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香田誉士史 1.2.3 日刊スポーツ
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2019 年 2 月 21 日 07:37:56: tZW9Ar4r/Y2EU QlJJQU4gRU5P
 


「外に出ろ。白いか黒いかの違いだ」/香田誉士史1


2/19(火) 6:01配信

日刊スポーツ

「外に出ろ。白いか黒いかの違いだ」/香田誉士史1


05年1月、雪が残り、ピカピカに凍ったグラウンドで練習する駒大苫小牧の選手たち


全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第6弾は、2004年(平16)夏の甲子園で北海道勢初優勝を飾った駒大苫小牧の香田誉士史さん(46=現西部ガス監督)です。雪国の常識を覆す練習法で同校を史上6校目の夏2連覇へ導きました。「徹底力」と「反骨心」でハンディを乗り越えた開拓者の挑戦を全5回でお送りします。

【写真】香田誉士史氏

「外に出ろ。グラウンドが黒いか白いかの違いだ」。香田がそう言った時、何人もの選手が耳を疑ったに違いない。04年の全国制覇で一気に知名度を上げた駒大苫小牧の冬の1日。外野ノックから始まり年々エスカレートしていった雪上練習は、いつしか紅白戦にまで発展した。一面真っ白の雪に覆われたマウンドには、後の沢村賞右腕で、現ヤンキースの田中将大も立ったことがある。

香田 将大には「甲子園だと思って投げろ」って言ったよ。ケガをする。肘を壊す。風邪をひく。そういう声はいっぱい耳にしたけど、言われれば言われるほど「うるせーよ」と。選手が、どんどん進化する。春が来なくてもいいなって思うほど楽しかった。

95年に、九州生まれの香田が駒大苫小牧に赴任してから長年「壁」となっていた冬は、10年近くたった頃、力を蓄える絶好の季節へと変貌していた。

北海道の冬は厳しい。1年のうち約5カ月もの間、グラウンドは雪に閉ざされる。太平洋に面し雪が比較的少ない苫小牧市も、例外ではない。その間、室内練習場や体育館で基礎練習を行うのが、この地方の常識だった。せっかく技術が上達しても、雪解けの頃には後退している。悩める香田を救ったのが、社会人野球の大昭和製紙北海道(94年にクラブチーム化の後、解散)で選手、監督として活躍した我喜屋優(67=現興南監督)だった。

我喜屋 北海道は冬は室内っていうのがある。「それじゃあ冬眠する熊さんと一緒だね」って言ったんだ。発想の転換。室内でも練習はできるけど、個人の動きしかできない。ならば、外でやればいい。

沖縄出身の我喜屋と佐賀育ちの香田は「外様同士」で馬があった。「目からウロコ。北海道人になりかけていた時にブスッて刺された感じ」という香田は、さっそく雪をどけ、選手を屋外に集めた。

香田の赴任4年目となる98年から在籍した磯貝剛(35=現室蘭シャークス監督)が苦笑いする。

磯貝 最初に聞いた時は「マジで!?」と思った。寒さは全然、感じない。恐怖心しかなかった。イレギュラーが多くてキツイけど、意外とやれちゃう。

練習をボイコットされたこともあった。スライディングでは二塁で止まれず、左翼前まで滑って行く選手がたくさんいた。それでも、春になって実戦を行うと、サインに対する反応は格段に良くなった。ヒントを与えた我喜屋が言う。

我喜屋 僕は香田の反骨精神を利用しただけ。寒い中で頭を使っていると、心も強くなる。雪解けとともに、精神力はもっと強くなっている。

04年夏からの3年間は、北海道民にとって「奇跡の夏」だった。全国高校野球選手権で深紅の大優勝旗が白河関どころか、一気に津軽海峡を越えた夏。翌年の2連覇。3年連続で決勝に進み最後は準優勝に終わったが、駒大苫小牧の活躍は北海道の短い夏を熱狂に包み「幻の3連覇」と呼ぶ人まで現れた。

小中高と一緒だった幼なじみの森田剛史(46=現佐賀商監督)は、香田のことを経営学者ドラッカーの言葉を借りて「チェンジリーダー」と表した。常識を覆すことを恐れず、変化を生む。初優勝時33歳の九州から北海道にやってきた青年監督の情熱と反骨心は、宿敵だった雪さえも溶かしエネルギーに変えた。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

◆香田誉士史(こうだ・よしふみ)1971年(昭46)4月11日、佐賀県佐賀市生まれ。佐賀商で春夏3度の甲子園出場を果たし、駒大に進学。95年駒大苫小牧に赴任し、翌年監督就任。01年夏、同校を35年ぶりの甲子園に導き、04年夏、北海道勢初の全国制覇。翌05年には57年ぶり史上6度目となる夏の甲子園連覇を果たした。06年夏は早実との決勝再試合の末、準優勝。07年夏、初戦敗退後に辞任し、08年3月退職。鶴見大、社会人野球の西部ガスでコーチを務め、17年11月に西部ガス監督就任。家族は妻と2男。

(2018年1月27日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190219-00485551-nksports-base


警察に2度補導…父が死んで荒れた/香田誉士史2


2/20(水) 6:01配信

日刊スポーツ

警察に2度補導…父が死んで荒れた/香田誉士史2


89年夏の甲子園2回戦、神戸弘陵戦で右翼へソロ本塁打を放つ佐賀商・香田


雪上練習で雪国のハンディを乗り越えた反骨心は、父の影響が大きい。香田は1971年、佐賀市で次男として生まれた。父明宏について「1本筋が通っていて曲がったことが大嫌いな人だった」。5歳上の兄博文の影響で小2で野球を始めてからは、父が道具を手作りし、毎日のように庭先で練習を手伝ってくれた。

【写真】マー君恩師の香田誉士史氏、西部ガス監督に就任

小学生の頃、親戚一同が集まった正月の宴席での出来事だった。酔っぱらった親戚の1人が、当時、佐賀商野球部の兄に「高校入っても、補欠なら意味ないやろ」と絡み出した。「レギュラーかどうかなんて関係ねえや! 3年間、務め上げるのが大事なんだ」。取っ組み合いのケンカが始まりそうなほど激怒した父の姿が、忘れられない。

香田 誠実な人だった。おやじの考え方は、今も自分の根っこに染み付いている。試合に出なくても何とかしようという子たち、一流じゃなくても頑張る子ほど気になって仕方がない。それは、おやじから俺へのプレゼントだった。

電設工事の仕事をしていた父は、台風が来れば家々の屋根に上がってアンテナを直すなど、地域の人たちから頼られた。「おやじは俺のヒーローだった」。その父が49歳で他界したのは中学2年の時。食道がんだった。

香田 高校が佐賀工出身だったからラグビーが好きで。本当は俺にも佐賀工でラグビーをやって、花園を目指して欲しかったんだと思う。死ぬ間際に「お前は運動神経がいいけん、ラグビーせんか」って。それが、最後の言葉だった。

父を失った寂しさはなかなか埋まらず、私生活は荒れに荒れた。額の生え際に見事なM字を描くそり込みは、当時の名残だ。他校の生徒とケンカになって警察に2度、補導され、佐賀商の推薦入試にも落ちてしまった。でも、絶望はしなかった。「推薦がダメなら一般入試で入ればいい」。反骨心に、火が付いた。

小中高と同じチームでプレーした幼なじみで、現佐賀商監督の森田剛史(46)が、懐かしそうに振り返る。

森田 小学校の時は僕ら2人が主役で3、4番。中学の時は練習をサボっていたけど、高校に入ってからは見違えるくらい真面目に練習してた。彼の良いところは「徹底」なんですよ。

「推薦組には絶対に負けない」と決めた香田は、居残りの練習量で他を圧倒し、授業中も机の下でダンベルを手に肉体を鍛えた。高3の夏、甲子園で描いたアーチは努力の結晶だった。

プロを目指していたから、大学は東都リーグの強豪、駒大を選んだ。亜大へ進んだ森田は、リーグ戦で何度も対戦することになる。

森田 香田はバリバリのレギュラーではなかったけどムードメーカーだった。高校野球みたいに全力疾走。神宮ガイドブックに「駒大の香田君はベンチからレフトのポジションまで10秒で行く」って書かれてましたもん。神宮でそんな選手いないから目立っていた。

当時の東都はドラフト上位でプロ入りした選手がひしめいていた。「周りのレベルの高さを見たら全然違うじゃんって」。選手としての限界を悟った時、自然と選んだのが指導者の道だった。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

(2018年1月28日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190220-00485565-nksports-base


カップルが手をつなぎマウンドを歩く/香田誉士史3


2/21(木) 6:01配信

日刊スポーツ

カップルが手をつなぎマウンドを歩く/香田誉士史3


大学最後のリーグ戦を終えた香田(左)。右上は亜大の入来祐作投手、右下は亜大の森田剛史


指導者への思いに拍車をかけたのが、94年夏の得難い成功体験だった。

駒大4年時の夏休みを前に、香田は母校、佐賀商(佐賀)の臨時コーチとして甲子園に付き添った。大正時代創部という歴史の中で、OBたちから「甲子園出場では史上最弱」と言われたチームがあれよあれよと勝ち進み、県勢初優勝。最後は決勝史上初の満塁本塁打まで飛び出した。

【写真】西部ガスの練習で指導する香田氏

香田 びっくりした。勝つたびに選手たちは「俺たちは強い」って、すてきな勘違いをしていった。あのチームで全国制覇できるんだから、北海道のチームでできないっていうことはないんだよ。

後に駒大苫小牧の監督になった時、この体験がどれほど励みになったことか。

この時、香田の指導者としての適性を見抜いていた人物がいた。東都リーグが誇る名将で、05年まで駒大監督を務めた太田誠(81)だ。

太田 香田はいいリーダーなんだと思った。選手時代もベンチで元気良く声を出していた。先天的に前向き。腐ることがない。練習中も、先頭に立って走っていた姿が目に浮かぶよ。

駒大苫小牧から太田のもとへ野球部監督の相談があった時「直感的に香田がいいと思った」と、真っ先に頭に浮かんだ。

香田 母校で指導者になりたかったから、商業科の教員免許を取るため大学に残っていた。なのに、おやじ(太田監督)が「次男なら、どこへ行ってもいいな」って。「あれ? 俺、2年間大学残るって監督に言わなかったっけ?」と思ったけど、逆らうなんてできないでしょ。

大学の総務部で振る舞われたカツ丼を「なんか丸め込まれちゃったな」と思いながらも、おいしく食べた。進路が、決まった。

北海道内ですら、高校野球で駒大といえば「ヒグマ打線」でセンバツ4強入りした駒大岩見沢が有名だった時代。社会科教員の資格はあったが、苫小牧と聞いてもピンとはこなかった。初めて駒大苫小牧を訪れたのは、95年の初冬。駒大苫小牧野球部は秋の室蘭地区予選で早々と敗れて以降、監督が不在だった。

香田 グラウンドに行ったら選手がランニングしていた。ユニホームは着ていないし、長髪もいる。「髪、長いんだね」って聞いたら「オフは伸ばします」って返事に愛想がない。

キャッチボールをさせても、塁間の半分の距離ですら悪送球やワンバウンドになった。専用グラウンドはあったが、どれだけ整備しても、一般生徒が当然のようにそこを突っ切って登下校した。

香田 正直「えーっ」て。自分がやってきた野球とはズレがありすぎた。一般生徒にもなめられてた。自転車でグラウンドに入るなんて、とんでもないよ。注意したら「こっちの方が近いべや」だって。放課後には、カップルが手をつないでマウンドの上を平気で歩いて行くんだから。こんな風に思われて、情けないチームだなって。

佐賀の名門校で甲子園に出場し、大学球界の最高峰でプレーしてきた身にとっては、異次元の世界。ゼロからのスタートだった。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

(2018年1月29日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190221-00485576-nksports-base

 

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