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  地獄をさ迷う亡者たちの罪名は、「国を売りし罪」である !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2020 年 1 月 13 日 21:31:22: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


 地獄をさ迷う亡者たちの罪名は、「国を売りし罪」である !

     生と死に関する、仏法の生命観とは ?


(「植草一秀の『知られざる真実』」:2020/01/11より抜粋・転載)
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1)〜5)は前回投稿済みです。以下はその続きです。

6)日本の天命:「米国からの独立・自尊と、中国との平等・互恵」

《「日本の天命」とは、一体何でしょうか ? 様々な答えが考えられると思います。

今、私が思いつきますことは、「アメリカからの独立・自尊と、中国との平等・互恵」ということです。

また、かなり大袈裟に聞こえるかも知れませんが、わが日本国の天命は、”人類の救済”にあるのではないでしょうか。正直、私は、そう感じます。》

《それでは、「日本人の使命」とは、一体何でしょうか?

私は、それは端的に言って、先ず何よりも、アメリカからの「独立」だと思います。》

7)渡邉氏:「今日の日本で、最も重要なキーワードは、「平和」だ !

その上で渡邉良明氏は「今日の日本で、最も重要なキーワードは、「平和」だと考えます」と述べる。

そして、「「日本の天命」とは今日、「平和」の尊さを、世界に発信することではないだろうか、と。

また、「日本人の使命」とは、「平和の使徒」として、真の平和の実現のため、命尽きるまで、働き続けることではないだろうか」と訴える。

このような考えを明示した上で著作の紹介をされる。

「とはいえ、目下、本ブログで予定しています内容は、これとは、全く真逆の内容です。

つまり、今日まで、「日本売り」に加担した、歴代の総理大臣たちが、死後、地獄に落ち、閻魔大王の裁きを受けるという「(些かリアルな?)空想物語」なのです。

8)渡邉良明氏による、痛快な戦後日本政治通史をご高読賜りたい !

まさに、現代版の『戯作本』といったところです。」

ぜひ、渡邉良明氏による、痛快な戦後日本政治通史をご高読賜りたい。

地獄について渡邉氏は次のように記述される。

「「人間、死ねば、それで終わり」と考える人は、多いようです。

果たして、そうでしょうか ?

もし、そうならば、この世で、どんな悪事を働いても、その事実を、人に知られずに生き抜けば、さも何事もなかったかのように、平然と、死を迎えることもできましょう。

9)むしろ、「死」は、人間にとって、”真の人生”の始まりである !

しかし、今までの私の知見や体験では、「人間、死ねば、それで終わり」ではないのです。

むしろ、「死」は、人間にとって、”真の人生”の始まりでさえあります。

それに、死自体は、決して醜いものでも、怖いものでもないと思います。

如何なる形の死であれ、それ自体は、たいへん厳かなものだと思うのです。」

「この世には、数多くの非業の死もありましょう。

でも、ヨーロッパのある聖人などは、「死、この甘美なるもの」という言葉を遺しています。

加えて、次のような言葉もあります。

10 )死は、善人にとっては喜びであり、悪人にとっては苦痛である !

「死は、善人にとっては喜びであり、悪人にとっては苦痛である」というものです。

こう語りましたのは、フランスの政治思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712〜78)です。

この言葉は、彼の著『エミール』の中の一節です。

実に、的を射ていると思います。」

「この言に従えば、これより俎上に載せる方々は、さぞかし、死の間際におきまして、実に耐え難い苦痛を味わったことでしょう。

あるいは、同じ類いの存命者は、きっとその時になると、身もだえするほどの苦痛を感じるに違いありません。

無論、彼らに、まだ、『良心』が、残っていればでの話ですが。・・・」

「先月12日、「第4次安倍晋三再改造内閣」なるものが発足しました。

   ―この続きは次回投稿しますー

(参考資料)

  ○仏教は、生死をどう捉(とら)えるのか ?

(plaza.rakuten.co.jpより抜粋・転載)

【池田SGI会長の指針】………………………………………………………………

「『生死一大事血脈抄』講義」から:(1977年4月、創価学会の「聖教新聞」掲載)

法華経の哲理をもとに、「生」として顕在化(けんざいか)し、「死」として潜在化(せんざいか)しながら生死を無限に持続していくという「永遠の生命観」を示します。

 生と死は、生命の変化の姿であり、逆に言えば、生と死生にしか生命はあらわれないのであります。

 凡夫(ぼんぷ)の限には、生命は生で始まり、死で終わるとしか映らない。しかし、仏法の視点は、この限界を打ち破って、生とあらわれ、死として持続している全体を貫く「生命」そのものをとらえたのであります。

この観点から、仏法では、生命の変化相としての生と死を、どうとらえているのでしょうか。

 法華経寿量品(じゅりょぅほん)に「若退若出(きゃくたいにゃくしゅつ)」と説かれております。この「退く」というのが「死」にあたり、「出づる」というのが「生」にあたります。

 また寿量品では、永遠の生命観から、生命は、退いたり、生じたり、生まれたり、死んだりするものではない、という説き方をしておりますが、日蓮大聖人の「御義口伝(おんぎくでん)」では、更に深く本有(ほんぬ)の生死、つまり本来もともとの生死であり、(本来もともとの)退出(たいしゅつ)であるととらえるのが、本当の正しい生命観であると説き明かしております。

 ゆえに、生命が顕在化(けんざいか)した状態を「生」とし、潜在化(せんざいか)した状態を「死」ととらえ、しかも、その生死を無限に持続しているのが、生命そのものなのであります。

 生を顕在化、死を潜在化ととらえる仏法の究極(きゅうきょく)の哲理は、何と、悠久(ゆうゆう)、偉大な生命をみてとっていることでしょうか。

 しかも、その生と死は不二(ふに)であると説いているのです。生を働かしているものは潜在化した妙(たえ)なる力であり、また、潜在化した生命は、やがて縁に触れて顕在化し、ダイナミックな生を営(いとな)み、色彩(しきさい)豊かに個性を発揮していきます。やがて、その生は静かに退(しりぞ)き、死へとおもむく。

 しかし、その潜在化は新しいエネルギーを蓄(たくわ)えつつ、新しい次の生を待つのであります。

 言わば、生は、それまで休息し、蓄えた生命の力の爆発であり、燃焼であり、やがてその生涯の一巻の書を綴(つづ)り終えて、死におもむく。その、宇宙それ自体に冥伏(みょうぶく)し、潜在化した生命は、宇宙生命の力をそこに充電させながら、生への飛翔(ひしょう)を待つのであります。

 これが、本来の生死であり、この宇宙本然のリズムの根源が、南無妙法蓮華経であります。

○死苦を乗り越える仏法の生命観 !

(plaza.rakuten.co.jp:2014/10/26より抜粋・転載)

カテゴリ:池田SGl会長指導選集:「幸福と平和を創る智慧」

第1部 幸福への指針:第6章 生死と向き合う。

6−3 死苦を乗り越える仏法の生命観

 釈尊(しゃくそん)は、人間の根源的な苦しみである「死苦(しく)」と徹(てっ)して 向き合うなかで、永遠の生命観に達しました。その釈尊の悟(さと)りに迫りながら、生死を見据(みす)えた仏教の本質を語っています。

6−3 死苦を乗り越える仏法の生命観:

 釈尊(しゃくそん)は、人間の根源的な苦しみである「死苦(しく)」と徹(てっ)して 向き合うなかで、永遠の生命観に達しました。その釈尊の悟(さと)りに迫りながら、生死を見据(みす)えた仏教の本質を語っています。

【池田SGI会長の指針】………………………………………………………………

 『生命を語る』から(第3巻、1974年3月刊)

 あるものはすべて、本能的に死を恐れる。とくに人間は、自分が生という状態をやめるとき、そのかなたにいったいどんな世界があるのかと考えることに、いいようのない恐怖を感じる。

 釈尊は、死にたくない、死を受けいれたくない、死を見つめたくないという、人間本来の本能のようなものを乗り越えて、偉大なる勇気をもって、人生の苦の相、真実相を受けいれた。そしてそのうえで、生と死の本質に対し、思索(しさく)に思索を重ねたのだろう。

 仏法は永遠の生命を説くけれども、それは決して、安易に民衆の不死への願望を受けいれた理論ではない。諸行無常(しょぎょうむじょう)や、苦集滅道(くじゅうめつどう)<仏教が説く苦の原因と解決の法理>という教えは、人間が避けたがる人生の苦の相を、そのまま如実にさらけたして見せているのだと思う。

空想的仮説で真実を凝視(ぎょうし)するのではなく、冷徹(れいてつ)な眼(まなこ)で真実を凝視(ぎょうし)した。生あるものはかならず死ぬ。この大前提をそのまま認めた。

 なぜ死ぬのか。死と生とはまったくかけ離れた存在なのか。それとも密接な関係にあるのか。生命はどのような流れがあるのか。勇気と忍耐と冷静さをもって、釈尊はみずからの生命に光をあて、その真実相を悟ろうとした。そうして得た悟りが、永遠の生命だったのです。

 生と死を、人間生命は本然のうちにもっている。生と死を交互に繰り返しながら、人間生命は雄大なうねりをもって永遠に流れている覧このことを、みずからの生命の奔流(ほんりゅう)のなかに釈尊はみた。

 それはもはや、生に執着(しゅうちゃく)するがゆえに打ち立てられた霊魂不滅(れいこんふめつ)のごとき思想ではなく、厳然たる、一個の生命をつらぬく因果(いんが)の法則を見きわめたうえでの永遠の生命観である。

 この永遠の生命観に立って、死というものを意義づけるならば、死はむしろ生のためのものであるということになる。

 あたかも、眠りが次の目覚(めざ)めのための休息(きゅうそく)であるようなものです。死は生のための方便である。生をより輝かせるためのものであり、生こそ生命の活動の本態(もともとの姿)である。

生と死とは相対立したものではなく、死はむしろ、生のためのものとして位置づけられる。これが法華経に説かれる「方便現涅槃(ほうべんげんねはん)」(釈尊の仏の生命は永遠であり、衆生に仏を求める心を起こさせるために、方便(ほうべん)として涅槃(ねはん)を現じた)ということになるでしょう。

 仏教の本質は、いたずらな悲観主義(ひかんしゅぎ)、厭世観(えんせいかん)でもなければ、根拠のない楽天主義でもない。人生の苦を直視し、そこから逃避(とうひ)するのでなく、むしろ徹底的に取り組んだ末に到達した、生の歓喜の思想だといってもよい。苦しみから逃避して、真実の喜びはない。

人が目をそむけ、逃避しようとしている苦しみを如実に知見し、それに勇敢に挑戦し乗り越えてこそ初めて、金剛不壊(こんごうふえ)の、つきることなき歓喜が込み上げてくるのです。

(6-4に続く)

○「権威・権力」についての箴言

(『希望の明日へ』491~494頁など)

*社会的権威や権力に、媚び諂ったり、従順であることは、決して正しい信仰者の生き方ではない。それらと妥協せず、真実の人間の生き方を求めて戦っていくのが、信仰の精神である

(『希望の明日へ』)。

*議員は、本来公僕である。民衆の幸福のために仕えるのが使命である。決して、威張らせてはならない。厳しく、監視しなければならない(『希望の明日へ』)。

*悪は善の敵となり、善は悪に攻撃される。これは永遠に仕方のないことである。その意味で、人生は覚悟する以外ない。「愚人にほめられ、大聖人に叱られる道をとるか」、「愚人に迫害され、大聖人にほめられる人生を選ぶか」―中間はない。また、善をなす勇気がなければ、悪を助長し、結局は悪に通じよう。

*権力に生きる人間は、時とともに硬直化し、保守化し、みずからを狭いせかいと視野に閉じ込めてしまう。ひとたび、心に権力や財力の甘い蜜をしみこませてしまえば、もはや、その魔力から脱することは難しい。堕落と保身への汚染が生命をむしばむ。

 

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