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 大河ドラマ「花燃ゆ」:萩の乱に美和が苦悩 ! 萩の乱・前原一誠
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/5031.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2015 年 10 月 28 日 19:12:04: jobfXtD4sqUBk
 

    大河ドラマ「花燃ゆ」:萩の乱に美和が苦悩 !

「花燃ゆ」第43回

萩の乱の概要 前原一誠のプロフィール



T 「花燃ゆ」第43回:萩の乱

(news.livedoor.com :2015年10月24日 6時1分より抜粋・転載)

萩の乱が発生し美和(井上真央)は親しい人々が亡くなった悲しみを楫取(大沢たかお)に打ち明ける/(C)NHK
10月25日(日)夜8時からは大河ドラマ「花燃ゆ」(NHK総合ほか)第43回が放送される。

萩の乱の首謀者・前原一誠(佐藤隆太)は捕えられ処刑されてしまう!/(C)NHK

前回放送では、群馬での生活を本格的に始めた美和(井上真央)。群馬県令として生糸生産に力を入れる義兄・楫取(大沢たかお)の支えになろうとするが、よそ者への扱いは厳しいものだった。そんな中出会った、生糸貿易の拡大を目指す星野長太郎(大東駿介)の志に共感した2人は、星野を支援して彼の弟をアメリカに送り出した。

今回の放送では、美和は、阿久沢せい(三田佳子)から養蚕の仕事場を案内され、少女が学校に通うことなく、幼いころから働いている現状を知る。学校を視察した楫取も、子供たちの就学状況を目の当たりし、2人は教育振興のための策を考え始める。

☆前原一誠は、新政府の政治に不満を持つ士族を集め、反乱を起こす !

そのころ、萩では、前原一誠(佐藤隆太)が、新政府の政治に不満を持つ士族を集め、反乱を起していた。美和は、戦闘に参加するため東京から駆け付けるであろう楫取の次男・久米次郎(市川理矩)の説得に当たる。

言葉を尽くしても引き下がらない久米次郎に、戦闘後の惨状を見せるため美和は萩へと同行する。

☆前原一誠は、反乱の首謀者として捕らえられ、斬首が決定 !

そこで2人は、美和のおい・小太郎(広田亮平)の死と反乱に賛同していた叔父・玉木文之進(奥田瑛二)の切腹を知る。

さらに、前原は、政府軍の指揮を執る木戸孝允(東山紀之)らにより反乱の首謀者として捕らえられ、斬首されることが決まった。楫取は木戸の元を訪ね、前原の思いを聞いてほしいと胸の内をぶつけるが…。

かつての松陰のように、志のために猛々しく死ぬことを熱望する久米次郎は、機を逸したと美和に当たる。美和は、そんな彼をどう諭すべきか苦悩。生涯をかけて教育に心血を注ぐ村塾の女幹事は、最大の難問を突き付けられる。


U 萩の乱の概要

(ウイキペディアより抜粋・転載)

萩の乱:『萩一戦録』(早川松山画)

戦争:士族反乱

年月日:1876年10月28日 - 1876年12月8日

場所:山口県 萩市

結果:政府軍の勝利

交戦勢力:大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍 殉国軍

◆士族反乱:

(血税一揆) 喰違の変、 佐賀の乱、 神風連の乱、 秋月の乱、 萩の乱 、
思案橋事件 、西南戦争、 紀尾井坂の変 、立志社の獄。

萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった
明治政府に対する士族反乱の一つである。

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。

後の内閣総理大臣(第26代)田中義一も13歳で反乱に参加している。


◆概要[編集]

前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同志を募り、10月26日には県庁を挟撃するため須佐育英館長の坂上忠介や多根卯一、徳山の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。

10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇に直訴するため紫福を経て須佐より山陰道を東上するよう方針を転換し10月30日には須佐兵67人と合流し約300名にて地扱所を占拠し兵糧を確保する。

しかし、海路で浜田に向かったところ悪天候で断念し江崎に上陸した後、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという説「須佐郷土史研究会」)により10月31日萩・越ケ浜より明倫館に戻ったが備蓄弾薬が池に破棄されており、待ち伏せていた政府軍と市街戦が発生。

これを退けるも橋本町辺に68軒の焼失被害を出す(品川弥二郎書翰)。弾薬欠乏から前原らは軍勢を囮として小倉信一、有福洵允にまかせ幹部5名のみ直訴のため別行動をとった。

小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。

この際、長州藩剣術指南役を務めた内藤作兵衛が誤認射殺されている。


◆その後[編集]

別行動をとった前原・奥平ら幹部と従者白井林蔵、馬来木工の7名は東京へ向かうべく船舶にて萩越ケ浜を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中水先案内人に通報されたことで11月5日に島根県令佐藤信寛らに包囲され、弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。

なお、前原は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。

12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平および横山俊彦、佐世一清(前原実弟)、山田頴太郎(前原実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説有り)斬首された。

残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、
岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも、清水清太郎の日記では賊徒凡三千五百人ともある。)この処罰には司法卿大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。

◆乱による松下村塾への影響[編集]

この乱には松下村塾最年長の前原をはじめ多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。

いずれも松陰実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。

玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。

この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進は切腹し塾も閉鎖された。
松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し、明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。

V 前原一誠のプロフィール

(jiyodan.exblog.jpより抜粋・転載)


前原一誠(まえばらいっせい)は、「維新の十傑」に数えられる人物でもある。
千八百三十四年(天保五年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組四十七石)の長男として一誠(いっせい)は生まれ、後に前原氏を相続する。

相続先の前原家の遠祖は、尼子氏重臣・戦国武将・米原綱寛(よねばらつなひろ/尼子十勇士の一人)である。

本姓の生家・佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で出雲源氏の諸流に属し、遠祖は尼子氏・毛利氏の重臣である佐世清宗(させきよむね)である。

☆前原一誠は、倒幕の志士として活躍し、維新の十傑の一人となる !

一誠(いっせい)は、倒幕の志士として活躍し、維新の十傑の一人と並び称されたが、維新後、萩の乱の首謀者として処刑とされた。

千八百三十九年(天保十年)、郡吏となった父・佐世彦七とともに一誠(いっせい)は厚狭郡船木村に移住する。

後に藩都・萩にて修学するが、千八百五十一年(嘉永四年)、一誠(いっせい)は再び船木村に帰り陶器製造など農漁業に従事する。

千八百五十七年(安政四年)、一誠(いっせい)は久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。

☆前原一誠は、長崎で洋学を修め、のちに

長州藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ !

松陰の処刑後、一誠(いっせい)は、長崎で洋学を修め、のちに長州藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。
千八百六十二年(文久二年)に一誠(いっせい)は脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽(ながいうた/時庸・ときつね)の暗殺を計画するも成就に到らず。

翌千八百六十三年(文久三年)、一誠(いっせい)は藩に復帰して右筆役、更に八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・七卿方御用掛となる。

萩の乱の首謀者として処刑とされた前原一誠(まえばらいっせい)も、維新前は長州藩倒幕派で在った。

と言っても一誠(いっせい)は、大勢の長州藩倒幕派の中の一人で、けして抜きん出た存在ではなかった。

☆前原一誠は、政変(七卿落ち)で

長州に逃れて来た七卿の世話役


・七卿方御用掛だった !

しかし、一誠(いっせい)が「維新の十傑の一人」とまで数えられる大出世のチャンスは、八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・七卿方御用掛だった。

想うに、明治維新の全ては 熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に繋がる「不思議な何か?」のパワー魔力である。

一誠(いっせい)に与えられた「七卿方御用掛」の縁が、その後彼が「維新の十傑の一人」とまで数えられる出世のチャンスに成ったのではないだろうか?

つまり一誠(いっせい)も、伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる/井上聞多)・佐藤信寛(さとうのぶひろ)等と同様に、大室某の謀議に加わって出世の糸口を掴んだと考えられる。

その後一誠(いっせい)は、高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。

☆前原一誠は、北越戦争に出兵し、参謀として、

長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。

幕府軍と交戦した長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、千八百六十八年(明治元年)の戊辰戦争で、一誠(いっせい)は、北越戦争に出兵し、参謀として、長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。

千八百七十年(明治三年)戊辰戦争も終結し明治維新成る後、一誠(いっせい)は維新の戦功を賞されて賞典禄六百石を賜る。

維新後、新政府に任官した一誠(いっせい)は、越後府判事や新政府参議を勤める。
大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、一誠(いっせい)は出仕する事が少なかった為、船越衛は省務停滞を嘆いている。

☆前原一誠は、「国民皆兵」路線(徴兵令)

に反対して木戸孝允と対立 !

また、一誠(いっせい)は前任・大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。
やがて、徴兵制を支持する、山縣有朋(やまがたありとも)に追われるように下野し、萩へ帰郷する。

新政府の方針に不満をもった一誠(いっせい)は、千八百七十六年(明治九年)、奥平謙輔(おくだいらけんすけ)とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こす。
しかし、即座に鎮圧されて幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕され、萩にて処刑された。

 

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