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らくいち 「政府は小さければ小さいほど良い・・・らしいが」
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1272.html
投稿者 rakuiti 日時 2011 年 3 月 03 日 17:20:22: nXmHjw2sPAolE
 

古典的自由主義者のささやき
http://ameblo.jp/rakuichiza/entry-10784275654.html

地方政府は小さければ小さいほど良いテーマ:地方分権・道州制
小さな地方政府が林立するのは不経済だ、小さな地方政府を統合して効率化を図り、
同じサービスを提供するのに必要な税金を減らすべきだという意見をよく聞きます。
地方政府統合を主張する人たちは、「規模の経済」、つまり生産の規模を拡大すれ
ば生産費が下がるという一般的傾向、が政府によるサービスの生産と提供にも当て
はまると主張しています。

確かに、自動車などは、一台一台別々に作るよりは大きな工場で大規模生産したほ
うが一台当たりの価格が安くなります。今地方政府が提供しているサービスの中に
も、例えば消防のように、小さな村が独自に消防車や水槽車や梯子車などを買い揃
えるよりは、幾つかの市町村が共同で購入した方が安上がりな場合があります。そ
のような例からは、規模の経済を根拠に地方政府の合併や統合を進めるべきだとい
う意見はもっともに聞こえます。
今回は、地方政府の統合が住民の税負担を下げるために本当に有効かどうか検討し
てみます。


税は政府の活動を支えるために強制的に徴収されるお金です。人と人とが取引をし
た時に政府が税として売り上げの一部をピンはねすると、人々の取引活動が妨げら
れます。従って税は少なければ少ないに越したことはありません。しかし、流石に
減税を主張する人も、普通は税の廃止までは求めていません。それは、彼らの間に
も、世の中には政府に頼らないと提供されないサービスが存在し、そのサービスを
政府が提供するためには税を強制的に集める必要があるという暗黙の了解があるか
らです。

ここでまず、強制的に税を徴収してまで政府が提供しなければならないサービスと
はどういう性質のものなのか考えてみましょう。なぜなら、どのようなものは政府
に頼む必要があり、逆にどんなものは政府にやらせる必要がないという線引きをし
ないと、不要な政府の業務を削減することによる減税を実現することが出来ません。


我々が日常消費している多くの物やサービスは政府によって供給されてはいません。
例えば、民間会社が製造した自動車を我々は購入しています。車を買う側である我
々は自分の目的や予算に合った車を選び、売る側である自動車会社は車を購入する
我々の目的や予算に合うように車を提供します。車を買う一人一人の目的や好みは
自分で車を選ぶことで満たされます。一方、車が必要でない人は車を購入しないで
しょう。政府によって供給されていない物やサービスの場合は、車に限らず、一人
一人が自分自身で支払う金額を決め、また自分の目的に合う物やサービスを選択す
ることが出来ます。

これに反して、政府にサービスの提供を任せると、まず全員が強制的に税を払わな
ければならないだけでなく、個人個人が自分の好みや目的に合ったサービスやその
量を選択することが難しくなります。選挙や議会を通じて我々が購入する自動車の
一括購入を政府に任せると、政府が提供する車の型、色、燃費、安全性、価格に不
満を持つ人たちが必ず出てきます。だから、自由な物の交換を基礎とする市場社会
では、殆んどの物やサービスの生産と購入は個々の製造者と消費者の自由判断に任
せられています。


消防という広く政府の業務だと考えられているサービスを例に取りましょう。A と
いう人は、年間5千円以上自分の市の消防に出費するつもりがなく、消防よりもむ
しろ火災保険を購入して自宅の火事に備えたいと考えていたとします。しかし、A
の住む市の住民の大多数が、市議会を通じて一人当たり年間1万円払ってでも市の
消防を充実させると決定したならば、A は不満があっても住民の多数決に従って年
間1万円の消防税を市に払うほかありません。

住民集会を開こうが、市会議員を選挙によって選ぼうが、多数決で決められる政府
のサービスの質や量を自分の目的に合わせて個々人が選ぶことは出来ません。たと
え全会一致で消防署の拡大が決まったとしても、具体的な税額やどんな形で消防を
充実させるかについては、住民の間に様々な意見があるでしょう。では、多数の決
定にいやいや従わされる少数派を生んでまで、なぜ政府が消防のような特定のサー
ビスを提供する必要があるのでしょうか。


政府に頼まなくとも、火災に遭ったときのために民間の消防会社と家主が個別に事
前契約を結んでおくということは可能です。自宅が火事になれば契約している消防
会社に連絡し、消防会社は事前に契約金を払っている家々の火事だけを消火するの
です。

ところが、家々が密集している地域の場合には、消防会社に契約金を支払っている
家を火災から守るためには、契約金を払っていない家の火を消して延焼を防ぐ必要
が出てきます。そうすると、住宅の過密地域では、周囲の家々が消防会社と契約を
結んでいるから、自分自身は契約金を払わなくても、自宅や近所が火事になれば消
防会社がどっちみち火を消しに来てくれると、高を括って消防会社に契約金を払わ
ない家主も出てくるでしょう。

多くの人が他の人の消防契約金に「タダ乗り」を始めると、契約金を払う人が減っ
てきます。契約金が減れば、消防会社にとっては消防車などを購入する資金が得ら
れにくくなるので、契約金を払っている家主にとっては、タダ乗りがない場合に較
べて質の悪いサービスを同じ金額で購入することになります。そうなってくると、
契約金を払う家主がますます減ってきます。

上で述べたように、政府が強制的に住民全員から税を徴収して消防署を維持する場
合には、住民の中には多数決に不満を持つ人が必ず出てきます。少数派の不満があ
ることを承知の上で政府に消防を提供させるのは、家屋密集地域ではタダ乗りによ
って民間の消防会社による消防が成り立ちにくいということが予想されるからです。


家屋密集地域での消防のように、政府に頼らざるを得ないことに住民が同意するサ
ービスが存在する場合には、税を完全に無くすことは不可能です。この場合には、
一人一人の住民は「政府に提供してもらうしかないサービスを、出来るだけ自分自
身の必要に合う形で、出来るだけ安い費用負担(税金)で提供する」ことを政府に
求めます。要するに、本来なら、地方政府の改革というものは、ただ税を下げるだ
けでなく、この住民の要望を満たす方向で行われなければなりません。

ところが、実際には、政府に特定のサービスの提供を任せると、費用が増大するだ
けでなく、サービス内容に関する住民の不満も募ってゆくという悪い傾向がありま
す。従って、地方政府の改革を論ずる際には、この傾向に歯止めをかける策をあら
かじめ考えておく必要があります。
では、なぜ政府のサービスは高価な上に質が悪いのでしょうか。


質が悪くしかも価格が高いサービスしか提供できない民会会社は顧客に逃げられ
ます。だから、民間会社は常に経費の削減に努めるとともに、顧客が何を求めて
いるかに注意を払っています。つまり、民間会社が提供する物やサービスの質が
向上し価格が下がるのは、民間会社はいつも競争にさらされているからです。

しかし民間の会社と違って、政府の役所には倒産も競争もありません。民間会社
と違って、役所の経費は税として強制的に住民から集められています。住民を満
足させなくとも経費が滞ることはありません。それに、多くの場合、役所には同
じ地域で同じサービスを提供する競争相手はいません。高くとも質が悪くとも、
住民は税を払って役所のサービスを利用するほかありません。役所のサービスが
民間に較べて割高で質が劣るのはこのためです。


さらに、役所のサービス内容は拡張する傾向があります。民間会社は物やサービ
スを過剰に生産することを避けようとします。余った製品は売れ残って会社の損
失を生むからです。ところが、強制的に集められた税金で賄われている役所では
、予算の割り当てさえあれば、住民が望んでいなくとも、新しいサービスを業務
内容に加えたり、サービス提供のための職員を増やしたりすることが出来ます。

市町村が大きくなるほど、つまり住民の数が多ければ多いほど、また徴収できる
税が多額になればなるほど、住民の意向に関係なく役所のサービスがどんどん増
える傾向があります。人口の大きな市は、博物館、美術館、スタジアム、コンサ
ートホール、花壇の立派な公園など、政府による提供の理由を上記の「タダ乗り
」の有無では説明できないサービスを多種提供しています。

住民と集税額が多いと地方政府が肥大し税率が高くなるのには理由があります。
多数の投票者の中の一人に過ぎない住民は、自分の一票の無力さを自覚している
ので、政治に関心を持たず、従って自分の税がどのように使われているかに注意
を払いません。住民の無関心の裏で、利権団体が政治家と役人に取り入ります。
建設に多額の費用がかかる博物館や維持費が必要な花壇などは請け負い業者に大
きな利益をもたらすので、業者は政治家に導入を強く働き掛けます。

大きな地方政府では政府に雇われている役人の数も増えるので、彼らも大きな政
治勢力になります。市町村や都道府県の合併によって自らの政府が大きくなれば
、そんな地方政府の役人にはさらに大きな権限がもたらされます。従って、地方
政府合併の提案は、合併することによって権限が増大する立場にある役人によっ
て強く推進されることが多いのです。

地方政府の合併によって役人の数を削減し、税を減らすことが出来るという意見
がありますが、実際には役人数の削減はなかなか起りません。なぜなら、職権上
、税の使い道を決める過程に深く係わる役人は、自分たちの終身雇用を獲得して
いることが多く、また、自らの職を無くすような役所の再編成に強く抵抗するか
らです。だから、地方政府を多数合併することでは税を下げることは困難です。
むしろ、地方政府の統合によって、政府の業務内容が今後増大し政府支出がさら
に増えます。

地方政府が統合してより多額になった予算に、利権団体が群がり政治家や役人と
結びつきます。この利権の構図を変えようとすると、住民は大きくなった地方政
府にまたがる改革運動を組織する必要があります。政治運動に参加しても得ると
ころが少ない大多数の一般住民に較べて、利権団体の構成員は自分たちの収入源
を政府事業に頼っています。利権団体が政治家に寄付する選挙資金の額では、一
般住民はかないません。従って、地方政府が大きくなると、利権の構図の改革は
より困難になり、政府の肥大を防ぐことが難しくなるのです。


これに反して、以下に説明するように、管轄の範囲も住民の数も小さい地方政府
の場合には、政府の肥大を押さえて税の増大を防ぐのは、大きな地方政府を相手
にするより容易です。従って、人々が政府に払う税を下げるためには、税金の徴
収と使い道を決める権限を納税者に最も近い地方の政府に与えるとともに、地方
政府の大きさを地理的にも人口の上でも小さくすることが有効です。

意思決定が多数決で行われる政府の性質上、少数派の意見がないがしろにされる
こと自体は、地方政府を小さくしても完全になくすことは出来ません。しかし、
少なくとも、小さな地方政府の住民は、大きな地方政府の住民に較べれば、政府
に提供してもらうしかないサービスを、自分自身の必要に合う形で安く受け取る
ことが出来ます。
ではその理由を説明します。

例えば、人口30万人の市に較べて、人口が500人の村の方が住民の一票に重
みがあります。また、人口が500人の村の場合は、十世帯、約50人の賛同者
を集めるだけで、大きな政治勢力になり得ます。これが、人口30万人の市で同
じ割合の賛同者を得ようとすれば、3万人もの住民の賛同が必要になります。つ
まり、小さな地方政府の構成員は、たとえ自分が少数派になったとしても、多数
派を説得して自分たちに同意させたり妥協させたりすることが、大きな政府に属
しているよりも容易に出来るということです。

また、地理的な面でも、政府の単位が小さければ、どうしてもその地域での多数
派の決定に従うのがいやな人は、新しい仕事を見つけなくとも地域外に引っ越す
ことができます。引越しによって政府の決定に服従することを避けることを英語
では「足で投票する」と表現します。地理的に小さな地方政府は、住民が納める
税の額に見合うサービスを提供するように、経費の削減に努めると同時に住民の
要望にも常に敏感になります。なぜなら、サービスの質や高税率に不満を持った
住民は直ぐに引っ越して出てゆくからです。

住民がいないと収税額が減り、村役人の数や給料を減らす必要が出てきます。人
々が地方政府の間を移動しやすい状態では、地方政府の間で、納税者である住民
を獲得するため税額とサービスの質をめぐって競争が生まれます。上では役所に
は競争が無いと書きましたが、地理的に小さな地方政府に収税と税を使う権限を
与えると、政府の間に競争が生まれます。もちろん競争を嫌がる役人は地方政府
を統合して大きくし、低い税と質の良い政府のサービスを求めて住民が地方政府
間で移動するのを妨げようと努めます。これも役人が地方政府の合併を推進する
理由の一つです。

さらに、小さな村では、その少ない税収が、何のために、また、誰のために使わ
れているか追うのは比較的容易です。もしも、村の5軒の床屋が結託して村人の
税金から補助金をせしめれば、直ぐに村人たちにばれて糾弾されるでしょう。要
するに「収税と政治決定の単位としての地方政府」が地理的にも人口の上でも小
さい場合には、常時、経費を節約しながら住民の要望に答えられるサービスを提
供させるような圧力が政府に働くのです。


これまで、地方政府の統合は政府機能の肥大を生むこと、また、税率を下げ住民
が満足する形で政府サービスを提供するためには地方政府が小さいことが必要で
あることを説明しました。しかし、この時点で、小さな地方政府では「規模の経
済」という経済の仕組みを利用できないという反論がありそうです。
実は、「収税と政治決定の単位」としての地方政府が小さいままの方
が、規模の経済を活用して政府費用を安く抑えることが出来るのです。

地理的にも人口の上でも小さな村の消防を例にこの問題を考えてみま
す。この村では一軒一軒の家屋が離れて建っているとすれば、家屋密
集地帯のタダ乗りの問題は起りません。この場合、村人たちは村民集
会を開いて消防を政府の業務から除き、消防会社と契約したり火災保
険を購入するのを個々の家主の判断に任せるよう決定することも出来
ます。要するに、「収税と政治決定の単位」が小さければ、住民の判
断で特定の政府の業務を不必要だと判断して廃止し、その分税を下げ
ることが出来るのです。この村が合併によって都市部を含む大きな市
の一部になっていたならば、この選択は不可能です。

もし村民集会が村人から徴収した税によって住民に消防サービスを提
供することを決めても、サービスの提供方法にはまだ色々な選択肢が
あります。まず、村が自ら消防士を雇って消防車を購入するのが一つ
の方法です。また、民間の消防会社の中から費用とサービス内容で最
適の会社を選んで5年間の契約を結ぶという手もあります。5年の間
にこの会社に不満が出てきたり、他にもっと安くて良い会社が現われ
れば、5年の契約が切れるときに他の会社に変えればよいのです。

消防会社の中には、全国に商売を展開する大企業もあれば一地方に特
化した小さな会社もあるでしょう。高層ビル専門の消防会社や住宅地
専門の消防会社もあるでしょう。それぞれの専門に応じて最も効率の
良い規模を民間会社は自ら選んでいるはずです。費用とサービス内容
から会社を選ぶことで、この村は「収税と政治決定の単位」を小さく
保ったまま規模の経済の利得を得ることができるのです。

また、村が契約を結ぶ相手は民間会社に限りません。この村が大きな
二つの市に挟まれていたとしましょう。また、その両方の大きな市が
自前の消防組織を維持しているとします。既に多数の消防車と消防士
を擁するこれらの市にとっては、人口も面積も小さいこの村を自分の
消防署の管轄下に入れてもたいして費用が上がる訳ではありません。
もしも、この村が自前で消防署を維持したなら住民一人当たり年間2
万円必要だとします。この場合、この村にとっては住民一人当たり年
間2万円よりも安い費用で両隣の市が消防サービスを提供すると言う
のであれば、民間会社とともに両隣の市も契約対象の選択肢に入れれ
ばよいだけです。この村からの消防契約という収入を巡って、両隣の
市の間で値下げ競争があるかもしれません。

隣の市の大規模な消防組織が安くつくのであれば、この村は参加を決
めればよいし、逆に消防ヘリコプターを購入したり高価な通信網を導
入したために隣の市の消防サービスが高価になりすぎれば、この村は
「一抜け」すればよいのです。村が小さくても規模の経済の恩恵を受
けられるし、「収税と政治決定の単位」としての地方政府が小さいか
らこそ、この村は必要な時には一抜けが出来ます。


消防の場合には一つの組織と独占契約を結ぶのが安上がりでしょう。
しかし、この村が税金を使って村の子供たち全員に学校教育の補助を
出すことに決めた場合には、学校教育を提供する組織をたった一つの
学校運営組織に限る必要はありません。親が自分で送り迎えをすると
いうのであれば、村から学校への距離さえも制限する必要がありませ
ん。地理的に様々な学校組織が重なり合っていてもかまいません。

この「義務教育」に関する村の政府の仕事は、村の児童一人当たりの
村の教育補助金の額、例えば年間50万円を設定し、親が児童を通わ
せた学校それぞれに児童一人当たり年間50万円を村役所から支払う
こと、他には、村の子供たちが村人の税金から出ているこの50万円
を使って通学出来る学校を村が認定するすることだけです。

村が認定する学校は、村の集会で決めた基準を満たせば私立でも他の
市町村が運営する学校でもかまいません。村の学校認可基準は、例え
ば、校舎の防災設備から始まって、教師の体罰を許さないとか、人種
国籍によって生徒を別々の教室に入れるようなことは許さないとか、
また、外国の独裁者を児童に崇拝させてはならないとか、憲法の基礎
は教えなければならないとか、一定割合の体育の時間を入れなければ
らないなど、村民集会で議論して決めればよいことです。

村人が支払う税から出される教育補助金の額と学校の認可基準の設定
には、最終的に多数決が使われます。この多数決の決定に不満を持つ
村人が出てくることは避けられません。しかしこの制度のもとでなら
、学齢期の子供を持つ村の住民には、村が認可した学校の中で自分が
子供に適すると考える学校を選ぶという自由が生まれます。好きな学
校を児童と親が選べるならば、同じ市の学校に子供を通わせなければ
ならない親たちの間に起る教育内容をめぐる争いも最小限に食い止め
ることが出来ます。さらに、高い私立学校に子供を通わせても、この
学校を村が認可している限り、親の出費は年間50万円を超える分だ
けで済みます。

また学校側も、この村の児童を獲得するために児童の必要性に応じた
教育内容を提供しようと努力します。児童と親が学校を選ぶようにな
ると、学校の間に競争が生まれ教育内容が向上するのです。

多数の学校を運営する私立学校組織の中には、児童心理学者などの専
門家を多数の学校で共有することで、きめの細かい教育を児童に安く
提供することが出来るようになるところも出てくるでしょう。このよ
うに、この村は村を小さく保ったままで、つまり住民の一票一票の重
さを軽くすることなく、この規模の経済を利用することが出来ます。

逆に、教職員組合に守られた巨大な公立学校制度を持つ大きな地方政
府では、児童と税金を私立学校や他の市町村に逃がしかねないこんな
制度の導入は、教職員組合の強い反対に会って頓挫するでしょう。児
童を持つ親に幅広い選択肢を許すこの制度も、「税収と政治決定の単
位」としての地方政府が小さいからこそ導入できることです。


今まで消防と学校教育の例で示したように、村の収税と政治決定の単
位は不変であっても、村政府はサービスの性質に応じて、最適のサー
ビス提供機間に業務を「外注」すればよいのです。経済的に最も効率
の良い規模の選択は、これらのサービス提供機間が決めることです。
収税と政治決定の単位である地方政府の大きさと、政府サービスを提
供する組織や会社の大きさが同じである必要は全くありません。


大きな河川の上流で垂れ流された汚染物質が下流域で被害を及ぼすと
いうような問題に関しては、地方政府がこの河川流域全体を治めるく
らい大きいほうが効率よく問題に対処できるという意見があります。
この意見の誤りを指摘して今回のコラムを終えます。

上流で流された汚染物質で下流域の住民が被害にあっている場合には
、この被害を取り除く、つまり汚染物質の垂れ流しを止めさせるとと
もに、汚染物質を流した上流域の住民が被害を受けた下流域の住民に
賠償を支払わない限り問題の解決にはなりません。垂れ流しの停止と
賠償の支払いを求めるためには、被害者である下流域の住民が、たと
え小さくても自らの代表である地方政府と村長を持っている方が有利
です。逆に、汚染の被害者が流域全体を管轄するような大きな地方政
府の中で少数派であれば、政治家や役人にとっては問題を「効率よく
処理」出来るかもしれませんが、この場合、彼らの言う効率の良い処
理とは、被害者である少数派を泣き寝入りさせるだけです。少数派で
ある被害者を押しつぶす政府は、ただの圧政を強いる支配者の道具で
す。


政府の決定は、多数決によって少数派を多数派に無理に従わせる結果
を生みます。少数派が多数派に無理やり従わされる度合いを少なくす
るためには、政府は出来るだけ小さい方が良いのです。「収税と政治
決定の単位」としての地方政府が小さい場合には、住民の一票の重さ
は増し、ある政府の業務が必要か否かを住民は小さな政府の単位で決
定できます。地理的にも地方政府が小さければ、不服な住民は最終的
に「足で投票」出来ます。税率を低く保ち、政府サービスの質を向上
させる仕組みとしての競争が小さな政府の間に働きます。また、外注
という方法を導入することで、収税と政治決定の単位を小さく保った
ままで、規模の経済を利用することが出来ます。逆に、地方政府が大
きくなればなるほど政府肥大とサービスの質の低下を食い止めるのが
難しくなるのです。

 

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コメント
 
01. 2011年3月07日 18:54:39: BW3zrA4caY
2011年03月06日11:10 カテゴリらくいち小さな政府
大きな政府は経済成長を妨げる

我々が住む国の政府は様々な活動に従事しています。国防、警察、司法など国民の生命・身体・財産の自由を保障し、犯罪から国民を守ることから始まり、公衆衛生の確保や身寄りがなく生活に困っている人への経済的援助の提供、また特定の産業の保護育成、さらには博物館や劇場を運営して文化活動を推進するなど政府の活動は多岐多様に渡ります。

世界を見渡すと、活動の内容が国防、警察、司法にほぼ限られる政府から、広く経済活動に介入して積極的に国民の福祉向上を目指す政府など様々な大きさの政府が存在します。政府は小さい方が良いのでしょうか。それとも大きい方が良いのでしょうか。

ただ、一概に小さな政府、大きな政府と言っても、具体的に政府が取り得る業務内容や大きさは様々です。ここでは話しを簡単にするために、国防、警察、司法を中心とする業務に専念する政府を「小さな政府」、逆に、国防、警察、司法だけでなく、広く経済活動を規制し、補助金などを用いて特定の産業を保護育成し、また鉱物などの資源を公共の財産として管理運営する政府を「大きな政府」と呼ぶことにします。

今回はこの意味での「大きな政府」の経済成長への影響を検討します。


まず、大きな政府を運営するためには、そうでないよりも高額の税収が必要です。ところが、人間は汗水流して働いてもその労働の成果を人に持ってゆかれる場合には働こうとしなくなります。いくら働いても自分の取り分が増えない奴隷制や、自分一人だけが一所懸命に働いても成果が社会の他の構成員に共有される社会主義制度では、人々に労働意欲が湧きません。人々の労働意欲を刺激するためには、働いた分収入が増えるという動機付けが必要です。税率が高いということは、同じ量働いても税としてもって行かれる割合が増えるということです。税が高くなり自分自身の取り分が減るにつれて人々の労働意欲はそがれ、社会全体の経済活動が抑圧されます。


また、税率が高くなると、人々は税の支払いを避けるように努力し始めます。税制の専門家を雇って、税を避ける方法の相談をするようになります。その結果、税率が低い状況であれば人々が求める物やサービスの生産や技術革新に使われていたはずの資源が、税の専門家の養成と雇用に使われるようになります。経済の成長とは人々が望む物やサービスの生産と消費の量が増えることなので、高税率で資源の配分に変化が生じた分、経済の成長が妨げられます。

国外に自分の資産を移して国内の高税率を避けようとする人も出てきます。また、低税率であれば外国から来たであろう投資が、国内の税率が高いと他に逃げるということが起ります。税率が上がると、税率が低い時には採算が合っていた事業を引き続きそこで行うことの魅力が減少するのです。高税率になることによって、国内外の資金を集めて生産出来たはずの物やサービスの生産が見送られ、それらによって達成されていたであろう生産性の向上が見逃されるので、人々の生活の向上が妨げられます。


さらに、税が高くなると、人々は税を逃れるために闇で取引を始めます。闇市場は非合法なので、売り手は買い手を、また買い手は売り手を広く探すことが出来ません。つまり闇市場では、物やサービスは、それらに最も価値を置く人たち、つまり最も高値を払う用意がある人たちに行き渡りません。

自由に物が取引される社会においては、ある物やサービスに最も高値をつける人たちとは、それらの物やサービスが最も価値を生む使い方を知っている人たちです。例えば、社会の中で最も高い価格を付けてでも鉄鉱石を買い取る人は、鉄鉱石を原料とする様々物の中で社会の人々が最も高い値で買い取る物を作っている人です。言い換えると、この人たちが高い価格で原材料を買い取るのは、それを使って作った自分の製品が高値で売れることを知っているからです。また、鉄鉱石を原料とする加工品に一番の高値をつけて買い取る人たちも、何を今度はその加工品で作れば高値で売れるか知っている人たちです。そして、最も高値の付く最終製品とは、人々に今最も強く求められている鉄鉱石の使い道です。

つまり人々が自分の物を自由に取引できる社会では、原材料や労働力は最も高い値段を付ける買い手に買い取られていくことを通して、社会の中で最も重要な用途を満たす物やサービスの生産に配分されるのです。これを自由市場で経済効率性 (economic efficiency) が達成されると表現します。人々が求める物やサービスの生産が増大するということが経済が成長するということです。

ところが非合法の闇市場では、買い手と売り手の情報交換が制限されているので、原材料や労働力が社会が最も必要とする用途に使われないということが起ります。例えば、投資家に出会うことなく忘れ去られる発明も出てきます。ある物をもっと安く生産するのに使える鉱物がこの用途に使われないことも起ります。社会が求める物を安く沢山作るということが、闇市場では妨げられるのです。

それに、闇市場では、製造と販売を秘密裏に行う必要があるので、本来なら多くの人々が求めている物やサービスを、生産規模を大きくして安く提供するということが出来ません。つまり、闇市場は原材料や労働力の節約を妨げます。自由市場ならば、その節約出来ていたはずの原材料や労働力は、他の物やサービスの生産に回すことが出来たはずです。

もう一つの深刻な問題は、闇市場では品質や契約にまつわる争いを平和裏に解決する司法のサービスが得られないということです。従って、闇市場は暴力犯罪の温床になり、人々の生命・身体・財産が危険に曝されるようになります。そうすると、人々は暴力犯罪を避ける対策を取らざるを得ないようになります。この犯罪対策のために使われる資源は、闇市場と暴力の蔓延がない状態ならば、社会の人々が求める物やサービスの生産や技術革新に使われていたはずです。大きな政府を支えるための高税率から逃れるため引き起こされた闇市場の拡大は、社会の経済成長を妨げるのです。


「大きな政府」は、税を使って補助金を与えることで衰退している産業を保護育成しようとします。また、役人を雇って特定の経済活動を制限し、競争者を排除して、特定の国内産業に有利な環境を作ります。この様な政府の補助金や規制を通じた経済活動への介入は、原材料や労働力が社会の中で最も必要とする用途に割り当てられるという自由市場の機能を妨げます。これは上で論じた闇市場の問題と同じです。

例えば、補助金を受け取っていなければ値が上がった鉄鉱石を買うことが出来なかった産業が、補助金のお陰で鉄鉱石を購入して生産を続けられるようになります。もちろんこれが補助金の目的ですが、その補助金のお陰で、実は本来なら人々がもっと重視している新しい用途に鉄鉱石が回ることが妨げられています。

特定産業を競争から隔離保護するための規制にも同じ働きがあります。確かに、特定の産業の衰退や特定企業の倒産を防ぐことは、失業者の増加を一時的に防ぎ、それによって生活を確保出来た人々の票を次の選挙で期待できるという利点が政治家にはあります。しかし、社会の視点からは、倒産を妨げる政府の介入は、倒産したはずの企業の工場や機械や土地、また人材などの資源が、社会がもはや必要としない用途から解放されて他の用途に転用されるのを妨げます。もっと価値を生む用途が存在するにもかかわらず、資源がその用途に使われるのを妨げることによって、政府の経済介入は経済が成長するのを妨げるのです。


政府の経済活動への介入は、個々の産業ではなく社会全体の見地から長期的な展望をもってなされているから、個々人の利益の増大を目的とする民間の投資に較べて社会全体の成長に役立っているはずだと主張する人がいるかもしれません。政府による経済介入は多岐多様に渡るので、中には成功とみなされている例もあるでしょう。しかし、実際には、政府による経済介入は自由な市場における民間人の経済活動に較べて、社会全体の利益にならないで特定集団を利することが多く、また長期的な展望に欠くことが多いのです。

まず、税とは、投資を上手に行って儲ける方法を知っている人たちから、投資資金を政府が取り上げるという行為です。そしてその取り上げた金の使い道を、政治家と役人が決めます。しかし、政治家と役人は、元々他人の金である税をどのように使っても自分自身が結果の責任を取ることはありません。政治家や役人の投資の見返りに対する態度は、自分自身の金の使い道を決めている人たちの態度とは根本的に異なります。

政府による補助金や規制は、特定の国内産業に大きな影響を与えます。補助金をもらえるかもらえないか、また規制により競争者が排除されるかされないかは、特定の産業にとって死活問題です。これらの産業の構成員にとっては、金を出し合って圧力団体を作り政治家に選挙資金を提供して補助金や規制の審議立案過程に圧力をかけることは、割に合う投資活動です。政治家にとっても、圧力団体の意向に合わせて補助金や規制を導入することで、選挙資金と支持母体が得られます。多種多様に渡る補助金や規制に一々関心を払う一般有権者は少ないので、一つ一つの補助金や規制は、社会全体のためよりも特定の業界を利するように立案実行されるようになるのです。今まで投資に成功して儲けている人が今までどおり儲けを投資に使うことが許されていたならば成長していたであろう産業が、徴税によって犠牲になる代りに、政治家に取り入った特定の産業がその税の割り当てを受けるのです。

また、政治家は常に選挙運動の最中にあります。長期的な展望や国民全体のためという建前を公の場では強調しても、政治家の関心は次の選挙にあります。補助金や規制の審議立案も、政治家は次の選挙に勝つという短期的な目標を念頭に置いて行います。ここでは政治家の性格や資質を問題にしているのではありません。問題なのは、常時選挙に直面している政治家はその立場上、次の選挙に勝つために、一部の圧力団体の意向を汲んで補助金や規制の内容を決める傾向から逃れられないということです。


また、幅広く経済に介入する権限を有する大きな政府のもとでは、民間企業は圧力団体を作って政治活動に多額の資金を投入するようになります。この資金は、必要がなければ物やサービスの生産活動や技術革新に使われて経済の成長に貢献していたはずのものです。ところが、政府が様々な補助金を支給したり規制によって経済活動を制限し始めると、競争相手の政治活動に対抗するために、各企業が政治活動を活発化させます。競争相手を有利にする補助金の成立は妨げなければなりません。また、自分の商売をしにくくする規制の成立も未然に防がなければなりません。逆に、うまく補助金をせしめれば得をするし、新たな規制の導入で競争者を排除出来るかもしれません。経済活動に幅広く介入する政府の下では企業は政府の力を借りてお互いの足の引っ張り合いをしているのです。

ここでも、企業経営者の人格を問題にしているのではありません。政府が様々な経済介入を行っている状況では、企業経営者は常に政治家の動向に注意を払い、政治家に対する影響力を維持しておく必要があります。このような行為を好むと好まざるとにかかわらず、そうしないと生き残れないという仕組みがここにあります。政治活動に多額の資金が使われる所以です。


政府による経済への介入の度合いが大きい社会では、贈収賄の誘惑も大きくなります。例えば、政府自らが膨大な地下資源を管理している社会では、地下資源の採掘権を獲得するために政治家や役人に対する贈賄活動が活発化する傾向があります。賄賂を贈る側からすれば、採掘権を獲得した場合の利益に較べれば賄賂の額は微々たる物です。また、政治家や役人にとっては、地下資源は自分のものではありませんが、受け取った賄賂は自分の懐に入ります。採掘権そのものに最も高額を提示した者ではなく、政治家や役人に賄賂を贈った者に採掘権が与えられるということは、地下資源がその最も価値のある使い道を知っている人によって使われないということです。政治汚職は資源を無駄に配分する分、経済の成長を妨げるのです。


また、大きな政府は、補助金や規制を通じて経済に介入するだけでなく、自らも物やサービスの生産者として経済活動に参加します。大きな政府が生産し分配する物やサービスは、煙草や塩、電話電報、郵便、博物館や劇場、スウィミング・プールや図書館など多岐に渡ります。しかし、政府が物やサービスの生産と分配を行うと、どんなものでも市場に較べて割高になり、同じ資源を投入して得られる物やサービスの量が、市場が自由に生産した場合に較べて少なくなる傾向があります。つまり、政府に物やサービスの生産と分配を任せると、そうしなかった場合に較べて資源が節約されず、節約できた資源を使って得られたはずの分の経済の成長が犠牲になります。

市場で物やサービスを提供する民間人は、誰でも費用を削減することに熱心です。それは、費用を削減出来ると自分の収益が増えるからです。また、競争者が費用を削減することに成功して自分よりも安く商品を提供するようになると、値段が高い自分の商品が売れなくなり自分は倒産の危機に瀕します。つまり、民間企業はいつも競争に曝されているので、自然と費用を削減するように努力します。ところが、政府の事業に携わる役人は、いくら費用を削減しても自分自身の儲けが増えるわけではありません。そもそも、強制的に集められた税によって賄われている政府事業には、倒産はあり得ません。これが、同じ物やサービスを提供していても民間に較べて政府の事業が割高に保たれる理由です。


大きな政府は幅広く経済活動に介入するのですが、政府の活動を支えるには、多数の役人を雇用する必要があります。役人は国民から徴収された税によって養われているという意味において、役人ではない人たちの生産活動に寄生している人たちです。政府の役割が国防、警察、司法を超えて大きくなればなるほど、社会の中に占める役人の割合が増大し、民間人の一人一人が養わなければならない役人の数が増えます。

社会の中で役人の割合が増大することによる経済活動への負担増は、社会の中で泥棒をしながら生活している人たちの割合が二割、三割、四割と増大することを想像すれば理解できます。泥棒は、自分の能力を他人が生産したものを盗むことに使って生活している人たちですが、彼らは自ら生産活動に従事しません。もしも、社会に存在する泥棒全員が、泥棒であることを止めて社会の他の人々が望む物やサービスを生産することに専念するようになれば、社会の経済活動は増大します。今まで泥棒に従事していた労働力が生産活動に向けられるようになるからです。

同様に、大きな政府の中で役人として税に養われている人たちの多くが役人であることを止めて他の人が望むものを作るように努力するようになれば、社会の経済活動は増大します。もちろん大きな政府に雇われていた役人の多くが急に解雇されれば、失業率は一時的に増大するでしょう。しかし、役人であることを止めた人たちは、努力と試行錯誤によって他の人たちが求める物やサービスを発見し、その生産に従事することで以前よりも多くの人々を満足させるようになるでしょう。

大きな戦争が終わって平和が訪れた時には、軍隊は解体し、また政府の事業を受注していた軍需産業も大幅に縮小するので、復員してくる兵隊や失業した人たちが同時に新しい仕事を探し始めます。その結果、失業率は一時的には増加するのですが、やがて失業率も下がり経済が成長し始めます。これは、政府が戦争を遂行しなくなった後、税が下がり、政府による産業の統制が緩やかになり、情報交換の自由が許され、闇市場が縮小し、原材料や人材が、それらを最も必要とする用途に転用されることが容易になるからです。資源が最も価値を生む目的に素早く移動できる社会では、経済は早く成長するのです。

しかしながら、社会の中で役人の割合が増大すると、政府を縮小する改革は実行されにくくなります。政府を小さくするということは、税を下げ役人の数を削減するということですが、すでに大きくなった政府を形成している役人の集団は、税を集めて使う権限を持つ政府を運営するという自らの地位そのものを使って、役人の数を削減しようとする政策に反対します。さらに、強制的に集められた税を使って、自分たちの業務の必要性を正当化する世論操作にも従事します。上で述べたように大きな政府が経済成長を妨げるのは明らかなのにもかかわらず、大きな政府の美徳を讃える意見が社会で多数を占めている理由は、役人集団が情報操作の上で強い力を保持しているからです。


これまでみてきたように、高い税をかけ、経済に広く介入する大きな政府は、人々の労働意欲を抑圧するだけでなく、資源を無駄に使います。生産活動で使われていた資源の一部が、税を避けたり規制を逃れたりするための活動に費やされるようになります。また、政府の補助金や規制は、原材料や労働力などの資源が社会の人々が最も価値を置く目的に向けられることを妨げます。そして、政府の生産活動は民間に較べると割高です。さらに、大きな政府に雇われている大勢の役人は、他の人たちの生産活動に寄生して生きています。従って、政府を小さくすることは、資源の無駄使いを減らし、資源が社会が最も価値を置く用途に転用されることを容易にするので、経済成長を促進するのです。


02. 2011年3月10日 07:58:26: BW3zrA4caY
2011-03-09 14:04:35

政府による業務独占資格の諸問題テーマ:市場経済
我々の社会では、多くの人が他の人にサービスを提供する見返りとして収入を得ています。サービスの種類によっては、政府が発行する資格を保持していなければ収入を得る目的でサービスを提供することが許されていません。つまり、政府が発行する資格を取得している者のみがサービスを提供して金銭を得ることが許されているという職種が存在します。今回は、この政府による「業務独占資格」について考えてみます。


まず最初に、なぜ資格というものが人々に求められるのか、また「自由な市場」が人々が求める資格にどのように対応するかみてみましょう。

人々は、常時様々な物やサービスを購入して生活していますが、いつも利用している物やサービスを購入する場合には、今までの経験に基づいて購入の選択をすることが出来ます。この場合は、今まで買って満足できた物やサービスをこれからも購入すれば安心です。ところが、新しい物やサービスを購入する時、特にそれが高額な買い物であったり、選択の結果が重要な結末を生むと予想される場合には、人々は多少の時間と金を使ってでも物やサービスの質や価格に関する情報を集めようとします。物やサービスの適切な選択に専門的な知識が要求される場合はなおさらです。

例えば、家の設計を人に頼もうとしている人にとって、どの設計者が自分の望む家を設計してくれるか、またどの設計者が請求金額に見合った仕事をしてくれるかの判断をすることは容易ではありません。新しく設計を頼もうとする人が何人かの設計者候補について今までの顧客の評判を集めるのは、この難しい判断の材料を得るためです。ここでは、設計者の自己評価よりも、その設計者に対する今までの顧客の評判が重宝されます。それは、設計者本人の自己評価はこれから仕事を取るために過大な宣伝が含まれている可能性があるのに対し、過去に顧客だった人は今から設計者にへつらっても今後利益が得られる訳ではないので、客観的で信頼が置ける評価をすると人は考えるからです。

このように、サービスの種類によっては、客観的な第三者の評判が貴重な情報として求められます。つまり、第三者の評判を金を払ってでも購入しようとする人たちがいるということです。「資格」とは、この第三者による評価の一種です。資格を取得するためには費用がかかるので、資格保持者が提供するサービスは多少割り高になるでしょうが、余分の金を払っても第三者が発行した資格を保持している人からサービスを受けたいという人が出てくるのです。従って、自分が提供するサービスの質に自信がある人たちにとっては、費用と労力を投じてでも、顧客が信頼を置く第三者による資格を取得しておくことが顧客の獲得に有利になります。この状況では、消費者とサービス提供者の需要に応じて、様々な資格を発行することを商売にする人たちが現われます。さらに、自ら情報を集めたり、過去の顧客の評判を集約して、異なる機関によって発行された資格の間の格付けを行う業者も出てきます。消費者は、資格の評判に応じて、資格を保持する人々の間からサービス購入の選択をするのです。

さらに、自由市場では、人々が求める種類の資格だけが生まれ、資格の内容も人々の需要に合わせて変化します。自由な市場では、需要がなくて消滅する資格もあれば、需要の伸びが大きく社会で急速に知名度を得る資格もあるでしょう。

例えば、屋根の雪を下ろすのにも技術が必要です。しかし、人々が多少割高であっても雪下ろしの資格のある人を雇って雪を下ろそうと思わない限り、雪下ろしの資格は生まれません。一方、医師の知識や技能は場合によっては命に係わるので、人々は余分な金を払っても客観的な第三者に技能を認定された医師のサービスを受けようとします。その結果、自由な市場では、命に係わる医療を提供する者の資格に関しては知識や技能の内容が細かく規定され、また資格認定の過程も厳密になるでしょう。

資格は個々人に与えられるので、資格によって顧客が増えることによる利益は、金を出して資格を取得した人だけが享受できます。逆に言えば、同じ職に従事していても、特定の資格を保持していない人は、その資格を使って顧客の信頼を獲得することは許されません。つまり、資格を必要としない人が他人の資格の費用を負担することもないし、他の人が自腹を切って獲得した資格をタダで利用する人もいません。

たとえ資格がなくとも既に多くの誇りうる実績があって充分顧客を獲得している人は、高額の費用をかけて学校に通って資格を取得しようとはしません。さらに、この人が新たな資格を取得することは、既に存在する顧客にとっては同じ質のサービスをより高価にするだけです。人々が必要としない資格を資源を使って提供するということは、この資源を使って出来た他のことを社会が犠牲にするということです。従って、自由な市場には、資格の種類や内容また資格を取得する人の数を、資源を無駄にしないように調整する機能があります。


資格の発行を自己の利益を優先する民間の団体に任せておくと、資格の質が保たれないという意見があるかもしれません。しかし、資格の発行機関が複数存在し常に競争に曝されている状態では、ある資格の評判が乱発によって落ちたなら、消費者は他の似たような資格を参考にしてサービス提供者を選択することが出来ます。消費者が他の資格に逃げると、サービス提供者にとっては、金を払ってまで評判の下がった資格を取得したり保持したりすることの利益がなくなります。競争と倒産の危険のもとでは、資格の発行機関は資格水準を維持するように努力します。資格保持者に定期的に試験や講習を行って質を保つだけでなく、個々の資格保持者についての消費者からの評価を常時公開する機関も生まれるでしょう。複数の資格発行機関が競争している状態では、資格の内容も常に消費者の需要に合わせて進化します。


ところが、冒頭に述べたように、我々が住む社会では、政府が多くの資格を発行しています。そして、この政府が発行する資格を取得しなければ、特定のサービスを提供することで収入を得ることが法律で禁じられている職種が存在します。上で説明したような、複数の民間の資格発行機関が競争している自由市場と異なり、政府が特定の職種に社会で唯一の資格を発行している場合には、以下に述べるような問題が生じます。

政府によって資格が発行されるようになると、資格保持者が団体を作って、発行される資格の数を制限し新規参入者の資格取得が難しくなるように政治家に圧力をかけるということが始まります。政府による「業務独占資格」は、そもそも特定サービスの提供を生業とする人たちが団結して政治家に働きかけることによって導入されることが多いのです。

林檎の供給量が減れば林檎一個の価格が上昇するように、営業資格保持者の数を制限すると、そうでない場合に較べてサービス提供者一人当たりの賃金は上昇します。政府が発行する資格の数が自分たちの収入に直接響く資格保持者は、一般の投票者一人当たりが提供するよりもより高額の選挙資金を政治家に提供します。また、資格保持者の団体は、議会や資格発行に責任のある官庁が存在する首都に常時自分たちの代表を置いて、政治家や役人との接触を怠りません。資格保持者の圧力によって政府が発行する資格の数が制限され受験資格を得るための条件も厳しくなってゆきます。単に資格取得を難しくするためにサービスの質と全く関係がない知識の習得が求められるということも起ります。

資格取得が難しくなればなるほど、資格の取得のために多大の時間と労力と費用を投資することが必要になります。もしも将来、資格発行数が増大して資格保持者の賃金が大幅に下がるようなことがあれば、今資格を持っている人はその資格の得るために支払った投資を回収出来なくなります。既に資格発行数が制限されている資格の発行数を増やそうとすると、現在資格を取得している人たちが強く抵抗するのはこのためです。

資格の発行が政府によって独占されていないということは、複数の資格発行機関が自由に資格を発行出来るということです。たとえ特定の民間資格発行機関が資格の数を制限しても、他の機関が類似の資格を発行します。高度な技能を有する者にしか認められない資格が生まれてくる反面、比較的多くの人に発行される初級中級技能保持者の資格も出てくるでしょう。さらに、複数の資格を保持する人も出てくるでしょう。もちろん資格によってサービスの価格に差が出るでしょうが、消費者は自分の目的と懐具合に合わせて資格の等級を選べばよいのです。

一方、政府によって資格保持者の数が制限されてサービスの価格が上昇するということは、消費者にとってはサービスが受けにくくなるということです。政府による業務独占資格が存在すると、消費者は、たとえ自分の目的が比較的簡単で高度な技能を必要としなくても、その仕事をするのに充分な技能を備えただけの人を安く雇うことは許されていません。なぜならその人は、政府が発行しているより高度な技能を示す資格を有していないからです。

確かに、政府が極めて高度な技能を持つ者にしか特定の業務を許さなければ、サービス提供者の過失による事故を減らすことは出来るでしょう。しかし、逆に、政府による独占資格が存在していなければより多くの消費者がより安価で受けることができたであろうサービスが、多くの人にとって高価で手が届かなくなるということが起こるのです。さらに、政府資格保持者を雇うと高くつき過ぎるので消費者が自分で対処しようとすることによる事故も起ります。

これは技術革新のお陰で本来なら製品の価格が下がったにもかかわらず、政府による供給量制限のためにその製品の価格が吊り上げられて、人々が安い価格で製品を購入出来ない状態と同じです。安くなった物やサービスを利用出来るようになることで人々は豊かになるのですが、資格保持者制限で価格が高く保たれてサービスそのものが利用できなくなるということは、人々がその分豊かになることを妨げられているということです。


政府による業務独占資格の発行は、消費者の需要や科学技術の進歩に合わせて資格の種類や内容が柔軟に対応することを妨げます。自由な市場では、消費者に需要があれば、保守的な資格と新しいもの好きの資格が共存するでしょう。自由市場では、特定のサービスに関しても多くの資格が存在し、また、それら全ての資格の内容が一気に変わる必要もありません。

一方、民間の発行する資格に較べると、政府の発行する資格の内容は、消費者の需要の変化に合わせた対応が遅れます。政府が発行する資格内容を変更するためには、議会や役所の審議を経る必要があるからです。また、資格保持者の団体は、政治家を通じて資格取得が容易になることを妨げようとします。さらに、社会で一種類しかない政府独占資格の内容変更は、特定サービスの提供者全員の技能の質に影響を与えます。資格の基準を安易に変えて事故でも起ると、審議に係わった政治家や役人の責任問題に発展します。従って、政府の発行する資格の内容の変更は時間がかかります。自由市場において一部の消費者の需要があれば新しい資格を創設したり、今までの資格内容を変更することが容易に出来るのに較べると、政府の独占業務資格は柔軟性に欠けるのです。


どんな職業でも詐欺行為を働く人は必ず存在するので、不正を防止するためには資格は政府が発行しなければならないという意見があります。政府の資格発行機関は、試験を行って資格保持者の技能の質を維持しようとしますが、これはたとえ民間の機関が資格を発行するとしても行うことは同じです。政府であるからという理由で民間の資格発行機関よりも容易に不正行為を見つけられるということはありません。

我々が問わなければならない問題は、政府でも民間機関でも不正の察知が容易でないならば、政府が資格を発行する制度と民間に自由に資格発行を認める制度を較べると、どの制度のもとで不正を早く察知する動機付けが資格発行者に生じるかということです。言い換えれば、どの制度のもとで資格発行者が、不正を隠匿すれば損害を被るか、逆に、不正をいち早く察知して不正を行った者を罰すればそうでない場合に較べて得をするかということを考えることが必要です。

自分の発行した資格を保持する者の不正を察知した場合、その不正を隠匿する誘惑にかられるのは政府機関も民間機関も同じでしょう。しかし、民間機関が不正を隠匿し、それがばれた場合には、民間機関の経営者や株主は大きな代償を支払うことになります。当然消費者は、他の民間機関の発行する資格に逃げます。資格の価値と共に、資格発行機関の株価も下がります。経営者は、不正の被害者のみならず、株主や資格保持者からも不正隠匿による損害賠償を求められるでしょう。従って、民間の機関は、損害を少なくするために不正には迅速に対応して消費者の信頼回復に努めます。

ところが政府による独占業務資格は、その独占の地位故に消滅することはありません。また、たとえ不正があったとしても、それが社会で唯一の資格なので消費者やサービス提供者が他の資格に逃げるということもありません。これは、消費者やサービス提供者の信頼を失えば成り立たない民間の資格と政府独占資格との根本的な違いです。また、民間団体の経営者や株主と異なり、責任者である役人は資格保持者の誰かが不正を行っても自腹を切って不正の損害を賠償させられるということもありません。つまり、政府機関が不正行為に迅速に対処するという動機付けは、民間団体に較べると決定的に弱いのです。不正を未然に防止したり察知することがどっちみち困難ならば、不正隠匿で大きな経済的な損害を受ける民間の経営者や株主に不正の監督と対処を任せた方が、政府機関に任せた場合に較べると、起った不正は迅速に対処され、また不正を防止する措置がより積極的に採用されます。


人々がサービス提供者の技能を容易に判断できない職種が存在する限り、技能の指標となる資格には需要があります。現在存在する政府による独占的な業務資格は、少なくとも建前の上では資格に対する消費者の需要を満たすために導入されたのですが、現実には、資格保持者の数を制限しサービスの価格を吊り上げる目的に使われています。消費者が求めていない政府資格が導入され、様々なサービスの価格が不必要に吊り上げられ、その結果サービスそのものが受けにくくなっています。政府による独占的な資格を導入してこのような弊害を作り出さなくとも、自由な市場には消費者が必要とする種類の資格を消費者の需要に合わせて提供する機能があるのです。改革の第一歩として、政府による資格発行の独占を廃止し、民間団体による自由な資格の発行と政府資格との競争を許すべきです。


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