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NHK大河ドラマ『西郷どん』:父・西郷隆盛 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2018 年 10 月 23 日 18:12:58: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


  NHK大河ドラマ『西郷どん』:父・西郷隆盛 !

   西郷菊次郎・桂小五郎のプロフィールは ?

(www.nhk.or.jp:2018年10月21日より抜粋・転載)

明治2年、隠居し薩摩で穏やかな日々を過ごしていた、西郷隆盛(鈴木亮平)は、奄美大島から9歳になる息子・菊次郎(城桧吏)を薩摩に引き取る。
しかし、菊次郎は、継母となった糸(黒木華)とその息子・寅太郎にも遠慮し、心を開かない。一方、明治新政府は、版籍奉還など急激な改革を進め、不平士族や農民たちの反乱が、各地で起こっていた。

そんな時、大久保利通(瑛太)は、従道(錦戸亮)に、隆盛を上京させるよう説得させる。

○西郷どんの目線: ついに下野した隆盛は、故郷・薩摩へ——。

すっかり、昔の吉之助に戻ったかのように見える日々の中で、どうしても、背負わずにいられなかった「影」がありました。
それは、明治維新を遂げるための戦で、亡くした人々の思い。吉二郎だけじゃなく、敵も、味方も、すべての死者の魂を背負いながら、「あれだけの犠牲をはらって、国を変えたことは、正しかったのか?」と、自問自答する、隆盛がいます。

時代を変えて終わりではなく、そこから作りあげることの、苦しさや覚悟を、西郷さんも大久保さんもみんな背負っていたんだろうと気づかされます。そこにあるドラマを、ぜひ味わっていただきたいです。

そして、ここからの見どころのひとつは、息子・菊次郎の目線から見た、父・西郷隆盛が描かれること。「距離感」を大事に表現した、父と息子の物語にも、ぜひご期待ください。

○俳優・西田敏行:まさか、僕が菊次郎を演じることになろうとは、予想もしていなかったですね。

オファーいただいたとき、実はドラマの語りは「菊次郎の目線」だったと同時に知らされて、「あぁ、うまい見せ方だなぁ…」とうなりました。

まさか、亮平くんの息子になるとは、想像していなかったので、びっくりしましたけど、二階堂ふみさん演じる、愛加那さんとの間に生まれた子ども、ということなら、僕でもアリかな、なんて思いました。
ほら、愛加那さんと僕は、目もとなんか、ちょっと似てるような気がしましてね。ひとり勝手に……へへ(笑)。

やはり、一度は、死のふちに立った、西郷吉之助が、人間愛に目覚めたのは、愛加那さんあってこそ。ふたりの愛の結晶が、菊次郎ですから、とってもピュアな気持ちで演じさせていただきました。
この日本の歴史を思うと、愛加那さんには「よくぞ、西郷どんを愛し、救ってくださいました」と感謝の思いです。

僕が演じた菊次郎のシーンで、「敬天愛人」の言葉が出てきたことも感慨深いですね。
大河ドラマ「翔ぶが如く」で隆盛を演じたときは、背骨にこの文字が彫り込まれているような思いで演じたものです。

実はその頃から、僕の家のトイレに西郷隆盛の像を置いていて、そこにも「敬天愛人」と書かれています。いまだに西郷さんは僕のトイレを見守ってくれているんですけどね(笑)。

「天を敬い、人を愛す」……僕にとって、この言葉は、特別なものであり、西郷隆盛という人間を表す、すべてだと思っています。

(参考資料)

T 西郷菊次郎のプロフィール

(さいごう・きくじろう、1861年2月11日(万延2年1月2日)

1928年(昭和3年)11月27日)は、日本の政治家、外交官。

(ウイキペデキアより抜粋・転載)

○生涯:

遠島の身分であった時代の西郷隆盛と愛子(愛加那)の長子として、1861年2月11日(万延2年1月2日)、奄美大島の龍郷で生まれた。同父母妹に大山誠之助(大山巌の弟)の妻となる菊子(菊草)がいる。異母弟に嫡弟の寅太郎、午次郎、酉三。妻久子との間に7男7女をもうけた。

9歳にして鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳にしてアメリカへの留学の途についた。2年6ヶ月に及ぶ留学生活を終え、帰国して3年後の17歳のとき、西南戦争に薩軍の一員として参戦。延岡・和田越えの戦闘にて右足に銃弾を受け膝下を切断。和田越えの戦闘で多数の死傷者を出した薩軍は俵野に陣を移し、今後の動向について軍議をかさねた。

その結果、可愛嶽を越えて三田井に抜ける事を決意。戦闘にて重傷を負っていた菊次郎は、桐野利秋の計らいにて他の負傷兵と共に俵野に取り残した。その際に隆盛の老僕であった、永田熊吉をつけておいた。熊吉は、負傷した菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道のもとへ投降した。従道は甥の投降を喜び、熊吉に礼を言ったとされる。

西南戦争後、23才で外務省に入り、アメリカ公使館や本省で勤務。明治20年6月に再びアメリカへの留学。23年1月宮内省式部宮。日清戦争で日本が台湾を得た1895年(明治28年)、台湾に転じ、基隆支庁長、宜蘭長官(4年半)に就任。日本に帰国後、京都市長(6年半)などの任にも就く。

京都市長在任期間は、約7年間におよびこの期間に「京都百年の大計」として発電、上下水道整備、市電設置の京都三大事業を推進した。巨額を要する三大事業の財源が大きな困難として立ちはだかったが、明治42年6月に三井銀行の協力を取り付けてフランス・パリのシンジゲート引き受けで4,500万フランの外債を発行して資金を調達した。

明治44年右足後遺症の余病を理由に、京都市長を辞職した。市長辞任後、鹿児島県に帰郷し、その後、島津家管理の山ケ野金山鉱業館長になったものの、健康が回復せず、大正9年に辞職。

昭和3(1928)年11月27日に鹿児島市薬師町の自宅で心臓麻痺により死去した。

享年68(満67歳没)。

○年譜

1861年(万延 2年) 1月2日 - 西郷隆盛と龍一族佐栄志の娘”愛加那”の長子として奄美大島龍郷にて誕生。

1869年(明治 2年)- 鹿児島市の西郷本家に引き取られる。

1872年(明治 5年)- 12歳にしてアメリカ合衆国に留学。農業学を学ぶ。

1877年(明治10年)- 西南戦争に従軍。右足を被弾し膝から下を失う。叔父で陸軍中将の西郷従道の元へ投降。

1884年(明治17年)- 外務省入省。米国公使館勤務。

1887年(明治20年)- 再度アメリカ合衆国留学

1890年(明治23年)10月24日 - 宮内省式部官、奏任官三等[1]

1895年(明治28年)- 台湾台北県基隆宜蘭支庁長に就任

1897年(明治30年)- 台湾宜蘭県宜蘭庁長官に就任

1904年(明治37年)10月12日 - 2代目京都市長に就任

1912年(明治45年)- 島津家山ケ野金山鉱業館長に就任。

U 桂小五郎のプロフィール

(ウイキペデキアより抜粋・転載)

木戸 孝允(きど たかよし、または桂 小五郎 (かつら こごろう)、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。
位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士として討幕に努め、薩長同盟を推進。明治維新に貢献し、維新の三傑の一人に挙げられた。維新政府では総裁局顧問専任や参議を務め、版籍奉還、廃藩置県を実現。岩倉使節団にも同行した。
西南戦争中に病死。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。

○桂小五郎・木戸孝允(きどたかよし)の概略

長州藩出身。吉田松陰の教えを受け、藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の中心人物となり、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者として活躍する。
特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。

維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。
文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。

海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主・毛利敬親や明治天皇から厚く信頼された。

しかし、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあって、心身を害するほど精神的苦悩が絶えず、西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となり、夢の中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。

その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。

○留学希望・開国・破約攘夷の志士

桂小五郎像(京都市・河原町御池上ル)

練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など幕府領5カ国の代官である江川英龍に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。

松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。
しかし、来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の下田踏海への対応に弱っていた藩政府をさらに驚愕させる。

倒幕方針を持つ以前の長州藩政府が、幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎はそれまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、兵学家で幕府代官の江川英龍から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ

浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ。短い修学期間であったが、互いの人格を認めあい、中島の家族からも厚遇された。
開明家ながらも中島は幕臣としての立場を貫徹し、箱館戦争の際に2人の息子と壮絶な戦死を遂げた。

一方、明治政府成立後も木戸は中島の恩義を忘れず、遺族の保護に尽力している。明治9年(1876年)の奥羽・北海道巡幸に随従した木戸は、往時を回顧して慟哭した。

幕府海防掛本多越中守の家来・高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ

長州藩士・手塚律蔵から英語を学ぶ

など、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。

文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助・久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付・長井雅楽が唱える幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。

このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。

文久3年(1863年)3月、水戸藩士吉成勇太郎らを上京させた。

欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。

この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている、村田蔵六(大村益次郎)を、小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で、藩中枢が形成されていたことによる。

5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた、幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が、下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し、攘夷戦争を始める。この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した、幕府が、英米仏蘭4カ国に、賠償金を支払うということで決着する。

5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞・真木和泉たちとともに、破約攘夷活動を行い、正藩合一による、大政奉還および新国家建設を、目指す。

 

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