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伊都国  邪馬台国を行く
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投稿者 愚民党 日時 2011 年 7 月 03 日 16:55:13: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 魏志倭人伝   We are Thinking! 投稿者 愚民党 日時 2011 年 7 月 03 日 16:33:21)

伊都国

伊都国図

委奴国

 魏志倭人伝の記述内容等から、伊都国は邪馬壹国の母体となった国であり、糸島地方だけを伊都国とするには狭すぎる。その地勢から見ても、博多湾岸一帯を伊都国と考える方が自然である。

 縄文晩期(約2500年前頃)に、末廬国の菜畑(遺跡)ではすでに稲作が始まっていたが、弥生時代(約2300年前頃)に入ると、稲作は日本列島全域に伝播し、人々は平地に定住し集落ができ、水田を作るようになった。 そして弥生時代も中期(紀元前100年頃)に入ると稲作技術は進歩し、人口も着実に増加していくが、人口増加は新たな耕作地を必要とし、土地をめぐる紛争が各地で発生するようになっていた。


 そうした頃、紀元前108年に朝鮮半島では、漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし朝鮮四郡を設置するが、この動乱で発生した多くの難民の一部は、海を渡り、日本列島に定住の場を求めてやって来た。 高祖山の麓に広がる怡土平野の長

高祖山

高祖山

 怡土平野から見た高祖山、中腹に高祖神社がある。写真右側の谷部が日向峠で、越えれば福岡市早良区である。

 福岡県前原市井原

 紀元57年、漢の光武帝が倭に金印を贈ったことが「後漢書」に書いてあり、この金印には、「漢委奴国王」と刻印され、1784年に志賀島で発見された。普通「かんのわのなのこくおう」と読むと、教科書には書いてあるが、「かんのいとこくおう」と読む方が自然であり正しいのだと思う。「委奴国王」の更なる勢力拡大は、周辺諸国との抗争を引き起こし、これが170年頃の、倭国大乱(後漢書東夷伝)であり、やがて委奴国王は不弥国への和平工作(婚姻政策)により、女王「卑弥呼」を共立し、連合国家「邪馬台国」を誕生させることになった。西暦220年頃の事である。

金印公園

金印公園

 江戸時代後半の1784年この地「叶の崎」で、地元の農民の甚兵衛によって発見された。
現在は金印公園として整備されている。

 福岡県福岡市東区志賀島

 この


 成立早期の邪馬台国の政治的支配は、実質は伊都国王によって行われ、伊都国王は安徳台の地を在所とし、ここで政務を行ったはずである。女王「卑弥呼」は、不弥国の霊峰である英彦山を在地とし、邪馬台国の宗教的支配を行った。この二極体制は、徳川時代の江戸と京都の関係だと考えれば、理解しやすい。

安徳台遺跡

安徳台

 平家滅亡と共に壇ノ浦に没した安徳天皇の行宮(あんぐう・仮の皇居)が置かれたことから安徳台というが、日本書紀は、ここを「迹驚岡(とどろきのおか)」と記している。弥生時代中期の大型住居を含む100棟以上の住居跡が見つかっており、現在も発掘中である。
 福岡県筑紫郡那珂川町安徳

 魏志倭人伝では、この辺の様子を以下のように記している。「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国、これを畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中に於て刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及た郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。」


 さて、3日目の朝を、高祖山の西、怡土平野で向かえた郡使一行は、ほどなく日向峠を越え、福岡平野に入り、倭国滞在中の宿舎となる


 邪馬台国への残り一千里も、3日間ほどで陸行できるが、女王「卑弥呼」に謁見するためには、それなりの手続きが必要であった。まず、伊都国王にその旨を申し出ると、伊都国王は女王「卑弥呼」のもとへ伝令を送り、その結果を待って出発することになり、

筑紫館(鴻臚館)に到着する。ここが魏志倭人伝いう「郡使の往来に常に駐まる所」である。今朝からの行程は約20km、名護屋浦を出発して約75km、すなわち末廬国上陸後、一千里を3日間で陸行した。筑紫館(鴻臚館)で、最低4日は待たねばならなかった。したがって、郡使が女王国に至るには末廬国上陸後、少なくとも10日はかかり、末廬国上陸前の約30日と合わせて合計40日が、魏志倭人伝の「水行十日陸行一月」の記事であり、帯方郡から一万二千里の、結果としてかかる標準的な所要日数である。


http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai03.htm

(おさ)は、そうして増えつづける人口に対処するため、やがて東征を決意する。そうして高祖山の南の日向峠を越えた怡土の長(おさ)は、福岡平野に入り、紀元(西暦0年)頃には博多湾岸一帯を統治する「委奴国王」となった。
 深江から伊都国に入った郡使一行は、高祖山の麓に広がる怡土平野に達する。末廬国の鏡山の麓を出発して、ここまでが約30kmであり、この辺が2日目の宿泊地となるが、ここには弥生時代の大集落遺跡である三雲・井原遺跡群がある。伊都国には代々「王」がいたと魏志倭人伝には記述されるが、ここがその「王国」発祥の地であるとともに、日本列島の国家形成の出発点となった場所でもある。


http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai00.htm



 

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コメント
 
01. 愚民党 2011年7月03日 17:01:54: ogcGl0q1DMbpk : OMHwV2M2pE

一部文章の貼り付けに失敗いたしました。
申し訳ありませんでした。

<この>からの空白文書

------------------

この「委奴国王」の更なる勢力拡大は、周辺諸国との抗争を引き起こし、これが170年頃の、倭国大乱(後漢書東夷伝)であり、やがて委奴国王は不弥国への和平工作(婚姻政策)により、女王「卑弥呼」を共立し、連合国家「邪馬台国」を誕生させることになった。西暦220年頃の事である。


http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai03.htm



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