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  日航ジャンボ機123便を、自衛隊機2機が、追撃した、情報がある !
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/15576.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2021 年 8 月 17 日 12:19:26: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

  日航ジャンボ機123便を、自衛隊機2機が、追撃した、情報がある !

        日航機123便墜落の真相とは ?

植草一秀氏ブログ「知られざる真実」
(第2911号:2021年08月12日)

1)〜12)は前2回投稿済みです。以下はその続きです。

13)ファイア・ビーとチャカ2は、高度7千m付近を、縦に並んで、水平飛行した !

同時刻に、誘導ミサイルの実証実験をしていた、護衛艦「まつゆき」から発射された、無人標的機のファイア・ビーと、それを追尾する模擬誘導ミサイルのチャカ2は、高度7000m付近を、南東方向の縦に並んで、水平飛行していた。
南東に向けて水平飛行していた、「ファイア・ビー」と「チャカ2」は、南西に向けて上昇中の、日本航空123便にクロスするように衝突した。
先頭を飛んでいた、「ファイア・ビー」は、日航ジャンボ機123便の胴体の中央下部に、「ファイア・ビー」を追尾していた「チャカ2」は、1秒遅れて、水平尾翼に衝突した。
この時の衝撃音が、18時24分35秒と36秒の衝撃音。》
http://www.link-21.com/JAL123/022.html

14)日航ジャンボ機123便を、自衛隊機2機が、追撃した、情報がある !

この衝撃音のあと、日航ジャンボ機123便を、自衛隊機2機が、追撃したとの目撃情報がある。
真相究明に尽力されてきた、青山透子氏が、事故当日に、自衛隊機ファントム2機が、日航ジャンボ機123便を追尾した、との有力な目撃証言を、丹念に追跡されている。
以下は、青山透子氏によるものである。
群馬県警察本部発行の冊子『上毛警友』昭和60年(1985年)10月号が、日航機墜落事故特集号となっており、その122ページに、「日航機大惨事災害派遣に参加して」と題する、自衛隊第12偵察隊一等陸曹M・K氏の手記が掲載されている。
このなかに、次の記述がある。
《八月十二日私は、実家に不幸があり、吾妻郡東村に帰省していた。

15)実家の上空を、航空自衛隊のファントム二機が、低空飛行していった !

午後六時四十分頃、突如として、実家の上空を、航空自衛隊のファントム二機が、低空飛行していった。その飛行が、通常とは違う感じがした。
「何か事故でもあったのだろうか」と兄と話をした。
午後七時二十分頃、臨時ニュースで、日航機の行方不明を知った。》
この日の夕刻午後6時40分頃に、群馬県上空を、自衛隊のファントム2機が飛行していたことが明確に浮かび上がる。
青山氏が発掘した目撃証言には、当時の小学生が、事故の状況を綴(つづ)った文集のなかの記述も含まれている。また、別の重要な目撃証言も、掲載されている。

16)日航機は、米軍横田基地から、方向を変えて、山岳地帯に向かった !

8月12日午後6時30分頃に、静岡県藤枝市の上空を、日航ジャンボ機が、傾きながら飛行し、その約5分後に、ファントム2機が、日航機の後を追うように、北の方向に飛び去ったのを目撃した、人物が紹介されている。
飛行経路から考えると、日航機は、米軍横田基地への着陸を、トライしたのだと考えられる。
しかし、日航機は、方向を変えて、山岳地帯に向かった。
日航ジャンボ機123便を追尾した、自衛隊のファントムによって、山岳地帯の方向に誘導されたのではないか。

17)ボイスレコーダー音声が、公開されていない !

スコーク77が発せられた後の、ボイスレコーダー音声が、公開されていない。
スコーク77は、航空機における最高度の国際救難信号である。
衝撃音が発生したのが、18時24分35〜36秒である。
スコーク77は、18時24分42秒に発せられ、副操縦士が、18時24分47秒に復唱している。
機長は、発生した事態を把握していたのだ、と考えられる。
その後に、自衛隊機ファントムが追尾し、自衛隊機によって、123便は群馬県山岳地帯に誘導されたものと考えられる。重要なことは、真相を明らかにすることである。

18)カギを握るのは、伊豆沖海底に沈む、123便の機体の一部だ !

カギを握るのは、伊豆沖海底に沈む、123便の機体の一部である。
水中に沈んだ尾翼の一部に、付着物があれば、尾翼が外部からの飛翔体によって、損傷したとの仮説が裏付けられる。真相究明に、大きな前進を遂げるはずである。
犠牲になられた、520名の方が、真相解明を、切に願っていると思われる。
日航ジャンボ機123便墜落から35年が経過したいま、私たちは、まず海底に残存する、残骸と見られる物体を引き揚げて、解析を多なうべきである。

(参考資料)

○日航ジャンボ機123便墜落の真相とは ?(下)

(blog.livedoor.jp:)前回の続きです。

 耳は,痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。
 ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。
 しかし、それもすぐに直りました。
 『パーン』という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。
 急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、もちろん知っていました。
 急減圧は、何かが、ぶつかったり、衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだなと考えたのです。
 しかし、何が起きたのか想像もつきませんでした。
 酸素マスクが落ちてくる光景は、訓練では見ていますが、実際に経験するのはもちろんこれがはじめてでした。
 やはり『パーン』という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。
 かなり濃くて前のほうがうっすらとしか見えないほどです。
 私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号『47』『48』辺りの所が濃かったように見えました。
 ふと見ると、前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ−ッと見えるだけでした。
 その霧のようなものは、数秒で消えました。
 酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。
 白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。
 すっと消えた、という感じだったのです。」
 事故調査報告書は正しいのでしょうか。
 墜落事故は、本当は自衛隊の訓練で使用していた、何かの飛行物体が何らかの理由で、そのとき近くを飛んでいた、JAL123便にぶつかりました。
 これは、自衛隊には「偶然」と思えました。
 墜落現場の都合の悪いの残骸は、回収されたのでしょう。
 JAL123便の航空機事故の主原因となっている、「圧力隔壁の修理ミス」。
 アメリカのボーイング社は、「修理は完璧に行われた」とかたくなに否定していました。
 JAL123便と衝突した物体は、ボーイング社製であったからこそ、修理ミスではないのに修理ミスを認めたのかもしれません。
 当時の日本は世界最先端の軍事技術をアメリカの監視のもとで国産巡航ミサイルの開発を推進していました。
 アメリカはこの日本の技術を自国の巡航ミサイルの中心部分に組み込み「トマホークミサイル」を完成させました。
 JAL123便の垂直尾翼が吹き飛んだ相模湾海上での追尾型ミサイルの発射訓練は、当時シーレーン防衛を日本に勧めていたアメリカとの合同軍事訓練だともいわれています。
 アメリカは、日本の新型ミサイルの共同開発者なので、ミサイル標的のロックオン解除や再設定は容易なはずです。
 もし、アメリカ側が前もってJAL123便の航空ルートと飛行時間帯を調べ、上空を飛行することを計算したうえで、日本側に追尾型ミサイルの標的を123便への再設定をしていたのかもしれません。
 そして、隠蔽するように脅し、日本側がそのとおりの行動をしたのかもしれません。
 当時のJALは半官半民で政府の出資率は34%、政府の圧力をかけやすかったです。
 それともアメリカは、プラズマ兵器で、JAL123便の垂直尾翼を攻撃したのかもしれません。

◆ 世界最強兵器、 プラズマ兵器
◆ プラズマ解明
 アメリカは日本の弱みを作り出し、そしてその弱みを握り、アメリカの言うことを、きかせるようにしたのです。
 日本は、アメリカの仕掛けた罠に、はまったのです。
 のちの日本のバブル崩壊後の不景気を、引き起こす原因となり、当時でも日本側に不利益しかもたらさないアメリカ有利の「プラザ合意」を、航空機事件直後の、同年1985年9月22日に日本側は受諾しています。
 この時期、マスコミは、ジャンボ機墜落事件の事故としての報道一色でした。
 この時期に、強制的なドルの大幅切り下げ(1ドル250円が1年後150円に切り下げ)が行われました。
 当時から現在にいたるまで日本航空と日本政府が、ボーイング社製品を購入し続けるよう年次計画的にアメリカに強制されているのでボーイング社にもメリットがあります。

◆救助は遅れたのか遅らせたのか ?
 事故後14時間もたってから自衛隊の救助活動が行われた対応の遅さについて、当初は「情報がさくそうし正確な現場の位置が分からなかったため」と発表されていましたが、のちにこの発表に疑問を感じずにはいられない証言が次々と出てきます。
 事故の直後、最も早くアメリカ軍が墜落位置にヘリを飛ばしていることをを生き残っていたキャビンアテンダントが目撃しています。
 その発言は救出されたのちに報道されましたが、そののち重病室に2人の男が政府の許可を得て入室してから彼女の発言内容は変わってしまいます。
 墜落から9分後にはすでに長野県川上村の中嶋初女から墜落現場の詳細な位置を示す通報が警察に入っていました。
 墜落から58分後には自衛隊のヘリが現地上空へ直行し、到着後に燃える現場の写真撮影もすませ、しばらくの間ホバリングしています。
 現場近くを飛んでいた米軍の輸送機が、たまたまJALの緊急信号をキャッチして、通常英語で行われる無線のやり取りが日本語で行われているのを聞き現場に急行、事故現場を発見後に速やかに救助を要請しました。
 そして、ただちに米軍の救援ヘリも現地上空に到着し救助活動を開始して地上から15mの地点まで降下を始めていました。
 事故から10年後、退役した1人のアメリカ人が『週間文春』1995年9月28日号で、この事件はおかしかったと証言しています。
 「彼はその日、偶然にも沖縄・那覇から横田基地米軍輸送機C130で飛んでいた。
  日本側より14時間も前に墜落現場を発見した事実を公表した。
 あの飛行機事故のことは10年たった今も脳裏に焼きついて離れない。
 JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたとき、たまたま近くを飛んでいた。
 現場はすぐに発見できた。
 墜落の2時間後にはアメリカ海軍の救助ヘリが、現場に着いた。
 あのとき救助にストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。
 現場を確認後、グリフィン隊長は、残骸の上空600mでそのまま旋回飛行を続けた。
―以下省略―

 

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