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横田めぐみ: 北朝鮮に拉致されて42年!
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投稿者 太田五郎 日時 2022 年 9 月 30 日 10:07:25: ji5NqYJ7Tbzcs kb6TY4zcmFk
 




横田めぐみ: 北朝鮮に拉致されて42年!

新潟市立寄居中1年の横田めぐみさん=失踪当時(13)=が、下校途中に北朝鮮の工作員に拉致されて11月15日で42年となる。
事件は学校から自宅までの約600メートルの間に発生。解決に結びつく有力な手がかりがないまま年月が過ぎ、北朝鮮にいるとの情報がもたらされたのは約20年後の1997年のことだった。
だが、それからさらに22年たった今もめぐみさんの帰国は果たせていない。再会を願う関係者の心には、今も「あの日」が濃い影を落とす。めぐみさんの同級生だった池田正樹さん(55)と、めぐみさんの母校新潟小に通う長男大和君(7)とともに現場周辺を歩き、救出への決意を新たにした。
また、めぐみさんの双子の弟拓也さん(51)、哲也さん(51)に「あの日」の記憶などを聞いた。(報道部・長野清隆、東京支社・中島陽平)
真っ暗な住宅街、不審な車
 1977年11月15日午後6時半ごろ、バドミントン部の練習を終えためぐみさんは友人2人と下校した。あの事件が起きたのは「その後すぐ」のことだった。
ことし11月初旬のほぼ同時刻。池田さん父子と一緒に、めぐみさんの通学路をたどった。
 寄居中の校門を出ると寄居坂が緩やかに海岸方向に延びる=図P1=。バス通りで車の交通量はあるが、歩行者はほとんどいない。街灯の光はあるが、大和君は「暗いね」と口にした。
 42年前を知る関係者の一人は「今も暗いが、昔はもっと暗かった」という。
 めぐみさんとバドミントン部で一緒だった正樹さん。「あの日、お父さんも隣のコートで練習していた。横田さんが拉致される数十分前までね」。厳しい表情で大和君に説明した。
 校門から約220メートル歩くと信号がある交差点に着いた。めぐみさんはここで2人目の友人と別れた=図P2=。めぐみさんが最後に確認された地点でもある。
自宅まで200メートル、消えた痕跡
 ここから先、一人で自宅を目指しためぐみさんはどうなったのか−。
 佐渡市の拉致被害者曽我ひとみさん(60)が、北朝鮮でめぐみさん本人から聞いたという証言がある。「曲がり角で男に捕まり、空き地に連れ込まれて拉致された」というものだ。
 42年前のあの夜、めぐみさんの臭いをたどって警察犬が捜索したが、自宅に近い道路周辺で途絶えた=図P3=。この付近で拉致されたとみられている。「この辺りで拉致されたんだよ」と正樹さんが言うと、大和君は「おうちまでどれぐらい」と聞き返した。
 「200メートルほどだ。行こう」。正樹さんは丁字路を左折し、薄暗い道を歩き、二つ目の丁字路で止まって右を見た=図P4=。「あそこに横田さんのご自宅があった。事件後ご両親は東京に行ったが、どんなに後ろ髪が引かれる思いで去ったのだろう」。大和君に想像を促すようにつぶやいた。
 大和君は「めぐみさん、早く帰ってきて」と語り、正樹さんの手をぎゅっと握った。現在、救出のための署名活動を手伝っている。


*横田めぐみさんのプロフールとは ?

北朝鮮での消息[編集]

1977年(昭和52年)11月15日、辛光洙ら北朝鮮の工作員に連れ去られた[9][20]。彼女が泣き叫んで抵抗したため、約40時間にわたって、北朝鮮に向かう船の船倉に閉じ込められた[15][21][22]。彼女は「お母さん、お母さん」と泣き叫び、北朝鮮に到着時、出入口や壁などを引っ掻いたため爪が剥がれそうになるほど血まみれだった[11][15][21][22]。これは、北朝鮮の工作員だった安明進が、拉致実行犯のひとりである「丁(チョン)教官」(丁順権)から直接聞いた話である[21][22][23]。
丁順権は、1988年(昭和63年)10月の朝鮮労働党創立記念式典の際、横田めぐみを指して「あの娘は自分が日本から連れてきた子だ」と安に話しかけたという[23][24]。丁順権は北朝鮮に拉致した後、何度か横田めぐみに話しかけたが無視されて寂しかったと語っており[24]、拉致してみたら大人ではなく少女だったことで責任者から問い詰められ、自身も気がとがめたこと、日本に再入国した際、街に貼られているめぐみのポスターを1枚はがして持ち帰ったことなどを安明進に話している[25]。
初めて彼女について証言した亡命者(安明進ではない)によれば、彼女は拉致されてきた後、「朝鮮語を覚えたらお父さん、お母さんに会わせてあげる」と言われて一生懸命勉強したが、それが叶わないと知り、精神を病んで入院したという[26][注釈 3]。

*結婚・忠龍里での生活 [編集]

「金正男」、「加藤久美子 (拉致被害者)」、および「蓮池薫」も参照
北朝鮮当局によれば、こののち1986年(昭和61年)に平壌へ転居、同年、韓国人拉致被害者の金英男(当初は北朝鮮人のキム・チョルジョンと説明)と結婚し、翌年の1987年に娘のキム・ヘギョン(キム・ウンギョン)を出産したという[37]。
安明進の記憶によれば、1988年(昭和63年)から1990年(平成2年)にかけて、金正日政治軍事大学内で加藤久美子(1970年8月拉致)らと一緒にいるところを何度も目撃したという[38][39][40]。彼女は加藤久美子同様、対日工作員の日本語教官をさせられていた[40]。安によれば、初めて安が彼女を目撃したのは1988年10月9日のことで、朝鮮人教官たちが全員軍服姿だったのに対し、日本人教官7名は私服であり、「ひときわ綺麗な女性」だったこともあり、すぐに印象に残ったのだという[23]。このとき、丁順権が「私が70年代の後半に新潟から拉致してきた」と安にささやいたという[23]。安は何度も彼女を見かけており、身長は160センチ少々、当時20歳代半ばくらい、髪はストレート、未婚のようにみえたという[41]。安は自著に「特に彼女が笑うと深く窪んだえくぼは、見る人に心優しい印象を与えていた」と記した[42][注釈 7]。安は、彼女がいつもハイヒールを履いていたこともよく記憶している[41]。安は日付のわかるもの(公式行事、式典)では、1988年12月31日、1989年1月30日にも横田めぐみを目撃している[44]。
その後、日本に帰還した人々の証言によれば、1994年(平成6年)頃までは地村保志・浜本富貴恵の夫妻や蓮池薫・奥土祐木子の夫妻と同じ忠龍里地区で暮らしていたという[28][45]。横田早紀江は帰国した拉致被害者女性からも「めぐみさんは体が弱く、預かっていたことがあった」ことを聞いている[28][注釈 8]。彼女は拉致された時に持っていたバドミントンのラケットカバーを大切そうに持っていて、幼い娘にはきれいな服を着せて一緒に散歩をしていたという[28]。また、彼女は特に語学に堪能で、朝鮮語をきれいな発音で話していたという[28]。
韓国の情報機関は、1995年から1997年にかけての横田めぐみは、金正日の子どもたちに日本語を教えていたという情報をつかんでおり、この情報源は金正日書記室の幹部からのものとされ、安明進は「極めて信憑性が高い」としている[46]。
 

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