★阿修羅♪ > 雑談専用39 > 567.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
幻想に操られる日本人 藤原肇博士と小室直樹博士対談 1982年12月刊行の「脱ニッポン型思考のすすめ」電子テキスト第一章
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/567.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 9 月 24 日 04:25:07: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/library/komuro/komuro1.html

『幻想に操られる日本人』

■「和」の概念と「同」の概念

藤原 
 僕は一年に一度か二度の割合でしか日本に帰国しないし、ほとんどの場合、目立たないように入国しているので、誰も僕が東京に来ていると気がつかないまま、滞在日程の半分以上が過ぎていきます。新聞やテレビに僕のコメントが出始めるころには、すでに日本には滞在しておらず、太平洋の彼方に去っているというケースが多いのです。別に言い逃げをしているわけではなくて、日本のマスコミ界やジャーナリズムとあまり密接につき合うと、自分のポテンシァルを吸い取られてしまうというか、頭の中に空虚感が拡がる気がするので、自己防衛の本能が機能するんでしょう。テレビやラジオの対談に一週間に三回出演するだけで、確実に頭の中が半分は空っぽになったという気がする。その点で、東京に住みながら、小室さんがテレビも電話もない生活を堅持しているという姿勢、とてもよくわかります。

小室 
 そうでもしないと無駄な消耗を強制させられてすり減ってしまうし、ゆっくりと自分のぺースで物を考えることもできなくなってしまいます。日本は雑音ばかりが無闇矢鱈に多い国です。

藤原 
 結論的にいってしまうと、日本はほんとうの意味での人材の絶対数が少なすぎるのです。人材の層が薄いといったほうがより正確かもしれないが、スケールの大きな教養人と、思想における多様性を個人の中に内包した個性的な人間が少なすぎる。NHKで教養番組を担当している友人の話だと、あるテーマで毎週一回一時間の講演をするように企画しても、人選の段階で半年間継続するだけの人材がどうにも見つからない、というんです。

小室 
 だから、毎回、同じ顔触れで、忙しい人はいよいよ忙しくなる。そんなことを繰り返していると、人材は育たないし、有能な人材はすりきれてボロ雑布のようになってしまう。

藤原 
 同じ友人が「BBC(英国国営放送)は毎日人間を変えても三年分の人材ストックがあるが、日本はせいぜい三週間だ」とボヤいていたけど、実際には、日本とイギリスはそれくらい人材面でのポテンシァルの差があるんです。この辺に、イギリスは没落をウンヌンできるほどの国だけど、日本は単にボシャルだけでとても没落を論じるところまで行っていないということが、はっきりと現われていますね。

小室 
 だいたい日本の近代化路線自体が、大英帝国を近代国家の理想とまつり上げ、いかに上手に模倣するか、というところに願望と理想の中心があったのだし、結局はアジアにおけるイギリスの番犬になってしまったわけです。第二次大戦で敗けたことから、手本をイギリスからアメリカに切り替えたけど、日本がイギリスを番犬にして主人役になったわけではないので、イギリスにかなわないのは当然です。

藤原 
 人材面での層の薄さが、日本のトップの質の悪さに反映しているとしたら、一億の人口をかかえた日本が工業生産面であまりに大きな力を持ちすぎることは、世界秩序のバランスの点で撹乱要因になるかもしれませんね。グレシャムの法則を思い出すまでもなく、人材面でも悪貨か良貨を駆逐してしまい、劇画的な単細胞人間がメイド・イン・ジャパンの商品とともに世界中に氾濫したら、これは人類の悲劇です。

小室 
 その恐れは十分にあります。日本人の平均的な教養や知能指数がいくら世界の水準に較ベ高いからといって、それが日本人全体の優秀さの指標とはならない。問題は、いかに優れた人材が一国のトップを構成し活動しているかなんです。平均値というのは目安としての計量化にすぎない以上、ちょうど知能指数100の人間を三人集めて仕事をさせても、知能指数150の人間に匹敵するかどうかわからないのと似た関係があります。

藤原 
 知能指数よりも民度のほうが一国のポテンシァルを計る上で有効かもしれない。それに、各国のトップレベルにいる人間の問題意識や能力で比較すると、スーパー・パワーといわる国や経済大国とうぬぼれている国が、かえって発展途上国とか後進国と蔑視されている国に劣っている場合が多い。政治家だけだと一般化がむずかしいが、国が豊かになりすぎて緊張度が欠けるにしたがって、卓越した人材が指導的役割を演しる可能性は低くなるみたいですね。

小室 
 カ−ター政権時代のアフガニスタン問題などを見ていると、アメリカの対応は、たしかに国際政治力学の観点から見るとまったく支難滅裂で、低脳としかいいようがなかった。しかし、日米間の外交関係で両国を比較してアメリカを低脳と呼ぶなら、日本はそれ以下です。日米安保条約への理解や国連に対しての日本人一般の考え方なんか、とてもじゃないがお話になりません。だいたいロジックの片鱗もないし、専門用語を使うとこれがまるで無規範のまま。

藤原 
 論理的な思考法を身につけた人が、あらゆる部門に不在だというのは、日本の社会の現状を特徴づける最大の性格です。その理由のひとつは、小室さんが指摘したことだけど、日本はあくまで社会的には「仮面をかむった共産主義」の国だということです。能力よりは権威づけされたもののほうが優勢だから、論理性に基づいた合理的なアプローチは否定され、運命共同体の中にだけに通用する村の掟としてのドグマに忠実な人間だけが活用される機会を持つ。こうして非ロジックが支配する奇妙な社会ができ上がっているということじゃないですか。

小室 
 運命共同体という中世的なものが工業生産力という二十世紀的なものに結びついて存在しているのです。社会学的に見ても、実に特異な存在だといえます。第一次大戦後のフランス共産党が掲げたスローガンに、「すべての労働者の鍋には肉を、すべての労働者の家には自動車を」というのがあります。この理想はソ連ではいまだ実現されていないが、日本ではすでに達成されて現実のものになっている。しかも、日本における所有の概念は所有権とは無関係だし、賃金配分だって資本主義的な労働力の売買ではなくて、共産主義的な所得の配分様式にしたがっている。だから、日本は社会構造の最も基本的なところにおいて共産主義的であり、この路線を戦後三十年以上も推進してきた自民党こそ最も共産主義に忠実な政党だといってもいい。

藤原 
 しかし、僕にいわせるなら、社会制度として資本主義の対比で考える共産主義ではなくて、二十世紀的な生産体制を持つ原始(グラスルーツ)共産主義というべきです。だって封建以前でしょう。

小室 
 社会学的には、近代資本主義社会以前であることは確実です。

藤原 
 近代社会を特徴づける個人主義が片鱗としても存在しない。その代わり、分極化した形で利己主義と全体主義が支配的だということは、まさにネクタイをつけた原始共産主義社会ですよ。

小室 
 ピラミッドの底辺を共同体的な構造が支え、天皇制官僚機構が頂点に君臨する日本の社会は、現代における神権政体としての家族国家である以上、個人主義とはあい容れないのです。

藤原 
 しかも、孔子が「和して同せず」とわざわざ注釈しているのに、聖徳太子以来の「和をもって貴しとなす」という伝統が無規範的に拡大してしまい、いつの間にか、和することも同ずることも区別がなくなった。そして、和同開珎に象徴されるような円環の中に閉じ込められた全体主義の国になってしまったのです。

小室 
 つまるところ規範性のなさという日本的性格の問題に行きつく。それは規範性を持つ他の社会に較べて、いいとか悪いとかいうのではなくて、AかBかを二元論的に考察して、逆や裏や対偶といった論理的なアプローチが社会的なシステムとして存在しないとすれば、はたしてそれが「存在」を考える上でどんな意味を持つのかということです。日本人の発想はAかBかを論じる場合でさえ、AはBであるようでありないようでもある、という曖昧さによって支配されている。

藤原 
 明確にすることを意図的に回避するところに特徴があって、これは論理の通用する世界とは次元を異にする美意識の世界です。それも主観的な価値観に支配された美意識の世界。しいていえば、和と同が平等に存在する美の世界です。

小室 
 和するとか同じるということばの意味を根源的に掘り起こして、存在の問題として取り扱おうとはせず、和も同も似たようなものだと思い込んで気分的に安心してしまうのです。その辺に日本人の鷹揚さというか、規範の欠けたいい加減さがあって、ものごとを区別したり識別しようとしない態度の背景を作っている。これは重大な問題なのだが、日本人はそれに気づいていないんです。

藤原 
 「和光同塵」と表現するように、中国人は和の概念として全体の中に個がハモニーを持って参加するというか、より上位の価値体系の中に個が実存を保った状態でインテグレートされるという感じを与えている。また下位の次元に埋没するのが同であるというニュアンスをこめて、和と同とは異なった存在の仕方だという識別をしている。
小室 インテグラルということは規範に誠実であるという存在の仕方がそこに生きているのです。規範があってそれが破られていることと、初めから規範が存在していないこととの落差は気が遠くなるほどで、日本人というのは最初から規範など存在すると考えたこともない人間の集団だから、どうにもこうにも簿気味が悪くて仕方がないということになる。これが世界が日本を見る視点ですよ。

藤原 
 結局、素晴らしい美意識を持ち合わせている人間は多いけど、規範としてのロジックを持ち合わせた日本人は非常に少ないということになってしまいます。だから、討論にしても対談にしてもあまり面白くないんですね。

■ディベイトのない論争

小室 
 議論をするということ自体、たとえ論争であろうと対話であろうと、それは論理を使った戦いであり、異なったロジックのぶつかり合いです。すなわち、議論である以上は、ロジックとしていかに一貫しているかが決め手であって、状況としての気分や感情の入る余地などがないのです。ところが日本の場合は、共産党の宮本・袴田論争を見てもわかるように、イデオロギーの対決として、自分の解釈のほうが理論的に正しいといった対決の仕方にはならない。「自分が監獄にぶちこまれていたときに、あの男はうまいものを食べて楽な生活をしていた」といった具合に、誰がより苦しんだかとか、不人情だったかという感情的な中傷の応酬になるばかりです。子供の喧嘩まがいのことをイデオロギー政党のトップがやり合っているのだから始末におえない。

藤原 
 国会での討論だって同じで、議論になっていないことが議事録として紙屑の山を作っています。それに雑誌が掲載している座談会だって、そのほとんどが所感集みたいで、火花も散らなければひらめきも感じられないものが多いですよ。
小室 座談会に出ても途中で退屈になってしまって、もうこの辺で打ち切ろうといいたくなるものが多い。ただ単に顔を連ねて喋っていればいいというものじゃないんだが、井戸端会議の常連みたいな座談会でも、主催者は会の内容ではなく顔触れがそろったことに意義を感して喜んでしまっている。これも議論をすることの意味が日本ではよくわかっていないことの証拠でしょう。

藤原 
 議論を楽しむという表現があるけど、議論を一種のブレーン・ストーミングとしてとらえ、相手と議論をする過程で自分がこれまで考えたこともない展開を見出し、それがヒラメキを発生させる訳です。その意味では、自由自在に話題が展開して、奥行きのある議論をしたあとというのは実にすがすがしいですね。

小室 
 そういった議論は十時間続こうと徹夜になろうと、少しも疲労感が残りません。たとえ論争になって破れたにしても、さわやかで気持がいい。ところが、最近の日本では、そういった体験をする機会が実に少ないのです。

藤原 
 冒頭でふれたことだけど、それは日本には絶対数としての人材が不足しているせいです。優れた人材はいるにはいるが、そのほとんどが知識としての二次情報の寄せ集めで、新鮮味に欠けているし、脊髄に相当するフィロソフィがシャンとしていない。いうならば独創性を備えた個性的な人間が少ないということですよ。

小室 
自分のもの、つまり、自分の言語を持った人物が少ないということです。

藤原 
 だから、この際に是が非でも出会いを持っておきたいと感じるだけの衝動が湧き上がらない。もし、そういったエネルギーが発生しないとしたら、人生なんて実に退屈で仕方がないし、未知の人の中にそれを期待できないとなると、未来なんて実にシラケたものになります。でも面白いもので、よかったという人生の出会いはあるし、ひとつの突破口をきっかけにして、次々に新しい展開が目の前に拡がっていくんですね。

小室 
 われわれの対談がその可能性を秘めていれば結構だと思うけれど....。

藤原 
 というより、この対談は僕が希望して企画してもらったのです。その理由は、小室さんの『危機の構造』という著書との出会いがまずあり、この議論を通じて、ある種のメッセージを僕はあなたに伝えたかったのです。

小室 
 どんなメッセージですか。

藤原 
 それはあとで明らかにしたいと思っています。とりあえずは、なぜこの出会いを希望したかということから始めましょう。小室さんは「日本社会崩壊のモデル」という副題を持つ『危機の構造』と題した本を、一九七六年に出版していますね。僕も「経済大国の没落と日本文化」という副題を持つ『虚妄からの脱出』と題した本を出版していて、副題や書名が似ているだけでなく、主題と結論が非常に共通しているのです。『虚妄からの脱出』が単行本になったのは一九七九年だけど、所載論文は一九七六年に雑誌に連載したものでして、同じ時期に似たようなテーマを論した二人の日本人がいて、お互いに相手の存在を知らないまま、結果として非常によく似た結論を導き出していたというのは、実に興味深いと思うんです。

小室 
 そうでしたか。実は私は藤原さんの本をまだ読む機会がないもので、失礼していますが....。

藤原 
 実は僕も不勉強でして、半年前に『危機の構造』を読んで驚いた次第でした。小室さんはアカデミックの世界の人だけあって、日本文化と産業社会としての日本を学問的なアプローチで論証しており、さえた分析と緻密な論理構成は、実にみごとな腕前だと感嘆している次第です。いうならば、西洋医学の伝統と技術を完全にマスターした外科医の面目が躍如としており、アロパシー(対症療法)における最高の腕前とはこういったものに違いないとの印象をうけます。それに対して、ビジネスマンの僕は同じ主題を扱っても理論的にはかなり雑駁であり、経験主義的な傾向が濃厚です。いうならば、東洋医学の持つホメオパシー(同種療法)に似た発想法で議論を展開していると思うんです。このような側面でとらえるならば、ここで小室さんと僕が出会って、共通の問題について語り合うということは、ことによると意外な展開を見るかもしれないという点で、なんらかの意義を生み出す可能性を持っています。

小室
 そう期待したいし、そのような成果をもたらせれば面白いですね。

藤原 
 二人は五年前に日本のかかえた構造的な問題点を取り上げ、しかも、同じように文明史的な視角から日本の生理学と病理学の問題についての診断を、危機にまつわる提言として文章化した当事者です。北米大陸で勉強したあと日本に帰って学究生活を続ける小室さんは、その後『ソビエト帝国の崩壊』とか『アメリカの逆襲』といったニュース性の高い本を著わし、一般向けの時事解説でも活躍されています。石油開発というビジネスの世界に生きる僕は、アメリカに陣取って、『日本不沈の条件』とか『日本脱藩のすすめ』といった本を出して、世界の中の日本の問題を論じています。ともに文明の次元で問題を考え、戦争の歴史などをさかんに引用しているので、戦争好きとの誤解も生んでいるけど、要するに政治も経済も力学の問題であるという基本認識が共通しているんですね。そこで今回の出会いを生かすためにも、日本を座標の軸に置きながら、世界の将来を大きく動かしている主体としての問題に光をあてて、とりあえずは、アメリカ合衆国、ソビエト連邦、中国といった大まかな順序で論じ合っていきたいと思います。一種のブレーン・ストーミングを通して、これまであまり考えられないできた新しい視点を見つけることができたら素晴らしいし、火花の中から何かヒラメキが生まれたらいいのですけれど....。

小室 
 私は藤原さんの著書をきょうはじめて手にしたので、まだ一行も読んでいないのです。だから、失礼ながらどんな思想の人であるかを知らないし、どんな過去を持つかもわかっていません。それでも現在アメリカでビジネスをしているという事実をふまえて、アメリカ側から見た日本のアメリカ観と、日本人が一般に持っている主観的なアメリカ観の違いについて、問題提起の形で披瀝していただくことから始めてもらい、それを軸にして議論を展開したらと思います。

藤原 
 そうですね。日本人がいかにアメリカの虚像を見ているかについて、具体的に説明することから始めましょう。

小室 
 実際には、日本人が見ているのは虚像であるにもかかわらず、それを虚像と思わないばかりか、実は自分たちは虚像しか見ていないとも気づかないでいるという点を明白に示す例があったら、それをまず、指摘してください。

■アメリカの芯は中西部に在り

藤原 
 僕が住んでいるのはアメリカの真ん中に位置する、カンサス州のウイチタという町です。日本人はアメリカというとすぐに東部海岸のボストンやニューヨーク、あるいは西部海岸のサンフランシスコやロスアンジェルスを思い浮かベ、こういった場所が典型的なアメリカだと考えがちです。たしかにそういった都市はアメリカを象徴する大都会かもしれない。しかし、ほんとうのアメリカは、こういったエスタブリッシュされた所にあるのではなくて、実はミネソタや南北ダゴタやネプラスカ、それに僕が住むカンサスやミズリー、その南に拡がるオクラホマやテキサスを中核としたアメリカ中西部こそ、本来のアメリカが現実に息づいているのです。それは働き者で正直者であことを最大の誇りとし、自然に対決して生きることいまなお実践している人たちの世界です。
小室 フロンティア精神というかパイオニア魂がいまだに残っているという意味ですな。

藤原 
 それに独立自尊の思想が、強烈な共和主義の伝統として生きているのです。それにもうひとつの傾向として、建国以来のピューリタニズムというか、宗教におけるファンダメンタリズムが非常に支配的だというのも重要です。

小室 
 ファンダメンタリストというのは、狂言的にまで自己の信条に忠実な人々で、このかたくななアメリカ人の存在を抜きにしてアメリカを論じることは無意味であるとさえいえます。アメリカの下層中産階級の六割がファンダメンタリストといわれるが、だいたいアメリカ人の四割に相当すると考えていい。だから、アメリカは物質万能の国というよりは、どうしようもない宗教国家であり、かたくななまでに狂信的な国です。狂信国家であるがゆえに非宗教的になろうとすることに意味があるのであって、日本のように最初から宗教のない国が無宗教になったって、それはまったく意味がありません。
藤原 カンサス州では、メノナイトという東欧に起源を持つ宗教的なグループが村を作っていて、いまだに電気を使わなかったり、自動車の代りに馬車に乗ったりする生活をしている。しかも、非常に農本的な生活をする一方で、質のいいコミュニティ・カレッジや自主運営の放送局を持っていたりします。こういう人たちの周辺に、物質文明にあまり毒されていない健全なアメリカ人たちが住んでいて、正直一点張りで働き者の社会を作っています。生活は単調だけど、そこには男らしい粗野なアメリカが息づいていて気持がいいですよ。だから、カリフォルニアあたりに出かけて行って、腐ってふやけてしまった女性的なアメリカ人を目撃すると、これはいかんと思う場合が多いのです。中部の人間こそ真のアメリカ人だのに、日本人はそう見ません。
小室 そういう人々はかたくななまで道徳的で、正直で、日本人から見るとどうしようもないほど頑迷固陋です。そして、これこそ本もののアメリカ人なのです。しかし、やれスワッピングだの殺しだのと、アメリカの風俗の一端を針小棒大に騒ぎ立てる売らんかなの日本の週刊誌あたりの下ネタに毒され、いつの間にか誤ったアメリカ観のまま固定してしまったのです。

藤原 
 アメリカのサブカルチャーの一部が、誤ってアメリカの文化のように受け取られてしまい、しかも、日本文化の一部として取りこまれてしまうんだから恐ろしい。

小室 
 本質を理解しないせいです。本質を正しく理解するためには、文化の芯を見極めて、さらに歴史的な理解が欠かせません。

藤原 
 アメリカの開拓の歴史を、単に西へ西へと移動したものと理解しては、どうして中部にほんとうのアメリカ人たちが密集しているのかという理由がよくわからない。僕にいわせると、東部海岸も西部海岸もだいたい怠け者吹き溜り的な存在です。東部梅岸からアメリカの歴史が始まったのは事実だけれど、二百年くらい前に西部に向かう開拓の動きが開始して、ひい爺さんたちの時代に新しい可能性を求める人間たちは旅立ったのです。中には無法者や山師もたくさんいたが、新天地を目ざす勇気を持ったアメリカ人は、とりあえず西に向かいました。

小室 
 そもそもアメリカは狂信的な宗教信者と、腕力こそすべてと考える荒くれ者によって築ぎ上げられた国です。しかも、そこに民主主義や正義の思想が結びついて、人造的な契約国家が成立したのであって、自然に国ができ上がったわけじやありません。
藤原 おそらく合衆国の原形を作ったのは、西部に旅立たないで銀行員や学校の教員になった非あらくれのアメリカ人です。しかし、これらのエスタブリッシュメント指向型の人間は、あらくれのアメリカ人の眼には、開拓塊や挑戦への勇気を持たない怠け者たちと映ったのです。しかも、怠け者の子孫として東部に残り、三代四代と同じ場所に住みついた人間は、ついには腰抜けアメリカ人として、東部の大都会で、大多数はサラリーマン化してしまった。

小室 
 ひ弱な都会人です。アメリカ人自身が群をなして生きる人種と呼ぶところの、アスファルト・ジャングルの住人です。

藤原 
 大草原を横切り砂漠を踏み越えて西に向かった人たちは、ついに世代を越えて大平洋岸にたどりついた。陽光に恵まれたカリフォルニアには豊かな果実があったし、住み心地もいいので、大半の人間はそこに住みつきました。もっと元気のいい人間は大平洋の彼方を跳めて、この向うに自分たちのフロンティアは拡がっていると考えて船出し、アジアを目ざして日本や中国を訪れた。一部の人間は途中で通り過ぎて来た大草原や砂漠の周辺にほんとうのフロンティアがあると思い直して、再び内陸部に向かって移動していき、結局、中部のアメリカが最後のフロンティアになったのです。
小室 西部劇の舞台になるカウボーイのアメリカですな。インディアンも健在だったし、定住者も最後までまばらだから、スペースは十分にあった。

藤原 
 カリフォルニアは居心地がいいというので多くの人が住みつき、動きをやめた人間は流れない水と同じでだんだんと腐っていった。そしてすっかり腐り果てた連中が生み出したものが、サブカルチャーとしてのカリフォルニア文化です。

小室 
 軽率なマスコミ界の人間が、カリフォルニアのデカダンスな現象を見て、それをアメリカ全体に一般化して大袈裟に騷ぎ立てた。

藤原 
 東部だって同じです。日本人は何かというとニューヨークやワシントンへ出かけて行き、それでアメリカを見たという気になってしまう。だいたい、ニューヨークなんてジュウヨークといわれるほどで、ユダヤ人が市民の七割を占めています。もっとも、一流のユダヤ人は定住せずに全世界を舞台に駈け回っていて、ニューヨークあたりにたむろしているユダヤ人のほとんどは駄目な連中なんです。それを下から眺め上げて感心している。ワシントンだって役人にしかなれなかった人間と、成上り者志願者の吹き溜りなのに、日本人はそういった連中を典型的なアメリカ人だと錯覚している。要するに東部や西部を見て、それがアメリカの姿だと決めつけるから、日本人にはアメリカの正体がわからないのです。

小室 
 日本人がアメリカをすべて知りつくしていると思いこんでいるということは、実は何もわかっちゃいないということの裏返しなのです。日本は自然のまま国家ができていて、そこに生まれると日本人以外なにものでもないが、アメリカという国は世界でも例外的な人工国家であり、選択によってアメリカ人になるという点で、国民としての在り方が日本人とはまったく異なっている。だから、日本人がほんとうにアメリカを理解することは実にむずかしい。

藤原 
 それに伝統指向型の日本人は、祖父のほうが父親よりもより日本人だし、父親のほうが息子に較べて正統な歴史の継承者だという考えが強い。それに対して未来指向型のアメリカ人は、アメリカはこれから作られていくものだとするので、父親よりも息子のほうがよりアメリカ人的であるという考え方をします。方向がまったく逆です。

小室 
 それ以上に重要なことは、米国はアメリカン・イデオロギーと呼ぶべき厳然とした社会規範によって支配されているのに対して、日本はいかなる規範もイデオロギーと呼ぶ形で存在していない点です。日本人は構造的にもイデオロギー的にもアメリカを理解し得ないし、よほどの努力をしない限りその本質に肉迫できないのに、日本人はわかったつもりになっている。そこに危険な落とし穴が口を開けているのに気がつかないし、気づこうともしない。それは日米コミュニケーション・ギャップなどということばでは、とても表現し得ないたいへんな断絶です。

■日本商品の持つ弱味

藤原 
 そういった本質的な問題を論じる以前の段階として、スムーズなコミュニケーションの面でも、実はたいへんなギャップがあるのです。そのいい例が自動車輸出問題ですよ。僕が住むウイチタは米国の民間航空用小型機の六割を生産していて、セスナ、ビーチクラフト、パイパー、リアジェットといった小型機メーカーの本社と工場があります。ボーイングだってウイチタで部品を作ってシアトルまで輸送して組み立てている。日本では逆立ちした考え方が支配的だから、誤解しているけど、自動車にしても飛行機にしても部品を作る技術のほうが、それを組み立てる技術よりも質的に上に位置しているんです。

小室 
 部品さえ供給されれば、自動車くらいのものはトルコやブラジルだって組み立てている。要するに、部品や全体的に作りあげるためには、裾野の広いインフラストラクチャーがいるということです。

藤原 
 だから、かつてはデトロイトは自動車王国としての栄誉を誇ったのです。しかし、自動車と小型飛行機では部品の数でも技術の質でも、ひとけた内容が異なっています。日本は自動車は作れるようになったけど、いまだ小型飛行機の分野ではアメリカに完全に立ち遅れたままですよ。

小室 
 大型飛行機を含めて、航空機産業はすべてアメリカのライセンスで、なんとかやっているだけだ。

藤原 
 ウイチタの連中がデトロイトについて何といっているかというと、「デトロイトの連中が作るものは自動車だから、エンコしたらみんなで押して、道端に押しやればすむ程度のものだ。ところが、ウイチタで作っているのは飛行機だから、エンコしたら墜落してしまう。われわれが製造する飛行機は、あんなエンコしていいようないい加滅なものではない。技術だってはるかに上だし、部品ひとつを取っても質的にはるかに高いものがいるし、組み立てる人間の水準だって、飛行機と自動草とでは段違いだ」とこういうわけです。

小室 それは否定しようがないですな。

藤原 
 さらにこう続けます。「デトロイトの自動車労組は質的にあまり高い仕事に従事していないのに、高賃金を取りすぎているし、無用な人間が群をなしすぎる。また、駄目な産業のマネージメントはいい人材を確保できるわけがないし、結局は腐ったマネージメントを維持しているがゆえに、経営に失敗して赤字ばかり出しているじゃないか。どうしようもない連中がビジネスを駄目にして赤字だからといって、どうしてわれわれが払う税金でその尻ぬぐいまでする必要があるんだ。クライスラーが無能経営で黒字にできないなら、そんな不良会社の面倒をいちいち見る必要はないし、思い切って潰してしまったらいい。フォードだって同じで、自力でビジネスが続けられないなら潰れるのは当然である....」。

小室 
 アメリカン・キャピタリズムはそうでなきゃいけない。自由競争が社会の原埋である以上、弱肉強食の自然淘汰は当然です。

藤原 
 適者生存であって、これは資本主義における生理現象ですよ。だから、「最も健全に自動車製造のビジネスをやっているのはGMだ。GMのシボレー、ポンティアック、オールズモビルといった各事業部とクライスラーが競合できないなら、むしろ潰すのは当然だ」といっています。これはウイチタの人間がうそぶいているだけでなく、自信を持ってビジネスをやっているアメリカ人のほとんどが同じ考えですが、こういった情報は日本にはまったく伝わっていないと見えて、日本の新聞に紹介されたこともないのじゃありませんか。

小室 
 その通りでしょう。だから、アメリカの最大の危機というのは、アメリカがアメリカ的でなくなったことです。アメリカが本来のアメリカ的であれば、危機なんかいくらでも乗り越えられるのです。アメリカはそれくらい強靱な体質を本来持っている国だし、ここにきて、たとえ落ちぶれた外見を呈していても、社会として根本規範を持っているので、日本と違って、パニックに陥ったり、内部崩壊をしたりすることはありません。この裡に秘めた底知れない力と秩序形成能力に、想像を絶するほどの強いアメリカの姿があるのです。

藤原 
 最近、日本車が米国市場で大量に売れているとか、鉄鋼やテレビの輸出が伸びすぎている点を強調して、産業社会全体から見ても、日本のほうがアメリカよりも進んでいるといった議論が、日本のマスコミ界に目立ちすぎていますね。心しなければならないのは、日本が得意にしているこういった大量生産型の輸出商品が、実はアメリカ自体が伝統的に消費量の過半数を供給してきたものであり、現在も生産を続けているという点です。

小室 
 アメリカが自ら生産しておらず、日本からの輸入に全面依存をしたというのは、昔の絹の靴下や即席ラーメンくらいで、この頃では即席ラーメンはおろか醤油もアメリカ製です。ビデオなんかは日本の独占場といわれているが、マーケット・シェアが大きいだけでアメリカ人に作れないわけじやありません。現にRCAとかいろんなアメリカ製があるし、人工衛星用のビデオはアメリカ自身が開発しています。

藤原 
 その通り。それに自動車ひとつを取っても、一般のアメリカ人はファーストカーとしてはアメリカの車を買っています。セカンドカーだって大部分は米車であり、サードカーになってはじめて日本車が食いこめている。高校や大学に通う娘や息子が小型車の顧客の主体だという現実に、日本人はもっと目を向けるべきです。それにガソリン代が気になって仕方がない貧乏人や、品質の割に値段が手頃だと考える都会住まいの若い世代が日本車のファンとして一台目に買っている。見落としていけないのは、ほんとうのアメリカは、東部や西部海岸の大都会ではなくて、フロンティアとしての伝統を持つ中部の荒れ地であり、ここでは日本車はあまりにもデリケートすぎます。

小室 
 日本車は大都会向けの需要で売れているのであって、アメリカの中核部にはあまり食い込めていないということですか。

藤原 
 東部やカリフォルニアのような西海岸を除くと、アメリカ大陸の内部はトラックが支配する世界です。だから、このトラックの分野に日本車が圧倒的に強味を見せたときにはじめて、日本人は自動車でアメリカを制圧したと胸を張ることもできるだろうけど、現在のようなマージナルな部分を埋めている程度で、あまり大きな顔をしないほうがいいと思う。かえってアメリカの逆襲にあって自滅させられますよ。

小室 
 それにアメリカが本気になって日本商品の締め出しを強行したって、アメリカ人のほとんどは痛くもかゆくもないし、困るのは日本だけだ。日本人は自由貿易を天から与えられた自然の恵みのように考えていて、アメリカ人の決意ひとつでいつでもやめることができるとは夢にも思っていない。これは実におぼつかないというか、危検きわまりないことです。現在の繁栄などは一瞬のうちに吹き飛んでしまうのに、それを予期した上での生存条件を真面目に考えようともしません。

藤原 
 嫌なことは考えたくないから考えようとしないのだし、なんとかなるさという楽観的な気分で、つかの間の餐宴に酔い痴れているんです。

小室 
 日本人の行動様式は二千年の昔から少しも変わっていない。正しい現実認識ができないし、その認識能力を高める努力もしない。だから、アメリカの逆襲が始まったらひとたまりもないのだし、逆襲がなくなって、伸び切った補給線がズタズタになることで、日本は自滅せざるを得ないという現状です。

藤原 
 戦前の軍事大国が戦後になって経済大国になったけど、本質的にはハードウエアを盲信する技術主義に災いされて、結局は自滅する他ないんです。

■「日本共和党」を実現させよ

小室 
それでなくとも、アメリカとの関係で日本の立場は弱いのに、日本のマスコミは結果的に反ソ反米と相手に受け取られるようなことばかりここにきてやっていますね。ソ連のことはあとで論じるとして、八〇年代の世界情勢を展望するなら、日米は最大の敵対関係になるのは疑いないです。

藤原 
僕もそう思う。最大の理由は、日本人のやり方があまりに手前勝手のヤラズブッタクリだからです。この点を反省して改善したら、敵対しないアプローチも生まれてくると思うんですよ。

小室 
それは不可能です。破綻の原因が、無規範性を自覚しないでアメリカとの関係を維持しようとするという、日本人特有の行動様式にかかわっている以上、日本の前途には破局しかないのです。

藤原 
そういった認識はすでにお互いに確認し合っている結論だけど、なんとか救いが欲しいですね。たとえ一時的な気休めにすぎないにしても、時間稼ぎをしながら破綻をより遠い時点に押しやる努力をしない限り、悲劇は悲惨の度合を増すばかりですよ。

小室 
 ひとつの選択としては、シベリア開発などでソ連を経済的に援助しながら、米ソ関係の調整の中で日本が生きる途をさぐることです。しかし、それだって日本が国際社会で生きのびる上で、これまでのような行動様式を改めなければだめです。

藤原 
 ということは、日本文化を自己否定してそれを乗り越えるということでしょう。むずかしいな。

小室 
 日本型の行動原理を日米関係から取り除くことです。官僚エリートによるタコツボ的発想から自らを解放して、無責任体制をやめる努力をするのです。

藤原 
 それは個人主義のベースを作ることだし、日本人の政治感覚の中にリパブリカンの思想を導入することです。これはある意味でモナルキーに対してのアンチテーゼに相当するので、現在の日本ではとてもじゃないけど認められないのじゃありませんか。下手にリパブリックなどと口にしようものなら、畳に出刃包丁をつきつける物騒な連中が日本にはまだ多いから....。

小室 
 リパブリックというと、日本人はすぐに共和国と訳したかるけれど、これがそもそも大間違いです。共和ということばは絶対君主としての王様の存在形式ではなく、リパブリックは王様がいるいないに関係がないのです。たとえば、ナポレオンが皇帝になるときに、「皇帝は共和国とその人民のために全力を尽くす」という宣誓をしている。日本語の感覚からすると、皇帝がいたら共和国ではないということになります。もともと、日本語の共和ということばは中国に起源があって、周の時代の皇帝がいないときに、いく人かの貴族と官僚が政治をやった例が強烈なイメージになって残っている。だから、共和国というと王様がいないという意味になってしまいかねないが、英語やフランス語のリパブリックというのはコモンウェルスの意味で、王様や皇帝の存在は無関係であり、共和国に王様がいても少しも差しつかえないのです。

藤原 
 これまで誰も厳密な意味でこういった議論をしないまま、リパブリックは天皇制を否定する反逆思想に連なるということで、一種のタブー扱いをしてきましたね。それゆえに、日本では幕末期に榎本武揚が五稜郭に立てこもって、蝦夷共和国を宣言したという歴史的な事実でさえ、文部省は懸命になって抹殺しようとしてきたのです。
小室 物事の本質を理解する能力を持ち合わせず、英和辞典を引くだけで横のものを縦に翻訳しようと考える程度の手合が、小役人として文部省で権力風を吹かせる国だから、こんなごく当り前のことさえ何十年も誤解され続けたのです。それくらいのことは、歴史の本を読めば常識以前の事柄で、共和国には貴族政と民主政の二つの政体が含まれているくらいは、日本以外の国では中学生でも知っています。
藤原 それに、行政の形式のいかんにかかわらず、法によって治められる国家を共和国と呼んだルソーの発想にしたがえば、合法的な政府を持つ国はすべて共和国です。現に彼は、君主政体そのものも共和的になる、と書いているし、マキャベルリの『君主論』こそ最も先鋭的な共和思想の教科書だという意味で、日本ほどリパブリックということばが間違った形で理解されている国は他に例がないですね。

小室 
 第二次大戦における連合国の戦争遂行機関であり、戦後に旧敵国の管理機構の役目を演じている国連を、日本人はまるで国際政治を調整するユニバーサルな機関のように誤解して、国連中心主義などという軽率なことを唱えている。この国連への誤解と同じで、共和政への日本人の理解は支難滅裂です。

藤原 
 日本人がアメリカを正しく理解できない理由の第一は、この共和思想に対しての無理解に由来しています。なぜアメリカの政治が民主党と共和党の二大政党対立の形をとっているのかと、南北戦争の時代に遡って歴史的に理解するところから始めなくてはいけない。

小室 
 世界史的に見ても、共和主義はブルジョワ階級の思想です。それは自らを治める能力と実力を持つ人々が自分たちにとって最も好ましい社会的規範を確立し、それを法理論の体系の下に政治的運営をしようということです。しかも、主体になる法体系は市民法であり、近代的な民主社会の基盤を作っているのです。

藤原 
 レーガン政権が共和党の政策執行機関として登場したことと、日米間の政治摩擦が高まろうとしている事実からするなら、日本人が何をさて置いてもやらなければならないのは、共和思想の正しい理解です。とくに現在の日本は、たとえグラスルーツにしても、偽装された共産主義路線を歩んでいる。自由を旗じるしにしたアメリカの共和主義に対して最も鋭く敵対するのが、実は日本的な平等感に墓づいた全体主義体制だという皮肉も生まれてくる。自由と民主を自称する日本の自民党がやっている政治が、実は共産主義であり、全体主義以外の何ものでもないという事実は、それ自体アメリカの共和主義と敵対関係を深めることです。

小室 
 日本の政治が内包するこの矛盾にアメリカ人が気がつけば、これはえらいことになる。しかし、日本の破綻はそれ以前の段階で、日本人の無規範性の側面から起こると思います。

藤原 
 僕の印象では、レーガンは自らが正義の味方で白いカウボーイ・ハットをかむった存在だと思い、当面はロシア人が黒いカウボーイ・ハットをかむった仇役だと信じきっている。だから、早撃ちの二丁拳銃で身構えて、スタイリストとしての見せ場を作っているが、そのうちふとロシア人もリパブリックを自称していると気がついて、「奴は間違って黒いカウボーイ・ハットをかむったに違いない」と首をかしげる。そんな所へ日本人が灰色のカウボーイ・ハットで登場すると、レーガンにはロシア人の黒が赤く見え、日本人のグレイが漆黒に映り、ほんとうの敵は日本だったということで滅多撃ちにする恐れもあります。

小室 
 そのきっかけになるのが中国問題です。中国市場に対しての投資で、日米が死にもの狂いで激突する日がくるのは、そんなに遠い将来のことではない。日米経済戦争はアメリカ市場ではなく、中国市場の奪い合いを通して火を吹きます。

藤原 
 僕はアメリカ市場での対決のほうが危険だと思うな。なにしろ、日本のやり方はヤラズブッタクリであり、日本人が中国市場で同じことをしても、アメリカ人には何ともないけれど、これ以上アメリカ市場で続けるとなれば、アメリカ人は灰色のカウボーイ・ハットの日本人に対してピストル乱射は必至です。徹底的な袋叩きにあいますよ。

小室 
 西部劇に見るように、昔から黄色人種に対しての蔑視は根強いものがある。だから、アパッチ族殲滅作戦と同じ阿鼻叫喚の惨状が起こり得ます。

藤原 
 そのときに、日本人がアメリカ人に講和を申し入れる最低案件として必要なのは、リパブリカンを使者に立てる才覚です。だから、できるだけ早い期間に、日本人は現在の与党と野党の他に、第三党として、共和党を設立して育成することです。不思議なことに、現在の日本では誰一人として日本共和党を発足させようといわないけれど、この辺に最大の政治的盲点があるんじゃいかな。

小室 
 日本に共和党が生まれれば、自民党と共産党が合同して、新しい名前をつけて共産自由新党とでも名のるのではないか。本質的にあの両党は官僚的で全体主義ですからね。

藤原 
 ともに偏狭な民族主義集団だから、ことによると国粋自共党という看板でやるかもしれませんよ。

小室 
 それなら国民党でいい。

藤原 
 国粋主義的でインタナショナルなセンスに欠けているから、国民国家党としたらどうでしょう。どう見ても正真正銘の全体主義攻党だということは一目瞭然だ。

小室 
 アメリカ人の本音には、日本が軍事的に力を持つことに対しての不快感がある。戦後三十年の蜜月が過ぎ去ろうとしているいま、宿命的なライバルとしての日米両国は、同床異夢の開係にあるのです。

藤原 
 ライバル関係であればあるほど、たてまえではなくて本音を知る必要があるのです。

小室 
 それをやるのが外交ですよ。

■外交技術のおそるべき稚拙さ

藤原 
 外交官が低迷しているがゆえに、マスコミなどでは、民間外交の一端としてのインタビューなどで、大いに頑張ってもらわなければいけないのに、逆に失点ばかりを稼いでいる現状がありますね。防衛予算の問題だって、焦点をカネの問題に限定せずに、もっと大枠からアプローチして、相手に本音をしゃべらせるべきです。たとえば、「防衛予算を増して日本の国防力を強化したところで、アメリカとしてはこれで安心できるという状況を、いまの日本人に期待していないのと違うか」という具合に切り返すアプローチを使うのも一法です。そうすれば、「日本の軍隊は実戦の経験を持つ韓国軍に較べて、はたしてほんとうに強いかどうかは疑問に思う」とか、「自衛隊がアジアの軍事的なバランスにとって、大きな意味を持つなどと、われわれは少しも思っていない。それは自衛隊に軍事顧問として派遣している将校の報告を読めば一目瞭然だし、第一、あの漫画ばかり読む日本の若者を見れば、緊急事態に臨んで彼らが役に立つとは夢にも期待し得ない」という返事になります。

小室 
 アメリカの中部には働き者で射撃のうまい若者たちがいっぱいいるから、いざとなれば彼らを徴兵すればいい。だから、無理してまで自衛力を日本に増強しろとはいわない、というのがアメリカ人の正直な気持です。

藤原 
 そこで政治的にもっとしっかりした役割をしてもらいたい、という本音が出ざるを得ない。経済援助を行なうにあたって米国に資金的余裕がないときには、日本が進んで肩替りするのを連中が期待しているとすれば、その気持をインタビューを通じて叩き出せばいいのだし、外交交渉の席上でも、そこまで相手の真意を引き出さなくてはいけないのです。

小室 
 つまり、日本には外交という発想がないのです。その証拠に、わが国の外務大臣が外国に行くと、向うの要人と酒を飲んで腹を見せ合い、「まあまあ」といった気分になることをもって外交だと思い込んでいる。外交というのは、よりよい契約を結ぶための話し合いのプロセスだが、日本人には契約という概念がそもそも存在しない。当然のことで、交渉が概念としても成り立ちません。たとえば、日本の外相がメキシコに行って、十万バーレルの石油を買ってくる。ところがそのやり方というのが日本的でして、「もし輸入の話がまとまらないと自分の顔が潰れるんだ」といったようなことをいって向うの大統領に泣きつき、その結果として、ねだり取るような形で石油を売ってもらうのです。

藤原 
 ロジックをベースにした取引じゃない。いうならばナニワ節の世界。

小室 
 こういう馬鹿なやり方ばかりを押し通してきたのが、戦後三十数年にわたる日米交渉の正体だった。だから、この頃ではアメリカ側が日本のやり方を覚えこんでしまい、日本の大臣がアメリカへ行って交渉すると、アメリカ側が、「この要求が通らないと議員としての面目が立たない」とか「南部諸州の議員を説得するから、ここは彼らの顔を立ててやって欲しい」といわれるのだそうです。すると日本側は、「それならば仕方がない。向うの顔を立てておくか」というようなことを呟いて譲歩せざるを得なくなるらしい。まったくあきれた話で、これでは論理もヘチマもあったものじゃないです。

藤原 
 日本人は昔から知日派アメリカ人とか親日派のアメリカ人とかいってきましたね。ところがアメリカ人の中には知日派はいるにしても、親日派などという存在しないのです。

小室 
 知日派といわれている人だって、日本のこともよく知っているというだけのことであって、何も日本のことだけを特別に知っているわけではありません。

藤原 
 だけど、お人善しの日本人は知日派というレッテルだけで嬉しくなってしまい、必要以上にチヤホヤして大もてなしをする癖があります。だから、彼らも日本人のしたいようにさせて、大いにエンジョイしながら歓待されてきたわけです。

小室 
 でも心ある知日派の外国人には、度を過ごした日本人のもてなし方はあまり気持がよくないはずです。

藤原 
 同じことが外交面などに現われていて、アメリカに住む心ある知日派アメリカ人たちが、最近における日本人のぶざまなやり方を目撃してイライラしており、ついには可愛さ余って憎さ百倍とでもいうのか、反日に転じているケースが多いそうです。これは日本が世界から孤立しないために、真の友人を一人でも多く必要とすることからすると、とても恐ろしいと思うんですよ。

小室 
 心から日本のためを思ってくれる外国人にとって一番つらいのは、規範を持ち合わせていないために、日本人がいったい何を考えているかも、何をやろうとしているかも見当がつかないという点です。

藤原 
 すべてが出たとこ勝負だし、一人よがりの自己満足に終わるからです。

小室 
 己れを知らないせいです。

藤原 
 そのいい例が、大統領がカーターからレーガンに交替したときに、駐日大使のマンスフィールドが留任になり、大使を続けることになった直後の日本側の反応です。政界・財界はいうに及ばず、日本人のジャーナリズムが、これは非常に結構な措置だといって、有頂天になって喜びました。

小室 
 マンスフィールド大使はアメリカ議会の長老であるだけでなく、日本では親日アメリカ人としてもてはやされていたから....。

藤原 
 ところが、アメリカ側の情報を総合すると、「誰が日本などに行くものか。あんな日本でこれから厄介な仕事をさせられると自分の出世の妨げになる」というのが真相だったのです。日本大使の候補として合計八人のアメリカ人がレーガンから話を受けたが、誰も喜んで引き受けようとしなかった。そこで仕方がなくて、結局はマンスフィールドが留任することになったのです。

小室 
 ところが、日本では誰一人としてそんなことはいっていないですよ。

藤原 
 日本側ではマンスフィールドがまた駐日アメリカ大使になったということで、これでパイプが再びつながったと大喜びしているのです。しかし、考えてみるまでもなく、この発想は実におかしいですよ。

小室 
 マンスフィールド以外に日本人を相手にしてもいいという大使役がいないのは、日本にとって重大問題です。パイプはたった一本しかないということですからね。しかも、日本人は、親日派のマンスフィールド大使がパイプ役だということで、さらに新しいパイプをいくつもつけ加えようという努力をしなくなってしまう。単細胞的な発想ですよ。

藤原 
 外交をすることの基本が、相手の強味を、条件を変えることによって弱味に転ずること、裏返せば自分の弱味を強味にする点にあるとすれば、ここに教訓があると思うんです。マンスフィールド大使が仕事を継続したのは、ある意味で非常に都合がいいと見えるが、条件が変わることで、とんでもない状況が生まれることだってあり得る。こう考える人が出ていいはずだし、次の駐日大使がもたらす問題点を予想する上でのヒントも提供されているのです。ところが誰もそれをやらないで、国をあげて軟迎の大合唱をしていた。これはある意味で、実におぞましいという感じがするんですよ。

小室 
 つまり日本では、単なるパーソナル・コンタクトがあることをもって、実質的なコミュニケーションがあると思い込んでしまう。そこでマンスフィールドがいればパイプがあるが、もし彼が死ぬようなことでもあればいったいパイプはどうなるのだ、パイプはなくならないのか、と理詰めに考えようとしない。誰がいても、日本とアメリカの利害を調整して、しかも日本と仲良くすることはこれだけ米国にとって利益の多いものですよ、といって説得するのが外交の役目だということを指摘しようとする人間がいない。

藤原 
 真珠湾奇襲直前の日米交渉のときだって、野村特使がルーズベルトとハーバード大学の同窓で、しかも、ワシソトン駐在武官のときに海軍次官だったルーズベルトと親しかったということだけで、パイプ役として交渉を担当させられたのです。ところが、野村海軍中将の英語力はとても外交をやるだけのものではなくて、彼が何をいいたいのか相手は理解に苦しんだらしい。そのことは当時の駐日アメリカ大使をやったグルーの『滞日十年』にも書いてあるけど、日本人はいまだに、個人的つき合いと交渉としての外交の違いについて、よくわかっていないようですね。

小室 
 日本人は、交渉や外交については想像を絶するほどの音痴です。この国では政治や外交がムードで動かされるし、ロジックのわからない人たちが仕事を担当しているので、何をやっているのか見当がつかなくなる。そして行きつくところは無秩序(アノミー)であり、破局です。

藤原 
 日本人の最大の欠点は次元の展開ができないことです。個人の次元と組織の組合せとしての企業間問題、それに東京都やカリフォルニア州というコミュニティの次元や、日本とかアメリカのようなソサイェティの次元を日本人はごちゃまぜに取り扱う。

小室 
 要するに、日本人は演算能力は優れたものを持っているが、数学的な思考能力では世界でも最も劣った人種です。だから、論理的なアプローチができないし、次元の問題となどになると、さっぱりわからなくなってしまうのです。

藤原 
 だから、クライスラーやトヨタの企業の問題をアメリカ国と日本国の自動車戦争といった具合に、メチャメチャな次元の枠組みの中で論じて大騒ぎしているんです。
小室 問題があることにさえ気づかないから平然としていられるのです。大平楽な国民ですよ。

■デトロイトの悲劇を繰り返すな

藤原 
 日本でよく行なわれている日米間の自動車産業の比較論だって、実に日本的な議論がまかり通っています。しかも、それは部分的な議論でしかないというのに、まるで自動車産業全体についていい尽くしているといった感じで、日本では取り上げられています。

小室 
 日本人がやっているのはマーケットのシェアー論と、量としての自動車台数論だけですよ。

藤原 
 前に紹介したウイチタとデトロイトの例を見るまでもなく、アメリカの場合は自動車は交通の手段として、その後における自家用飛行機の発展と密接に結びついています。僕の同業者には自家用機を乗りまわしている連中はいくらでもいるし、自動車代りにヘリコプターで飛びまわっている人も多い。

小室 
 大量輸送機関として鉄道の延長が民間航空事業だとすれば、個人の車の延長が小型機だというのは、国土が広い上に全国に飛行場があるアメリカからすると当り前でしょう。

藤原 
 それを産業社会における輸送手段の変化という側面から見ると、明白な進歩のプロセスがあるのです。日本の場合は歩いていた人間がカゴに乗り、その次に自動車が利用されて、カゴと自動車は労働力集約型から技術集約型への変化はあっても、進化のパターンとしては不連続です。それに対して、ヨーロッパやアメリカでは、歩いていた人間が次に馬車に乗り、馬車に動力装置がついて自動車になった点で、進化のパターンは連続的です。しかも、一定時間のうちにある地点から別の目的地に行く手段として、自動車に羽根をつけた小型機は、乗物としての進化のパターンからすると、これまた連続的です。そして、アメリカの産業社会全体を眺めるなら、第二次大戦後の数年間に絶頂期を迎えた自動車産業は、その後ゆっくりとしたペースで没落の過程をたどっています。だから、没落しつつあるアメリカの自動車産業を、あとから追いあげた日本の自動車業界が、ある部門で優位に立ったからといって得意がって胸を張る必要もないのです。

小室 
 アメリカでは自動車などは過去の産業であり、飛行機や宇宙産業に重点が移っていることに気づくべきです。しかも、海洋産業、石油産業といった方面では、日本はとても足元にも及ばない。それだのに、日本人の感覚はいつの時代においても、一国の墓幹産業は同じだと思い込んで、固定観念に支配されています。

藤原 
 日本の産業社会自体が、重工業を中心にして、ようやく労働力集約型から技術集約型に移行し終わったところです。だから、日本中がなんとなく胸を張りたい気分に支配されていることは、気持としてはよくわかる。しかし、産業社会の発展段階からすると、技術集約型の次には知識集約型の産業があるし、アメリカの産業界のトップには、石油開発事業のように、知識集約型としてダイナミックな活動を演じているものがあるのです。

小室 
 残念ながら、日本には本来の意味での石油開発事業はないみたいですな。

藤原 
 残念だけどまだまだです。アメリカでまともに事業をし、ダイナミックに発展している先端事業の人間は、いまだに重工業の周辺でモタモタしている日本の大企業など歯牙にもかけていません。日本に学べなどと寝言みたいなことをいって、わざわざ視察団を送るような会社は、アメリカの中でも時代遅れになって、競争力や活力を失いかけている駄目な組織がほとんどです。

小室 
 アメリカの駄目な部分と日本の優れている部分を比較してみたって、これはまったく無意味だ。ところが、日本人のほとんどはその点に気がついていない。それはちょうど零戦の能力について考えるとき、性能として現われている数字を並べて得意になり、雰戦を工場から飛行場へ運ぶときに、当時の日本人が飛行機を牛車で運んだことを忘れているのとまったく同じです。

藤原 
 燃費のよさもあって、アメリカで日本車がよく売れているのは事実だが、それは都会地が中心で、田舎にはなかなか食い込めていない。そして田舎はもっぱらトラックが中心だと先刻話しましたね。たしかに半トン程度の小型トラックには日本車も混じっている。しかし、農村地帯に行って一トンとか二トン積みのトラックになるとまったく勝負にならず、さらに大きなトラッカーという、トレラーで荷物を引っ張って大陸を横断するあの大型トラックとなると、アメリカは圧倒的な支配力を持っていて、日本のトラックの入り込む余地などまったくありません。

小室 
 日本製の超大型でも、米国製トラックの前では小型だから仕方がないでしょう。

藤原 
 アメリカの大型トラック業界では、車を作るプロセスが日本とまったく違っているんです。というのは、大型トラックはアメリカではアセンブリーするのであり、業者は一番いいと考えるモーターやトランスミッションをメーカーから買い集めて、手作りで組み立てる。日本みたいに系列化してしまい、すべて自社ブランドで統一して規格化してしまうなんてことはあまりしません。おそらく、そんなやり方は、日本、ソ連、フランスといった官僚指向の強い国だけじゃないですか。

小室 
 そういえば、自社のマークは最終的にボディにつけるだけです。ベンツだってたしかボディのマークであって、エンジンが違うこともある。それは飛行機を作るときのやり方と同じで、ロールスロイスのエンジンでも、ロッキード社製ということになるのと共通です。

藤原 
 航空機だけでなく、船だってボーリングの機械だってみな同じで、部品をアセンブリーして自分で組み立てるのです。このテクノロジーは貴重です。大企業に働いてクライスラーやフォードのベルト・コンベアーの上で仕事をする労働者は、一番弱いテクニシァンです。それに対して、自動車の下にもぐりこんでエンジンやトランスミッションを全部バラしてしまうというタイプのテクニシァンの重要性が、最近の日本の自動車産業論で見落とされていると思うです。

小室 
 組織の中に組み込まれないで、独自でやっていける人的ポテンシァルについて、たしかに軽視している傾向がありますな。日本人は組織を神聖視するし、大組織の人間を過大評価しすぎているかもしれない。

藤原 
 組織の中でしか動けない大量生産向けの分野だけが、日本の企業に学ぼうといっているんです。そういう具合に眺めると、眼が洗われるような思いがします。日本人は少し思い上がっているのではないですか。

小室 
 ベルト・コンベアーの前で働いているのは労働者であって、職人ではないということです。オーガナイズド・マンだ。

藤原 
 フィリピンには自動車産業が存在していない、と日本人は思い込んでいるけど、実は立派に存在しているのです。それはアメリカ軍が置いていったもので、軍用トラックとかジープを解体するものすごい連中がいます。

小室 
 解体屋ですな。

藤原 
 日本では五万キロも走った中古車は誰も買わない。国民がぜいたくになったので、こんな車をフィリピンあたりに一台一万円くらいで輸出するのです。この車をフィリピンのメカニックはわずか二日くらいで、右ハンドルを左ハンドルにつくり変えて売る。あるいは、事故で大破した車を三台集めて部品をそろえ、一台の中古車として作りあげる。こういった技術を持つ連中が結構いて、これは人的なポテンシァルとして大したものですよ。

小室 
 昔の日本にはそういう猛者がずいぶんいた。しかし、市場が新車中心に変化する過程でだんだん少なくなったかもしれないですね。

藤原 
 そういうテクニシァンを自動車産業の人材として評価した場合、部分的な仕事しかできない人間が激増するデトロイト型と、自動車をひとつのシステムとして取り扱えるフィリピノ型のどちらが、はたして大きなポテンシァルを持つのか、正しく見極めなげればならないでしょう。

小室 
 日本はフィリピノ型からデトロイト型に急激に変わりました。行きつくところはロボットの採用でしょう。

藤原 
 だから、日本の自動車産業が全世界を征圧した、なんてことはとんでもない妄想であり、産業の全体を見なければいけないと思うんです。

小室 
 現在のデトロイトの地盤沈下は、職人からブルーカラーになってしまった労働者と、大量生産のみ追求した経営者が犯したダブルミスであり、日本も遅かれ早かれそうなるかもしれない。油断大敵ということでしょうか。

藤原 
 日産、トヨタといった具合に、日本は純正部品と称するもので作った最終製品にマークをつけ、世界のマーケットに売り出すやり方ではたしかに強い。しかし、世界で一番いい部品をよせ集めて何か作るという、昔の零戦みたいなアプローチや、よそものをアセンブリーするやり方に関しては、大いに能力を弱めているのではないか。

小室
 鉄鋼や工作機械が似たような傾向に支配されています。

藤原 
 しかし、このやり方が破綻するときがこないとはいい切れない。平和状態が続いている限り、一貫的に組み立てるやり方も可能だけれど、戦争や長期紛争で原料や資材がスムーズに入手できなくなったらどうするのか。タングステンの輸入が止まったとか、日本製のクロム鋼板が入手できないので、ドイツから買ってこなければいげないといった状況は必ずやってきます。これからが経済封鎖の政治学が支配する不安定な時代として始まるなら、何でも自分でデザインして最終製品まで一貫生産するという産業パターンは、あまり耐久力がないのではあるまいか。ことによると、戦時経済に似た嫌な生産体制が始まるかもしれないし、そうなれば、純正一本やりではない強靱な雑種型工業への心構えもいるのではありませんかね。

小室 
 日本ではまだほんとうの意味で産業化し終わっていないから、分業という考えが生まれないのです。分業思考があれば、いいものを集めて最高の製品を組み上げる発想も生まれる。しかし、現在の日本に存在するのは親企業と下請けの上下関係でしかあません。

藤原 
 しかも、親企業が得意になってレッテルを貼りつけるのです。

小室 
 自分の系列内の下請けが作った部品でなければ絶対に買おうとしない。なぜならば、下請けは家来であり、家来でないものから貢ぎ物は取れないという発想がそこにあるのです。だから、産業社会のように見えながらも、日本における産業のあり方は、構造においては、中世封建の思想をそのまま体現しているのです。

藤原 
 これから自由競争が本格化すればするほど、分業化はいよいよ進行し、この部品に関してはどこの国といった具合になっていくでしょう。自動車の場合だって、エンジンは日産だがキャブレーターはフランスのソレックス、クラッチはイタリーのランチァでボディはポンティアックといった具合になる。それをやらない限り、一国の中で一貫作業に専心する企業は行き詰まってしまい、世界的なスケールの中で淘汰されざるを得ません。

小室 
 その意味では、現在のような日本の系列化への動きは一種の自殺行為といえる。

藤原 
 結局、クライスラーやフォードが行き詰まっているのは、この分業化に背を向けて一貫生産をする古いタイプの経営戦略が破綻したということです。

小室 
 これは日本の自動車産業にとって、またとない他山の石です。

藤原 
 自然淘汰は資本主義の公理のようなもので、適者生存の法則に見放されれば、日本の自動車産業だって、今日のデトロイトの悲劇は明日のわが身ということになるかもしれないです。

小室 
それが最後には原子アノミーとして社会の解体へとつながっていくのです。  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2012年12月17日 18:03:23 : 8jKUdIiQ5U
全く以て、日本のナニワ節外交というのには、韓国の歴史ドラマの中であった、朝鮮王朝の世継ぎ承認の見返りに、国境地帯における守備記録を清国に差し出そうとして、表紙だけを差し替え、偽装されたものと気づかずに、そのまま清国に差し出したという間抜け話よりも、聞いて呆れるなんてものではございませんよね。
清国からすれば、騙されたふりをすれば、幾らでも朝鮮王朝を揺さぶる外交カードに利用することが出来ることになる分けだし、石原慎太郎による尖閣諸島の買取騒動についても、それこそ日本が、騙されたふりをすれば、北方領土の買取騒動にでも活かすなりすれば、幾らでも貴重な教訓として、学ぶ価値があるばかりでなく、韓国や北朝鮮にしてみれば、日本が反面教師になってあげるまでもなく、むしろ中国に対して、喜んで反面教師になってあげることで、これを日米関係にも、ロシアとの関係にも大いに活かして行くことが出来るだけの価値があることに比べれば、余りにも悲しい限りでしかないと同時に、情けないとしか言い様がありませんよね。
そもそも、日本人には、客観的な論理に基づく合理的な思考によるロジックが通らないことこそが、根本的な欠陥であり、当事者意識というものを忘れ、ただ自分たちの利益や都合のことばかりしか考えない主観的合理主義により否定されてしまうことで、これが構造的アノミー現象と言われる空洞化を齎すことによって、矛盾が矛盾を呼び、世界的に見れば、邪魔者扱いされて孤立化し、挙げ句の果てには、一億総懺悔による愚かな過ちにより崩壊してしまうことに繋がる根本原因になっていることを真実として見れば、これを乗り越え、自己犠牲を強要する全体主義と分極化した利己主義だけの運命共同体そのものを崩壊させて、自己否定し、これを乗り越えて行くことで、自分の利益が他人の利益に繋がることだけを個人主義のベースとした論理的規範とすることで、これにインテグレートされた近代的な市民社会により、日本経済を共に支え合い、助け合い、分かち合いながら、誰もが損することも無く誰もが得することによって、富の公正な再分配による社会福祉国家へと生まれ変わって行くことで、地道ながらも安定した持続的な発展に繋がって行くことで、これが国境を乗り越えて行けば、日本の国益がアメリカの国益にも叶うばかりでなく、中国の国益にも叶うし、ロシアの国益にも叶うし、韓国や北朝鮮をはじめ、アジア全体から世界中の全ての国々に対しても国益をもたらす事に繋がる様な心豊かな外交へと深化して行くことに繋がることで、対米従属からそっと静かに離れつつも、これを乗り越えて行くことで、日本は世界の中で、ただひっそりとした国となっても構わないし、それにより、そっと静かに自立していくことに繋がるのなら、二度と変な戦争に巻き込まれることも無いし、世界経済による影響を小さくすると同時に、世界経済に与える影響も小さくすることで、全人類にご迷惑をお掛けすることも無く、そっと静かに生きて行くことで、全人類が一つの絆となって、世界経済を共に支え合い、助け合い、分かち合いながら、共に幸せに暮らして参りましょう、というメッセージとなって発信していくことで、「困った時はお互い様」ということと共に、全人類が無欲化し、国際社会全体の平和と安定に寄与することにつながると共に、地球環境全体に恩返しして行くことも、また大いに誇りとして生きて行くことが出来るのなら、「さらば暴政」と共に、「さらば亡国ニッポン」や「さらば原発」ということで、再発防止に繋げて行くことが出来れば、此れ程素晴らしいことは無いどころか、此れ程喜ばしいことも無いし、此れ程誇らしいことも無いし、何も言うことはございませんよね。

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 雑談専用39掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 雑談専用39掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧