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「善意」がマスクに隠されなければならないワケ
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/633.html
投稿者 tea 日時 2011 年 1 月 14 日 15:01:42: 1W1IXELjjF6i2
 

メディアとの暗黙の共犯関係という意味では、多くの経済事象告知との共通点があるな。

明日のジョーは、何度もリバイバルしているし
墓場鬼太郎も深夜枠でアニメ化された、
タイガーマスクのアニメのリバイバルはかなり難しそうではあるが、深夜枠ならあるかも
そう言えば、サリーちゃんも、似たような格差社会的な戦後臭があった
何度も再放送されたが、社会の変化によって、消えていった
しかし小田嶋隆、中学生でタイガーマスクを見ていたかw


http://cmad.nikkeibp.co.jp/bin/checker?mode=4&mo=11&m=82552&d=0&e=0&s=0&c=&et=20110121040000&q=639287&o=18&url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081022/174784/

日経ビジネス オンライントップ>政治・社会>小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「善意」がマスクに隠されなければならないワケ

2011年1月14日 金曜日 小田嶋 隆
伊達直人  タイガーマスク  寄付  善意  ランドセル  プロレス 


 伊達直人という名前から即座に然るべき人物像を思い浮かべることのできる人間は、40歳を過ぎている。いや、40歳では不足かもしれない。45歳以上ではあるべきだろう。アニメ「タイガーマスク」がテレビで放映されていたのは、Wikipediaの記述によれば、1970年から71年の二年間だ。再放送(←何度かあった気がする)を考慮に入れても、やはり、1970年以前に生まれている人間でないと伊達直人という人名に対して正確な像を結ぶことは困難なはずだ。

 ということはつまり、児童相談所の玄関先に、伊達直人の名義でランドセルが届けられたというニュースに対して、正しい評価を下すことのできる人間の年齢層にもまた、ある程度限られているはずなのだ。

 私は、ドンピシャリの世代だと思う。中学生だった時代に、あのアニメを見ている。
「うっそくせえ(笑)」
 と若干斜め方向から眺めていたきらいはあるが、それでも毎週欠かさずに視聴していた。歌も覚えている。アタマから全部歌うことができる。オープニングテーマもエンディングの感傷的な歌も。中学生の記憶力は鉄壁だ。わがことながら感心する。

 では、モロなタイガーマスク世代であるオダジマは、この度のタイガーマスク現象をどのように評価するのだろうか。
 正面から問われると困る。うまく答えることができない。
 何も感じないのではない。
 むしろ思うところが多すぎて整理できないのだ。様々な感慨が一斉に押し寄せてきて、一言では言い表せないのである。
 なので、今回は、伊達直人の名前に呼応する形で私の脳裏に去来した複雑な所感を、ひとつずつ順不同で並べてみることにする。
 結論を提示するつもりはない。
 こういうお話に結論は無い。
 タイガーマスクは、仮面の存在だ。千の顔を持つ男。あれはミル・マスカラスだったか。

 経緯を振り返っておく。
 昨年の12月25日、前橋市の児童相談所に「伊達直人」という名前で、10個のランドセルがプレゼントされた。で、以後、この第一報に触発される形で、各地の児童養護施設や児童相談所に伊達直人名義(あるいは、「タイガーマスク」や「桃太郎」など)でプレゼントが届く現象が続発し、結局、年末年始を挟んだこの半月ほどの間に、全国47都道府県のすべてで、「善意のタイガーマスク寄付事例」が確認された。そういうお話です。

 奇妙なできごとだ。
 若い読者のために、「タイガーマスク」ならびに「伊達直人」についても、一応の解説をしておく。

 「タイガーマスク」は、昭和のマンガによくある「貧困ヒーローもの」のひとつの典型例だ。
 貧しい境遇に生まれたヒーローが世間の無理解や差別をものともせずに、努力と根性で成功を手にするお話は、いつの時代も少年物語の王道ではあるのだが、昭和の主人公は、平成のヒーローと比べてより貧しく、下克上で、ナニクソで、涙もろく、必死で、つまるところベタだった。その意味で、伊達直人は、現代の日本人よりは木下藤吉郎あたりに近いのかもしれない。ほんの30年前の日本人なのに。

 孤児院で育った伊達直人は、ある日素質を見込まれて、謎のプロレスラー養成機関「虎の穴」にスカウトされる。そして、過酷なトレーニングの末、覆面レスラー「タイガーマスク」としてデビューを果たす。しかしながら、そのタイガーは、リングのスターとなった後、出身の孤児院である「ちびっこハウス」の経済的危機を救うために、「虎の穴」への上納を怠る。と、組織から裏切り者の烙印を押された彼には、次々と処刑のための殺人レスラーが送り込まれることとなる。ストーリーは、「ちびっこハウス」をめぐるウェットなエピソードと、タイガーマスクの週毎の死闘を交互に追いつつ、要所要所に「キザ兄ちゃん」こと伊達直人とちびっこハウスの管理人「ルリ子先生」の間に芽生えるほのかな恋心を描いて進行する。うむ。われながらよく覚えている。素晴らしい。

 ちなみに申せば、現代の標準では、「孤児院」という言葉は、NGだ。活字ではアリでも、テレビの電波の中では自粛の対象になる。「みなしご」もほぼ無理。まず放送されない。公式に禁じられているわけではないし、明文化された資料の中で排除すべき言葉として名指しされているのでもないが、事実上、この言葉を放送の現場であえて発音する人間はいない。
 実際、1970年代の人気アニメ「みなしごハッチ」は、昨年、劇場映画としてリメイクされるにあたって「みつばちハッチ」というタイトルに差し替えられた。

 もっとも、「みつばちハッチ」の制作スタッフは、「みなしご」という言葉を排除したつもりはないらしい。雑誌の記事だったか、ウェブのコンテンツだったのかは忘れたが、スタッフの一人が言葉狩りを否定している記事を読んだ記憶がある。なるほど。あるいは私が深読みをしているだけなのかもしれない。

「っていうか、みなしごも何も、ミツバチの幼虫は巣の中の全員が一匹の女王蜂の子だぞ」
「だよな。原理的に人間の家族制度を擬制すること自体に無理がある」
「それ以前に、みつばちの子なら、うじむしハッチじゃないのか?」

 色々な意見がある。
 本当のところは、制作現場のスタッフがどう思っていたのかということとは別に、配信元か出資者か上映館の関係者のうちの誰かが、「みなしご」という言葉の使用を避けるべく動いたみたいな事情があったのだと思う。そう考えるのが妥当だ。だって、配給サイドにしてみれば、面倒くさいスジからクレームがついて、上映が中止になったりしたら、それこそ目も当てられないことになるわけだから。

 「孤児院」を「児童養護施設」という言葉に言い替えている人たちや、「みなしご」や「孤児」といった言葉を追放するべく心を砕いている関係者は、差別の気持ちからそうしているのではない。むしろ、差別や偏見を取り除きたいと思うがゆえに、彼らは、言葉の使い方に気を配っているはずだ。
 が、端的な言葉を排除することは、結果として、事態を曖昧にする。
 現実的には、差別語を排除することが、眼に見える差別とは性質の違う、「黙殺」という、よりタチの悪い事態を招くということだ。

 孤児を孤児と呼ぶ人びとの中には、おそらく偏見を持った人間が含まれている。そのうちの何割かは具体的な差別としてその言葉を口にしているかもしれない。
 が、孤児を孤児と呼ばずに、「施設の子どもたち」と言い替えている人たちは、差別感情をあらわにしない一方で、孤児の現実から目をそらす運動に貢献している。かくして、孤児という言葉を消去することで、孤児たちは、忘れられ、メディアの表舞台から退場させられ、存在していないことにされる。テレビは孤児関連の話題をカメラのフレームから外し、新聞は孤児のニュースを片隅に追いやり、人びとは、孤児の境涯を、福祉現場の報告事例のひとつとして軽い気持ちで受け止めるようになる。

 当の孤児たちにとって、いずれの事態がより苛酷であるのかを、簡単に断ずることはできない。
 が、とにかく、耳に心地良い単語だけを使ってニュース原稿を書こうとする態度が、ある種の欺瞞を含んでいることは、認識しておくべきだ。世界はきれいな言葉だけでできているわけではない。無害な言葉で語ることで世界が無害になるわけでもない。

 この種の厄介な言葉を前にすると、メディアの人間は、なによりもまず面倒を避けることを第一に考える。
 コメンテーターは、率直な感想を述べることよりも、無難なコメントでその場をしのぐことの方に力点を置く。
 まあ、私とて、カメラの前で感想を求められたら、やっぱり口ごもる。少なくとも脊髄反射のコメントは避ける。何が問題になるのかは、問題が起こってみてからでないとわからないわけだし。とすれば、この種のコメントにおいて重要なのは、何を言うかではなく、何を言わないかになる。当然だ。残念なことだが。

 21世紀の日本は、タイガーマスクが描かれた当時とは違う。原作者が育った当時のような、戦災孤児が世に溢れている時代でもない。
 それでも、両親のもとで暮らすことのできない子供が消滅したわけではない。必ずしも貧しくなくても、離婚や家庭内暴力や、その他の様々な家族の事情で、児童養護施設に預けられる子供は現在でも一定数存在している。
 とすれば、その「施設の子供たち」に目を向けさせたという意味で、21世紀の伊達直人がやってみせたスタンドプレーは、意味のないことではなかったのであろう。

 が、それはそれとして、私は「伊達直人」という名前を、素直な気持ちで受け止めることができない。
 どうしても身構えてしまう。根本のところで、その名前を「うさんくさい」と思っているからだ。

 タイガーマスクは、虚実皮膜の権化のような物語だった。
 原作マンガおよびアニメが虚構だったのは、話のスジとして当然だが、その虚構には、現実のプロレス世界の登場人物が実名で登場しており、それら現役のレスラーは、常に宣伝臭ふんぷんの形で、過剰に美化されていた。

 それゆえ、プロレスという競技(ないしは興行)に疑念を持っている中学生だった私は、当時から、タイガーマスクの中で語られる話に不審を抱いていたのだが、問題は、後年、「タイガーマスク」というリングネームを持つ覆面レスラーが本当に登場したことだった。タイガーは、リアルなトラのマスクをかぶった謎のレスラーとして、現実のリングを踏んだのである。と、じきに、あろうことか「虎の穴」出身だという触れ込みで、敵方のレスラーまでもがリングを荒らすようになる。なんたるうさんくささ。

 いくらプロレスとはいえ、ここまで虚構にもたれかかったアングルを採用して良いものなのか? と、古手のプロレスファンはタイガーの登場に憤慨していた。
 私個人は、「タイガーマスクに怒る正統派のプロレスファン」をそのまた外側から冷笑する場所に立っていた。

「つまり、プロレスファンとしては、インチキくさいインチキよりも本当らしいインチキが望ましいということだな?」
「……言いたいことはわかったから、これ以上オレの前で新日プロレスの悪口は言うな」

 タイガーマスクは、誰の目から見てもインチキくさかった。プロレスファンの目から見ても、アンチプロレスファンの目から見ても。明らかに。
 本当は誰もが知っているその正体について、放送関係者が知らないふりをしながら実況している姿も含めて、タイガー物件は、プロレスという娯楽の末期症状そのものに見えた。

 原作者である梶原一騎についても事情は同じだ。
 私が中学生だった頃、梶原一樹(ならびに別名義の高森朝雄)は、マンガ好きの少年たちの間では神様みたいな存在だった。「巨人の星」を生み、「あしたのジョー」を成立させ、「空手バカ一代」を描き、「愛と誠」を紡ぎ出したその多産なマンガ原作者の名前は、1970年代の出版文化の中核で巨大な利益と影響力を生産する魔法のキーワードだったからだ。

 ところが、梶原一騎の看板は、ほどなく薄汚れてくる。
 学歴詐称、恐喝事件、傷害事件での逮捕と立件、アルコール依存、黒い交際、カネにまつわる不祥事、台湾の女優との不倫騒動、婚外子をめぐる誘拐事件とその惨たらしい結末……ある時期から、梶原一騎の周辺はスキャンダルの温床になる。
 だから、われわれの世代の者にとって、その名前がもたらす感慨は、単純ではない。
 プロレスじみたうさんくささ。梶原一騎自身、虚実皮膜の境界線上を生きた半ば架空の人物だった。とすれば、その梶原一騎の生産物である伊達直人の名前が私の耳にインチキくさいニュースの一部として響くことは、いかんともしがたいではないか。

「ランドセルで良かったのか?」
 という疑問もある。当然だ。
「贈られる側の利便や必要よりも、贈る側の自己満足を優先したのではないのか?」
「要するに《絵になる》プレゼントを選んだということだよ」
「っていうか、愉快犯だよな」

 さよう。愉快犯だ。動機と結果が善であるのだとしても、振る舞い方は電車の側面にグラフィティーを描きこむ連中とそんなに変わらない。伊達直人はニュースを弄んでいる。フィクショナルな自己顕示欲。それだって売名の一種ではないのか?

 とはいえ、状況を鑑みるに、21世紀の伊達直人が、あえて自己流の寄付を貫徹した気持ちもわからぬではない。
 おそらく、彼は、既存の慈善団体を信用していない。
「財団法人や育英会みたいなところに寄付したところで、専従の人間の人件費やハコモノの維持に使われるだけだし」
「かといって、私的なNPOは裏にどんな悪党がいるのかわかったものじゃない」
 そう考えている若者は多い。

 彼らの内部には、慈善ということに対する不信が牢固としてビルトインされている。
 でなくても、寄付や募金に関しては、不祥事が多すぎる。カンボジア難民募金を装った詐欺事件。宗教団体がその隠れ蓑として利用している慈善団体の油断ならぬ活動。チャリティー番組の経理処理をめぐるあれこれの噂。ユニセフに似た名前のまぎらわしい団体の行状やNPOを語る政治結社の存在など、われわれのまわりには、そうしたうさんくさい話題が常に転がっている。

 結局、伊達直人のお話が、一大痛快こととして語られる背景には、わが国において「寄付」という行為が、うまい具合いに標準化していない事情がある。仮にどこかの誰かが、慈善の気持ちを持っているのだとしても、現状では、その意思を表現するための手段について、わかりやすい筋道が確立されていないのだから。

 実際、われわれの社会は、寄付の方法や経路や名前の扱い方について、明快なスタンダードを持っていない。だから人びとは、「売名」と呼ばれることを恐れたり、「偽善」と判断されることに及び腰になっている。しかも、新聞には、そうした善意の人間の気後れにつけこむ形のサギを扱うニュースが定期的に載る。

 きちんと実名を伝えて寄付をしつつ、その一方で、寄付をした人間の名前を安易に報道しない形で処理する穏当な枠組みがあれば、伊達直人とて、こんなに芝居がかったことはせずに済んだかもしれない。
 が、われわれの社会には、寄付の文化が根づいていない。
 宗教的な背景も希薄だし、習慣としても税制上も、寄付は軽んじられ、異端視され、日常から「浮いて」いる。

 いずれにしても、寄付という行為が市民の間にある普通の習慣として定着するまでには、まだしばらく時間がかかる。あるいは寄付が異端視されない時代は、永遠に来ないのかもしれない。

 伊達直人のニュースが大々的に紹介されたのは、寄付の是非とは別に、それが「ほのぼの系」のネタとして処理できる話題だったからだ。

 昔も今も、ワイドショーの現場は、カルガモ親子の転居予定日カウントダウンであるとか、多摩川を遡上するアザラシ君の行方だとか、都内に出没するニホンザルの消息だとか、そういう罪のないこぼれ話系のネタに飢えている。というのも、彼らのQシートは、新春早々、大学生の就職難だとか、一家皆殺しの続報だとか、冷たい海での溺死事件だとかいった暗い項目で、今年もまた埋めつくされているからだ。その種の鬱々情報のリピートは、視聴者をうんざりさせ、テレビのスイッチを切る方向に追い込む。そういう事態は、ぜひ避けねばならない。といって、牛丼チェーンの安売り告知や、デパ地下の新規顧客獲得大作戦みたいなタイプの耳寄りお得インフォメーションは、もはやヒモ付きであることがバレバレで、完全にネタ切れだ。つまり、伊達直人関連のニュースは、第一報が報じられた瞬間から、すでに、彼らにとっては、黄金郷だった。
 でなければ、スタジオの面々は、一種の愉快犯である伊達直人を思い切りおだてあげることで、模倣犯の出現を促したのかもしれない。

 別の見方もできる。
 伊達直人の善意をスタジオの善意が賞揚して、その善意の連鎖が新たな伊達直人を召喚しているというふうに考えれば、これらの善意の連鎖は、もしかして、あたらしい何かを生むのかもしれない。

 でも、私は釈然としない。
 もっとはっきりいえば、非常に白々しいものを見た気持ちになっている。
 ヤラセだとは言わない。
 インチキだと断ずるつもりもない。
 でも、薄気味が悪いのだな。どうしても。
 理由は、伊達直人の「善意」が「劇場型の善意」で、それを伝えているメディアの温かい口調も、モロにディレクター目線の賞賛だからだ。

 この度の「タイガーマスク運動」のニュース原稿には独特のいやらしさがつきまとっている。
 強いて言うなら、毎年沖縄から送られてくる「荒れる成人式」の取材映像とちょっと似ている。
 ヤラセではないものの、「実行役と取材側(メディア)の共犯関係」を感じさせるお約束ニュースの気配があるのだ。

 全国のタイガーたちの善行は、「荒れる成人式」の蛮行がそうであるように、メディアがカネと太鼓で報じることをやめれば、じきに沈静化すると思う。
 沈静化させて良いのか?
 というご意見もあるだろうが、私はぜひ沈静化させてほしいと思っている。
 第一、伊達直人が本心から匿名の善意を貫きたいのであれば、彼にとって、報道は迷惑なはずではないか。

 とはいうものの、キザ兄ちゃんの多少とも芝居がかった善意は、スタジオにネタをもたらし、子供たちに物品を与え、せちがらい世間に微笑を分かち与えたわけで、その意味では、成功している。いまのところ、児童養護施設の関係者が多少戸惑ったり複雑な感慨を抱いたりすることはあっても、実害らしい実害は報告されていない。なるほど。あいつはうまくやったのかもしれない。

 でも、はしゃぐべきではない。
 調子に乗ると、しっぺ返しが来る。たとえば、ばいきんマンの名義でその名にふさわしいプレゼントが配られるみたいな、ネガティブなタイプの模倣犯が現れる可能性は依然として消えていない。
 ほかにもたとえばミスターXがいる。彼はいつでもタイガーの失脚を狙っている。

 本命は「サギ兄ちゃん」だと思う。そう。近いうちにタイガー基金だとか伊達直人育英資金みたいな名前をカタる新手のパクりネタが発明される。トラの威を借るキツネ。フォクシープロクシー。ぜひ用心したい。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明

「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。

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小田嶋 隆(おだじま・たかし)

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。 ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。  

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