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論文 数の本質から見たお金という人類最強の価値尺度−ratio論を手がかりとして 高野淳筆 
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/593.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 1 月 10 日 20:08:27: ulZUCBWYQe7Lk
 

「副島隆彦の論文教室」の掲載論文中の
「0017」 論文 数の本質から見たお金という人類最強の価値尺度−ratio論を手がかりとして(1) 高野淳(たかのじゅん)筆 2009年4月1日
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun017.html
および
「0021」 論文 数の本質から見たお金という人類最強の価値尺度−ratio論を手がかりとして(2) 高野淳筆 2009年4月7日
を、下記のように転載投稿します。

=転載開始=

1.われ、合理主義・理性の探索にかく迷えり

 ratio(rational)、reasonの訳語は誰が定めたのであろうか。石塚正英・柴田隆行監修『哲学・思想翻訳語事典』(論創社、2003年)によると、井上哲次郎(いのうえ・てつじろう1856−1944年)の編になる『哲学字彙』(1881年)中にrationalの訳語として「合理的」という言葉があるという。ただし、『哲学字彙』ではrightの訳に「合理」という言葉が使われていて、この時点ではまだ訳語に一貫性がなかったという。一方reasonに「理性」という訳語をあてたのは西周(にし・あまね、1829−1897年)の『生性発蘊』(1873年)とある。  

井上哲次郎   西周

 ヨーロッパは16、17世紀ころから学問・科学技術を驚異的に進展させ、その後軍事的、文化的に世界を圧倒していく。筆者は、ヨーロッパの強さの源を探りたいという興味から合理主義に関心を持った。この秘密を探ろうとして「合理主義とは何か」の探索を始めた人間がどんな道をたどったのか、以下にその迷走の様子を再現してみよう。

 まずは、英和辞典でratio、rational、rationalism、reasonを引いてみる。

 すると、大方次のような訳語(言葉の言い換え)に出会う。

 ratio「比、比率、(哲学用語)理性」、
 rational「合理的な、分別のある、理性的な」
 rationalism「合理主義、理性主義、」
 reason「理由、原因、起因、根拠、土台、弁明、言い訳、理性、判断力、 分別、常識」

 この言葉の置き換えには不満感が残ることになる。日本語では単なる数字を示す言葉である「比」がどうして「理」という意味に展開可能なのか、なんら説明はなされていない。そもそも「理」という言葉を当てたことが妥当だったのか。

 こうして、ヨーロッパには何かわれわれにはわからない文化的伝統があるのではないか、あるいは日本語との間に大きな言語の壁があるのではないかと考えはじめる。さらに、辞書には哲学専門用語としての「理性」という言葉がそれなりの比重で取り上げられているため、ヨーロッパの哲学的伝統を理解することが「合理主義」理解に欠かせないのではないか、と考えはじめる。「理」という漢字の意味は、一応わかっているつもりだ。しかし、それがratioやreasonと同じかどうかはわからない。きっと探求が足りないのだ、と。仏教・インド哲学の研究者、中村元(なかむらはじめ、1912−1999年)は『合理主義 東と西のロジック』(青土社、1993年)の中でこう述べている。以下に引用する。

中村元

(引用はじめ)

 合理主義は、理性(ratio, reason)を尊重する建前である。それだけの意味であるならば、われわれは何ら反対すべき筋合いはない。

 しかし理性を尊重するということがどの範囲まで適用され得るか、という問題になると、人によって意見を異にする。まず、

(1)理性(ratio, reason)という語が必ずしも明確でない。少なくともわれわれ東洋人にははっきりしない点がある。

(2)またわれわれが考えている「理」がratio, reasonにぴったり対応するかどうか

 も問題となる。「合理主義」「合理論」「理性論」「唯理論」と言う。これらの訳語のいずれを取るとしてもratio, reason,Vernunftを「理」という漢字で訳している。(10−13ページ)

(引用終わり)

 『合理主義 東と西のロジック』では結局最後までratio、reasonという語が明確にされないままに終わる。大学者も真意はつかんでいなかった。

 哲学の中に意味を探る方向に進むと、近代合理主義の祖デカルトや『純粋理性批判』の著者カントの名前に出会う。そして彼らの著作やその研究者の解説に探求の答えがあるのではないかと期待する。だがこれによって合理主義探求はほぼ迷宮入りとなる。谷川多佳子著『デカルト研究―理性の境界と周縁』(岩波書店、1995年)、坂部恵著『坂部恵集1 生成するカント像』(岩波書店、2006年)から引用する。   

デカルト     カント

(引用はじめ)

 デカルトの扱う「理性」raisonはまず、人間の理性であり、光のような普遍性をもつ。つまり常に同一で、万人にとってそうであり、言語―理性にとって道具にすぎない―を超越する。生得的ないし自然的であり、観念と相関するが、その多様性とは区別される。(『デカルト研究―理性の境界と周縁』、262ページ)

 理性は、われわれの認識の頂点に位する「至高の認識能力」であり、「規則の能力」としての悟性にたいして、「原理の能力」として性格づけられる。すなわち、悟性が「規則を介して諸現象を統一する能力」であるとすれば、理性は、「諸悟性規則を原理のもとへと統一する能力」である。理性は、それゆえ、「けっして最初に経験ないしはなんらかの対象にかかわるのではなく、悟性にかかわり、かくして悟性の多様な認識にア・プリオリな統一を概念によって与えるのであるが、このア・プリオリな統一は理性統一と呼ばれてよく、それはまた、悟性によって遂行される統一とはまったく別種なものである」(坂部恵集1 生成するカント像』、204−205ページ)

(引用終わり)

 こうした難しい定義の中に、求める答えがあるとは思えない、と感じつつも、これでは自分にはヨーロッパの哲学など理解できないと探求をあきらめてしまうのがおちだ。(それとも頭のいい人間には簡単明瞭な文章なのだろうか)

 ratio、reasonとは一体そんなに難解な内容なのだろうか。日常語としてのratioの意味は「比」、reasonは「理由・根拠」であって、難解なところは何も無い。今にして思うと、字面どおりに、rationalは「割に合う」、reasonableは「納得づくの」というくらいの素朴な理解のままで、十分に「合理的」や「理性的」なるものの本質をつかまえられたはずだったのだ。どうして上記のごとき難解な定義が「reason」の意味として主流になったのだろうか。

 大哲学者当人がそう書いていたのだろう。日本人研究者たちはそれを真面目に研究していただけだ。つまり、わかりやすい合理主義の説明をそもそもデカルトやカントの著作や解説に求めるのは不適当だったと言っていい。もちろん日本側の問題もあったはずだ。哲学用語と日常語が共通なヨーロッパ(だからといってその間に意味の断絶がないかどうか検討が必要である)と違い、日本は日常語とは離れた専門用語(これまた外国語である漢語で造語)を作って無理矢理当てはめをしなければならなかった。やはり合理主義理解のつまずきの原因には日欧の言語、文化的背景の違いがあったことも確かである。

 では、欧米人自身の説明を見ればもっとよくわかるのだろうか。試みに一つの英語辞書を引いてみよう。

(引用はじめ)

Rationalism

Rationalism is the belief that your life should be based on reason and logic, rather than emotions or religious beliefs. 

(引用終わり)

 定義の中にreasonが出てきてしまったので、さらにreasonの語を引いてみる。

(引用はじめ)

reason

1.The reason for something is a fact or situation which explains why it happens or what causes it to happen.

2.If you say that you have reason to believe something or to have a particular emotion, you mean that you have evidence for your belief or there is a definite cause of your feeling.

3.The ability that people have to think and to make sensible judgments can be referred to as reason.

(引用終わり)

 2つの語の説明で何がrationalismで、何がrationalismでないか判別できただろうか。順に見ていこう。「emotion、感情に基づく」とは、人によって、あるいは同一人でも理由なくそのときどきで態度・判断基準が変わることと理解すればいいだろう。「religious beliefs、信仰に基づく」とは信じる理由など示されなくても、ともかく信じることを求める態度であろう。ちなみに、「不合理故にわれ信ず」という言葉は「人間の小賢しい根拠づけなど超えた価値があるからこそ信じる」という表明になっている。

 そして「reasonに基づく」とは「根拠にもとづいて、納得づくで」という意味でとらえればまだわかるが、ここではreasonの3番目、「良識ある判断を下す能力」の意味にとれる。これが「理性」と訳されてきたもので、哲学者によって難解なものに変えられてしまったものだ。「logic」はもちろん「論理」である。論理規則は具体的に定めることができるので、何が論理的で何が論理的でないかは誰でも見分けがつくようになっている。

 ここに、合理主義理解のためのヒントが現れて来た。「合理主義」の定義にしたがえば、「自分は合理的判断を下している」と好き勝手に言えないことになる。判断基準は、自分の(あるいは誰かの)勝手な都合でいつのまにか変えられた、あるいは納得いかないまま押しつけられたものであってはならない。合理的だと称するためには、万人を説得するほどの、あるいは万人の信頼を勝ち得るほどの、大がかりな(一貫した、適用範囲の広い)、安心できる基準がどうしても必要となる。基準が具体的に示さなければ、いくら言葉で合理だ、道理だと言っても、現実を動かす力にはならないはずだ。そんな基準が簡単に見出せるのか。

2.2002年はratio、 reason理解にとって画期的な年となった

 副島隆彦がratioの意味を明確に示したのは2002年だった(正確には2001年には始まっている)。副島隆彦「今日のぼやき260」2002年3月1日、及び「副島髟Fのワールド・ウォッチ」(月刊誌『正論』連載2002年5月号、産経新聞社)、『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』(講談社、2002年)などで、ratioについて言及している。西周(にしあまね)の時代から130年の年月が経っていた。その後、『金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ』(祥伝社)やヴィクター・ソーン『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた』(徳間書店、2006年)の中の訳注の形で、ratio、reasonは「金銭欲望、金銭崇拝、強欲礼賛のこと」であるという、文化的哲学的背景までも含めた理解が示された。

 ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」(http://www.soejima.to)内、「今日のぼやき260」(2002年3月1日)、副島隆彦著『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』(講談社、2002年)、ヴィクター・ソーン著 副島髟F訳『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた 下』(徳間書店、2006)から、それぞれ重要な部分を引用する。

(引用はじめ)

 副島隆彦です。今日は、2002年2月28日です。 私は、日本知識人として初めて「ラチオの思想」を日本に導入、輸入する。これはのちのち記念すべき年となるだろう。

(中略)

 私が、ラチオの思想を、初めて日本に持ち込もうとして、ぶつぶつと考えていたのは、2001年の8月頃である。日本人が、このラチオ、レイシオの思想を明確に自覚できさえすれば、欧米近代人と自覚的に橋渡しをすることが出来て、互角に相手にされるのだ。それは突き詰めれば、「金(かね)の計算の思想」だと思う。「今日のぼやき260」(2002年3月1日)

 私は、最近、レイシオratioあるいはラチオという西洋思想について考えている。このレイシオの思想をはっきりと掲げることによってしか、私たちアジア人は欧米人と理解しあうことはできないのではないか、とまで考えている。それは端的に言うと、「日本へのアメリカの原爆投下は、ジャスティス(正義)ではなくともレイシオではある」というアメリカ側の考えを、私たちのほうから理解してあげないことには、どうにもこうにもお互いの話が通じないということだ。私は、長年、アメリカ人の友人たちと話をしていて、このことをずっと切実に考えてきた。(『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』、24ページ)

 レイシオ(ラチオ)とは、分割すること、分けること、比例配分するという意味である。これは正義の背景にある倫理や道徳観とはまったく関係がない、まったく別物の大きな価値判断のことらしいのだ。(『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』、25ページ)

 レイシオあるいはラチオとは、「合理性」とか「合理的であること」と訳される。rationalismを合理主義と訳すことからもすぐにわかる。それでは、「あなたの行動は合理的だね」とか、「合理的な生き方をしているね」というときの、この「合理的」とはいったい何のことなのか。真正面から本気で「合理的とはそもそも何か」を考えたことのある日本人は、明治開国以来、今に至るまで一人もいないのではないか。(『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』、26ページ)

 [訳者注:この普通、「理性」と日本で訳される高級哲学用語とされるreason(リーズン)という語は実はratio(レイシオ、ラチオ「合理」)と同じ意味であり同義語である。即ち、理性や合理とは金銭欲望、金銭崇拝、強欲礼賛のことである。これをただ「理性」と訳し続けて、何もわかっていないくせに、「自分たちは理性と合理をわかっている」というふりをし続けた日本知識人階級全体の150年間の責任である。たとえばイマニエル・カントの『純粋理性(=Vernunft)批判』、『実践理性批判』などの真意を簡潔に読み解けた知識人は日本には遂にいない。あるいはカント自身が大きな喰わせ者であって、理性の意味を自分勝手に複雑にしただけだろう。だから「金儲け活動」をキリスト教会に認めてほしかったイルミナティーやフリーメイソンの会員たち、僧侶でない平信徒集団は、自分たちの新しい神をルシファーという金銭崇拝の神に変えたくて秘密結社なるものを作ったのである](『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた 下』、27ページ)

(引用終わり)

 引用箇所からいくつかを抜き出して検討してみよう。

●「原爆投下はジャスティス(正義)ではなくともレイシオではある」

 ここがratio理解の要である。原爆を投下しない場合戦争は長引き、死者数は原爆を投下した場合の死者数を上回ってしまう。したがって死者の数を少なくするという目的のもとでは、原爆を投下したほうが合理的だ。たったこれだけの判断だった。「理性」というよく分からないものでは基準にならないが、数字の大きさを比べるだけなら誰でも大小の判断ができる。判断結果も同じになる。数がものを言う世界である。

 ここでは死者の「数」以外の一切の意味を捨てるという犠牲が払われている。そして数そのものもいくつかの条件を満たす必要がある。数は同じ尺度で計られたもの(一つの評価軸上に載せられる数字)でなければ比べても意味はないのだ。数と量の違いについては後述するが、量を数値化する場合にその数を意味のあるものとするめには、数が次のような性質を持つ必要がある。小室直樹著『超常識の方法』(祥伝社、1981年)から引用する。

(引用開始)

 数量化されているもの(例、温度、気圧、物価指数・・・)が科学的に意味をもつかどうか、確かめるためのチェックポイント

 その数字が

@A>B,B>Cならば必ずA>Cとなるか[推移律]
Aたし算、ひき算、掛け算、割り算[四則演算]ができるか
B数字がとぎれることなく続いているか[連続]

 以上の3条件(実数の公理)を満たしているかどうか調べればよい。(195ページ)

(引用終わり)

 平たく言うと、入学試験の各教科の得点合計が意味を持つかどうかを思い浮かべてもらえばよいだろう。合否判定は普通「国語」「数学」「英語」などの入試教科の合計点で行われるだろう。各教科が違う能力を測っているのだとすると数学の10点と国語の10点の重みは異なり、合計点には意味がなくなる。各教科が同じ能力を測っているのなら、1つの教科の試験をすれば十分だ。だから入試科目の得点合計を判断基準とする合否判定システムは本来ratioで評価できないものをrationalであるかのように扱っているか、余計なことをやっているシステムである。受験生諸君は入試の点取りマシーンと化すことがどれほどアホなことかはやく気づくべきだ。

●「レイシオ(ラチオ)とは、・・・正義の背景にある倫理や道徳とまったく関係がない」

 日本人は原爆投下に対してemotionalであることを避けられない。しかし、ratioの議論は冷酷そのものだ。日本人にはもう少し刺激が少ないかもしれないモラル・ジレンマ(moral dilemma)の例で説明してみよう。だがこちらも依然として感情的、道徳的葛藤が相当生じうる。リチャード・ドーキンス著『神は妄想である』(早川書房、2007年)から引用する。

(引用はじめ)

 デニスという一人の人物が線路のポイントのそばに立っていて、列車の進行を待避線のほうに切り換えて、本線の先で動けなくなっている五人の命を救える立場にいる。不幸なことに、待避線のほうにも一人動けなくなっている人間がいる。しかしこちらにいるのは一人だけで、本線で動けなくなっている五人よりも数が少ないので、デニスが転轍機を切り換えて、一人を犠牲にすることによって五人の命を救うことを、それが必須の行動とはいわないまでも、道徳的に許容されるということにほとんどの人間は同意するだろう。待避線にいる一人がベートーヴェン、あるいは自分の親しい友人であるかもしれないという仮説上の可能性には、ここでは触れない。(326ページ)

(引用終わり)

 救命者数という基準に照らせば、5:1だから、デニスの行動はrationalである。しかしこのジレンマには異なる設定があり、5:1という比率が変わらないにもかかわらず、道徳的判断は変わる例が同書では示されている。

 また、救命者数ではなく、救われる人の稼ぎ嵩が判断基準に使われたらどうであろう。ベートーヴェンが年間10億円稼ぎ、他の5人は併せて1千万円だった場合はどうか。なんだか不道徳、不愉快な気分になるにせよ(年間10億稼ぐ人は別だが)、稼ぎ嵩を基準として選んでしまったらrationalな答えは自動的に出てしまう。自動的といっても、ここに誤りやごまかしが入り込む余地がある。判断の時点で正確な数字が出そろっていなければその後の計算結果は真実を反映しなくなる。また、将来の可能性まで考慮に入れた場合はどうなるだろうか。

 もし救われる5人のなかに、将来の独裁者がいて、後に百万人を虐殺するとしたら。あるいは犠牲になる一人が新薬研究中で、将来一億人を救う薬を開発することになるとしたら。将来の話を判断の中に取り込むために確率の考え方が持ち出される。新薬で何人が救われるか、開発が成功する見込みはどれくらいか、これらはみな将来の予測であって事実ではない。そうしてこの見込みの中には相当恣意的な数字が入り込む余地がある。このように数字にもとづくrationalな判断といっても、絶対不変ではない。数字で示すことは万人を納得させるためであったが、使われる数字に恣意的判断が入り込む余地があることに常に注意しておく必要がある。

●「真正面から本気で「合理的とはそもそも何か」を考えたことのある日本人は、明治開国以来、今に至るまで一人もいないのではないか」

 先人の業績として会田雄次『合理主義 ヨーロッパと日本』(講談社現代新書、1965年)を取り上げてもよいだろう。『会田雄次著作集第9巻 合理主義 ヨーロッパと日本』(講談社)から重要な部分を2つ、引用する。

(引用はじめ)

 「まず、合理的なものの考え方というもののいちばんの基礎はなにか。これは自然を、あるいは人間社会を支配しているのは合理的な法則だという考え方です。つまり、この世界には、われわれを必然的な論理によって支配するところの法則があり、それ以外の支配力はない。だからこの法則を自分のものとするとき、われわれは自然をも変えることができ、社会をも変革発展させることができるという思想です。この思想が合理的なものの考え方の原理だというふうに、いまいちおう考えておきましょう。」(72ページ)

 「合理的なものの考え方とは、すべてのものを質の差ではなくて、量の差に帰してしまうことでもあるからです。数値でなにもかも計算してしまう。

(中略)

 そういう行き方ですから、質の差で分けていたのでは、合理的なものの考え方はできないのです。」(132−134ページ)

(引用終わり)

 法則を把握し、それを自然や社会に対する支配に使うことは、人間による「判断」に基づくものではない。そうした判断基準としてのratioという文脈からはずれている。後の引用の部分では数値に還元する態度を合理的と説明しておりratioの本質を捉えている。初版は40年前でありながら今日まだ新鮮な書である。

●「理性や合理とは金銭欲望、金銭崇拝、強欲礼賛のことである。」

 rationalな判断のためにはただ一つの評価軸上にのった数しか認めないと書いた。そしてこの評価軸として人類史上もっとも成功しているものがお金である。すこし前に「金ですべてが買える」という考えが問題にされたが、お金こそすべての価値を一元的に評価しようとするものなのだ。そして「入」と「出」を比べて割に合うなら実行するというのがrationalismであるから、ここから金儲けの思想、金銭崇拝に至るのは必然である。

●「僧侶でない平信徒集団は、自分たちの新しい神をルシファーという金銭崇拝の神に変えたくて秘密結社なるものを作ったのである」

 英語辞典のrationalismの定義に religious beliefsよりはreasonに基づいて対処するとある。キリスト教圏で信者の側からこれを見れば、rationalismは無神論と言っているのと変わりがない。今日ではまだしも、デカルト(1596−1650年)、カント(1724−1804年)の時代にヨーロッパでこんなことを言うには相当な覚悟が必要だったはずである。reasonという言葉は日本人が理性という言葉からは思い浮かべることができない暗い響きを持つはずだ。

3.数の意味づけ

 以上見てきた通り、ratioの根幹には「数」がある。以下では数というものに「意味づけ」をしてみようと思う。数学史家は別として、数学者は数の意味などというものを教えてくれない。数学は意味を捨てて、いわば血を抜き、肉を削ぎ落とし骨格だけを残したような学問である。意味などと言うものは邪魔者と考える。専門家は一般人の素朴な理解を助ける仕事をもう少ししてもいいと思うのだが。

 数の「意味づけ」とは、あくまでも私の「意味づけ」である。数の概念の発生といったことに対しては史実かどうかの検証ができないからだ。それに「意味づけ」とは各人がそれぞれおこなうものだ。とはいえ全く勝手な議論ではない。数学史上の事実は「意味づけ」とは別にきっちり押さえておく必要がある。その上でなおこのような「意味づけ」をすることは意味があると考える。受験生など数学を学ぶ側からすれば、「意味」を思い描いて学習できたほうが、単なる記号操作を続ける苦痛感を多少取り除ける。あるいは、その後の実生活では一度も使わない事柄を学ばせられるという空虚感を減少できる。

 主な主張を2つにまとめてみた。

 (1)数というものは人間が生き残るため必要に迫られ使い出した道具だ    ったはずだ

 (2)数を数えるという方法は、その後拡張されて、「量」や「向き」も    取り込んで扱える道具となった。

 以下で細かく見ていくことにする。

(1)数というものは人間が生き残るため必要に迫られ使い出した道具だったはずだ

 人類が最も切実に数える必要性に迫られた場面とは、食料貯蔵とその管理だったのではないか。冗談っぽく言えば、冬を越せずに備蓄食料がゼロになってしまえば死に絶えてしまうので、ゼロの発見はなかなか広まらなかったのだ。

 食料に余剰が生じれば個人・家族・共同体などの所有物が生まれる。所有物(財産としての家畜や農産物など)が失われていないかどうか確認する必要性から数えるという行為が生まれてきた可能性もある。「1、2、3、たくさん」などのようにわずかの数詞しかない集団の例が報告されている(注1)。これは食糧が豊富で、貯蔵や所有の必要がないような地方・社会では、数える必要性がないからではないか。数の概念は、文化段階が進むとともに発達したというよりは、切実な必要性に迫られて発達したはずだ。

 交易が行われるようになると取引で数量をごまかされないために、取引者相方で納得いくよう取引物同士をつきあわせるという方法が生まれてきたのではないか。これが1対1対応だ。対応の一方の側に抽象物(名詞)を持ってきたものが自然数といってよい。1対1対応の確実さは信頼性を生み、信頼性を失わないまま抽象化できたことで、数は信頼性と利便性を持つ道具となった。遠山啓著『数学入門(上)』(岩波新書、1959年)から引用する。

バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)

(引用はじめ)

 イギリスの数理哲学者バートランド・ラッセルは「2日の2と2匹のキジの2とが同じ2であることに気づくまでには限りない年月が必要だった」といっている。たしかにラッセルのいうように2という数は、2個の卵、2匹の犬、2人の人間、2羽の鳥、2冊の本に共通のものである。だから2個の卵の一つ一つを2本の木でおきかえても、2であることに何の変わりもないのである。このように卵の一つ一つを1本ずつの木と結び付けることを一対一対応というが、2はこの一対一対応という手続きをほどこしても変わらないのである。

 一対一対応によって変わらないという事実を利用すると、数えにくいものを数えやすいものでおきかえるという方法が生まれてくる。(4−5ページ)

(引用終わり)

(2)数を数えるという方法は、その後拡張されて、「量」や「向き」も取り込んで扱える道具となった。

 複素数までの数の中には「数」「量」「向き」の3つの違った要素が取り込まれている。

 以下、自然数、分数、無理数、マイナスの数、虚数をとりあげて意味づけしてみる。ここでは数の拡張というものが、四則演算を行えるようにするためあるいは方程式を解く必要性からなされていった歴史的経緯とは別に、それぞれの数をどのような観点からみるとスッキリ理解できるかという視点でまとめた。歴史的経緯についての、また数の歴史についての諸書(たとえば注1に揚げた文献など)に譲る。

1)数える

<<自然数>> <<0>>

 数(自然数)を数えるとは、一定間隔で、一定方向に数えるという前提に立っている。これは数が複素数まで拡張された後でふりかってみてわかったことだ。このあたりまえ過ぎて意識しないような前提がこの後の議論の中心となる。ところでゼロが数としてなかなか認識されなかったのは、ないものは数える対象にならなかったからだ。数の最初を1とすると0は何か。量の考え方に立てば0は1とともに「単位の頭と尻尾」を決めるものだ。向きの考えに立てば座標の中心ということになる。ただ集合論は、無いもの(空集合)を数えて自然数をつくりだすという離れ業をやっている(注2)。

 英語の勉強を始めると、名詞の中に数えられる名詞(可算名詞countable)と数えられない名詞(不可算uncountable)が出てくる。数えるとは、輪郭がはっきりしているものを対象とした行為ということになる(注3)。可算/不可算の話を持ち出したのは、この後に行う「量」の議論とつなげるためである。ちなみに、数えられる/数えられないという概念は、量子力学の量子という概念にも反映されている。量子論の発端は、エネルギーのように連続的に変化する量と考えられていたものにも、実は最小単位(量子)があり一つ二つと数えられるというところにあった。そう考えた方が観測結果をうまく説明できるということだった。もう少し大きなレベルで言うと、コップの水は輪郭がなく1つ2つと数えられないが、分子レベルで見れば原理上は水分子1個、2個と数えられるというのと同じだ。エネルギーについてもこのように言えたというのは驚きではないか。できれば何でも数えたいわけだ。

<<分数>> <<有理数>>

 自然数を数える前提の一つ「一定間隔で」という条件を崩すと、今までの数と数の間にも「新しい数」=「分数」が出てくる(ここで、無理数も同時に出てくるが、無理数についてはこの後、量として捉える項目で述べる)分数は、自然数を割って出来た今までにない数のようでもあるが、比の概念を使えば、自然数から作り出せる。たとえば、「我が軍200騎に対して、敵は100騎。敵は我が軍の半分ですぞー」などというように。だから、分数は「数(数える)」の範疇に入れていい数である。

2)量(輪郭のはっきりしないものまで数えてしまいたいという試み)

<<無理数>> <<実数>>

 私たちが無理数に最初に出会うのは、ピタゴラス(Pythagoras of Samons)の定理に関連して√2について学ぶ時だろう。ピタゴラスの定理は長さや面積など関係する話なので、無理数というものが長さや面積といった「量(輪郭のはっきりしない、数えられないものに)」と密接にかかわる数だと推測できる。

ピタゴラス

 もう一つの無理数の代表格πも、円周と直径の「長さ(数えられないもの)」の比という定義だ。無理数(有理数と無理数を合わせて実数)は、液体など、輪郭のないもの(不可算名詞:とびとびでなく、切れ目無く値が変化しうる量)を何とか数字で表そうと試みたときに出てきてしまった数だ。不可算量を数えようとすれば、基準量を決めて、その何倍になっているか(比をとる)という形で表すのがいいだろう。

 そして、無理数とは、この基準量との比をとったとき、分数では書き表せない数だった。小数で示そうとしても、数字をいくつ連ねようと永久に書き終わらない数だった。つまり番号では指定できない数、数なのに数字で書き尽くせない定義矛盾のような数である。それでもたとえば√2は一辺が1の正方形の対角線の長さというように、目に見える形で示すことができるので、それは数として認められた。「量」に番号を振ろうという試みは理論の上では破綻した。しかし現実問題としては、長さや量を量る場合は、必要な精度まで計測して、あとは打ち切ってしまうので、無理数が量の把握を決定的に妨害するようなことはなかった。

 無理数はirrational numberの訳で、「整数比で表せない数」という定義そのままの名前がついている。ここでもratioは「比」であって「理」とは訳さない方がよかった。だからといって「無比数」と直しても具合がわるい。既に見たように、√2は正方形の一辺の長さと対角線の比だし、πは円周と直径の比だから、比がないという言い方では説明不足となる。

 有理数と無理数をあわせた実数により、連続的に変わる「量」もすべて数の中に取り込まれた(無理数はいつまでたっても数字で書き尽くせない数であるという矛盾は、自然数の無限を超える無限があるという形で回避される)。

3)向きという解釈(後ろ向きにも横向きにも数があった)

<<マイナスの数>>

 「一定方向に」数えるという前提を崩したときにまず出てくるのが、マイナスの数である。マイナスの数とは、今までの数える向きとは逆向きに数えた場合につくり出される数だ。マイナスの数の起源は「借金」だろう。借金を踏み倒してしまえば、自分にとってマイナスだったものがプラスに変わる。だから借金ができる世界では、数の大きさだけでなく、数える方向も重要なのだ。

 マイナスの数は、温度計のように基準点としてのゼロを持ち込むことで、目に見えるようにすることができた。「量」と組み合わせれば、マイナスの量も考えられる。はじめに決めた自然数の向き(この向きをプラスの向きとする)に対して、マイナスの向きを正反対と決めるので両者は直線上にならぶ(数直線)。マイナスの数は足し算を通じて、それまでの数(プラスの数)と行き来できる。

<<虚数>>

 虚数に感じる胡散臭さはどこからくるのだろうか。もともと無いといっていたものを、都合で勝手に作ってしまうことからくる不信感か? それなら無理数やマイナスの数もないと言われていた数ではなかったか。虚数に感じる嘘くささは、大半の人にとって仕事でも日常でも虚数を見たり使ったり意識する機会がないからだろう。それは、「1、2、3、たくさん」と数える人にとって100という数字にリアリティーがないのと同じだと思う。

 もともと数は思考の道具であるから、在るとか無いとかという実在の議論とは無縁であると悟ればいいのだ。「神が整数を作った。あとは人間の産物だ」とはレオポルト・クロネッカー(Leopold Kronecker、1823-91)の言葉として有名である。私はこれを「整数だけがこの世にある」という意味だと誤解していたが、そのようには言っていない。

レオポルト・クロネッカー

 マイナスの数を後ろ向きに数えた数とすれば、虚数とは真横(プラスの向とは、90度の方向)に数えたときに並ぶ数だった(注4)。

 虚数は掛け算を通じて実数との間を行き来できる。足し算だけでは実数と混じらない。つまり複素数(実数と虚数を組み合わせた数)はa+bi(a,bは実数、iは虚数単位)という形で書かれるが、aとbは+で結ばれているにもかかわらずaとbを足し合わすことはできない。複素数とは実数と虚数という相容れない2つの数が掛け算を通じて絡み合いながら共存している数だ。そして複素数では2つの数の間で大小は決められないのである(注5)。

4.まとめ(rationalismの行き過ぎへの歯止め・数字の悪用への用心)

 ratioは合理、reasonは理性と訳されたてきた。では何がrationalで、reasonableなのかと問われると誰にもはっきりと答えられなかった。2002年に副島が示したとおり、哲学者の認識論的な「理性」の議論をやめて、ratioを、選択論的な判断基準ととらえればその意味は極めて明確なものとなった。投入する労力(エネルギー、お金)と得られる成果(エネルー、お金)を比較して割に合う場合は実行するという判断・態度こそrationalismだった。

 個数の比較のように数の大小で判定するやり方は誰の目にも明らかな結論が得られるので信頼感を勝ち得た。数は量も扱えた。その確実性や利便性から強力な道具としての地位を確立した。この数の力を現実世界で用いるため、人類はお金というシステムを作り出してさまざまな価値を数字で表わそうとしてきた。

 お金というシステムの中でrationalな方向を突き詰めていくと、拝金・強欲に行き着いてしまう。人類の手にした強力な道具である「数」を手放すわけにはいかないが、今や数の扱いには節度が求められるところまできた。数というものを本源までさかのぼってチェックしてみると、複素数という日常とは縁遠い数の中にも教訓を読み取ることができる。本来違う性質を持つ数字は足し合わせて評価できないものであって、

 あらゆる価値をお金で評価することはできないという当たり前の結論が得られる。複雑化専門化した今日では、数字の悪用も容易である。数に「万人の納得」という本来の役割を持たせるためはわれわれが数字を批判的に見ていく習慣を養っておかなければならない。

(脚注)

(注1)「1、2、たくさん」について

・ドゥニ・ゲージ著、南条 郁子訳、 藤原 正彦監修『数の歴史』(創元社、1998年)

(引用はじめ)

 「一部の民族にとっては、「1」と「2」と「たくさん」という3種の「数」さえあれば、たいていの用は足りた。」

(引用終わり)

・遠山啓『数学入門(上)』(岩波新書、1959年)

(引用はじめ)

 「極端な例は南米ボリビアのチキト族であって、1に当たる「エタマ」という数詞しか持っていないという。・・・また「2」を「ポエタラロリンコアロアク」という長たらしい数詞でよんでいるアマゾン流域のヤンコ族も、2という数をあまり使う機会がないので、こんな長たらしい数詞が生き残っているのだろう。2をひんぱんに使う必要があったら、もっと省略された数詞が生まれてくるはずである」(8ページ)

(引用終わり)

・ジョン・タバク著、松浦俊輔訳『はじめからの数学3 数、コンピューター、哲学者、意味の探究』(青土社、2005年)

(引用はじめ)

 「オーストラリアの原住民の中には、歴史上も最近になるまで、ほとんど数なしで生きてきたと言われる部族もある。昔の人類学者が、オーストラリアの原住民には6あるいは7を超える数は区別しない部族があること、数え方は「1,2,3,4,5,6,たくさん」と進むと言っている。こうした昔の報告を解釈するときは気をつけなければならない。文化や言語の違いのせいで、人類学者が調べている民族と効果的に意志を伝えあうのは難しかったし、その観察結果も、オーストラリアの原住民が別の文化で過ごしていて、今やそれに応じて適応してしまっていると、確認できない。ともあれ、すべての文化が体系的な数え方を発達させたわけではないということは、まず疑いはない。」(22ページ)

(引用終わり)

・ジョルジュ・イフラー著、弥永 みち代、後平 隆、 丸山 正義訳『数字の歴史』(平凡社、1988年)

(引用はじめ)

 「アフリカやオセアニア、アメリカ大陸の一部の原住民は、少なくとも今世紀初頭まではかなり初歩的な段階にとどまっていたが、彼らは<1>、<2>、<3>、<4>という数しかはっきりと知覚しておらす−彼らの言葉のうちではっきり表現されていいない−その他の数は彼らにとっては漠然とした総体的観念であり、もっぱら物の多数性に結び付くものだったのである。

 たとえばゾンマーフェルトによると、オーストラリアのアランダ族は、いわゆる<数名称>として二つの語しか知らなかった。<1>を表すnintaと対を表すtaraとである。<3>と<4>については、tara-mi-nita(<2>と<1>)と、tara-ma-tara(<2>と<2>)と言っていた。しかしアランダ族の数列はそこで止まってしまう。というのもtara-ma-taraから上については、<たくさん>を意味する言葉を用いていたからである。」(12ページ)

(引用終わり)

(注2)竹内外史『新装版 集合とはなにか』(講談社、2001年)、79ページ

(注3)大西泰斗・ポール・マクベイ『ネイティブスピーカーの英文法』(研究社、1995年)

(引用はじめ)

 非可算名詞の特徴として、「形がない」「境界線がはっきりしない=まとまりがない」がすぐに思い浮かぶでしょう。(31ページ)

(引用終わり)

(注4)虚数は実数に対して90°の向きに並んでいることについては、たとえば
瀬山士郎『読む数学』(ベレ出版、2006年)、25ページを参照。
(注5)ドゥニ・ゲージ『数の歴史』pp.101-102

(引用はじめ)

 「数の範囲が複素数まで広がったため、2つの数を比較することができなくなった。実数ならどんな数をとっても、つねに大小が比較できる。どちらか一方が他方より大きいか、さもなければ等しいからだ。だが複素数ではこうはいかない。2つの複素数zとz’ではzがz’より大きくも小さくもなく、その上等しくもないということが起こりうる。要するに比べること自体が無意味なのだ。」(101−102ページ)

(引用終わり)

(終わり)

=転載終了=  

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コメント
 
01. 五月晴郎 2011年1月10日 20:12:46: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
<「0021」 論文 数の本質から見たお金という人類最強の価値尺度−ratio論を手がかりとして(2) 高野淳筆 2009年4月7日 >
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun021.html
 ↑
のURLが抜けていました。すいませんでした。


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