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きずな喪失症候群と燃えつき症候群
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/893.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 6 月 06 日 20:10:24: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://morahara.nukenin.jp/99kinouhuzen/kizunasousitusyoukougun.htm

「きずな喪失症候群(そうしつしょうこうぐん)」とは著者(加藤諦三)が作った言葉です。具体的には、意地悪(いじわる)する人、計算高い人、誠意(せいい)がなくて戦略(せんりゃく)のみの人、罪(つみ)の意識がなく小細工(こざいく)する策士(さくし)、時に会話がうまくて愛想(あいそ)がいい人、人がいいように見えて本当は人柄(ひとがら)が悪い、要するに、人当たりはいいので世間はいい人とごまかされるけれど、よく知っている人には嫌われている人です。心にもないことをペラペラと言って、「私はいい人」を演じます。この種の人が控(ひか)えめにするのは好かれるためであり、ぼろを出さないためであり、相手を搾取(さくしゅ)するためでもあります。

これと正反対なのが「燃えつき症候群」の人です。燃えつきる人がはめられるのに比べて、きずな喪失症候群の人は、人をはめます。燃えつきる人は、自分とはまったく違う人間を、自分と同じ人間と思ってつき合うから利用されます。「きずな…」型は「遊んでいる」と言いながら、相手の首を絞(し)めています。すると「燃えつき…」型の人は、言葉で「遊んでいるんだよな」と言われると、苦しくて何も言えません。「燃えつき…」型の人が「きずな…」型に近づくと、奴隷(どれい)になります。「イヤだな」と思った人間からは、自信をもって離れなさい。

「燃えつき症候群」の人は、さびしいから、誰でも彼でも相手を喜ばそうとします。さびしいから相手の好意が欲(ほ)しくて、誰彼かまわず相手を喜ばそうとします。しかし、「きずな喪失症候群」の人を喜ばそうとすると、いよいよ相手から軽蔑(けいべつ)され、いよいよ奴隷(どれい)扱(あつか)いをされます。だから「きずな喪失症候群」の人を、決して喜ばそうとしてはいけません。喜ばそうとして努力すればするほど、いよいよ奴隷扱いされ、そして最後は燃えつきます。

あなたがどんなに善意の人でも、きずな喪失症候群の人とつき合っていれば、陰(かげ)でいろいろな悪口を言われています。「えー?ホントー?」というようなことを言われています。あなたがその人のために自分の感情を抑(おさ)えて貢献(こうけん)してあげても、その人から悪口を言われていることがあります。

傲慢(ごうまん)で「自分だけが立派(りっぱ)」だと思っているナルシストな「きずな喪失症候群」型の人は、周りの人をノイローゼにするタイプです。自己蔑視(じこべっし)をする「燃えつき症候群」型は自分がノイローゼになるタイプです。

「努力」という視点からみると、努力型は燃えつき症候群です。努力しない怠(なま)け者タイプは、きずな喪失症候群です。寝ていてお金が入ってくることを幸せと考えています。努力はしません。「きずな喪失症候群」はすべてになれなれしく安易だから、強い人に出会い自分を引き上げてくれることを期待します。努力しないで出世する方法を求める人達です。「燃えつき症候群」型は溺(おぼ)れている時に自分ではいあがろうとします。そういう点での「安易さ」がありません。

「きずな喪失症候群」型の子供は、親の言うことを聞かないと怒られます。反抗(はんこう)するとたたかれます。親は指導(しどう)ではなく、説明なしの肉体的な鞭(むち)で言うことを聞かせようとします。指導ではなく、支配か、無関心です。次の手記は「きずな喪失症候群」型の人の手記です。「両親に勉強のことで無気力だということで、ものさしで鼻血が出るまでたたかれたりして、対人恐怖症になりました。いつもビクビクして小学校、中学校時代をすごしました」

親との「ふれあい度」は、「ピーターパン症候群」型、「燃えつき症候群」型、「きずな喪失症候群」型の順に濃(こ)い。つまり「きずな喪失症候群」型は一番親子関係が薄(うす)い。

「きずな喪失症候群」型の人は、親子関係が希薄(きはく)で、親に愛されて育っていません。愛されていないというよりも、ほとんど無視されて育っています。あるいはいじめられて育っています。いつも人から注目されたい。でも人が自分に関心を示してくれません。そこで人をうらみます。

「きずな喪失症候群」型の人は、一度も味わったことのないその幼児期の無責任でいい世界を味わいたいということです。皆(みんな)から注目される世界です。皆に関心を示してもらえる時期です。そしてそれが味わえないから「つらい、つらい」とさわいでいます。皆が自分に注目してくれないので憎しみを持ちます。しかしその憎しみを直接相手に言えないから、「つらい、つらい」とさわいでいるのです。直接相手にストレートに言って嫌われたくありません。

「きずな喪失症候群」型の人は「絆(きずな)探し」をしています。親子関係が希薄で幼児期を味わっていません。だから「幼児期に退行したい」というよりも、一度も味わったことのないその幼児の世界を味わいたいということです。

現実の母親が「母親」の役割を果たさなかったので、「母なるもの」を求めています。「馬鹿な自分を母親は決して見捨てない」という体験や母親への信頼感がありません。他人と親との区別ができず、他人に(注目してくれて、ちやほやしてくれる)親であることを要求します。だからすぐに他人に不満になるのです。「きずな…」型の人と関わった人は恨(うら)まれます。「きずな…」型の人は、心理的にはとても大人とは言えません。

著者は心理的に病んでいる人には三種類の人がいると思っています。純粋(じゅんすい)なきずな喪失症候群の人と、純粋な燃えつき症候群の人と、燃えつき症候群の面ときずな喪失症候群の面を併(あわ)せ持っている混合型(こんごうがた)です。混合型の人は、自分と近くなった人に対しては暴君になります。そして自分から遠い人に対しては卑屈(ひくつ)なまでに迎合(げいごう)します。「正直者がばかを見る」という言葉があります。それは混合型の人とのつき合いを表しています。

きずな喪失症候群の人は、ずるくて努力しないで恨(うら)みをもっています。うらみがあるから弱い人間を徹底的にいたぶります。「きずな…」型の人はカレン・ホルナイの分類で言えば、「自己拡張型・神経症者」です。「燃えつき…」型の人は「自己消滅型・神経症者」です。ずるい人に迎合(げいごう)し、骨までしゃぶられ若死にします。心理的に健康な人はずるい人を見抜きます。人間関係を築くには、何よりも相手の非言語的な伝達の部分を正確に読みとることが必要です。

きずな喪失症候群は一方的に相手から搾取(さくしゅ)します。燃えつき症候群を自分の母親代わりにしているのです。しかも嫌いな母親です。「本来母親に求めるもの」を求めても、逃げないのは燃えつきる人くらいです。そこまで搾取されれば、普通の人は逃げだします。しかもきずな喪失症候群は恨みがあるから、燃えつきる人を搾取しながらも恨むから恐ろしい。

http://asayuumeron.jugem.jp/?eid=705

◎きずな喪失症候群と燃えつき症候群


 人には、人を殺するタイプと自殺するタイプがいる。その二人が出会えば、殺す人と殺される人になる。人には、殴る人と殴られる人がいる。搾取する人と搾取される人がいる。支配する人と支配される人がいる。いじめる人といじめられる人がいる。わがまま放題の人とじっと我慢する人がいる。
 怠けて甘い汁を吸う人とただ働きをする人がいる。利用する人と利用される人がいる。操作する人と操作される人がいる。騙す人と騙される人がいる。得する人と損する人がいる。嘘つきと正直者がいる。要するに、ずるく立ち回ってうまくやる人と、逆にうまくやられる人とがいる。
 この本できずな喪失症候群の人と言っているのは、殴る側の人、搾取する側の人、支配する側の人、いじめる側の人、わがまま放題の人、怠ける側の人、利用する側の人、操作する側の人、騙す側の人、得する側の人、である。
 それに対して燃えつき症候群の人とは、殴られる側の人、搾取される側の人、支配される側の人、いじめられる側の人、じっと我慢する側の人、ただ働きをする側の人、利用される側の人、操作される側の人、騙される側の人、損する側の人、である。要するに、ずるい人に上手くやられる人である。

 カレン・ホイルナイは、人が不安なときに三つの対応があると言っている。迎合、攻撃、ひきこもりである。迎合と攻撃は、正反対である。不安なときに攻撃的対応するのが、きずな喪失症候群の人である。迎合するのが、燃えつき症候群の人である。
 私は今まで、どちらかというと迎合方の人間を書いてきた。しかしこの本は、攻撃型の人間の心理問題を書いた本である。
 捨てられてしまうのではないか、という不安なときに、猛烈に相手に攻撃的になるタイプがいる。迎合するタイプとは逆である。怖いときに相手を攻撃する。相手の態度を非難する。相手の思いやりのなさを攻撃する。
 相手を非難、攻撃しているのは、その人の寂しさや不安の感情処理である。攻撃される側の態度に問題があるというよりも、攻撃する側の感情に問題がある。これは、性格的な問題である。この種の人々は、感情処理の方法として、攻撃的になる。常時不安なため、常に相手を攻撃している人もいる。
 同じく、フロムも不安に対する反応として、非生産的な活動、あるいは「構え」として受容的構えと搾取的構えをあげている。受容的構えの人は、迎合タイプに近い。搾取的構えの人は、他人から奪い取ることによってのみ満足する、とフロムは言う。きずな喪失症候群の人に近い。
 いずれにしても、この世の中で生きていくためには、人間には、正反対の二種類の人がいるということを、しっかりと認識する必要がある。それを認識していないと、生涯にわたって人からいいように扱われてしまう。

 ◎愛を求める人、利益を求める人
 
 ところできずな喪失症候群とは、私が作った言葉なので、はじめにきずな喪失症候群の人とは具体的にどういう人か、という説明をして、きずな喪失症候群の人についてのイメージをもってもらいたい。
 それは、心を失った人、心の痛みのない人、良心がないからなんでもできちゃう人、涙を流していても悲しんではいない人、心がなくてテクニックだけで生きている人、愛情よりも利益を求める人、誠意がなくて戦略のみの人、子育ても愛情ではなく操作する人、罪の意識がなく小細工をする策士、言い訳が多い人、哀れっぽさを売るけどじつは図太い人、ずうずうしく厚かましい人、謙遜しつつ自分のわがままを通す人、身勝手な人、人を人とも思っていない人、野放しで育った猿のような人、生き方を教わっていない人である。
 また、過去のトラブルをすぐに忘れる人、自分に都合の悪いことはすべて忘れる人、仲間をすぐに仲たがいさせるような人、間に入って仲間をぐちゃぐちゃにしてしまうような人、仲間を撹乱する人、人をたきつける人、いつも人を恨んでいる人、相手が忘れた頃に恨みをはらす人、人を脅す人、性格に癖がある人、意地悪する人、返事が上の空で社会性が欠如している人、よく知っている人には嫌われている人、子供の学校の先生から嫌われている人、よく知っている近所の人から鼻つまみ者にされる人、お金に汚い人、人のお金を使うのがうまい人、人には安物、自分には高価なものを買う人、計算高い人、取引をする人、お金の立て替えをしない人、すぐに喧嘩をする人、しかし喧嘩して損をする時には喧嘩をしない人、深い付き合いができない人、会っても心には残らない人、おしゃれに関心がありすぎる人である。
 比喩的にいえば、青い光を放っているような人、表面的には悪人ではない人、泥棒をしないで相手のものを取ってしまうような人、壁の塗装は綺麗だけど中が汚いような人、ローンがいっぱいあるのにベンツに乗っているような人、ときに会話がうまくて愛想がいい人、人がいいように見えて本当は人柄が悪い、子供のまま大人になってしまったような人。要するに、人当たりはいいので世間はいい人とごまかされる時がある。きずな喪失症候群とは、だいたいこんな人々である。
 これと正反対なのが、燃えつき症候群の人である。
 きずな喪失症候群の人は野生の猿であるのに比べて、燃えつきる人は飼い慣らされたサーカスの象。燃えつきる人が相手を見ないのに比べて、きずな喪失症候群の人は、相手を見る。お金や力のない人は相手にしない。
 燃えつきる人が愛を求めているのに比べて、きずな喪失症候群の人は、利益を求めている。燃えつきる人が「認めてくれ!」と叫んでいるのに比べて、きずな喪失症候群の人は、「分かってくれっ!」と叫んで、自分の正当性を主張している。
 燃えつきる人がはめられるのに比べて、きずな喪失症候群の人は、人をはめる。燃えつきる人は、自分とはまったく違う人間を、自分と同じ人間と思って付き合うから利用される。


 ◎生きるのが辛いのはなぜか

 きずな喪失症候群の人は、仲間と一緒に登った山で遭難したときに「お前が悪い」と仲間を責める人である。そしてそこにたまたまダイヤモンドが見つかると、今度は「俺が発見した」と主張する人である。
 自分が怪我したときには、「こんなところに、こんなものがあって、けしからん」と周囲の環境を責める人がいる。しかし知り合いが怪我をしたときには、その人の不注意を責める人がいる。
 実際には色々と食べているのに、いつも口をとがらして、「渡しは何も食べていないから早く下さい」と相手を責める人がいる。
 何もしないで他人のものを取っておきながら、さらに相手が自分に感謝しないと相手を責める人がいる。一体、この人の心はどうなっているのだろうと思うが、これがきずな喪失症候群の人である。
 きずな喪失症候群の人に傷つけられる人は、自分のところに来られては困る人にまで、いつもニコニコしている人、嫌いな人に好かれようとして努力しているような人である。こういう人は努力の仕方も、場所も間違っている。
 オタマジャクシが海に行ったら、生きるのが辛くなる。生きにくいのはあたりまえである。オタマジャクシは、小川にいなければならない。オタマジャクシは、今いる海に執着してはいけない。
 また極端にお人好しな人がいる。「明るいねー、あなたのおかげだよ」、そう言われると「えー?」と驚くローソクの灯のような人がいる。この本のタイトルは、このような人のためのものである。
 ただ、燃えつきる人が生きるのが辛いのは、決してその人が悪いのではないが、すべて周囲の人が悪いわけでもない。
 きずな喪失症候群の人は、何をしたらよいかわからない人に吸いついて骨までしゃぶる。きずな喪失症候群の人は、自分のすることがはっきりしている人のところには行かない。あなたは、何をしてよいかわからなくて、口を開いて飴玉を待っていたら、カラスが来て突つかれてしまったようなものなのである。
 人のラーメンを食べようとするずるい人は、どういう人に目をつけるか。ずるい人は、誰でも彼でも狙うわけではない。
 ずるい人は「このらめんは美味しい」と夢中で食べている人のところには行かない。自分がラーメンを食べたいのか食べたくないのかもわからないで「皆さん、ラーメン食べましたか?そろそろ私も食べようかなー」と言って、周囲の人のことばかりを気にしている人のところに「ラーメン下さい」と行く。
 きずな喪失症候群の人は、自分を見抜く人を嫌う。だからあなたはこの本を読んで、きずな喪失症候群の人を見分ける能力をつけてもらいたい。そうしたら、生きることが楽になる。

 ◎不幸の始まりは付き合う人間を間違えたこと


 人は付き合う人を間違えない限り、自分の人生が八方塞がりになることはない。「生きるのが辛い」ということは、今の人間関係の中で生きるのがつらいことである。生きることそのことが辛いわけではない。
 「生きるのが辛い」と言う人も、今の人間関係と違った人間関係の中で生きれば、生きるのが楽しくなるかもしれない。生きることが辛いか、楽しいかは、その人がどのような人に囲まれているかによって決まるところが大きい。
 だから「なんだか生きるのが辛いなー、どうしてこんなに苦しいのだろう」と思ったときには、自分が接している人を考えてみることである。こんなに一生懸命生きてきたのに、何でこんなに苦しいことばかりなのだろう、と思ったときには、今の人間関係がどこか変なのである。
 もしあなたの周りに張り巡らされている人間関係が、大体において問題がないのなら、努力しているあなたはそんなに苦しんでいるはずがないのである。会社の人間関係であれ、家族関係であれ、友人関係であれ、どこかおかしいからあなたはそこまで悩むのである。
 よく人は、人間関係で悩んでいる人に、「そんな人となら付き合わないほうがいいわよ」というようなアドバイスをする。しかし人は付き合う人をなかなか変えようとはしない。
 アメリカに『毒のある人々』という本がある。それによると、毒のある人は親戚の人でもあり、ボスでもあり、友人でもあり、恋人でさえあるという。それはあなたを惨めな気持ちにさせる人である。まず私に言わせれば、「毒のある人」はあなたに近い人である。
 近くなければ、毒を持っていても、毒を持っていなくても関係ない。その人が親だから問題なのであって、親ではなく遠い親戚のおじさんなら、「毒があっても、無くても」関係ない。見知らぬ人ならもっと関係ない。近い人だから毒が問題になるのである。毒蛇がアフリカのジャングルにいても、あなたが被害に遭うことはない。
 男の人生のつまずきは金と女からはじまる、ともいわれる。女でつまずくエリート社員は多い。そうしたエリート社員の心理には共通した特徴もあるだろう。華やかなエリート社員は女に気を付けないと、骨までしゃぶられる。それは「毒のある女」を彼らが見抜けないからである。毒のある人、それがこの本の中で説明しているきずな喪失症候群の人である。
 学生時代に秀才で、そのあとエリートコースを進みながらも、燃えつきる人がいる。それらの燃え尽きの原因には色々とあるだろうが、そのなかの重要な原因に「毒のある女」がいることが多い。きずな喪失症候群の女である。
 それに対して、学生時代のアホが社長になることもある。それは彼らが賢い人付き合いをするからである。見かけだけは美しい「毒キノコ」のような人に騙されることもないからである。


 ◎人づき合いを正しくコントロールする

 この本を読むような人は、どちらかというと学生時代のアホというよりも、努力する燃えつき症候群タイプであろう。
 この本では、そうした真面目な人がとにかく気をつけなければならないきずな喪失症候群の人について書いた。
 自分がコントロールできないことで悩みだせば、無限にエネルギーを吸い取られてしまう。そんなことん悩みだせば、働く気力がなくなる。新しいことを学ぼうという気力もなくなる。そしてこれは悪循環する。元気がなくなると、悩んでもしょうがないことに悩みだす。そして努力すればなんとかなることに努力しなくなる。
 それに対して、自分がコントロールできないことには悩まない人がいる。そういう人のほうが幸せである。
 しかし誰と会うか、誰と付き合うかはあなたがコントロールできることである。そしてこれは努力に価する。しかしその努力の仕方を間違えては何もならない。
 ゴルフで、何回打ってもボールがまっすぐに飛ばない人がいるとする。この人がうまくなろうとして、毎日会社が終わってからゴルフの練習場に通い、休日には朝からゴルフの練習場に通いだしたとする。しかしどんなに通ってもまっすぐに飛ぶようにはならないとする。
 もし彼がそれでもうまくなろうとして、ウイークデイに出社前の早朝に練習場に通いだしたとする。それでも上手くはならないとする。そこで彼は、会社を休んで練習場に通いだしたとする。
 これを見てあなたはどう思うか。同じフォームで、同じようにボールを売っても、ボールはまっすぐに飛ばない。もしボールにまっすぐに飛んでもらいたいと思えば、フォームを変えるしかないだろう。同じフォームで、同じグリップで打って、ボールに違うように飛んでくれと期待するのは間違いである。
 この人を見て愚かと思う人は多いだろうが、人間関係で同じ間違いをしている人、間違った努力をしている人は多い。
 きずな喪失症候群の人に絡まれている限り、あなたはどんなに努力しても幸せにはなれない。燃えつきるだけである。しかし社会の中で生きていく以上、きずな喪失症候群の人と接しないでいるというわけには行かない。街を歩いていても、電車に乗っていても、駅のホームに立っていても、あなたはきずな喪失症候群の人と接する可能性がある。
 仕事をしていく上でも、そういう人たちを避けることはできない。あなたの取引先の会社にきずな喪失症候群の人が就職してくるかも知れない。だから社会の中で生きていくうえで、きずな喪失症候群の人を見分ける能力をつけることは、ことのほか大切な事なのである。そのためには、きずな喪失症候群の人とは一体どういう人達なのか、ということをしっかりと知る必要がある。

第1章―人間関係は、幸せの源でも不幸の源でもある


 ◎毒のある人は善人ぶる

 アメリカに『毒のある人々』というタイトルの本がある。「毒のある・・・・・・」というタイトルの本はいくつかあるが、中には『毒のある両親』などという本もある。『毒のある両親』は読んでいないが、書店ですごいタイトル本だなとおもって見ただけである。「毒のある・・・・・・」という言葉は、日本よりはよく使われる。どうやら、私の言う、きずな喪失症候群の人に似ている。
 ところで私たちは毒蛇を恐れる。しかし私たちの心に毒を注入する人々を恐れない。毒蛇が肉体的に私たちを破壊するように、毒のある人々は心理的に私たちを破壊する。実は、毒蛇を恐れるように私たちは毒のある人々を恐れて、避けなければいけないのである。
 この世の中には、毒蛇に殺される人よりも、毒のある人に心理的に殺される人のほうがはるかに多い。私があるところ、子育てについての報告をさせられたときのことである。「毒のある両親」という言葉は使わなかったが、「いないほうがいい」両親といったら大変な顰蹙をかった。つまりそんなことはありえないことで、不穏当な発言なのである。
 しかし子供にとって毒のある両親はいくらでもいるし、毒のある両親はいないほうがいいのである。
 蛇は見える。しかし「毒のある人々」は、毒を持っていることが見えない。「毒のある人々」は善人ぶる。その上に「毒のある人々」は自分がない。自分がないから、自分から相手に近づいていく。そしてその毒を相手に注入しなければならない。だから、自分の毒のあるうちは人についていく。毒のない人は、向こうから甘いことを言ってこちらに近づいてこない。
 そして「毒のある肉親」も困るが、実は「毒のある他人」も大変に困る。「毒のある他人」は善人ぶる。だから、よく人は毒のある人を「いい人」と間違える。
 骨肉の争いは、他人は案外どちらにも同情しない。しかし他人の場合、人々は「善人ぶる」人に騙される。何かトラブルがあると惨めさを売り込むような「善人ぶる毒のある人々」のほうに世間は同情することがある。「毒のある他人」の場合には、まともな人とトラブルがあると、世間は「毒のある他人」のほうに味方することが多い。
 毒キノコというのがある。鮮やかな色である。それを見て「わー、きれい」と人はいう。「毒のある人々」は善人ぶる他に、さらに哀れみを演じる。そうして周囲を味方に付ける知恵がある。
 人一倍、哀れみを演じている人たちを見たら、毒があると思っていいだろう。世の中で善人ぶる人ほど怖いものはない。人は毒があるほど、その毒を隠すために善人ぶる。「私は詐欺師です」と言っている詐欺師はいない。「毒のある人々」は、本心も本当の感情も出さない。
 つまり毒キノコが色で人を引きつけるように、毒のある人々も「控えめな態度」「立派な態度」などで人を引き付ける。「控えめ」が毒キノコの鮮やかな色である。毒キノコが色とか形とか表面的なもので毒を隠すように、毒のある人も表面的なもので自分の中の毒を隠す。つまり厚かましさを隠す。


 ◎本当のいじめっ子の名前が決して出てこないカラクリ

 毒蛇はこちらが気がつく。しかし毒キノコは毒蛇のようにこちらが気がつかない。小さい子供の頃から毒キノコはいる。子どもの遊びで目隠しをして、その子を回す遊びがある。Aという毒キノコの子どもが、Bという淋しがり屋の子供に「遊んであげようかー」と言う。淋しがり屋のBは淋しいから遊んでもらえるのが嬉しい。そこでCやDやEと皆で一緒に遊びだす。Bは目隠しをされて右に回され、左に回され、吐くまでやらされる。
 吐くのを見て、CやDやEは、驚いて逃げだす。そこで一番Bを回して気持ち悪くさせたAという毒キノコの子供は逃げない。逃げないで何というか。「誰がやったの、酷いわねー」と吐いているBに言う。
 そしていじめられたBも、幼稚園の先生も毒キノコの子供を「いい人」と褒めてしまう。本当にBをいじめたのは毒キノコの子供なのである。しかし怒られるのはCやDやEである。
 実はこれはひとつの典型的ないじめの構造なのである。いろいろのところに名前の出てしまうようないじめっ子は、実は踊らされた子供に過ぎない場合がある。ほんとうに悪い、毒キノコの子供はいじめっ子としてどこにも名前が出ない。本当にいじめながらどこにも証拠を残さない。世の中には本当に悪い子供というのがいる。こういう子供が大人になると恐ろしい。
 Bはいじめられっ子で、大人になると燃え尽き症候群になるタイプである。Aのように本当に悪い。毒キノコの子供は大人になると、狡賢いきずな喪失症候群になる。CやDやEは愚かなきずな喪失症候群になる。
 

 ◎「ホームの片隅で泣いてる女」こそ最もコワイ女

 「私、あなたの仕事のじゃまにならないかっていうことが一番心配なのよ」というような、一見綺麗なことを言う恋人が、毒キノコである可能性が高い。一見綺麗なことをいう人を「いい人」と思い込んでしまうのが、燃えつき症候群タイプである。
 この毒キノコタイプは、へりくだっているようでしっかりと自分の得るものを得る。狡賢いきずな喪失症候群の人は、相手を思いやるような台詞を言いながらも、しっかりと自分の身勝手な要求を通す。相手を思いやるような台詞を言いながら、相手の犠牲を欲求する。狡賢いきずな喪失症候群の人は、厚かましくてずうずうしい。しかし言葉は愛と正義に満ちていたりする。
 毒キノコ的な人は、自分をダメだと言いながら自分を売り込む。「いいえ、私なんか」などと謙遜した台詞で男を引き付ける。質の悪い女である。こう言われると男は、「そんなことないよ」と思う。
 毒キノコ的な女は、自分を駄目だと言いながら、自分を売り込んでいる。質の悪い女は、ときにこのテクニックを無意識のうちに使う。これは質の悪い女が男を落とそうとするときに使う常套的なテクニックである。「私なんか駄目よ」と口で言いながら、目では「こっちを向いて」と言っている。男が自分を好きだと分かってもこれを使い続ける女も多い。「もっと、もっと」こっちに向いて、というテクニックである。
 このような毒キノコと接すると、情緒的に成熟していない人は、心理的に混乱してくる。毒キノコ的な女から燃えつき症候群系の男は手玉にとられやすい。つまりく燃えつき症候群的な男は、「退いたかたちで」自分をよく見せる女にだまされやすい。くどいようだが、燃えつき症候群的な男は、「退いたかたちで」素敵な女を演じる女に簡単に手玉にとられる。そして、そうした「謙遜な女」を演じる女に手玉にとられることの結果は、男の側が常に心理的に混乱することである。
 「退いたかたちで」いい女を演じるとは、どういう事であろうか。私は大学生時代にワンダーフォーゲル部に入っていたので、よく山にいった。そして山に行く時に、あるいは山の中でよく歌った曲に、「汽車の窓から手を握り、送ってくれたあの子より、ホームの陰で泣いていた、可愛いあの子が忘れられぬ」という曲があった。
 私もそう思っていたから、学生時代にこの曲を山でよく歌ったのである。しかし実はこの「ホームの陰で泣いている」女がくせものなのである。「退いたかたちで」自分を売り込んでいる女である。
 「退いたかたちで」自分を売り込む女は、ホームの陰で泣いている自分を相手が見つけるということをきちんと計算している。だいたい汽車がホームを離れるときに男はホームを見る。実際この曲の中の男はちゃんと女を見ている。
 これは男を落とす女のテクニックなのである。世の男性の中にはこの女のテクニックに引っかかり心理的に混乱し、悩まされて燃えつきている男が多い。なんと多くのエリート男性が、この女のテクニックに引っかかり結婚をしていることだろう。神経症的な男がエリートになったときには、ほぼ間違いなくこの「退いたかたちで」自分を売り込む女に引っかかり、体の調子ばかりではなく、人生の調子をも崩す。頑張って燃えつきる。
 彼らは、中年になったときにはそのつけを払わされる。つまり家庭生活がうまくいかないで心理的に混乱してくる。会社でも挫折していく。次第に追い詰められていく。ノイローゼになるビジネスマン、燃えつきるビジネスマン、鬱病になるビジネスマン、性的に不能になるビジネスマン、反社会的問題を起こすビジネスマンなどなど。
 ただただ出世だけを目指して突っ走ってきた彼らは、ここで挫折する。そうした女と一緒にいて、心が満たされていない。でしゃばりなら、「でしゃばり!」と相手を避難できる。しかし毒キノコ的な女でしゃばりでないから、「でしゃばり!」と責められない。
 そして毒キノコ的な女は責任感がないから、相手の犠牲を欲求して生きている。責任感がないからなんでもできる。


 ◎「私なんか」という言葉に引っかかりやすいタイプ

 「ホームの陰で泣いている」女に引っかかり結婚をした、あるエリートビジネスマンがいる。課長になってから、会社でもうまくいかなくなった。家庭でも性的に不能になった。元気もなくなった。
 奥さんは「私が女として魅力がないから」と性的不能の夫に言っていた。しかし心の底では夫を「女を満足させられない駄目な男」と思っていた。心のなかでは夫を舐めていた。
 彼の惨めな生活は「ホームの陰で泣いている」女に引っかかった結果である。「ホームの陰で泣いている」女は、本質的にずうずうしい。言葉では「私のような」と言いながら、自分の欲求を通すずうずうしい女である。
 こういう女といると、なんだか分からないけど気持ちが落ち着かない。「ホームの陰で泣いている」女に引っかかり結婚をしたエリートビジネスマンは、家にいてもなんとなくイラつく。
 「私のような」と言いながら自分の欲求を通すずうずうしい女は、もちろん言うまでもなく、狡賢いきずな喪失症候群である。そのずうずうしい欲求がストレートに出てこない。「私なんか・・・・・・」という退いたかたちで出てくる。そしてそのずうずうしい欲求を決して引き下げない。必ず通す。
 燃えつきる人は、この「ホームの陰で泣いている」女を演じるきずな喪失症候群タイプには弱い。すぐに引っかかる。ずうずうしい欲求がストレートに出てくるのが毒蛇的なきずな喪失症候群であり、「私なんか・・・・・・」という退いたかたちで出てくるのが、毒キノコ的なきずな喪失症候群である。毒蛇的なきずな喪失症候群とは、先に愚かなきずな喪失症候群と書いたタイプである。
 きずな喪失症候群の人が、毒キノコ的タイプか毒蛇的タイプか、どちらのタイプにせよ、ずうずうしいことには変わりがない。その傲慢な欲求を通す通し方が違うだけである。子供でいえば、両方ともいじめるのはいじめる。
 そして、きずな喪失症候群と燃えつき症候群の決定的違いは、ここである。きずな喪失症候群の人は、自分の欲求を通す。結果として通るかどうかは別にして、強引にでも通そうとする。燃えつき症候群には、自分の欲求を通すという姿勢はない。常に譲ってしまう。燃えつき症候群は、とにかく相手に認められたいのである。燃えつき症候群は、相手と取引しないが、きずな喪失症候群は取引する。

◎「殴るいじめっ子」より怖い毒キノコ的いじめっ子

 子どもでも、燃えつき症候群系の子供は奴隷の役割を演じる。今、自分を蹴った子供に、なんでクレヨンを貸すのかと思うが、「貸して」と言われると貸してしまう。燃えつき症候群系の子供は、貢ぐばかりでやられっぱなしの子供である。
 燃えつき症候群系の子どもが、毒蛇的タイプの子供にお菓子をとられる。そこでふくれる。すると毒蛇的タイプの子供に「ケチ!」と言われる。燃えつき症候群系の子供は、ケチと言われて何も言い返せない。
 燃えつき症候群系の子どもがお菓子を持っている。それを毒キノコ的子どもがとるときにはどうするか。「半分、ちょうだい」という。そして半分に割るときに、大きい方をとり、「泥がついちゃったから、こっちのきれいなのを上げる」と小さい方を渡す。すると燃えつき症候群系の子供は、毒キノコ的子供を「いい人」と思ってしまう。
 燃えつき症候群系の子供は、相手から蹴飛ばされると痛くて泣く。しかしその蹴飛ばした子供から「大丈夫?」となでられると許してしまう。淋しいから。
 奴隷の役割を演じている燃えつき症候群系の子どもが、自分以外の子どもと遊ぶと、毒蛇的子供も毒キノコ的子供も面白くない。いじめられっ子を支配していることがいじめっ子には面白いのである。すると毒蛇的子供は「何であいつらと遊ぶんだ」と殴ろうとする。毒キノコ的子供は直接は何も言わない。そしてその子が遊びだした子供の周辺に「あの子と遊ぶとおもちゃ壊されるよ」というようなことを言う。
 そして「お腹痛い」と言い出すのはこの燃えつき症候群系の子供である。すると「お見舞いに行こう」と言い出すのが毒キノコ的子供である。本当のいじめっ子は名前が出ない。いじめられて自殺する子どもがいる。恐らく本当に自殺の原因をつくった子供は、警察にも先生にも分からないのではないか。なにより自殺する子ども自身が分からないのではないか。
 毒蛇的いじめっこは、自殺する子供をおそらく直接殴るようなことをする。恐喝もする。正面からいじめる。しかし毒キノコ的いじめっこは「遊んでいる」と言いながら、相手の首を絞めている。すると自殺するような燃えつき症候群系の子供は何も言えない。言葉で「遊んでいるんだよな」と言われると、苦しくても何も言えない。
 そしてこの毒キノコ的いじめっ子は、自分で直接手を下さないで毒蛇的いじめっ子をたきつける。毒キノコ的いじめっ子は恐喝しない。殴らない。しかし相手を「ゆする」のである。相手は不安定になる。しかし恐喝はしていないし、殴っていないし、蹴飛ばしてもいない。いじめた証拠はどこにもない。
 現在、日本ではいじめの事件が頻発している。しかし先生や保護者や警察に捕まるのは、たきつけられて毒蛇的いじめっ子だろう。本当に相手をいじめて自殺に追い込んだ毒キノコ的いじめっ子は、先生や保護者に「いい子」と言われているかもしれない。
 だからきずな喪失症候群は、自ら獲物を探している。つまりきずな喪失症候群の人は、いつも人を利用しようとしている。利用できる人はいないかといつも探している。
 きずな喪失症候群の人は、人を利用することで生きている。人を利用するばかりではなく、なんでも利用できるものは利用する。燃えつき症候群は獲物を探していない。これも大きな違いである。
 燃えつき症候群は、「燃えつき」の著者のフロイデンバーガーが言うように、いわゆる善意の人であるが、きずな喪失症候群の人は、いわゆる善意の人ではない。燃えつき症候群がきずな喪失症候群の人に利用されるのは、燃えつき症候群の人はみんなも自分と同じように善意の人と思うからである。燃えつき症候群の人には、演技をして人を騙すなどということは想像もできない。その想像もできないことをするのが、きずな喪失症候群の人である。
 きずな喪失症候群の人は演技をするが、燃えつき症候群の人は演技をしない。というよりも演技ができない。


 ◎「イヤだな」と思った人間からは、自信をもって離れなさい

 なんだか、ある人といるとイラつくということがある。たしかに人をイラつかせる人がいる。決して悪いことはしていない。決して悪いことはしていない。決して表面的には意地悪をしていない。表面からすれば、何も相手を責められない。だけど何だかしらないけどイラつくということがある。
 それはどういう人であろうか。それは心の底で欲求していることと口で言っていることが違う人である。自己執着が強いくせに愛情のあるふりをするような人である。本当はよくないくせに、「いいですよ、どうぞどうぞ」という人である。
 相手の本音と相手が言っていることが違う時に、人はイライラさせられるのである。その違いを人は感じるからである。非言語的に欲求していることは、どうしてもこちらには感じられる。しかし表面で言っていることは、相手を思いやるようなことである。
 ことに毒キノコ的な相手は非難しようにも非難できない。言っていることは立派なのだから、そこで人はイラつくのである。「なんかあの人といるとイラつく」というときには、その人と離れることである。理由は要らない。上手く説明できないかも知れないが、原因はちゃんとある。自信をもって側から離れることである。

 毒キノコ的な女ではなく、本当に控えめな女は、もし皆と一緒に見送ることが嫌なら、誰からも見えないところで一人で男を見送る。男からは見えないところでも、見送ること自体に満足している。列車が見える丘の上で一人で見送るかもしれない。そうした女と一緒になれた男は、後にノイローゼにはならないだろう。幸せな一生を送ることだろう。
 テクニックを使う毒キノコ的な女は、心に葛藤を持っている。男の幸せを願うのではなく、男を自分の思うように支配することに喜びを持っているのである。きずな喪失症候群の中で、テクニックを使う毒キノコ的な女を見分けるのが難しい。
 
 そうした女ではなくても人は、他人に自分を印象づけようとして謙遜をすることがある。とくにずうずうしくかつナルシシストはそうである。
 自己卑下する人が傷つきやすいのは、心の底で自惚れているからである。自己卑下しながらも他方で自惚れている。だから傷つくのである。自己卑下の後ろに高慢が隠されていると言われる。
 相手にへりくだりながらも、厚かましい欲求を取り下げないのがこの種の人々である。きずな喪失症候群の人は、「先生のおっしゃるとおりですよ」と言いながらも、こちらを脅してくる。狡賢いきずな喪失症候群は、相手にひれ伏しながらも「先生、これは怖いことになりますよ」とこちらが一番気になることを言って脅す。脅して相手を不安にして、自分の思い通りにする。
 会社でも大学でも、有能だけれども途中でおかしくなってしまう人がいる。そうした人の周囲には、必ずと言っていいほどこの狡賢いきずな喪失症候群の人がいる。一見すると、狡賢いきずな喪失症候群は洗脳されている部下のように見えるが、実は相手を洗脳しているのである。有能な人間の人生を狂わせてしまうのが狡賢い傷喪失症候群である。
 子供の目隠し遊びである。子供の目を隠していろいろの子どもが、その子供の頭を叩く。そしてある子どもが、目隠しを目指して「叩いたのはあいつだよ」と言うと、そっちを目指して走りだす子どもがいる。目隠しをされているから見えない。そのときが危険なのである。
 燃えつきた人はたいてい、狡賢いきずな喪失症候群の人から「おまえを叩いたのは、あいつだよ!」と言われて、そっちを目指して走りだす子供のタイプである。

 ◎愛に飢えているから、言葉だけで簡単に騙される

 恋愛中に「私と恋をして、勉強のじゃまにならない?」とか「お仕事のじゃまにならないかしら?」と言いつつ、相手と会おうとする人は、男性であれ、女性であれ、ずるい人が多い。毒キノコ的な人々である。それは、こう言いながら会えば「嫌われないで」会えるからである。
 毒キノコ的な人は、自分の責任を逃れて自分の欲求を通す。毒キノコ的な人は、へりくだっているようで、しっかりと自分の得るものを得るタイプである。
 燃えつきる人はこのテクニックに引っかかる。「私、あなたの勉強のじゃまにならないかっていうことが一番心配なのよ」というようなことを言う人を「いい人」と思い込んでしまうのが燃えつき症候群である。
 本当に「・・・・・・が一番心配なの」ならば遊ばなければいい。ずるい人はだいたいにおいて、自分が遊びたければ遊ぶ、しかしその責任は逃れる。
 遊び終わって、「しっかりと勉強してね」というような人に燃えつき症候群は弱い。燃えつき症候群を騙そうとしたら、まず言葉である。それだけ燃え尽き症候群は愛に飢えているということでもあるのだが、燃え尽き症候群は言葉だけで簡単には愛に飢えているということでもあるのだが、燃え尽き症候群は言葉だけで簡単に騙せる。「言葉は楽である」ということを、燃えつき症候群は気がついていない。燃えつきる人は、ずるい人の言葉の裏にある意図に気がつかない。
 燃えつき症候群は、相手が自分を褒めてくれればいい。何でも自分の意見に賛成してくれればいい。素晴らしい人と煽ててくれればいい。自分に名誉を与えてくれればいい。たとえどんなに間違っていても、「あなたのすることは間違っていない」と言ってくれればいい。燃えつき症候群はおだてに弱いから、悪い人にすぐに引っかかる。
 
 誠実な人なら、相手と遊びたければ遊びに誘いつつ、「私にできることはなにかない?」と聞くに違いない。誠実な人は、きずな喪失症候群の人のように言葉だけで具体的な行動でのフォローがない人と、そこが違う。誠実な人なら会いたければ、言い訳をしないで会いたいと言う。そしてそのあとで自分が相手にできることをしようとする。


 ◎「言葉に弱い自分」を変えるには、よく観察すること

 講演会に呼ばれる。主催者はペラペラと私の時間と健康を「一番心配です」というようなことを言う。しかし帰りの列車の座席は喫煙者席であったりする。禁煙席の予約を依頼しておいたのにもかかわらず、である。
 逆に言葉はないが、そこら辺の気が行き届いている主催者もたくさんいる。口で「先生の健康が、一番心配です」とは言わないが、私に出すおしぼりの熱さにまで気を使っている裏方の女の人もいる。「先生の健康が一番心配・・・・・・」と言いつつ、出してくる食事は油がべっとりの肉料理であったりする主催者もいる。そういう人がきずな喪失症候群の人である。燃えつきる人は「先生の健康が一番心配・・・・・・」という言葉に騙される。愛に飢えているからである。そして、そういう人を「いい人」だと思ってしまう。「先生の健康が一番心配・・・・・・」というのは主催者の売り込みである。ほんとうに誠意のある人は、言葉を言わないで本当の私の健康を守る。
 燃えつきる人は、言葉だけの人に騙される。だから、燃えつきる人の人生は辛い人生になってしまうのである。つまり燃え尽きた人の周囲には、誠意のある人がいなくなるからである。燃え尽きた人の周囲には、口先だけのひとが多い。
 言葉だけの人に囲まれたら、やることなすことうまくいくはずがない。燃えつきる人は、努力しても努力しても人生が開けてこないのは、このためである。
 たとえば、燃えつき的エリートは言葉だけのずるい女に騙されて結婚する。自分は努力しているつもりだが、母親が母親だから、子供は心理的にまともには育たない。子どもは学校で問題を起こす。
 本人は真面目に努力しているつもりだが、家庭も会社も思うように行かなくなる。そして自分の不運を嘆きつつ、燃えつきたりする。しかしその最大の原因は、自分が言葉に弱かったからである。言葉に弱くなければ、苦しい時には助けてくれる人が周囲にはたくさんいたはずなのである。
 「運が悪い、運が悪い」と嘆く人がいるが、もともと運が悪いわけではない。自分が悪い運をもってきたのである。その点をしっかりと認めなければ、いつになっても幸運は回ってこない。悪運を招く努力というのがあるということを忘れてはいけない。ただ努力すればいいというものではない。
 もし運の悪い人生が嫌なら、相手を見ることである。そして言葉ではなく、相手の行動を観察することである。言葉を聞いて、行動を見ない人は、必ず運の悪い人生になる。
 

 ◎人生にはプラスの甘えとマイナスの甘えがある

 きずな喪失症候群の人は、恩着せがましくいろいろのことを相手に欲求する。きずな喪失症候群の人は、憎しみから出発している。カレン・ホルナイのいう自己拡張型・神経症者なども、このきずな喪失症候群の人であろう。
 相手を信じている人の甘えと、相手に憎しみをもつ者の甘えとは違う。人にはプラスからの甘えと、マイナスからの甘えとがある。憎しみをもつ者は、恩をきせることで甘えの気持ちを満たそうとする。
 自分が欲しい物を買うにも、きずな喪失症候群の人は「お前のために必要だからこれを買ってやった」という言い方で相手からお金を出させる。相手を信じているときの甘えには素直さがある。何かを買って欲しい時に「これを買って」と素直に言う。
 きずな喪失症候群の人は、自分のしたいことを相手から自分に欲求させる。自分が行きたいのに、「行きたい」とは言わない。相手を、自分の望むことを言うように仕向ける。自分が行きたいのに、相手を「連れていってやる」という言い方をする。「あなたが行きたいなら行ってあげてもいいわよ」と相手に借りを作らせる。彼らは、「あそこに行きたい」という甘えを素直に表現しない。
 誰も、そのきずな喪失症候群の人に「働いてくれ」と言っていない。それなのに「働いてやった」と恩着せがましく言って、そしてお金は自分が使う。きずな喪失症候群の人は、得をしながら相手に恩をきせる。どこまでも自分本位なのである。
 自分本位だから、肉体的には元気なことが多い。きずな喪失症候群の人は、肉体的には案外元気な人が多い。そこが燃えつき症候群の人と決定的に違うところである。燃えつき症候群の人はいつも消耗している。いつも心身ともに疲れている。


 ◎憎しみにとらわれている人はちゃんと生きようとしない。

 年をとった人で、不自然にエネルギーのある人がいる。しかし地道な努力はしない。自分のメインの仕事をきちんとしていない。しかし表面はエネルギーが溢れている感じがする。それは憎しみのエネルギーなのである。つまり復讐のためのエネルギーである。だから復讐以外にはエネルギーを使わない。こういう人がいじめをすると凄まじい。人の悪口や陰口を言い出したら止まらない。ものすごいエネルギーで言い続ける。悪口をいうことについては疲れを知らない人である。
 しかし当面自分が復讐するものがないときには、エネルギーを持て余して不自然に元気にしているのである。だから不自然にエネルギーのある人は、一つのことを継続していない。エネルギーがあるからといって、それを他のことに使うことはできない。
 不自然にエネルギーのある人は、日常生活で手抜きをしている人が多い。憎しみに囚われている人は、日常生活に関心がない。だから日常生活のことをきちんとしない。憎しみのエネルギーは、現実の生産的なエネルギーにはならない。悪口を言うエネルギーは、庭が汚れているから掃除をするというエネルギーにはならない。
 日常生活をこつこつとしていれば、燃えつき症候群型でなくても、元気でいられないことが多い。それだけ日常生活には、煩わしいことはたくさんあるということである。
 人はある年齢になれば、重い社会的責任のある立場にいるかどうかは別にして、日常生活でやることは山ほどある。しかし地道な努力は嫌だし、日常生活に関心がないから憎しみの人はどうしても、日常生活のことは手抜きする。憎しみのエネルギーを生産的なエネルギーに転換することは難しい。
 そしてたいていは元気あることで、自分は素晴らしいと思われると思い込んでいる。成功することで人を見返そうとしている人がいるように、元気あることで人を見返しているのである。
 健全な肉体かどうかは判断に迷うところであろうが、そうした元気な肉体に不健全な心が宿っている。しかしきずな喪失症候群の人は憎しみにとらわれているから、社会には貢献はしない。搾取はするが貢献はしない。きずな喪失症候群の人は、人のために働かない。
 よそ様をひっくり返すのは好きであるから、「会社を潰せ」というエネルギーはある。お茶碗を洗うエネルギーはないが、小姑をいじめるのには元気である。

第2章―自分のある人は、ずるい人から狙われない


 ◎複雑な混合型も存在する

 「人類の福祉に貢献した偉大な人々の多くは、病気になった、あまりたくましくもない体で生きてきたのだ。・・・・・・不健康な精神を宿している健康な体は、いつでも、社会のわざわいのもとだ」

 燃えつき症候群の人は心の底には憎しみを宿しているが、人のためには働く。気に入られたいためである。だから人の喧嘩の仲裁などに入ったりする。注目されたい。ガード下の飲み屋で言い争いが始まると、「まー、まー」と間に入るような人である。
 燃えつき症候群の人を花に例えれば、次のようなものである。その花は、売れないで花屋さんにずーっとおかれている。花屋さんも水をくれない。通りがかりの人が毎日毎日、「まだこの花あるの?」と言って通りすぎていく。この心理状態だから、燃えつき症候群は他人に卑屈に迎合するようになる。
 燃えつき症候群にとっては、接している相手は「自分を不安にする他人」である。燃えつき症候群の人が世の中で生きている不安は、英語を話せないでアメリカ人と一緒にいるような不安である。
 だから燃えつき症候群の人は、相手に対して自分を出していない。自分を出すと嫌われるという不安が、燃えつきた人にはある。燃えつき症候群の人がお世辞を言うのは、相手をなだめるためである。相手に取り入るためである。
 相手が「恐ろしい他人」なのだから、なだめなければならないのである。相手を虐待するのとは反対に今度はこの恐ろしい相手に迎合する。もちろんそういう他人といても、燃えつき症候群の人には安らぎはない。
 迎合するからといって、燃えつき症候群の人は他人を好きなわけではない。嫌いである。迎合しながらも、その人は嫌いである。燃えつき症候群の人は、とにかく皆、人が嫌いなのである。
 搾取され続けているのだから当たり前である。一般的にいえば、自己消滅型・神経症者は、とにかくみんな人が嫌いなのである。対人恐怖症の人も同じである。燃えつきた人はいつも周囲に「いい顔」をしているが、周囲の人が本当は嫌いである。
 ところでこの本のこれから先を読んでいくと、ときどき燃え尽き症候群ときずな喪失症候群とが頭の中で混乱してくる箇所があるかもしれない。
 実は私は心理的に病んでいる人には三種類の人がいると思っている。いつでもどこでもとは言わないが、だいたいにおいて、純粋なきずな喪失症候群の人と、純粋な燃えつき症候群の人と、それ以外に燃え尽き症候群の面ときずな喪失症候群の面をあわせもっている複雑な人がいる。私は混合型と呼んでいる。どちらの説明を呼んでいるのか混乱してきたときには、実はこの第三の症候群の説明と思ってもらいたい。
 純粋なきずな喪失症候群とは、狡賢いきずな喪失症候群と書いている人々などである。きずな喪失症候群の特徴は、とにかくずるくて厚かましいからである。

 ◎捨てられても同情はされない

 きずな喪失症候群の人にとっては、すべてが自分の武器である。自分の子供さえ自分を守る武器である。きずな喪失症候群の人は嘘の世界にいる人々である。
 だからもしあなたが燃えつきタイプだと、こうしたきずな喪失症候群の人や混合型の人に近づくと、あなたは奴隷になる。直接その人の奴隷になるか、その人にとって「遠い関係の人」に尽くすための間接的な奴隷になるかは別にして、あなたは奴隷になる。どちらにしても、あなたはその人から搾取される立場になる。
 もしあなたの夫が混合型だとすれば、あなたが病気をおして働いたお金が、夫以外の人の贅沢に消えていく。それが嫌なら、混合型の男性とは結婚しないことである。もちろんきずな喪失症候群の男性と結婚しても同じである。きずな喪失症候群の男性は、あなたを搾取して楽をして暮らしているというだけである。混合型のように、あなたから搾取したお金を、外の誰かに搾取されないというだけである。
 混合型の人は、どうしても一枚上手のずるいきずな喪失症候群の人から利用される。混合型は狡賢いきずな喪失症候群の人にもてあそばれる。
 混合型も褒められることが嬉しいから、一枚上手の狡賢いきずな喪失症候群に操られる。混合型も劣等感があるから、一枚上手の狡賢いきずな喪失症候群にとっては利用しやすいのである。お世辞をいえば、嬉しくなって、なんでもしてしまう。
 燃えつき症候群型や混合型の男ほど、狡賢いきずな喪失症候群の女に利用されやすい。まさに燃えつきる男は「赤子の手をひねる」がごとくに、狡賢いきずな喪失症候群の女に操作される。
 燃えつき症候群の男は、狡賢いきずな喪失症候群型の女に手玉にとられるということである。そして利用価値がなくなれば捨てられる。利用価値がなくなる、つまり燃えつきる。だから燃えつきた人は周囲から同情されないのである。燃えつきたときには、周囲には狡賢い人しかいないから。

◎劣等感が強い人間は「弱々しさ」にひかれてしまう

 もし燃えつき症候群タイプが、お世辞で動かなければ、きずな喪失症候群の人が次に使う手は脅しである。狡賢いきずな喪失症候群型の女は頭がいい。この狡賢いというところが大切なのである。混合型はどちらかというと愚かである。狡賢くない。だから一枚上手の狡賢いきずな喪失症候群に利用されるのである。
 狡賢いきずな喪失症候群型の人は自分の本音を出さない。狡賢いきずな喪失症候群型の女は、劣等感の強い男の前で弱い女を演じていればいい。弱々しい振る舞いをしていると、燃えつき症候群は劣等感が強いからひかれていく。だから利用されるのである。混合型も劣等感が強い。だから利用されるのである。
 純粋な燃え尽き症候群と混合型は、人のタイプとしては違う。しかしともに劣等感が強い。そこでこの劣等感を利用される。「あなたのような立派な方が・・・・・・」と言われると、両方とも嬉しくなってしまう。
 狡賢いきずな喪失症候群型の女は、燃えつき症候群タイプの男の前では、「あなたが幸せなら私はそれでいいわ」とか、「あなたのように偉い人には、私はふさわしくないから・・・・・・」とか、心にもないことをペラペラと言って、「私はいい人」を演じる。初めに説明したように、この種の人がひかえめにするのは好かれるためであり、ぼろを出さないためであり、相手を搾取するためでもある。極端に言えば燃え尽き症候群型の男は、きずな喪失症候群型の「悪い女」におだてられれば命を賭けてしまう。

 自己蔑視している人の心理的特徴で、カレン・ホルナイが指摘することを忘れているのは、「真の愛情が理解できない」ということである。
 燃えつきる人は、自分を本当に大切にしてくれる人が誰だかが理解できない。混合型も同じである。自分を愛しているのは誰だかが理解できない。そして自分を利用しようとする人にばかり迎合していく。燃えつきた人が「いい人」という人で、本当に「いい人」はきわめて珍しい。だからこそフイット・テイカーの言うように、「人生が行き詰まったときには逆が正しい」のである。「いい人」と思っている人は、「とんでもない悪人」なのである。
 そのことを生きて元気なうちに気がつくことである。死を前にして「見えてきた、見えてきた」と日記に書くのでは遅すぎる。こう日記に書いた人は、体力も気力も全て衰え、死を前にして「本当に酷い人」が誰だかが見えてきた。狡賢いきずな喪失症候群の人の正体が「見えてきた」ということである。この人は混合型タイプであった。見えてきたけど、もう遅すぎる。
 この混合型の人は、一枚上手の狡賢いきずな喪失症候群の人に操作され、利用されて生きてきたのである。そして人生の最後になって自分が痛めつけた人が、実は自分にとって大事な人であり、自分が「あの人は自分のことを分かってくれる」と思った人が本当は酷い人だったと分かったということである。本当にあなたを搾取している人は、常に「いい人」を演じている。
 燃えつきた人が「あいつは俺のことを分かってくれる」という人で、本当にその人を愛している人はまずいない。たいていは利用されているだけである。だから燃えつきる人は最後には八方塞がりになるのである。


 ◎同調してくれる人は、実際には何もしてくれない

 燃えつきた人は、不誠実な人に囲まれていることが多い。だからそんな酷い友だちに囲まれていると分かっても、「あなたの友達って本当にいい人」と言う人ばかりなのである。本当のことを言って、あなたを怒らせないほうが得だからである。嘘を言って相手の苛立った感情を宥めてあげれば、こちらは「いい人」になれる。
 燃えつき症候群にしろ混合型にしろ、劣等感の強いあなたは本当のことを言う人に傷つけられる。逆に「そうね、そうね」とあなたの劣等感を癒すことを言う人にひかれる。一時あなたを癒す人を「いい人」とか「分かってくれる人」とか思ってしまう。その人達が、実は何も実際には努力していないということには気がつかない。
 劣等感の強いあなたにとって、実際にあなたのことをしてくれる愛情のある人よりも、口先だけの人のほうがあなたは慰められる。しかし口先だけの人は、あなたの問題を何も解決しない。あなたは死ぬまで悩み続ける。あなたが悩み続けていることが、きずな喪失症候群の人には必要なのである。あなたが劣等感に苦しんでいる限り、口先ひとつであなたを利用して楽していられるから。そして自分は「いい人」でいられる。
 そんな狡賢いきずな喪失症候群の人にとっては、誠意のある人があなたの周囲にいては困る。自分の正体がばれないためにも、周囲から誠実な人を排除しておかなければならない。
 そこで誠実な人があなたの逆鱗に触れるのを承知であなたに本当のことを言ったときに、傷ついたあなたに「そうね、あの人、酷い人ねー」とあなたを慰める。そしてあなたの周囲から誠実な人を排除する。あなたは丸裸になる。
 これは上司と部下でも起きる。上司が燃えつきタイプで、部下がきずな喪失症候群タイプ。丸裸になったあなたは、もうそのきずな喪失症候群系の部下にしがみつかなければならない。あなたが燃えつき症候群であって、努力して上司の立場にあっても、丸裸になったときに立場が逆転してくる。
 権力闘争などの時にこのことが起きる。きずな喪失症候群の部下は丸裸になった上司に、「そんなにしがみつかなくても、私はあなたを支持しますから」という主旨のことを言う。すると燃えつき症候群タイプの上司はますます、その狡賢いきずな喪失症候群の部下が大切になる。
 次第に「わかっていますよ、あなたを見捨てませんから・・・・・・」と、きずな喪失症候群の部下のほうが心理的に立場が強くなる。
 燃えつきた人はこうして次々に本当の友達を自分の周囲から退け、孤立し、ずるい人たちだけに囲まれてしまう。だから最後には「どうにもならない」と八方塞がりになるのである。
 フロイデンバーガーが言う、「燃えつきた人は周囲から同情されない」ことの恐ろしさである。この恐ろしさを理解したら身震いしてもいいのであるが、利用されている最中の燃え尽き症候群タイプに、いくらこのことを話しても信じない。話してあげたほうが悪者になるだけである。やがて自分から気がつくことがある。しかし残念ながら自分で気がついたときには遅すぎる場合が多い。
 あるいは最後まで気がつかないで、「搾取する人」を「いい人」と思い続けて燃えつきて消滅していく人もいるし、気がついたが、すでにどうにもできなくて悶死する人もいるし、何がなんだかわけがわからなくなって、気がおかしくなるような人もいる。

◎「本当のことを言ってくれる人」を「冷たい人」と思う愚かさ

 いずれにしても、燃えつき症候群の最後は悲劇である。また混合型で自分が搾取する人を見つけられないままで、一枚上手の狡賢いきずな喪失症候群に搾取され続ける人の最後も悲劇である。
 混合型にもいろいろあるが、先にも書いたとおり劣等感が強いから、一枚上手の狡賢いきずな喪失症候群に搾取されるのである。劣等感が強くて支配欲が強いと、下手に出る狡賢いきずな喪失症候群に手玉にとられる。
 はたから見ていると、搾取されている人が威張っているように見える。表面的にはそうなっている。つまり表面的に威張っている方が、実は搾取されている側なのである。それは愚かなきずな喪失症候群である。混合型は愚かなきずな喪失症候群でもある。狡賢いきずな喪失症候群に操作される、愚かなきずな喪失症候群がいる。
 男と女の関係で言うと、すぐに狡賢いきずな喪失症候群の女と愚かなきずな喪失症候群の男というのがわかる。しかしこれは同性でも同じである。また恋愛ばかりではなく、それ以外の関係でも同じである。
 一見すると支配者で、威張っているほうが搾取されているということがよくある。下手に出ているほうが、相手の劣等感という心の傷と支配欲をうまく操作して搾取しているということがある。人生が八方塞がりになってしまう人は、その場で心の傷を癒してくれることを言ってくれる人にひかれてしまっている。
 おむつが濡れて気持ち悪くて泣いている子がいる。ほうっておかれておむつずれができている。そこに「痛いでしょう!」と言う人が現れる。おむつずれを治そうとはしない。しかし「痛いでしょう!」という言葉で「いい人」と思ってしまう。
 そこにおむつを取ってお風呂に入れて、おむつずれを治そうとする人が現れる。お風呂に入れられると痛い。しかしおむつずれを治すにはそうするほうがいい。
 そのときに、「酷い人ねー、痛いのにねー」と言う人がいる。するとこのひとを、「自分の痛みをわかってくれる人」と思ってしまう。そして治そうとしてくれる人を、「冷たい人」と思ってしまう。
 この「痛いでしょう!」と言うが、実際には何もしてくれない狡賢いきずな喪失症候群の人に捕まるのが、燃えつき症候群系の人である。あるいは一枚上手の、狡賢いきずな喪失症候群に搾取される愚かな混合型である。
 もちろん「痛いでしょう!」と言うきずな喪失症候群が最も悪い。しかし表面的には事件を起こさないで、いつも「いい人」なのである。子供の世界でも、見ていると同じである。実際に努力した子供、現実に頑張った子供は、なにかあると怒って相手を殴ってしまう。しかし実際には何もやっていない子供はすぐに反省の言葉を言う。そして先生や保護者は、その反省を口にする子供を「いい子」と思ってしまうことがよくある。
 そうしたことを理解できない人々が燃えつき症候群系である。この搾取されている人に、そのことを気づかせようとしても、気づかせようとした人が憎まれるだけである。どうしようもない。そこで誠実な人が一人去り、二人去りして、搾取される燃えつきタイプの人の周りには、搾取する人だけが集まっている。
 政治家になって丸裸にされてしまった、などというのがこの例である。一見その政治家が一番上にいるようであるが、よく考えると、周囲の人から利用されているだけである。政治家に限らずそうした人がたくさんいる。
 そういう政治家も心に問題があるから、周囲には狡賢いきずな喪失症候群の人しか集まっていない。政治家になっても食い物にされるだけされて、利用価値がなくなれば廃棄処分である。
 立候補して一度は代議士になったが、家屋敷を売り払い、最後には丸裸になってしまって落選するような人である。
 自分が心理的にも社会的にも長期低落傾向にあるときには、狡賢いきずな喪失症候群に囲まれている可能性が高い。あなたが真面目で、働き者で、努力に努力を重ねながらもなぜか生きるのが年々辛くなっていくときには、狡賢いきずな喪失症候群に囲まれている可能性が高い。
 悩んでいる人は、悩みの原因は身近な人、という大原則がわからない。生きている以上苦しみはある。苦しみを避けたければ死ぬ以外にはないだろう。しかし悩みは別である。悩みは解決しない。


 ◎燃えつきた人が「いい人」と言う人に、本当にいい人はいない

 イソップ物語に「城をつくるサル」という話がある。

 サルが集まって、城を作ろうと相談する。皆が賛成する。そこで、工事にかかろうとした。すると、年寄り猿が、「そんなことをすると、城の中に入ったまま、楽に他の動物に捕まって殺されるだけだ」と言った。

 自分で自分の首を締める人が多い。サルの城に当たるのがその人の世界観、思い込みである。例えばあの人は「こういう人だ」と決め付ける。あの人は「いい人」と思ったことで窮地に陥ることがある。燃えつきた人が「いい人」と言っている人で、本当にいい人はいない。燃えつきる人は、自分を骨までしゃぶる人をいい人と言っていることが多い。

 私はアメリカの心理学者のフイット・テイカーの言った、「どうにもならなくなったら、逆が正しい」というのは本当に名言だと思っている。燃えつき症候群型で自己蔑視している人は、年をとるにしたがってだんだん生きるのが大変になってくる。生きるのが辛くなってくる。極端な例では、自殺する。それは今までの生き方が間違っていたからである。
 今まで「自分を愛してくれた人」を「自分を愛していない人」と思い、今まで自分を利用しようとした「ずるい人」を「誠実な人」と想い、今まで自分を利用しようとした「悪い女」を「優しい女」と思っていた。要するに全て逆が正しいのである。その燃えつきた人が「得意になっていたこと」が、実は「恥ずべきこと」だったのである。
 自分を守ってくれていると思った人が、実は自分を利用し、自分を搾取している人だったのである。要するに、燃えつきた人の忠誠心をもてあそばれただけなのである。利用しがいがあると思ったから、おだてられて利用されただけである。あなたの目の前ではお世辞たらたらだったかも知れないが、陰では舌を出して、あなたを馬鹿にしていたに違いない。利用するだけ利用したら、あとはあなたは捨てられるだけなのである。
 逆にあなたが「あいつは許せない」と悔しがって、自分の敵と思っていた人が、実はあなたを陰ではきちんと守ってくれる人だったのである。あなたが恨んでいる人こそ、あなたを守ってくれている人だったのである。
 その人が誠実だったからこそ、あなたに本当のことを言った。そしてあなたはその本当のことに傷ついた。そしてあなたはその人を恨んだ。しかしその人こそ、陰ではあなたを守ってくれる人なのである。そういう人は、あなたの陰であなたを褒めている。あなたの評判が悪くならないように努力する。しかしあなたの目の前では歯の浮くようなお世辞を言わないかもしれない。
 だいたい本当に誠実な人と関係し、本当に自分を理解しようとしてくれている人と付き合っていきてきていれば、年をとってから人生が八方塞がりになることはない。人生が八方塞がりになるということは、どこかで逆に考えていたからである。付き合ってはいけない人と付き合い、敵を味方と思い、味方を敵と思ったのである。付き合う人を間違えない限り、人生が八方塞がりになることはない。


 ◎「変だな」と気づいたのなら、幸せになるチャンスはまだある

 だから「もうどうにもならない」と絶望する前に、そのことに気がつくことである。年老いて力がなくなってから、「もうどうにもならない」となったときにはもう遅い。だから「なんだか変だな」「なんだか生きるのが辛いな、どうしてこんなに苦しいのだろう」と思ったとき、自分が接している人を考えてみることである。こんなに一所懸命生きてきたのに、なんでこんなに苦しいことばかりなのだろう、「なんだか変だ」と思ったときには、事実どこかが変なのである。
 口先ばかりの不誠実な人を、誠実な人と勘違いしてつき合っているのである。「なんでこんなに苦しいことばかりなのだろう」と思ったときには、周囲にはずるい人ばかりがいると思って間違いない。「なんでこんなに苦しいことばかりなのだろう」と思ったときには、周囲はきずな喪失症候群の人ばかりである、と思っていい。あるいはきずな喪失症候群的な面を見せている混合型である。
 「なんでこんなに苦しいことばかりなのだろう」と思ったときに、「あー、自分にとって居心地がよかった人は、実は自分にとっては害になる人だったのだなー」と気がつけば、幸せになるのにはまだ遅くはない。「なんだか変だな」と思ったときに、敵と思っていた人が実は味方だと気がつけば、まだ幸せになるには遅くはない。
 「なんだか変だな」と思ったときに、その感情から目をそらして、その場その場を楽に生きていると、最後に「もうどうにもならない」と絶望するときがくる。
 私は「もうどうにもならない」と死ぬ前に日記に書いた老人を知っている。それは悲惨なものであった。その老人は死ぬ前になって、自分が味方だと思っていた人が敵だったとわかったのである。そして自分が敵だと思っていた人が味方だったとわかったのである。しかしその時には「もう遅すぎた」のである。それほどきずな喪失症候群の人の中には、演技がうまい人がいるということでもある。

◎断る勇気があなたを救う

 イソップ物語に「病気になったシカ」という話がある。

 シカが病気になって、草の生えている野原に横になっていた。見舞いに来た獣が、シカの周りに生えていた草を食べ尽くした。まもなくシカは、病気が治ったが、もう食べる草がない。ついに衰えて死んでしまった。

 これが燃えつきた人の人間関係である。燃えつきた人の元に集まる人は、その人のもっているものを食べ尽くす。ある燃えつき症候群的資産家が惨めな死に方をした。その資産家の元に集まる人は、皆その資産家に迎合する。その資産家はその迎合が嬉しい。誰が自分のことを本当に思ってくれているかが理解できない。
 その資産家は、誠実な人を退け、自分に都合のいいことばかりをいう人を周りに集めた。その資産家自身が不誠実な人だったのである。そして彼が年をとり、力がなくなったときに、誰も彼のことを本気で世話しなかった。ずるい人の周囲にはずるい人が集まる。
 燃えつきた人はどうしても名誉やお世辞に弱い。名誉やお世辞は、このイソップ物語の「病気見舞い」みたいなものである。燃えつきた人は心が病んでいるのである。こころの病気で野原に横たわっているようなものである。
 どっちにしても、きずな喪失症候群の人と近くなっていいことは何もない。苦しめられるだけである。とにかくきずな喪失症候群の人には近づかないことである。
 もちろんあなた自身が「ずるい人」で、人をいつも利用しようとしているなら話は別である。きずな喪失症候群の人と付き合ったらいい。燃えつきる人ほど利用しやすい人はいないのだから。しかしあなたが心理的に健康な人で、人を利用して生きるのは嫌だと思うのなら、きずな喪失症候群の人はつき合う人たちではない。
 もし今つき合ってしまっているなら、少しずつでもいいから距離をとりだすことである。そして「こうしてほしい」という依頼には勇気をもって断ることである。断る勇気があなたを救うのである。断らない限り、あなたは最後には潰される。
 なにかその人と一緒にいると不愉快だとか、気持ちが沈んでしまうとかいうときには、その人はあなたを心の底で憎んでいることが多い。その相手の心の憎しみがあなたに伝わるのである。
 そういう人はあなたから何かを取ろうとしているのである。その人は何もしない人である。その人は努力をしない人である。その人は憎しみで心がいっぱいな人である。それが、理由はわからないがなんとなく一緒にいると不愉快だ、ということである。

 カレン・ホルナイが言うように、自己蔑視している人は傷つきやすい。だからあなたが燃えつき症候群の人を傷つけようとしなくても傷つく。もちろん誰でも相手の意図とは関係なく傷つくことは多い。しかし傷つきやすい人は、それよりももっと傷つくわけである。こちらが思いもかけないことで傷ついている。
 あなたがした相手への好意的発言によっても、相手は傷ついているかもしれない。あなたが相手を守ってあげようとしてした行為で、相手は傷ついているかもしれない。
 傷つくとどうなるか。誰でも自分を傷つけた人を憎むであろう。意識の上では別にして、心の奥底では相手を憎む。つまりあなたはまったく身に覚えのないようなことで、人々から憎まれているかもしれないのである。
 あなたがどんなに善意の人でも、きずな喪失症候群の人とつき合っていれば、陰でいろいろな悪口を言われている。「えー?ホントー」というようなことを言われている。あなたがその人のために自分の感情を抑えて貢献してあげても、その人から悪口を言われていることがある。


 ◎八方美人の人生は最後に破滅する

 成功への秘訣は分からないが、失敗への秘訣は分かる、それはすべての人を喜ばそうとすることである。だから八方美人の人生は、最後に破滅するのである。破滅するとは、生きることが難しくなるということである。生きることが辛くなることであり、何もかもが億劫になってくることであり、夜は眠れなくなることであり、吐き気がしてくることであり、頭痛に悩まされることであり、人に合うのが嫌になることである。破滅するとは神経症的に苦悩の中でのたうち回るということである。

 あなたを利用しようとする人を喜ばそうとしたらどうなるか。つまり、きずな喪失症候群の人を喜ばそうとしたらどうなるか。あなた自身が破滅する。
 銀座のクラブのホステスを喜ばそうとして、大金を貢ぐ男のようなものである。それにしても、銀座のクラブのホステスを喜ばそうとして、大金を貢いで破滅する男のなんと多いことか。
 あるいは、現実から逃げている人を喜ばそうとしたらどうなるか。その人に麻薬を与えることである。実際には麻薬を与えないとしても、本質的には同じことである。
 欲求不満な人が、人の悪口を言っている。その人を喜ばすためには、一緒になってその人以上にひどい悪口をいうことである。こう書くと、そういう人を喜ばそう、なんてことはありえないと思うかも知れないが、実際にある。
 私自身父親を喜ばそうとして、毎朝新聞を見ると、まず誰かの悪口を言えないかと適当な記事を探したものである。そして有名人をけなすと、父親は喜んだ。迎合すると、そうした恐ろしいことが起きる。今、私の間違いを書いたが、会社では毎日こうした愚かなことが起きているのではないだろうか。誰の悪口を言って上司に取り入ろうか、と考えているサラリーマンはたくさんいる。
 私は自分のした間違いをハッキリと書くから凄いことのように思えるかもしれないが、日々日本の会社で行われていることである。
 
 自己蔑視している人、欲求不満な人、傲慢な人、現実逃避の人などを喜ばそうとする人は、淋しい人である。孤独感に苦しんでいる人である。寂しい人は、誰でも彼でも相手を喜ばそうとする。淋しいから相手の好意が欲しくて、誰彼かまわず相手を喜ばそうとする。
 しかしきずな喪失症候群の人を喜ばそうとすると、先に書いたように、あなたはいよいよ相手から軽蔑され、いよいよ奴隷扱いをされる。だからきずな喪失症候群の人を、決して喜ばそうとしてはいけない。
 混合型についても同じである。彼らを喜ばそうとして努力すればするほど、あなたの努力を軽く扱われるようになる。努力すればするほど、その努力を安く扱われる。つまり、きずな喪失症候群の人を、喜ばそうとして努力すればするほど、あなたはいよいよ奴隷扱いされるようになってしまう。そして最後は燃えつきる。


 ◎本当の友人をいつかあなたはなくしてしまう

 腐敗した官僚が接待漬けになっているとする。「ねー、少し考えたほうがいいのではないですか」と忠告するホステスは嫌われるだろう。それに対して「あなたって偉いのね」と褒めそやすホステスは好かれるだろう。ホステスがお世辞を言うのは、もっとお金を取ろうとしているからである。
 しかし劣等感に悩まされている官僚は、お世辞が嬉しい。するとその不誠実なホステスを大切にする。こうして劣等感に悩まされている人の周りには、誠実な人がだんだんいなくなっていくのである。
 そして気がついたときには、人生がおかしくなっている。病気になっても誰も助けてくれない。逮捕されても誰も助けてくれない。お金に困っても誰も助けてくれない。失業しても誰も職を与えてくれない。子育てで苦労していても誰も助けてくれない。

 きずな喪失症候群の人や混合型の編集者がいるとする。すると著者が誠意を持って原稿を書けば書くほど、その編集者はその著者を軽く扱う。そして誠意を尽くさない著者を重視する。無理をしても編集者の要求に応えてあげようとして、必死で書く著者がいるとする。すると混合型の編集者は「この著者はどうにでもなる」と思い、自分にとって都合のいい著者として扱いだす。
 混合型の編集者は、いい仕事は燃え尽き症候群型の著者には持って行かないで、誠意のないもったいをつける「扱いにくい」著者のところにもっていく。広告も、誠意のない「扱いにくい」著者の方が大きな広告が出る。
 要するに、混合型の編集者は、自分に近くなった著者を軽く見る。するとずるい著者はそうしたことを見抜いて誠意ではなく、人扱いのテクニックで編集者とつき合いだす。そのテクニックに簡単に引っかかるのも、混合型の人の特徴である。
 もちろんこれは逆も同じである。混合型の著者は誠意のある編集者を軽く扱う。編集者が誠意を持って原稿を処理しても、慣れてくるとの編集者を軽く扱いだす。
 混合型にしろ、きずな喪失症候群にしろ、助け合わない。長い目で見て、助け合うということがない。目先の利益を追う。
 どれほど多くの恋人が、誠意を尽くすことで、男から軽んじられていることだろう。そして逆に、誠意のない女を大切にする男のなんと多いことか。口先だけの女に夢中になるのが自己蔑視している男である。これを言い換えると、きずな喪失症候群の女や混合型の女に夢中になった燃え尽き症候群型の男の悲劇である。
 混合型の人は、自分と近くなった人に対しては暴君になる。そして自分から遠い人に対しては卑屈なまでに迎合する。「正直者がばかを見る」という言葉がある。それは混合型の人のつき合いを表している。
 一般的に正直者がばかを見るとは、私は思わない。やはり正直者が幸せになると私は思っている。しかし、たしかにきずな喪失症候群型や混合型の人との関係では「正直者がばかを見る」。

◎偉そうな言葉に弱いのは、心に問題を抱えている証拠だ

 きずな喪失症候群の人は実際に何か成し遂げたことがない。だから、何かを実際に成し遂げることがどれほど大変か、を感じていない。きずな喪失症候群の人は、自分自身が口先だけで生きている。実際に具体的に何かをしない。だから、実際に何かをするということがどれほど大変なことか、を理解していない。
 「実際に具体的に何かをしない」とはどういうことであろうか。きずな喪失症候群型の教授は、例えば実際に原稿を書いて出版社に持っていかない。人の書いたものを批評して「あんなの簡単にかけるよ」とか「あの本は程度が低いよ」とか言う。
 そして書くことを求められると、「あの出版社じゃ書く気しないよ、もっとランクの上の出版社じゃないとだめだなー」というようなことを言う。口先だけは立派なのである。しかし実際には何も書かない。
 たとえば、あなたの恋人が大変な病気になったとする。誰かいいお医者さんを紹介してもらいたい。そのときに誰某という偉いお医者さんの名前は出すかも知れないが、あなたが助かるようなかたちでそのお医者さんを紹介することはない。
 そして、今あなたがかかっているお医者さんを、「あの人、だめな医者さんね」と批判する。相手の不安をあおりたてるばかりで、実際には何もしてくれない人が多い。相手の不安をあおりたてるのは、そうすることで自分が重要な人物と感じられるからである。
 そして愚かなことに、燃えつき型自己蔑視人間は、この口先だけの人を尊敬しがちである。実際に自分の助けになることをしてくれた人よりも、口先だけで偉そうなことを言っている人を尊敬しがちである。実際に助けになった人よりも、口先だけの人を大切にする。
 それはその人が実際に、人に紹介の労をとることがどれほど大変なことであるかを経験していないからである。いつも、「誰某を知っている」という口先だけの世界で生きているからである。自分が現実の世界で生きていれば、誰が誠意があり、誰が口先だけのラッパ吹きかは判断できるはずなのである。
 あなたは、実際にあなたにお医者さんを紹介してくれた人を大切にするのか、実際にはお医者さんを紹介してくれないが、偉いお医者さんの名前を次々に出す人を大切にするのか。それであなたが自分に自信があるのか、自己蔑視の人であるのかがわかる。そして、あなたがえらいお医者さんの名前を次々に出す人を大切にする人なら、やがて燃えつきるに違いない。
 あなたがもし、実際に何か具体的なことをしてくれた人ではなく、偉そうな口を聞いている人を尊敬しているとすれば、あなたは心理的に問題を抱えている人である。
 どんな小さなことでも、具体的に実際に何かをしてくれた人が誠意のある人なのである。偉そうなことだけ言って、具体的に何かをしてくれない人は、ペテン師である。自己蔑視している人は、このラッパ吹きのペテン師を大切にするのである。だから最後には、誰からも真剣には相手にされなくなっていく。


 ◎理解してくれる人と褒めてくれる人は違う

 今まで説明してきたように、燃え尽き症候群も混合型も、みんな自己蔑視している人である。つまり、きずな喪失症候群の人や混合型の人に尽くすあなたにも、実は問題があるのである。燃えつき症候群系のあなたが心理的に問題を抱えていなければ、彼らの迎合して必死になってその人のために努力しようなどとはしない。あなた自身が自分で自分を軽蔑しているから、そうして扱われることを許してしまうのである。
 だからあなた自身が、まずあなたに誠意をもってつき合ってくれる人を大切にしなければならない。今まであなたは、あなたのことを愛情をもって処理してくれる人を軽く扱ってはこなかったか。あるいはあなたが今尊敬している人は、本当に尊敬するに価する人なのだろうか。
 誠意のある人は、必ずしもあなたにいつも「わかる、わかる」と言う人ではない。誠意のある人は、必ずしもいつもあなたと一緒になってあなたの気に入らない人の悪口をいう人ではない。誠意のある人は、必ずしもいつもあなたを「素敵だわー」と褒める人ではない。誠意のある人は、必ずしもいつも「あいつら、なにもわかってないんだよ」などとあなたの悔しい気持ちにあわせた言動する人ではない。時に「わかる、わかる」と言う代わりに、あなたが傷つくことを言う人である。
 もしあなたの周りに張り巡らせれている人間関係が、だいたいにおいて問題がないのなら、あなたはそんなに苦しんでいるはずがないのである。家族関係であれ、友人関係であれ、どこかおかしいからあなたはそんなに悩むのである。
 「人生が行き詰まったら逆が正しい」というフィット・テイカーの言葉は、「失敗への秘訣はわかる、それはすべての人を喜ばそうとすることである」という言葉とともに、私たちの人生を救ってくれる言葉である。私たちは、ときに驚くほど愚かな行動をしているものである。
 すでに述べたとおり、あなたが自分の人生は八方塞がりであると感じているなら、あなたが今尊敬している人はきっととんでもない卑怯者かもしれない。そして逆にあなたが軽視している人が、本当に愛情のある人かもしれない。またあなたが、「こいつさえいなければ」と思っている人が、実はあなたにとってなくてはならない人かもしれない。
 要するにあなたは、「毒のある人々」を尊敬し、「毒のある人々」に仕え、誠意のある人々を馬鹿にして、自分の周囲から排斥してきた。だからそこまで生きるのが大変になってしまったのである。誠意のある人々と付き合いながら生きているのなら、そんなにあなたの人生が八方塞がりになることはないはずなのである。
 誠意のある人とは、あなたに関心をもってくれる人である。あなたに真剣に対応してくれる人である。あなたと深くかかわってくれる人である。あなたを理解してくれる人である。あなたを理解してくれる人と、あなたを褒めてくれる人は違う。


 ◎戦わなければ人は生きていけない

 どういうふうにあなたは間違っているのだろうか。あなたがコマツナだとする。それなのにあなたはチューリップを演じている。そこに集まるチョウチョは、偽のチョウチョばかりである。本物のチョウチョは本物のチューリップのところに集まっている。そしてあなたのところに集まったあぶら虫をあなたは排斥した。
 コマツナがコマツナとして他者と十年つき合えば、お互いに信頼関係ができる。相手はなくてはならない人になる。しかしチューリップを演じていると周囲に憎しみをもつ。
 では、あなたはなぜチューリップを演じだしたのだろうか。それはチューリップ以外は価値のない植物だと、幼いあなたに教え込んだ人がいたからである。幼いあなたはそれを信じた。そしてあなたはコマツナなのにチューリップの肥料を与えられていた。
 そしてあなたは戦わなかった。迎合で人生を乗り切ろうとした。戦わなければ人は生きていかれない。世の中に善人だけなら、戦わなくても生きていかれる。世の中に「毒のある人々」がいなければ、戦わなくても生きていかれる。しかし世の中には「毒のある人々」がたくさんいる。だから戦わなければ生きていかれないのである。
 迎合する人は、努力して社会的に成功すれば生きていかれると思った。だから人生が八方塞がりになった。つまり名誉や富の冠をかぶれば生きていかれると思った。イヤなことがあると、偉くなることで跳ね返そうと思った。しかしきずな喪失症候群の人は、そうした対立を恐れている人を狙うのである。冠に逃げた自分を反省しない限り、人生は開けない。イヤなことがあったときに強くなることで、跳ね返そうとしない限り、生きていかれない。
 強くなることとは、何もすぐに喧嘩をすることではない。お互いの中で話し合いで解決することである。自分がイヤなことはイヤと言える人間になることである。

 子供が好きな玩具を持っている。その大切な玩具を「貸して」という子供がいる。そのときに「イヤだ」と、正直に自分の気持を伝える子どもが自分を守っている。
 自分の気持を正直に伝えたので、その子は満足している。心の満足した子は優しくなれる。人への思いやりも出る。そして友達とうまくつき合っていく。
 これはわがままではない。わがままは人のものを欲しがること。「これも欲しい、あれも欲しい」がわがまま。
 無理をして迎合して貸してあげる子は不満になるし、その後、不愉快である。もっとはっきりと言えば、憎しみをもつ。
 精神病の治療論の大家であるフロム・ライヒマンは、「犠牲を払えば憎しみが出る」と述べているが、その通りである。心の底に憎しみをもった子が、他の子とうまくつき合えるはずがない。
 何でも貸してあげることが親切と思っている。そうしなければいけないと思っている。しかしそうすると自分の意志がもてない。
 強くなるとは、喧嘩をすることではなく、自分をもつこと、自分を守ることである。そして自分の意志をきちんと相手に伝えながら、相手に対する思いやりを忘れないことである。これがコミュニケーションなのだが、迎合する人はこれができない。
 そしてストレスからから燃えつきる。強くなるとは、コミュニケーションの中で物事を解決できる人間になるということである。人と会えば嬉しいことばかりということはない。相手も感情があるからどうしてもイヤなことはある。人生で大切なことは、それをコミュニケーションの中で解決することなのである。
 そして何よりも自分のある人は、きずな喪失症候群の人から狙われない。

◎順調に生きている人は、接する人間を厳選している

 何度も言うが、「成功への秘訣はわからないが、失敗への秘訣はわかる、それはすべての人を喜ばそうとすることである」という格言は、心に銘記すべき格言である。ことに淋しい人は、この言葉を銘記すべきである。なぜなら淋しい人は、だれでも喜ばそうとするからである。
 年をとってからなんとか人生が順調にいっている人を見ると、接する人を厳しく選別している。決して八方美人ではない。世の中には誠実な人から、驚くほどにずるい人までさまざまである。正直にこつこつと生きてきた人から、人を騙して甘い汁を吸って生きてきた人まで、さまざまである。そうした世の中で、八方美人は戦わないのである。
 そして年をとってから幸せに毎日を過している人は、それらの人を見分けることのできた人たちである。戦うから見分けられる。戦うとは喧嘩をすることではない。自分とはあわないな、と思えることである。
 年をとってから幸せな人は、口先で愛を唱えながら、裏で人を搾取してきた人をきちんと見分けて、自分の周囲から退けてきた。その口先の人にごまかされないで生きてきた人である。だから年をとって誠実な人に囲まれている。
 物事を円満に解決するというと聞こえはいいが、実は逃げているだけということもある。対決が怖いから、「円満に」という言葉でごまかしているのである。円満に解決して生きてきて、年をとって不幸になったら、それは解決ではなく逃げていたのである。
 博愛の仮面をかぶっている利己主義者にごまかされて生きてきた八方美人は、年をとるとやはり生きづらくなっている。さまざまな悩みで消耗している。つまり周囲の人々とはゴタゴタ続きでやつれてしまう。何もかもが思い通りにいかない。嫌いなことばかりである。だから周囲の人を恨む。それは周囲にはずるい人しかいないのだから、人間関係がゴタゴタしてやつれるのも当然である。
 人を見分けないで、誰にでも「いい顔」をして生きてきた結果である。そのときそのときで、自分に都合のいい人とばかり接して生きてきた結果である。自分が現実から逃げているときに、それを諌める人を退け、その現実逃避の態度をはやし立てるような人とばかり接して生きていたのである。自分が無責任だと、周囲には無責任な人ばかりが集まる。
 若い頃に無責任な生き方をしたから、年をとってから困っても誰も助けてくれる人がいないのである。そういう冷たい人しか周りにいなくなっているのである。


 ◎うわさ話の好きな人間からは離れたほうがいい

 たとえば、ある人が若い頃に人の悪いうわさ話しかしないような人だったとする。そうしたら、どうして現実と向き合って生きている人が、その人とつき合おうとするだろうか。その人とつき合うのは、同じように人のうわさ話で自己重要感をもとうとする人だけである。実際に地道な努力をして、自己重要感が満たされている人は、うわさ話しかしない人とはつき合わない。
 うわさ話は最も安易に自己重要感が手に入る。情報を知っている、ということだからである。うわさ話をしていると、自分が重要な人間に感じられてくるという患者さんの話が『毒のある人々』に載っている。
 他人の悪いうわさ話をしても、その人たち自身の環境は何も変わらない。友達と誰かの悪いうわさ話をしたら、恋人との関係がうまくいくわけでもない。恋人と誰かの悪いうわさ話をしたら、同僚との関係がうまくいくわけでもない。悪いうわさ話をしても自体は何も改善されない。
 現在の自分に満足していれば、人はそれほど人の悪口を言わない。悪口を言ったあとは不快感が残る。私も仲間同士悪口を言うこともあるが、ひとりになって満足しているときには、その悪口を言ったことが不快になる。どのくらい悪口を言うかということは、どのくらいその人が不満であるかの一つのメルクマールである。
 長男の家に世話になっている親が、長男の悪口を次男の家に言いに行く。ずるい次男なら、親に迎合して長男の悪口を一緒に言う。あまり酷くなれば長男が見捨てるかもしれない。そうしたら親は行き場所がない。次男は親を引き受けないのだから。こうした次男を「いい人」と勘違いして、最後に辛い人生になる人も多い。

 何か自分の人生は変だと気がついて、人間関係を変えようとするときに注意しなければならないことがある。それは自分も今まで、その人々と同じ種類の人間だったということである。周りに無責任な人しかいないのは、あなた自身が無責任な人だからである。無責任な人々との関係を断ち切ろうとして動き出すことは、これからの幸せのために大切である。しかしそのときに、自分も無責任だったと認めるところから出発しないと、関係変更は成功しない。


 ◎劣等感の深刻な人は「欲張り」の心理状態と似ている

 イソップ物語に「キツネとヤギ」という話がある。

 井戸に落ちたキツネが、上がっていかれなくなって困っている。そこにのどの渇いたヤギが、通りかかる。その井戸のところに来て、キツネを見かけると、この井戸の水は美味いかと聞いた。キツネは、困っていることを見せないで、この水は美味しいと言う。
 その上でヤギに降りてくるようにすすめた。ヤギは水を飲みに降りていく。飲み終わったところで、ヤギは上にのぼる方法をキツネに尋ねる。するとキツネは、ヤギの背中にのって自分が上に行ってから、ヤギを引き上げると言う。
 そこでヤギはキツネの言うことに従った。キツネはヤギの背中から角をふみ台にして井戸の上に上がって、そのまま行ってしまおうとする。助けを求めるヤギに、キツネはふりかえって、「ヤギさん、あなたのあごにある毛の数ほど知恵があったら、出る道がわかるまでは、井戸の中へ降りなかったろう」と言う。
 
 ある著者にあって、「あの出版社に酷い目にあった」と言う話を聞いたことがある。ひどく出版社を恨んでいる。聞いてみると、たしかに出版社は酷い。著者が売れているときには下にも置かない扱いをし、ちょっと売れなくなるとさっと退いて、そして冷たく突き放す。
 たしかに出版社は酷い。その著者が売れているときには「先生とは、一生つき合わせていただけます、どんなことがあってもわが社がついているから安心してください、死ぬまで守ります」などとペラペラとお世辞を言う。そしてちょっと売れなくなれば、手のひらを返したようにさっと冷たくなる。「社に行ってもお茶も出さない」とその著者は言う。
 これを聞けば出版社は酷いと思う。出版社も慈善事業をしているのではないから売れなくなったら著者の本を出すのは無理かもしれないが、昔世話になった著者が尋ねてきたら、お茶ぐらいは出してもいいのではないか。
 しかし、この著者に知恵があれば、こんな出版社とは初めからつき合わなかったであろう。初めからこんな出版社のお世辞にはのらなかったであろう。
 ヤギはキツネを見ていないが、キツネはヤギを見ている。キツネのほうが相手を見ているのである。そこの違いが大きい。ヤギが酷い目にあったのは、相手を見ていないからである。
 著者は出版社を見ていないが、出版社は著者を見ている。出版社は著者を見ているからペラペラとお世辞を言うのである。この著者はお世辞に弱いと、ずるい出版社の社長は著者を見抜いているのである。
 キツネは冷静に相手を見ている。したたかに相手を見ている。まさに叩き上げてきた社長のしたたかさである。どんな困難にあっても相手を見抜ければ、その困難は克服できる。
 騙されたヤギを「いい人」と私たちは思いがちである。しかしヤギは自分の欲望に引っかかったのである。世の中にキツネはたくさんいる。そのキツネの心の底を見抜ける人が、世の中で大きな仕事をしているのである。キツネがきずな喪失症候群である。
 もう一つ大切なことは、余裕のある方が相手を見ているということである。先に、「相手を見るためには心が無になっていなければならない」と書いたが、それも同じことである。欲張りは欲で心がいっぱいだから、相手を見る余裕がない。だから騙される。
 劣等感の深刻な人は、認められることばかりに心をとらわれているから、相手を見られない。これが燃えつきる人である。認めてもらいたいという欲求が強すぎるのである。愛情飢餓感の強い人は溺れかかっている人のようなものである。藁を掴んでしまう。「この人」に認めてもらいたいという人がいない。自分を認めてくれる人なら誰でもいい。
 雪の降る寒い広野で一人でいるとする。寒さをしのげれば、誰でもいい。あいてがどんな人かを見るとゆとりはない。長いこと店先にさらされているニンジンは、買ってくれる人なら誰でもいい。そして身ぐるみ剥がされる。

◎騙されてばかりいるのは甘えているからだ

 詐欺にあうのも相手を見抜けていないからである。相手の好意を期待するという甘えが命とりになる。
 日本のある二代目のオーナー社長の話である。専務の時代にアメリカに留学した。ボストンである。そのボストンに詐欺師まがいの不動産屋さんがいた。詐欺師まがいというよりも詐欺師と言ったほうがいいかもしれない。
 彼はその不動産屋さんの言われるままに、ドンドンとお金を出して不動産を買った。アメリカに住みだして面白くなり、自分の家を建てた。しかし彼は建築業者にも不動産屋さんにもいいカモにされてしまった。
 そんなに儲かるいい話なら、誰かがとっくに目をつけているはずなんである。しかしその専務の考えは、「このボストンには日本のお金持ちがいない」ということである。たしかに日本からボストンに留学する人にあまりお金持ちはいない。ボストンはニューヨークやワシントンのように実業家が来るところではない。主として学生と教授が来るところで、まずお金のある人はいない。
 この地域で日本人でお金のあるのは自分だけ、とその専務は思った。だから、ここにあるいい儲け話に乗れるのは自分だけだ、という甘い考えをもったのである。その甘さをアメリカの不動産屋さんにつかれた。
 美味しそうなものがあるときに、ひとまず「なんで皆食べないのかな?」と考えるべきなのだろう。少なくともこれから企業の責任者としてやっていくならば。「このボストンには日本のお金持ちがいない」というだけで投資するのは、あまりにもお粗末である。この専務は周りの状況を見ないで、「美味しそうだなー」と思い、食べてしまった。自らの貪欲さで詐欺師に引っかかってしまったのである。
 そして騙されて青くなって、ある弁護士事務所に駆けこんだ。飛び込みである。アメリカにはたくさんの弁護士がいる。カリフォルニアだけで日本全体の弁護士と同じ数の弁護士がいると聞いた。それくらいトラブルがあるということである。だからその日本人がトラブルに巻き込まれたということは、それほど珍しいことではない。
 とにかく彼は救済を弁護士に頼んだ。彼の感覚としては、弁護士は信用できるものという感覚である。
 そのアメリカの弁護士はまず自分の自慢話をした。専務はこれがアメリカの文化だろうと解釈した。弁護士はまた自分が学生だったときの学生運動の話をした。これで「何か、おかしいな、ちょっと変だな」と思うのが当然なのである。「何でこんな自慢話をするのだろう?」と思えば、彼は騙されなかった。それに、聞いてみると、なれない外国にいると言うのに、驚くほど相手をチェックしていない。そして騙された。
 そして「酷いよなー、アメリカの弁護士って」と弁護士を責めている。それでは何も解決しないし、騙されたことから何も学べない。
 彼は二代目で、日本ではどこへ行っても特別扱いされていた。自分は特別に扱われる存在である、という神経症的な考え方が、その専務の命とりになる。特別に扱われることを欲求するのは、神経症的欲求である。その要求があるがゆえに、彼は騙されるのである。神経症的要求をもっている人くらい、詐欺師に取って騙しやすい相手はいない。
 本当は千円の品物を渡して、一万円要求しても、自分は特別に扱われる人間だと思っているから、その品物を調べることなく一万円を払ってしまう。
 先にも書いたが、余裕のあるほうが相手を見ているということである。この詐欺師の不動産屋と弁護士のほうが、この日本人の専務を見ている。そして欲の皮が突っ張っているということを見抜かれている。欲張りは欲で心がいっぱいだから、余裕がない。だから騙される。騙されたくなければ、欲張らないことである。
 私自身神経症的傾向があるから、外国に行ったときなどは、とくに注意をする。ことにアメリカのように恐ろしい国では、この神経症的要求を持っていたら、たちまちのうちに身ぐるみ剥がされてしまう。
 アメリカに住みだすと、ほとんどの日本人は、アメリカと日本の生活上のしきたりの違い、文化の違いの大きさに驚いて、ため息をつく。

 第3章―人を見抜く能力を鍛えよう

 ◎動物的感覚が衰えていなければ「人間」が見える

 ところで今まで書いてきたことの他に人生が八方塞がりになったら、まずあなたが深刻に反省するべきことがもう一つある。それはあなたの動物的感覚がひどく衰えていることである。あなたは知識があるかもしれない、技術があるかもしれない、力があるかもしれない、またもしかしたら、お金も名誉もあるかもしれない。
 しかしあなたは動物的な感覚が衰えている。生きるエネルギーがない。そして動物的感覚が衰えている以上、まず間違いなく人生につまずく。生きることが苦しくなり、八方塞がりになる。生きていることが楽しくない、辛いことばかりになる。消耗し、生きていることの無意味感に悩まされる。
 人生につまずくとは、とんでもない間違った生き方を始めるということである。生きるエネルギーを失ったライオンが、ウサギのように草を食べようとする生活を始める。どんなに疲れて消耗しても、ライオンは肉食動物である。草だけを食べていたら死ぬ。生きるエネルギーを失うと、何が自分に望ましいかがわからなくなる。
 動物的感覚が衰えると、どの人が毒のある日とか、どの人が誠意のある人かが嗅ぎ分けられなくなる。あなたは動物的な感覚が衰えているから、毒のある人を「いい人」と思ってしまうのである。動物的な感覚が衰えていなければ「この人、癖があっていやだなー」と感じるところを、なんとなく魅力を感じてひかれてしまう。
 動物的な感覚が衰えていなければ避ける人に、逆に魅力を感じてしまう。そうして生きているから、なんだか知らないけれども、いろいろのことがうまくいかなくなる。どこで間違ったかわからないが、とにかく生きづらくなる。
 きずな喪失症候群の人の笑顔には毒がある。動物的感覚が衰えると、この毒を見分けられない。きずな喪失症候群の人の笑顔は、騙すための笑顔である。顔が笑っていても目が笑っていない。笑っている顔に警戒心がある。
 先の『毒のある人々』という本は、「毒のある人」は時に配偶者でもあると書いているが、そのとおりである。まず動物的な感覚が衰えているから、毒のある人に恋をしてしまうのである。動物的な感覚が衰えていなければ、食事に誘われても、誘い方の態度や雰囲気がいやで、断るところを、動物的な感覚が衰えているから、誘われて嬉しくなって食事に出かける。
 表面的には何も悪いことはないから、ずるずると恋人になり、やがて結婚するとする。しかし、なんだか分からないけれど毎日が次第に地獄になる。どこが、とはっきりと指摘できないが、なんとなくあなたを大切に扱わない。あなたがどんなに一所懸命食事を作っても、彼にとっては家の外の女がいい。家の外の女のすることはなんでもよくなり、あなたのすることはなんでも腹立たしいことになる。
 なんと多くの人が、結婚すると人が変わることか。それは、相手にとってあなたは尊敬する人から軽蔑する人に、結婚を機会に変わるからである。結婚するまでは、あなたは「遠い人」で、尊敬される人であった。しかし結婚をしたら、もう今度はあなたは「近い人」になり、憎しみと軽蔑の対象でしかない。あなたは配偶者にとって、不愉快な存在になってしまっているのである。どこかの時期までは憧れの対象であった。しかしどこからか不愉快な存在になった。
 相手の立ち居振る舞い、言葉づかい、目の動き、手のしぐさ、歩いているときの後ろ姿などから、毒を嗅ぎ分けれなかったあなた。動物的な感覚が衰えていなければ、相手がレストランで座った座り方で「この人は、いやだー」と感じるはずなのである。

◎相手のすさんだ心は、ふとした振る舞いの中からわかる

 動物的感覚だから、なぜ相手がそういう人なのかを説明できなければ、証明もできない。しかし動物的な感覚が衰えていなければ、それが「わかる」のである。
 相手のすさんだ心はふとした振る舞いの中で出てしまうものなのである。人を利用してずるく立ち回ってきた生き方が、笑い方一つにさえ表れる。それは本当に瞬間的に小さな小さなことに表れる。なぜその笑い方にすさんだ心が表れているのかを証明はできない。動物的な感覚が衰えていなければ、きずな喪失症候群を見分けられる。
 もちろん逆も同じである。正直に必死で生きてきた人の生き方は、ドアの開け方一つにさえ表れる。エレベーターに乗り込んできたときの、瞬間の乗り込み方に表れる。動物的な感覚が衰えていると、それがわからない。相手の地位や容姿はわかっても、その人の本質的な質の部分がわからない。そして動物的な感覚が衰えている人は、容姿はいいけれどもずるい人にひかれていってしまう。
 そして毒のある人々との人間関係の中で生活が始まる。そこでは誰もが嘘をついて生活をしている。だからあなたは真面目に努力するのだけれども、いっこうにその努力が報われない。一方的に頼まれごとをする立場に追いやられ、いつもあなたは日陰ものである。人に利用されるだけで、努力の成果を味わうことはない。何度も言う、燃えつきた人である。
 あなたはいつも縁の下の力持ちで、日の当たる場所には出ない。あなたが縁の下の力持ちで満足ならそれでいいが、たいていはそれがいやなのである。本当に満足している人は、自分が縁の下の力持ちとは意識していない。周囲がそう見るだけである。自分は縁の下の力持ちと意識したときには、その立場に不満なときである。「俺は黒子でいい」という人は、黒子ではイヤな人である。本当に黒子でいい人は、自分が黒子の役割を果たしていると意識していない。満足しているということは、そういうことである。
 毒のある人々の間で生活が始まると、不本意ながら黒子の役割を与えられてしまう。しかも誰からも感謝をされない。穴のあいたバケツに水をそそいでいるような努力である。
 もう一度言う、これが燃えつき症候群である。
 動物的感覚で相手を嗅ぎ分けるとはどういうことであろうか。それがどういうことか理解するためには、推理小説が一番よい。神経症者は相手の何を見ていいかわからない。見る観点がわからないのである。


 ◎アガサ・クリスティーから学ぶ人間観察の方法

 次の文章はアガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』の冒頭部分である。私立探偵ポアロが冬の早朝、アレッポという駅でタウルス急行に乗り込んだ時の描写である。

 「いかがでございます、ムシュー」車掌は芝居がかった身振りで、ムシュー・ポアロのきれいな車室や、きちんと整理した手荷物を披露した。「お客様の手提鞄はこちらにおいておきました」車掌の伸ばした手は意味ありげであった。

 「意味ありげであった」という言葉は、相手を観察するときに出てくる言葉であろう。ばかていねいだとか、ぞんざいだとか、相手と関係があるときに出てくる態度である。無造作というのは、相手との関係を示していない。相手の手の動きを「意味ありげ」と感じるのが動物的感覚である。そして「いかがでございます」という言葉を話しかけてくる態度を、「芝居がかった身振り」と判断している。
 なんだかわからないけれど人生が八方塞がりになってきた人が、もしこの相手の手の動きを「意味ありげ」と感じる能力があったら、人生は違っていたに違いない。つき合う人が違っていたからである。きずな喪失症候群の人を見抜いていたはずである。
 これは何も手荷物を運ぶときの手の動きだけの話ではない。学生が机に向かって何かを書いているときの手首を見て、感じることでもある。直感の優れている人は、「可愛い男だな」とその手首を見て感じるかも知れないのである。動物的感覚の衰えた人は、「学生が机に向かって勉強している」としか見ない。
 
 生きるのが辛いということは、今の人間関係の中で生きるのが辛いということである。生きることそのことが辛いわけではない。違った人間関係の中では生きるのが楽しいかもしれない。生きるのが辛いのか、楽しいのか、どのような人に囲まれているかによって決まるところが多い。


 ◎神経症者は言葉にとらわれるあまり行動を見ない

 次の文は前の部分の続きである。

 「ありがとうございます、ムシュー」車掌は急にてきぱきとした事務的な態度になった。

 「急にてきぱきとした事務的な態度になった」というのはどういうことであろうか。ここで車掌はお金をもらった。チップである。車掌はおそらく欲の満足が消えれば、あとはまた事務的になるだろう。いずれにしてもこの態度の急な変化で、この車掌の利己主義ということがわかる。
 もし自分の会社に人が必要で、社長が人を探しているときに、この列車に乗っていたらどうなるか。社長に人を見抜く能力があれば、この車掌を引き抜かない。自分の会社にあいてを引き抜くときには、こういう人を選ばない。
 「急にてきぱき」ということは、車掌としては普通ではない。事務的というのが「業者と顧客」の常識的関係である。人間対人間では違う。
 神経症者は、こうしたある時点での相手の態度の変化から、「この人はこういう人だな」という判断ができない。そして利己的な人を「いい人だ」と思ってしまう。そしてその利己的な人を喜ばそうとして次第に息苦しくなっていく。最後には八方塞がりになって燃えつきて、人生を嘆く。
 たとえば、日頃冷静な人が何か落ち着かない様子だったとする。すると「これは何かある」と普通は思う。しかし神経症者にはそれがない。態度の変化に気がつかない。それは日頃の相手を観察していないからである。
 この人がこう言うということの意味が理解できない。同じことを言っても、日頃から冷静な人の言うことと、日頃からあわて者の人の言うことでは意味が違う。神経症者はそこが理解できないのである。

 神経症は言葉に弱い。極端に言えば、相手が「あなたを愛してます」というと、相手は自分を「愛している」と思ってしまう。相手が「私はこんなに親切な人間です」というと、相手を「親切な人」と思ってしまう。相手の態度や行動や顔を見ていない。相手が実際に何をしたかを見ていない。
 大学で言えば、教授が会議で「私はこんなに熱心に学生の教育をしています」というと、その教授を教育熱心な教授と思ってしまう。そういう立派なことを言う教授が、会議以外のところで実際には何をしているかということを見ていない。「熱心に学生の教育をしています」と言いながらも、実際にしていることは無責任きわまりない教授が大学にはたくさんいる。それを見抜けないのが神経症者である。だから神経症者は、口先だけのおかしな人ばかりに囲まれることになる。


 ◎相手の視線を気にするヒマがあるなら観察しなさい

 次の文章も『オリエント急行の殺人』の前掲の部分に続く一節である。私立探偵のポアロが目を覚まして食堂車にコーヒーを飲みに行ったときの話である。そこに一人の女性客がいた。
 朝食をたべている様子や、給しにコーヒーのおかわりを注文している様子は、落ち着いて、てきぱきしていて、世才に長け、旅慣れていることを物語っていた。薄い、黒っぽい生地の旅行服を着ていたが、車内の暑さからいってまことにふさわしい服装であった。

 言葉ではなく、私立探偵ポアロは相手を観察する。このポアロにそのお客さんが「私は旅慣れていません」と言っても駄目だろう。「朝食をたべている様子や、給仕にコーヒーのお代りを注文している様子」から、この人は旅慣れていると彼は判断するのである。しかし神経症者は、「私は旅慣れていません」という言葉で相手を旅慣れていないと思ってしまう。だから人から騙されるのである。
 神経症者は旅慣れていない人を旅慣れていると思うから、人生がおかしくなってくる。親切でない人を親切な人と思うから、人生がおかしくなってくる。善良でない人を善良な人と思うから、人生がおかしくなってくる。友達でない人を友達と思うから、人生がおかしくなってくる。神経症者は、「僕は君の友達だ」という相手を、自分の友達だと思ってしまう。相手が自分に何をしているかということを観察しない。神経症者は言葉に弱いから、人生に躓くのである。
 そしてもう一つ大切なことがある。それは神経症者のとんだ勘違いである。神経症者は自分が言葉に弱いから、相手も言葉に弱いと思っている。つまり自分が「私は有能です」と言うと、相手は自分を有能な人と思ってくれたと思う。
 しかし多くの場合、相手は言葉で神経症者を判断していない。「私は有能です」と言うときの神経症者の落ち着きのない目を見ているかもしれない。あるいはそれを言うときの不自然な笑いを見ているかもしれない。
 ところでその食堂車のお客さんの描写の続きである。

 彼の判断によると、彼女はどこに行こうと、自分の処置は何の苦もなくできる女である。冷静で、しかも頭はきれる。厳しいほど整った顔立ちや、なんとも言えずやわらかく白い肌の色が気に入った。また、きちんとウェーブがかかって、つやつやした黒い髪や、冷ややかで、どこを見ているかわからない、灰色の眼も気に入った。だが、「かわいい女(ジヨリ・フアム)」と呼ぶにはすこしばかり頭がきれすぎると彼は思った。

 ここまで私立探偵ポアロはチェックする。恥ずかしがり屋の人は、初対面の人と会って紹介されたときに、相手の名前を覚えていないと言う。なぜかと言えば、相手が自分をどう見ているかということばかりが気になって、相手を全く見ていないからである。そのときの相手の服装も、相手の背丈も覚えていない。覚えていないというよりも、観察していない。それに対してポアロは、相手の肌から髪型や髪の艶をはじめ、ここまで観察する。

◎周囲に気を使いながらも孤独になってしまうあなたへ

 ところで食堂車にもう一人の男が入ってくる。私立探偵ポアロはその男も観察する。

 彼の視線が一瞬エルキュール・ポアロの上にとまったが、すぐに関心の色もみせずに通りすぎた。・・・・・・ポアロには、大佐がひそかに“なんだ、ただの外国人じゃないか”と思ったのがわかった。

 もし神経症者がこのポアロのように相手の心を読み取れたら、人生はそこまで苦しくなっていないはずである。神経症者はこのときに相手がニコニコすれば、「あの人はいい人」になってしまう。相手が「お会いできて光栄です」と言えば、嬉しくなってしまう。相手が心の底で、「なんだ、ただの外国人じゃないか」と思ったことを見抜けない。それを見抜いていれば、燃えつきた人も自分を犠牲にして、そこまできずな喪失症候群の人にいい顔をしなかったかもしれないだろう。
 神経症者は、ポアロのように相手の視線から相手を観察できないから、相手が自分を軽く見たということが理解できない。あるいは相手が自分を馬鹿にしているということが理解できない。だから自分を軽く見ている人のために、自分の大切な者を犠牲にするのである。神経症者は、ただすれ違っただけの人に親切にするために、病気の奥さんを働かす。ちょっとお世辞を言った人にいい顔をするために、家族を犠牲にする。
 目線が相手の意志を表していても、神経症者はそれを見てとれない。目線が「お前なんかと一緒に真剣に仕事をしないよ」という意志を表していても、それがわからない。そして相手の「ご一緒に仕事ができるのが光栄です」という言葉に騙される。劣等感が強いから「光栄」という言葉で嬉しくなってしまう。「光栄」という言葉を言ったときの相手の表情を見ていない。
 この推理小説のすぐあとの部分にも、「彼はちょっと迷惑そうな視線をポアロのほうに投げた」とある。神経症者は、相手が「迷惑そうな視線」を自分に投げたことがわからない。だからたとえば言葉で「迷惑でない」と言われればそれを本気にして、相手の迷惑になることをして嫌われたりする。
 神経症者は、相手が無理して言っていることがわからないから、自分では日頃から遠慮をしているつもりでも、人から厚かましいと思われたりするのである。本人はなんで自分が人から嫌われるかわからない。
 神経症者は人からどう思われるかということばかりを気にして、相手の「ちょっと無理した」態度や「ちょっと無理した」言い方に気がつかないのである。だから、人から気に入られたいと思いながらも、結果として人から嫌われることが多い。そして周囲に気を使いながらも、孤独なのである。
 公園で人々が遊んでいるところを観察していて気がついたのだが、何かをするときに、それを楽しんでいる人は、周囲の人と語っている。そして生真面目で生きるのがつらそうな人は、周囲に気を使いながら一人なのである。


 ◎人の目を見ないで生きているのは、地図なしで山に登るようなものだ

 「目は口ほどにものを言う」というが、感情的なことでは目は口以上にものを言う。相手が何者であるかを判断するときには、口よりも相手の目のほうが参考になる。だからこの推理小説でも目がよく出てくる。
 
 ・・・・・・その時の視線には妙な悪意と不自然な緊張がうかんでいたのであった。

 神経症はこの視線の悪意を読みとれないで、口先の歓迎の言葉を信じる。だから人間関係がおかしくなるのである。おかしくなるとは努力が実らないという意味である。神経症者は努力しているのだけれども、どうも自分の望みは叶わない。

 一瞬、ポアロと視線があったが、貴族特有の興味なさそうな無関心な様子で、その視線はポアロの上を通りすぎた。

 これはある老婦人が優雅に頷いて立ち上がったときの描写である。
 神経症者はたとえば相手が口で「まー、懐かしい」と言いながらも、実は相手が自分に無関心なことが理解できない。そこで「まー、懐かしい」という言葉だけで、相手は自分に関心をもってくれたかと思い、相手に好意をもったりする。そして相手のために何か無理をする。それなのに相手から期待したものが返ってこない。すると「こんなにまでしてあげたのに」と相手を恨む。
 「ポアロは非難めいた視線を相手に投げた」。相手が神経症者なら、この非難めいた視線を理解できないだろう。

 だいたい神経症者は、相手の目を見ていない。相手の目を見ないで生きているということは、地図をもたないで山に登ってしまったようなものである。あるいは、目隠しをされて山に登っているようなものである。自分と相手の関係がわかっていないのだから。相手が何者であるかも、相手が何を望んでいるかもわからないのだから。
 ではなぜ神経症者は相手を見ないのか、もっと言えばなぜ相手を観察できなのか。その一つの大きな理由は、自分の本質を隠しているからである。自分が隠していることを相手に気づかれることが怖いから、相手の目を見ない。目を見ないのは、自分のほうに疚(やま)しさがあるからである。
 神経症者は、口ほどにものを言う目を見ていないのだから、言葉の通じない国で生活しているのと同じなのである。しかも自分では言葉がわかっていると思っている。だからあっちでもこっちでもトラブルを起こす。言葉がわからないのだから、途中で肩を叩いてくれた人についていってしまう。
 よく私は授業で学生にビデオを見せる。そしてなにか感想を言わせると、恐ろしいほど何も言えない。つまりいまの学生は表情から何かを読みとる能力がない。たとえば「私は幸せ」と言いながら、顔が無表情の場面を見せても、初めのうちは何も感じない。しかし何回も練習をしているうちに、鬱病者のビデオを見ると「表情に安らぎがない、攻撃的な顔をしている」などというようなことを見抜き始める。


 ◎本音をキャッチしそこねて左遷された男

 ある人の失敗談である。それはある人の還暦記念のパーティーの話である。その人は自分の上司に還暦のお祝いをしたいと申し出た。ところがその上司が、「私はそういうのは嫌いだ」と言った。つまりホテルで華やかなパーティーなどは嫌いだと言ったのである。そして「やらないほうが嬉しい」と言った。その人はそれを真に受けてしまった。
 ちょうどその話をしたときは列車に並んで座っていた。だからそういったときの相手の視線は観察できなかった。しかし当然声の調子、態度、雰囲気から、相手の本音を察知できたはずなのである。その上司の本音は、豪華に還暦のお祝いをしてもらいたかったのである。
 神経症者は、だいたいこうした間違いを日常的におかしている。だから自分では何の悪いこともしていないのに、と思いながらも、人望がないのである。一所懸命しているのに、何事も期待したようには進んでいかない。
 この人の失敗をもう少し考えてみよう。上司は「今さら、パーティー、パーティーと騒ぐな、俺はそんなことには慣れているんだから」といいところを見せたかった。それを見抜けなかったことが一つである。
 さらにこの人が間違っているのは、上司は、聞かれれば、大きなパーティーをしてほしいとは言えない。このようなときには聞かないのが当たり前である。本当にお祝いする気があれば、聞かないでする。この人には「還暦のお祝いをしてあげよう」という心がない。この人は発起人になる立場にあるのだから、聞いたら意味がない。この人は上司に自分の誠意を売り込みたかったのである。それに気がついていないことに大きな間違いがある。
 この人は上司から「小さいほうがいい」と言われて、本当に小さいのをしてしまった。その上司は「軽く見られた」とその人を恨んだ。そのあとのことは想像通りである。この人は左遷されている。
 この人は自分は一所懸命していると思っている。しかしことごとくうまくいかない。そこで周囲を恨んでいる。しかし自分に「こころ」がないということに気がついていない。なぜ左遷されたか、という原因がわかっていない。軽く見られたという上司から感情のつけを払わされたということに気がついていない。
 だいたいこのようなパーティーについて相談されたら、相手に負担をかける。相手に負担をかけないようにしようとしたら「どうしましょう」とは言わない。
 二つのことがそろって、一所懸命ということには意味がある。二つとは、行動と心である。「オレはこんなに一所懸命しているのに、なんでこうなるだ」と周囲を恨んでいる人は、たいてい心のほうがかけている。このケースでも、パーティーをなぜしようとするかという自分の動機についての反省がない。したいという意志はある。


 ◎オーバーに騒ぎ立てる人は、何かを隠していることが多い

 次の文章は先に食堂車に一人でいた女性の、別の場所の、別のときの姿の観察である。

 彼はじっと彼女を見ていた。窓の桟を握っている手もそれほどしっかりしていないし、口唇も震えていた。

 この場合にもポアロは手を見ている。このときの手は感情を表している。彼女が何かに脅えていることを表している。何か大変な問題を抱えているということを表している。もしこの女性が「私には何も問題はありません」と言うと、神経症者は「この人にはなんの問題もないのだ」と思ってしまう。
 だから何事も思うようにいかなくなるのである。期待したことが期待どおりにいかないのである。そして世間を恨んだり、人生を嘆いたりすることになる。最後には、「誰も私のことをわかってくれない」と言うが、逆にわかっていないのは、その人自身なのである。その人が周囲の人を理解していないのである。

 ところで、人を見分けるということはどういうことであろうか。表面の言葉を信じないということである。「大変だ、大変だ」と騒いでいる人が一番大変なわけではない。「苦しい、苦しい」と騒いでいる人が一番苦しいわけではない。「傷ついた、傷ついた」と騒いでいる人が一番傷ついているわけではない
 逆に「傷ついた、傷ついた」と騒いでいる人が、人を最も傷つけていることが多い。深く傷ついても「傷ついた、傷ついた」と騒がない人もいる。黙ってそれに耐えている人もいる。
 「傷ついた、傷ついた」と騒いでいる人は、心が揺れているのである。何かを隠しているのである。整形をして実際の自分の顔を隠しているようなものである。そして見られたくないものを見つかって「傷ついた、傷ついた」と騒いでいるのである。見つかると困るから、騒いでいるのである。
 「苦しい、苦しい」と騒いでいる人が、逆に周囲の人の重荷になっていることも多い。「苦しい、苦しいと言いたいのはこちらだよ」と言いたいことがある。また逆に、どんなに苦しくても「苦しい、苦しい」と騒がない人も多い。
 きずな喪失症候群の人は、実際にはコタツに入ってミカンを食べながら、「苦しいー」と叫んでいる。しかし「苦しいー」という叫びだけが、家の中から漏れてくるので、家の前を通った人は、家の中で人が倒れて「苦しいー」と叫んでいるのだと思ってしまう。
 いつも「苦しい、苦しい」と騒いでいる人は、実際にはそれほど「していない」。仕事にしろ、友達の世話にしろ、子育てにしろ、親孝行にしろ、家のことにしろ、それほど「していない」。
 「苦しい、苦しい」と騒ぐことで、相手を引き留めようとしていることもある。自分の身を守るために「苦しい、苦しい」と騒いでいる。彼らは何もしなくてすべてやってもらいたいのである。安易さを求めているのである。甘えているのである。そのあてがはずれたから、「苦しい、苦しい」と騒いでいる。
 「こうされた」と騒ぐ被害者意識も同じである。自分のほうがやってもらおうとして思惑がはずれたのである。自分で水に落ちておいて、「お前に落とされた」と騒ぐ。そして「それなのに助けてくれない、くやしい」と騒ぐ。
 この「くやしい」も同じである。あまりにも繰り返し騒ぐ人は、自分は何もやっていない。やるだけやったら「くやしい」と騒がない。やるだけやったらあいつはそういう人だったかとわかり、あいつは「もういい」と思う。
 騒ぐきずな喪失症候群の人は、何事にも手抜きをしている。そして騒ぐことで相手を脅かしているのである。自分は実は何もしていないのに「している」と認めてほしいのである。そして認めてくれないから「くやしい」と騒ぐ。


 ◎現実から逃げている人は表面的なものに騙される

 現実から逃げている人は人々の見分け方ができないのである。傷ついている人が傷ついていると見分けられない。そして「傷ついた、傷ついた」と騒いでいる人が、一番傷ついていると思ってしまう。自分がそうだからである。黙ってそれに耐えた経験のある人が、「あの人は傷ついているのに、黙ってそれに耐えている」とわかるのだろう。
 自分が現実から逃げている人は、現実から逃げている人しか理解できないのである。現実と向き合って生きている人のすることが想像できない。
 現実から逃げている人には、現実と向き合って生きている人の真剣さが理解できない。現実と向き合って生きている人の戦いが理解できない。現実と向き合って生きている人の耐えている気持ちが理解できない。きずな喪失症候群の人はすべてが安易だから、人も安易にことをすませていると思う。
 現実から逃げいる人は、一度も真剣に厳しい現実に立ち向かっていないから、厳しさとはどういうものか理解できない。怠けていても、最後には周囲が何とかしてくれる、という甘えで生きている。
 現実から逃げいる人の感情は、不満だけである。もっと自分を愛してくれないという不満だけである。もっと人々は自分に尽くしてくれないという不満だけである。現実と戦って生きている人は、最後にはそういう人から去っていく。
 そこで周囲には現実から逃げている人々だけが集まることになる。「大変だ、大変だ」「苦しい、苦しい」「傷ついた、傷ついた」と騒ぐ人だけが集まる。そういう人たちは、騒ぐだけで問題を解決しようとはしない。だから年をとるにしたがって、悩みは雪ダルマのように増えていく。


 ◎親しい人ができるためには対立を恐れてはいけない

 何か自分の人生がおかしいと感じている人は、自分の周囲に必ず毒のある人々がいる。実際には何もやっていないのに、口先だけで「やっている」と騒ぐだけの人が、周囲にたくさんいる。安易さを求めて、言葉だけが巧みな人に囲まれている。その人たちとの関係を清算しない限り、幸せな明日はない。
 きずな喪失症候群の人は、人を働かせて自分は働かない。人の血を吸うときに元気になる。

 すべての人を喜ばそうとしたあなたは、孤独だったのではないだろうか。本当に親しいという人がいなかったのではないだろうか。誰とも心が触れ合っていなかったのではないだろうか。だから淋しくて周囲の人から好意や関心が欲しくて、誰でも彼でも喜ばそうとした。
 きっと小さい頃、親と心が触れ合わなかったに違いない。その淋しさから付きあう人を間違えた。その淋しさから誰ども彼でも喜ばそうとしてしまった。そして誰でもいいから自分のほうを向いて欲しかった。そして残念ながらあなたのほうに、あなたの望むようなかたちで向いてくれたのは不誠実な人ばかりであった。
 誠実な人も向いてくれたが、それは誠実な関心な持ち方だった。つまり、あなたの抱えている問題を解決することに協力してくれる人たちだった。そこでそういう人とつき合うのは辛かったので、あなたの方から断った。
 あなたが人を喜ばそうとしたのは、お世辞が欲しかったからである。賛美が欲しかったからである。親しい人ができるためには、対立を恐れてはいけない。

 「成功への秘訣はわからないが、失敗への秘訣はわかる、それはすべての人を喜ばそうとすることである」という先の格言をもう一度考えてみよう。喜ばそうとすることは、この場合、例えば相手の喜ぶことを言うということである。相手のためになることと、相手が喜ぶこととは違う。あるいは本当の自分の気持ち、それらを表現すれば、相手と対立することは避けられないこともある。
 人間の感情は、すべて相手に都合よくできているわけではない。ときには感情的に対立することがある。しかしその対立を通して、本当に相手が理解できてくるのである。
 「悪貨は良貨を駆逐する」という格言があるが、あなたの周囲のずるい人は、あなたの周囲の誠実な人を駆逐する。そしてあなたの周囲に残った人はだんだん酷くなった。
 あなたの周囲の毒のある人は、あなたを喜ばすことばかり言う人である。あなたを喜ばして、あなたを利用する。悪貨はきずな喪失症候群の人である。きずな喪失症候群の人と深く関わっていれば、周囲から誠実な人は消える。
 毒のある人を自分の周りに惹きつけたのは、あなた自身なのである。あなた自身の淋しさなのである。あなたが心の奥底で孤独感に苦しめられていなかったら、その毒のある人はあなたの側には引き付けられなかったはずである。あなたは、その人たちの本質を見抜けなかったのである。

◎目標のある人のもとには、質のいい人間が集まってくる

 イソップ物語に「セミとキツネ」という話がある。

 セミが高い木の上で歌っていた。そのセミを食べようと思ったキツネが、セミに「いい声ですねー」と褒めた。そして、「そんないい声をしているあなたが見たい」と言った。そして降りてこないかと誘った。ところがセミは、キツネが自分を騙そうとしていることに気がついたので、「いや、キツネの糞の中に、セミの羽が混じっているのを見たときから、私はキツネに用心しているのだ。私が降りると思うのは間違いだよ」と言った。
 年をとってから孤独になる人がいる。そのような人の中には、自分は人のために尽くして生きてきたと信じている人も多い。だから人を恨んでいる。
 「俺は自分勝手に生きてきた」と思っている人は、孤独になっても別に人々の態度に不満はないだろう。そしてだいたいそういう人は孤独にならない。
 しかし「人のために生きてきた」と思い込んでいる人が、年をとって、気がついたら誰も自分の周囲にはいなかったというのでは、今まで周囲にいた人を恨むに違いない。
 「あんなに子供のために働いて生きてきたのに」と、成長した子どもの態度を嘆いている母親のなんと多いことか。あるいは「部下のために頑張ってきたのに、冷たい」と、昔の部下の態度を恨んでいる年寄りのなんと多いことか。
 それらの人たちも、実はセミの賢さがあれば、嘆き悲しんだり、人を恨んだりすることはなかったのである。なぜなら、「この人たちは自分が今こうしていても自分が弱くなったときには自分を助けない」とわかるからである。そして「自分の世界」をもてばよかったのである。そうしたら、自分を取り巻く人間関係は変わっていた。
 「自分の世界」をもって生きれば、人に対する恨みはずっと少なくなる。自分も「自分の世界」で生ききたのだから、人を許せる。実は「あんなに子供のために働いて生きてきたのに」と成長した子どもの態度を嘆いている母親は、「自分の世界」をもてない女だったのである。それが母親にはわかっていない。自分の世界をもてないような女だから、子どもがそのように育ってしまったのである。
 また自分の世界をもてないようなビジネスマンだから、部下がそうなってしまったのである。「自分の世界」をもって生きれば、集まってくる部下も違ったであろうし、また部下自身もその上司にふさわしい部下に変わっていったのである。
 自分の世界をもてるようなビジネスマンなら、もっと質のいい部下が周囲に集まっていたに違いない。自分の世界をもてないようなビジネスマンだから、部下の質を見抜けなかったのである。また部下の質を高められなかったのである。
 気がついたら全員嘘の人に囲まれていたという人は、人を恨む前にまず自分自身を反省することである。こちらの喜びそうなことを言って、自分の周囲に集まってくる人を見抜けなかった自分の質の悪さである。キツネの糞を見ても、すべてのセミがそこにセミの羽が混じっていることを見ているわけではないだろう。
 自分の世界をもつということは、自分の目標をもつということである。自分はこうなりたいという目標に向かって生きていることである。カレンダーのような生き方をしないということである。目標がなくて毎日が規則正しい人が、自分の世界をもっていない人ということである。カレンダーの行事だけで生きているような人である。十月三日は学芸会という生き方である。それ以外には何もない。五月の十日は保護者会というような生き方である。


 ◎あなたが自分を隠せば、相手も真の姿を見せない

 いくら嘆いてもこの世の中にはずるい人がいる。そういう人と接しないで生きることはできない。そこでもう一つイソップ物語からそのつき合い方の方法を学びたい。
 イソップ物語に「ライオンとワシ」という話がある。
 
 わしがライオンのところに飛んできて、仲間になりたいと言う。すると、ライオンは次のように言う。
 「それはいいですよ。でも、あなたが約束をやぶらない証拠に、そのつばさにある長い羽を私に預けてください。地面の上にいるのでなければ、友だちになれないですから」

 どちらもずるい。ワシもライオンもきずな喪失症候群である。相手から何かを得ることを考えている。ワシに引っかかるのが燃えつき症候群の人である。きずな喪失症候群の人はきずな喪失症候群の人に騙されない。

 年をとって悩み悩み抜いた人がいた。彼は自分を飾りに飾って生きた人である。彼は死ぬときに誰も信用していなかった。自分の周囲に信頼できる人が誰もいないことを、彼は嘆き悲しんだ。自分の運命を呪うようにして死んでいった。
 しかし考えてみると、彼の人生が特別に不運であったわけではない。彼の周囲に誰も信頼できる人がいなかったのは、彼が虚構の人生を歩んだ結果である。彼がもし裸になってみれば、彼の周囲にも信頼できる人が集まったかも知れないのである。自分は人に実際に自分の姿を見せない。それでいて人には裸になることを要求する。
 自分を守ることばかりしていて、なんで人が信用してくれるだろうか。彼は息子を働かせて家を建てた。しかし家の名義は自分の名義にした。通常であれば相続のことを考えて逆である。自分が働いて家を立てても息子の名義にしたいと思う。しかし彼の場合は逆で、息子のお金で家を建てて自分の名義にしたのである。彼は息子さえも信用しなかった。ところが彼は息子に自分を信用するように要求した。
 ワシのような真似を私たちはよくしている。自分は立派でない上司でありながら、部下には立派な部下であることを要求する。そして自分の部下が立派でないと言っては嘆く。自分のことばかりを考えている上司が、信頼のおける部下を選んでも無理である。
 仲間になりたいという言葉は、耳ざわりがいい。人は誰でも淋しいから、このような言葉に負けてしまう。そして最後に酷い目にあわされるのである。 美しい愛の言葉を並べて近づいてくる人には、このライオンの態度が必要である。
 ところで、毒のある人との菅家を終わらせるときには、自分でその毒のある人々に直接対決すること、と『毒のある人々』の著者は述べている。私もそれには賛成である。いやな人との関係を終わらせようとするときに、ついつい曖昧に終わらせようとする。あるいは人づてになんとか伝えようとする。煩わしさを避けようとして、手抜きの処理をする。しかしそれは間違いである。
 あなたが毅然とした態度をとることで、相手は気がつくのである。もうこの人は自分の食い物にはならない、と相手は諦める。あなたが、自分は燃えつき症候群だと思うなら、きずな喪失症候群の人とは直接対決することである。
 相手を喜ばそうとするとすることは、相手の食い物になるということである。だからすべての人を喜ばそうとすれば、必ず人生は行き詰まる。神様ならいざ知らず、生身の人間がすべての人を喜ばそうとしたら、悲惨な結果は目に見えている。
 それだけ、この世の中には子羊の仮面をかぶった狼が多いということである。狼はこちらが餌になって食べられなければ喜ばない。あなたが卑怯者の食い物になって満足だというなら、狼の餌になればいい。

 第4章―親しさは、時間と努力の積み重ねから生まれる 

 ◎インスタント時代の若者のつき合い方

 世の中に不満分子と言われる人々がいる。努力はしないが要求の多い人たちである。人間関係では、何よりも誠実さに欠ける。そのときどきでつき合う人が代わり、心を打ち明ける親しい友達がいない。
 そして何をしていても「重い」。食事をしていても重い、お茶を飲んでいても重い。
 そして人間関係にしろ、仕事にしろ、「時間をかけてじっくりと」ということが、ことのほか不得手な人たちである。それがきずな喪失症候群の人である。きずな喪失症候群の人を一口で言えば、「不満な傍観者」と言ってもいいかもしれない。
 それは、成熟する時間を失ったインスタント時代が生み出した人々である。現代はお祭りやパーティーをするのも、料理を作るのも、じっくりと時間をかけない。
 恋人へのプレゼントはデパートで買った高価なものがいい、という感覚の人々で満ち溢れている。恋人へのプレゼントは、時間をかけて自分が編み物をするというのではない。写経とコピーの違いが理解できない人々である。時間をかけて自分が作るから、そこにそのプレゼントの独自性が生まれ、そのプレゼントの独自性が生まれ、そのプレゼントの中にその人の心が生まれる。そのような面倒なことは嫌いな人々である。
 よく教育には時間が必要と言われるが、人間の成長にも時間が必要である。きずな喪失症候群とは、愛と同時に、成熟の時間も奪われた人々である。
 小さな子供はオタマジャクシに興味をもち、次に昆虫を飼おうとし、次は鳥に興味を移し、大きくなれば犬を飼いたいと思う。そして興味は犬から友達になる。人は相手を思いやりながら、相手と触れていきながら、成長していく。だから友達に対する思いやりの心が出てくる。
 オタマジャクシと昆虫と鳥と犬と友達が、自分の心に取り入れられて、子供は心理的に成長していく。難しく言えば、そのような「同一化過程の重層化」を経て子供は成長していく。オタマジャクシと心ゆくまで遊び、昆虫と心ゆくまで遊ぶから、子供は成長していかれるのである。それが成熟の時間である。
 本来、人はそのときそのときにふさわしい対象と居心地のよい関係を結びながら、成長していく。そうして心理的に成長して、仲間ともうまくつき合える人間になっていくものなのである。ところがインスタント時代の若者はそうして成長しないから、人とのつき合いに必要な人間の幅が出てこないのである。
 母親との関係も同じである。今は、子供は母親が時間をかけてつくった薬で治るのではない。子供がお腹が痛いと言えば、医者が「いい」と言った薬をあげる。
 薬をあげれば母親は、あとは明日のパーティーの服装を何にしようかと考えている。それでも「いい」薬をあげたからもう「いい」と思っている。これでは子供は、母親を自分の心の中に取り入れることはできない。今の子供はオタマジャクシから母親まで、心に取り入れることができない。


 ◎「豪華さ」で愛情を計る恋愛

 こうした時代が産み出したきずな喪失症候群の人は、欲はあるが情のない人々である。情がないから他人への優しさはない。どこまでも自分、自分で、自己執着の人である。本居宣長の言葉を借りれば、ものの哀れを理解しない人々である。
 クリスマスのデートには「レインボー・ブリッジをドライブして、ホテルで食事して・・・・・・」というイブの過ごし方をすれば、それが「すごく格好いい」ことになる時代の落とし子である。彼らには、いかにお金がかかって、すごい場所でクリスマスをするかが大切なことになる。
 雑誌に載っているデートの成功例に倣って、自分もそのままを真似てデートをする。ホテルで豪華な食事に誘われたほうも、その豪華なことで「彼はきっと私を好きなんだわ」と思う。
 一番肝心な、「相手といるときに楽しいか」「相手が好きかどうか」ということが軽んじられる。好きとか、触れ合いがないままに「かたち」が優先する。だから今の人々は虚しいのである。
 クリスマスには、別にホテルで食事をしなくても屋台でもいいのである。楽しい会話があれば、それが二人のクリスマスの思い出になる。
 インスタントの時代は、何をしてもそこに「人の心」が介在していない。だから何をしても虚しいのである。「綺麗な部屋」というと、文字どおり綺麗な部屋で「子供は入れない」となる。子供は部屋を汚すからである。「綺麗な部屋」というのは、自分の心が綺麗になる部屋という発想がない。すべてがそうである。子供にオッパイをあげると胸のかたちが崩れるからオッパイをあげない、という母親のような発想なのである。
 台所を綺麗にしましょうと言うと、これまた綺麗にするが、料理をしない。綺麗な台所とは料理をしたくなる台所という発想がない。何を言っても、そこに「心」がイメージされていない。美味しい料理というと高級レストラン、という発想である。相手の体調を見て作る料理ではない。

 難しく言えば、きずな喪失症候群とは、日々の体験が「自然な連続性」を欠いている人々である。自分の好きな本をじっくり読むということがない。あちこちから携帯電話がかかってくるせわしない生活である。こうしたインスタントの時代の中で、一つ一つの日常経験は厚みを失う。かくて現代は、大量のきずな喪失症候群を生み出している。


 ◎なぜ霊感商法に引っかかりやすいのか

 きずな喪失症候群の人は、すべてが安易、というのが特徴である。何をするのも安易である。悩みを解決するのにも安易に解決しようとする。何事が起きても安易な解決方法を求める。何か本を一冊読んだだけで解決することを期待したり、誰かに会ったらそれで悩みが解決することを期待したりする。
 肉体的な健康も安易に手に入ることを願う。だから病気の治療も安易なことでしようとする。霊感商法などに簡単に引っかかる人々である。
 私のところに来るきずな喪失症候群の人は、たとえば私の本を読んで「おかげさまで私の神経症は治りました」と書いてくる。しかし読んでみるとまだまだ神経症者なのである。
 きずな喪失症候群ではない人は、「神経症は少しずつでも自分で治していきます」と書いてある。神経症を治す、ということを安易には考えていないということである。
 きずな喪失症候群の人は、同じように人間関係も安易に築けることを期待する。人から信頼される、ということもすぐにできることを期待する。お金を得るのも安易な方法を期待する。
 したがって仕事の仕方も安易である。安易なことをしながらも、社会的な成功を要求する。つまり、人生に「魔法の杖」を期待するのである。ここに現実感覚の欠如という問題が出てくる。
 「愛する」ということも安易に考える。すべての言葉に現実の重みがない。だから「人類を愛すること」はできるが、隣人を愛することはできない。

◎目に見えない努力の結果として信頼関係がある

 人から受けた好意も安易に考える。自分が努力していないからである。幼稚園を始めたばかりの園長さんが、「もう、簡単に人を紹介するのはやめました」と相談にきた。
 ある園児の母親が園長に「かくかくしかじかの人を紹介してくれ」と頼んできた。その園長は紹介してあげた。
 詳しいことはプライバシーに触れるので書けないが、その母親から相手先に「ミカンを送っておけばいいですか?」と簡単に言われたのである。その母親の態度で園長はショックを受けたのある。
 その母親はきずな喪失症候群の人である。だからその園長と紹介先の人とが長い年月をかけて、見えない努力の結果として信頼関係を築いてきているということが理解できない。
 その園長はその人との信頼関係を八年間かけて築いていた。ある小学校の説明会で、その学校の部長であったその人の説明が見事であることに感動して手紙を書いてから、八年間である。その間一度も会おうとしなかった。手紙だけはいつもしっかりと出すが、会ってはいない。だいたいこうした状況の時に、すぐに会おうとする人で信頼できる人はまずいない。園長は秋には毎年マツタケを送っていた。その態度にその人は信頼をした。信頼関係ができていた。その他諸々のことがあって、目には見えない努力の積み重ねで、信頼関係ができていた。
 その園長は「私がここまで築いた信頼関係を安易に使われた」と嘆いた。きずな喪失症候群はこういう人である。相手の大切なものを安易に使う。
 自分が苦労して人と信頼関係を結んでいないから、人がどのくらい苦労をしながら信頼関係を結んでいるかが理解できないのである。そしてその母親は、またすぐに次の人への紹介を頼んできた。もちろん園長は断った。するときずな喪失症候群の母親は園長を恨む。
 きずな喪失症候群の人は何事もそうであるが、紹介されるということも重く受けとめない。人を紹介するということは、それ以前の陰ながらの努力と、その時点での努力と、紹介後のフォローと、時間とエネルギーとお金を使う大変な作業なのである。
 きずな喪失症候群の人は、それだけの苦労をした後で紹介されながら、ある時点で、「あー、いいや」というようなことを平気で言う。相手がそのことでどれくらい迷惑を被るかは考えない。
 つまりきずな喪失症候群の人は、何かを頼むことも安易なのである。頼んだあとの始末も安易なのである。人の気持も、人の陰ながらの努力も考えない。安易、安易、すべてが安易である。一に安易、二に安易、三、四がなくて、五に安易である。
 自分が人のことをしたことがないから、相手が自分のためにしてくれたことの意味がわからない。やってくれたことの「深さ」がわからない。そこにどれだけの思いが込められているかがわからない。「お願いします」がどれほど大変なことかをわかっていない。実際に人を紹介する労をとった人は、そう簡単に「お願いします」とは言えない。それが大変なことだとわかっているからである。
 きずな喪失症候群の人は「人のことをしたことがない人」である。だから相手の心がわからない。人に紹介はしてもらっても、自分が紹介の労をとったことがない。だから自分が紹介されたときにどう対応していいかわからないのである。会うまでの段階と、会ってからの後始末がわからない。


 ◎水をやっていないと花は咲かない

 きずな喪失症候群の人が人の心を理解できない一つの理由は、「人のことをした経験」がないからである。すべて「してもらう」ことだけを考えて生きてきているからである。花に水をやっていないと花が咲いていることに気がつかない、のと同じである。きずな喪失症候群は、人のための努力をまったくしない人である。
 子供が怪我をした。他の人が救急ばんそうこうを持っていた。すると「あってよかったわね」ですんでしまうお母さんが、きずな喪失症候群である。
 私もこの園長先生のことを軽率だ、などと偉そうなことは言えない。アメリカの大学のかくかくしかじかのところに紹介してくれ、と日本から言われる。時間とエネルギーとお金を使って、なんとかアレンジする。すると日本から簡単に「行けない」という連絡が入る。それよりも、こちらから連絡をしてそれがわかることさえある。
 きずな喪失症候群の人の依頼には動いてはいけない。あなたが長年にわたって培ってきた信用を一気に台無しにされる。
 亡くなられた松下幸之助氏が、ある人のお金の依頼に、五回来たら出してあげようと思っていたが、その人は三回だったのでやめていたという話を聞いた。きずな喪失症候群の人の依頼に痛い目にあっているのだろう。
 とにかく、きずな喪失症候群の人は、せっかくある人が築いた信頼関係を平気で壊してしまうような人である。
 私のところにもきずな喪失症候群の人から手紙がたくさんくる。そして「苦労している」と書いてある。しかし苦労はしていない。頭で苦労したと思っているだけで、人のことを責任をもってしたことがない人たちである。苦労していればこうした手紙は書かないと思える人たちばかりである。
 「苦労した」と書いてくるが、要するに自分が得するためのことで苦労しているのである。そして表面の目に見える努力しかしていない。目に見えない努力で人との信頼関係ができる、ということがわからない。「築き上げる」ということが理解できない。
 きずな喪失症候群の人は、無茶苦茶な要求が多いのが特徴である、と書いた。それは自分が人のことを何もしたことがないからである。自分が人のことをしていれば、そんな酷い要求はできなくなる。そして人が何かをしてくれれば「ありがとう」になる。
 誰かがテーブルの上に水をこぼした。自分の綺麗なハンカチで拭いた。本当はそのハンカチでは拭きたくなかった。その経験があるから、人がこぼれた水をハンカチで拭いたときに「大丈夫ですか?」と、相手の気持ちを思いやれる。相手はそのハンカチにいろいろな思い出があるかもしれない、と思う。
 

 ◎自分では何もしない人は、相手の苦労が想像できない

 きずな喪失症候群の人は、人のためには指一本動かさない。だから要求、要求、また要求になる。「要求の多い人は、人のことをしていない」、世の中を観察していればこのことの正しさは理解できるだろう。
 隣人から「水道の水が止まったから、水をくれ」と電話で頼まれた。そこで、バケツに水を入れて、腰痛なのに水を持っていってあげた。そういう人は、今度自分の家の水道が止まったときに「水を持ってきてくれ」とは言わない。「水をくれ」と頼まれたときに断って逃げた人が自分の家の水道が止まったときに「水を持ってきてくれ」と隣人に要求する。
 はじめに、きずな喪失症候群の人は要求の多い人であると書いた。何を頼むときにも、自分と相手の立場を置き換えて考えられない。自分がもしこのようなことを要求されたらどう思うか、ということを考えない。きずな喪失症候群の人は、要求一方である。もしこんなことを自分が頼まれたら大変だな、と考えられれば少しは態度が変わるのだが、それがない。
 相手にとんだことを頼んでいても、それを意識しない。それを頼まれたために相手がどれほどのストレスになるかなどとは考えない。極端に言えば、きずな喪失症候群の人は、人を殺していても殺していないと思っている。嘘をついてばれていてもばれていることに気がつかない。だから嘘がばれていても平気である。
 相手と自分を置き換えられないということは、つまり相手がいないということでもある。話し合いがない。感情の交流がない。自分が「晴れ」と思えば、雨が降っていても晴れなのである。それは「雨だなー」という感情の交流がないからである。


 ◎親しい友人ができない原因は「甘ったれた生き方」にある

 たとえば、きずな喪失症候群の人が、テニスをしようかどうしようかを考えているとする。するとウィンブルドンの選手のところに「テニスのラケットを買いたいのですけども、どこがいいでしょう?」と手紙を書くような人である。
 この人は本当にはテニスをしたくないのである。ウィンブルドンの選手に絡みたいのである。テニスのラケットを売っているお店に行って聞けばいいことを、ウィンブルドンの選手に聞く。
 そして「どうしてもあなたに聞きたいのです」というような台詞を手紙の初めに書く人である。そして「何の面識もないのに、いきなり手紙で、こうした相談を持ちかけるのはとても非常識であると思います。本当にどうもすみません」と書く。では聞かないかというと、必ず「でも」と続く。そして「どうぞ、アドバイスをしてください」となる。この厚かましさ、ずうずうしさが、きずな喪失症候群である。「テニスをするにはやはりテニスの学校にいく必要があるのでしょうか?」など聞いてくる。
 そして「私はあなたのファンです」と、自分はあなたに質問する権利があると主張してくる。これがきずな喪失症候群である。自分とウィンブルドンの選手との関係がわかっていない。
 そして「テニスがうまくなるにはどうしたらよいのでしょうか、簡潔に教えてください」となる。最後には「返事は五月末までにお願いします。自分勝手で大変申し訳ありません。好きな人間とテニスをする都合があるので、是非返事の期日を守ってください」となる。
 お風呂屋さんに行って、風呂代を要求されたとする。きずな喪失症候群の人は「えー?入ってあげるんですよ」と言う人である。そして石鹸も何も持ってきていない。そして「お風呂屋さんて、体を綺麗にするところでしょー」とお風呂屋さんに抗議する。
 うつ病になるような人は、人と対立することを嫌う。執着性格なども、人と対立することを嫌う。燃えつきる人は、人と対立することを嫌う。八方美人なども、もちろん人と対立することを嫌う。ところがこのきずな喪失症候群の人は、対立することを嫌う人を狙う。そしてそこから利益を得る。甘い汁を吸おうとする。甘い汁を吸いながらも、甘い汁を吸っていることに気がつかない。
 こうした生き方だから、きずな喪失症候群の人の人間関係はうまくいかない。親しい人ができない。仕事の上でも、人間関係でも、家庭でもトラブル続出である。しかし問題は個別のトラブルそのものではない。その個別のトラブルの奥にある「いい加減な生き方」「安易な考え方」が原因である。


 ◎トラブルを起こす宗教集団が与えてくれる偽りのきずな

 社会的問題を起こす宗教集団に入りやすいのも、きずな喪失症候群の人である。そこは安易に偽りのきずなを与えてくれる。人間は、偽りのきずなでもきずなが必要なのである。
 だから心理的に問題を抱えた人は絡むのである。絡む人はきずなを求めているのである。安易に人とのきずなを作れると思っている。私のところに来るきずな喪失症候群の人の手紙は、私に絡んでくる。
 とにかく社会的問題を起こす宗教集団は、偽りのきずなを与えてくれる。新興宗教の事件が報道されると、多くの人は、それは自分たちの世界とはまったく違う世界の出来事と思いがちである。しかしそうでもない。多くの家庭や学校や会社でも同じことが起きている。もっと言えば、家庭でも学校でも会社でもやんだ集団なら、その程度に応じて共通している心理がある。

 そうした病んだ集団に共通した特徴とは、安易さとか過大な要求ということの他になんであろうか。その一つは集団の中で尊敬されている人が「とんでもない人」であるということである。
 普通の心理的に健康な人の感覚からすれば「とんでもない人」が、その集団全員の尊敬を集めている。
 人を食い物にして生きているような悪辣な人が「偉大な人」になっている。愛のない人が「偉大な人」になっている。宗教集団で言えば、教祖に当たる人である。
 自分が現実の世界で苦労して経験を積んでいないから、口先の人を口先だけの人と見抜けないのであろう。実際に努力していたら、きれいごとを言う人を見て、「あんなことを簡単には言えないよ」と考えるはずだが、努力していない人にはそういう発想がない。
 私は、祖父母を中心とした私の一族は、かなり心理的に問題のある一族であると思っている。そしてその一族をそこまで心理的に荒廃させた張本人は祖母だと私は信じている。ところが、やはりそのとんでもない女である祖母は、我が親族の中では「偉大な祖母」として神聖にして侵すべからずな存在なのである。
 では会社であれ、家庭であれ、なぜそのようなとんでもない人が崇拝されてしまうのだろうか。それは信じる人たちの心理的な問題でもある。それは、価値剥奪をされた自我が、その「偉大な人」に同一化することによって自分の価値を勝ちとろうとしているからである。価値剥奪された者の、価値付与の過程で起きる心理現象である。
 だからこそ、母親から愛されない人が母親に固着するのである。つまり母親に価値剥奪された結果として、自我は自らに価値を付与しなければならない。
 現実の自分の母親でなくてもいい。宗教集団の教祖であってもいいし、政治思想家であってもいいし、会社の上司であってもいい。配偶者であってもいい。相手に心理的に全面依存し、それによって自分の価値を感じようとしているのである。
 人は、自分は求められない存在であるという、自分への失望から深く傷つく。そして強大な人々に同一化することで、失望によって傷ついた心を回復しようとしているのである。

◎親しい人間同士は適切な距離をとっている

 きずな喪失症候群の人の次の特徴は、厚かましさである。ずうずうしさである。人は関係の中で行動している。親しい人は親しい関係で行動している。
 たとえば、二十年のつき合いの中で信頼関係を築き上げている編集者とは、言わなくてもいいことがある。電話一本で済ませていいことがある。
 それを初めての編集者がやろうとする。そこで著者は厚かましさを感じる。こちらの感情から言えば厚かましい編集者であるが、もう少し抽象的に言えば、適切なかかわり方ができない編集者である。きずな喪失症候群の人は、人に対して適切な距離をとれない。
 適切な距離がとれないとは、相手との間に共同性をもっていないということである。相手と共通の感覚をもっていれば、相手に対して適切な距離がとれる。共通の感じ方ができれば、相手は「厚かましい」とは感じない。きずな喪失症候群の人は心理的共通性を基礎とした共同体の中で生きていないのである。

 そしてきずな喪失症候群の人は嘘つきで、怠け者である。燃えつきる人が正直で努力家なのと正反対である。正直者が馬鹿を見るという言葉が当てはまるのが、きずな喪失症候群の人と燃えつきる人との関係である。
 そしてきずな喪失症候群の人は、嘘をついて人を陥れることもする。はめられるのが燃えつきる人で、はめるのがきずな喪失症候群の人である。相手からいいように操作されてしまうのが燃えつきる人で、相手をいいように操作しようとするのがきずな喪失症候群の人である。
 燃えつきる人ときずな喪失症候群の人は、情がないということでは同じなのであるが、きずな喪失症候群の人には燃えつきる人にある生真面目さがない。


 ◎愛を知らない人は不満の種がつきない

 きずな喪失症候群も、燃えつき症候群の人と同じように悩み多き人たちである。はたから見ると、なんでそんなに身勝手なことばかりしながら悩んでいるのかと思うが、本人は悩んんでいる。要求がすごいのである。何度も言うように、母親以外の人に「母なるもの」を求めるから、不満になる。これといった特定の悩みの原因が問題であるというよりも、もしろ愛を知らないということが真の問題である。
 お金がないとか、失恋したとか、試験に落ちたとか、上司に裏切られたとか、なにか特定の原因で悩んでいるように見えるときでも、それが真の問題ではないということが多いもちろんそれらのことで悩んではいるが、真の問題はその奥にある。生きることそのことが辛いというのが、きずな喪失症候群の特徴である。
 つまり、基本的な愛情飢餓感の問題である。失恋は普通の人にとっても辛いことである。しかしきずな喪失症候群の人は、生きることそのことが辛い上に、さらに失恋という悩みが加わるという感じなのである。だから些細なことでも「辛い、辛い」と大騒ぎする。普通の人から見ると、辛いのはわかるけど、なんでこんなことでそこまで辛いのかということである。
 最近「キレる」ということがよく言われる。この「キレる」若者がきずな喪失症候群である。今述べたごとく、生きることそのことがなんだか苦しいのである。生きることは楽しくはない。
 生きることそのことで、コップの水がいっぱいになっている。そこに一滴の水が注がれてこぼれる。はたから見ると「なんであんな些細なことでキレるのか」と思うが、今述べたような理由で、きずな喪失症候群の若者から見れば、その些細な事柄が「キレる」には十分な出来事なのである。
 愛情飢餓感が強いから要求がとんでもないのである。非現実的というか、めちゃくちゃというか、とにかく身勝手なのである。その要求は社会の中では当然通らない。そこでいつもイライラしている。だから何かあるとすぐに「キレる」のである。

 自分が一メートルの棒を持っている。そして自分の家のリンゴの木からリンゴをとろうとしている。しかしリンゴは二メートルのところにある。すると「けしからん!」と怒るのである。そしてこのリンゴの木に不満になる。
 そこで隣の家に行った。すると隣の家のリンゴの木には三メートルのところにリンゴがあった。すると今度は隣の家の人を恨むのである。すべてのリンゴは自分の一メートルの棒でとれなければいけないと思い込んでいる。
 きずな喪失症候群の人は、道を知らないタクシーの運転手が「世の中けしからん」と言っているようなものなのである。私はこの間そういうタクシーに乗った。「世の中けしからん」と言うのもいいが、自分の職業に必要な道の知識くらいはもってくれ、とかかわった人としては言いたい。
 しかし私のところに来る手紙は、この類の手紙が多い。「世の中けしからん」と書いているのだが、手紙の封筒には宛名の住所がきちんと書いていない。たとえば「東京都 早稲田大学」とだけある。新宿区も書いてない。もっと酷いのは、東京都さえも書いていない。その上で、切手の料金が不足してる。実は悩んでいる人の手紙は、切手の料金不足が多いのである。


 ◎出世はしたいが責任はイヤという虫のよさ

 きずな喪失症候群は、次のような人である。子供は欲しいけど子どもを産む苦しみはイヤだ、子供を育てる苦しみもイヤだ、というようなことを言っている人たちである。きずな喪失症候群の人が子供と言っても、それはあくまで自分に都合のいい子供である。子育ても安易に考えている。
 大きな家が欲しい。でも家を綺麗にするために働くのはイヤだ。実際にそういう人はたくさんいる。たまたま親の遺産で大きな家に住んでしまう人もいる。そして大きな家は大きな家で管理維持費が大変である。税金も高い。しかしその多額の管理維持費を払うのはイヤだと言う人である。
 そして「辛いー、辛いー」と言っている。しかしその家に住みたいと言ったのはその人なのである。子育てが「大変だ、苦しい」と言うが、子どもが欲しいと言ったのはその人なのである。
 出世はしたいが、それにともなう責任はイヤだというのである。ポストを求める。そしてそのポストを得たとする。そしてそのポストにともなう責任を要求される。すると「醜い人たちだなー」と人を恨みだす。誰もその人に部長になってくれとは言っていない。部長になりたいと願ったのはその人なのである。
 官僚になる。それにふさわしい倫理を求められる。すると心の底では「そんなのイヤだ」と思っている。だからあそこまで平気でどんどん汚職する。この腐敗した官僚群が「キレる」若者と同じように、きずな喪失症候群なのである。
 官僚になったのは自分なのである。官僚になりたいと望んだのは自分なのである。責任はイヤ、しかし接待はされたい、というのがきずな喪失症候群である。
 自分のほうから接待を要求するのがきずな喪失症候群系の官僚であり、別に悪いことをしていないのに自殺するのが燃えつき症候群系の官僚である。


 ◎火をつけておいて、消防署を責める人

 先日ある市の教育委員会の夜の講演に出かけた。その講演が終わってその日のうちに私は東京に戻らなければならなかった。主催者が新幹線の駅まで送ってくれた。すると車を降りたところに講演を聴いた人が、サインをしてほしいと待っていた。東京に戻れる最後の新幹線の時間が迫っていて、私は急いでいた。
 彼は平気で私に本を突き出した。私は長年の勘で「この人はきずな喪失症候群の人だ」と感じた。
 私は重い鞄を持っていた。そこに立ったままでサインをしなければならない。立ったままで本にサインするには両手が必要であるが、私の手は塞がっている。
 しかし彼は平気である。そこで彼に「この鞄を持ってくれる?」と言ってみた。すると私の予想する答えが返ってきた。「いいですよ」。鞄を「持ってあげる」と言ってきたのである。
 そもそも彼が鞄を持つのは、自分がサインをしろと要求したからである。きずな喪失症候群の人は、原点を無視してすぐに立場が変わってしまう。いつのまにか相手が「すみません」と言わなければならないような態度をとりだすそして「辛いー、辛いー」が始まる。
 これでもし私が燃えつき症候群系の人だと、新幹線に乗り遅れて、しかもその人に「すみません」と謝って物事が終わる。燃えつき症候群との関係においては、きずな喪失症候群の人は自分の身勝手な要求を通して、しかも相手に謝らせる。その上で「辛いー、辛いー」と言うのである。
 きずな喪失症候群の人は、自分が火事を出しておいて、消防署の消し方が悪いと言って消防署の人を責める。常に原点を忘れる。
 自分が焚き火をしていて、火が広がったので、隣の奥さんが水をかけてくれた。そこで焼き芋がダメになった。すると、焼き芋が食べられなくなったと水をかけてくれた奥さんを責めるのがきずな喪失症候群である。なぜ水をかけたかという原点を忘れている。
 マッチポンプもきずな喪失症候群の人である。そもそも誰がマッチを擦って燃やしたのかということを忘れるか、隠すかする。
 きずな喪失症候群の人はいつも不満である。そして不満だけれども行動はしない。不満を表明して、恨みをもっている。言うことは人の悪口、行動は人の足の引っ張ること。努力をしない。いわゆる放蕩息子などというのも、きずな喪失症候群である。

 そして自分を守ることにばかり関心があるから、自分の頭で考えない。自分の頭で考えて、本当のことが見えてきたら、そのことが必ずしも自分に都合がいいわけではないからである。自分の安全に都合がいいことが「いいこと」になる。自分を褒めてくれる人が「いい人」になる。自分を守ることがいいことだから、本当のことを知ろうとしない。

 第5章―「心」をもたない人からは逃げなさい

 ◎ずるい人間は弱い人間を瞬時に見分ける

 次に、きずな喪失症候群の人の人間関係をもう少し考えてみたい。きずな喪失症候群の人が、相手とどういう人間関係を結ぶかである。何度も説明しているように、もちろん信頼関係はない。
 きずな喪失症候群の人はずるい。弱い人を瞬時に見分ける。そして弱い人の隙をついてくる。弱い人、人にいつも気に入られたいと思っている人、つまり燃えつきるような人は、きずな喪失症候群タイプの人の要求を通すために努力し、そして消耗して死んでいくのである。
 私の周りにも、若くして死んだ何人かの高名な学者、文化人などと言われる人がいた。皆燃えつき症候群タイプである。きずな喪失症候群の人に、食い荒らされて消耗して死んでしまった。
 燃えつき症候群で死んでしまった人には、日常的に周囲にきずな喪失症候群の人がいた。それがきわめて身近な人たちである。同僚であったり、友人であったり、親族であったり、配偶者であったりする。また彼らは非日常的なことにおいても、きずな喪失症候群の人の要求に負けてしまっていた。人生で努力しながらも不幸になっている人は、まず自分の周囲にいる人を、しっかりと見ていない。
 たとえば、きずな喪失症候群の人が講演を頼んでくるとする。彼らは極端に安い講演料で講演会を開こうとする。すると、たとえばその早死した高名な学者のような人のところに依頼にいく。
 そして日にちもテーマもすべて決めたところで、講演料の話を出す。しかもこれは公共性の高いものだからという合理化までついてくる。引き受ける義務があるように感じさせる。評判が悪くなることを恐れる高名な学者たちは、講演料のことで断りにくいことを知って、である。
 きずな喪失症候群の人は相手の「優しさ」とか「責任感」とか「人から気に入られたいという気持ち」とか、相手の弱みをついてくる。「ずるさは弱さに敏感である」というように、ずるいきずな喪失症候群の人は相手の弱さをついてくる。
 官僚が業者に接待を要求していた、というようなことがよく報道される。そのような報道が正しいかどうかいちいち確かめていないが、私はそういうことはあるだろうなと思う。きずな喪失症候群の官僚は相手の弱みをついてくる。
 だからきずな喪失症候群の人をしっかりと見抜く能力をつけることは、生真面目な人にとっては、大切な能力である。この能力なしに社会の中で生きていくことはあまりにも辛い。
 その高名な学者たちの場合で言えば、周囲にきずな喪失症候群の人に振り回されて消耗して死んでしまった。もちろんきずな喪失症候群の人たちは、お葬式にも来ない。
 私に言わせれば、堂々と断ればいいのである。依頼してきたきずな喪失症候群の日おtのほうが、はるかにずるいのであるから。ずるい人に気が引けることはない。しかし燃えつきる人はずるい人にさえ悪く思われることを恐れる。
 誠意のある人は講演料が安いときには、必ず安い講演料の話を先に出す。「安い講演料なのですけれども・・・・・・」と話を始める。私は三十年以上講演をしているが、安い講演料の話を最後に出す人で誠意のある人は一人もいない。皆きずな喪失症候群系の人である。これは原稿料でも同じである。きずな喪失症候群系の編集者は、安い原稿料の話は最後に出す。
 私は誠意を感じたときには、安い講演料の講演にも行っているし、安い原稿料でも書いているので、きずな喪失症候群系のずるい人の依頼は、自信をもってハッキリと断ることにしている。するときずな喪失症候群の人は恨む。


 ◎なぜ「すいません」の連発で許してしまうのか

 きずな喪失症候群の人は、ずるくて努力しないで恨みをもっている。恨みがあるから弱い人間を徹底的にいたぶる。カレン・ホルナイの分類で言えば、きずな喪失症候群の人は自己拡張型・神経症者である。それに対して燃えつき症候群は、自己消滅型・神経症者である。
 多くの場合、燃えつきた人はきずな喪失症候群の人に囲まれて、彼らのにとって都合のいい存在になっている。燃えつきた人は愛情飢餓感が強いから、それでも求められることが嬉しい。
 きずな喪失症候群も燃えつき症候群も、愛情飢餓感が強いということでは共通している。

 強い人はずるい人を見抜く。弱い人はずるい人に迎合する。そしてずるい人に骨までしゃぶられる。
 強い人が心理的に健康な人である。ずるい人にもてあそばれない。ずるい人がきずな喪失症候群の人である。弱い人が燃えつき症候群であり、心理的に病んでいる人である。きずな喪失症候群の人が他罰型、燃えつき症候群の人が自罰型で、心理的に健康な人は無罰型である。そして、世の中で多い組み合わせの一つが、弱い人とずるい人との組み合わせである。見ていると、弱い人が先に若死する。
 燃えつき症候群は、なぜきずな喪失症候群のずるさを見抜けないか。それは相手を見ていないからである。相手の行動を見ていない、そして言葉に弱いからである。
 例をあげると次のようなことである。自分が大切にしているお茶碗を割られてしまった。そのときに、「すいません」を連発する人を許してしまうのが燃えつきた人である。だから燃えつきる人は人間関係が築けない。
 なぜ人間関係が築けないか?相手が心の中では舌を出しながら「ごめんなさい」と言っているのがわからないからである。燃えつきる人は、相手の非言語的な部分を察知する能力が極端に劣っている。劣っているというよりも、発達していないといったほうがいいかもしれない。
 だから、また次にも同じように、自分の大切なお茶碗を割る人ばかりが周囲に来る。つまり、自分の周囲には、自分を軽く扱う人ばかりが集まってくる。そして、そういうずるい人が集まっているということに気がついていない。その結果、骨までしゃぶられている。自分の大切なお茶碗を割られてしまうのが燃えつき症候群の人であり、割るのがきずな喪失症候群である。
 燃えつきる人は、誠意のある人がたまたま不注意でお茶碗を割ったのか、自分の大切なものを軽く扱っているから壊したのか、が判断できない。だから「ごめんなさい」の連発に弱いのである。きずな喪失症候群の人は口先の人である。口先で踊る人が、燃えつきた人である。
 自分の大切なお茶碗を割った人の前後の行動を見ていれば、その人が自分を軽く扱っているかどうか、自分の大切なものを大切なものとして扱っているかどうか、がわかるはずなのである。燃えつきた人は、相手の前後の行動を見ていない。自己執着が強いからであろう。相手が自分をどう見ているかにばかり感心がある。だから相手を見ていない。
 人間関係を築くには、何よりも相手の非言語的な伝達の部分を正確に読みとることが必要である。心理的に健康な人は、お互いの気持を大切にくみ取りながら、一つひとつ関係は築き上げられていく。燃えつき症候群は、その能力が未発達なのである


 ◎燃えつき症候群は二重のストレスに苦しむ

 「そんなことで人が消耗し早死するものか」と疑問をもつ人もいるかもしれない。もちろん燃えつきた人にも、今までにもすでに書いてきたように問題がある。燃えつきた人は、執着性格的なところがある。
 割られたお茶碗に執着がある。「割られてしまったー」という悔しさである。「もったいない」という気持ちが強い。あれをなくしたくなかったという「失われたものに対する執着」である。その嘆きと苦しみは大変なものである。
 自分の大切なお茶碗なのだから、心理的に健康な人でも、割られれば「あー、あれさえ割られなければ」というような悔しさはある。心理的に健康な人でさえ、割られた夜は眠れないということもあるかもしれない。
 燃えつきた人は、その割られたお茶碗に対する執着が、普通の人以上に強いのである。だから眠れない夜は続く。鬱病の病前性格といわれる性格がそれである。たとえば、今書いている執着性格などである。執着性格は失ったものに対する執着が強い。
 私は燃えつきた人も執着性格だと思っている。だから失ったものに対する執着が強い。ところが、お茶碗を割った人には強くでられない。お茶碗を割った人に、「謝るのはいい、元に戻してくれ」と言えない。このジレンマがものすごいストレスの原因なのである。普通の人でも眠れない夜に苦しむのだから、燃えつきた人のストレスはものすごい。悔しくて一睡もできない夜を過ごす。
 翌日は朦朧としている。仕事はできないし、くやしいし、身体は辛いし、その人への恨みは消えないし、という悲惨な人となる。そして実は燃えつきた人は、その日も同じようなことを繰り返してまた新たなストレスを背負い込むのである。燃えつきる人はこうして消耗していく。

 お饅頭が二つある。自分と相手に一つずつである。相手が二つ食べてしまった。自分もそのお饅頭が好きで欲しかった。お腹が空いている。しかし相手が「すいません、すいません」を連発する。すると自分が食べたかったけれども許してしまう。
 食べたかったけれども、食べられてしまったから、怒りと無念さはある。しかし抗議ができない。そこでストレスをため込む。そして無念ではあるが、「ごめんなさい」と言っている人を「いい人」と思ってしまう。
 誠意があれば、決してその人は黙って二つは食べない。そこが燃えつきた人にはわかっていない。こうして、燃えつき症候群の周囲には、ハゲタカばかりが集まる。だから燃えつきるのである。
 同じように努力して成果をあげる人がいるのに、なぜある人は努力をしながらも報われないか。いくつも原因があるが、その一つは、周囲にハゲタカばかりを集めてしまうことである。
 フロイデンバーガーが、「燃えつきた人は周囲の人から同情されない」というのは、このためである。それがどうしても燃えつきた人にはわからない。
 謝っても相手は食べている。食べてしまった上で謝っている。このずうずうしさなのである。これがきずな喪失症候群である。

◎相手の目を見てしっかりとものを言う

 強い人はここで「なぜ食べたの?」と言うだろう。「謝らなくてもいいの、なぜ食べたのかを教えて」と言う。軽く扱われたことと、相手のずるさに腹を立てていれば、「謝らなくてもいいから、元に戻してくれ」と言うだろう。「オレは『ごめんなさい』はいらない、元に戻せ」と言う。
 するとこういうずるい人は、二度とその人のところには来ない。別のカモを探しに行くからである。ずるい人が、謝りながらも心の中で舌を出していることを見抜ける人は、燃えつきない。
 「謝らなくてもいい、なぜ食べたのだ」という類の対応をすると、きずな喪失症候群の人は「えっ!」と驚いて黙る。饒舌がとたんに止まる。それは「すいません」の涙の演技を見破られた、と思うからである。
 その人が、座っていれば、驚いて立ち上がる。そして「ハー」と声が詰まる。そこできちんと説明できる人は、きずな喪失症候群の人ではない。「ハー」と声が詰まるのは、本当に謝っていないからである。きずな喪失症候群の人は謝ることも安易なのである。
 きずな喪失症候群の人は、たとえば人を呼んでおいて、相手が来たところで、「あー、いいや」と平気で言う人である。とことん相手の誠意とか努力を踏みにじる。みじんの誠意もないのがきずな喪失症候群である。
 だから、頼み事などもいとも気軽にする。相手の迷惑を考えないで気軽に頼んでくる。気軽に頼める親しい関係でないのに頼んでくる。
 ではそういう時に、どう対応すればいいのか。「あー、いいや」と言われたときには、相手に指を差して、「いいんだね」としっかりと目を見て言うことである。するとハゲタカはもうその人を軽く扱わない。その人から逃げていく。ハゲタカはとにかく弱い人を餌にして生きている人である。努力がいやなのである。努力しないで楽をしようとすれば口先だけになる。
 この世の中に現実にハゲタカがたくさんいる以上、自分自身が強くなければ生きていけない。燃えつきた人は、そのハゲタカにも気に入られようとして生きたのである。その弱さで破滅したのである。
 とにかく言葉が綺麗で、ずるくて厚かましいのが、きずな喪失症候群である。「お忙しいのにすいません」と口では言うが、相手の忙しさは決して考えていない。なにかこちらがすると、「しようと思っていたのに」と言うが、実際には決してしない。
 そしてこのきずな喪失症候群は、逆に自分がやられたときにはすごい。相手を責め苛んで許さない。


 ◎眠れないのは、戦闘状態にいながら我慢しているからだ

 何度も言うが、ハゲタカに気に入られようとして無理をするのが、燃えつき症候群である。だから消耗して倒れるのが当然なのである。そして見ていると、燃えつきた人は自分の周囲から誠実な人を退けてしまう。
 燃えつきた人は、口先だけの相手を「いい人」と思いながらも、本当は悔しいから夜は眠れない。それがストレスである。自分のお饅頭を食べられてしまったということが悔しい。自分は食べたい。しかし相手が「ごめん」と謝ると何も言えない。
 このどうしようもできない状態がストレスである。相手に抗議したいけど抗議できない状態である。燃えつきた人は、この不快な状況を解決できない。それがストレスである。

 自分が大切に大切にして使っているパソコンを黙って使われたとする。そのときにものすごく不愉快である。その不愉快さは、どのくらいそのパソコンを大切にしているかにもよるし、どのくらい苦労して買ったかにもよるし、黙って使った人をどのくらい嫌いかにもよるだろう。そしてもう一つ、その人がどのくらいケチかにもよる。ケチで頑固を特徴とする肛門性格の人などは、ものすごく不愉快である。
 燃えつきる人は、だいたいがケチな人なのである。だから他の条件が同じなら、黙って使われたときの不愉快さは普通の人以上である。普通の人以上に不愉快に感じているのに、「黙って使わないでくれ」と言えない。きずな喪失症候群の人に、大切に大切にして使っているパソコンを使われっぱなしである。だからストレスがものすごい。眠れない夜を過ごす。そこで燃えつきるのである。
 不愉快だけれども言えないときに、ストレス・ホルモンが体内に多量に分泌されている。だから眠れないのは当たり前である。身体は眠るどころか戦う準備をしているのである。
 身体は戦闘態勢に入っているのに、ベッドの上に寝ているのである。朝までベッドの上にいたって眠れない。身体が寝る準備をしてきてはじめて眠れる。
 翌日は気持ちが悪くなって食欲がなくなる。吐き気がしてくる。身体は同じ戦闘態勢のままだろう。
 食べたいものを食べられてしまった。燃えつきた人は執着性格だから、その食べられてしまったお饅頭にいつまでも執着する。心理的に健康な人なら翌日はすっかり忘れているのに、一ヶ月たっても忘れられない。燃えつきた人はいつまでもそのお饅頭に執着する。でも食べてしまった人に抗議できない。抗議できればストレスは解消する。しかし燃えつきた人は抗議できないから、ストレスを解消できない。
 きずな喪失症候群の人は、頼み事があるというので、人を呼んでおいて、相手が来たところで、「あー、いいや」と平気で言う、と先に書いた。すると燃えつき症候群の人はそれに抗議できない。
 しかし誰よりもそのことを悔しいと感じるのが、燃えつき症候群の人なのである。心理的に健康な人は、相手の態度にきちんと抗議をするが、燃えつきた人のように悔しさを味わっているわけではない。
 燃えつきた人はケチだから、自分のパソコンを不本意に使われたときには、誰よりも悔しい。それなのに抗議ができない。それがストレスである。不愉快な状況を解決できないのである。
 燃えつきた人は、日々このストレスを背負いこみながら生きてきたのである。だから眠れなくもなれば頭痛もするし、体調も崩す。その連続の中で消耗し燃えつきたのである。


 ◎カモにされることと「気に入れられる」こととは違う

 フロイデンバーガーが、「燃えつきた人は、努力が何も生み出さない」と言うが、それはそうである。そうしたハゲタカに囲まれて努力しているのだから、努力が成果をあげるわけがない。ハゲタカに気に入られるための努力なのである。
 燃えつきた人は、心の優しいところがある。しかしその優しさをきずな喪失症候群の人に、言葉巧みにつかれるのである。誰にも彼にも優しくていいというわけではない。ハゲタカに優しくすることは愚かなことなのである。燃えつきた人は、相手も見抜けないが、状況判断もできない。
 燃えつきた人は、とにかくきずな喪失症候群の人の不当な要求を飲んでしまう。彼を消耗させてしまうのは、そのことから来るストレスなのである。
 燃えつきた人と心理的に健康な人の違いを考えてみよう。燃えつきた人は、急ぎの用事を抱えながらも、高速道路で渋滞の中に巻き込まれているようなものである。心理的に健康な人は急ぎの用事が無いし、渋滞にも巻き込まれていないで運転しているようなものである。
 燃えつきた人の最大の弱点は、人の好意によって自分を守ろうとしていることである。いつも気に入られようとしていると、自分が自分を頼りなく感じる。この姿勢がなくならない限り、彼は必ず燃えつきる。人に気に入られようとすると、きずな喪失症候群のカモになる。
 気に入られたいという気持ちが障害になって、ストレスの解消ができないのである。不愉快な状況を解決しようとすると、相手に気に入られたいという気持ちがネックになる。
 人に気に入られたいという気持ちを振り切れば、今のままの環境でストレスは霧が晴れるようになくなっていく。もちろん生きている以上、ストレスがなくなるということはない。しかし消耗して早死するようなストレスに、常時苦しめられることはない。
 燃えつきた人が、もしどこかで「一人で死んでもいい」と思えれば、同じ環境でももっと幸せに生きられたのである。一人で死んでもいいと思えれば、ずるい人に気に入らっれるために、その不当な要求をかなえようと無理をすることはない。
 そして人間関係が変わる。ハゲタカが周囲から消える。燃えつきた人の、「気に入られたい」という気持ちが問題なのである。その蜜にハゲタカは群がったのである。
 「一人で死んでもいい」と思えれば、と先に書いたが、実は燃えつきた人は今のように不愉快さに耐えて、人から気に入られたいと無理をしていても、死んでいくときには一人なのである。
 頑張っているときから、誰も本当は燃えつきた人を相手にはしていないのである。完全に燃えつきる前から、周囲にはハゲタカしかいないのであるから、もともと一人なのである。
 燃えつきた人は、自分が気に入られようとどんなに努力していても、誰からも気に入られることはないということに気がついていない。カモにされていることを「気に入られている」と錯覚しているだけである。
 燃えつきる人は、電話がいつもかかってきていると自分が皆から相手にされていると錯覚する。自分が重要人物のように錯覚する。しかし実は人々は、その人をうまく利用しようと思って電話をかけてきているのである。電話など一つもないほうが、むしろ皆から大切にされているのである。皆がその人に重きをおいているのである。
 燃えつきる人は、一人になるのが怖い。誰でも一人になるのは怖いが、燃えつきる人は普通の人以上に一人になるのが怖い。
 でも燃えつきそうな人は、本当は一人のほうがいい。一人になれば、そのほうが早く幸せになれる。


 ◎「実力」を「幸運」と思ってしまう人

 ところで、偽名現象と言われる心理がある。アメリカで言われた心理現象である。実際には自分の能力によって社会的に成功しているのであるが、それを信じられない心理である。
 成功といっても、別にノーベル賞をもらうとか、オリンピックに出るとか、そういうことではない。単純に、立派に社会的に活動している、くらいのことである。
 例えば弁護士がいるとする。アメリカの弁護士は日本とは違う。その数が多い。日本よりも弁護士になるのは難しくはない。
 自分の実力で弁護士になって、正当に活動している。しかし依頼人に正当な弁護料を要求できないような気持ちになる。あるいは、自分が会社の役員として事業に業績を上げた。それなのに、自分はその会社の役員であることが、実力とは思えない。
 要するに、実際の自分は能力があり、努力をして仕事もきちんとしている。それなのに自分はそのポストに値しない、と感じてしまう。そんな心理である。私的なことでも同じである。自分は友達のためにいろいろなことをしてあげている。にもかかわらず、それを信じられない。自分は友人としてそれなりのことをしているとは思えない。
 たとえば、上司として部下にしてあげられるだけしているのに、部下に気が引けている。自分は上司に値しない、と感じている。それが部下であれ、同僚であれ、学生であれ、相手にしてあげられるだけしているのに、その人に気が引けている。
 たとえば十分実力のある先生で、生徒の世話を必要以上にしているのに、自分は「先生に値しない」と思っている。そして生徒に対してもビクビクしている。
 この偽名現象にかかってしまうのは、燃えつき症候群系の人である。実際の自分は真面目に努力して、社会的にも貢献している。会社でも頑張っている。でも今いるポストに自分は値しないと感じてしまう。何かの幸運でそうなっていると思ってしまう。だから堂々としていられない。


 ◎「幸運」を「実力」と錯覚する人は不幸な道を歩む

 ところが、この偽名現象の心理とは逆の心理がある。それは「偉大妄想の心理」とでもいうべき心理である。自分の実力はそれに値しないのに、それに価すると思い込んでいる人である。
 自分は弁護士の実力がないのに、すごい弁護士と思い込んでいる。自分は部長の実力がないのに、すごい有能な部長と思い込んでいる。自分は酷い生徒なのに、立派な生徒と思い込んでいる。これがきずな喪失症候群の心理である。
 試験の点でいうと、試験が終わった後に、自分はできていないのに「良い成績」と思い込んで教授に抗議をしにくるような学生である。私は三十年以上教えていて、試験の成績に抗議をしにきた学生でまともな点をとっていた学生は一人もいない。下駄を履かせてやっとこの点という点でありながら、もっといいはずだと思っている学生ばかりである。実際は五十点なのに、それでは落第だから下駄を履かせて六十点にしてあるのに、自分は九十点だと思い込んでいるような学生である。
 ところが逆に、良い点をとっているのに「よくできなくて申し訳ありません。来学期はもっと勉強します」と書いてある答案がある。これが燃えつき症候群の人である。

 偉大妄想の心理にかかるのが、きずな喪失症候群の人である。きずな喪失症候群の人は、実際の自分の実力が五十点だとすると九十点と思っている人である。だからいつも不満なのである。
 偉大妄想の心理の人が、何かの幸運でポストを得たとする。すると自分の実力で得たと錯覚する。だからきずな喪失症候群の人は、社会的に最後は落後する。誰でも、長い人生の中では幸運なときと不運なときとはある。実力がありながらも失敗するときもあるし、実力がないのに成功してしまうときもある。
 そのときに、偉大妄想の心理の人は、自分が幸運でこのポストを得たとは思っていない。だから周囲の人が期待する態度とは態度が違う。要するに厚かましい。それにふさわしい努力がなくなる。
 たまたまあるポストが不足している。いい人を探している時間はない。そんな時に、たまたまそこにいた人が、幸運にもそのポストに就くということがある。
 その人が、自分はたまたまラッキーでそのポストを得たと思っているか、思っていないかで、生活態度は違ってくる。その違いは大きい。それによって、その人のその後の人生は大きな影響を受ける。たまたまのラッキーで、その後の人生が思うようにいかなくなるという人は多い。皆、きずな喪失症候群系の人である。
 自分はたまたまラッキーでそのポストを得たと思っている人は、そのポストにふさわしい実力をつけてくる。しかしそう思っていない人は、それにふさわしい実力がついてこないばかりではなく、不満ばかりが強くなる。そして「あの人は困った人だなー」と周囲の人が思うようになってしまう。
 ある大学院生が大学院卒業予定のときに、たまたまアメリカのいい大学に留学する機会があった、というような例を考えてみる。その大学で、たまたま一人、外国からの留学生を受け入れるポストに空席ができた。そこと関係のある日本の教授のところに連絡があった。そのときに、たまたまその大学院生がどこにもポストが決まっていなかったので、推薦してあげた。その人は幸運が重なって留学できた。
 この人が幸運な留学から帰国して錯覚を始める。自分はアメリカの有名な◯◯大学で研究してきた。自分がなにか若手のすごい研究者であると錯覚する。
 この人がさらに幸運が重なって、たまたま空きのできた助手のポストに就けたとする。助手に予定されていた人が別の大学に講師として呼ばれることになった。そこでこのポストが相手、適当な人を探す時間的な余裕がなかった。そしてその留学帰りの人が助手になる。そこで自分はすごい研究者だと、さらに錯覚する。
 この錯覚がある限り、その後の日本でどのポストに就いても不満である。研究のレベルが自分の実力に適していないから、成果が出てこない。しかし自分はすごい若手の学者だと思い込んでいる。その態度では、周囲の人とはうまくいかない。ことごとく周囲の人と対立する。つまり幸運なのに不満な人である。


 ◎業績を盗む人、盗まれる人

 つまり偽名現象の人と正反対なのである。偽名現象の人は、たまたまの幸運でそのポストを得たのではないのに、幸運で得たと思い込む。その人は幸運ではなく実力でそのポストを得たのである。それなのに、実力ではなく幸運で得たと思ってしまう。そして脅えた態度をとる。
 偽名現象の人が燃えつき症候群の人、偉大妄想現象の人がきずな喪失症候群の人である。このまったく違った二種類の正反対の人が社会にいる、ということに気がつかないと、社会的に痛い目に遭う。
 何かをするときに、下準備をする人が燃えつき症候群の人であり、その準備したものを黙って当たり前みたいに利用するのがきずな喪失症候群の人である。人のものなのに、ことわりもなく平気で使うのがきずな喪失症候群の人であり、自分のものなのに、使うときに気が引けているのが燃えつき症候群の人である。
 燃えつき症候群の人は、自分のものをきずな喪失症候群の人に黙って使われて悔しくても文句を言えない。そこでストレスに苦しめられる。そのストレスから夜も眠れない。そうしたことの連続で疲れはてて、燃えつきてしまう。
 きずな喪失症候群の人は、周囲の人にストレスを与える人であり、燃えつき症候群の人は、周囲からのストレスに苦しむ人である。周囲の人を苦しめながらも不満な人が、きずな喪失症候群の人であり、周囲の人に苦しめられながらも抗議ができないのが、燃えつき症候群の人である。
 燃えつき症候群の人は、遠慮しすぎて周囲が扱いに困る人であり、きずな喪失症候群の人は厚かましすぎて周囲が困る人である。
 フロムが、ある種の男のナルシしスティックな確信として、「自分の偉大さの証明にはまったく何をする必要もない」という考えがあるという。こう考えるのは、きずな喪失症候群系の男などにいる。恐ろしいが、この世の中にそういう男がいることも確かである。
 きずな喪失症候群の人が単純なナルシシズムに多いとすれば、燃えつき症候群の人はネガティブ・ナルシシズムである。
 ナルシシズムとは、自分のものであるがゆえに優れているという自己陶酔である。それに対してネガティブ・ナルシシズムとは、自分のものであるがゆえに劣っているという自己卑下である。


 ◎学級崩壊を起こす子どもたちの親はこんなタイプだ

 子供で言えば、きずな喪失症候群系の子供と燃えつき症候群系の子供とはどう違うか。
 よその家に行って、ワーワー平気で騒いでいる子どもが、きずな喪失症候群系である。そして親はそれを見て平気でいる。子供はサルみたいなものである。きずな喪失症候群系の子どもがたくさんいれば、そこはまるで動物園である。
 私は、今の小学校で起きている学級崩壊というのを、テレビを見たり、新聞で読む程度しか知らないが、恐らくこれはきずな喪失症候群系の子どもによって起きていることである。
 それに対して、燃えつき症候群系の子供は脅えている。そして燃えつき症候群系の母親は、子どもが少し動いただけでも「あー、すいません」と言う。
 きずな喪失症候群の子供は放し飼いのサルのようであり、燃えつき症候群の子供は蛇に巻きつかれた子供である。絆喪失症候群は放任、燃えつき症候群は過干渉で育てられている。きずな喪失症候群の子供には他者がない。人の迷惑などはまったく考えないし、人の事情などはまったく考えないで要求するばかりする。燃えつき症候群の子供は自分がない。
 きずな喪失症候群の人は周囲の人を殺すし、燃えつき症候群の人は自分が死ぬ。燃えつき症候群の子どもといると気持ちが「暗ーく」なるし、きずな喪失症候群の子供たちといると騒音に苦しむ。
 きずな喪失症候群の母親は、赤ちゃんが泣いていても、平気で笑ってみている。エレベーターで自分の子どもが手を挟んでも悲しくはない。しかし自分の苦しみは訴える。自分の辛いのは大騒動するが、子供のことは気にならない。
 自分の子どもがお菓子を食べていて、他の子どもがそれを欲しがっていても平気。それでいて人に見せるための立派な活動はしていたりする。人類は愛せるけれども、隣人は愛せない。
 着飾って自転車に乗っていたり、ゲームセンターに行く子供をワンピースをヒラヒラさせながら追いかけるような母親である。子供が怪我をしても裸足では飛び出さない。お化粧をしてハイヒールを履いてから助けに行こうとするような母親である。
 きずな喪失症候群の人は、こちらがせきこんでいても平気で何かを頼んでくる。やってあげてもやってあげてもダメな人である。要求が際限ない。何をしてあげても当然、という顔をする。
 燃えつき症候群の人は、仕事を辞めるときに「辞めさせられた」という感覚をもち、きずな喪失症候群の人は、やめさせられても「離任しました」という感覚をもつ。
 相手はパートを頼んでいるのに、正社員として働くことを頼まれたと思うのがきずな喪失症候群の人。そこでしばらくすると不満になる。そこで「けしからーん!」となる。自分は正社員ではなく、パートであるという自分の位置を忘れる。
 人から声をかけられるとそれだけで友達と思う。それがきずな喪失症候群である。人から声をかけられても、相手は自分を好きではないだろうと思う。それが燃えつき症候群の人である。

第6章―「母なるもの」が、人間関係の基礎をつくる

 ◎放任の子の行く末、過干渉の子の行く末

 一口に言って、きずな喪失症候群は、子供時代に深い絶望感に苦しめられた人々である。そしてそこから立ち上がれない人々である。
 きずな喪失症候群を生み出す大きな原因の一つは、すでに述べた成熟の時間の欠如であるが、もうひとつは「母なるもの」の体験の欠如である。愛を体験できていないことである。
 「子供は善意と愛情と正義を信じて人生を始める」。しかしそれが裏切られる。子供に無関心な親、子どもが嫌いな親、子供よりも自分を守る親などと接して、子供は信頼感を打ち砕かれ、絶望していく。無力な子供の絶望は恨みをともなう。子供に力があれば、親に裏切られたときに力で対抗出来る。しかし子供は、心理的にも社会的にも肉体的にも無力である。
 そこで、信頼感が打ち砕かれたときに根深い恨みをもつ。それがきずな喪失症候群の恨みである。「裏切りと失望の傷痕を心の奥深くで味わった人はまた、人生を憎み始めるということである」。
 そこに、なんだか知らないけど生きるのが苦しい、という原因があるのではないだろうか。一番大切なものが失われている。しかし何を失っているのか理解できない。
 簡単に親子関係とこれらの症候群との関係を見ると、次のようになるだろう。きずな喪失症候群の親は子どもに無関心で放任、燃えつき症候群の親は過干渉。
 そして、慣れ親しんだ近しい人に対してはきずな喪失症候群、まだ知り合ったばかりというような心理的に遠い人には燃えつき症候群、というように、出会う人によって自分を変える混合型の親は、一方が放任で他方が過干渉である。そして両親の間には根深い不信感がある。父親が過干渉で母親が放任ということもあれば、逆もあるだろう。いずれにしても父親と母親の間にはものすごい葛藤があり、拭いがたい不信感がある。

 きずな喪失症候群は、ある特定の職業に多いというものでもない。燃えつき症候群が教師とか看護師に多いと言われるような特徴は、きずな喪失症候群にはない。どの職業に多いということがないどころか、失業者にもきずな喪失症候群はいる。失業していようが、職業についていようがきずな喪失症候群の人はいる。
 また学歴の高い人がそうだとか、そうでないとかいうのでもない。学歴が高い人の中にも、低い人の中にもいる。きずな喪失症候群であるかないか、それは心の問題だからである。社会的な地位が高くてお金持ちの奥様がそうであるときもあるし、お金がなくて失業中の若者がそうであるときもある。
 年齢についても同じである。年寄りもいれば、若者もいる。高校生がきずな喪失症候群であるときもあれば、大学教授がきずな喪失症候群であるときもある。


 ◎「母なるもの」の経験がない人は、非常識な要求を「他人」にする

 きずな喪失症候群を生み出す家庭は、親が子供に無関心である。社会的にある特定の層から特に多く生まれているということはない。どのような社会階層であろうと、親が子供に無関心であれば、子供はきずな喪失症候群になる可能性が高い。

 一般に悩んでいる人は、他人への要求が大きすぎる。なんでそこまで他人に求めるのだ、というほど他人に求める。そしてそのように他人が動いてくれないから、不満になる。自分の思うとおりに他人が動いてくれないと不満になる。寸分違わず自分のわがままが通らないと不満になる。もちろん自分がわがままだとは本人は気がついていない。
 幼児期の母親にならそこまで求めてもいいが、大人になってから、母親以外の他人に「そこまで求めても無理だよ」と思うほど他人に求める。他人が母親のように自分のことをしないと不満になる。
 悩んでいる人は、他人は自分に奉仕するために生きているとしか考えられないのである。他人が自分の期待するように動いてくれないと、すぐに不満になる。幼児期に「母なるもの」の経験がないから、他人を「母なるもの」にしてしまう。「母なるもの」への要求が満たされていないから、他人にあれをしてくれ、これをしてくれになる。そして他人がそれをするのが当然だと思っている。「世界は自分に奉仕すべき」と思っているのに、奉仕してくれないから、人々への憎しみになる。
 やがて人間嫌いになる。人間が嫌いなのは、他人が「母なるもの」を与えてくれないと知っているからである。他人が「母なるもの」を与える人たちでないことを知っているから、他人が嫌いなのである。
 悩んでいる人は、理由をつけて怒る。悩んでいる人が怒っているときには、カレン・ホルナイのいうごとく、「自分には怒る権利がある」と信じている。はたから見ると、なんであそこまでわがままなんだと思うが、本人は逆に思っている。他人がけしからんと思っているのである。


 ◎「母なるもの」を知っている人は「他人」の位置を体得している

 先に私は、悩んでいる人は「他人は自分に奉仕すべきだと思っている」と書いた。それはカレン・ホルナイの「サービス」という言葉を直訳しただけである。それをもう少し考えると、悩んでいる人のわがままと「母なるもの」の欲求不満との関係がわかってくる。
 悩んでいる人は、相手に何かをする。その何かをするということが、相手に絡むということなのである。単純に何かをしているのではない。お茶をいれることで相手に絡んでいるのである。だから「お茶をいれてあげたのに」と不満になる。相手に絡むためにお茶をいれているのである。
 相手に不満になるときに、分在する何かがある。つまり「相手は自分に奉仕すべき」は相手への甘えなのである。甘えがストレートに表現されないで、大義名分の仮面を被って登場する。
 ここで書いている悩んでいる人というのが、きずな喪失症候群の人である。母親の愛を体験していないくて、人との関係が理解できない人々である。そしていつも人を恨み「辛い、辛い」と騒いでいる。そして心の底では自分は愛されていないと感じている。またそう心の奥底で感じているからこそ、人々に恨みと憎しみをもつのである。
 彼らの心のなかで、甘えが大義名分の仮面を被って登場するから、あそこまで他人に迷惑をかけるということがなんでもなくできるに違いない。彼らがそのように自分のわがままを意識しているわけではない。しかし現実の彼らの行動がそのようになってしまう。自分の言うことが通らないと怒りだす。
 おそらく「母なるもの」の体験がないためなのだろう。「母なるもの」への欲求の不満である。彼らは「母親」を知らない人々なのである。もし小さい頃に「母なるもの」と接して、心が満足していたら、あのような態度にはならない。
 そして小さい頃「母なるもの」と接していないから、いつも母親から見捨てられる不安をもっている。馬鹿な自分を母親は決して見捨てない、それが「母なるもの」である。「自分がたとえ悪い子であっても母親は自分を見捨てない」と思う、それが母なるものの体験である。だから「母なるもの」と接することで、人々は安心感をもつ。だから「母親」を知っているものは、「自分がたとえ悪い子であっても母親は自分を見捨てない」という安心感をもつ。
 ところが、そうしたものが悩んでいる人にはない。母親への信頼感が、悩んでいる人にはない。悩んでいる人は、母親にとって自分は固有の存在であると信じられない。
 「母なるもの」への欲求が満たされている人は、自分は母親にとってかけがえのない存在であると信じられる。そういう体験があって、つまり自分は母親にとってかけがえのない存在であるが、逆に他人にとっては自分はかけがえのない存在ではないと実感できる。そこから人間の関係が理解されてくる。
 ある人にとって、自分がかけがえのない存在であると実感できることで、逆に別のある人にとって、自分は単なる一人の市民であると理解できる。だから人が自分の思うように動かないからといって不満にはならないし、怒りださない。
 しかし悩んでいる人は、母親にとって自分は固有の存在であると信じられる体験がないから、それがどういうことか身体全体で理解ができていない。常に見捨てられる不安をもっている。彼らは、有名企業に入れば自分は見捨てられない、という感じ方で育った。名門の家からノイローゼがでるのはこのためである。


 ◎近親相姦的願望は健全な成長の証拠である

 近親相姦的固着の第三の病理的兆候としてみられるものは、独立性や誠実との葛藤であるとフロムは言う。
 「自分自身であること、自己の信念をもつこと、身を委ねることに自由ではない。・・・・・・常に民族的・国家的・宗教的な母親固着という牢獄につながれている」
 どこまで母親固着から開放されるかが、どこまで自分自身になれるかということであるかだ、とフロムは言う。
 きずな喪失症候群は、近親相姦的願望が満たされないで母親固着から解放されないままで生きている人々である。
 フロイドは人間の幼児期の母親への愛着に注目した。そしてそれに巨大なエネルギーが内包されていることを見てとった。
 フロムは、フロイドの母親への近親相姦的固着の説を、人間科学のうちでその影響が最も大きい物の一つであると絶賛している。しかしこの近親相姦的願望は、フロイドの仮説以上のものがあると主張し、「人間に内在する最も基本的な性向のひとつを構成している」と述べている。男女ともに最も基本的な熱情の一つであると言う。そしてこれは大人になってもそう簡単に消えるものではないと言う。
 私はこの近親相姦的願望を一言でわかりやすく言えば、「癒しを求めている」と表現していいのではないかと思っている。それは慈愛である。赤ん坊が母親のオッパイを飲むのと同じ感覚である。

 人は心のきずながないから、異常な宗教集団などに入っていってしまったり、政治的な過激集団に参加したりしてしまう。それはフロムやフロイドに言わせれば、近親相姦的願望によるのだろう。
 私はもっと優しく言って、そうした人々はそこに癒しを求めているのだと思う。赤ん坊が母親のオッパイを飲むような感覚で、そうした集団に参加しているのである。
 またそのような集団に属さない人々も、癒しを求めているから人に絡むのである。きずな喪失症候群が人に絡んで搾取するのは、自分と人をつなぐ心のきずながないからである。彼らが関係のない人にまで絡むのは、きずなを求めているのである。癒しを求めているのである。
 きずな喪失症候群の人はどこにも安住の場所がない。どこにも帰属する場所がない。まさにアノミーの心理状態である。彼らは安住の場所を探してさまよっている。そして、社会的に問題を起こす新興宗教集団や、政治的過激集団などに行き着いてしまうのである。
 それは、人に絡んでもなかなか思うようにいかないからである。絡まれたほうは多くの場合、逃げる。ただ燃えつき症候群の人だけは、絡まれたことを、自分が認められたと錯覚して嬉しくなり、その人をいい人と思ってしまう。そして彼らの搾取対象になる。
 マザコンの男性なども、近親相姦的固着という言葉で考えていいだろう。きずな喪失症候群の人々も、マザコン男性と心理的には同じである。ただ固着する対象が現実の母親ではないだけである。きずな喪失症候群とは、さまよえる近親相姦的願望である。
 宗教集団に入る人々は、近親相姦的願望を宗教集団に属することで満たしているのである。人は心のきずななしで生きてはいけない。そこで何らかのきずなを求めるのである。
 母親の側の母性本能と、子供の側の「母なるもの」を求める気持ちとが上手く出会って子どもの心は健全に成長する。
 自然は母親に母性本能を、子供に近親相姦的願望を授けた。だからうまくいくのである。しかし現実には母性本能をもたない母親がいるために、子供の近親相姦的願望がさまよってしまっているのである。


 ◎なぜ「この私をどうしてくれる」となるのか

 「近親相姦的固着は、・・・・・・あるいはまた一見理性的に見えるような方法により合理化されている」
 自分の母親に固着している人は、その近親相姦的きずなを、母はずいぶん苦労してきた、母は私にいろいろなことをしてくれた、母に仕えるのは私の義務であるなどのさまざまな形で合理化する、とフロムは言う。こういう合理化が、宗教集団の場合にも行われる。政治的集団の場合にも行われる。それは相手に絡む場合にも同じように合理化が行われる。
 たとえば、「私はあなたを人間として許せない」などと言って絡むのがその例である。私の授業を他大学の学生が聞きに来ていたときである。私は大学内で教務主任という役職をしていて、会議、会議でちょうどそのときに、たしか五分程度授業に遅れたのだと思う。
 その他大学の学生は、授業が終わった後私の研究室に来て、「私の失われた五分はどうなるのだ」と抗議をしてきた。「私は◯◯大学の学生とか早稲田大学の学生とかして、あなたに聞いているのではない、『人間として』あなたに聞いているのだ」と絡んで研究室の中に入りこんで出ていかない。
 同じことは読者についても言える。「あなたは本を書いてしまった以上、読者である私に責任がある。しかし私は今あなたに読者と著者の関係で聞いているのではない、『人間として』聞いているのだ」という言い方である。
 つまり、私に対する近親相姦的願望を、「人間として」という言葉で合理化しているのである。きずな喪失症候群の人々は、いろいろな理由をつけて人に絡む。そして“へ”理屈をつけては、自分の近親相姦的願望をなんとか合理化する。
 近親相姦的願望が強すぎて、人と部分的に関わることができないのであろう。自分と相手というふさわしいかかわり方ができない。近親相姦的願望が強いから、初めて会った相手に人格を丸ごと没入させる。そして、それに答えない相手を恨む。それはまるで、ヤクザの親分子分のような関係なのである。
 また、初めは穏やかな部分的関係を求めていたとしても、いったん関係が少しできると、とたんに近親相姦的固着になって絡みだす。絡み方はたいてい責任追及である。「この私をどうしてくれる」という責任追及である。
 就職の相談にきたので、就職についてアドバイスをすると、相談した人がそれに従ってもうまくいかなかったら大変である。「この私の人生をどうしてくれる」と責任追求が始まる。

◎絡むエネルギーはあるのに、前向きなエネルギーはまったくない不思議

 私のところにこの三十五年間に相談に来た人は、数え切れないほど多いが、その中で本当に相談に来た人は一人もいない。皆相談という口実でもって、私に絡みにきた人ばかりである。つまり、近親相姦的に私に固着することが目的であった。
 もし私が宗教集団を作り教祖にでもなれば、彼らは簡単に信者になるだろう。そしてそのときには、教祖である私に近親相姦的に固着できるから、その限りでの心理的安定はあるのに違いない。
 その絡みエネルギーを見て人は、「これだけ元気なのだから、何かをすればいいのに」と言う。確かに彼らは「元気」である。しかしその元気はあくまでも「母なるものに対する固着」のエネルギーである。だからこれと思っった人に絡むエネルギーはものすごいが、日常生活のエネルギーはものすごいが、日常生活のエネルギーはまったくといっていいほどない。
 私のところに長文の手紙を書いてくる人がいる。四百字の原稿用紙に何十枚と書いてくる。中には六十枚くりあを書いてくる。普通の人ならたいていその分量を見て、「これだけのエネルギーを何で他のことに向けないのか?」と思う。
 それだけの長い手紙を見知らぬ人に書くエネルギーはあるが、自分の食事の用意をきちんとするエネルギーはない。服装をきちんとするエネルギーもない。部屋を片付けるエネルギーもない。会社に行くエネルギーもない。
 なぜだろうか?それは手紙をかくエネルギーは、近親相姦的衝動のエネルギーだからである。人に絡むのは、「母なるものに対する固着」のエネルギーなのである。癒しを求めているエネルギーなのである。近親相姦的衝動のエネルギーは部屋を片づけるエネルギーにはならない。
 人にうるさく絡むのは、近親相姦的衝動のエネルギーである。だから多くの場合に、絡まれた方は悲鳴をあげる。そのすさまじいばかりのエネルギーに「ほっといてくれー」と悲鳴をあげる。
 しかしそのすさまじいエネルギーは、決して生産的なことには向けられない。それは決して生産的な仕事のエネルギーにはならない。ストーカーのように相手にまとわりつくエネルギーはあっても、親身に犬の世話をするエネルギーにはならない。自分の家のお風呂を綺麗に掃除するエネルギーにはならない。
 鬱病者などもそうである。あのすさまじいエネルギーで、自分の苦しさを滔々(とうとう)と大演説する。「口角泡を飛ばす」と言う表現があるが、鬱病者などは自分が生きるのがいかに辛いかを語るときには、まさに「口角泡を飛ばす」話し方である。とにかく大演説である。そのすさまじいエネルギーに、聞いている方は圧倒されさえする。
 そこで聞かされているほうは、「これで一体何が鬱病だ」と思う。「オレのほうがずっと鬱だ」と思う。「こちらのほうが鬱病のあなたのエネルギーをもらいたいよ」と言いたくなる。確かに鬱病のほうが元気で、心理的に健康な人のほうが消耗しているということがよくある。
 しかしやはり鬱病は鬱病なのである。きずな喪失症候群の人がうるさく絡むのと同じで、彼らも近親相姦的衝動以外のエネルギーはない。それ以外のことにエネルギーを向けられないのである。自己実現のためのエネルギーはない。


 ◎「見捨てられる不安」をもつ子供は、返事をすぐにしない

 子供は見捨てられる不安をもって成長したときには、この近親相姦的衝動を満たしていない。「見捨てられる不安」というと、なにかすごいことを言っているように感じるかもしれない。「見捨てられる不安」という言葉が精神分析の本などでよく使われるので使っているのだが、これは次のようなことである。
 たとえば、「母なるもの」をもっている母親は、子どもが食事をしているのを見ていると、思わず声をかけたくなる母親であろう。「母なるもの」をもっている母親は、子供に「声をかけなさい」という規範よりも、自然と声をかけたくなる。「さー声をかけましょう」とは思わない。「母なるもの」をもっている母親は、子どもが食事をしているのを見て、脈絡のない声をかけてしまう。
 しかしもし子どもが嫌いな母親なら、自然と声をかけたくはならない。子どもが嫌いな母親は、守るべき規範に従って子供に声をかけるよりしょうがない。
 そうして子供の好きな母親から、「声をかけられたことがある」という体験がある子どもがいる。その子どもが見捨てられる不安がないといことである。つまり近親相姦的衝動が母親によって満たされている子供である。
 「お母さんに声をかけられたことがあるか?」と子供に聞いてみる。義務で声をかけた母親の場合には、子供は、一瞬考えてから返事をしている。義務としての、自己執着としての声かけ方の場合には、子供は考えてから返事をしている。考えてから返事をするのは、嘘つきと思われないかという恐れがあるからである。母親が義務で声をかける場合には、子供は考えてから返事をしている。

 そういう心境だから、なんだか知らないけれど生きるのが苦しいのである。その「生きるのが辛い」という心理状態で人に接するから要求が酷くなるのである。これがきずな喪失症候群の人の要求の酷さである。


 ◎求められることがない人は燃えつきタイプになる

 人は小さい頃、親から求められないと、生涯を通して「求められる存在」になろうとする。求められることで自分の価値を感じることができるようになる。
 そして自分を求めてくれる親に対して、自分の欲求を表現していくのである。それが愛情欲求である。自分のことを愛してほしい、つまり、自分に感心を持って優しくしてほしい、優しい言葉では話しかけてほしい、温かい目で自分を見つめてほしい、自分といることをいつも嬉しいと感じていてほしい、自分のほうに振り向いてほしい、自分に優しく反応してほしい、自分のすることを褒めてほしい、絶えず自分に注意を向けていてほしい、自分の言うことに耳を傾けてほしい、自分のことをかまっていてほしい、大変なときには同情してほしい、などなどである
 これを子供は親に求める。しかし子供の中には、親から無視されて育つ人もいる。あるいは愛どころか、逆にノイローゼの親から絡まれて心理的に病んでしまう子供も多い。親が子供に愛を求める。親子の「役割逆転」などと言葉で言うのは簡単だが、それは子供にとっては地獄である。いずれにしろこうして育った子供は、愛情飢餓感が強い。
 そんな人が誰かと恋愛する。誰かとかかわる。愛情飢餓感が強い人ほど、すぐに人とかかわる。それは、心理的に健康な人以上に「求められる存在」になろうと必死で努力するからである。求められたことがないから、求められる体験に飢えている。だれにでもいい顔をする。求められることで、人は自分の価値を感じる。燃えつきタイプである。愛情飢餓感が強い燃えつきタイプは、人から求められるための努力をする。
 愛情飢餓感が強い人ほど、すぐに人とかかわる。そしてかかわったとたんに、その人に「母なるもの」を求めはじめるのが混合型と言われる人である。つまり先に述べたようなことを、その人に求める。「母なるもの」をその人に求める。燃えつき症候群からきずな喪失症候群に変わる混合型の人である。
 しかし親の代わりをできる人は、この世にほとんどいない。愛情飢餓感が強い人は、絶えず「母なるもの」を求めている。あくなきほど求める。よくもここまで、と思うほど求める。相手が息ができなくなるほど求める。ただただ、求める。自分が相手に何かを与えるなどということは、逆立ちしても考えられない。とにかく執拗に、ただただ一方的に求める。
 しかも、自分が一方的に求めているということにすら気がつかない。それほど激しく求めているということである。自分が相手に求めているということ以外のことは、この世に存在してはならないのである。
 しかし、出会った人はその人に「母なるもの」を与えることはできない。愛情飢餓感が強い人の要求に応えられない。愛情飢餓感が強い人からすれば、求めても与えられないということになる。そうすれば当然その人を憎む。憎んだからといってその人と別れられない。その人に求めているのだから。その人を必要としているのだから。

◎親しくならないうちはうまくいくのに・・・・・・という人へ

 かくて、どの人との関係もトラブルになる。家庭内暴力というものをなにか特別な心理と考えるかもしれないが、この心理は愛情飢餓感の強い人の一般的な心理である。つまり、愛を求めつつ、相手を憎む。暴力をふるっている相手から愛を求めている。
 愛を拒絶されて育った人は、一生人間関係でトラブる。生涯「母なるもの」を求めて人間関係でトラブる。誰ともすぐに表面的に親しくなるが、結局は誰ともうまくいかない。
 親しくならないうちはうまくいくが、近くなったとたんにトラブルになる。「母なるもの」を求めだした瞬間から、その人間関係がトラブルになる。「母なるもの」を求めだした瞬間から、相手が面白くなくなる。「母なるもの」を求めだした瞬間から、相手が不愉快な存在になる。
 混合型は、ある時点で燃えつきタイプからきずな喪失症候群タイプに変わる。だから結婚するとうまくいかなくなるのである。結婚するまでは燃えつきタイプ、結婚するときずな喪失症候群タイプになる。恐らく成田離婚と言われているものの多くは、配偶者の少なくとも一人が、混合型であって、相手に「母なるもの」を求めて、それが満たされなくて不満になっているからである。
 悩んでいる人は、たいてい一生悩んでいる。環境が変わっても悩んでいる。それは悩んでいる人が「母なるもの」を求めているからである。決して得ることのできないものを、人々に求めているからである。そして自分が求めているようには振舞わない相手を憎む。自分に母のように優しく注意を向けてくれない相手を憎む。どの人と親しくなろうと、一生表面的に親しくなった人に不満である。
 せめて、自分は一方的に相手に求めているということに気がついてくれさえすれば、関係は少しは変わる。少なくとも、自分の不満にはまったく正当性がない、ということに気がつくからである。
 自分のほうが相手の言うことに優しく耳を傾けてもいい、ということに気がつくからである。相手の笑顔を要求する前に、自分のほうが笑顔を作ってもいいのだ、ということに気がつくからである。愛情飢餓感の強い人は、相手が笑顔でいないとそれは、責められるべきことであると感じているのに、自分が不愉快そうにしていることはきわめて当然と感じている。相手が不機嫌だと責められるべきだが、自分の不機嫌は自分が不当に扱われている証拠だと思っている。


 ◎人に認めてもらうための努力は続かない

 すでに述べたように、この愛情飢餓感が強い人に二種類いることを忘れてはならない。きずな喪失症候群と燃えつき症候群である。きずな喪失症候群は努力をしない。努力をしないで求めるだけの人である。燃えつき症候群は認めてもらうための努力をする。きずな喪失症候群は、努力はしないでただ自分をこのように扱うのはけしからん、と怒る人々である。

 燃えつき症候群のように、人に認めてもらうために努力する人と、自分の好きなことに努力する人とでは、エネルギーの使い方がまったく違う。人に認めてもらうために努力する人は、一時的に職業上成功することもあるが、最後は人生の敗者である。最後には挫折する。
 人に認めてもらうために努力する人は、努力が続かない。エネルギーを人の賞讃から得るが、それが続かなくなるということである。またナルシシスティックな自我像からエネルギーを供給されるが、その成功も続かない。そこでエネルギーの供給が跡絶える。
 自分の好きなことに努力する人はいつまでも努力が続く。努力そのものがそれほどつらくないのと、努力そのものに意味を感じているからである。燃えつきる人にはならない。心理的に健康な人たちである。
 愛されて育った人は、人に認めてもらうために努力する人にはならない。だから燃えつきない。
 親から求められたという体験で、自分に価値を感じている。だから、人から求められることで価値を感じる必要はない。だから、人に認めてもらうために努力する必要はない。人に認めてもらうための人生を送らない。だから、自己実現にエネルギーを使い、人生の成功者になる。
 親から自分という存在そのものを求められた体験のない人は、求められる存在になろうとして燃えつきるまで努力するのである。


 ◎自分のところに来た人が「自分を認めてくれた人」とは限らない

 花にたとえてみよう。花屋の店先に花がある。その花は道行く人に買ってほしい。しかし買ってくれない。今日もまた売れ残ったと、劣等感と淋しさに苛まれる。
 そこに買ってくれる人が現れたとする。するとその売れ残っている花は、その人は残虐な人であるか優しい人であるかを考えるゆとりがない。その人がどんな残虐な人であっても、自分を買ってくれたことを感謝する。
 その売れ残った花を買った人は、その花を買うことにメリットがあるから買ったのに、買ってくれたことで、その残虐な人を「いい人」と思ってしまう。そしてその人のためにどんな犠牲でも払ってもしまう。それが燃えつき症候群の人である。
 買った人は、その花から搾れるだけ搾る。搾られるだけ搾られても、売れ残っていた花は買ってくれたということで感謝をしてしまう。
 その残虐な人に買われなければもっと幸せになれたのに、とは考えない。他の花は毎日水をもらっている、ということに気がつかない。自分はペンキを塗られて利用されている、ということに気がつかない。
 そしてこの搾れるだけ搾るほうが、きずな喪失症候群なのである。搾るほうも搾られるほうも、ともに愛情欲求が満たされていない。きずな喪失症候群は一方的に相手から搾取する。燃えつき症候群を自分の母親代わりにしているのである。しかも嫌いな母親である。
 本来母親に求めるものを求めても逃げないのは燃えつきる人くらいである。そこまで搾取されれば、普通の人は逃げだす。しかもきずな喪失症候群は恨みがあるから、燃えつきる人を搾取しながらも恨むから恐ろしい。
 きずな喪失症候群の人は他人に憎しみをもっている。燃えつき症候群の人は、猜疑心よりも不安である。きずな喪失症候群の人は損得だけで動く。だから、「昨日の友は今日の敵」になる。猜疑心が強い。
 燃えつきる人は愛を知らない人である。だから、自分のところに来てくれた人を「優しい人」と間違えてしまう。愛を知らない人は、接する人を間違えてしまう。自分のところに来てくれた人は、自分に価値を付与してくれた人なのである。親がその人に価値を付与しなかったから、自分に価値を付与してくれた人の奴隷になってしまう。親は価値を付与するどころか、「お前のような人間は・・・・・・」と価値剥奪したのである。だから自分のところに来てくれた人の言いなりになってしまう。燃えつき症候群の人は見捨てられられるのが怖い。
 自分を搾取する人を、「この人が自分を認めてくれた」と喜んでしまう。相手はその人を認めたわけではなく、その人の持っているものを絞り取りたかっただけだ、ということに気がつかない。

◎「家で狼、外で子羊」という男の正体

 ところで、買ってくれた人がもし優しい人であったときにはどうするか。混合型になる。それが先に書いた「母なるもの」をあくなきほど要求する人になる。そういう過大な要求をする人になる。つまり残虐なずるい人には迎合し、優しい人には横暴になる。
 これが「家で狼、外で子羊」と言われる男である。優しい誠実な人には狼となり、残虐なずうずうしい人には子羊となる。これがほんとうに混合型の人の愚かさである。
 心理的に病んでいるということは、人格の統合性がないということである。これは混合型などによく現れる。「自分は、人にこう接する」というポリシーのようなものはない。相手に甘えられれば、とことん甘えて相手を困らせる。その上、相手に不満になる。もっと甘えさせないからである。そして逆に相手が強ければ、とことん犠牲を払う。気に入られようと相手に尽くしてしまう。
 心理的に病んでいる人の言動を考えるときには、この人格の不統合性を考えに入れなければ説明できない。例えばある人を、「卑屈に迎合する人」と説明したとしても、その人がどこでも卑屈に迎合するわけではない。「凶暴な人間」になるときもある。何度も言うように、混合型である。
 さらに、同じように心理的に病んでいる人と言っても、きずな喪失症候群になる人と、燃えつき症候群になる人では性格がまったく違う。正反対なのである。そこもしっかりと頭に入れて心理的に病んでいる人を考えなければいけない。
 きずな喪失症候群型の花が買われると、燃えつき症候群とは違って、買った人にいろいろと要求する。もっと水をくれという。望む水をくれなければ、不満になる。「あんたが買ったんでしょ」と相手の責任を追求する。
 心理的に病んでいる人は、きずな喪失症候群と燃えつき症候群の2種類プラス混合型の三種類に分かれる。他の箇所にも書いたように、他罰型と自罰型である。「心理的に病んでいる人」というときに、この二種類は常に区別して考えなければならない。
 燃えつき症候群は、買ってくれた人が残虐な場合にも、買ってくれた人の言いなりになるがきずな喪失症候群は買ってくれた人が誠実な人でも自分の非現実的な要求を実現しないと、相手の怒る。「お前の愛はその程度なのか」と相手を責める。
 そして、きずな喪失症候群は常に相手を嫌いである。もともと人を恨んでいる。相手が好きなら、相手のすることにそれほど不満にはならない。もちろん燃えつき症候群も相手を嫌いである。自分の周囲の人を嫌いということは、二つの症候群に共通している。もちろん混合型も自分の周囲の人を嫌いである。だから生きるのが辛いのである。


 ◎心理的に健康な人は周囲の人間が好きである

 心理的に健康な人との決定的な違いはここである。心理的に健康な人は、自分の周囲の人を好きである。
 ある村でウサギがリスやタヌキと住んでいる。ウサギはリスもタヌキも好きである。そこでウサギは幸せである。
 別の村にはキツネが住んでいる。キツネは蛇が嫌いだけれども、蛇しか自分のところに来てくれない。キツネは蛇が嫌いだということに気がついていない。そしてキツネは生きるのが「辛いー、辛いー」と騒いでいる。
 ところでこれは別の箇所で何度も説明したが、人はまたきずな喪失症候群と燃えつき症候群との二つの種類だけに分かれるわけではない。さらに複雑な二つの混合型がいる。三つに類型化される。
 混合型はまことに複雑である。きずな喪失症候群と燃えつき症候群とはおよそ違ったものであるが、その、正反対とも言える両方の性格をもっているのである。相手と環境によって、搾取される側にも、搾取する側にもなる。
 よくいじめられっ子がいじめっ子にと言われるが、その複雑さである。だからといって、皆がこのようにいじめられっ子からいじめっ子に、いじめっ子からいじめられっ子に変わるわけではない。なぜかいじめられるだけの子供がいるし、いじめるだけの子供もいる。
 これが大人になっても同じなのである。典型的なきずな喪失症候群の人と、典型的な燃えつき症候群の人がいる。そこにこの混合型が加わる。ちょうど、敏感性性格という人たちがいるのと同じである。敏感性性格とは、強気と弱気が同じ人格の中に混合している性格である。強きの人とも言えないし、かといって弱気の人でもない。


 ◎初めから「金銭抜きのつき合い」などあるわけがない

 ところできずな喪失症候群の人にしろ燃えつき症候群の人にしろ、なんで人間関係ができないかをもう少し考えてみたい。
 一口に言えば、「返しがない」のである。人は初めからある人に特別の愛情をもっているわけではない。人は初めからある人に特別の親しみをもっているわけではない。縁があって出会ってから、次第次第に時間をかけて親しくもなっていくし、愛情を深めていくのである。とにかく関係を作るのには時間がかかる。
 自分があることをする。そのことにこれだけの反応があったからとまた、その人は相手のために何かをすることになる。たとえばこの原稿を書いている前の日に、私はある講演会に出かけた。通常の講演会の講演料の一割である。この忙しいときになぜそのような講演会に出かけるかといえば、それは講演を依頼してきた人が私の教え子だからである。単に教えたというのではない。
 私が会長をしている早稲田大学交響楽団がドイツに演奏旅行をした時である。私は三週間という長い期間、学生につき合った。それに、当時その楽団の中で秘書の役割をしていた学生が感激して、旅行中私に気を使ってくれた。学生はお金がないからいいホテルには泊まれない。しかし彼女は私が泊まる部屋には事前に入り、水道の水の出具合から始まって、部屋のすべてをチェックしていた。
 見えないところでする、そういう学生の態度に私が感激する。「先生は忙しい中を来てくれた」という気持ちに対する、彼女らの気持ちの「おかえし」である。
 そういうことの約二十年間の積み重ねの中で、ただでも喜んで講演に行くという関係ができてくる。
 私はその講演のときに東京駅に予定より早く着いたので、約束の列車の、一つ前の列車に乗った。私は彼女のことだから一台前の列車で行っても、ホームで待っているだろうと思ったが、やはり待っていた。私は約束の前の列車に乗っていく可能性もあるのだろうから。そのときに「約束の時間はこれこれだから」という考え方をする人は、人間関係ができない。
 きずな喪失症候群の人ならどうなるか。私がドイツ演奏旅行に一緒に行くとなれば、そのときには「忙しいのに」と感激するかもしれないが、時が経てば、それが現実の世話という行動には結びつかなくなってくる。来てくれたことが当たり前になっていく。
 また講演会でも、約束の時間でなければ待っていない。そして私がホームで待っていたとする。しかし、私との約束の到着時間には待っていたのだから、なんの失礼もないだろうという考え方になってしまう。
 そういうつき合い方をしているきずな喪失症候群の人は、あるときに知らない人にいきなり極端に安い講演料で「講演会を依頼する」。そして安い講演料で来ないと「あの人はお金だけの人」と相手を非難する。つまりお金ぬきのつき合いをする関係になっていないのに、お金ぬきで自分だけに特別に接することを求める。

 ◎信頼関係が出来上がるまで待ちなさい

 私はだいぶ前に、ある顔写真をただで撮影してもらった。それをしばらく本などに使っていた。それはある有名な写真家に撮影してもらったものである。聞いてみると、その写真家に顔写真を撮影してもらいたい社長などは、何百万円という料金を払うそうである。
 ではなぜ私はただでしてもらったのか。それはそういう関係になってから、写真撮影を頼んでいるからである。私はその写真家の方に何も言わないのに、ただにしてくれたのである。
 きずな喪失症候群の人はそういう関係を築かないうちに、ただで写真を撮影することを要求する。そして撮影してもらえないと、相手を「金銭だけの人」と非難する。
 ある人と出会う。その人が「あなたは立派な人だ」と言ったとする。するときずな喪失症候群の人は、これで「親しい」と思ってしまう。さまざまの体験の積み重ねがないうちに親しいと錯覚する。
 そして「これをしてくれ、あれをしてくれ」が始まる。そしてそれをしてくれないと「オレを好きではないだろう」と相手を恨みだす。あるいは「これくらいしかしてくれないのか」と恨みだす。「親しいのだから、これくらいしてくれてもいいだろう」となってしまう。そしていつになっても人間関係ができない。
 きずな喪失症候群の人は、「自分の側の返し」がないから相手が与えてくれないと思わない。相手も人間なのである。それがきずな喪失症候群の人にはどうしても理解できない。きずな喪失症候群の人は信頼関係を築く期間を間違えている。
 親しくなってからなら要求してもおかしくないことを、親しい関係ができる前に要求してしまう。そして断られると相手を恨む。いつになっても人間関係ができない。
 たとえば、きずな喪失症候群の編集者である。著者に初めて電話するのにも、十年以上のつき合いのある著者と話をするような口ぶりになる。親しみやすい人柄を演技しようとするが、厚かましさしか感じられない。長年にわたる著者と編集者とのつき合いの中から生じる信頼関係があるから、電話一本ですむこともある。あるいは会いたいときに「ちょっと、時間を作って」と無理を言える。
 きずな喪失症候群の人には、この関係を築くということが理解できない。

  あとがき

 ◎人間関係の贅沢は最高の贅沢

 何をもって贅沢(ぜいたく)と言うかは、人によって異なるだろう。お金が有り余るほどあることが贅沢だ、と思う人もいるだろうし、贅沢とは人間関係のことをいう、と思う人もいるだろう。サン=テグジュペリは「心の贅沢とはただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ」と述べている。これも一つの考え方である。
 なんとなく落ち着かないとか、やりきれないほど退屈だとか、なんだか知らないけれどもイライラするとか、ひどく孤独だとか、たまらない疎外感とか、重苦しい憂鬱とかいう否定的な感情に苦しめられている人は多いだろう。こうした否定的な感情を解決するには、どのような方法があるのだろうか。そのうちの一つは今現在の人間関係の変更である。
 それらの不快な原因は、お金のないことだと思う人がいるかもしれない。では、それらの否定的な感情は、経済が好況になれば解決するのだろうか。解決できないと考えるほうが正しいようである。否定的な感情と経済的な不況の関係についての調査がアメリカにある。それによると、経済的な不況と否定的な感情とはあまり関係がない。
 経済が不況だからといって、人々の否定的な感情が増大するわけではない。つまり、なんとなく落ち着かないとか、やりきれないほど退屈だとか、なんだか知らないけれどもイライラするとか、ひどく孤独だとか、たまらない疎外感とか、重苦しい憂鬱な気分の人は経済が好況だろうと不況だろうと、それには関係なくそういう感情なのである。経済が不況になったからといって、その否定的な感情が増大するわけではない。
 経済的な不況によって影響をうけるのは、肯定的な感情である。つまり喜びとか、達成感とか、誇りのような肯定的な感情が経済的な不況によって減少するのである。考えてみれば、何も調査をしなくても、日常的にこのことは私たちが感じていることではある。経済が不況になると、なんとなく街にも人々にも活気がなくなる。
 お金があれば、酒を飲みにいって楽しむということはできる。資金があれば、新しい仕事に挑戦することもできる。そこで肯定的な感情を得ることはできる。しかしお金では、先に述べたような否定的な感情は解決できない。
 しかしこうした否定的な感情は、初めに書いたように人間関係の改善で解決できるところがある。今の人間関係を変えれば、否定的な感情は変わるかもしれない。今あなたが否定的な感情に苦しめられているとすれば、あなたは間違った人とつき合っているのかもしれない。
 人間関係は、幸せの大きな源にもなれば、不幸せの大きな源にもなる。幸せな人は、人間関係が豊かである。幸せな人は、人間関係を間違えていない。幸せな人には、親しい人がいる。信じられる友達がいる。社会に積極的に参加している。
 それに比べて不幸せな人は、親しい友達もいなければ、信頼する恋人も配偶者もいない。親兄弟とも心をひらいて話をしていない。とにかく人間関係がうまくいっていない。


 ◎人づき合いに必要なトラブル、不要なトラブル

 ただ間違えないでほしいのは、人間関係がうまくいくというとと、トラブルがないということは別である、ということである。人間関係にはトラブルがつきまとう。人間関係のトラブルが嫌ならば、人間関係をなくせばいい。離れ小島に一人で住めばいいのである。自動車事故が嫌ならば、車に乗らなければいいのと同じである。
 人間関係が密になればなるほど、どうしても問題は出てくる。子供のいる家庭と子どものいない家庭では、どちらが結婚生活の緊張が高いかの調査がある。結婚生活の緊張が高いのは、子供のいる家庭である。当然、夫婦で子育てについて議論したり、子供への接し方から問題が出たりと、緊張は高まり、結婚生活は、そう穏やかというわけにはいかない。
 米国で行われた、29歳から49歳までの、結婚している男性360人に対する調査である。子供のいる結婚生活の41%は緊張が高いのに、子供のいない結婚生活の場合には緊張が高いのは24%である。なんのかかわりもない赤の他人なら、問題は生じない。
 誰とかかわろうと、関係をもてばトラブルは出てくる。人と親しくなるのにトラブルなしに親しくはなれない。だからこの本は、人間関係のトラブルを避けるための本ではない。

 ただ人間関係には避けられないトラブルと、避けられるトラブるとがある。避けられないトラブルとは、親しくなる過程のトラブルである。トラブルを通して相手を理解することができてくる。
 それに対して、避けられるトラブルというのがある。それはあなたが消耗するだけのトラブルである。トラブルがあっても人間関係は改善されない、お互いに親しくもならない、ただ不愉快なだけのトラブルがある。あなたの死を早めるだけのトラブルがある。この本で説明したのは、このあなたの死を早めるだけのトラブルである。そして、それをどう避けるかということである。
 しかし不思議なことに、悩んでいる人はこの避けられるトラブルを避けようとはしないことが多い。そして、不幸な人ほどその人間関係を変えようとしない。悩んでいる人は、自分に不幸をもたらす人間関係にしがみつく。自分を傷つけている人にしがみつく。あるいは、お互いに傷つけあいながらも別れない。
 たとえ別れることがあっても、また同じタイプの人間と結びつく。お互いに傷つけあいながら離れられない関係がある。お互いに依存心をもった人同士の関係である。あるいは、この本で説明してきたような人たちとの関係である。性格も合っていない。


 ◎トラブル回避と最良の方法は別れること

 毒があったり、依存心が強ければ、トラブルは避けられない。だから、こうしたトラブルに際しての最良の選択は、別れることなのである。お互いに別れることが、トラブルを避けるベストな方法なのである。とにかくこうした毒のある人々とは、別れることである。きずな喪失症候群の人とは別れることである。
 先に避けられるトラブルと言ったのは、別れるという意味で避けられると言ったのである。関係を維持していれば、トラブル続きである。この本では「こういう人」とつき合っていても幸せになれない、ということを書いたつもりでいる。いや不幸になると書いた。
 幸いにしてその人間関係が壊れたときには、もう戻ってはいけない。先へ進まなければいけない。しかし依存心をもった人は、また同じ人とくっつく。同じ人と再びくっつかなくても、同じ種類の「毒のある人」とくっつく。そうして、自分のたった一度の人生を無駄にしていく。
 人はそれぞれの器、それぞれの能力に応じて仕事ができる。運命が違うのだから同じにはなれないが、生きることをそれぞれの立場で楽しめる。そして、それなりの幸せをつかめる。
 それのできない人は、どんでもないことにエネルギーを浪費しているのである。そのエネルギーの浪費の中でも最たるものが、毒のある人との人間関係でのトラブルである。それに消費されるエネルギーは、莫大なものである。そのトラブルに費やされるエネルギーを、親しくなれる人との関係に向けられれば、幸せになれる。
 この本が、あなたが誰とつき合うかの選択の手引書になってくれれば著者としては嬉しい。
 なおアメリカのDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders,American Psychiatric Association:精神障害の診断と統計の手引き)では、今は神経症という言葉ははずされている。しかしこの本では、従来どおり神経症という言葉を使った。私は、自己実現をできない抑圧の強い人、というくらいの意味で使った。
 最後になったが、この本の出版も福島広司君と西村映子さんのお世話になった。いつもどおり紙面を借りて感謝を表したい。


 

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コメント
 
01. 2012年6月08日 18:42:05 : oJ2LFULw7c
いや、長いな。
こんな長いの、見たことない。
ものすごくヒマな時に、読んでみる…かもしれない。

それはそうと、投稿者さん
最初のブログからの引用が
「燃えつきる人を搾取しながらも恨むから恐ろしい」までで、
そのあとはもう1つのブログからの引用ですね。

そのもう1つのブログは「夕焼け朝焼けメロンパン」と題していて、
加藤 諦三の本を紹介しているようだ。

だが少し眺めてみると
「ところできずな喪失症候群とは、私が作った言葉なので、」とある。

第1のブログ冒頭に
「「きずな喪失症候群(そうしつしょうこうぐん)」とは著者(加藤諦三)が作った言葉です。」とあるから、
つまりこのブログ主は、加藤 諦三さん?

まさか投稿者さん、あなたじゃないよね?

要するに何が言いたいかというと
これだけ長々と投稿するんだったら
以下の投稿が誰の文によって、どのように構成されているのかぐらい書かないと
不親切じゃないの?ってこと。

「誰が書いてるのか」は大切だからね。
それを知るためにいちいち元のページを見にいくのも面倒だし。


02. 五月晴郎 2012年6月08日 19:11:32 : ulZUCBWYQe7Lk : TwDRqxNMUg
>>1

ご指摘ご尤もです。(ちなみに、当たり前ですが転載引用部分に私が何か足すならちゃんと断ります)

でも、確認するなら面倒でもご自分で見に行ってください。
夕焼け朝焼けメロンパンさんが、加藤さんの著作から(多分、無断で)転載してると思います。



03. びわ 2013年3月15日 02:14:02 : CVKzVzGqiIijg : NwzTx8NhFc
私が読んでいる加藤さんの内容がそのままここに掲載されてます・・・
本は『「あなたを傷つける人」の心理 加藤諦三 さん作です。

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