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日航ジャンボ123便 「新潮 木こりの消防団」(「巨根キノコ小沢ダケ」と「イン衝き」しすぎて潮を吹きまくっているB姫です
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak43/msg/648.html
投稿者 愉快通快 日時 2010 年 11 月 02 日 17:41:29: aijn0aOFbw4jc
 

日航ジャンボ123便の際に、不思議なこととして、早くからスゲの沢の現場にいた「木こりの消防団員」である。
もちろん、上野村消防団は、かなり後から到着したので、消防団ではない。
しかし、カメラマンには「消防団の木こり」と名乗ったのである。

「木こりの消防団員」は、日航ジャンボ123便の生存者救出も行っていなかった。


<参考引用>「木こりの消防団員」
「4/524」          小平尚典(写真家)


一九八五年夏、お盆前日の夕暮れどきだった。私は東京の下町、永代橋付近の交差点で、片手をハンドルにもたせかけ、ぼんやり路上を見つめていた。やがて信号が変わり、車はのろのろ動き出す。黒いマジックで塗りつぶしたような橋げたの影を目で追いながら、撮影するように瞬きでシャッターを切ってみる。
エアコンの効いた静かなボルボの車内、眼下には隅田川の川面がオレンジ色にまぶしく輝いている。ガソリンはまだ半分近く残っていたが、カメラマンという仕事がら、できるだけその日のうちに満タンにしておくようにしていた。いつも立ち寄るスタンドで給油を終え、清々しいくらい威勢のいい若者の声に送られながら、通りに出た。
一日の仕事が終わった。世間は明日から夏休み。今日は一歳の娘と風呂にでも入るか、それから冷えたビールで一杯、とりたてて急ぐでもなく私は深川の自宅へ車を走らせた。
そのとき、トゥルルル、トゥルル――と自動車電話の独特な呼び出し音が鳴りひびいた。今でこそ誰でもあたりまえに携帯電話を持っているが、一九八〇年代半ば、重たいバッテリー付きのショルダーバッグ型であれ車内据付型であれ、移動式の電話機を持っている民間人は、報道関係者か暴力団関係者ぐらいのものだった。
くつろぎを破られたことに少しうろたえながら、後方を確認して車を端に寄せ、左手で受話器をあげる。一回り年上の先輩カメラマン、Wさんからだった。
「おい、コヒちゃん、飛行機が行方不明らしいぞ」。事件や事故の一報に多少は慣れてきていたが、これにはいつものように冗談を返す余裕がなかった。「早く、NHKに合わせてみろよ」。念押しするように言われ、慌ててギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引き、ラジオをつける。
「羽田発大阪行きのJAL123便が十八時五十六分頃、静岡上空で消息を絶っている模様――」
それだけの情報が、何度も繰り返されていた。
「俺、いま北海道にいるんだ」
Wさんは、どことなく悔しそうな口調でそう言うと、「大変だろうけど、頼むよ」と言った。
「了解。とりあえず、編集部に向かいます」
私はそう答えると、いま来た道を注意深くUターンして編集部のある神楽坂方面を目指した。茅場町を過ぎたあたりでT記者から電話が入り、編集部で落ち合うことを確認する。
大変なことになった。何かの間違いならいいが……。いうまでもなく飛行機事故は大勢の乗客の生死に関わる。地上にクラッシュしたとすれば、生き残ることは奇跡に近い。不意に親友のレーシングドライバーの「リクライニングを少し起こし、お尻で車のリアの流れを感じられるように」という言葉が頭に浮かぶ。私は少し背筋を伸ばして肘にゆとりを持たせ、やわらかくハンドルを握った。信号でブレーキペダルが踏みやすいように、ひざの余裕を確認し、これでよし、と一人でつぶやきながら・・・・・・・。
  *** 
その頃、私は写真週刊誌「フォーカス」の契約カメラマンだった。創刊当初は部数が低迷していた同誌が、新しい写真ジャーナリズムとして勢いを得たのは、ホテルニュージャパンの火災がひとつのきっかけだった。当時を少しさかのぼってみる。
一九八二年二月八日午前三時二十四分、私は電話で叩き起こされた。
「とにかく、何でもいいから撮ってこい」
という田島デスクの言葉を受け、私はバジャマの上からダウンジャケットとジーンズを着て車に飛び乗った。広尾から乃木坂、そしてTBSの裏道を抜けて、赤坂の日商岩井ビルの裏手に車を停めて現場へ急行した。すでに新聞やテレビのカメラマンが大勢いて、慣れた様子で撮影しまくっている。
「これは困ったな」
まだ現場経験が浅い私は、途方に暮れて火災現場の混乱を眺めていた。すると目の前に赤い回転灯を回しながら日本赤十字社の救急車が停車し、カバンを抱えた医師や看護士たちが足早にビル裏手の暗がりへ走っていく。思わずそれを追いかけていくと、路上に置かれた担架の上に毛布がかぶせられている。横たわる人影は、すでに生気を失っているようにみえた。医師たちは懐中電灯で患者の診察、というより検死をはじめた。
そこへテレビの照明が差し込んだ一瞬、私は望遠レンズを開放にしたままモータードライブをフル連写した。すぐさま警官に制止され、あたりは暗闇に戻る。それから二時間ほど現場周辺をうろついてみたが、報道カメラマンとしての手ごたえはほとんどなかった。
編集部に戻り、地下の暗室で現像したコンタクトを田島デスクに手渡す。朝がた、カメラマンたちが撮影してきた、できたばかりのモノクロプリントが編集部の大きなデスクの上にばらまかれた。しばし沈黙の後、厳しい目をした後藤章夫編集長が、「これでいく」と、一枚の写真を取り上げた。ビルの陰での検死のアップである。「瞳孔反射なし」とタイトルがつけられた写真は、巻頭トップだった。後藤編集長は、「写真でタイトルがつけられるような写真が、フォーカスの写真だ」と話していたという。
編集部は、事件や事故、スキャンダルなどを担当するフォーカス班と、イベントなどが中心のコラム班の二班に分かれていた。私ははじめ後者の仕事をしていたが、ニュージャパンの火災以降、いつのまにかフォーカス班専属になっていた。自分でも、報道カメラマンは性に合っているのかな、と感じはじめてもいた。
だから、ニュージャパンの火災の翌々日、またも電話で叩き起こされ、「羽田空港で日航機が墜落」と聞かされたときも、体は自然に動いたし、首都高速を現場へ急ぐパトカーの後につくことにも抵抗を感じなくなっていた。
***
神楽坂の編集部へ急ぐあいだ、私が思い出していたのは、機長が「逆噴射」のあげく着陸に失敗、東京湾に墜落して二十四人が死亡した事故のことだった。
やがて牛込北町の交差点を過ぎ、新潮社に到着。編集部にはすでにT記者が到着していて、フォーカス班の責任者・田島デスクとソファでテレビを見ながら、神妙な顔で打ち合わせをしていた。
そこへ、田沢進写真部長が地下の暗室から上がってきた。
「どうもこれは大変だぞ。これ、持ってけ」
田沢部長から渡されたトライXフィルム・プロパック二十四本入りはずしりと重かった。
「自動車電話があるから、小平さんのボルボでいい?」
デイパックを背負ったT記者が言う。
「もちろん、じゃ、行ってきます――」。
田島デスクのほうへ言いかけたが、彼はすでに電話で方々に指示を飛ばすのに忙しかった。
「お前さんたちなら大丈夫だろうが、くれぐれも気をつけな!」
代りに田沢さんが、勢いよく送り出してくれた。
車に乗り込み、地図をチェックしていると、不安と緊張で額や手に汗がにじんできた。もう一度、シートの上で尻の位置を確かめてからアクセルを踏んだ。夜八時過ぎ、慶大病院を右手に見ながら、中央道を目指して首都高入口に入る。車はスムーズに流れていたが、ニュースを意識しているせいか、どのテールランプはどことなく緊張感が漂っているような気がした。
ラジオは、断片的な情報をつないで墜落(?)場所についてニュースを流していた。
「長野県、群馬県県境の上野村、三国峠、南相木村あたりの山中に落ちたと、米軍機から横田基地を通じて報告があり、捜索を開始したもよう……」
南相木村といえば、その隣の川上村に小学館のアウトドア雑誌「Bepal」と村が提携して作ったキャンプ場「ビーパルランド」がある。ちょうど一週間前、フォーカス合併号の休みを利用して、トヨタ車のPR撮影の仕事で訪れたばかりだった。
早速、ビーパル編集部に電話を入れてみた。編集部員はテレビの前に釘付けらしく、ざわざわしているのが分かる。電話に出た友人のフリーライターは、
「どこに落ちたかはっきりしないけど川上村の先、南相木村方向みたいですね」
と興奮ぎみに伝えてくれた。
それなら首都高速を新宿から中央高速に入り、いつものように小淵沢インターで降りて川上村方向に行くのが早い。登りの多い中央道を、車はエンジンを全開してトラックのようなうなりを上げて走る。やはり、ガソリンは満タンにしておくべきものだ。
高速を出て、何度か通ったことのある山道を抜け、南相木村の目的地に着いたのは深夜零時を過ぎていた。警察車両のジープや消防団員のグループが目に入る。道を進んでいくと、警察官に小学校のグラウンドへ誘導された。報道関係者らしいのは私たちだけで、グラウンドがやけに広く感じられた。ともあれ一番隅っこに駐車し、首からライツミノルタCLEに28ミリレンズ付けて、首からぶら下げ、運動会用のテントが張られた対策本部らしいところをのぞく。
村の消防団らしき人と駐在さんが、お茶をすすっていた。「どこが現場か、判明しましたか?」
二人とも、「いや」というようにかぶりをふる。
これ以上アテなし、前進かなわずとなれば、待機して状況を把握するよりほかない。すでに自動車電話は電波がとどかない。二人で闇夜の白熊みたいに辺りをうろうろ歩き、報告と送稿をするための電話ボックスだけは見つけておいた。
夜は深まり、ラジオは新たな情報もなく同じ原稿をリピートするだけ。つまり搭乗者名簿を順番に読み上げているだけだった。
「名前だけだけど、いろいろな人生があるんだろうなぁ……」
T記者がつぶやくのに相づちをうちながら、少しだけまどろんだ。
 ***
「夜明け前、四時ぐらいに自衛隊の捜索隊が出るらしいよ」対策本部からT記者があわてた様子で戻って来た。
「よっしゃ、ついて行こう」
そうは応じたものの、見知らぬ山の中を自衛隊について行けるだろうか。体力に多少の自信はあったが、日頃の運動不足と不摂生を考えれば、いささか心もとない。体こそ大きいT記者も、両切りタバコを欠かせないへビースモーカーである。
私は不安を振り切るようにワゴンの後部ドアをハネ開け、ひんやり冷たくなったカメラを取り出した。一眼レフは、ニコンFM2モータードライブ。もう一つは、機械式の使い慣れたニコンF。なるべく荷を軽くするためレンズは被写体に寄れたら広角、引きなら望遠と考え、20ミリと300ミリの二本だけに絞り、念のため一・四倍のコンバーターも300ミリに装着した。ストロボは高速連写ができる特別仕様のサンパックSR25を入れ、Tシャツとタオルで機材をくるみ、フィルムをわしづかみにして七本、デイバックに入れる。T記者はつぶした食パン、軍手、タオル、取材メモ帳とペンをナップザックに詰め込んだ。
捜索隊のテントに行くと、すぐにも出発する様子である。しかし、山道をボルボで自衛隊のジープについていくのはとても無理だ。自衛隊のジープに乗せてもらえないか思案していると、そこへフォーカスの先輩カメラマンが幌付きジープで滑り込んできた。
「早く乗れ! とにかく自衛隊をマークして着いていくしかないだろ」
まったく絶妙のタイミングだ。二人で飛び乗り、それからどのくらい走ったか、自衛隊車両が止まり、十数人が円陣を組んで部隊長の指示を聞いている。しかし、上空からの視認と地上からの確認は全く次元が異なる。おそらく、彼らにとっても雲をつかむような話なのかもしれない。これほど文明が進んだ世の中で、ジャンボジェット一機、探し出せないとは――それでも、これにくいついていくしかない、そう覚悟をきめた。
隊長らしき人物が近づいて本部から墜落機には放射線アイソトープが積まれていたらしく、もし現場に到着しても何も触らないようにと、注意を受けた。ちょっと緊張する。
 先輩カメラマンはここで待機となり、私たち二人を含めて、他社の数人が隊員たちを追った。急勾配の山腹、道なき道を自衛隊員は黙々と訓練のごとく進んでいく。ついていく私たちはたちまち息づかいが荒くなり、隊員たちがしだいに小さくなっていく。そのうち全身で這いあがるような崖が現われた。これはまずい。いつの間にか、スーツと革靴の新聞記者や、荷の重いテレビ報道陣もリタイヤして降りていったようだ。
すでに自衛隊の姿は視界から消えていたが、それでも上へ上へと登るうち、どうやら頂上近くまでたどりついた。ヘリコプターが飛んでいるのが眼下に見える。
「小平さん、煙!」
T記者の指さす方を見ると、何かうっすらと煙のようなものが立ちのぼっているのが見える。急いで300ミリレンズにコンバーターを付けてファインダーを覗くと、文字が見てとれた
「JAL」
飛行機の翼だった。慌てて数枚シャッターを切る。続けて、天候や山全体の様子をライツミノルタのワイドレンズで撮影した。全部で20カットほど。先のことを考えれば、フィルムの無駄遣いはできない。
「どうしよう?」
「まっすぐに降りていけば近づけるかも」
道なき道を、今度は谷へ向って降りていく。もとより二人とも素人で、ベテラン登山家ではない。百メートルも降れば、方向さえ分からなくなる。とにかく喉が渇いたが、私たちは基本中の基本である水筒さえ持っていなかった。岩肌の湧き水を小さなフィルムケースに汲んで、何度も飲んだ。この沢づたいに行けば、最悪、遭難してもいつか川に出て町につく。そう言いながら、沢の岩を一つ一つ超えていった。水筒はなくとも、ジョギングシューズだったのは救いだった。
やがて徐々に視界が開けてくると、塵が舞うように辺りがホコリっぽいことに気がついた。地面には、機械部品のような物があちらこちらに落ちている。少し進むと今度はいくらか大きな部品が落ちている。T記者の表情は、疲れだけでなく、硬くこわばって見える。開き直って進んでいくと、岩の上にトランプが落ちていた。スペードのエース。嫌な予感がする。やはり、飛行機は墜落している。それを確かめるように、私は背景を入れてシャッターを切った。
トランプにかまっている場合か、そう思ううちにいっそう景色がぼやけ、塵芥が深海のプランクトンのよう日差しの中に立ち込める。
青い物が見えた。近づいてみると乗客用のイスだった。ここだったのか――。前の晩から目指してきたはずなのに、正直、認めたくなかった。倒れた木の間から、飛行機の翼の破片らしき大きな固まりが見えた。ついに墜落地点だ。まるで機体を隠すように木々が包み込み、覆いかぶさっている。木々の匂いと、きな臭い、油臭い匂いが鼻を突く。
やがて木々が広くなぎ倒されたところに出ると、半纏姿の消防団の人たちが、こちらを見ながら何か叫んでいるのが見えた。私たち二人も「おーい!」と手を振った。
 「びっくりしたなァ、いきなり生存者かと思った」
数人の消防団員に言われ、
「いえ、報道の者です」
と短く返事をする。
「まあ、こっちに来て座れよ。しかし、よく来たなァ、俺たち木こりだけど、ここはほんとうに山深いから、誰も足を踏み入れないんだ」
ねぎらうように勧めてくれたタバコを、ありがたく頂戴した。
「放射線アイソトープが積んであるからって言われてるけど、兄さんたち、どういう意味か知ってる?」
「いやぁ、僕らも言われましたけど、よくわかんないです」
***
しかし、いったい何をどう取材すればいいのか。東京湾の夢の島みたいなこの場所で、何を撮影したらいいのか?
全く生を感じないこの無法地帯で・・・・。しかたなく私はカメラを取り出し、いくらか無造作に、とりあえずあたりを見渡し360度のパノラマを数カット撮影した。後で知ったことだが、菅の沢というこの場所は、機体の後部が御巣鷹山頂から滑り落ちてきたところだった。私たちは、そこでなぎ倒された木の上に座り、消防団のおじさんたちと束の間、不思議とぼんやりした時間をともにした。
が、それもほんの数分間だったように思う。何気なく沢の下方を見ていたら、ゴミの山みたいな瓦礫と木々が散乱した隙間で何かが動き、そして光った。それはシルバーの指輪のようだった。
「あれ、今、何か動いた!」
300ミリの望遠レンズで探したが、見当たらない。が、探してなどいられなかった。木こりの消防団員たちと一緒に、いっせいにそちらへ走った。夢中で駆け出したことは覚えているが、白昼夢のように記憶がない。放射性アイソトープのことなど、皆忘れていた。
「たすけて……!」
と、弱々しい声が聞こえる。ここの奥だ! 
誰かが叫ぶ。この惨劇で、生存者がいた。あるいはもっと生存者がいるのでは? 希望が湧き起こり、誰もが興奮している。気がつくと、どこから出てきたのか自衛官やレスキュー隊が集まってきた。
 私たちは少し下がって、救出作業を見守った。ニコンFM2に20ミリレンズを装備し、ピントは3メートルに固定、ストロボもシンクロコードも外れないようにすべてガムテープで固定した。小雨まじりでやや薄暗く、トライXフィルム増感ASA800に合わせて1/250のf8にセット。何が写るか分からないが、願わくば、救出の瞬間を撮影することに全神経を集中させた。
どのくらいの時間がたったか。
「邪魔だ、どけ、どかんか!」
長野県警のレスキュー隊員が女性を背負って叫んでいる。ノーファインダーで、ローアングルからすくいとるように6、7枚連写したが、それ以上深追いはしなかった。その後方で、小学生ぐらいの女の子がもうすぐ救出されようとしていたからだ。そのまま少し身を乗り出し、今度もノーファインダーで上から見下ろすようにシャッターを切る。衝撃とショックのせいか、少女の目は焦点が定まらないのが気になった。最初の五枚まではストロボが連動したようだった。
ポケットの中にあったシリコン製クロスでレンズの水滴を拭いていると、私たちに手を振り、「たすけて・・・。」と叫んだ女性が運ばれていくのが見えた。紺の水玉模様のワンピースがファインダー内に入る、隊員たちの隙間から三〇〇ミリでアップをなんとか撮影したが、すぐに毛布にくるまれ担架で運ばれていった。視線をめぐらすと、次の救出者のために自衛官が飛行機のドアで担架を作っている。
最後に救出されたのは、きりっとした面立ちの少年、と思ったが、よく見ると少女だった。やはり放心状態のようで、夢から覚めた子供のようだ。そうだろう、この惨劇を生き抜いたのだから。そのことはよかった、ほんとうによかった。素直にそう感じた。木こりの消防団のおじさんたちが、たとえようもなく優しい笑顔を浮かべている。その傍らで若い自衛官が、なんで、飛行機が……! と言って絶句した。放心と安堵がいりまじった空気が、救出現場を包みこんでいた。
最初に救出されたのは吉崎さん母子(当時三十五歳と八歳)、スチュワーデスの落合由美さん(同、二十六歳)、最後が川上慶子さん(同、十二歳)。五百二十五人中、四人の生存者が運び出されたあと、私は木にぶら下がった救命胴衣やなぎ倒された木々、機体の残骸などをできるだけ丁寧に撮影した。
次は遺体の収容作業だ。今にも動き出しそうな少年。幼い少女。サラリーマンであろう半袖の開襟シャツ姿の男性。座ったままのブルーの座席とシートベルトが痛々しい。千葉の船橋駐屯地からやってきた落下傘部隊や少年自衛官たちが黙々と、しかし丁寧に遺体を収容していく。彼らは、私のカメラを無視するように淡々と作業をしていた。そうでもなければ、こんな状況で規律ある行動はできないだろう。心底、敬服する。
私たちはただ現場を見つめることしかできない。小型カメラを持っていたT記者に、「何か、撮った?」と聞くと、「いや、小平さんにまかせましたから」と言う。無力だけどな、そう思いながら、私は何度もファインダー内を隅々まで見渡した。この現場を的確に残す――それだけを自分に言い聞かせながら。
***
午後一時を過ぎた頃、自衛隊の隊長らしき人と消防団に、「そろそろ下山しないと。ここでビバーグするわけにはいかないぞ」
と注意された。言われてみれば、その通りである。撮影できるものは撮った。いや、もっと撮影すべきものがあるような気もするが、やはり心の中ではこの場所から早く逃れたかった。
「小平さん、戻りましょう」
T記者の一言で下山を決めた。バッグを担いで下山しはじめると、茂みの中にエンジンらしき物体が落ちていた。SF映画に出てくる宇宙船の残骸みたいだ。私はもう一度カメラを取り出し、20ミリのレンズでシャッターを切りまくった。できるだけ近くに寄り、あらゆる角度から、焼け焦げた機体の心臓を撮影した。悲しい、辛い、堪えられない、事故に関わる人たちの気持ちをぶつけるようにシャッターをきる。やがて持ってきたフィルムはすべて使い果たした。もう弾はない。もう限界だ。いや、もう撮影できないから、俺は帰る――。
急に強い疲労感に襲われ、足が重くなった。葉先の鋭く尖った熊笹を掻き分け、雨の中を登ってくる自衛隊員に無言の挨拶をかわしながら、黙って下っていく。廃坑になったトロッコの、ぶよぶよに腐れきった枕木がますます気持ちを沈ませる。再びごつごつした岩だらけの沢に出た。喉はからからだが、もうこの沢から流れてくる水は飲みたくなかった。
水に漬かったシューズはぐっしょりと重い。あとどのくらいで、麓の村にたどり着けるのだろう? 日が落ちてから真っ暗闇と化すまで、そう長くはない。水筒はもちろん、懐中電灯も持っていない。墜落事故で亡くなった人のことを思えば、こんなことでくたばれない。それにしても今日の二十四時間はずいぶんと長い。少し前、幼なじみの坊さんから、
「報道カメラマンも大変だろうが、事件や事故で死者に出会っても、同情せずに、大丈夫だよ、と死者に言い聞かせなさいよ」
と言われたことが頭をよぎる。
二人とも無言のまま、五分おきに休むようなテンポで、五時間近くも歩いただろうか。ついに前方に道路らしいものが見えた。それは沢にかかるコンクリートの小さな橋で、両手でよじ登って道に出た。助かった――。二人でへたり込む。T記者は腰をおろすなり、ぐちゃぐちゃに折れ曲がったゴロワーズをまっすぐにして火をつけた。甘い匂いがやさしいが、煙が目にしみる。
しばらくボーッとしていると、古い小型消防自動車が赤灯を回転させながら近づいてきた。徐行しながら、運転席の消防団員が、乗れよ、と手招きをしてくれた。実際、乗せてもらわないことにはもう歩けなかった。声を合わせて、「すみません」と叫びながら、後部の手すりにつかまり飛び乗った。
走り出した消防車の鐘が、からん、ころん、と鎮魂歌のように悲しく響いた。何秒かおきに、回転灯が互いの顔を赤く染める。まるで手に力が入らないが、なんとかフラップの鉄棒にしがみついたまま、私はできるだけ陽気に言った。
「ロンドンのダブル・デッカー(二階建てバス)に飛び乗ったみたいだな」
山里に入り、役場の近くで飛び降りた。近くに小さな食堂があり、中は報道陣で一杯だ。一つの赤電話に五人が並んでいる。考えてみれば前の晩から何も食べていない。潰した食パンもそのままだ。
とにかく店に入ると、T記者は編集部への報告用に十円玉を用意してくると言って席を立った。私はビニール袋に入れたフィルムを数えながら、早く現像しないとフィルムが腐ってしまいそうな気がしていた。
 ***
 ある日突然、前触れもなく大切な人を喪うショック。その苦しさ、寂しさは、できれば誰も経験したくはないだろう。しかし、四半世紀がそれなりの時間であることは身をもって感じる年齢に自分もなった。歳月というものが、毎日少しづつだけれど、冷えきった心を解凍してくれることは間違いない。
この事故からしばらくして、私は仕事の場をアメリカに移した。一度きりの一生、というような思いに背中を押されたこともあった。事故の記録を写真集『4/524』と題して日米同時に発表したのは、昭和から平成へと年号が変わって二年後の一九九一年夏だった。ページをめくると、今でも当時の光景がフラッシュバックする。一部では批判もあったこの写真集の最大の理解者だった父も、今年に入って他界した。
車や機械に詳しいT記者は、その後フォーカス誌で「交通大戦争」と題した連載を担当、警視庁から表彰を受けたが、一九九七年に四十代の若さで肺がんのため急逝した。
一時は二百万部という新聞並みの部数を誇った「フォーカス」は二〇〇一年夏に休刊となり、カメラマンも、編集記者も社の内外へ散り散りになった。
 世界航空史上最悪の事故を起こした日本航空は、経営難の末、今春、会社更生法を適用され、ナショナル・フラッグ再生へ向けて険しい道のりを歩みはじめている。
御巣鷹山で救出された四人のうちの最後の一人、川上慶子さんは、人の命を救いたいという理由から看護師になり、一九九五年の阪神大震災で被災者たちの救援にあたったと聞く。
最後に、昨夏この事故の写真展を開いた際に受けとった一通のメールを紹介したい(一部要約)。

JAL墜落事故。私にとってもこの事故は人生の中で何かを残しました。
二十四年前のその日、私は高校三年生。両親は旅行に出ていたので勉強の名目で同級生を家に招いて夕飯をつくり、テレビを見ていて速報で事故を知りました。時間が経つにつれ大事故が起きてしまったことを感じ、みんなで食い入るようにテレビをみていたのを思い出します。そして台所で食器を洗いながら、耳を疑ったアナウンサーの声。
「キウチシズコさん、十七歳」
あたしじゃん。あたし、ここに居るのに。変な錯覚に襲われるほどびっくりしました。
あたしじゃないあたしがこの世から消えてしまったと感じたのは、夜中、ベッドの中でした。涙が止まらなかった。親もおらず、友達に聞こえないように声を押し殺して泣きました。
「私と同い年で同姓同名の女の子がこの事故に巻き込まれていたのです。」
当時、あたしは亡くなったキウチシズコさんの分も、ご両親のためにも一生懸命生きていくんだ、いつかご両親に同姓同名のわたしが、彼女の分も幸せになった姿を報告するんだって、そう思っていました。折に触れ、八月十二日には、自分を振り返ってきました。
一言で言えば、私はとても幸せに生きています。楽しい大学生活を過ごし、天職にめぐり合え、仲間や仕事に恵まれ、いい恋もし。

事故からちょうど二十年目、朝日新聞でキウチさんの近況を目にしました。お兄様はご結婚され、お父様は広告代理店にお勤めだと書いてありました。奇遇でした。私も広告代理店に勤めていたんです。
普段購読していない朝日新聞に目を通すことも、同じ業界に居る事も、めぐり合わせ?
それでも、わたしには手紙を書くことができなかった。幸せに生きているのに、なんで高校生の時の想いを吐露できないんだろう、と。

命がけで現場に向ったレスキュー、被害者の家族、そして救助を待つ被害者、みんなそれぞれの想いがあるはずです。私は、小平さんの写真から、いま一度自分を生き抜くこと、周りの人に感謝し、自分ができることで手を貸すのを惜しまないことを学びました。
来年の夏、自分はあの御巣鷹に是非登ってみたい。キウチさんの家族に、わたしも頑張っています、と笑顔で伝えたいと思います。
                    キウチシズコ
 ***
 墜落地点/東経一三八度四一分四九秒、北緯三五度五九分五四秒。墜落時刻/一九八五年八月十二日、十八時五六分二七秒九二。乗員・乗客五二四名、生存者四名。

                    小平尚典
http://homepage.mac.com/nkohira/

 

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コメント
 
01. 2010年11月03日 02:29:01: B1c6pbDcJA
 「愉快痛快」ブロガ―さんへ、ご自分じゃ気付かないようだが、お前さんここんとこ壊れかけてきているよ。カウンセリング受けるなり、第3者の突き放した批評受けたらよい。今の状態続くと「小沢内閣待望論」ブロガ―のピストン打法に太刀打ちできず、ネタ切れで足が止まり、そのうち自爆玉砕になりかねないぞ。

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