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NHK等が隠す、自公連立前、、公明党・創価学会の 日中正常化・平和友好への闘い !
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/4278.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2015 年 6 月 22 日 17:06:12: jobfXtD4sqUBk
 


今夜と明日夜放送 !  NHKスペシャル「戦後70年ニッポンの肖像」

自公連立前、昭和40年50年代・日中国交正常化に尽力後、更に
 
    「日中平和友好条約」を推進 !

今の公明党・創価学会と真逆、自公連立前は、中道主義・平和主義
   
   に徹し・民間外交で尽力した公明党・創価学会 !



(blog.goo.ne.jp/.:2015年06月19日 より抜粋・転載)


番組のご案内です。
19日(金曜日)、20日(土曜日) NHKスペシャル「戦後70年ニッポンの肖像」を放送します。
第1回は、番組後半で河野談話、村山談話、そしてアジア女性基金を中心にいわゆる従軍慰安婦の問題を取材。

第2回は、尖閣諸島をめぐるニクソン・キッシンジャーの秘密録音、新証言を取材。
今日的な意義のあるテーマかと思います。是非、ご覧ください。

NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 世界の中で
第1回 信頼回復への道
6月19日(金)22時〜
再放送24日(23日深夜)午前0時20分〜
1951年サンフランシスコ講和会議で国際社会に復帰した日本。戦争で被害を与えた国々との信頼回復はどのように実現したのか。

アジア外交を積極的に進めた岸信介首相は、インドネシアではスカルノ大統領とのトップ会談で賠償協定に調印。役務賠償によってインフラを整備し、日本経済はアジア市場に進出をはじめる。

日韓会談は14年の歳月を要したが、岸とパク・チョンヒ大統領が会談、1965年の日韓基本条約は経済協力という形で決着。これによって韓国はハンガン(漢江)の奇跡と呼ばれる経済成長の足がかりを得た。
日本はこの条約で請求権の問題は解決済みとした。
80年代に入り、アジア諸国で民主化が進むと、個人補償を求める声が高まったが、日本は、河野談話、村山談話や「アジア女性基金」によって謝罪と償いを行った。特にオランダでは、平和友好交流事業が受け入れられていく。

信頼回復への道を最新の資料と証言で明らかにする。

キャスター柳澤秀夫、司会三宅民夫・首藤奈知子、語り伊東敏恵
ディレクター 浜田裕造・古屋敷将司

NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 世界の中で

第2回 冷戦 日本の選択

6月20日(土)21時〜

再放送6月25日木曜午前2時15分(24日水曜深夜)
冷戦の時代、日本は沖縄返還と日中国交正常化という外交課題を達成した。

しかし、1971年頭越しの米中和解という外交的試練を受ける。
この時期、尖閣諸島をめぐって米、台湾の水面下の交渉があった。
近年発見されたホワイトハウスの秘密録音から繊維交渉も絡んだ舞台裏を追跡する。

その後、田中角栄と共に日中国交正常化につとめた大平正芳。改革開放政策を進めるケ小平の中国に、円借款事業を推進。

日中平和友好条約締結後、日本は中国への経済援助を続け、アジアの経済発展の時代を迎える。

冷戦下、米中のはざまで模索を続けた日本外交の姿を見つめる。

出演 毛里和子(早稲田大学名誉教授)増田弘(東洋英和女学院大学教授)

司会 三宅民夫・首藤奈知子、語り伊東敏恵

ディレクター 田容承・梅原勇樹


(参考資料)

◆小説「新・人間革命」:革心25

 1978(昭和53)年9月12日の夜、山本伸一(池田第三代会長)たち訪中団一行は、雑技団の公演に招待された。雑技は、曲芸などを行うもので、上海の雑技団の高い技術は、よく知られている。
 何本もの棒の先で皿を回したり、額の上に大きな扇を立てたまま踊ったり、難度の高い、華麗な演技に会場は沸き返った。
 伸一は、上海の雑技団も、いつか民音(民主音楽協会の略称)で招聘し、日本で友好のシンボルとして公演できるようにしたいと、強く思った。
 翌十三日午前、伸一は、創価大学の創立者として、復旦大学を訪問した。一九七五年(昭和五十年)に引き続き、教育交流の一環として、図書を贈呈するためである。
 伸一の一行が、贈呈式の会場となる物理館の前で車を降りると、学生や教員たちが大拍手で迎えてくれた。
 玄関には、中国の正装である中山服に身を包んだ、小柄な蘇歩青学長の笑みがあった。彫りの深い顔に刻まれた幾筋もの皺が、蛍雪の年輪を感じさせた。初対面であったが、温かい眼差しに旧知のような親しみを覚えた。
 「ようこそ、復旦大学へおいでくださいました。お待ちしておりました」
 こう言って差し出された学長の手を、伸一は、「お世話になります。お会いできて嬉しいです」と言いながら、強く握り締めた。
 蘇学長は、微分幾何学の世界的な大家であり、一九一九年(大正八年)から十二年間、日本に留学している。東京工業高等学校(後の東京工業大学)を卒業後、東北帝国大学(後の東北大学)の理学部数学科に進み、理学博士の学位を取得。現代中国の数学界の基礎を築いた一人である。
 名声ゆえに、文化大革命の時には、“ブルジョア”“反革命”とされて、吊し上げられた。その嵐がようやく収まり、この七八年(昭和五十三年)、学長に就任したのだ。
 「真実はつねに迫害を克服する」(注)とは、フランスの思想家ボルテールの言葉である。
 伸一は、中国の未来に明るい兆しを感じた。

■引用文献
 注 ヴォルテール著『哲学辞典』高橋安光訳、法政大学出版局

◆小説「新・人間革命」:革心26

 蘇歩青学長は、間もなく七十六歳を迎えると、山本伸一は聞いていた。しかし、背筋をまっすぐに伸ばした、矍鑠とした姿は、とても、その年齢には見えなかった。
 図書贈呈式は物理館の会議室で行われた。
 復旦大学からは、学長のほか、副学長、図書館長、経済学部・歴史学部の教授ら教職員、学生の代表が出席した。
 贈呈式のあいさつで伸一(池田第三代会長)は、同大学を再び訪問できた喜びを述べ、関係者の歓迎に謝意を表した。また、今回の第四次訪中は、「日中平和友好条約」の締結の時となり、未来への新たな決意に燃えていると訴えたあと、図書贈呈への心情を語った。
 「私どもの真心として、自然科学関係の専門書等、一千冊を寄贈させていただきたい。『四つの現代化』をめざす中国にとって、少しでもお役に立てばとの思いからであります」
 そして、日中交流の歴史を振り返った。
 「両国には、戦争という不幸な時代もありました。しかし、平和の時代の人びとの往来は、両国の文化の発展に大きく寄与してきました。古くは、日本から遣隋使や遣唐使が貴国の先進的な文化を学びました。
 近くは二十世紀に入ってからも、貴国の偉大な指導者であられた周恩来総理をはじめ、多くの方々が日本に留学されました。
 また一九〇四年(明治三十七年)に仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)に学んだ魯迅先生と、解剖学の教授であった藤野先生との心温まる交流は、日中の国境を超えた友誼を象徴するエピソードです。
 蘇歩青学長も仙台の東北大学で学ばれたと伺っております。こうした教育面の交流は、両国の文化を豊かにし、明るい未来創造の大きな力になっています」
 友誼の絆を永遠のものにしていくには、大学交流は極めて重要になる。政治や外交の世界で、日中関係が揺らぐことがあったとしても、学術・教育の交流があれば、中国の将来を担う若きリーダーたちと相互理解を図り、より強い友情の絆を結ぶことができるからだ。

◆小説「新・人間革命」:革心27


 あいさつで山本伸一(池田第三代会長)は、「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」との願いを込めて創立した創価大学で、中国からの留学生が真剣に勉学に励んでいる様子や、大学構内には、周総理を偲ぶ「周桜」が植樹されていることを報告した。
 さらに、この四月から、新たに二人の中国の女子留学生が創価大学に来ていることを紹介し、こう語った。
 「私は、こうした地道な交流によってこそ、一人ひとりの心のなかに友情と信頼の絆が結ばれていき、それが未来に絢爛たる友誼の花を咲かせていく原因となっていくことを確信しております。私は、今は目立たなくとも、コツコツと文化と教育の交流の道を歩んでいく決意です。
 特に教育は、国の未来を決定しゆく、最も大切な分野です。お互いに良い面を学び合い、優れた点を取り入れていく――こうした教育交流の広がりは、これから、ますます大事であり、共に力を合わせて進んでまいりたいと念願しております」
 共感の拍手が広がった。
 あいさつを終えた伸一は、蘇歩青学長に、一千冊の贈呈目録と、その本の一部を手渡した。再び、大きな拍手が会場に響いた。
 続いて、学長が、あいさつに立った。
 訪中団一行への歓迎の思いを伝え、感慨無量の面持ちで訴えた。
 「皆さんが、中日両国人民の友誼を守り、発展させるために払われた絶え間なき努力を、高く評価しています。とりわけ、山本先生が一貫して中日平和友好条約の締結を支持してきたことに、深い感銘をいだいております」
 「中日平和友好条約の締結」との言葉を口にした時、心なしか、学長の目が潤んだ。
 多感な青年時代に、日本で暮らし、学んだ人である。戦争という国と国との反目、対立を超えて、多くの日本の友との友情に結ばれていたにちがいない。真の平和友好とは、人びとの心の大地に、友情の根が、無数に張り巡らされてこそ、成り立つといえよう。

◆日中平和友好条約の要旨[編集]

(ウイキペディアより抜粋・転載)

通称・略称 日中平和友好条約

署名 1978(昭和53)年8月12日(北京)
効力発生 1978年10月23日
内容は、1972年9月に国交回復した時の日中共同声明の文面を基本的に踏襲したものとなっている。
第1条で主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が記述され、第2条で反覇権を謳い、第3条で両国の経済的、文化的関係の一層の発展を述べて、第4条でこの条約の第三国との関係について記されている。
国交回復から6年が過ぎてから平和条約交渉が妥結したのは、「反覇権」条項と「第三国」条項で最も論議を呼んだからである。
そして中国側は、賠償金請求を放棄する代わりに、日本側からODA等の巨額な経済援助を引き出した。

 

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