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横田めぐみさん拉致事件から42年
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投稿者 角田誠司 日時 2022 年 9 月 27 日 10:32:16: 8h5uUsnwI4fUU inCTY5C9jmk
 



横田めぐみさん拉致事件から42年

新潟市立寄居中1年の横田めぐみさん=失踪当時(13)=が、下校途中に北朝鮮の工作員に拉致されて11月15日で42年となる。事件は学校から自宅までの約600メートルの間に発生。解決に結びつく有力な手がかりがないまま年月が過ぎ、北朝鮮にいるとの情報がもたらされたのは約20年後の1997年のことだった。だが、それからさらに22年たった今もめぐみさんの帰国は果たせていない。再会を願う関係者の心には、今も「あの日」が濃い影を落とす。めぐみさんの同級生だった池田正樹さん(55)と、めぐみさんの母校新潟小に通う長男大和君(7)とともに現場周辺を歩き、救出への決意を新たにした。また、めぐみさんの双子の弟拓也さん(51)、哲也さん(51)に「あの日」の記憶などを聞いた。(報道部・長野清隆、東京支社・中島陽平)
 1977年11月15日午後6時半ごろ、バドミントン部の練習を終えためぐみさんは友人2人と下校した。あの事件が起きたのは「その後すぐ」のことだった。
ことし11月初旬のほぼ同時刻。池田さん父子と一緒に、めぐみさんの通学路をたどった。
 寄居中の校門を出ると寄居坂が緩やかに海岸方向に延びる=図P1=。バス通りで車の交通量はあるが、歩行者はほとんどいない。街灯の光はあるが、大和君は「暗いね」と口にした。
 42年前を知る関係者の一人は「今も暗いが、昔はもっと暗かった」という。
 めぐみさんとバドミントン部で一緒だった正樹さん。「あの日、お父さんも隣のコートで練習していた。横田さんが拉致される数十分前までね」。厳しい表情で大和君に説明した。
 校門から約220メートル歩くと信号がある交差点に着いた。めぐみさんはここで2人目の友人と別れた=図P2=。めぐみさんが最後に確認された地点でもある。
自宅まで200メートル、消えた痕跡
 ここから先、一人で自宅を目指しためぐみさんはどうなったのか−。
 佐渡市の拉致被害者曽我ひとみさん(60)が、北朝鮮でめぐみさん本人から聞いたという証言がある。「曲がり角で男に捕まり、空き地に連れ込まれて拉致された」というものだ。
 42年前のあの夜、めぐみさんの臭いをたどって警察犬が捜索したが、自宅に近い道路周辺で途絶えた=図P3=。この付近で拉致されたとみられている。「この辺りで拉致されたんだよ」と正樹さんが言うと、大和君は「おうちまでどれぐらい」と聞き返した。
 「200メートルほどだ。行こう」。正樹さんは丁字路を左折し、薄暗い道を歩き、二つ目の丁字路で止まって右を見た=図P4=。「あそこに横田さんのご自宅があった。事件後ご両親は東京に行ったが、どんなに後ろ髪が引かれる思いで去ったのだろう」。大和君に想像を促すようにつぶやいた。
 大和君は「めぐみさん、早く帰ってきて」と語り、正樹さんの手をぎゅっと握った。現在、救出のための署名活動を手伝っている。

*横田 めぐみ(よこた めぐみ、1964年〈昭和39年〉10月5日 - )は、北朝鮮による拉致被害者、政府認定の拉致被害者[3]。中学1年生(13歳)のとき、部活動を終えて帰宅するところを拉致されたとされる[4]。

年譜
• 1964年(昭和39年)10月5日 : 日本銀行職員の父・滋と母・早紀江の長女として、名古屋市の聖霊病院で生まれる[1][2]。以後、父・滋の転勤により東京都品川区や広島市に転居[5][6]。広島時代は、特別な道具がなくても葉っぱや木、石などを使ってさまざまな遊びを考え出す子どもであった[1]。
• 1976年(昭和51年)7月23日 : 新潟市に転居する[7]。
o 静かな住宅地で、近くに新潟大学理学部・人文学部の跡地があり、広大な空き地となっていて海岸の防風林に続いていた。夜間は人気が途絶え海鳴りの音だけが聞こえてくる[8]。めぐみは「ずいぶん寂しいところだね。お父さんはここに何年いるのかなあ」と真顔で早紀江にたずねたことがあったという[8]。

*金正恩の経歴

金正恩は北朝鮮の第2代最高指導者である金正日の三男として生まれた。母は北朝鮮帰国事業で北朝鮮に渡った日本人の母と朝鮮人の父を持つ[13]大阪出身の元在日朝鮮人であり、金正日から日本風に「あゆみ」と呼ばれていた高容姫。金正日の長男の金正男は異母兄、次男の金正哲は同母兄となる。祖父は北朝鮮の初代最高指導者)である金日成。母方の祖父は日本軍の縫製工場である広田軍服工場で働いていたことから日本軍協力者と呼ばれた高京澤 (Ko Gyon-tek 1913年8月14日-1999年)である[14]。祖父の日成は結婚を認めなかったことから母子ともに首都の平壌ではなく元山市で生活していた[15]。済州島に出自を持つ大阪出身の在日朝鮮人の母親を持ち、幼少期から日本人の専属料理人藤本健二が作った寿司を好んで食べ、当人自身も東京タワーに興味を持つなど日本文化に囲まれた状況で育った[16]。撮影時期は不明であるが、少年時代の写真が玄哲海の生涯を収めた記録映画にて見ることができる[17]。
1996年9月よりスイスに留学し、ベルンの国際学校で「パク・ウン」という偽名を使用しながら教育を受けた[1][18][19][20][21][22][23]。現地教育当局の記録には、金正恩は1985年10月1日生まれで父親はパク・ヨンスという北朝鮮大使館員だと記載されている[24]。その後、3人の両親役は叔母に当たる高容淑とその夫である李剛が担っていたことが判明した[24]。高容淑と李剛は1998年に、子供たちを連れてベルリンから米国へ亡命した[24]。当時、米国政府は金正恩が誰であるかすら知らなかったという[24]。国際学校には数か月しか在籍せず、隣接する公立小学校でドイツ語を学んだ[1]。当時も数学教師として在籍していた公立中のペーター・ブリ校長らの証言によると、金正恩は自宅から300メートルほどの学校まで一人で歩いて通っていた[24]。在籍していた学校については諸説あり、リーベフェルト(英語版)市の公立学校で金正恩と知り合いであったと主張する人物の情報もある[25]。1998年9月、ベルンの自宅近くの公立中学校に編入[1]スイス滞在中は北朝鮮の在スイス大使が目付け役として身辺の管理を行っていたほか、親戚の寄り合いがインターラーケンやレマン湖の別邸で行われることもあった[26]。金正恩は普段からブランドものの高価なスニーカをはいていた[24]。自宅は3階建ての低層マンションで、一階から三階まで階段の両脇にある6部屋すべてを自由に使っており、サウナも備えらていた[24]。2000年8月、夏期休暇が終わると公立中学校を退学して帰国した。留学の経験から母国語の朝鮮語のほかに英語、中国語、ロシア語、ドイツ語、フランス語[27] など数ヶ国語を話せるとする報道もある[28][29]。日本語についても漢字の書き取りなどをしていたとされ[30]、来日経験もある[31][32][33]。日本については国力差を認識する発言を残している[34]。

 

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