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  小沢一郎議員:議員在職50年 !「出世とキャリア」〈4〉(下)
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投稿者 青木吉太郎 日時 2020 年 1 月 17 日 21:43:45: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

 小沢一郎議員:議員在職50 年 ! 「出世とキャリア」〈4〉(下)

(jbpress.ismedia.jp:2020年1/16(木) 6:00より抜粋・転載)

議員在職50 年 小沢一郎「出世とキャリア」〈4〉

■政党と派閥のポストばかり

■自衛隊の海外派遣で「軍国主義者」

■「小沢調査会」と狭心症での入院

■首相就任の打診を拒否 !総裁候補の3人の「面接」

■竹下派分裂から細川連立政権へ !

◆1993年7月18日投開票の衆院選の結果

以上は前回投稿済みです。以下はその続きです。

■ 9日間で細川政権を樹立 !

 細川護熙政権発足に向けた小沢の動きは、選挙戦終盤から始まっていた。後藤謙次『ドキュメント平成政治史1』(岩波書店)は「投票日直前のことだった。新生党代表幹事の小沢一郎は担当記者を前に言い放った。

『自民党が220議席、保守系無所属を入れて230議席というなら自民党政権の存続はない。まあ、いいからみていろ』」とのエピソードを紹介している。投開票前から自信満々だったのである。

 7月18日の投開票日以降の動きを小沢中心にまとめる。

 19日 小沢が初代連合会長の山岸章に「連立政権をつくるという1点に絞る」と電話で伝える

21日 小沢、社会・田辺誠前委員長、公明・市川雄一書記長、民社・米沢髀窓L長が会談。山岸同席。小沢は「羽田ではダメだ」と述べ、首相候補について一任を取り付ける

21日 民社・大内啓伍委員長「一路、非自民連立政権に向かって突き進む」と発言

22日夜 小沢が細川とホテルニューオータニで会談

小沢が「あんたが首相になるしかない」と打診、細川が事実上受諾

24日 小沢、山岸、社会・山花委員長、社会・田辺が会談

27日 社会、新生、公明、日本新党、民社、社民連らが代表者会議(さきがけが欠席)

28日午前 細川・武村正義が自民党本部を訪問して「決別」を伝える

28日午後 非自民7党が幹事長・書記長レベルの代表者会議

29日 各党党首によるトップ会談で「連立政権樹立に関する合意事項」了承

 細川政権が事実上固まったのが27日なので、小沢は実質9日間で「工作」を終えている。

 最大のポイントは、社会党系の総評と民社党系の同盟を合体させた連合初代委員長の山岸を味方につけ、早々に地ならしをしている点だ。しかも、羽田首班は難しい旨を伝えて社会、公明、民社の3党から一任を取り付けている。

 さらに、同時並行的に、小沢は「土井たか子衆院議長」に向けた調整を行っている。本来、経歴からいえば田辺が議長になるのが筋だったが、左派対策として土井の議長就任にこぎつけたことも成功要因だった。

 細川内閣は8月9日に発足した。自民の一党支配が崩壊したのである。まさに政治史上の金字塔ともいうべき歴史的な出来事となった。

■細川政権下野、羽田連立政権、再び下野 !

 ただ国民が高い期待を寄せた、細川政権は、わずか8カ月で瓦解し、後継の羽田孜内閣は、64日で幕を閉じた。ガラス細工の非自民連立政権は、あっけなく散った。

 94年6月、自民、社会、さきがけの自社さ政権が発足する。死にものぐるいで政権復帰を目指した自民党の執念だった。小沢はこの時点において、政治家人生で初めて野党を経験することになる。

 今でこそ、小沢は野党党首のイメージが強いが、衆院議員50年のキャリア全体でみると、与党生活は29年間で、野党生活よりも長いのである。

◆小沢一郎議員の与党生活は、29 年間 !

自民党=23年半、新生党=1年、自由党=1年3カ月、民主党=3年3カ月

 小沢一郎議員は、1994年12月に、新進党を結成し、1996年10月の衆院選に、党首として臨むが、ライバル・橋本龍太郎率いる自民党に、敗北する。1997年12月、新進党が解党し、1998年1月に自由党を結成すると、今度は、一転して政権入りに舵を切る。

 1999年1月、自自連立政権が発足し、小沢一郎議員は、比例代表の定数削減、政府委員制度の廃止、党首討論の導入など、次々に政策を実現していく。

しかしながら、1999年10月、自自公連立政権が発足すると、自由党の存在感が、一気に薄れてしまう。

 2000年4月、小沢一郎率いる自由党は、連立政権を離脱し、下野する。

このころには、「壊し屋」の異名が、小沢一郎の形容詞として定着した。

 非自民連立政権樹立という、「革命」を成し遂げた、小沢一郎だったが、その後、なかなか政局で勝てない日々が続いた。自由党の連立政権離脱後は「小沢の時代は終わった」との見方が広がり、メディアも以前のように、「小沢中心史観」報道を、避けるようになる。

少数野党の党首として、小沢一郎は、苦しい時期にあった。

 だが、小沢の賞味期限は、まだまだあった。「民由合併」よる、政権奪取戦略を立てるのだった。

(続く)―紀尾井啓孟―

(参考資料)

小沢一郎議員のプロフィールとは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

小沢一郎(おざわいちろう、1942年〈昭和17年〉5月24日生まれ、77歳 )とは、日本の政治家。国民民主党所属の衆議院議員(17期)、国民民主党総合選対本部長相談役。

自治大臣兼国家公安委員会委員長、内閣官房副長官(政務担当)、自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党幹事長、新進党党首、自由党党首、民主党代表代行、民主党代表、民主党幹事長、国民の生活が第一代表、生活の党代表、生活の党と山本太郎となかまたち共同代表、自由党共同代表などを歴任した。

◆概説・生い立ち

岩手県出身の弁護士・政治家である小沢佐重喜の長男として東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に生まれた。父・佐重喜は当時、東京府会議員をしていた[1]。母・みちは元千葉県議会議員荒木儀助の四女である[注 2]。父は44歳、母は42歳と、両親が高齢になってから生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという[1]。本籍地は岩手県奥州市(旧水沢市)。

3 歳になる頃、東京大空襲を逃れるため、小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢に疎開した[2]。

◆学生時代

水沢市立水沢小学校(現・奥州市立水沢小学校)を経て、水沢市立常盤中学校(現・奥州市立東水沢中学校)の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。

東京都立小石川高等学校卒業後、慶應義塾大学経済学部経済学科に入学する。大学時代のニックネームは、“おとうちゃん”。身体が大きく寡黙でどことなく落ち着いた風貌を漂わせていたことからこのニックネームがつけられたという[3]。在学中は気賀健三のゼミに所属。入学当初から経済学よりは法律の勉強に熱心で、法律関係の授業を熱心に聴講していたという[4]。

1967年(昭和42年)春に、大学を卒業する。弁護士を目指すために日本大学大学院法学研究科で法律を学ぶ[5][注 3]。日大大学院では、家族法を専門とする高梨公之(日大名誉総長)から司法試験(弁護士教育)と論文指導を受けた。

1968 年(昭和43年)5月8日、父・佐重喜が心不全で急逝[6]、これをきっかけに弁護士になることを断念した[7]。

◆民主党離党後

2012 年(平成24年)7月11日、小沢はグループ議員とともに新党・「国民の生活が第一」を結党し、代表に就任した。新党の綱領は「自立と共生」で脱原発と反増税を掲げる。一方で、それまで一貫して小沢と行動を共にしてきた岩手の地方議員及び後援団体の大規模な離脱が表面化した。

同年11月12日、東京高等裁判所で一審を支持、同月19日に上告が断念されたことで、陸山会事件における小沢の無罪が確定した[40]。

11月、国民の生活が第一を解党し、日本未来の党へ合流した上で自身は党職に就かないことを表明した。

直後の第46回衆議院選挙において、日本未来の党は61議席から9議席と大幅に議席を減らした。小沢は小選挙区のみで出馬し当選したが、岩手にある4区のうち、未来が議席を獲得したのは小沢の4区のみであった。小選挙区制度導入以降、2区を除いてすべての選挙区を一貫して小沢の所属政党の候補者が当選してきた中で、初めて小沢の地元での影響力の衰えが指摘された選挙となった。

12 月、総選挙の惨敗を受けて、小沢系議員と未来の党代表の嘉田由紀子らとの対立が表面化した。嘉田らが離党する形となり、残留した小沢らは党名を生活の党に改称し、側近の森裕子が代表に就任した。

2013年(平成25年)1月25日、森裕子に代わって小沢が生活の党代表に就任した。同年7月21日に行われた第23回参議院選挙において、森裕子を始め公認した全員が落選し、さらに地元である岩手県では小沢と袂を分かった平野達男が当選した。

2014年12月に施行された第47回衆議院議員総選挙の結果、生活の党は政党要件を失った。しかし、12月26日に無所属の参議院議員山本太郎が入党し、政党要件を満たした。また、党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改めた[47][48]。

2016年10月12日、記者会見で政党名を生活の党と山本太郎となかまたちから自由党に変更することを発表した[49]。2017年の第48回衆議院議員総選挙では自由党は公認候補を擁立せず、自身は無所属で岩手県第3区から出馬し、17選。

2019年1月22日には国民民主党の玉木雄一郎代表と会談し、国民・自由両党を合流させる方針で一致し[50]、4月26日に正式に国民民主党に合流し、自由党を解散した[51]。小沢としてはかつて袂を分かった旧民主党の系譜上の政党に7年ぶりに所属する形となった。

翌5月、国民民主党の総合選対本部長相談役に就任[52]。同年夏の第25回参議院議員通常選挙では、街頭演説などの表立った動きは避け、水面下でのどぶ板選挙に徹した[53]。

2019年12月28日に在職50年を迎えた。

 

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