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≪「MRA(道徳再武装)」、「松下政経塾」、「統一教会」、「CSIS」、などで検索した結果・・・・前編≫
http://www.asyura2.com/10/senkyo80/msg/240.html
投稿者 Roentgenium 日時 2010 年 2 月 11 日 06:19:50: qfdbU4Y/ODJJ.
 

≪「MRA(道徳再武装)」、「松下政経塾」、「統一教会」、「CSIS(米戦略国際問題研究所)」、などで検索した結果・・・・前編≫



前回の企画に関連して、今回は、「MRA=松下政経塾---繋がり---清和会=統一教会・勝共連合・CIA・ロックフェラー、他」を中心に、
様々なルートからその繋がりを検証、アッセンブラージュを試みました。前回のものと併せて読んでいただければ尚解読しやすいかと思います。

≪「鳩山由紀夫を告訴する会」、「世論を正す会」、「真実を求める会」で検索した結果・・・・前編≫ Roentgenium
http://www.asyura2.com/10/senkyo78/msg/744.html

≪「鳩山由紀夫を告訴する会」、「世論を正す会」、「真実を求める会」で検索した結果・・・・後編≫重要! Roentgenium
http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/109.html

≪マスコミへの苦情を言う時の連絡先一覧 〜テレビ放送局・詳細バージョン〜≫ Roentgenium
http://www.asyura2.com/10/senkyo78/msg/752.html

そういえば最近、年表を眺めていて、ふと気になったことがありました。
それは、今の世相と20年前、つまり、1989年〜1993年頃の出来事が絶妙にリンクしているのではないか?ということです。
こうした時代背景もまた、MRA=松下政経塾が政界に進出する舞台装置になっているので、照らし合わせて見る必要があります。
民主党政権が、小沢一郎という強力な政治的羅針盤を失った時、
松下政権塾が新たな自民党として、MRA政権として、衣替えをして君臨する怖れがあります。
忘れている人が多いかもしれませんが、小泉といっしょに郵政民営化を推進したのは松下政経塾です。
小沢効果を利用して、その後政権をとったら、小沢を失脚させ、MRA政権を樹立する、というシナリオだったのではないでしょうか?

CIAやロックフェラーは日本の歴史をここからどういうふうに書き換えたいのか?その時に邪魔になるのは誰なのか?
日本の歴史を“操られた歴史”として見る上で、新たなターニングポイントになりそうです。

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[1989年(昭和64年)]※この年、バブル崩壊始まる
http://ja.wikipedia.org/wiki/1989%E5%B9%B4#.E5.87.BA.E6.9D.A5.E4.BA.8B

1月7日 - 昭和天皇が崩御(死去)し、明仁親王が即位。小渕恵三官房長官が記者会見を行い新元号「平成」を発表。
昭和最後の日となり、

1月8日 - 元号が「平成」に改元される。

2月9日 - 「鉄腕アトム」・「火の鳥」などで知られる国民的漫画家・手塚治虫が死去。

2月13日 - リクルート事件でリクルート創業者・元会長の江副浩正が逮捕される。

3月25日 - みなとみらい21地区で横浜博覧会(YES'89)開催。(〜10月1日)

4月1日 - 消費税施行。税率は 3%

4月2日 - テレビ朝日『サンデープロジェクト』が放送開始。

4月27日 - 松下電器創業者で“経営の神様”と呼ばれた松下幸之助が死去。

6月2日 - 竹下 登内閣が総辞職。横浜市開港130周年。

6月3日 - 宇野宗佑内閣発足。

6月4日 - 中国の北京市で天安門事件が起きる。

6月24日 - 日本の歌謡界を代表する歌手・美空ひばりが死去。

7月3日 - テレビ朝日『ビートたけしのTVタックル』が放送開始。

7月16日 - ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の前音楽監督ヘルベルト・フォン・カラヤンが死去。

7月23日 - 第15回参議院議員通常選挙。自民党歴史的大敗により宇野宗佑首相辞意表明。

8月10日 - 第1次海部内閣発足。

8月26日 - 礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)が川嶋紀子との婚約を発表。

8月30日 - 三井銀行が太陽神戸銀行との対等合併を発表(後の三井住友銀行)。

9月27日 - 横浜ベイブリッジ開通。SONY、アメリカのコロンビア映画を買収。

10月2日 - TBS『筑紫哲也 NEWS23』が放送開始。

10月26日 - 東京モーターショーが幕張メッセで初開催される。

10月31日 - 三菱地所、アメリカ のロックフェラーグループを買収。

11月4日 - オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件発生。

11月9日 - 東ドイツがベルリンの壁の通行を自由化。

11月10日 - ベルリンの壁崩壊。

11月22日 - 日本労働組合総連合会(連合)発足。

11月24日 - チェコスロバキアでビロード革命。共産党政権が崩壊。

12月3日 - ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領とミハイル・ゴルバチョフソ連最高会議幹部会議長兼ソ連共産党書記長がマルタ島で会談し、
冷戦の終結を宣言(マルタ会談)。

12月20日 - 米軍パナマ侵攻。

12月22日 - ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク政権崩壊。

12月25日 - 東京ディズニーランドに7777万7777人目のゲストが来園。

12月29日 - 東証の日経平均株価が大納会で史上最高値の38915円87銭を記録。
これを最後に、1990年の大発会から株価は下落へ転じ、バブル景気は崩壊へ。

[1990年(平成2年)]
http://ja.wikipedia.org/wiki/1990%E5%B9%B4#.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8

1月13日 - アメリカ合衆国バージニア州で、初のアフリカ系アメリカ人州知事誕生。

2月11日 - ネルソン・マンデラ、ケープタウンの刑務所から27年ぶりに釈放。

2月14日 - 人工衛星ボイジャー1号が初の太陽系の写真を撮影。

2月15日 - イギリスとアルゼンチンがフォークランド紛争以来8年ぶりに国交回復。
ラトビアがソ連からの独立を宣言。3月11日リトアニア、3月30日エストニアも同様に独立宣言。

2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙。自由民主党275議席の絶対安定多数確保

2月26日 - ソビエト連邦、1991年7月までにチェコスロヴァキアから完全撤兵することを発表。

3月15日 - ミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦初代大統領就任。

4月1日 - 三井銀行と太陽神戸銀行合併、太陽神戸三井銀行(現・三井住友銀行)誕生。

5月20日 - ルーマニアで、非共産主義体制下初の大統領および国会議員選挙。

6月1日 - ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領とミハイル・ゴルバチョフソ連大統領、化学兵器廃棄条約に署名。

6月29日 - 礼宮文仁親王が川嶋紀子と結婚、秋篠宮家を創設。

7月1日 - 東ドイツと西ドイツが経済統合。

7月28日 - アルベルト・フジモリがペルーの大統領に就任

8月 - 『クレヨンしんちゃん』連載開始

8月2日 - イラクがクウェートに侵攻する。

9月5日 - 韓国・北朝鮮、分裂後初の両国首相会談。

9月30日 - ソ連と韓国が国交樹立。

10月1日 - 東証一時2万円割れ。

10月3日 - 西ドイツに東ドイツが編入される形で統一(ドイツ再統一)

10月15日 - ゴルバチョフ・ソ連大統領がノーベル平和賞を受賞。

10月16日 - 第119臨時国会で、政府がPKO協力法案を提出。自衛隊の海外派遣盛り込む。市民団体・主要労組など猛反発。

11月12日 - 今上天皇即位の礼が皇居宮殿で挙行。世界各国から首脳クラスが来日。

12月21日 - 経団連第7代会長に平岩外四が就任。

12月29日 - 第2次海部改造内閣発足。

[1991年(平成3年)]
http://ja.wikipedia.org/wiki/1991%E5%B9%B4#.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8

1月13日 - リトアニアにソビエト連邦が軍事介入(血の日曜日事件)。

1月17日 - 多国籍軍のイラク空爆開始により湾岸戦争勃発。

2月27日 - 多国籍軍、クウェート解放。

4月1日 - 日本初の民間衛星放送局『WOWOW』(当時の正式社名・JSB日本衛星放送)が本放送開始。
協和銀行と埼玉銀行が合併し、協和埼玉銀行発足(1992年10月、あさひ銀行に行名変更。現在のりそな銀行及び埼玉りそな銀行)。

4月1日 - 牛肉とオレンジの輸入(自由化)が開始。

4月6日 - イラク、国連安保理の停戦勧告を受諾(4月11日発効)。

4月16日 - ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領訪日(-4月19日)。

4月26日 - 海上自衛隊のペルシャ湾掃海派遣部隊が出発(自衛隊初の海外派遣)。

5月21日 - ラジーヴ・ガンディー元インド首相暗殺。

5月31日 - 東京都港区芝浦にジュリアナ東京オープン。

6月15日 - IOCが1998年冬季オリンピック開催地を長野市に決定。

6月20日 - ドイツ、ベルリンへの首都移転決定。

6月28日 - 経済相互援助会議(コメコン)解散。

7月1日 - ワルシャワ条約機構解体。

7月9日 - IOCが南アフリカ共和国のオリンピック大会復帰を承認。

7月15日 - ロンドンサミット開幕(〜7月17日)。

7月31日 - ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領とミハイル・ゴルバチョフソ連大統領、第一次戦略兵器削減条約(START I)に調印。
冷戦の実質的終結。

8月6日 - ティム・バーナーズ=リーによって世界初のWorld Wide Webサイトが開設。

8月19日 - ソ連8月クーデター発生、保守派がゴルバチョフ大統領を軟禁(8月21日、クーデター失敗)。

9月6日 - ソビエト連邦、バルト三国の独立承認。

9月9日 - SMAPがCDデビュー。

9月11日 - アメリカ海軍の空母インディペンデンス、横須賀港に入港。

9月17日 - 韓国、北朝鮮が国連に同時加盟、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国も国連に加盟。

9月22日 - クロアチア、ユーゴスラビア軍と衝突(クロアチア紛争、1995年まで続く)。

10月14日 - ミャンマーのアウンサンスーチーにノーベル平和賞。

10月23日 - カンボジア和平に関するパリ協定調印。

11月5日 - 宮澤喜一が第78代内閣総理大臣に就任し、宮澤内閣発足。

12月4日 - アメリカのパンアメリカン航空(パンナム)が運航停止、倒産。

12月6日 - 11月30日に北朝鮮を電撃訪問した「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)教祖の文鮮明が金日成主席と会談。

12月8日 - 独立国家共同体(CIS)の創立宣言、ソ連離脱の合意(ベロヴェーシ合意)。

12月25日 - ソビエト連邦崩壊、ゴルバチョフ大統領辞任。

12月29日 - 中国が核拡散防止条約の参加を決定。

[1992年(平成4年)]※世界史、特にヨーロッパ史で、ソ連崩壊の翌月である1992年以後を「現代」とする見方がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1992%E5%B9%B4#.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8

1月 - 国際宇宙基地協力協定発効。

1月5日〜7日 - 「X JAPAN」が日本人アーティストとして初の東京ドーム3Days公演「破滅に向かって」を行う。

1月31日 - 大規模小売店舗法施行

2月7日 - マーストリヒト条約(欧州連合の創設を定めた条約)調印

2月14日 - 東京佐川急便事件、東京佐川急便の前社長らを逮捕。

2月19日 - 経済企画庁が日本経済が昨年1-3月期をピークにリセッション入りしたと発表(バブル景気公式終結)。

3月1日 - 暴力団対策法、育児休業法施行。

4月1日 - 太陽神戸三井銀行、さくら銀行に改名

4月12日 - フランス マルヌ・ラ・ヴァレにヨーロッパ初のディズニーテーマパーク、ユーロディズニーランド(現名称:ディズニーランド パリ)が開園。

4月27日 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体

5月2日 - 国家公務員の週休2日制スタート

≪5月22日 - 細川護煕が中心となり日本新党を結成≫

6月3日 - 環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)がブラジルのリオデジャネイロで開催。

6月15日 - PKO協力法成立。

7月6日 - ミュンヘンサミット開幕(〜8日)。

7月21日 - 産経新聞社臨時取締役会、鹿内宏明会長の解任と羽佐間重彰元フジテレビ社長の社長就任を決定(鹿内家支配から集団指導体制へと移行)。

7月25日 - バルセロナオリンピック開幕(〜8月9日)

7月26日 - 第16回参議院議員選挙投票

8月1日 - 東日本旅客鉄道(JR東日本)、山手線の全駅で禁煙実施

8月11日 - 東京証券取引所第1部の平均株価は15,000円を割り込む

8月24日 - 韓国、中華人民共和国と国交樹立

≪8月27日 - 金丸 信が佐川急便から5億円を受領した問題で自由民主党副総裁を辞任。≫

9月11日 - ホンダが第2期F1活動の休止を発表。

9月12日 - 毛利 衛がスペースシャトル・エンデバーに搭乗し、宇宙空間に向けて出発。

9月12日 - 日本全国の公立学校で毎月第2土曜日を休業日とする月1回の学校週5日制スタート

≪10月 - この月の有効求人倍率が1.0を下回り、この後、2005年12月に1.0に回復するまで13年2ヶ月にわたりいわゆる就職氷河期となる≫
この年に就職活動していた人が就職氷河期の最初の世代。「オイルショック以来の就職難」といわれ、厳しい就職戦線に晒された。
バブル景気はこの年には過去のものとなったが、また景気が持ち直すだろうと楽観的に捉えていた風潮が強かった。

10月23日 - 天皇、初の中国訪問

10月30日 - 大蔵省、都市銀行の不良債権総額(9月末)は12.3兆円と発表

10月31日 - ローマ教皇庁が、ガリレオ裁判に誤りがあったことを認め、ガリレオ・ガリレイの名誉が死後350年経って回復される。

≪11月3日 - ビル・クリントン、米大統領選挙に当選≫

12月12日 - 宮澤内閣改造内閣発足。

12月19日 - 金泳三、韓国大統領選挙に当選

[1993年(平成5年)]
http://ja.wikipedia.org/wiki/1993%E5%B9%B4#.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8

1月1日 - 欧州経済共同体に加盟する12か国による単一市場が設置される。
チェコスロバキアが連邦を解消。チェコとスロバキアに分離。

1月3日 - ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領とボリス・エリツィンロシア大統領、第二次戦略兵器削減条約(START II)に調印。

≪1月7日 - 皇太子妃に小和田雅子決定との報道が、夜半一斉に始まる。皇室会議での正式決定は1月19日≫

→Roentgenium:皇太子の結婚もこの時期です。雅子妃殿下によって創価学会が皇室に入り込んだことも重要なポイントかもしれません。
そして、創価学会の狙いの一つは皇室財産にあるのかも知れない。

「皇室財産は敗戦が決まる前に秘密裏にスイス銀行にそのほとんどが移されており、
その金額だけでも現在の貨幣価値に換算すると、10〜20兆円であると考えられる」

金貸しは、国家を相手に金を貸す 日本の皇室財産
http://www.financial-j.net/blog/2009/08/001009.html


1月13日 - 米英仏軍、イラクのミサイル基地爆撃。

≪1月20日 - ビル・クリントン、ジョージ・H・W・ブッシュを継いでアメリカ合衆国大統領に就任。≫

1月27日 - 大相撲の曙が外国人力士として初めて横綱に昇進。

2月26日 - 世界貿易センター爆破事件

≪3月6日 - 元自由民主党副総裁の金丸 信が脱税容疑で逮捕される。≫

3月25日 - 海上自衛隊の護衛艦で日本初のイージス艦こんごう型護衛艦の1番艦こんごうが就役。

3月27日 - 江沢民中国共産党総書記、国家主席に就任

≪5月29日 - 北朝鮮がノドン1号を試射。
ノドンは1980年代後半からスカッド・ミサイルを元に開発を開始、1990年代前半には開発完了。≫

≪6月9日 - 皇太子徳仁親王、小和田雅子のご成婚≫

6月18日 - 内閣不信任案が可決、衆議院解散(嘘つき解散、政治改革解散)。

≪6月21日 - 新党さきがけ結成≫※武村正義も、最近の松下政経塾の動きなどに関係していると思われる。

≪6月23日 - 新生党結成≫

7月7日 - 第19回先進国首脳会議(サミット)が東京都港区の赤坂迎賓館で開幕(〜7月9日)

7月16日 - 神奈川県横浜市西区のベイサイドに日本一の高さを誇る超高層ビル、横浜ランドマークタワーが開業。

≪7月18日 - 第40回衆議院議員総選挙 - 自由民主党、日本社会党が敗北。≫

≪8月4日 - 河野官房長官が、首相官邸で河野談話を発表。38年振りの政権交代の5日前。≫

≪8月9日 - 非自民・非共産連立政権である細川内閣が発足、55年体制の崩壊。≫

8月10日 - 細川護煕首相、記者会見で先の戦争は侵略戦争と明言

8月18日 - 海上自衛隊のむらさめ型護衛艦1番艦むらさめが、
中期防衛力整備計画に基づく平成3年度計画4,400トン型護衛艦2230号艦として、石川島播磨重工業東京第2工場で起工。

10月11日 - エリツィンロシア大統領来日

10月17日 - ネルソン・マンデラとフレデリック・ウィレム・デクラークにノーベル平和賞

10月20日 - 右翼活動家の野村秋介が、朝日新聞東京本社の役員応接室において拳銃で自決

10月25日 - カナダ議会の総選挙(下院)で野党カナダ自由党が圧勝、与党進歩保守党は169議席から2議席に転落する大敗北を喫した。

11月1日 - マーストリヒト条約(欧州連合の創設を定めた条約)の発効により欧州連合が発足する。

11月6日 - 細川護煕首相、韓国訪問し、金泳三大統領と対談。

12月9日 - 法隆寺(奈良県)、姫路城(兵庫県)、屋久島(鹿児島県)、白神山地(秋田県)が、日本での初の世界遺産登録

≪12月14日 - 日本政府は各国からの米輸入を決定(1993年米騒動)≫

≪12月16日 - 日本列島改造論を唱えた、元首相の田中角栄氏が死去≫

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「ロッキード事件は日本だけでなく世界中で起きた」55億円−5億円=残りの50億円は何処へ? - 田中良紹の「国会探検」
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2010/01/

田中角栄--?--三木武夫―石田博英(KGBのエージェント)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E5%8D%9A%E8%8B%B1

「三木武夫総理を筆頭に、政府が全面的に協力して、お膳立てしてくれた。ロッキード事件では超法規的な措置がいくつもある」
「ロッキード事件のカネの受け渡し場所は、普通に考えておかしい。またそれを認めた裁判所も裁判所ですよ。
ロッキード事件以来、ある意味、検察の正義は歪(いびつ)になってしまった」
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/hon30-kensastuwo.htm

1米ドル札はアメリカがフリーメーソンの国であることを象徴している
http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda3/kokuren.htm

三宅雪子 近現代・系図ワールド〜政治家系大事典〜石田博英・・・・ロシア、アフリカ、ベトナムなどとのパイプに期待
http://kingendaikeizu.net/seizi/isidahirohide.htm

また、国内外の政治背景を見る上で、どうしても外すことの出来ない要素が、
ロックフェラー 対 ロスチャイルドの“米保守本流派” “英シオニスト派”対立軸です。

「ロックフェラー 対 ロスチャイルド」説の研究
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe600.html

「日本人はとかく、「英米一体」と見て、英米間の激しい対立に気がつかなかった。英米はともに「アングロ・サクソン」国家だ、という幻想である。
イギリス最強の財閥がユダヤ系のロスチャイルド財閥であることに思いを致せば、「英米一体」と容易に言い切れないことに気がつくはずである」

「アメリカとはそもそも、イギリス帝国主義支配やロスチャイルド家支配を嫌って生まれた国なのである。
しかし、イギリスは≪ロスチャイルド=モルガン≫金融枢軸を中心に、経済的にアメリカを支配しようとするばかりでなく、
シオニストのマスコミ・コネクションを通じて、アメリカ人に対英コンプレックスを植え付け続けてきたのである。
ビートルズもローズ奨学金(クリントン大統領もその一員)も、その好例であろう」

「現在アメリカは、イギリスを相手に最後の独立戦争を戦っており、勝利を収めつつある。
冷戦終結が明らかになった1988年から現在までの英米関係とは、要約すれば、アメリカの対英・独立戦争の最後の一大決戦だったのである。
「ロックフェラー対 ロスチャイルド戦争」は、アメリカの対イギリス「独立戦争」の継続でもあったのだ。
アメリカ政財界保守本流は、イギリス帝国主義の旗を掲げたシオニスト=ユダヤ(ロスチャイルド)の呪縛を逃れようと、必死に奪闘してきた。
そして、その目的はいまや達成されつつある。この観点から見ると、第一次大戦も第二次大戦も、イギリスとアメリカの間の、骨肉の争いであった。
そう言われると驚く人が大部分だろう。
しかしアメリカは、意識しようが意識しまいが、どちらの世界大戦においても、イギリスが敗戦の瀬戸際に追い込まれて、借金漬けになり、
土下座して頼みに来るまで参戦しなかった。しかも、イギリスの敵側にも堂々と物資を売っていたのである。
大義名分はモンロー主義という中立主義であった」

「この第二次大戦においては、アメリカは再びイギリスが疲弊しきるまで参戦しようとはしなかった。そしてアメリカが意識しようがしまいが、
ヨーロッパではドイツを当て馬にして、イギリスを叩かせ、アジアでは日本を当て馬にして大英帝国を追い出し、
大戦後は、そのアジアの利権の一部を獲得したのだった」

金貸しは、国家を相手に金を貸す 経済破局は来るのか=番外編= 〜「国家が金貸しの手に落ちた」瞬間〜
http://www.financial-j.net/blog/2008/10/000707.html

「this crusade, this war on terrorism(これは十字軍だ、これはテロリズムとの戦争だ)」実は三つ巴?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D

広瀬 隆「赤い楯 - ロスチャイルドの秘密」上巻〜要略〜
http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_rothschild1.htm

広瀬 隆「赤い楯 - ロスチャイルドの秘密」下巻〜要略〜
http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_rothschild2.htm

研究メモ - 日本人が知らない 恐るべき真実 - 明治維新の背後に見え隠れするロスチャイルドの影
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060314

研究メモ - 日本人が知らない 恐るべき真実 - 日銀とロスチャイルドの関係
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060711

研究メモ - 日本人が知らない 恐るべき真実 - ロックフェラー兄弟のジャパン・コネクション
http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-3-1.html

「日露戦争、関東大震災で疲弊した日本を救ったのは誰か?」「三井と住友が組んだ意味の深さ」
「日本の三井=住友系と三菱系の戦い・対立と置き換えてみてください」「ロックフェラー財閥とドイツとの親密な関係」
「アメリカの金保有量が飛躍的に増大した理由とは?」「満州国と、英米の対立」
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe601.html

新しい「農」のかたち アメリカにとって「食糧」は軍事力と並ぶ戦略物資の一つである
http://blog.new-agriculture.net/blog/2009/02/000800.html

地政学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%94%BF%E5%AD%A6

小沢民主党幹事長の訪欧についての私見(1-2) - 新ベンチャー革命 -
「小沢氏は、アンチ戦争屋(軍産複合体)で親・銀行屋(国際金融資本)という仮説」※重要
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/1350537.html


小沢民主党幹事長の訪欧についての私見(2-2) - 新ベンチャー革命 -
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/1351012.html

◆   ◆   ◆


※Roentgenium:まえがきを終え、ここから本題に入りますが、先ずは、最初にどのようにMRAが日本に関わってきたのかという点に注目です。
注意して見ておきたいのは、キーパーソンの一人である中曽根康弘の存在です。
その中曽根康弘は、正力松太郎が存命の頃から讀賣グループと関係しており、渡邉恒雄は最初、その連絡役でした。



■カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾(その1) 不 可 視 の 学 院

http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/564.html

(以下、注釈≪≫を加え、引用転載)

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【カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1】 2007年10月15日掲載

なんとなく見ていた1960年代のグループ・サウンズやフォーク・ソングについて音楽ファンが語り合うネット空間に、
ある聴き慣れない団体名が頻繁に登場するのに気付いたのは、つい最近のことだった。

その名を「道徳再武装運動(MRA=Moral and Spiritual ReArmament)」という。
当時、東大や早稲田などの都内の大学では、全共闘が猛威をふるい、政治だけではなく文化面でも、左翼運動が若者たちの流行となっていた。
新宿ではフォークゲリラが活動していた。

そうした動きに対抗する文化運動が、当時から左翼思想とは一線を引いていた慶応の湘南ボーイ達を中心に生まれた。
「亜麻色の髪の乙女」でヒットを飛ばしたヴィレッジ・シンガーズ、マイク真木(真木蔵人の父)がやっていたGSグループのマイクス、
ハイファイセットに曲を提供していた滝沢洋一などに代表されるソフト・フォークというその運動は、後の「湘南サウンド」の源流となった。


その中心にいたのは、マイクスのメンバーで、ニュー・フォークスやシングアウトという外国人メンバーも交えた、
大人数のフォーク・コーラス・グループなどもやっていたロビー和田という人物だった。
ロビー和田はバードコーポレーションというレコード・レーベルも運営していた。


後にシングアウトはCHICAGOのようなブラス・ロックへと変化し、合唱団的な部分は、NHKの歌番組『ステージ101』へと流れていったという。
ロビー和田は音楽プロデューサーになって、和田アキ子や西条秀樹※をはじめ、阿久 悠との共作も含めた数々のヒット曲を手掛け、
最近では葉加瀬太郎のクライズラー&カンパニーなどをプロデュースしたりと、今も第一線で活躍している。

※YMCA、米国の文化支配?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E9%9D%92%E5%B9%B4%E4%BC%9A

そのロビー和田の属していたのが謎の団体、MRAだった。
MRAは、「日本の良さを再認識し、日本を自由主義国家として築こう」というテーマを持ち、
学生運動によって荒廃した学校に道徳を導き入れ、本来の学生の姿を取り戻そうという運動を展開していた。

MRAは、フランク・ブックマン博士という人物が提唱し、20世紀初頭にアメリカ・ペンシルヴァニア州立大学で始まった。
(現在はIC=Initiative of Changeという名で、NGOとして活動している)
元はキリスト教福音主義派の社会改革運動で、公衆の前で自分の罪(主に性的な過ち)を告白し、悔い改めることを主眼にしていた。※

※純潔運動 - Wikipedia※統一教会の場合は、教祖がフリーセックスだが・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E6%BD%94%E9%81%8B%E5%8B%95

http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/unifiedchurch.html

当時、ペンシルヴァニアは禁酒法施行中にも関わらず、学生は酒に溺れ、大学の秩序は乱れきっていた。
そんな中、ブックマンは独特の洗脳的テクニックを駆使して、酒の密売人を含む学生数人を改心させる。
(この方法は、後にその洗脳効果だけを抽出した、Alcoholic Anonymousというカルト的なアルコール中毒治療グループとして知られることになる)

さらに1921年、ブックマンはイギリスへ渡って新しい精神運動を起こし、オックスフォード大学の学生たちに影響を与えた。
この運動は「オックスフォード・グループ」と呼ばれるようになった。
(後にオックスフォード大学からの抗議でこの名前を使うことをやめさせられた)

第二次大戦突入の前年にあたる1938年、軍備増強に狂奔するヨーロッパ諸国の姿を見たブックマンは、
軍備に代わる世界的規模での道義と精神の再武装(Moral and Spiritual Re- Armament)を唱え、MRA運動を全世界に向けて提唱した。


しかし、ナチスのヒムラーやヘスと特別な関係があったブックマンは、1939年にアメリカに上陸するなり、
「わたしはヒットラーに感謝する」「神の支配するファシスト独裁に賛成だ」などと発言して、アメリカの世論からつまはじきにされた。
(未見だが、ラース・フォン・トリアーの映画『ドッグヴィル』にはMRA運動にかぶれた狂信的な人物が登場するそうだ)


プリンストン大学などの名門校で禁止措置に合うなど一時は下火になりかけていたMRAが再び勢力を盛り返したのは、
戦後、ブックマンが運動の中心を宗教問題から社会運動にきりかえて、労使協調を主張し始めてからだった。
左右の対立が強まり、ソ連の影響下で左翼運動・労働運動が激化し始めていた冷戦時代にあって、
MRAの存在は、西側の体制の利益に合致していた。

MRAの大会には、各界の名士が集結するようになり、世界中の政府や企業、右翼勢力から膨大な資金が集まり始めた。
MRAは、ロンドンのウェストミンスター劇場やスイスのジェネーヴ湖畔の巨大なパレス・ホテルを買収し、
50万ドルをかけてロサンジェルスの本部を買い、ミシガン州マキナック島に訓練所を建設し、映画『グッド・ロード』を制作した。


ただの禁欲主義カルトから反共右翼カルトに転身したMRAは、
ルール地方の有力者だったシューマン仏外相、中国国民党右翼の暗殺団C・C団の指導者・陳立夫などの熱烈な支持を受けた。

ブックマンはアメリカのマーシャル・プランの受け皿を作り、
いわゆる「シューマン・プラン(重工業の共同運営)」、欧州鉄鋼・石炭共同体(ECSC)の設立に貢献し、今日のEUの礎を築いたと言われる。

ルール地方では、共産党の組織率が72%から25%に下がるなど、労使協調が深まった。
シューマンは、「経済分野にはマーシャル・プラン、政治・軍事の分野には北大西洋条約、精神生活には道徳再武装」とまで言ってのけている。


ブックマンは、戦後のドイツとフランスの和解に大きな役割を果たしたとも言われる。
独のアデナウワー首相とシューマンを結びつけ、
1946年から1950年までに3000人のドイツ人と2000人のフランス人をスイス・コーのMRA国際会議場に招き、寝食を共にしての和解活動を行った。
≪コーは、旧オーストリア帝国皇后エリザベートも宿泊した、スイス・モントロー近くの由緒ある山岳保養地で、
現在もMRAの本部として、毎年夏に国際会議が開催されている。≫※

※クーデンホーフ光子(青山みつ) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95%E5%85%89%E5%AD%90

※リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

※ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 鳩山由紀夫の説く、「友愛政治」の歴史的背景
http://amesei.exblog.jp/9737659/

参考 - 実質、世界を動かしているビルダーバーグ会議
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0%E4%BC%9A%E8%AD%B0

≪MRAは、戦後間もなく日本にも上陸した。
尾崎行雄の三女で日韓女性親善協会を設立した相馬雪香、渋沢栄一の曾孫で同記念財団理事長・渋沢雅英、
日銀総裁で鳩山内閣と岸内閣の蔵相も務め、サンフランシスコ講和会議の日本全権の一人として吉田 茂と共に訪米した一万田尚登といった、
錚々たる日本のエスタブリッシュメントが、MRAのメンバーになった。≫


1962年、日本をMRAのアジア拠点に据えることを目的とし、十河信二・国鉄総裁を中心に、小田原にMRAアジア・センターが完成した。
初代日本会長は、石川島播磨重工業(IHI)の設立者で東芝社長と経団連会長を歴任した土光敏夫だった。
池田勇人首相は、MRAの大会で、その思想が日本の新しい「人づくり」とぴったり合う、と挨拶し、
26日に首相の私的諮問機関「国づくり」懇談会の初会合を開いた。

MRA運動は、戦後の日本において、海外渡航手段の一つであり「外国への窓」として貴重な存在だった。
占領期間中、MRAの会員には、一般の国民よりずっと以前から海外旅行が許可されていた。


1950年6月、戦後初めてマッカーサーが出国を認めた72名の大型使節団が、コーのMRA世界大会に出席した。
ブックマンは、「日本はアジアの灯台たれ」と言って日本代表団を激励した。

≪石坂泰三東芝社長、浜井信三広島市長、大橋傳長崎市長などのメンバーに混じって、若き中曽根康弘がいた。
アメリカ行きの飛行機が離陸するのを待つ間、中曽根は三井財閥の一行に「10年したら私は総理大臣になる」と野心を打ち明けたという。
実際にはそれは32年後まで実現しなかったが、
その間、中曽根はいくつもの内閣ポストに就き、ロッキード事件やリクルート事件に連座しながらも奇跡的に無傷を保った。≫

中曽根は首相になった後、
「日本のいまの状況を見ると、日本こそ道徳再武装が必要である。教育と道徳という問題を、政治が取り上げなければならない。
憲法改正と教育基本法改正がその道徳的基礎を確立する基本になる。」と語っている。
ちなみに中曽根と主張を同じくする教育改革国民会議の来山 武(元大阪女子短大教授)も、論文の中で、
「教育再武装」「個人の尊厳と自律性を前提とした道徳再武装」といった言葉を使っている。

≪日本代表団は、ヨーロッパから米国に渡り、北村徳太郎、栗山長次郎が米議会で太平洋戦争について謝罪した。
浜井広島市長は、ロサンゼルスで、
「私たちは、誰に対しても恨みは抱いておりません。同じことが二度と起こらないようにあらゆる努力を払ってほしいということです。」と語った。

浜井のこのMRA派遣は、「過ちは繰り返しませぬから」という広島の原爆記念碑の碑文作成に影響を与えたと言われる。
米軍による原爆投下という残虐行為の責任を曖昧にするこの奇妙な碑文も、こうした経緯を見れば納得がいく。≫

米軍による占領が終わり、日本人の海外渡航許可が容易に得られるようになると、
MRAは、米日間の文化交流プログラムの名のもとに、
日本の指導者たちとその予備軍を欧米への官費旅行に招待し、外国の指導者に引き合わせ、労使協調と反共についての説教を吹き込んだ。

1953年、東芝の勤労部長と労組委員長が共にコーのMRA会議に参加。
石川島播磨重工労組の柳沢委員長もこの会議に参加し、土光敏夫との「信頼関係」を築いた。
これが、日本全体の協調的労使関係の形成に繋がった。

ジャーナリストの大宅壮一は、『昭和怪物伝※』に収録された右翼宗教団体・生長の家の教祖・谷口雅春についての文章の中で、
MRAについて触れている。

「世界旅行で私が得た大きな収穫の一つは、MRA(道徳再武装運動)というものの正体が非常によくわかったことである。
戦後日本人で外国へ行ったものの中で、“MRAの招待”というのが大きなパーセンテージを占めている。
その中でも国会議員、地方議員、知事、市長などの公用族が多い。
しかし比率からいって、もっとも多いのは、革新政党の議員や労組の幹部である。

彼らは我も我もとMRAの大会に出かけて行って何を得たであろうか。
(中略)スイスのコーというところに、MRAの夏期練成道場がある。
これは、“道場”といっても、戦時中の日本にあったような殺風景なものでなくて、素晴らしく豪奢(ごうしゃ)なホテルである。
世界一景色のいいところにある最高級のホテルで、世界の珍味を集めた料理を食って、“チェンジ”する、すなわち心を入れ替えるのである。
階級闘争や有色人種運動の指導者が、資本家や白人に対する憎しみを捨てるのである。
近ごろの流行語でいえば“洗脳”だ。

中国では、革命に協力しない反動分子を“思想改造所”という監獄に入れて“洗脳”を行っているが、
MRAでは、ありったけの贅沢をさせることによって、同じ目的を達しようというのである。
但し、その手段が全然逆であるとともに、チェンジさせる方向も正反対である」

教祖のフランク・ブックマンには後に日本政府から勲章も授与され、中学の道徳の教科書にも載っている。

※大宅壮一著『昭和怪物伝 第13巻』
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%AE%85%E5%A3%AE%E4%B8%80%E5%85%A8%E9%9B%86%E3%80%88%E7%AC%AC13%E5%B7%BB%E3%80%89%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%80%AA%E7%89%A9%E4%BC%9D-1981%E5%B9%B4-%E5%A4%A7%E5%AE%85-%E5%A3%AE%E4%B8%80/dp/B000J8010M

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Roentgenium:特にCIA、統一教会などとMRAの繋がり、さらには松下政経塾とロックフェラーの繋がりについて書かれている(その2)は必見の内容です。
個人的には、鳩山一族とMRA、岸一族や松下政経塾とMRAのかかわり方や考え方が違うものであってほしいと思っています。

そう言えば、長州閥の源流は、松下村塾※。松下政経塾は、この松下村塾をモデルとしているという話もあります。
そして、規模こそ違えど、松下政経塾と並ぶ政治家育成に注力しているのが、マスゴミが一斉攻撃して槍玉に上げている小沢一郎政治塾です。
その小沢一郎政治塾がどのようなものか、どのようにして人材を育てているか?それはマスゴミが悪意を持って植え付ける印象とはまるで違うものです。

また最近では、怪しい面々が名を連ねる、キャノンの「PAC道場(御手洗政経塾)」というものもあります。

※松下村塾 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE

吉田松陰.com(幕末の私塾・松下村塾について)
http://www.yoshida-shoin.com/

小沢一郎政治塾 - Wikipedia

「自由党の機関として2001年に設立された。「平成の松下村塾」を標榜し、「政治塾」と称しているが政治家家養成のみならず、
各界の指導者育成にも力を入れている。2003年からは、民主党との合併により、政治塾は党の機関から小沢の私塾として存続している。
民主党の国政選挙候補者に塾卒業生の擁立が相次ぎ、松下政経塾と並ぶ政治家の育成学校となっている。
尚、松下政経塾は、塾生に年240万円以上の支給(2年目以降は別途100万円の支給)を行っているが、
小沢一郎政治塾では、塾生への現金支給を行っていない。このことにより、小沢塾出身者は、野武士集団・雑草集団とも言われる」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%A1%BE

ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 御手洗政経塾?(朝鮮日報)
http://amesei.exblog.jp/10364831




■カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾(その2) 不 可 視 の 学 院


http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/565.html

(以下、注釈≪≫を加え、引用転載)

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【カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その2】 2007年10月15日掲載

≪≪MRAによる日米間の文化交流プログラムは、国防総省やCIAの秘密のミッションの隠れ蓑にもなっていた。
CIAのエージェントで、レバノンやベイルートで長くビューローチーフを務めたマイルス・コープランドJr.
(ロック・グループPOLICEのスチュワート・コープランドの父)の著作によれば、MRAは明確にCIAのコントロール下にあったという。
70年代以降、日米間の複雑に入り組んだネットワークの中枢を担ったのが、MRAの本部も兼ねていた日本国際交流センター(JCIE)だった。

JCIEは、デヴィッド・ロックフェラーが委員長を務める日米欧委員会(三極委員会=トライラテラル・コミッション)の事務局を兼ねており、
日本におけるロックフェラー財閥の代表機関になっていた。≫≫

JCIE理事長の山本 正は、「ロックフェラーの日本秘書」とも呼ばれ、
一時期は「全ての事が山本を経由する」と言われるほど日米間のパイプを押さえていたという。
デヴィッド・ロックフェラーやヘンリー・キッシンジャーをファーストネームで呼ぶことができる唯一の日本人とも言われた。

≪安倍晋三の祖父でCIAのエージェントだった岸 信介もMRAにも深く関わっていた。≫
岸は、首相就任直後の1957年に2度にわたりアメリカを含む東南アジア・大洋州15カ国を訪問して、日本の過去の戦争について謝罪して回った。
特に2回目の訪問国には、フィリピンやオーストラリアなど反日感情の強い国々があった。

オーストラリアの在郷軍人会は岸を戦犯として批判していたが、ブックマンと親しい外交官アラン・グリフィスらの説得によって、訪問受け入れに転換した。
岸は、首相在任中の1960年に日本を訪れたMRAの代表団に、
「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを与えるようにしておられる。
私はMRAが6週間にわたって我が国に与えた圧倒的な影響力に対して感謝の気持ちを表明したい。」と挨拶した。

≪当時は60年安保運動で、岸打倒の声がまさにピークに達していた時であり、MRA代表団の訪日のタイミングは絶妙なものだった。≫

≪MRAの日本導入の立役者は、現首相の福田康夫の父で後に首相になる福田赳夫であったと言われている。≫
1961年、岸は福田と共にコーのMRA世界大会に参加した。MRAは、権力回復に野心を燃やす戦犯たちに、公開贖罪の場を提供していた。
岸も他の悔悟者とともにMRAの国際会議場で涙を流してみせた。

≪≪しかし、岸は戦後日本で最も反動的な首相であり、わずか3年間の短い在任中に、
警察官の権限を拡大強化する警察官職務執行法改正案、紀元節の復活といった史上稀に見る反進歩的な法案を提出した。
岸は韓国のカルト宗教・統一教会、アジア人民反共連盟(APACL)などの右翼組織やCIAのフロント組織をバックアップし、
日本郷友連盟や祖国防衛同士会などの極右団体の顧問もつとめた。MRAもそうした右翼組織の一つだった。≫≫

≪岸が、右翼の大物・笹川良一やフィクサー・児玉誉士夫と共に、
統一教会の別組織である国際勝共連合の生みの親であったことはよく知られている。≫

≪統一教会は、軍事政権下の韓国のKCIA(韓国中央情報局※)が直接組織した団体だったが、
その教祖の文鮮明は、実はMRAを参考にして統一協会を作ったと言われる。統一協会・勝共連合は、MRAの「鬼っ子」だったのだ。≫

※KCIA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%83%A8

※日本の検察「権力者によどみなくメス」、(KCIAが暗躍する)韓国では絶賛の声も - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100116-00000007-scn-kr

※日本テレビ放送網とCIA
http://www.f.waseda.jp/tarima/NTV%20and%20CIA.htm

統一協会が軍事政権や自民党右派などの排他的右翼政治勢力と組んだのに対し、
MRAは民族融和を標榜し、財界と結びついた点に大きな違いがあった。

年に1回、コーで開かれているMRAの日米欧経済人円卓会議は、経団連の土光敏夫や奥田 碩が代表を務めている。
経団連はMRAの別働隊であるとさえする見方もある。

戦後日本の政治家の中でMRAの影響を最も強烈に受けたのは、後に民社党(現在の民主党)に連なる社会党右派だった。
60年安保当時、東京のMRAハウスは既に自民、社会両党議員の交流の場にもなっていた。
日本社会党右派→民社党と移り、内閣総理大臣も務めた片山 哲も、戦後すぐにコーのMRA本部に詣でた一人だった。

片山は、当時ろくに収入が無かったが、MRAに飛行機代を全額出してもらい、
三井財閥の三井高維らご一行と共に仲良くコーで開かれたMRA世界大会に夫婦で出席して、
「MRAの機動部隊を日本に派遣されたい」などとおべんちゃらを言った。

共産党の宮本顕治の妻でプロレタリア作家の宮本百合子は、
『再武装するのはなにか』と題された文章の中で、そんな片山とMRAのウサン臭さを痛烈に批判している。
しかし、片山はもともとクリスチャンであり、キリスト教的人権思想と社会民主主義の融合=キリスト教社会主義を実践した人物だった。
弁護士時代はYMCA(キリスト教青年会)の寄宿舎を借りて事務所を開いていたぐらいだから、MRAとは相性が良かったのだろう。

元首相で民主党議員の羽田 孜と民主党創設者の鳩山由紀夫は、
前述の尾崎行雄の娘・相馬雪香らと共に97年にコーのMRA国際会議に出席してスピーチをしている。
羽田は尾崎行雄記念財団副会長も務めているが、どうも尾崎行雄というのは日本のMRA受容史の中で重要な名前であるらしい。


コー日米欧経済人円卓会議※のコーディネーターを務めているのも、藤田幸久という民主党議員だ。
この男の経歴は、戦後日本のMRAと社会党右派〜民社党〜民主党政治家の蜜月を象徴している。
民社党は労使協調の第二組合をバックボーンに持つ政党であり、まさにMRAの申し子だった。統一教会は自民党と組み、MRAは民社党と組んだとも言える。

※経済人コー円卓会議日本委員会
http://www.crt-japan.jp/

≪≪MRAが巨大な影響力を及ぼしている日本の政治勢力はもう一つある。
松下政経塾出身のネオリベラル(新自由主義)/ネオコン政治家たちだ。≫≫

松下政経塾は、松下電器の創業者・松下幸之助が、1980年に湘南・茅ヶ崎に私財70億円を投入して設立した私塾で、
次世代のリーダーとしての政治家・経営者の育成を目標としている。設立にあたっては吉田松陰の松下村塾※をイメージしたとも言う。


塾は全寮制で、毎年22才から35才までの男女を公募、年間1期わずか30人を厳選し、政治・経営リーダーの卵として3年間訓練・養成する。
カリキュラムは早朝清掃や早朝ウォーキングに始まり、伊勢神宮への参拝、書道、剣道、儒教講話など日本の文化や精神の学習、
松下電器の工場での製造作業や店舗での営業販売体験、自衛隊への体験入隊、三浦半島100kmを一日で一周する「100キロ行軍」などが含まれる。
塾設立当初は、松下幸之助も塾生と一緒に風呂に入って背中を流し合ったり、寝食を共にしたという。

塾生には1年目は研修資金月額20万円、2年目からは研修資金月額25万円の他、活動資金が年額125万円〜175万円が支給され、
寮費はわずか月額4500円だという。
≪≪松下政経塾の原点は、共産主義から自分の企業を守るにはどうしたらいいかを真剣に考えた松下幸之助が、
アーノルド・トインビー(007で有名なイギリスの諜報機関MI6※の創設者でもある)にその研究委託をしたところ、
ロックフェラー系の研究所の指南・報告を受けて、MRAに加わるようになったことにある。
その設立の動機には、創価学会と公明党を自由に操る友人・池田大作への憧れがあったとも言われる。≫≫

※MI6(イギリス情報局秘密情報部) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%B1%80%E7%A7%98%E5%AF%86%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%83%A8

松下政経塾の講師陣は、PHP総合研究所※の研究員が務めていると推定される。
(右寄りで知られる漫画家の弘兼憲史や「新しい歴史教科書をつくる会」の佐藤欣子なども講師を務めているらしい)
PHPは、松下政経塾と姉妹関係にあるシンクタンクで、出版事業が業績の9割以上を占めており、
右翼論壇誌「Voice※」やビジネス書を中心に、「お水教」の教祖・江本勝の『水からの伝言』などのオカルト/擬似科学系の出版物も多数出している。

※PHP研究所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/PHP%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80

※竹中平蔵らの他、前原誠司も執筆に名を連ねる『Voice』
http://voiceplus-php.jp/archive/index.jsp

MRA日本協会理事だった山崎房一も、
『きっと、自分を好きになる』『心が軽くなる本 「不安」を「安らぎ」に変える57のヒント』などという胡散臭い本を出している。

PHPとは「Peace and Happiness through Prosperity(=繁栄による平和と幸福)」の略で、
「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」というコンセプトを表している。


松下はこのPHP理念でもって、企業と激しく対立する共産主義系の組合活動家たちを押さえ込んだ。
この中から、民主社会主義協会=民社党/友愛クラブ、JC中立労連が生まれ、日本の労使協調/反共労働運動の流れがスタートした。
日本最大の労働組合の全国組織「連合(日本労働組合総連合会)」がそのゴールだった。
PHP理念は、まさにMRA思想の松下版と言える。


松下政経塾は、非二世議員の人材供給源として、政界・財界に塾生を多く送り込んでいる。
現在、同塾出身の政治家は、衆議院議員28名、参議院議員2名、都議会議員15名、市区町村議会議員13名、知事2名、市長・区長9名。
出身者に対する政治家の割合は、単一の組織としては世界一だという。

所属政党は、国会議員で自民党13人、民主党17人と党派を問わず分布している。
自民党は逢沢一郎や小野晋也、高市早苗、赤池誠章など。
民主党は前原誠司前代表や野田佳彦、拉致議連の松原 仁、原口一博がよく知られている。
稀にリベラル派もいるが、ほとんどがファナティックな市場原理主義の親米保守派だ。

≪神奈川県は県知事と最大の市である横浜市の市長が共に松下政経塾出身で占められている。
県知事の松沢成文は、小泉純一郎と共に郵政民営化研究会を立ち上げた「同志」であり、
1999年には小泉純一郎との共著『郵政民営化論』をPHP研究所から刊行している。≫

≪「堀江偽メール問題」で、民主党を自滅寸前にまで追い込んだ前原誠司も、郵政民営化研究会のメンバーだった。≫

≪雑誌「噂の真相」の名物編集長・岡留安則は、「噂の真相」の休刊にあたって「松下政経塾に気をつけろ!」という言葉を残したという。
松下政経塾とは、その母体になったMRAとは一体何なのか。

今後も日本の政局に重大な役割を果たしていくであろうこの集団の真の目的は未だ判然としないが、
その母体となったMRA、その影で蠢く統一教会、ロックフェラー財閥とアメリカ政府の姿を眼をこらして見れば、朧げながらその危険な牙が見えてくる。
そして日本にネオリベラリズムを導入した最初の首相である中曽根康弘は、MRAと統一教会に深く関わっていた。
今後の日本の政局の最大の焦点は、民主党内のネオリベ/ネオコン寄りの分派が、民主党を離脱して自民党と連合するかどうかだと言われている。
その時には、前原誠司を中心とする松下政経塾出身者がその主役になるだろう。≫
湘南方面から吹きつける不吉な風には、今後も注意が必要だ。

松下政経塾出身者の変わり種としては、サラ金業者・武富士の武井前会長の娘婿になった高島 望という男がいる。
この男は、退役軍人の集まりである社団法人「日本郷友連盟」の参与でもある一方で、
「全裸SEX教団」として最近週刊誌で話題の新興宗教団体「ザイン」の特別顧問にもなっており、「大公爵」という称号を持っている。
この「ザイン」は、代表・小島露観が「自衛隊はシビリアンコントロールから脱せよ」と主張する極右カルトで、
なんとクーデターの為に軍事訓練までやっていたという。まさにカルトはカルトを呼ぶ。

◇   ◇   ◇


但し、松下政経塾出身者でも原口一博総務大臣は、他と違っていると思う。或いは、彼こそが塾主が望んだ理想なのかもしれない。
他の人間は松下政経塾を利用したに過ぎないのかもしれない。以下、参考。

濁った目、鼻持ちならない権力の走狗。大きく醜い落とし穴から抜けることを教えていただきました。(原口一博議員日記)
http://www.haraguti.com/dcontents.php?num=274

http://seiji.yahoo.co.jp/giin/minshu/000590/activity_etc/20090701.html

「総理になってください。」というのが精一杯でした。
政権交代を果たして、近い将来に総理として改革の陣頭指揮をとってくださいとの思いを伝えたいと思いました。(原口一博議員日記)
http://www.haraguti.com/dcontents.php?num=368

日本を守るのに右も左もない 金貸し支配と労働運動は繋がっていた?

「金貸しによる日本支配が強まった契機を成すのが1985年プラザ合意だが、それと前後して起こったのが、日本の労働運動の再編だ。
当時の労働運動の再編の大きなトピックは、
@1987年 国鉄分割民営化→国労の解体、JR総連の発足と分裂
A同年 労働4団体(総評・同盟・新産別・中立労連)の解散→「連合」への統合

このような特権をアメリカの労働組合はどのようにして獲得したのか?
そのような特権は経営者が認めた(与えた)からであり、それは各企業に金を貸す金貸しが認めたからに他ならない。
ここでも、金貸しと労働運動の繋がりが透けて見える。このように、労働運動、さらには左翼運動全体が金貸し支配と繋がっていた疑いが出てくる。
労働運動、さらには左翼運動は金貸し支配の道具の一つだったのではないだろうか?」

http://blog.trend-review.net/blog/2009/05/001129.html

日本を守るのに右も左もない MRA(道徳再武装)と中曽根康弘と労使協調

「MRA(道徳再武装)という団体が、1980年代以降従米路線に大きく舵を切った中曽根康弘元首相を取り込んだと同時に、
革新政党の議員や労働組合幹部をも取り込み、労使協調路線に洗脳したというのが注目点。
奇しくも両者は、1980年代の国鉄分割民営化と国労の解体、「連合」への労働団体の統合という地点で合流することになる」

http://blog.trend-review.net/blog/2009/05/001166.html

国際IC日本協会の組織概要・協賛法人一覧に名を連ねる企業は以下、

イオン(=岡田克也)、キャノン、住友化学、住友金属鉱山、住友重機械工業、住友信託銀行、住友倉庫、住友不動産、住友林業、
三井住友銀行、住友大阪セメント、住友金属工業、住友軽金属工業、住友商事、住友生命保険、住友電気工業、住友ベークライト、
三井住友海上火災保険、みずほファイナンシャルグループ、ヤマトホールディングス、三菱電線工業、三菱総合研究所、
明治安田生命保険、中国電力、東京電力、関西電力、中日本高速道路、近畿日本鉄道、ダイキン工業、東京海上日動火災保険、
日本興亜損害保険、東芝、日産自動車、日本板硝子、リッキービジネスソリューション、群馬育英学園、新家庭教育協会、MRAハウス、他

http://homepage3.nifty.com/mra/approval.html

住友グループ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

白水会加盟企業
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B0%B4%E4%BC%9A

→住友家は、世界財閥家系の中でも、最も古い歴史を持ち、先祖は平家一門である。
住友財閥として財を築いたのは、江戸時代の銅精錬業が起源。それによって銅貿易に関与するようになり、
糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を大坂・京都方面で売り捌くなど商業にも手を延ばした。
それによって得た利益で、両替商を開業するようになった。

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■副島隆彦氏:「396」松下政経塾の蠢動(しゅんどう)が始まった、遂に本性を顕わしたというべきだ[今日のぼやき 無料版]

http://asyura.com/2003/hasan20/msg/239.html

(以下、注釈≪≫を加え、引用転載)

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【松下政経塾が遂にその本性を顕わして蠢動(しゅんどう)を始めた】 2003年1月26日掲載

今日は、「松下政経塾が遂にその本性を顕(あら)わして蠢動(しゅんどう)を始めた」を書こうと思います。
この動きが、実は、今の日本の政界の最大の内部の動乱要因なのです。

自民党やら民主党やら、保守新党、自由党、公明党、などの党派間の争いで、日本が動いているのではありません。
これらの既成党派のどれに、それほどの主張の食い違いがあるというのか。同じ日本人として全く同様の感受性で動いている。
その日本国民の感覚を代表している政治家たちが、集合離散を繰り返している。
私は、彼ら日本人の代表である政治家たちのすべてを尊敬している。≪一部のアメリカの手先に成り下がっている者たちを除いて。≫

それで、自民党の中の本物の民族派で、愛国派の政治家たちが、何年も前からひそひそと囁きあっていた。
「どうも松下政経塾の連中の動きは怪しい。あいつらは、信用が出来ない」と。
現在、自民党と民主党の衆議院議員の中に、丁度同じだけの数ずつ松下政経塾出の若い政治家たちがいる。
私は、この人々とも面識がある。その代議士OB会の会長をやっている人に、3年前に言ったことがある。

「なあ、○○さんよ。私は、どうも松下政経塾というのは、裏があって疑っている。
一度、あなたが会長をやっているその松下政経塾出身国会議員の会に私を呼んで、話をさせてくれませんか」と私は言った。
それ以来、この件については無しの飛礫(つぶて)である。

目下の日本の「政局」(重要な政治シーン)は、実は、政治家(国会議員)たちの間でひそひそと囁かれている、
松下政経塾の出身者たちの動きに見られる、新党結成とも言える不気味な動きを巡るものである。

日本の新聞の表面はあくまで、
「政党政治の基本に基づいて、与党=自民党その他と、野党=民主党、自由党の個々の政策を巡る対立の動き」として描くことである。
こんなものはヤラセである。国民洗脳の現段階に過ぎない。

もしかしたら、日本では、もう政党政治は終わったのかもしれない。
これからは、挙国一致内閣=超然内閣=大連立=翼賛政治体制=国家社会主義の時代に既に突入しているのと思われるのである。
この問題についての経済・金融場面での分析は、有料版の方で少しやった。

松下政経塾は、松下電器産業の創業者・松下幸之助の遺言で出来た政治家養成の私塾である。学校法人ではない。
いまや地方政治家(市町村議会議員、県議会議員)を合わせると700人にも及ぶ大集団に成長している。
メディア(新聞、テレビ局、出版社)にも出身者が多く在籍している。

私は、そのうちこの特異な政治集団の背景や思想的な成り立ちを、有料版の方に書く。
今日は、後ろの方に最近の新聞記事だけをまとめて載せるに留める。

≪松下幸之助は、自分の電気会社が成長する過程で、
「共産主義=激しい労働組合運動 の脅威から自社(自分の財産)を守るにはどうしたらしいか」を本気で憂慮していた。
そして、イギリスのアーノルド・トインビー(イギリス最高の「冷戦」洞察家。イギリスのMI6=エムアイシックスという国家情報機関の創設者に等しい。
大文明史家でもある)の系統に研究委託した。

それで、アメリカのロックフェラー系統の研究所から指南・報告を受けて、「道徳再武装運動」(モラル・リアーマメント)に加わった。
それは、日本の反共労働運動の系譜を作った、
「民主社会主義協会」=旧・民社党、友愛クラブ、JC中立労連、という労働組合のイデオローグたちを育てた。
これが、国際自由労連=世界反共労働運動=ロックフェラー労働運動である。≫

一方で、PHPという出版社・研究所を作って、「お父さん、お母さん、お客様、地域の皆さんに感謝しよう」と唱えるPHP思想を普及し、
それで、激しく闘おうとするソビエト型、中国型の共産主義者たち影響を受けた組合活動家たちを押さえ込んだ。

私は、「オックスフォード・グループ Oxford Group」の系譜である「MRS Moral Re-Armament(道徳再武装運動)」が全ての鍵を握っており、
その分裂騒ぎの時に真実が表に出た、と分析している。

このMRAについては、日本の高校生向けの英語辞書である「ジーニアス」(大修館書店刊)にも載っている。
「Frank Buchman が1938年に提唱した世界改造運動、初期の名称はオックスフォード・グループ」と載っている。
従ってこの分裂後のMRAにこそ松下政経塾の本性が隠されている。

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※Roentgenium:次に、“日本におけるMRAの活動の歴史”を紐解いていきたいと思いますが、
飛ばしても支障のない内容とも云えますので、とくに関心がない方はスキップしていただければと思います。
ただ、MRAの活動の歴史を見れば、先述の【カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1】の中に書かれているような
“洗脳”のプロセスが、より鮮明にわかると思いますので、その点に興味がある方にとって一見の価値はあると思います。

ちなみに、「IC(MRA)アジアセンターODAWARA」の所在地は、神奈川県小田原市城山4−14−1、
松下政経塾の所在地は、神奈川県茅ヶ崎市汐見台5−25、
財団法人「IC(MRA)ハウス」、財団法人「日本国際交流センター」の所在地は、東京都港区南麻布4−9−17、
社団法人「国際IC(MRA)日本協会」の所在地は、東京都世田谷区船橋1−54−14。

つくづく感じるのは神奈川県には魑魅魍魎と、それに関係するものが異様なほど集中しているということです。



■MRA国際移動学校同窓会公式HP - MRAの歴史

http://www.mra-reunion.com/

年表
http://www.mra-reunion.com/MRA40/NEN/NEN.HTM

(以下、注釈≪≫を加え、引用転載)

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【戦前のMRAと日本での活動】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/29/2902.HTM

創始者ブックマン博士(Frank N. D. Buchman)は米国、ペンシルバニア州のアレンタウンという町の出身である。
この地域にはペンシルバニア・ダッチと呼ばれ、代々深い信仰心を持った人々の集団が、ヨ−ロッパから移民して以来居住していると言われている。
本来スイス系と伝えられるブックマン博士の家族(祖先の故地は東部のサンガレン付近)もそうしたグループに属し、
博士自身もルーテル派教会に所属、孤児院の運営等社会運動に従事していたが、
経営陣との間に軋轢を起こし、第一次大戦後、煩悶を抱えたまま英国に渡った。

ブックマン博士・人と業績
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/30/3002.HTM

イングランド北部のレーク・ディストリクトと言う風光明媚な地にある、ケスウィックという町に滞在中、精神的啓示を体験し、それをもとに教宣活動を開始した。
賛同した学生青年達と共に、生活改変の契機として正直、純潔、無私、愛の4つの絶対道義標準を提唱、
これを基盤として地域や世界情勢の変革を志す人々の活躍が、英国を中心として西欧各国、南アなどに拡大していった。
当初の賛同者にオックスフォード大学の学生や教員が多かったことから、世上ではオックスフォード・グループと通称された。

戦前オックスフォード大学でブックマン博士に出合い戦後MRAハウスの設立等活動を指導した三井高維夫妻
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/26-003.HTM

たまたま第一次世界大戦後の西欧には、精神的空白や絶望が蔓延していたので、グループはこれに応える為、西欧各国で種々のプログラムを展開していた。
1930年代に入り、ナチス・ドイツの台頭、ロシアを皮切りとする共産主義革命の普及などに直面してからは、
著書「世界を再造する」(Remaking the World)に盛られた理念を掲げて全世界を対象とする運動に昇華し、
1938年(昭和13年)、ロンドン東部のイーストハム地区の公会堂での講演で、「道徳再武装」(Moral Re-Armament)を提唱した。

MRAという言葉の語源は、そのときの講演の中で、
「今後は軍備の拡大ではなく、精神的道義的に再武装された人々によって新しい世界を作らなければならない」
と言った博士自身の言葉に基づいたものである。以来MRAは、それまでのオックスフォード・グループという比較的宗教色の濃い運動から変貌し、
世界全体を視野に入れた独特の精神的思想的活動を展開することとなった。

日本にもそれ以前からオックスフォード・グループに賛同する人々があり、「改変生活」という標題の雑誌を発行し、
各地で定期的に会合を持つなど活発な活動が行われ、宗教的体験の普及を軸としてかなりの成果を上げていたように見える。
「改変生活」への投稿者の中には、賀川豊彦、山根 可、高原義男等の名前がしばしば登場している。

1938年(昭和13年)以降、オックスフォード・グループの変容とMRAの発足等新しい状況が日本にも逐一伝えられ、
日本人支援者の間でも、ブックマン博士にならって全世界を視野に入れ、世界の再造を目指そうとする考え方が理解され始め、
「改変生活」の記事のトーンも変わり始めた。

1939年(昭和14年)にはブックマン博士の意を受けてローランド・ハーカーというアメリカ人が来日し、
青山学院、旧制第一高等学校等で教鞭を執る傍ら、日本でのMRAの活動を支援した。

しかし、1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃により、日米両国が戦争状態に入ると、ハーカー氏は強制送還され、
日本での運動も事実上中断することとなった。


◇   ◇   ◇


三井財閥とロスチャイルド
http://www.financial-j.net/blog/2008/07/000602.html

http://www.financial-j.net/blog/2008/12/000762.html

三菱財閥とロックフェラー
http://www.financial-j.net/blog/2008/08/000634.html

http://www.financial-j.net/blog/2008/08/000636.html

「特に明治14年に松方正義が大蔵卿に就任してから、官業払下げ(民営化)が次々と行われ、
三井は富岡製糸場を手に入れ、三菱は長崎造船所を、古河は幾多の銀山・銅山を、浅野は深川セメントを、川崎は兵庫造船所を、
大蔵は札幌麦酒醸造所を、という具合に、
政府が国民から巻き上げた莫大な資金を注ぎこんだ官営物が、驚くほどの安値でこれらの財閥の手に落ちて彼らを肥やしてしまった。
その為、明治時代後半には、むしろ逆に政治家が自ら進んで、財閥の利益を考えて動くようになり、政治力と民間の経済的権力が資本力に集中した」

「三井・三菱の傀儡であった松方正義らが、官業払下げによって、次々と国富を財閥に流してしまった。
その後、薩長藩閥政府に反対して作られた政党も、例えば大隈重信の進歩党は三菱の資金に操られたし、
その後、板垣退助の自由党と合同してできた憲政党は、三井に支えられていた」

http://www.financial-j.net/blog/2008/09/000645.html

金貸しは、国家を相手に金を貸す 日本金融史9〜イギリスがプロデュースした明治維新〜
http://www.financial-j.net/blog/2008/09/000658.html

「19世紀前半には、アジアのほとんどの国が欧米列強の植民地。日本とシャム(タイ)だけがそれを免れていた」
http://www.financial-j.net/blog/2008/09/000657.html



【第二次大戦終結後の世界とMRAの活動】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/02/0202.HTM

1945年5月ナチス・ドイツが降伏し、西欧における6年余に亘る戦争が終わった。
MRAはその直後から、創始者フランク・ブックマン博士の強い意志と指導のもとに、戦後の西欧の再建への努力を開始した。

スイスのMRA支持者たちは、自国が中立を守り、戦禍を免れた事への感謝と代償の意味を込めて、
ヴォー県モントロー市の背後にそびえる山の上のコー(Caux-sur-Montreaux)という村にあった旧パレスホテルを取得し※、
これを改装してMRAの拠点としてブックマン博士に提供した。

ドイツのアデナウアー首相、フランスのシューマン外相をはじめ各国から多数の人材がコーでのMRAの集会に参加し、
ドイツへの恐怖や憎悪の精算と和解の増進をはかり、
欧州石炭鉄鋼共同体の発足から、のちにECの結成に至る欧州統合の機運の醸成に大きな効果を上げた。

欧州での終戦に続いて、1945年8月15日、
日本が連合国軍への降伏を受け入れ、占領軍総司令官として8月30日マッカーサー元帥が厚木に到着した※。

※GHQとアーネスト・ヒルガード教授による洗脳支配
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/65994ae0b3913cc45916b22cb791d6a0

http://taichi-psycho.cocolog-nifty.com/adler/2008/04/post_197d.html

沖縄戦で米軍がまいた、降伏を勧めるビラ(沖縄県立図書館所蔵)
http://blog-imgs-26.fc2.com/k/a/k/kakutatakaheri/oki13.jpg

西欧の場合と比べて、日本との間には地理的、文化的な距離が大きかったので、
日本におけるMRAの活動は、まずもって状況を把握し、戦後の再建を担う可能性のある人材を発見、発掘することから始めなければならなかった。
長い戦争で孤立していた日本人に、戦後の世界の現状を目の当たりに見せるとともに、
世界に向かっては、日本についての意識を喚起させるという目的を掲げて、息の長い努力が進められた。

そしてその第一段階として、戦前のMRA運動を通して接触のあった日本人をはじめ、各界を代表する多くの人材を海外に招待する事が計画された※。

※ここで参考にしたいのが、先述の【カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1】の中で引用されている、
大宅壮一が『昭和怪物伝』で書いている内容だ。

といっても、当時の日本は占領軍が全権を持っていたので、日本人の海外渡航については、ドイツの場合と同様、
米国の上院議員その他連合国側の多くの人脈を通してマッカーサー元帥をはじめGHQ幹部への働きかけが特に重要だった。

1948年には戦前からMRAと接触のあった元駐米大使、外務次官堀内謙介、三井高維、相馬恵胤各夫妻をはじめ約10名の日本人が渡米し、
ロサンゼルスにおけるMRAの会合に参加した。

ついで11949年には、片山 哲元首相夫妻がスイスのコーにおける集会に出席し、帰途 欧州各国を歴訪し、
ルール地方、パリ、ロンドン等を訪問し、米国経由で帰国した。
出発前の記者会見で元首相が口にした「青い鳥を探しに行く」という言葉が、当時の日本人の気持ちを表現したものとして注目を集めた。

これらの予備的な活動によって日本の現状についてかなりの情報を集めた上で、
1950年(昭和25年)、各界、各地域の有力指導者を網羅した代表団の派遣が計画された。
2月3日、ブックマン博士の意図を受けて米国人ケン・トウィッチェル(Kenaston Twitchell)と英国人 バズル・エントウィッスル(Basil Entwistle)の両名が来日し、
占領軍司令部の支援のもとに吉田 茂首相をはじめ各界の指導者と会談、長野、関西、広島、九州等を歴訪、
4月下旬にはマッカーサー総司令官と面談し、大筋の合意を得た上で、
二ヶ月あまりの緊急な準備活動の結果、6月12日、フィリピン航空の特別機を仕立てて大型代表団が出発した。

◇   ◇   ◇


※宮本百合子 再武装するのは何か? ―MRAについて―

(以下、一部抜粋し引用転載)

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独占資本の機構が、時々刻々に引き出す尨大な金貨の山に押し上げられながら、自分をファシストだと認めない国際ファシストたちは、
MRAの為に資金を出し惜しまない。

MRAの去年の大会には、200人の代表が各国から招待されたばかりでなく、52万8000ドルでロンドンのウェストミンスター劇場を買った。
景色のいいスイスのジェネヴァ湖畔にあるパレス・ホテルは、700室の大ホテルであるが、MRAは25万ドルでこれを買った。
ロサンジェルスの本部を買う為に50万ドル投げ出したし、ミシガン州のマキナック島には、訓練所を維持している。
MRA映画「グッド・ロード」を製作する費用も少くないであろう。

≪世界にこんなに資金豊富な団体が他にあるだろうか?
これだけの経費を賄いながら、MRAの会員が会費を払ったという話は聞いたことがない。≫

世界の疑惑の眼がMRAに集まり始めている。去年第一回のMRAの大会には、アメリカの名士が大勢出席したが、
本年のコーの大会にはアメリカの上院、下院合わせて六名の議員しか出席しなかった。

ブックマン博士が、ナチスのヒムラーやヘスと特別な関係があったことがイギリス議会で発見されている。
ウォール街の実業家たちと宴会の席上で終始一貫反ユダヤ熱をあげて、プロテスタント機関紙『チャーチマン』に警告されている。

また、アメリカ聖教会機関紙『ウイットネス』は、MRAの労資協調論を批評して、
「美くしい宗教言辞の影でMRAは何故、世界最大の財団デュ・ポンの恩寵を受けねばならないのか」と急所を突いている。

ジェスチュアでない世界平和と民主的社会の建設の為に誠実な努力を続けている世界のすべての人が“MRAの本体”を見極めている今日、
片山 哲氏が大財閥の三井一門とコーでもてなされて、「MRAの機動部隊を日本に派遣されたい」と切望しているのは、
チルチル、ミチルの旅にしては人民に対する罪が深過ぎる。

吉田 茂内閣は、「青い鳥」だの「神霊に感じた民主主義」だのとMRAを担いでうろつくまでもなく、もう怠りなくリ・アーマメント=再武装は実行している。
国内に五十万の顎紐をかけた警官と二百万の「消防」、復員軍人、旧戦犯、悪質の「民同」がうようよしていて、
「高度武装」たる計画的な犯罪の挑発、捏造事件で人民の民主化を抑圧するために活躍している。

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【大型代表団の派遣(1950年)】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/03/0302.HTM

1950年(昭和25年)6月12日、吉田 茂首相の主催により、スイスのMRA大会に向かう日本人代表団のための歓送昼食会が行われた。
戦後、民間の企画としてこうした大型のグループが海外に渡航するのは初めてのことであり、メディアはもとより多くの人の注目を集めていた。
同日夕刻、一行は羽田空港からフィリピン航空で出発、マニラ、カルカッタ、カラチ、テルアビブ、ローマ等を経由してジュネーヴに到着、
陸路レマン湖の北岸をローザンヌからモントローに向かい、湖畔で左折して急坂を登り、
標高約1000メートルの高地にある旧パレスホテル、当時は既にマウンテン・ハウスと呼ばれていたMRAセンターに到着した。

アデナウアー首相(着席)と左から北村徳太郎議員、福田篤泰議員、青木三重県知事、中島勝治氏、中曽根康弘議員
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/03-002.HTM

左から福田篤泰議員、栗山長次郎議員、ダレス国務長官顧問
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/03-009.HTM

1950年 参加者名簿(日本語)
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/70-504.PDF

玄関の外にはブックマン博士をはじめ多数のMRA関係者が出迎え、国際コーラスが「君が代」を歌って歓迎した。
第二次大戦の責任に加え、占領地での残虐行為に対して全世界からの非難にさらされ、自信を失っていた日本人のグループが、
ブックマン博士とその友人達のこうした心のこもった歓迎に、ことのほか感動したことは想像に難くない。

毎日の集会や、三度三度の食事などを通して代表達は、長い間想像することも出来なかった戦後世界の姿に触れ、
多大な刺激を受けると共に、雪と氷に輝くダン・デュ・ミディの鋭鋒と向かい合い、
レマン湖を見下ろす、美しく、かつ静寂な環境の中で、戦前から戦後にかけて、動乱の中で生きてきた自分たちの過去を思い、
また今や世界と共に生きることを運命づけられている将来の日本について考える、またとない機会を持つこととなった。

そうした中で、戦争中はもとより、戦後も色々な理由で対立抗争を続けてきたそれぞれの過去を反省し、謙虚な謝罪と悔悟を表明するものもあり、
また中曽根康弘議員のように10年後には首相の座を射止める」と自信を持って抱負を語る若い政治家もあった。

それぞれの立場から世界の中の日本について考えさせられている最中の6月25日、予想もしていなかった北朝鮮による韓国攻撃が始まり、
それは時を移さず国連軍対ソ連、中国という、大型で危険な構図を持つ本格的な戦争に発展していった。
それは従来の占領政策を、対日経済支援指向に変換させるなど、日本を取り巻く世界の環境が一変する契機となった。

二週間のコー滞在後、一行は、ベルンではスイス連邦の大統領、ジュネーヴでは国際赤十字総裁を表敬訪問し、
ついで西ドイツに移り、MRAの斡旋でボンではアデナウアー首相と会見し、デュッセルドルフ、ブレーメン、ハンブルグ等を視察、
7月14日の革命記念日にはパリでオリオール大統領の特別席で、いわゆるパリ祭のパレードを見学、
英国では伝統的なロンドン市長のレセプションに参加するなど充実した日程をこなした後、大西洋を横断して米国に向かった。

ニューヨークではトレグヴェ・リー国連事務総長を表敬し、ワシントンでは上院のレセプションと下院の昼食会に招かれたうえ、
栗山長次郎衆議院議員他の国会議員が上院の議場に招かれ西山千氏の通訳で、吉田 茂首相の代理という資格で、
戦争に対する悔恨と謝罪の意を表明し、下院の議場では同じく北村徳太郎議員が戦争について謝罪した。

日本人が米国の権力の中枢である国会議場で発言したのは戦後初めてのことであり、これらの発言は新聞やラジオで広く報道された。

一行はその後サンフランシスコ、ロサンゼルス経由で帰国したが、今回の外遊の成果について北村徳太郎議員が天皇に拝謁報告した他、
中曽根議員をはじめ代表団に参加した多数の国会議員や組合指導者等によって数百回に上る報告会、講演会等が全国的に展開された。

このようにMRAによる戦後の対日活動が、短期間でかなりの効果を上げた背景には次のような事情があったものと思われる。

1.[精神的空白]
国家目標の喪失による精神的飢餓状態が続いていた中で、
占領軍とは異なり、未来志向で、全人類を対象とする公平な価値観を主張するMRAが日本人に強い関心と希望を起こさせたこと。

2.[融合のメッセージ]
戦争中の過度の集中の反動として社会の分裂・拡散が急速に進行し、夫婦、親子、労使など戦前の社会基盤が次々と崩れてゆく中で、
世界全体に向かって融合、無私、愛等の道義的価値の復興を提唱するMRAが非常に魅力的に見えたこと。

3.[戦争への悔恨と世界からの孤立]
戦争中の日本軍による残虐行為への非難が増大する中で、
勝者、敗者を問わず道義的反省を提唱するMRAのメッセージが快いものに聞こえたこと。

4.[労使関係への新しいアプローチ]
大型代表団のスイス滞在中、大阪の警視総監と先鋭な組合指導者との間に劇的な和解が生まれ、
当時深刻化しつつあった労使問題への新しいアプローチとして注目を集めたこと。
事実、1950年代を通じてMRAは東芝、石川島、電電公社等で労働争議の合理的な解決を支援したり、
社会党の左右両派など対立する政治集団の間で、対話を始動したりする効果をあげた。

拡大を続ける共産主義の攻勢にさらされ、出口の見えない分裂、抗争に疲れていた多くの組合指導者や左翼系政治家が、
MRAの中に解決の糸口を見いだす例も多かった。

5.[日本の進路への示唆]
対外関係を占領軍が独占する中で、将来の国の在り方や方向を考えることの出来なかった国民にとって、
MRAは戦後の日本が取り組むべき望ましい世界政策を示唆しているように見えたこと。


【サンフランシスコ講和条約前後】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/04/0402.HTM

1950年の代表団派遣に続き、MRAは毎年スイスのコーやアメリカのマキノ島で開かれる大会に日本の指導層を招いた。

1951年MRA世界大会日本人参加者リスト
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/04-108.PDF

1952年MRA世界大会日本人参加者リスト
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/70-501.PDF

1951年にはサンフランシスコ講和条約が締結されたが、ブックマン博士はその前後に会議の円滑な進行を願って側面的な支援を惜しまなかった。
講和会議が開催される9月に入ると、マーク・ホプキンス・ホテルの最上階のレストランに大型テーブルを長期予約し、
連日各国の代表や関係者を食事に招き、交渉の促進を説得した上、
食後は市内のゲアリー劇場で上演中のMRAの音楽劇「ジョサム・ヴァレー(Jothum Valley)」の公演に招待した。
米国西部の農場を舞台に、対立の解消と和解のプロセスを劇化したもので、
旧交戦国代表はもとより条約に反対していた左派社会党の議員などにも多大の感動を与えた※。

※ここで参考にしたいのが、先述の【カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾 その1】の中で引用されている、
大宅壮一が『昭和怪物伝』で書いている内容だ。

日本側全権は、吉田 茂、池田勇人、星島二郎、苫米地義三、徳川宗敬、一万田尚登、その他に代理や顧問として片山 哲、山田節男等が加わり、
加藤シヅエ、戸叶里子等社会党議員も公式オブザーバーとして参加していた。
9月8日、条約の調印※直後、フランスのシューマン外相はブックマン博士に向かって、
「今日の調印の2年前、貴下は既に日本との平和を築いていた」と言ってその努力を讃えた。

※資料室(日本はサンフランシスコ講和条約で独立国として承認されていなかった!?)<Anti-Rothschild Alliance>
http://www.anti-rothschild.net/material/36.html

ブックマン博士のこうした活動が、一万田日銀総裁や星島二郎議員など全権をはじめ日本側参加者に強い印象を与え、
日本にも活動の拠点を設置しようという動きが活発化し、
その結果が翌年のMRAハウスの取得と、これに伴う「財団法人MRAハウス」設立に繋がる事となった。


【MRAハウスの取得と財団法人の設立】

これより先、1950年の代表団の帰国以降、MRAの認知度が全国的に高まり、各地で活発な集会や活動が行われるようになった。
当時はまた国内の思想的対立が激化しつつあり、保革は勿論労組や社会党内部でも左右の抗争が増幅を続けていた。
そうした中で精神的改革を通しての和解や融和を提唱するMRAのメッセージは各方面で注目され、
現に幾つかの企業では労使関係の改善に寄与しつつあった。

一方海外で、各国に拠点を持って活動しているMRAの現状に触れた人々の間では、
日本にも何らかの活動の中心を設けることへの要望が大きくなっていた。

そしてその具体化の直接の契機となったのは、講和条約交渉に際して、ブックマン博士がサンフランシスコで熱心に展開した支援活動であった。
一万田尚登、星島二郎など日本側代表を努めた人々をはじめ、
≪かねてからMRAとの接触が大きかった最高裁長官田中耕太郎、文部大臣天野貞祐、経団連会長石川一郎、東芝社長石坂泰三、
毎日新聞社主本田親男などが東京におけるMRA本部開設を熱心に推進し始めた。≫
拠点が出来れば、政治的な党派や信条を越えて、
多くの人々が冷静で真摯な雰囲気の中で、独立後の日本の対外、対内政策の枠組みを考えることも出来るようになると考えられていた。

1951年(昭和26年)12月には、米国のアレクサンダー・スミス上院議員(共和党)とスパークマン下院議員(民主党)が来日し、
一万田尚登、本田親男、加藤勘十夫妻、栗山長次郎、全電通の久保委員長、堀内謙介、三井・相馬両夫妻(相馬雪香通訳)等が参加して、
夕食会が行われた。

将来の世界や、日本に対する日本側の正直で真摯な考え方が両議員に強い印象を与えると共に、
日本側もこうした国際的な対話の為の恒常的な場を持つことの重要性を痛感し、具体的行動に移る決心をした。

12月25日には一万田尚登の主宰で、MRA本部設置について討議する為、日銀総裁公邸で昼食会が行われ、
石川一郎経団連会長、千金良三菱銀行頭取、山根大正海上火災社長、犬丸帝國ホテル社長等が出席した。

1952年(昭和27年)初頭には、
一万田尚登、石坂泰三、田代茂樹、倉田主税、湯浅佑一、栗山長次郎、加藤勘十、戸叶里子等25名の有力者が会合を持ち、
港区麻布所在の土地建物を1600万円で取得することを決め、一万田の提案でその資金を当面は寄付と借入金で賄うこととなった。

3月末には予定通り資金の手当てが完了し、4月2日、「MRAハウス」を設置、エントウィスル、相馬豊胤両夫妻が入居し、活動が開始された。
一方施設の母体として寄付や借入金の受け入れをはじめ、財務を管理し将来の活動を支援する目的で「財団法人MRAハウス」の設立が進められ、
1952年(昭和27年)3月、文部省から認可証が交付された。
また、今後の活動を資金的に支援する為、任意団体として「MRA協力会」が設置され、多くの企業が名を連ねて、
定期的な寄付を受け入れる体制が整った。

読売新聞社説
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/05-111.PDF


【音楽劇「消えゆく島」と創始者ブックマン博士の訪日】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/06/0602.HTM

1955年(昭和30年)6月、MRAの音楽劇「消えゆく島(Vanishing Island)」が来日した。
100名を越える出演者の他、舞台装置や照明に関わる技術者集団に加え、
デンマーク保守党党首で元NATO議長のオルビョン・クラフト、チュニジアのマスムディ国務相(後に外相)、
英国労働党下院議員ジョン・マクガバン、スイスの元大統領オスカー・ライムグルーパー、東ナイジェリア国会議員B. C. オクー、
イランのパーレビ国王代表マジド・モカバル等、25カ国を代表する総勢180人に及ぶグループが羽田に到着した。

戦後のMRA はその理念を普及する手段として演劇、映画など視聴覚メディアを多用するようになった。
言語だけでは伝えきれない人情の機微や道義的真実を劇化し、視覚を通して情念に訴えようとする手法である。
それは対話や講演とは違って不特定、かつ多数の観衆への接触を可能にし、メッセージが受け手の心の琴線に触れ、
予想を超えた反応を見せる場合も多かった。

ピーター・ハワードの原作になる「消えゆく島」は、「自由世界」「共産主義世界」そして「新しい世界」という三幕によって構成され、
それぞれの世界の政治的、経済的、道義的弱点を指摘し、
これらを克服して「新しい世界」を作る可能性と、それを実現する為に個人、家族、組織などが取り組むべき役割を訴えていた。

当時の自由世界には、マッカーシー旋風等が自由陣営の弱さと欠陥を露呈する一方、
「東風が西風を圧する」という毛沢東の言葉に見られるような共産主義勢力の急速な拡大への不安と焦燥が蔓延していた。
そして、MRAは、より優れた第三の道を提示することによってそうした状況に効果的な一石を投じようとしていた。

6月15日、首相官邸で鳩山一郎首相主催の歓迎レセプションが行われ、国会では対立する各政党が一致して一行を歓迎した。
衆議院では、両保守党と左右社会党が4時間半に及ぶレセプションに同席し、
参議院では河合弥八議長が「MRAを基盤とする国の再建こそが優先課題である」として歓迎の意を表した。

代表団に同行したマスムディ チュニジア国務大臣と鳩山一郎首相
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/06-020.HTM

10日間の滞在中、東京では東京劇場、大阪では北野劇場で、皇族、首相夫妻、20カ国の大公使、各界各層の人々が観劇し、
NHKテレビはその抜粋を45分間全国に放映した。

ジャパンタイムズ(ニッポンタイムズ)1955年6月5日号MRA特集
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/70-037.pdf

グループは登場人物が100名を越す大型の音楽劇を、都市の大劇場でも、また野外でも、短時間で設置可能で、
かつ航空機による長距離の移動を考慮した独特の舞台や音響装置を携行していた。
事実、日本訪問後数ヶ月をかけて歴訪したアジア各国、中近東等では王宮の庭や町の広場で上演され、驚くほど多数の群衆を集めた。
それは当時のMRAの世界戦略の一環として、人的にも、物的にも持てる資源を総動員して準備された企画であった。

日本におけるMRAの演劇活動としては、1950年代初期に、
アラン・ソーンヒル原作の「忘れられた要素」ならびにピーター・ハワード作による「ボス」という二つの劇がしばしば上演された。
1951年には「忘れられた要素」が、一万田尚登、市村清、石坂泰三、星島二郎他10数名の有力者を世話人として、9月25〜27日に帝劇で上演された。
また「ボス」は1955年3月〜4月にかけて、第一生命ホール、丸の内ホールで、山際正道、石坂泰三、諸井貫一、道面豊信等の司会で上演され、
秩父宮妃、鳩山首相夫人ほか政府要人と共に日産自動車、日立造船等産業労働団体の人々が観賞した。
4月26日には、鳩山一郎首相の肝いりで首相官邸で上演され、30名余りの国会議員が観劇した。

首相官邸で「ボス」を鑑賞する鳩山一郎首相
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/06-012.HTM

1956年(昭和31年)4月26日、ブックマン博士が戦後初めて来日し、午後5時、羽田空港に到着した。
一万田大蔵大臣をはじめ各党の国会議員、組合指導者、日本青年団協議会幹部等、空港は多数の出迎えの人で賑わった。
「日本はアジアの灯台であり、発電所となる国」というのが、この人達に対する博士の最初のメッセージであった。
歓迎の様子はラジオ、テレビで全国に放送された。

戦後のブックマン博士の、日本への親身で、継続的な支援への感謝を込めて、鳩山一郎首相夫妻が天皇誕生日に博士を音羽の自宅に招いた他、
国会や東京都、日銀総裁公邸、滝田全労議長、柳沢錬三全造船石川島分会委員長その他組合関係者からも誠意のこもった歓迎が示され、
政府は勲二等旭日章を贈った。

ブックマン博士を自邸に迎える鳩山一郎首相
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/07-005U.HTM

ブックマン博士を囲む鈴木全電通委員長、滝田全労議長、藤山海員委員長、柳沢全造船石川島分会委員長
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/71-130.HTM

新木栄吉日銀総裁とブックマン博士
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/06/06C/1003.HTM

十河信二国鉄総裁、新木栄吉日銀総裁とブックマン博士
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/06/06C/1002.HTM

東芝・石坂泰三社長とブックマン博士
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/07-008D.HTM

5月2日、六日間の滞在が終わって博士一行は台北に向かい、蒋介石総統と会談した後、
フィリピンではマグサイサイ大統領、タイではピブン・ソンクラム首相、ベトナムではゴ・ディン・ディエム大統領等各国の首脳に会い、
南回りでヨーロッパに向かった。各国ともそれぞれ勲章を贈って博士の努力に報いた。


【アジアとの和解】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/07/0702.HTM

1955年(昭和30年)6月、音楽劇「消えゆく島」は日本での10日間の公演後、台湾を経由してフィリピンに向かった。
このとき国会議員星島二郎(自民党)、加藤勘十(社会党)、相馬雪香、中島勝治等4名の日本人がこれに同行してマニラを訪問することとなった。
当時のフィリピンでは戦争中の日本の残虐行為への激しい怒りが強く残っていて、
4名の入国もMRAを通じての政府要路への特別な折衝の結果、ようやく可能になったものであった。

「消えゆく島」の終演後星島は、戦後初めて壇上に日本人の姿を見て怒号する観客に向かって、相馬の通訳で真摯な謝罪の言葉を述べた。
それが契機となって、マグサイサイ大統領は日本人4名を含む一行を引見し、その後MRAを通しての対日接触を積極的に支援し、
1957年(昭和32年)の春、バギオで開催が計画されていたMRAの会議に、日本人の参加が特に容認されることとなった。
残念なことに大統領はこの集会の直前に航空機事故で急逝し、会議にはそのあとを受けて急遽就任したカルロス・ガルシア大統領が出席することとなった。

バギオでのMRA会議には大統領の他、
フィリピンからは、ロス・リム上院議員、労働組合関係の有力者バート・オカ、ファー・イースターン大学学長夫妻、その他多数が参加した他、
台湾からは、何応欽将軍、韓国からは朴賢淑国会議員(前厚生相)、 Chung Chun 国会議員,Yoon Sung Soon 国会外務委員長等、
また日本からは、星島二郎、加藤シヅエ※、相馬雪香、柳沢錬三ほか十数名が出席した。
日本人に対するフィリピン側の怒りと憎悪は引き続き根強く、会議は緊迫した雰囲気のものとなったが、
日本人グループの真摯な反省と謝罪によって閉会の頃には個人的にも、また集団的にも多少とも心が解れ、正直な対話が可能な雰囲気が生まれ始めた。

左から星島二郎議員、韓国代表朴賢淑議員(前厚相)、Yoon Sung Soon 外務委員長、加藤シヅエ議員
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/08-034U.HTM

右から台湾何応欽将軍、韓国 Chung Chun 国会議員、韓国 Yoon Sung Soon 外務委員長
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/08-008.HTM

日韓議員の交流(右から韓国 Chung Chun 国会議員、Yoon Sung Soon 外務委員長、星島議員)
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/08-021D.HTM

日本側にとって更に困難だったのは、36年の「日帝」による支配についての鮮明な記憶に加え、
戦後の南北分断と朝鮮戦争による苦痛を抱える韓国人グループとの対応だった。

彼らの態度は一様に硬く、当初はとりつく島のない雰囲気だった。
日本側もそれを予想して単なる個人的な謝罪に加えて、当時行き詰まっていた外交関係の面でも何らかの建設的発言をすべきだと考え、
出発前に岸首相並びに外交関係者との会合を持ち、その意を伝える形で、
当時交渉の癌となっていたいわゆる久保田発言の取り消しと、財産請求権放棄の正式な意思表示を行った。

その結果両国、特に女性の代表達の間に少しづつ個人的な信頼関係が芽生え始め、
そうした経緯が数年後に始まる日韓正常化交渉への布石の一つとなることとなった。

前述したように戦後の欧州では、ドイツとフランスなど旧敵国との間の関係改善が地域再建の前提となっており、
MRAも、コーのセンターを拠点に最大限の努力を傾け、
憎悪、怨恨、悔恨等の感情が渦巻く中で、ドイツ側の謝罪、フランス側の赦しや過去の憎しみへの反省等が生まれ、
ドイツ自体も戦後直ちに旧交戦国やイスラエルへの謝罪や贖罪を、国是ともいうべき政府の重要な政策として取り上げることとなった。

その結果、当初は個人ベースの現象だった和解が、やがて両国関係のスタンスの見直し、ついで政策的な対応に発展していった。
アデナウアー首相、シューマン外相など有力者のコー訪問もこれを促進し、両国を中心とする欧州鉄鋼石炭共同体機構など、
戦後の西欧の政治経済の骨格を作る動きに結実していった。

これとは対照的に日本の場合は、1950年の代表団が米欧各国で戦争に対する遺憾と謝罪の意を表明した事は事実であるが、
肝心のアジア各国の代表がその場に存在しなかったこともあり、
私的にも公的にも戦争中の不法行為に対する謝罪や、贖罪のための具体的な対応は起こらなかった。

その背景の一つとして、当時はタイを除く東南アジアの国々はまだ植民地体制に組み込まれており、国際的な認知を受けていなかったこと、
また中国は既に苛烈な国共内戦を闘っており、1951年以降は韓国も朝鮮戦争に巻き込まれてしまったことが挙げられよう。

その為、各国とも戦前の被害の賠償を求める余裕と機会がなく、また西側世界で行われる各種国際会議に招かれる事も少なかった。
結果として日本との過去の関係は、潜在的には双方とも意識していたが、公開の場で議論されることがないままで時が過ぎていった。
このことが日本人の意識の中で、アジアでの過去の行動への賠償責任という概念を風化させると共に、
問題をいっそう困難なものとしてしまったように思われる。

◇   ◇   ◇

※加藤シヅエ・・・・一度目の結婚で、三井財閥と繋がりを持っている。石本恵吉男爵との離婚後、加藤勘十と結婚。
現在、テレビなどでも活躍している加藤タキは実娘である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E3%82%B7%E3%83%85%E3%82%A8



【冷たい戦争とMRA】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/09/0902.HTM

1.青年団協議会代表100名の渡米

昭和30年代に入ると(1955年以降)、東西両陣営の間の緊張が増大し、海外のMRAは日本の将来をことの他憂慮するようになった。
事実国内では鳩山、石橋両内閣の退陣のあとを受けて岸内閣が成立し、
警職法、教員に対する勤務評定、更には日米安保条約改定など一連の政策課題を巡って国論の二極化が進み、
学生、労組、左派政党などが連携して全国的な運動を展開するなど、政治の緊迫化が進行し始めた。

こうした中でMRAは、国際共産主義陣営、特に中国が明確な戦略をもって日本の各界指導層に接近し、
その考え方に影響を与えようとしているという認識を持ち、
共産主義を越える、より優れた理念を普及させることでこれに対抗しなければならないと考えるようになった。

当時は米国国務省をはじめ自由主義陣営の側も各種の招待戦略を展開していたが、
MRAの視点から見ると、とかく官僚的、形式的で、所期の効果を上げていないように思われた。
そこで1957年(昭和32年)夏、
ブックマン博士は、日本青年団協議会の役員100名をマキノ島の世界大会に招待するという大型企画の実現に踏み切った。

マキノ島MRAセンター全景
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/09-021.HTM

その前年、周恩来首相が青年団協議会副会長の寒河江善秋氏を名指しで招き、心のこもった歓迎をしたという情報も、
こうした計画を始動する契機となったかもしれない。
青年団協議会が当時の日本にどれだけの影響力を持っているのかは正確にはわからなかったが、
ブックマン博士は速やかに行動を起こすべきであると考え、全国的な規模でMRAへの認知度を高めるとともに、
「草の根」の指導者を通してその理念を全国に普及する事を決意したと思われる。

とは言っても、当時の「財団法人MRAハウス」には100名の渡航に関する経費の負担能力はなく、
結局その大半がブックマン博士並びに周辺の心ある個人の浄財によって賄われる結果となった。

全国各都道府県の青年団協議会の支部からそれぞれ2名、本部役員を含めて100名を越える青年指導者が、
数ヶ月の予定で一斉に渡米するという企画は日本の耳目を驚かせ、地方のメディアを通してMRAの認知度は一挙に高まった。
しかし反面で、言語はもとより国際的経験を殆ど持たない地方の青年多数をマキノ島のセンターで受け入れるというのは、
通訳だけを考えても極めて労働集約的な企画であった。

食事やスポーツ、各種集会や行事を通じての世界各国の青年との交流、映画演劇の鑑賞、ミシガン州近郊の視察や観光などが主たる行事であり、
それがブックマン博士の意図と希望に見合うだけの効果を上げたかどうかはわからない。
しかし、これだけの数の地方の青年指導者に、海外の生活や考え方と直接触れ合う機会を与えたことはかなりのインパクトを持ったに違いない。

ブックマン博士を囲む日本青年団協議会役員
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/09-003.HTM

MRAの音楽や映画、演劇などに触発された青年の間で、MRAを普及する手段として日本でも演劇を作ろうという気運が起こり、
富山県の青年を中心として「明日への道」と題する4幕の劇が書かれ、演出され、マキノ島の劇場で上演された。
農村の生活、農業用水を巡っての村同士の熾烈な争いを背景として、
MRAの影響を受けた数名のボランティアの真摯な努力によって地域の平和と繁栄が保たれるというそのストーリーは極めて日本的で、
各国の人々に多大の感銘を与えた。帰国後は全国各地はもとよりフィリピンでも上演するなど成果を上げた。
因みにこれは日本人の手による初めてのMRAの演劇で、その後次々と書かれ、上演され、映画化された多くの作品の先駆を成すこととなった。

参加者リスト
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/71-134.PDF


2.西欧社会主義政党との接触

1959年(昭和34年)夏、
スイスのコーにおけるMRAの集会に参加していた加藤シヅエ参議院議員、塚本三郎衆議院議員をはじめとする社会党関係者のグループが、
デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、オランダ、フランス、英国を歴訪し、それぞれの国の社会主義政党の指導者多数と会見した。

当時の日本では、日米安全保障条約の改定を巡って左右の対立が激しさを増し、
反対する陣営は学生、婦人、労組等市民層を広く動員して、岸 信介政権の正当性に異議を唱え、自民党政策への反発を強めていた。
そうした中で革新陣営の側には、外部からの数の圧力に屈し、自らの良識に反して付和雷同するものが多く、
一方、体制側にも、種々の政治的思惑から結束を乱そうとする動きがあった。
状況が切迫し、暴力が支配しがちな場面では、本来なら通常の政争に過ぎないこうした動きも、何かのきっかけで全体の流れを、
予想もしなかった方向に変えてゆく危険を孕んでいた。

そうした中で、この年コーを訪問した社会党関係者たちは、この際西欧各国を訪問し、
それぞれの国で活動している社会主義者たちの見方、考え方を知りたいと考え、各地のMRAの支援を得て、8月31日にスイスを出発、
僅か二週間の間に、特別機などを利用して7カ国を回るというハードな日程をこなすこととなった。

ベルリン市長のウィリー・ブラント、フランス社会党の党首で元首相のギー・モレー、フィンランド社会党の父と言われるタンナー元総理など、
ヨーロッパでも一流の指導者を歴訪した結果は、非常に実り多いものとなった。
1958年、モレー元首相は、人民戦線の運動の高まりの中で、こうした形での政局への圧力は西欧における自由と民主主義の崩壊に繋がるとの確信から、
ドゴール政権支持に切り替えた経緯を語り、ブラント市長は、「ファッショであれ、共産主義であれ、ドイツにとって全体主義の経験は一度で沢山だ」と述べた。

加藤参議院議員は、この時の体験を読売新聞への寄稿の中で、「各国の社会主義指導者達は階級闘争は既に時代遅れであり、(中略)
原子時代の今日、階級闘争を押し進めることは核戦争への道であると考えている」と述べ、
我々社会主義者はより良い社会制度を作る為に闘わなければならないが、どんなに良い制度が出来ても、それを運営する人間を変えなければ、
結局は同じ搾取社会を作る結果になってしまうだろうと主張し、
結びとして、「資本家をも、共産主義者をも変えることが出来る大きい思想に生きること、それが真の社会主義者の使命だと私は信じている」と述べた。

僅か二週間の行程であったが、社会党関係者によるこの時の西欧行脚は、革新陣営一般の考え方に新しいアングルを齎し、
それが後の加藤書簡(後述)に繋がったと言う点で、その意義は非常に大きかったと言えよう。

3.三池争議とドイツ炭坑夫による劇「ホフヌング Hoffnung」(希望)の来日

日本における思想的対立の焦点のひとつが労使の対決であり、中でも長期に亘って熾烈を極めたのが三池炭坑の争議であった。
MRAはこうした状況に一石を投じたいという意図を持って、
ドイツ・ルール地方の炭坑夫のグループによる自作自演の劇「ホフヌング Hoffnung」(希望)を日本に派遣する事となった。
1960年(昭和35年)3月14日、一行は羽田空港に到着し、
5月4日、離日して米国に向かうまでの七週間、国鉄が提供した特別列車などを利用して東京から関西経由九州を訪問し、
帰途は反転して北海道まで行き、国鉄、警察、韓国居留民団、三池炭鉱労働者並びに大牟田市民、自衛隊などでの特別公演を含め、
前後42回の公演を行い、49000名が観劇した。

4月13日、一行は三池炭鉱の新旧労組が流血の衝突をしてから二週間も経っていない大牟田市に到着し、
鉢巻姿の旧組合員がピケを張り、新組合員が大声で市民に呼びかける中、午後は闘争中の労組員とその家族で満員の市民会館で上演し、
夜は市民一般を対象として再演、更に要望が強かった為、翌朝9時からは各坑からの労働者並びに経営者を前に3回目の公演を行った。
KBCテレビは劇自体と出演者の声を北九州全域100万の視聴者に向かって放映した。

石炭産業が石油への転換を迫られる中で、流血の惨事を伴いながら産業構造の整備再生に努力している最中に、
まったく同質の難問を抱えるドイツの石炭産業が、思い切った技術革新と労使協調により危機の打開に努めている現実を、
当面する労働者自身の口から聞くことの意義は大きく、
毎日新聞、西日本新聞、北海道新聞、時事新報、神戸新聞など各地のマスコミに取り上げられ、
左右両陣営の対立の焦点の一つとなっていた炭鉱問題に、多くの建設的な示唆を齎すこととなった。

4.日米安保条約改定への反対闘争を巡って

1960年(昭和35年)の春から夏にかけて、のちに「60年安保」と呼ばれた一連の抗争が激化する中で、
東京のMRAハウスは、複雑な対立に巻き込まれた多くの人々が、立場の違いを越えて本音で話をすることが出来る、
殆ど唯一の場所を提供するという不思議な運命を担うこととなった。

当時の世界を事実上分断していた米中ソ三国の力関係の現実から見れば、国内の思想的対立がどれほど激しかったにせよ、
それだけの理由で日本が米国の傘を離れて共産主義陣営に参加するという可能性は少なかったように思われる。
しかし、国会が連日赤旗を掲げたデモ隊に取り巻かれ、
院内でも議事や決議の多くが、対立する議員たちの暴力によって阻止・延期されるという状況を目の当たりにして、
終戦以来15年、曲がりなりにも機能してきた戦後日本の政治構造が今にも崩壊するのではないかという、いわば「一触即発」の危機を感じた人も多かった。

保守対革新の対立はもとより、同じ革新陣営に属する国会議員や労働組合指導者の間でも国の将来についての考え方が違い、
それぞれが外部で吹き荒れている大衆運動の圧力に巻き込まれ、通常の対話や冷静な議論が出来ない状態にあった。
そうした中で数多くの国会議員や組合指導者が、朝に夕にMRAハウスを訪れ、
胸襟を開いて事態を判断し、共通の目標のもとに当面の対策を考えようと努力する姿があった。
保守党の有力者と社会党の議員、西尾末広党首を含む民主社会党の有力者と労組指導者達などが、朝食や夕食の食卓を囲み、
連日真剣な討議が続けられた。

しかし、事態は日を追ってエスカレートし、アイゼンハワー大統領の訪日が直前になって中止され、
一人の女子学生がデモ隊と警官隊の衝突の中で死亡するなど深刻な様相を呈し始めると、
それまで静観してきた国民の間にも、異様な危機感が広がるようになった。
そして6月17日、朝日、読売、毎日の三大全国紙の朝刊に、
加藤シヅエ参議院議員が、自らの所属する社会党に宛てて書いた次のような公開書簡が掲載された。

「書簡全文」MRAニュース 昭和35年7月1日発行より
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/70-111.PDF

読売新聞 昭和35年6月17日号「この事態をどう思う」
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/P/70-112.PDF

反響は極めて大きく、全国の読者が、それぞれの立場を越えてその主張に賛同すると共に、加藤議員の並々ならぬ勇気に対する敬意と賞賛を表明した。
社会党は党の方針に反するこの主張に困惑し、懲罰動議なども検討されたが、日が経つに連れて世論の広がりに押され、
党の態度も微妙に変わり始めた。

客観情勢も変わり始めた。「60年安保」を支えてきた闘争のエネルギーにも金属疲労が見え始め、岸 信介首相の退陣がそれに拍車をかけた。
加藤書簡を契機の一つとして、長期の対立に倦み、変化を求めていた国民の間にも新しい意識が生まれ始めた。
そして、低姿勢と所得倍増を掲げる池田内閣の登場と共に、日本は闘争の季節を脱却し、高度成長という新しい局面に入ることとなった。


【全世界を席巻した劇「タイガー」】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/13/1302.HTM

1960年(昭和35年)7月、広島選出衆議院議員谷川和穂、参議院議員近藤鶴代、国労九州地評議長太田末男、都教組の前書記長神部英雄、
三井造船、東洋工業等の労組役員等総勢60名のグループが羽田空港を出発してスイスのコーに向かった。
その中に、後に劇「タイガー」の中核となる学生の一行の姿もあった。

「60年安保」を巡っての対立抗争が、岸 信介首相の退陣、池田勇人首相の就任を機に急速に沈静化し、
一種の空白状態に陥っていた日本も、脱イデオロギー的な高度成長に向かって、ようやくその一歩を進めようとしていた。
しかし、ほんの数週間前まで日本の政治情勢は、世界の注目の的になっていたので、到着した日本人は、それぞれの立場に応じて質問の的となった。
学生のグループは、実際の闘争に参加していたもの、いなかったものと多様だったが、「全学連」という名前が世界を揺るがしてきた事実を知るにつけて、
敗戦後15年、突然のように燃え上がったあの激動は何だったのかについて、改めて考え直す機会を持つこととなった。

その結果、コーの静謐な環境の中で、数名の学生が中心となって書き下ろし、専門家の支援も得て演出したのが劇「タイガー」であった。
当初はたまたまコーに集まっていた多くの国々の人々に、「60年安保」の背景を、劇の形で説明しようという程度の意識で、
自民党の国会議員や、全学連とは全く関係のない労組出身者なども参加し、マウンテン・ハウス内の舞台で上演したものであった。
ところがその結果は予想を遙かに上回る反響を巻き起こし8月にコーを出発、
二年後の昭和37年6月末に帰国するまでの間、ヨーロッパ、北米、南米、キプロス、インド、ベトナム、台湾など13カ国と、文字通り世界を席巻し、
推定観客数も2000万人に上るという、空前の大企画に発展することとなったのである。
参加者自身にも信じられなかったほどのこうした経緯とその詳細については、相馬不二子著「虎 世界をゆく」(文教書院刊)に詳しい。

アイゼンハワー前大統領を訪問 1961年3月
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/13-008.HTM



【MRAアジアセンターの竣工と開所式】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/01/0100.HTM

1960年(昭和35年)、アジアにおけるMRA活動の拠点としてセンターを建設することが関係者の間で合意され、その為の土地の選定が進められた。
富士山麓の朝霧高原等、幾つかの風光明媚の地が候補に挙がったが、アクセスの難しさや価格などの面で異論があり、決定には至らなかった。

そんな中、同年5月のある日、国会周辺が日米安保改定に反対するデモ隊に取り巻かれ、議員すらも中に入れない状態となった。
そこでセンター建設の熱心な推進者の一人だった千葉三郎議員から、このいわば予想外の臨時休業を利用して、
たまたま国鉄の十河総裁から紹介と推薦のあった小田原の閑院宮邸の土地を見学に行こうという提案があった。

早速数名の関係者が湘南電車を利用して(新幹線はまだ未開通)小田原に向かい、宮邸を訪れた。
一行が異口同音に感動したのは、相模湾から伊豆諸島、房総半島までを見渡す庭園からの風景であった。
しかも、十河総裁の強いリーダ−シップで着工した新幹線が二年後に開通の予定で、小田原の新駅の建設も始まるということで、
この土地を建設予定地とする案が俄に現実性を帯びることとなった。

閑院宮純仁親王にもお目にかかり、公的な利益に役に立つという条件で、土地の売却にもご異存がないことを確認し、
建設の計画が急速に推進されることとなった。

1961年(昭和36年)4月には工藤昭四郎都民銀行頭取を理事長として「MRAアジアセンター建設後援会」が組織され、
理事として十河信二国鉄総裁、千葉三郎自民党国会議員、山際正道日銀総裁、渋沢敬三元大蔵大臣、早川慎一鉄道弘済会会長らが名を連ねた。
約8000坪の土地は閑院宮から一億円で譲り受けることとなり、その代金は当面都民銀行からの借入金で賄うこととし、建設の計画が始動した。
基本設計はスイスのコーのセンターの整備にも関わったチャールス・ルドルフという建築家に依頼し、
顧問吉村順三氏のもとに、施工は清水建設を想定して準備が進められた。

小田原市もこの計画を全面的に支持し、ビルマの高僧、ウー・ナラダ師による地鎮祭をはじめ、建築中の多くの行事に鈴木市長自ら参加された他、
固定資産税の減免など、有形無形に多大の支援を与えられた。

1962年(昭和37年)1月、工事が着工され、約10ヶ月の突貫工事により、
同年10月、地下2階、地上5階、総面積7500平方メートルに及ぶセンターが完工した。
4億円に上る建築費と1億円の設備費を賄う為に各企業や団体、全国の多数の個人から心のこもった寄付が寄せられた。
一方諸外国からも金品の寄贈を受けた。

≪1962年10月22日、MRAアジアセンターが竣工し、池田首相をはじめ内外の有力指導者多数の参列を得て盛大な開所式が行われた。
池田勇人首相の臨席を得て行われた開所式には、韓国から金鐘泌中央情報部長※が特に来日した。

当時、日韓両国の間には国交がなく、
特に韓国では朴正熙将軍を中心とする革命政権が成立した直後であり、両国政府間の交流は中断に近い状況にあった。
そうした中で旧陸軍士官学校出身で、朴氏の片腕を勤める金鐘泌氏が、かねがね興味を寄せていたMRA運動への参加を理由として、
非公式に来日したことは極めて異例で、内外の注目を集めた。
金氏は小田原の行事が終わった後、数日間東京に滞在し、関係者と接触したが、その結果がやがて「金・大平メモ」として結実し、
三年後に実現する日韓正常化への布石となっていった。≫

開所式には金氏の他、各国の要人多数が参加され、台湾の蒋介石総統は何応欽将軍に託して自筆の書を寄贈され、
ベトナムのゴ・ディン・ディエム大統領からは漆塗りの美しいキャビネットを贈られた。
終戦後17年、高度成長が本格化する前にこのような計画の実現が可能となったのは、戦後世界の再建に関わる国際MRA運動の、
日本に対する物心両面での広範な貢献と、それに感動した数多くの人々の積極的な協力と支援によるものであった。

清水建設と打ち合わせる吉村順三氏(右)
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/01-027.HTM

MRAハウスにてセンターの建設と第1回小田原世界大会の打ち合わせをする佐藤栄作(右から二人目)他
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/01-007.HTM

岸 信介前首相
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/U1-008.HTM

吉田 茂元首相、左は山際日銀総裁、右端は近藤鶴代議員
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/01-028.HTM

河野一郎議員
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/01-075.HTM

内山神奈川県知事(右)
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/01-092.HTM

金鐘泌 韓国中央情報部長
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/H/01-208.HTM

岸 信介前首相と金鐘泌韓国中央情報部長
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/01/01I/1010.HTM

千葉三郎議員、オランダのフィリップス社社長
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/01/01I/1002.HTM

金鐘泌韓国中央情報部長を迎える千葉三郎議員
http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/01/01I/1011.HTM

◇   ◇   ◇


※KCIA(大韓民国中央情報部)

「米国支配階級の犬は、日本だけでなく、戦後の韓国にもいました。CIAは、ソウルにKCIAという下請け諜報機関を作りました。
CIAというのは、そもそもウオール街のユダヤ人資本家の利益を図るためのユダヤ機関であり、ロックフェラー財閥の私兵集団から発展したものです。
大ブッシュもまた、このロックフェラー家に出入りするチンピラ仲間の一人であったわけで、
後に、ユダヤの天敵、JFKの暗殺事件で功績を挙げてユダヤ財閥の信任を得、ユダヤの後押しで、CIA長官、大統領まで上り詰めたのです。

ウオール街のユダヤ権力に直結した傀儡組織であるKCIAは、
当時、力をつけつつあったカルト宗教、統一教会に目をつけ、KCIAの別働隊として組織に取り込んだのです。
統一教会の教祖、文鮮明は「北朝鮮で宗教弾圧を受け、刑務所から命からがら韓国に逃げてきた。」との触れ込みで、
韓国で布教活動をしていましたが、勿論真っ赤な嘘です。文は、性犯罪で収監されていたのですから。
KCIAは、文の宗教に要員を側近として送り込み、「反共団体」として育てました。

今の日本の右翼団体の中核である勝共連合なる組織が、文の宗教の作った反共団体の成れの果てということです。
文鮮明さんは、韓国の政界を金で支配し、複数の大統領候補を資金援助しました。
親北政策を取り、北朝鮮を秘密援助した金大中元大統領もまた、文の飼犬の一人でした。
韓国では、ウオール街のユダヤ人は、文鮮明の宗教を通じて間接支配制を敷いたのです。
さて、晋サマ(安倍晋三)のお爺様たちも文鮮明さんも、ウオール街のユダヤ人の犬という点では共通です。犬同士で連携して当たり前ですね」

by richardkoshimizu
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/sin_sama.htm

統一教会とユダヤ人と北朝鮮 by richardkoshimizu
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/tyk.htm

KCIA―統一教会―清和会―勝共連合―中曽根康弘---繋がり---MRA―松下政経塾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%99%AE%E7%85%95

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E7%B5%B1%E4%B8%80%E7%A5%9E%E9%9C%8A%E5%8D%94%E4%BC%9A



【「国際MRA日本協会」を発足】

http://homepage3.nifty.com/mra/history.html

1973年(昭和48年)、
インドMRAアジアセンターを開設。
MRAの平和使節「アジアの歌声 Song of Asia」に日本の青年10名を含むアジアの青年80名が加わりアジア、ヨーロッパ、カナダ等を4年間巡演した。

1975年(昭和50年)6月28日、
「国際MRA日本協会」を発足、土光敏夫が会長に就任した。

1977年(昭和52年)、
相互理解と信頼醸成を目的に「国際会議」を開催。以来、毎年日本の各地で開催され、これまでに約30カ国より200名近くが来日している。

会議での率直な話し合いを始め、工場訪問や家庭滞在などを通し、草の根レベルでの交流が行われている。
1.世界の実情を理解すること、及び平和を築く為の、一人一人の役割を探ることを目的とした講演会や研究会などの各種会合を開催。
2.スイス・コーへの世界大会(毎年7月〜8月)の他、オーストラリア、アメリカ、インド等各国で開催される国際会議に代表を送る。国際理解と友好を深めている。
3.インド、オーストラリア、スイス、イギリスなどのトレーニングコースに青年男女を送り、MRA留学生として道義的なバックボーンを備えた国際人の養成にあたる。

現在までに既に30名を越える青年がトレーニングを受けている。
その他にも、活動難民救援活動や在日留学生との交流、そして各種社会教育活動を実施。

1984年(昭和59年)8月1日、
文部省認可のもと、「国際MRA日本協会」は、社団法人として活動を始める。

1986年(昭和61年)、
第1回日米欧経済人円卓会議(CRT)をコーで開催。
日本からは、山下俊彦松下電器相談役、賀来龍三郎キャノン※社長、中島正樹三菱総研相談役、小笠原敏晶ジャパンタイムズ会長、
金森茂一郎近畿日本鉄道副社長他が参加。以後、毎年二回開催。


※あまりにも間が悪い? キャノンが“天下り”研究所に10億円(Business Media 誠)
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-1452.html

※福井俊彦・キャノングローバル戦略研究所理事長(前日本銀行総裁)「アジア最適通貨圏の形成で日本は先導役を演ずべき」
http://www.toyokeizai.net/business/interview/detail/AC/d40e06431b2f9ba1e3af4e863ac598a7/

1987年(昭和62年)、
フレドリック・フィリップス氏(元フィリップス社会長)、オリビエ・ジスカールデスタン氏(ヨーロッパ経営大学院副理事長、フランス)、
オーエン・バトラー氏(プロクター・アンド・ギャンブル社前会長)他、欧米の財界人を招聘し、日本の実情に理解を深めてもらう為、
通産省、経団連、日経連等の幹部等との意見交換をすると共に、日米欧財界人円卓会議参加者との会議を開催。

1988年(昭和63年)、
「良心に支配された世界の創造」のテーマのもと開催された韓国MRA国際会議に、日本代表26名が参加(9ケ国から62名の海外代表が参加)。
金永植文部長官、金在淳国会議長をはじめ、政財界、教育界、更に学生など、延べ1000人以上の韓国側の参加者と交流。

1990年(平成2年)、
コー円卓会議東京プログラム開催。経済広報センターとの共催で、
オランダのフレドリック・フィリップス氏(元フィリップス社会長)、オリビエ・ジスカールデスタン氏(ヨーロッパ経営大学院副理事長)等を迎え、
「日米欧は自らの改革をどう進めるか」のテーマで国際シンポジウムを開催。

1991年(平成3年)、
アジアの精神的指導者であるハイメ・シン マニラ大司教(フィリピン、キリスト教)、
イナムラ・カーン世界イスラム協議会事務総長(パキスタン、イスラム教)、ラジモハン・ガンジー上院議員(インド、ヒンズー教)を迎えて、
「平和と新秩序、アジアの貢献」をテーマにMRA国際シンポジウムを開催。ダライ・ラマ14世(チベット、仏教)もビデオで参加。

1993年(平成5年)、
経済広報センターとの共催で、オリビエ・ジスカールデスタン氏(ヨーロッパ経営大学院副理事長)、
チャールズ・デニー氏(ADCテレコム会長、アメリカ)等を迎えて、「真の共生を目指す日米欧の協調と改革」のテーマで国際シンポジウムを開催。

中国広東省・朱森林省長の招きによるコー円卓会議の華南(中国)訪問に、
賀来龍三郎キャノン会長他、日本人12名、欧米人25名が参加し、諸問題の解決や社会の基盤となるモラルの確立の為の方策について意見交換。


【建物の改修と「IC(MRA)アジアセンターODAWARA」の発足】

http://www.mra-reunion.com/MRA40/HTML1/27/2700.HTM

1993年(平成5年)、MRAアジアセンターは、1962年(昭和37年)開所後30年を経て設備の老朽化が目立ってきたこともあり、
10億円近くを投資して建物のリニューアルを行った。
宿泊室の全面的な改修、「カフェ・アルカンタラ」「あけぼの」等の新設、事務所、調理施設等の改装など広範な工事を行い、
名称も「アジアセンターODAWARA」と改められた。

同年4月、小沢市長他の臨席を得て式典を行い、地域のゲストハウス兼セミナーセンターとして再開した。
同年7月には、工事の完了を記念して「地域がつなぐアジアと日本」と題して大型の国際シンポジウムを開催し、
各種NGOや国際支援活動の現状と将来の方向について、海外及び各方面から36名に上る参加者を得て活発な討議を行った。


【社団法人「国際MRA日本協会」から社団法人「国際IC日本協会」へと改称し、現在に至る】

http://homepage3.nifty.com/mra/history.html

1994年(平成6年)、
総合研究開発機構(NIRA)、アジアセンターODAWARAと共に、「平和の受益者から平和の創造者へ」のテーマで小田原国際ダイアローグを開催。
パネリストとして、サム・レンシー氏(大蔵経済大臣、カンボジア)、劉仁州氏(全国選挙浄化推進委員会委員長、台湾)、
青木一能氏(日本大学国際関係学部教授)、渋沢雅英氏(アジアセンターODAWARA代表)等を迎える。

尾崎行雄記念財団、日本の政治改革を考える会と共に、「日本の改革、政治浄化と国民の責任」のテーマで東京国際ダイアローグを開催。
パネリストとしてサム・レンシー氏(大蔵経済大臣、カンボジア)、劉仁州氏(全国選挙浄化推進委員会委員長、台湾)、
賀来龍三郎氏(キャノン会長)、加藤シヅエ氏(元国会議員)、≪福岡政行氏(白鴎大学教授)≫等を迎える。

コー円卓会議「企業の行動指針」を発行する。

1995年(平成7年)、
国連大学、尾崎行雄記念財団と共に、「和解と共生への課題」のテーマで東京国際ダイアローグを開催。
パネリストとして、D ・ジョンストン氏(戦略国際問題研究所副所長、アメリカ)、アレック・スミス氏(元「良心の内閣」メンバー)、
レニ−・パン氏(カンボジア子供教育基金代表)、城山英明東京大学教授等を迎える。

1996年(平成8年)、
経済広報センター、尾崎行雄記念財団と共に、「和解と共生への課題」のテーマで東京国際ダイアローグ’96を開催。
マーティン・ウィバーズ氏他による基調講演を行ったのをはじめ、≪羽田 孜氏(元首相、衆議院議員)、鳩山由紀夫氏(衆議院議員)≫ 、
武者小路公秀氏(明治学院大学教授)、市岡揚一郎氏(日本経済新聞取締役論説委員)等をパネリストとして迎える。

1997年(平成9年)、
第7回MRAアジア・大平洋青年会議を「ダイアローグで築く融和の21世紀」のテーマのもと、日本で開催。
オーストラリア、インド、フィリピンを始め、9ケ国から36名の青年が来日。

1998年(平成10年)、
MRA発足60周年を記念して「明日のために、今・・・」のテーマでパネル・ディスカッションを開催。
パネリストとして、≪羽田 孜氏(元首相、衆議院議員)≫、金森茂一郎氏(近畿日本鉄道株式会社会長)、
佐谷隆一氏(全東芝労働組合連合会議長)等を迎える。

1999年(平成11年)、
第22回MRA国際会議を、「より良い21世紀のためにー皆で築こう世界家族」のテーマで開催。
オーストラリア、韓国、台湾からの8名の海外代表の他日本在住の外国人も参加した。

2000年(平成12年)、
第23回MRA国際会議を、「21世紀への希望の種をまくために」のテーマで開催。
イギリス、韓国、台湾からの6名の海外代表を始め、駐日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使等、日本在住の外国人も参加した。

2001年(平成13年)、
第24回MRA国際会議を、「グローバル化する世界と私たちの責任〜21世紀の目的と価値を探る〜」のテーマで開催。
オーストラリア、インド、スリランカ、マレーシア、フィリピン、韓国、台湾から14名の海外代表が参加。

CRT(コー円卓会議)部会により経団連等の後援を得た、「企業評価の新しい基準〜ステークホルダーと資本市場が決める新しい格付け基準〜」
というテーマの講演会が経団連会館等で3回にわたり開催された。

2002年(平成14年)、
第25回IC(MRA)国際会議を、「21世紀を対話と和解の世紀にするために〜一人ひとりが変化をもたらすイニシエーターとなろう〜」のテーマで開催。
南アメリカ、ノルウエー、モルドバ、レバノン、オーストラリア、ニユージーランド、スリランカ、韓国、台湾からの14名の海外代表に加え、
ケニア、セネガル、ブラジル等からの留学生を始めとする計20ヶ国からの参加者があった。
また、「相互理解と和解のための日韓の対話」のテーマで、
朴清秀女史(圓仏教江南支部責任者)、恵子・ホームズ氏(アガペ代表)、谷川和穂氏(衆議院議員)をパネリストにパネルデイスカッションが開かれた。

東京においても、「21世紀を対話と和解の世紀にするために〜一人ひとりが変化をもたらすイニシエーターとなろう〜」という同一テーマで、
トルコのセリム・ユジェル・ギュレチ氏(東京ジャーミー・文化センター副代表)、≪羽田 孜氏(元首相、衆議院議員)≫、
木内 孝氏(三菱電機顧問、フューチャー500会長)、杉谷義純氏(WCRP事務総長、天台宗元宗務総長)、
保岡孝顕氏(上智大学社会正義研究所、国際カトリックプレス日本支部代表)をパネリストとした、シンポジウムが、
加藤タキ氏(加藤勘十と加藤シヅエ夫婦の娘で、タキ・オフイス代表。ミヤネ屋のパネリストでもある)コーディネートの下に開催された。

2003年(平成15年)、
2001年に名称を世界的にMRA(Moral Re-Armament活動)からイニシアティブス・オブ・チェンジ(IC)に変更したのに伴い、
日本でも2003年6月に社団法人「国際MRA日本協会」から社団法人「国際IC日本協会」に、その名称を変更した。

現在、「国際IC日本協会」の名誉会長は、元・富士銀行頭取、現・国際基督教大学理事長の橋本 徹氏。

◇   ◇   ◇


国際IC日本協会 -- Initiatives of Change -- Japan
http://homepage3.nifty.com/mra/

役員一覧 (平成22年1月〜) 社団法人 国際IC日本協会
http://www.jp.iofc.org/director

国際基督教大学(ICU)・・・・「国際IC日本協会」の名誉会長である橋本 徹が同大学の理事長

「キリスト教長老派によって創設されており、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。
1949年、御殿場にあるYMCA東山荘で催された日米のキリスト教指導者による会議において、国際基督教大学の創設が正式に決定された。
高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登も設立の為の募金運動に奔走した。
また、GHQ最高司令官・マッカーサーは、第二次世界大戦後の日本を取り巻く政治的・戦略的観点から国際基督教大学の設置に好意的であり、
成立過程に積極的に加わっていた。そして1953年、初代学長に湯浅八郎を迎えて開学に至った。

ICUのキャンパスは中島飛行機三鷹研究所跡地を用いている。大学の本館は同研究所の本館を改装したものである。
内装も一部に残されており、その格調の高さと歴史的価値で知られる。
チャペル前のロータリーも研究所の遺構である。また隣接する富士重工業三鷹製作所も同研究所の跡地を構成していた」

ICU 国際基督教大学 ICUについて 組織 理事会名簿
http://www.icu.ac.jp/info/organization/list.html

→また、国際基督教大学の人物一覧には、ジョン・ロックフェラー4世(三年間留学)の名前もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7

2010コー世界大会  社団法人 国際IC日本協会
http://www.jp.iofc.org/node/63

藤田幸久|プロフィール|

「1996年、CSIS(米戦略国際問題研究所)、NIRA(総合研究開発機構)、MRA(現在のIC)共催の国際シンポジウムである、
「和解への課題」(スイス・コー)を主宰。
ソマルガ国際赤十字総裁、アヤラ・ラソ国連人権弁務官、ソマリヤやレバノンの紛争当事者の他、
日本から鳩山由紀夫衆議院議員、羽田 孜元首相、狩野安参議院議員他が出席。1997年からは、政治家円卓会議コーディネーターとして活動している」

http://www2.y-fujita.com/cgi-bin/profile/profile2.php

藤田幸久ブログ - スイスの「人間の安全保障」会議に出席中
http://www.election.ne.jp/53/60579.html

MRA―藤田幸久--?--鳩山由紀夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B9%B8%E4%B9%85

MRA(道徳再武装)と鳩山由紀夫・羽田 孜 陰謀ファイル666
http://inbo666.blog113.fc2.com/blog-entry-4.html

藤田幸久 9.11陰謀論 - Skeptic's Wiki
http://sp-file.qee.jp/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%C6%A3%C5%C4%B9%AC%B5%D7%A1%A1%A1%CA911%B1%A2%CB%C5%CF%C0%A1%CB

霊人のひとり言 メディアは藤田幸久議員の9.11疑惑質疑を報じない!
http://reijin32yoshi.blogzine.jp/shinsey/2008/01/post_6806.html

啓明学園※ 初等学校 - 初等学校だより 「国際IC(MRA)日本協会」の方が来校
http://www.keimei.ac.jp/primary/modules/blog/index.php?p=463

→※この啓明学園という東京都昭島市に本部を置く学校法人は、MRAと関係の深い三井財閥が代々運営しているものであり、
有名な在校生・卒業生としては、オノ・ヨーコ、堂本暁子・元千葉県知事、押尾 学(中退)などがいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%B3%95%E4%BA%BA%E5%95%93%E6%98%8E%E5%AD%A6%E5%9C%92

「略〜 アーミテージと歓談したのは、中川秀直の他、小林 温(自民党参院議員、経歴を見ると典型的なアメリカの受け皿要員)、
樽床伸二(民主党・松下政経塾出身)である。この松下上がりの国会議員は要注意である。
日本では、稲盛和夫(京セラ会長)がCSIS(戦略国際問題研究所)と共同で、稲盛−アブシャイア財団というシンクタンクを作っており、
これが日本の親米政治家を育成する機関になっているだろう。
更に、稲盛氏は「日本政策フロンティア」というシンクタンクにも関わっており、これもそういう類の受け皿であろう。
元々一目瞭然なのだが、稲盛氏は松下電器の松下幸之助のエピゴーネンのような人物である。この背後には中村天風氏の思想があるらしい。

松下氏のPHP運動(PHP研究所)も、元々反共労組を松下内で作る為に、松下氏がMRA運動(道徳再武装運動)をモデルにしたらしい。
経営者の美談の後ろには、こういうきな臭い真実が隠されているのである」 注.アルルの男・ヒロシ=中田安彦さん

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160803.htm

(あまり、関係がないが)羽田 孜ウェブサイト - わたしと小沢一郎 文芸春秋『諸君!』より
http://www.t-hata.com/opinion/syokun.html

「略〜 対する民主党も、鳩山由紀夫氏は言うまでもなく、党首争いをしている岡田氏のイオンがMRA(現IC)の協賛法人だったりと、
自民党や民主党などの保守政治家とどこまでも縁が深いことがわかります。
小沢一郎氏が首相争いから脱落したのは、もしかしたらMRAに所属していない小沢氏が財界の支持を得られなかったから・・・・、
ということは考えられないでしょうか?」
http://rockonjo.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-5827.html

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コメント
 
01. 2010年2月11日 07:23:29
これは興味深いね
「ザイン」などのことをみると
結局世界はJFK暗殺のころと変わってないんですね
映画でのフェリーやクレイ・ショーを連想させます

脱却できないものか


02. 2010年2月11日 11:57:57
幸之助氏は生前 松下政経塾は失敗だったと述懐されていた様です

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