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申命記31:26「律法の限界」(キャプテンマクさんの日記)
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投稿者 もみの木 日時 2011 年 8 月 01 日 15:25:08: 7jMSCDqL4TVIk
 


 http://majormak.blogspot.com/

申命記31:26「律法の限界」

説教題「律法の限界」

この律法の書を取り、あなたたちの神、主の契約の箱の傍らに置き、あなたに対する証言としてそこにあるようにしなさい。

クリスチャンっていうのはカタクルシチャンだね。へたにクリスチャンになったりしたら酒も飲めない、タバコも吸えない。カタクルシイのはアーメンドウだねゴメンだね。こういう意見をたまさか耳にすることがございます。まあカタクルシイというのは確かにそう見えてもしょうもないかもしれない。

しかし、ほんとにクリスチャンである、ということは、酒を飲まないとかタバコを吸わないということの中には無い。ほんとにクリスチャンである、ということは、唯一ただイエスキリストという生けるご人格の中にございます。重要なのはキリストを得ることである。キリストを得るならすべて生き生きとしてまいります。キリストを得るということを全然しないで、ただうわべだけ酒を飲まない、ただかたちだけタバコを吸わない、という真似だけしてると、命が通わない、ただカタクルシイ、カタクルシチャンになっちゃうんである。ほんとにクリスチャンである、ということは、規則を超えた、命の事柄であります。

1 規則の役目

聖書をひもときますと、聖書の最初の五つの書にいろいろ規則が書いてございます。全部で600規則があるとも言われてますけど、規則を全部まとめて「律法」と言うております。律法である。律法が何を表しているかと言いますと、神様が「聖」なるお方であることを表している。神様は「聖」なるお方である。この世から隔絶したお方である。で、「聖」なる神様を信じ従って行こうとするところの「神の民」はすべからくみな「聖」とならなけりゃいけない。神の民は、きよい民でなけりゃいけない。神の民が、きよい民であるという、その具体的表れが、もろもろの規則、律法と言われる規則であります。

律法というのは、神様への愛と隣人への愛を中核としております。そうして、どうしたら神様への愛・隣人への愛を具現化することができるのか。具現化のための規則が記されたのが律法であります。そうして、律法を守ったときに与えられる祝福。律法を破ったときに被る呪い。祝福と呪いと両方が記されております。律法を守るんなら、子孫は繁栄し、商売は繁盛し、無病息災で、天命長寿を全うするという、もろもろの祝福であります。一方、律法を破ろうものなら、それはもう言葉で言い表せないほど恐ろしい、もろもろの呪いがふりかかってまいります。いったいどれだけ恐ろしいか。申命記第28章にこれでもかというほど記されております。全部読むと気が滅入りますので47節だけ読むとしますと、こうあります。「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。敵はあなたに鉄の首枷をはめ、ついに滅びに至らせる」

律法を破るなら、ついに滅びる。呪いによる脅しが、はっきり記されております。神様から律法を授かってそれを文字に記したのはモーセですけども、モーセは律法を書き取ってる最中に、もうすでに予告してるのです。「わたしには分かっている。わたしの死んだ後、あなたたちは必ず堕落して、わたしの命じた道からそれる。そして後の日に、災いがあなたたちにふりかかる。あなたたちが主が悪と見なされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである」(31:29)

神様が「聖」であることを表す律法であるという。律法を守れば祝福があり、破れば呪われるという。モーセは祝福と呪いを書き記しながら、もうわかっているのです。おまえたちは必ず堕落して律法を破り、もろもろの呪いを受けて、ついに滅びるであろう。律法が民に授けられた瞬間から、モーセはその悲惨的結末をすでにすべて見通していたのであります。

2 規則の限界

モーセが予見したとおり神の民は心がおごりたかぶった。神がなんだ。神がどうした。おれがどう生きようと勝手ではないか。神など知ったことか。おれは好きなように生きるのだ。神に背を向け、律法を破り、罪深い行いにふけり、もろもろの呪いを身に受ける羽目となりました。神の民は敵国に蹂躙され、神の都エルサレムは跡形も無く破壊され、住民たちは連れ去られ、遠い外国へ強制移住させられる。大いなる災い、バビロン捕囚が起きたのであります。

必ずそうなりますよ、ということが、もうすでに律法の中にはっきり予告されてるんである。申命記29章19節から27節を読みます。「主の怒りとねたみが燃え上がり、この書に記されている呪いの誓いがすべてその者にのしかかり、主はその名を天の下から消し去られる」「後の世代、あなたたちの後に来る子孫も遠くの地から来る外国人も、主がこの国にくだされた災害と病を見て言うであろう」「なぜ主は、この国にこのようなことをなさったのか。どうしてこのように激しく怒りを燃やされたのか」「それに対して、人々は言うであろう。『彼らの先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出されたとき結ばれた契約を、彼らが捨て、他の神々のもとに行って仕え、彼らの知らなかった、分け与えられたこともない神々にひれ伏したからである。主の怒りはそれゆえ、この国に向かって燃え、この書に記されている呪いがことごとく臨んだのである』」

人を呪う律法とは何と恐ろしいものであるか。聖書学者の山谷省吾とハンス・ヒュブナーは、「悪鬼的律法」という表現を用いてますけど、律法とは人を呪うものである。もちろん規則それ自体は良いものであります。規則それ自体は神様が「聖」なるお方であることを表している。パウロがローマの信徒への手紙で言うてますとおり、律法それ自体は聖なるものである。だが同時にパウロは、律法によっては人は呪われるだけだとも言うておる。これを説明するのに、パウロは夫婦のたとえをしております。ローマ書第7章を敷衍しますと、こういうことです。

まるで何も出来ない女性が、非常に完全主義者の男性と結婚した。完全主義者の夫は、こう言った。「おまえ、湯飲みを置く場所が2センチずれてるじゃないか」「おまえ、この味噌汁の豆腐は何だ。3センチもあるじゃないか。1センチ角に切れといったのがわからないのか」「おまえ、おれの母親に対するあの言葉使いは何だ? タメ口なんか使いおって。ちゃんと敬語を使え、敬語を」 まるで何も出来ない女性が、それでも何も出来ないでおろおろしていると、夫はついに暴力をふるって、なぐったりつねったりした。

完全主義者の夫が言うことは、何から何まで正しいことばっかりですが、この夫は妻を助けるために指一本だって動かしやしない。デンと座って、やかましく注文をつけるだけです。そうして何度言っても出来ないようなら暴力をふるうのです。これが「悪鬼的律法」と言われるところの律法の限界、規則の限界、宗教の限界であります。何が限界かと言えば、律法はたしかに神様の「聖」なることを表しているけれども、しかし、人間を「聖」なるものとする動力、人間を「聖」なるものとする能力を、律法は根本的に欠いているのであります。やれやれ、と言うだけで指一本貸さないという、根本的の無能力であります。

3 福音の能力

ローマの信徒への手紙の中で、パウロはいまや、われらに新時代が到来したことを、夫婦のたとえでもって、喜びをもって告げております。ローマ書第7章を敷衍しますと、こういうことです。

まるで何も出来ない女性が、非常に完全主義者の男性と結婚して、毎日毎日やいのやいの言われて、それでも何も出来ないもんだから、なぐられたりつねられたり散々であった。ところが感謝すべきかな。完全主義者の夫が突然死んでしまった、ハレルヤ! 散々な目にあった女性は晴れて自由となって、今度は非常に恵み深い男性と再婚した。恵み深い夫は言った。「おまえ、湯飲みを置く場所が2センチずれてるじゃないか」そうして、笑いながら夫は自分で湯飲みの場所を直した。そうして言った。「どれどれ、今度はおれがおまえのためにお茶を入れてあげるよ。おまえ、そこに座ってなさい」 恵み深い夫は言った。「おまえ、この味噌汁の豆腐は何だ。3センチもあるじゃないか。1センチ角に切れといったのがわからないのか」そうして笑いながら夫は自分で台所に立って、料理を始めた。そうして言った。「ほら、ここへ来てごらん。包丁の使い方を教えてやろう」そうやって手取り足取り教え始めた。恵み深い夫は言った。「おまえ、おれの母親に対するあの言葉使いは何だ? タメ口なんか使いおって。ちゃんと敬語を使え、敬語を」そうして笑いながら言った。「だが、お前がおふくろにいろいろ言いたい気持ちは、おれはわかるよ。まあ安心しろ。おふくろにはおれがちゃんと執り成しておいたから」

これがパウロが言うところの、律法から解かれてキリストに結ばれる、という生き方であります。いったい律法は正しいことを言うばっかりで、人を正しくさせる手助けを一切しない。根本的の無能力であります。ところがキリストというのは、正しいことを言うだけじゃあない。キリストがその人のそばで、その人の中で、その人の内側で、生きて働いてくださって、その人を正しくさせてくださるという。キリストのご人格は神の「聖」なることを表すだけじゃない。キリストは人の内側に入り込んで、人を「聖」なるものとする動力、人を「聖」なるものとする能力そのものである。それがキリストであります。わたしたちにいまや福音が告げられております。わたしたちはさんざん規則を破ってしまった、そのもろもろの恥と責めを、キリストが全部身代わりにかぶさってくださった。十字架であります。その上で、復活のキリストはわたしたちに結び合ってくださる。わたしたちの内側に入ってくださる。内側からわたしたちを生かしてくださる。あの恵み深い夫が一緒に台所に立って一緒に茶碗を洗い、一緒に包丁を握り、一緒に煮たり焼いたり全部手伝ってくれるのだ。これがキリストに結ばれて生きるということでありまして、キリストに結ばれて生きることは、規則の限界を全く超越している。新しい生き方であります。

4 結論

結論として、ローマの信徒への手紙第8章10節から11節をお読みいたします。

「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」

わたしたちにとって重要なのは、キリストを得ているか否か、であります。ほんとにクリスチャンである、ということは、唯一ただイエスキリストという生けるご人格の中にございます。重要なのはキリストを得ることである。キリストを得るなら、すべて生き生きとしてまいります。ほんとにクリスチャンである、ということは、規則を超えた、命の事柄であります。どうか今日、この命の事柄を、わたしたちは把握することができますように。祈りましょう。 >>  

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