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わたしはその歌い手を探していた精神の漂流者だった
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投稿者 愚民党 日時 2010 年 2 月 06 日 21:39:05: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 森田童子 ピラビタール 投稿者 愚民党 日時 2010 年 2 月 03 日 10:37:30)

1976年11月
アルバム・レコード マザー・スカイ Mother Sky ポリドールより発売

ぼくたちの失敗
ぼくと観光バスに乗ってみませんか
伝書鳩
逆光線
ピラビタール
海を見たいと思った
男のくせに泣いてくれた
ニューヨークからの手紙
春爛漫
今日は奇蹟の朝です


----------------------------------------

西会津 春先
死者を囲み青春を歌った友らは嗚咽上げ涙する
なごり雪よ 誰のためにふる
あなたを担ぐ 麻で編んだ武士衣装 
悲しみ映す 黒い道 白い雪

森田童子の歌を始めて知ったのは1978年4月だった。
死者が根元で眠る桜の花はなごり雪で凍りついた。


1978年4月に入り、わたしの友人、長谷川さんが死んだ。
胃がんである。日本革命運動の闘士だった。
彼は大企業の電器会社の工場で働いていた。彼は青年組織の
指導者であった。だからいつもしめつけが工場内では
厳しかったのである。1977年反動の季節、日本列島は
変革をきらい、復古が反復していた。あらゆる組織は
つぶされようとしていた。わたしはふるさとでの運動から
逃亡した。長谷川さんを残し。


その長谷川さんが病気で倒れ、1978年正月、栃木県
矢板市の塩谷病院に見舞いにいった。部屋から出るとき
彼の情念と執念がこもった視線に刺された。
「おまえは逃亡したのだ」と。


そして4月最初、工場の同志から電話がかかってきた。
「長谷川さんが亡くなった、葬式が長谷川さんのふるさと
である西会津である、待ち合わせは、明日の朝8時、
塩谷病院玄関前で」わたしはすぐ電車に乗った。上野駅近く
の深夜喫茶で東北本線下りの始発を待つ。


矢板駅についた。塩谷病院玄関前で待っている。まだ誰もきていない。
病院の前の道、高校生の頃新聞配達のため毎日、
自転車で販売所に通った道だった。
やがて恵子さんがあらわれた。恵子さんはわたしの幼なじみである。
東京から敗北して戻ったのは1974年だったが、うたごえ喫茶にいったとき彼女がいた。
そして長谷川さんと出会う。音楽が生きがいの人だった。
彼のギタ−伴奏に合わせ、おもいきっり、喫茶店で歌うのある。

雪が降ってきた。なごり雪である。やがて友人たちが集合してきた。
10人くらいである。それぞれ分散して車に乗る。西会津をめざす。
国道四号線を福島へ北上するのである。

長谷川さんの家に着いたのは昼頃である。葬式にはまにあった。
工場の党員同志たちも着ていた。
「この子は、みなさんに何か迷惑をかけていませんでしたか?
お金をかりたとか、あればいますぐ言ってくさい」
そう長谷川さんのお母さんが言った。会津武士の厳格さがあった。
「長谷川さんはそういう人ではありませんでした、お母さん」
山梨出身の工場労働者同志が言ってくれて、わたしたちは救われた。


冠の前で、青春を歌った、友らは嗚咽をあげ涙する。
わたしはバランスが崩れる、自分の精神と身体を保守するに精一杯だった。
わたしは、長谷川さんに謝るのに精一杯だった。


やがて長谷川さんは墓へと運びだされる。
雪はふるふる。雪に積もる白い西会津の村。雪が溶ける
黒いアスファルト道路。麻であんだ武士衣裳、村人男たち、
長谷川さんのお兄さんが冠を運ぶ。男たちは野辺送りの唄をうたいながら
裸足である。会津戦争で敗北した会津の死者たちは、薩長官軍
によって埋葬することを禁じられた。死者を愚弄した明治維新官軍
をいまだ会津はいまだ許していない。歴史は雪に埋もれている
に過ぎない。だから雪が溶けた黒い道を男たちは裸足で
共同体の青春途上の無念な若き死者を弔うのであろうか?


なごり雪よ誰のために降る


長谷川さんは土深く埋葬される。わたしたちは村人から
教えられる。土を手で墓のなかに入れてかぶせてあげるんだよ。
わたしは一握の土を手に取る。凍った土である。
長谷川さん体が入った冠に投げる。


「暖かいお茶を飲んでいきなさい」
近くの家で、わたしたちはこたつに入れてもらい、お茶をよばれた。みんな沈黙の悲しみにあった。

わたしたちは長谷川さんの村から帰る、隣の県へ。西会津から会津若松へ、そして猪苗代湖へ。
雪は激しくなってきた。郡山に入るとますます激しく。わたしは車の窓からただ路上の街灯をみていた。
雪が舞う。白河を過ぎ、国境へ入る。一台の車がとうとう動かなくなったので、おいていく。

車から歌が流れていた。
----------------------------
ビラビタール 森田童子

悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただ二人は息をこらえて
虫の音を聞いていました
そんな寂しい夏の終りでした

悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただ二人は目を閉じて
眠るのを待っていました
そんな寂しい愛の形でした

悲しい時はほほを寄せて
寂しい時は胸を合わせて
ただふたりは夜のふちへ
ふるえて旅立つのでした
そんな寂しい ふたりの始まりでした
------------------------------

わたしはその歌を聴きながら目を閉じていた。
川が流れている。彼岸には夏草の香り。
長い髪の少年と少女が黙って川を見ている。
語りえない内なる優しさは抒情の裏側にある現実の重みだった。

「誰の歌?」
わたしは運転している友に聞いた。
「森田童子」
友は答えた。
長谷川さんとの告別を葬式で確認したわたしたちは重く深い
悲しみの深淵に漂流していた。
わたしはその歌い手の名前をすぐ忘れてしまった。


わたしは黒磯駅でおろしてもらった。東京のアニメ−ション会社の職場に戻っても、わたしは沈黙の
悲しみにいた。言葉少ない日々が続いた。
あのときのあの歌は誰が歌った歌なのだろう? わたしはその歌い手を探していた精神の漂流者だった。

ちいさい仕事場にはいつも音楽がカセットデッキから流れていた。
それは同僚が日曜日にNHKFMの音楽番組を録音したテープだった。

「忘れ物を取りに教室に戻ったら誰もいませんでした。窓から午後の日差しがさしていました。
わたしはしばらくひとりたたずんでいました。森田童子さんの<海を見たいと思った>をお願いします」
女子高校生のリクエストをアナウンサーが読み上げ<海を見たいと思った>が流れてきた。

森田童子、その歌い手の名前はわたしの心に深く刻印された。
ようやく探し当てたと思った。季節は陽光の五月になろうとしている。
昼休み、池上本門寺まで散歩した。
並木道の樹木、若葉たちは風に踊っていた。わたしは25歳の逃亡者だった。

27年前の季節。
真っ白に積もった重たい雪のなかで、芽ばえている若葉は
五月になると街を彩る。

わたしは青春途上の死者たちを今でも忘れてはいない。
その記憶の案内人こそ森田童子である。

個人による個人のための個人へ
表現はこの世界に現有するもうひとりの自分へと
向かっていく。それが身体の糸である。

そして表現とは
いかなる時代になろうとも、何十年が過ぎようと
人の営みのなかでくりかえしくりかえし反復していく。


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