★阿修羅♪ > 昼休み35 > 145.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
【与謝野馨、渡邉恒雄を通じて(中曽根の)秘書に】(迂回献金王・与太野は、ロッキード事件の真相を語るべきです)
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak35/msg/145.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2010 年 2 月 14 日 15:27:05: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E9%A6%A8
与謝野馨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
日本の政治家
与謝野 馨
よさの かおる

2008年9月11日、東京都渋谷区にて
自由民主党総裁選挙の街頭演説を行う与謝野馨
生年月日 1938年8月22日(71歳)
出生地 東京都千代田区
出身校 東京大学法学部卒業
前職 日本原子力発電従業員
政治家秘書
所属政党 自由民主党(無派閥)
称号 法学士(東京大学・1963年)
公式サイト 与謝野馨Official Web Site

--------------------------------------------------------------------------------

第11代 財務大臣
内閣 麻生内閣
任期 2009年2月17日 - 2009年9月16日
退任理由 内閣総辞職のため

--------------------------------------------------------------------------------

内閣府特命担当大臣
(金融担当)
内閣 麻生内閣
任期 2009年2月17日 - 2009年9月16日

--------------------------------------------------------------------------------

内閣府特命担当大臣
(経済財政政策担当)
内閣 麻生内閣
任期 2008年9月24日 - 2009年7月2日

--------------------------------------------------------------------------------

内閣府特命担当大臣
(経済財政政策・規制改革担当)
内閣 福田康夫改造内閣
任期 2008年8月2日 - 2008年9月24日

--------------------------------------------------------------------------------

第74代 内閣官房長官
内閣 安倍改造内閣
任期 2007年8月27日 - 2007年9月26日

--------------------------------------------------------------------------------

その他の職歴
内閣府特命担当大臣
(金融・経済財政政策担当)
(2005年10月31日 -2006年9月26日)
第63代 通商産業大臣
(1998年7月30日 -1999年10月5日)
第121代 文部大臣
(1994年6月30日 -1995年8月8日)
衆議院議員
(1976年12月10日 - 1979年9月7日)
(1980年6月22日 - 2000年6月2日)
(2003年11月9日 -現職)
表・話・編・歴
与謝野 馨(よさの かおる、1938年8月22日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(通算10期)。

文部大臣(第117代)、内閣官房副長官、通商産業大臣(第63代)、自由民主党政務調査会会長、内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策、規制改革担当)、内閣官房長官(第74代)、財務大臣(第11代)などを歴任した。

目次
1 概要
1.1 生い立ち
1.2 政界へ
1.3 落選と小泉・安倍政権
1.4 福田・麻生政権での活動
2 政策
3 政治資金
4 秘書のスキャンダル
5 人物
5.1 信仰
5.2 趣味
6 文献
6.1 著書
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク

[編集] 概要
[編集] 生い立ち
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に与謝野秀(しげる)・道子の長男として生まれる。父・秀は歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻の二男で外交官であった。生後すぐに父が中国・北京に赴任したため、馨も0歳にして北京に移る。日本に帰国した4歳の頃、祖母・晶子が死去している。戦時中、父はベルリンの日本大使館に勤務していたが、日本に残された家族の生活は困窮し、無賃乗車で母と共に交番に連れて行かれたこともあったという。戦争末期には東京大空襲にも遭遇している。港区立麻布小学校卒業後、麻布中学校に進学。

父がエジプト勤務になったときは、カイロ郊外・ヘリオポリスのイングリッシュスクールに編入学している。このころ、自分が敗戦国の国民であることを強烈に感じ、日本の文化・経済を一流にしたいという想いが生まれたという。その後、イギリスのオックスフォード大学への進学を目指し、一次試験までパスするが、考えを変えて日本に帰国。麻布高校に編入学する。卒業後、駿台予備学校で1年間の浪人を経て東京大学文科I類に入学。いわゆる全学連世代だが、学生運動には一切関わらなかった。駒場時代は授業に失望して文学書を濫読。学生時代の記憶に残る本として有島武郎の「カインの末裔」、後々まで自分の思考に影響を与えた本として、碧海純一「法哲学概論」、団藤重光「刑法綱要」などを挙げている。硬式野球部に所属し、マネージャーを務める。このときの2年後輩に新治伸治がいる。

1963年東京大学法学部卒業。母の知人・中曽根康弘の紹介で日本原子力発電に入社する[1]。日本原子力発電では、当初技術部に配属され、後に外交官となる今井隆吉係長の薫陶を受け、英語専門文献の翻訳なども手がけた。後に事務系に転じ、米国での資金調達や原子力保険といった金融業務に従事していた。

会社の命により、民社党の核拡散防止条約に関する訪欧調査団に原子力の専門家・通訳として同行。調査団メンバーは後の委員長佐々木良作を始め曽祢益、岡沢完治、渡辺朗。与謝野にとっては政治家と深く関わった第一歩であり、こうした民社党の面々とは政界入り後も親しい関係が続くことになる。この訪欧中にドイツで中曽根康弘と邂逅、このことが政界入りの直接の契機となった。中曽根とは就職の斡旋以来、勉強会などを通じて親交があったが、帰国後にやはり同じ勉強会のメンバーであった渡邉恒雄を通じて秘書にならないかと誘いを受けた。

[編集]  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 昼休み35掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 昼休み35掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧