整備されたレスリングのグレコローマンスタイルは、相手の下半身を攻撃するのを潔しとしない「西洋騎士道」の精神の流れを汲みます。
ロシアの代表的なグレコローマンレスラーである重量級世界12連覇のアレクサンダー・カレリンは「グレコローマンには固有の道徳・倫理観がある。相手の苦痛を誘う動きはしない。弱い相手とは素早く決着を付け、屈辱を与えるような戦い方もしない。グレコローマンを始めた子供はまずそのことをたたきこまれる。」と、グレコローマンの根底に騎士道的なフェアプレー精神が存在していることを明言しています。

一方、「サンボとフリースタイル」の類似点を、歴史的、技術的に検証してみましょう。

歴史的には、サンボは、日本滞在5年で講道館柔道2段だったワシリー・オシェプコフが、帰国後柔道に旧ソ連的な自由闊達な技術解釈を加えて作った「フリースタイル柔道」が起源であるという説が近年発表されました。「23種類のソ連邦内の民族格闘技を統合再編したもの」として、別の創始者が作ったとする旧ソ連の公式見解は、サンボをソ連邦統合の象徴とし、国民にナショナリズムを喚起するのに都合が良いためレーニン時代に意図的に作られたものだというのです。この説の真偽については諸説ありますが、サンボが柔道の影響を受けたというのは旧ソ連においても共通認識であり、柔道の哲学や様式的な所作を取り除き、連邦内の民族格闘技やレスリングなどと融合してフリースタイル化したものがサンボであるとは言えると思います。

技術的には、サンボは、組み手ひとつとっても柔道以上に自由にジャケット類をつかんでもよく、帯を無制限につかむことが認められています。柔道では潔しとされない手で足を攻撃する技も頻繁に用いられます。まさに「ジャケットを着たフリースタイルレスリング」といって良いほどの類似点があります。

以上の理由により、
日本では「柔道→グレコローマンスタイル」、旧ソ連では「サンボ→フリースタイル」と、転向進路がはっきりと分かれているのではないかと思っています。

「着衣格闘技」では一方の柔道は五輪種目ですが、サンボは五輪種目ではなく、その結果、東京五輪以降サンボ選手の柔道への転向・流入が続いています。その結果、サンボ的な変則柔道が盛んに行われるようになりました。
また、旧ソ連に限らず、欧州圏が中心となって、長年「ポイント制の導入」を初めとしたレスリング的な柔道を推進してきました。また、相手の反則を狙っての「掛け逃げギリギリ」の戦法や、相手につかまれにくいように、体にピッタリとした規格ギリギリの小さい柔道衣が用いられるようになりました。徐々に「ジャケットを着たフリースタイルレスリング」に近付きつつあり、体力的にヨーロッパ圏の選手よりも劣る日本人選手は不利になってきています。近年はルール変更と戦法の「いたちごっこ」の様相を呈しています。

そして、このたびのリオ世界柔道へ向けて象徴的な出来事が起こりました。「鉄板柔道衣」の出現です。今夏の欧州合宿に参加した世界柔道2007日本代表選手によると、合宿で欧州勢が極端に「硬くて持ちづらい」柔道衣を着ていたというのです。柔道衣の硬度に規則がないというルールの盲点を突いて開発されたもので、組み手に影響を与える胸、肩、脇など、あらゆる部分に細かい縫い込みが施され、ガチガチの硬さに仕上げられているというのです。組んで投げる日本柔道にとっては死活問題で、これにより組み手が一層制限され、
ますますタックルなどで体ごと持ち上げて倒すパワー柔道が主流になるものと思われます。
技の日本柔道は大ピンチに陥り、力の欧州勢有利に傾くことはほぼ確実です。

このように、プーチン大統領の「柔道は単なるスポーツではない。柔道は哲学だ。日本人の心や考え方、そして文化である」という発言とは裏腹に、国際柔道界のパワーバランスによって、創始国日本の柔道哲学は踏みにじられ、「サンボ化」、「フリースタイル化」への道をたどってきています。

世間一般には、いまだに「柔道は日本で生まれた武道なのだから日本が勝って当たり前」という意見もありますが、柔道は国際スポーツとしての飛躍的な発展と引き換えに、柔道から「JUDO」へと変質してきているのです。もちろん、この状況に日本柔道はただ手をこまねいているだけではありません。日夜対策を講じ、努力を重ね、伝統の「一本を取る柔道」を目指しています。この逆風の中で、常に金メダルを宿命付けられた日本柔道を、今後もずっと応援し続けていきたいと思っています。

http://www.fujitv.co.jp/sports/judo2007/column_b_11.html


03. 2014年8月31日 04:46:54 : r2hkpE6I9E
岡野氏のyou tubeで出て来る韓国の金義泰については以下。
ふ〜ん、となる話だから載せるんだから木卯ちんとかアラさないでね。

*

戦後の韓国柔道界をリードしたのは、日本に住んで、日本の高校、大学を卒業した在日韓国籍選手でした。東京五輪中量級銅メダルの金(山本)義泰(兵庫・神港学園→天理大)、ミュンヘン五輪中量級銀メダルの呉勝立(兵庫・神港学園→天理大)、モントリオール五輪中量級銅メダルの朴(井上)英哲(京都・京都商業→東洋大)の3人の五輪メダリストを含み、5人の世界大会メダリストが在日韓国籍選手から誕生しています。昭和30年代から50年代半ばにかけては、日本で育った韓国籍選手が非常に活躍しました。
特に関東では法政大や東洋大、関西では天理大や近畿大などの出身選手が優秀な成績を残しています。


彼らは日本で柔道を学んだので、基本に忠実な日本人的な柔道でした。彼らは非常に強く、国際大会で日本の代表選手を苦しめましたが、世界の頂点を極めることはできませんでした。日本人選手から見れば、「大変な強敵」であると同時に、「日本人的な柔道」であるということで、逆に手の内が読みやすく、比較的「対策を立てやすい」相手であったということが言われています。

金義泰は在日韓国籍選手のパイオニア的存在で、学生選手権などで活躍し、天理大主将を務めました。日本の岡野功など中量級の名選手と互角に渡り合い、東京五輪中量級銅メダル以外にも、昭和36年のパリ世界柔道では体重無差別でベスト4、昭和40年のリオ世界柔道では中量級で銅メダルを得ています。
卒業後は母校天理大学に残り、「山本」姓で長年に渡って教授、師範として奉職し、学生の信頼と尊敬を集めました。指導者として慕われ、多数の世界的な選手を育てるなど大きな業績を残しています。関西の柔道界で山本先生を知らない人はおそらくいないでしょう。


呉勝立は済州島生まれで、神戸市長田区育ち。高校時代までは日本名を名乗っていましたが、大学からは母国名を名乗り主将として活躍しました。ミュンヘン五輪では予選で日本の関根忍を破り、敗者復活戦で勝ちあがってきた関根と再度決勝戦で対戦(当時は敗者復活戦から勝ち上がれば決勝へ進めた)し、試合時間10分の内、9分30秒までは大外刈り、払い腰などで攻め、明らかに呉が優勢でした。しかし、そこで関根の体落しで横倒し(現在なら有効相当の技)となり、旗判定の結果、2−1で金メダルを逃してしまいました。
会場には大きなブーイングも起こったほどでした。表彰式では終始うつむき気味の勝者関根に対し、2位の呉は嬉しそうに手を振って観客の声援に答えて清々しい印象を残しました。その後、呉は真っ先に日本の監督、コーチのところに駆けつけて「ありがとうございました」とお礼の言葉を述べました。
呉は「今日は全力を尽くしました。判定には不満はありません」と日本語でさばさばとしたコメントを残し、読売新聞には「美しい敗者、呉」という大きな見出しが踊りました。


井上英哲は東洋大では大学3年の時に全日本学生優勝大会初の決勝進出にレギュラーとして貢献し、大学4年の時にモントリオール五輪に出場しました。世界の舞台では現役後期の園田勇や藤猪省太と同世代に活躍しています。卒業後に関西に居住を移し、主に天理大で練習を重ねて、79年のパリ世界柔道でも78キロ級で3位に入っています。
現在は大阪在住で、某国立大学の柔道部の師範を務めたり、柔道の源流とも言える古流の柔術に興味を持たれたようで、「西郷派大東流合気武術」の修行を10年以上積んで、指導者として活躍しています。大東流は、現在では多数の分派を生じており、西郷派は歴史的系譜が異なるという説もあるようです。また、会津で西郷四郎に伝承されたという言い伝えがありますが、柔道との歴史的関連性や技術的類似点については本稿の主旨ではありませんので割愛させていただきます。ともかく、井上英哲は柔道を愛しつつも、「柔道のルーツへの先祖帰り」をテーマとして修行しているのでしょう。こういう形での柔道への愛情表現もあるのかと感心しました。


井上英哲を最後に、韓国代表は、韓国在住の母国人のみが世界の舞台で闘い続けました。
ソウル五輪の開催決定を契機に韓国国内の選手の実力が大幅にアップしたのです。韓国の柔道が一気に開花したのは、84年ロス五輪でした。安柄根(71キロ級)、河享柱(95キロ級)という2人のスーパースターが金メダルに輝きました。2人は技術的にも優れた名選手でしたが、最大の武器はパワーとファイティングスピリットでした。韓国の柔道スタイルが、この頃から徐々に確立してきました。85年のソウル世界選手権では、斉藤仁、須貝等、西田孝宏らが韓国選手との対戦で負傷して病院送りとなり、「ケンカ柔道」と言われる程の激しさも見せています。特に日本のエース斉藤が趙容徹の反則スレスレの脇固めで左肘を脱臼して敗れたシーンは目に焼き付いています。韓国柔道パワーはご存知の通り、88年のソウル五輪で一気に爆発しました。


韓国はこの頃から女子の強化にも大変力を入れ始め、バルセロナ五輪72キロ級金メダルの金美廷、アトランタ五輪66キロ級金メダルの゙敏仙といった素晴らしい選手が出てきました。特に金美廷はライバルの田辺陽子の世界一を阻止し続けました。実力的に田辺が金に劣っていたとは思わないのですが、紙一重の気迫の差が明暗を分けた気がします。
その後、韓国柔道は、女子は低迷期に入っていますが、男子は78キロ級から86キロ級にかけて4度世界を制覇した全己盈を筆頭に、現役の73キロ級李杬熹や90キロ級の黄禧太などが日本の大きな壁となり続けています。


在日韓国人としては、2001年のミュンヘン世界柔道の重量級2階級に姜(大野)義啓(岡山・作陽→天理大)が出場しましたが、それまで井上英哲以来、ナント22年間もの空白があったのです。また、姜には世界のトップを競えるほどの実績はありませんでしたので、ほとんど日本での知名度はありませんでした。


そんな時に突如旋風のように現れたのが秋山(秋)成勲でした。秋山は2001年9月、日本に26歳の時に帰化し、2003年日本代表として世界柔道に出場しています。在日韓国籍の選手が日本に帰化して世界柔道に出場したのは秋山が初めてのことです。

全日本実業個人2位のキャリアのある父・啓二さんの影響で、3歳の時に柔道を始めた秋山は、大阪の清風高校を経て近畿大学に入学しましたが、決して目立つ選手ではありませんでした。同期にはインターハイ重量級チャンピオンや中量級3位の選手がいたため、秋山は入学当初は「NO.3」扱いでした。大学では71キロ級の関西学生で3度も優勝しましたが、全日本学生は2位止まりでした。その時点では正直に言って、秋山が将来世界レベルの選手になるという予感は全くありませんでした。

秋山は大学卒業後、3年間釜山で市役所に勤務しながら柔道を続けましたが、柔道以外の部分でも色々と複雑な思いがあったようで、大変悩んだ末に日本への帰化を決心しました。
ちなみに、当時の81キロ級のレベルで言うと、日韓は甲乙つけ難かったものの、韓国のエース趙麟徹(97、01世界王者、シドニー銀)に引退の噂があり、日本に帰化した方が国家代表になる難易度はやや高かったと思われます。日本には中村兼三、瀧本誠というビッグネームがひしめいていたのです。

日本企業に就職した秋山は、大変な努力をしたと思います。ウェートトレーニングで鎧のような筋肉を身にまとい、典型的なパワーファイターという印象のある秋山ですが、技術的な探究心も非常に旺盛でした。2003年の講道館杯で瀧本から技あり(合せ技一本)を奪って勝った時の変則的な小内刈り風の捨て身技は、かつて瀧本が2度も苦汁を舐めたイラン選手(サリハニ)の得意技でした。おそらく、対瀧本戦用に短期間で研究して身に付けたのだと思われます。また、基本的には左の払い腰や内股が勝負技でしたが、中量級選手としては珍しく巴投げも大変得意でしたし、細かい足技も器用にこなしていました。

2002年釜山アジア大会で優勝した時に、秋山は「柔道最高!」という、今となっては名物の決め台詞を初めて口にしました。あの台詞は、嬉しさの素直な発露であるとともに、「祖国韓国で日本代表として勝った」という戸惑いの気持ちが含まれていたと感じたのは、私だけでしょうか? 日本や韓国という国家に重きを置いた発言が誤解を受け易い立場の秋山にとっては、国家を超えた「愛する柔道」こそが自身のアイデンティティなのでしょう。

結局、運に恵まれず、大阪世界柔道優勝もアテネ五輪出場の夢も適わず、プロの格闘家となった秋山は、いつも日の丸と太極旗の縫い込まれた柔道衣を着て入場し、勝利のインタビューではいつも「柔道最高!」という雄たけびを上げ続けました。昨年末のリング上での不正的行為で無期限出場停止中の秋山ですが、反省すべきところは真摯に反省し、もしも、ファンの支持が得られるならばリングへ復帰して、日韓友好の架け橋として頑張って欲しいと思っています。

http://www.fujitv.co.jp/sports/judo2007/column_b_05.html


04. 陣中見舞い 2014年9月03日 22:04:10 : 3pEdi1PI5rkGQ : Oqdib2xN4c
横車といい、背負いからの小内刈りといい、
この切れ! うーん、デンジャラス。
今の子がスイミングに行くように、
昔の小僧達は当たり前に近くの町道場通ったんだよね。
驚いたな。
若先生と大先生に連れらて44年の武道館も行ってる。
全く記憶から失せてたけど、岡野の凄さを当時分かっちゃいなかったのだけは事実。
プーチンの言は格言。
彼、空手の某団体からも名誉五段を貰ってる。
ご紹介の柔道コラムはホントおもしろかった。

05. 陣中見舞い 2014年9月04日 19:33:45 : 3pEdi1PI5rkGQ : T5KWGnVhJg
下の動画は今日視聴したんだけど、
山口香は非常に聡明な女性。
嘉納治五郎が各流派の技術を整理再編し、
術を棄て道として体系化した志しをよく知る人。
嘉納治の所為は、閉ざされた各集団内にある殺人術に陽光を当て、柔を、属性を超えて何処の誰もがいきいき出来る活人道に変容させたもの
に他ならない。
前田光世を始めとする世界に散った実践家であり指導者達は、この意を汲む後継者。
この後継者達が育て上げた後進達に幾たびも苦
しめられる講道館柔道は、国家のくびきをますます強めるのに比例して、柔道を剛道化する道
をひた走る。
はらなから公開ご法度の中国拳法千門万派と好対称なすじゃない。

06. 五月晴郎 2014年9月05日 04:00:26 : ulZUCBWYQe7Lk : IvWNuag9V6
岡野のお辞儀(礼)の所作のきれいなこと。
しかし、日本式を外国の選手には強要しない。
そういうところもいいです。

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