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 天皇陛下、皇后陛下、伊勢神宮の外宮に拝礼 !即位の礼や大嘗祭を報告 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2019 年 11 月 24 日 21:24:46: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


 天皇陛下、皇后陛下、伊勢神宮の外宮に拝礼 ! 即位の礼や大嘗祭を報告 !

    天皇陛下・皇后陛下のプロフィールとは ?

(www.asahi.com:2019年11月22日13時38分より抜粋・転載)

朝日新聞デジタル:長谷文:

 天皇、皇后両陛下は、11月22日、三重県伊勢市の伊勢神宮の外宮(げぐう)を訪れ、即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)を終えたことを報告する「親謁(しんえつ)の儀」を執り行った。

参拝に向かう参道では、皇后さまは、今月10日のパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」で使った、オープンカーを使う予定だったが、雨のため、通常の車を使った。

天皇陛下は、幌付きの馬車で移動した。

 天皇陛下は、即位を国内外に宣言した、「即位礼正殿(せいでん)の儀」で身にまとった「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と呼ばれる、束帯姿。馬車で板垣南御門前まで移動した。

馬車から降りた後は、「三種の神器」の剣とまが玉を持った、侍従に先導され、正殿(しょうでん)へ向かった。

 陛下の頭上には、14、15日の「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」で使われた、鳳凰(ほうおう)の飾りが付いた、菅の葉で編まれたかさが、侍従によって差し掛けられた。

皇后雅子さまは、十二単(ひとえ)で儀式に臨んだ。

馬のアレルギーがあるため、オープンカーを使う予定だったが、雨天のため使用しなかった。

 両陛下は21〜23日の日程で三重県を訪問。

23日には、伊勢神宮の内宮に参拝する。(長谷文)

(参考資料)

○天皇陛下のプロフィール:徳仁

徳仁(なるひと、(1960年〈昭和35年〉2月23日生まれ。59歳)は、日本の第126代天皇(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - [1])。称号は、浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。在位中は、今上天皇と称される[2][注 2]。敬称は陛下[3][注 3]。勲等は大勲位菊花章頸飾。

明仁(第125代天皇、上皇)と美智子(上皇后)の第1皇男子(2男1女のうちの第1子)。皇后は雅子(旧姓:小和田)。

昭和天皇の皇孫かつ大正天皇の皇曾孫にあたる。

戦後(第二次世界大戦後)かつ日本国憲法・現皇室典範下の生まれで即位し、また学位を持ち海外留学の経験がある初めての天皇でもある。即位に伴い、平成から令和に改元された。

住居は、東京都港区元赤坂にある赤坂御用地内の赤坂御所(旧:東宮御所[4])[注 4]。

☆略歴:

1960年(昭和35年)2月23日16時15分[5]、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女・3人の子女の内、第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。同日は2020年(令和2年)以降、天皇誕生日となる。

御称号は「浩宮」、諱は「徳仁」と命名された。

1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父・昭和天皇の崩御により、父、皇太子明仁親王(当時)の皇位継承(第125代天皇即位)に伴い皇太子(皇位継承順位第1位である皇嗣たる第1皇男子、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、政府の用いる正式表記では「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」とされた。

天皇即位以前、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで、22回、父である上皇の譲位前の天皇在位中において自身は皇太子として海外行幸の期間または病気療養の期間、父帝から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[6]。

2019年(平成31年)4月30日の第125代天皇明仁の退位(譲位)[7]に伴い、翌令和元年(2019年)5月1日に、上皇となった父帝・明仁より皇位を継承し、日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、第126代天皇に即位する[1]。

1961年(昭和36年)2月の徳仁親王

お印に用いられた梓(写真は梓とされる樹木の一種・キササゲ)

皇太子旗

1989年(昭和64年)1月7日 - 2019年(平成31年)4月30日

徳仁親王の立太子の礼:1991年(平成3年)2月23日

束帯黄丹袍を着用した徳仁親王

1960年(昭和35年)2月23日16時15分[5]、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。同日は2020年(令和2年)以降、天皇誕生日となった。

☆1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通史・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻した。

1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジ(英語版)に留学して、テムズ川の水運史について研究[12]。 名誉博士(オックスフォード大学の法学)を取得した。

1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった、父・昭和天皇の崩御により、父、皇太子明仁親王(当時)の皇位継承(第125代天皇即位)に伴い、太子(皇位継承順位第1位である皇嗣たる、1皇男子、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には、太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、国会、政府の用いる、式表記では「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」(こうたいしなるひとしんのうでんか)とされた。

天皇即位以前、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで、22回、父である上皇の譲位前の天皇在位中において、海外行幸の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[6]。

2019年(平成31年)4月30日の第125代天皇明仁の退位(譲位)[7]に伴い、翌令和元年(2019年)5月1日に、上皇となった父帝・明仁より皇位を継承し、日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、第126代天皇に即位する[1]。

皇室男子としても珍しく歴史学(主に交通史、流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏、登山、ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[8][9]。

☆成婚以降

成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で長女の敬宮愛子内親王が誕生した。

皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。

学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。

○皇后雅子様:(ウイキペデアより抜粋・転載)

 1963年(昭和38年)12月9日、外務省職員であった小和田恆、優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門にある国家公務員共済組合連合会虎の門病院にて誕生した(55歳)。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に居住していた[4]。

1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する[13]。専攻は数理経済学。卒業論文『External Adjustment to Import Price Shocks : Oil in Japanese Trade(輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油)』(糠沢和夫・真野輝彦・榊原英資協力)。

成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した[13]。1985年の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3人だった。

卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。

夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している[14]。

1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)[15]の3学年に外部学士入学する[13]。100名中3名の合格であった[16]。

雅子は皇太子徳仁親王(当時)との婚約内定後にこの事を振り返り、「米国に残ったら、根無し草になってしまうような気がして、日本に帰りたかった」と語っている。

駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し[17]、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる[13]。合格者は28名でうち女性は3名であった[18][19]。渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。

1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された[13]。この頃から東京都目黒区南にある小和田・江頭両家の二世帯住宅に居住し始める。

1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で「北米局北米二課」に配属された[13]。経済局国際機関第二課配属・OECD(経済協力開発機構)の担当をしたのは1年4か月、北米局北米第2課勤務は2年8か月。

総計して、外務省での職歴は5年10か月(留学期間を省くと4年)である。配属の2日目は徹夜で業務をこなし、その後も徹夜は無いが週に3日は帰宅が午前様になるなど激務であった[20]。

1991年(平成3年)3月には、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。同月11日に港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かして幅広く活躍した。

 

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