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  政治改革は、1954年の政権交代から学ぶべきだ !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2021 年 6 月 15 日 14:39:39: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

   政治改革は、1954年の政権交代から学ぶべきだ !

      鳩山一郎氏のプロフィールとは ?

植草一秀氏ブログ「知られざる真実」
(第2876号:2021年6月10日)

1)〜10)は前2回投稿済みです。以下はその続きです。

11)鳩山一郎は、1952年10月の衆院総選挙で、衆議院議員に復帰をはたした !

1951年8月に公職追放を解除された、鳩山一郎は、1952年10月の衆院総選挙で、衆議院議員に復帰をはたした。
公職追放が解除になれば、権力を返すと、約したはずの吉田茂が、権力に執着した。
1953年3月、吉田、鳩山による党内抗争の果て、吉田茂の「バカヤロー解散」に至る。
鳩山一郎は、分党派自由党を結成して、総選挙に臨む。
4月の第26回総選挙で、吉田自由党は、過半数割れに追い込まれた。
このとき、野党が結束していれば、吉田内閣を退場させることができた。

12)野党は1つにまとまらず、第5次吉田茂内閣が誕生した !

しかし、野党は1つにまとまらず、第5次吉田茂内閣が誕生した。
鳩山一郎は、1953年11月、分党派自由党を解党し、自由党に復党した。
鳩山一郎の政治生命は、絶たれたかに思われた。
しかし、「天網恢恢疎にして失わず」である。
吉田内閣は、造船疑獄事件に直面した。
1954年4月、犬養健法相は指揮権を発動した。

13)鳩山一郎は、1954年9月に日本民主党を創設した !

吉田内閣が弱体化するなかで、鳩山一郎は、1954年9月に日本民主党を創設した。
12月に内閣不信任案が提出されると、ついに吉田内閣は総辞職に追い込まれた。
12月9日の首班指名で鳩山一郎が、内閣総理大臣に指名されたのは、左派、右派の社会党が、鳩山一郎に投票したからである。
日本民主党が結成されたとき、多数勢力を有していたのは、改進党だったが、改進党の重光葵総裁は、新党総裁の座を鳩山に譲った。

14)社会党左派が、首班指名で鳩山一郎に投票した !

また、鳩山の再軍備方針に反対する、社会党左派が、首班指名で鳩山一郎に投票したことも特筆される。
これらの点は、小宮京氏の論考に詳しい。:https://bit.ly/2Tav3OU
政権刷新という大業を成就するには、越えねばならないハードルがある。
菅首相は、国民の命を犠牲にして、自分の政治的利益のためだけに、五輪開催強行に突き進む。
東京五輪を開催し、自民党総裁選、衆院総選挙を乗り切ることが目指されている。
国民を犠牲にして、自己の利益増進を図る人物を、宰相の地位に留め置くことは許されない。

15)国民は総意によって、菅首相の退場を求めるべきだ !

日本国民は総意によって、菅首相の退場を求めるべきである。
そのために、野党は、共産党を含む共闘体制の構築が必要不可欠である。
圧倒的多数の立憲民主党候補者は、共産党の支援なくして、衆院総選挙で議席を確保できない。
共産党が暴力革命を掲げているならいざ知らず、共産党の主張は、日本政治のひずみを正す正論ばかりである。

16)野党が、政策連合を構築し、大同団結で次の衆院総選挙に臨むべきだ !

野党が、政策連合を構築し、大同団結で次の衆院総選挙に臨むなら、日本政治刷新を実現できる。
小選挙区制下の選挙では、野党陣営の結束が必要不可欠である。
野党共闘を分断する試みは、与党勢力の作為を背景にするものと見て間違いない。
枝野代表が野党共闘に背を向けるなら、枝野氏を排除することが先決になる。

(参考資料)

○鳩山一郎氏のプロフィールとは ?

( ウィキペディアより抜粋・転載)

鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1959年〈昭和34年〉3月7日。76歳で死亡。)は、日本の政治家、弁護士。
第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は、正二位大勲位。55年体制が成立してから初の総理大臣であった。

◆概要

1912年(大正元年)に東京市会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。1954年(昭和29年)-1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となって55年体制を築き、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した。

◆年譜

1883年(明治16年) 東京市牛込区(現・東京都新宿区)東五軒町に出生。父・鳩山和夫は文部省第1期留学生、弁護士、東京府会議員。母・春子は東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立。
1895年(明治28年) 高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。
1900年(明治33年) 高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1903年(明治36年) 旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)卒業。
1907年(明治40年) 東京帝国大学法科大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める。
1908年(明治41年) 愛国団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚。
1911年(明治44年) 父・和夫が没した(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長)。
1912年(大正元年) 父の補欠選挙で東京市会議員に初当選。
1915年(大正4年) 立憲政友会公認で衆議院議員に当選。
1918年(大正7年) 長男・威一郎誕生。
1924年(大正13年) 政友会分裂に伴い、政友本党に参加。
1925年(大正14年) 政友本党を離党、翌年に同交会を経て政友会に復党。
1927年(昭和2年) 田中義一内閣で内閣書記官長(1929年まで)。
1931年(昭和6年) 犬養内閣で文部大臣。五・一五事件後、斎藤内閣で引き続き文部大臣(1934年まで)。
1933年(昭和8年) 文部大臣として滝川事件に関与。
1934年(昭和9年) 帝人事件で汚職の疑いをかけられ辞職(斎藤内閣も後に総辞職)。
1937年(昭和12年) 中島知久平・前田米蔵・島田俊雄とともに政友会総裁代行委員に就任する。
1939年(昭和14年) 政友会の分裂に伴い、正統派に所属する。
1942年(昭和17年) 翼賛選挙に非推薦で出馬、無所属で当選。
1943年(昭和18年) 東條内閣を批判し、軽井沢へ隠遁。
1945年(昭和20年) 終戦後軽井沢から上京、日本自由党結成(総裁)。
1946年(昭和21年) 総選挙で日本自由党が第一党になるが、公職追放となる。
1951年(昭和26年) 脳出血で倒れる。追放解除。
1952年(昭和27年) 第25回衆議院議員総選挙で政界に復帰。
1954年(昭和29年) 11月 日本民主党結成(総裁)、12月 内閣総理大臣になる。第1次鳩山一郎内閣発足。
1955年(昭和30年) 1月「天の声解散」、総選挙で民主党は比較第一党となるが過半数は制せず。3月 第2次鳩山一郎内閣発足。11月 保守合同により自由民主党結成(55年体制も参照)。第3次鳩山一郎内閣発足。
1956年(昭和31年) 自民党初代総裁に就任し、モスクワで日ソ共同宣言に調印。日ソ国交回復を花道に内閣総辞職。
1959年(昭和34年) 没する。墓所は東京都台東区の谷中霊園。大勲位菊花大綬章が没後受勲された。

◆1954年、第1次鳩山内閣の閣僚らと

第二次世界大戦終結後、1946年(昭和21年)の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたこと等をGHQが問題視、同年5月7日[1](GHQの処分決定は同年5月3日)公職追放となる(軍国主義台頭に協力したとの理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカを批判したことが各新聞の記事に載ったとの理由 ─ 統帥権や滝川事件を参照のこと)[* 2]。公職追放に際し鳩山は吉田茂を後継総裁に指名し、同年5月22日に第1次吉田内閣が発足した。
日本の独立回復を目前にした1951年(昭和26年)6月11日、自邸での自由党への復帰を巡る議論の最中に脳溢血で倒れる[4]。鳩山の追放は同年8月6日に解除された[5]。首相の座を目前にした追放や追放解除を目前にしての健康問題と、不運な状態が続いた鳩山は、世間の同情を集めることとなった。
翌年の第25回衆議院議員総選挙で自由党代議士に復帰した。しかし、吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、対立が表面化。バカヤロー解散での造反と吉田自由党への再合流を経て、1954年(昭和29年)11月24日に再び自由党を離脱して改進党と合流し、日本民主党を結党した。
貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂は不人気で政権を降り、同年12月10日に首相となった。1955年(昭和30年)11月15日、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党(自民党)を結成した。これにより保守勢力と革新勢力(この時点では社会主義)を軸とした55年体制が確立された。1956年(昭和31年)4月5日に自民党初代総裁に就任し、7月8日の第4回参議院議員通常選挙では、「友愛精神」の政治理念と日ソ国交回復・独立体制の整備・経済自立の達成などの政策目標を訴え、鳩山ブームを起こした。吉田前首相のアメリカ中心の外交から転換し、日ソ共同宣言を同年批准し、公約通り日ソ国交回復を成し遂げた[6]。

 

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