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安倍内閣が閣議決定した集団的自衛権行使、 戦後、国連へ報告された、事例は ?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/4138.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2015 年 5 月 29 日 18:33:49: jobfXtD4sqUBk
 


安倍内閣が閣議決定した集団的自衛権行使、戦後、国連へ報告された、事例は ?


(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp:2013/8/1より抜粋・転載)

★ 質問:
世界の中で今まで集団的自衛権が行使された例を教えてください。


★ ベストアンサーに選ばれた回答

milky_way0088さん 2013/8/1009:26:05

国連憲章第51条の規定に従って安全保障理事会
に集団的自衛権の行使として報告された事例

@ ハンガリー(1956年)

1956年10月、ハンガリーで反政府デモが起きるとソ連軍がハンガリーに進入し戦闘が行われた。
ソ連は、安全保障理事会において、ハンガリー政府の要請に基づき、ワルシャワ条約に従ってハンガリーを防衛するために行動したと説明した。
国連は、ソ連の撤退を要請する安全保障理事会決議案がソ連の拒否権により否決されたため、アメリカの要請で緊急特別総会が開催された。
緊急特別総会でもソ連は、ハンガリー正当政府の要請に基づき、ワルシャワ条約に従って軍隊を展開したと主張した。
総会は、ハンガリーへの干渉の中止とソ連軍の撤退を要請する決議を採択した。

A レバノン(1958年)

レバノンで1958年5月に内乱が発生すると、レバノン政府は、アラブ連合共和国がレバノンの内政事項に干渉していると国連安全保障理事会に報告した。
安全保障理事会はレバノンに国連監視団(UNOGIL)の派遣を決定した。7月にUNOGILは、アラブ連合共和国からの干渉の証拠を見出せないとの報告を安全保障理事会に提出した。
これに対してレバノン政府は、アメリカに対し軍事介入を要請しレバノンに派兵した。
アメリカは安全保障理事会において、国連憲章第51条による集団的自衛権に基づいた行動であると説明した。

B ヨルダン(1958年)

ヨルダン王室は、1958年2月に、同じく王制を敷くイラクとアラブ連邦を結成し、王制を守ろうとした。
しかし5か月後、イラクではクーデターに
より王制が倒れ、共和国が誕生した。そこでヨルダンは、アラブ連合共和国による脅威からヨルダンの独立を守るべく、国連憲章第51条に基づきイギリスに軍事援助を求めた。
イギリスは、直接又は間接侵略に対抗するための支援要請を受けた国はそれに応える権利を有すると強調し、ヨルダンの要請を受け、その領土の保全と政治的独立を守る目的のため派兵したと安全保障理事会で説明した。

C ベトナム戦争(1965‒75年)

1964年8月のトンキン湾事件の後、アメリカ連邦議会は、国連憲章及び東南アジア集団防衛条約に基づく義務に従い、兵力の使用を含む必要なあらゆる手段をとる旨決議した。
翌年2月、アメリカはこの決議に基づき北爆を開始し、以後漸増的に地上戦闘部隊を派遣した。
アメリカ国務省は、北ベトナムに対する軍事行動の根拠として、南ベトナム政府からの要請があったこと、及び国連憲章第51条に基づく集団的自衛権と東南アジア集団防衛条約に基づく防衛義務を挙げた。

D プラハの春(1968年)

チェコスロヴァキアでは、1968年1月に改革派のドゥプチェクが第一書記に就任すると社会主義体制の改革運動(「プラハの春」)が始まった。
プラハの春による自由化の影響が自国に及ぶことを恐れたソ連や東欧諸国は、8月にワルシャワ条約機構軍を編成してチェコスロヴァキアに軍事介入し、改革運動を鎮圧した。
ソ連は、安全保障理事会において、軍事介入はチェコスロヴァキア政府の要請に基づくものであり、国連憲章及びワルシャワ条約に規定された集団的自衛権に完全に合致すると説明した。

E アフガニスタン戦争(1979年)

アフガニスタンは、1978年4月に軍事クーデターにより親ソ政権が誕生し、ソ連との間では友好協力善隣条約が締結された。
しかし、革命路線に反発した地主やイスラム指導者らによる反乱が各地で発生した。
1979年12月、ソ連はアフガニスタンに軍事介入した。
ソ連は、安全保障理事会において、この軍事介入は、アフガニスタン政府の要請に基づくものであり、二国間の友好協力善隣条約及び集団的自衛権を規定した国連憲章に一致した行動であると説明した。
ソ連の介入を非難する安全保障理事会決議案はソ連の拒否権行使により否決されたため、緊急特別総会が開催された。
総会は、外国軍隊の即時、無条件の全面撤退を要請する決議を採択した。

F ニカラグア(1981年)

1979年、ニカラグアに、親社会主義的なサンディニスタ国民解放戦線主導による革命政権が成立した。アメリカは、1981年に反ニカラグア政策に転換し、ニカラグアがエルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカの反政府勢力に武器等を援助していることを理由に、経済援助を停止し、ニカラグアの反政府武装勢力コントラを支援した。
アメリカは、コントラへの軍事援助、資金供与だけではなく、ニカラグアの港湾に機雷を敷設し、空港、石油貯蔵施設などを攻撃した。
そのためニカラグアは、アメリカの行為を国際法違反であるとしてICJに提訴した。
これに対しアメリカは、ニカラグアによるエルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカへの武力攻撃に対する集団的自衛権の行使であると主張した。

G チャド(1981年、1983年、1986年)

1960年にフランスから独立したチャドでは、1966年以来内戦が続いていた。
しかし、この内戦は次第に南北対立から北部勢力(チャド民族解放戦線:FROLINAT)内部の対立となっていった。
1979年に南北の和解により、グクーニを大統領とする統一暫定政権が成立したが、1980年に国防相ハブレによる首都制圧の試みにより政権は崩壊した。
1980年12月、グクーニ政権の要請に基づきリビアはチャド政府の要請とチャド・リビア友好同盟条約に基づき、チャド駐留は一時的であることを強調して介入し、1981年11月には撤退した。
しかし1982年にハブレが再び首都を制圧し、大統領に就任した。
さらに1983年6月には、リビアの支援を受けたグクーニが反撃を開始し、内戦が再び激化した。
ハブレ政権はフランス軍の介入を要請し、1976年の軍事協力協定に基づくものとしてフランスの行動の正当性を主張した。1984年9月、フランスとリビアは、チャドからの同時完全撤退に合意したが、最終的にリビアは撤退しなかった。

1986年2月、チャドは再び内戦が激化し、政府軍が仏空軍の支援を受けてグクーニ派反政府軍の攻撃に反撃する事件も起きた。この時もハブレ政権は、国連憲章第51条に基づいてフランスに軍事介入を求め、フランスは安全保障理事会で、軍事介入はチャド政府の要請に基づき、国連憲章第51条に従った行動であると説明した。

H 湾岸戦争(1990年)

1990年8月、イラクがクウェートに侵攻し、併合を宣言した。
直後に開催された安全保障理事会は、イラクによる国際の平和と安全の破壊を認定し、イラク軍の即時、無条件撤退を要求する決議第660号を採択した。
安全保障理事会は続いて、国連憲章第41条に基づき対イラク経済制裁を課すことを決定した決議第661号を採択した。
この決議第661号は前文で、イラクによるクウェートに対する武力攻撃に反撃するための国連憲章第51条に基づく個別的又は集団的自衛権を確認(affi rm)している。
アメリカ、西欧諸国、アラブ諸国は、クウェート及びサウジアラビア政府の要請を受け、個別的及び集団的自衛権を行使し、決議第661号に違反する船舶の通航を阻止すると安全保障理事会に報告した。
その後、安全保障理事会は決議第665号を採択し、加盟国が決議第661号の措置を実施するために必要な措置をとることを認め、さらに11月には決議第678号を採択し、加盟国に対し国際の平和と安全を回復するため必要なあらゆる手段をとる権限を与えた。

しかし、決議第665号や第678号の採択後には、安全保障理事会が軍事力の使用を含む措置を容認したと解釈しうることから、国連憲章51条の「安全保障理事会が……必要な措置をとるまでの間」という自衛権の時間的要件との関係が問題となった。

I タジキスタン(1993年)

タジキスタンでは、政府(共産党勢力)と、野党(イスラム勢力と手を組んだ民主化勢力)が対立していた。
1992年3月に首都で始まった市街戦は各地に飛火し、タジキスタンは本格的な内戦に突入した。
1992年11月に、ロシア、ウズベキスタンの軍事支援を受けた共産党勢力「人民戦線」が政権を掌握した。しかし反政府勢力はアフガニスタンへ逃れ、タジキスタン・アフガニスタン間の国境を越えて繰り返し政府軍への攻撃を行った。
1993年7月、ロシアは、二国間友好協力条約に基づき、国連憲章第51条に規定された集団的自衛権を行使し、軍事援助を含む支援をタジキスタンに行う準備があると表明した。
そして8月、ロシア、カザフスタン、キルギスタン及びウズベキスタンは、アフガニスタンの支援を受けた反政府勢力の攻撃をロシア国境警備隊とタジキスタンに対する侵略とみなし、CIS集団安全保障条約と国連憲章第51条に基づいて集団的自衛権を行使し、タジキスタンに軍事援助を含む緊急支援を行ったと安全保障理事会に報告した。

J アフガニスタン紛争(2001年)

2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロに対し、国連総会、安全保障理事会はテロ攻撃を非難する決議を相次いで採択した。
安全保障理事会決議第1368号は、あらゆる国際テロ行為を国際の平和と安全に対する脅威であると認定し、それらに対処するために必要なあらゆる措置をとる準備があることを表明した。
続く決議第1373号は、国連憲章第7章に基づく強制措置としてテロ行為への資金提供の禁止などを決定した。
いずれの決議も、その前文で個別的又は集団的自衛権を確認した。またNATO(北大西洋条約機構)やOAS(米州機構)もテロ行為に対する個別的又は集団的自衛権を行使する準備があることを表明した。
これらを受けてアメリカは、10月7日にテロ組織及び同組織を援助するアフガニスタンのタリバン政権に対し軍事行動を開始した。
アメリカは、安全保障理事会に対し、9月11日に自国に対して武力攻撃が行われたことから、
他国と共に個別的又は集団的自衛権を行使したと説明した。

K2014 年 6 月、イスラム教スンニ派過激派組織

ISIL(イラク・レバント・イスラム国)は、イラク第二の都市モスルを制圧するなど
イラク及びシリアにおいて急速に勢力を拡大し、「イスラム国」の建国を宣言した(129)。
イラクは安保理への 6 月 25 日付書簡において、過去 2 年間、
ISIL がシリア東部からイラク領内を繰り返し攻撃してきたとして、国際社会に対し ISIL 撲
滅のため軍事訓練を含む支援を要請した(130)。
米国は ISIL を掃討するため、8 月 8 日にイラクにおける空爆を開始し(131)、アラブ諸国と
ともに有志連合方式で 9 月 23 日にシリアにおける空爆を開始した(132)。

 

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