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≪Parag Khanna著『「三つの帝国」の時代』からの抜粋&ケ小平と「先富論」について≫
http://www.asyura2.com/10/senkyo86/msg/619.html
投稿者 Roentgenium 日時 2010 年 5 月 19 日 03:39:07: qfdbU4Y/ODJJ.
 


≪Parag Khanna著『「三つの帝国」の時代』からの抜粋&ケ小平と「先富論」について≫


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(まえがき)

Roentgenium:今回は、“世界の中の中国”について資料を纏めて見ました。世界全体をそれぞれ俯瞰することで、ここでは中国を見ることで、日本の売国奴たちが恐れている“世界の中の米国”の現実的な姿が見えるということもあるだろうし、
“世界の中の中国”と“世界の中の米国”について知ることで、“世界の中の日本”がどういう国なのか、その良い面と悪い面を両方再確認するきっかけにもなるはずです。
物の実際の“価値”など、これまでの常識が、結果として、中国の台頭によってこれから大きく変わる可能性も秘めているのではないかと感じます。それが破滅への序章となるのか、進化への兆しとなのかはまだわかりませんが、単なるパワーバランスの変化だけではないような気がしています。

この本を最初に書店で購入した際にも、このように俯瞰的な観点から中国と米国に挟まれた日本の立ち位置を見定めたかったからに他なりません。
日本の売国“談合”マスゴミが騙ること、誘導する為に色づけされた報道ではまったく信用が出来ず、それに従ってしまうと俯瞰して世界と日本の関係性を観ることが出来ないので。

今回は主に、パラグ・カンナ氏の(論文を纏めた)著作『「三つの帝国」の時代―アメリカ・EU・中国のどこが世界を制覇するか』講談社2009年刊(全423頁)から“世界の中の中国”に関して論考している部分を抽出しています。
ほんの一部分のみですが、それでも随所にはっと気付かされる部分があるのではないかと思いますし、副島隆彦氏も推薦文を寄せている作家なので、是非一読をお薦めしたいと思います。

また、今回は間に合いませんでしたが、後日、ランス・モロー氏の著作(『悪の謎に挑む』法政大学出版局 全332頁)からも、
おそらくこれも、善悪についての捉え方がメディアの刷り込みによるものでないかどうかについて考えるのに有効だろうと思えるので、それに該当する箇所を資料として抜粋しようと思っています。


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≪Parag Khanna(著),玉置 悟(訳)『「三つの帝国」の時代―アメリカ・EU・中国のどこが世界を制覇するか』講談社2009年刊 より抜粋転載≫

http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E4%B8%89%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E2%80%95%E2%80%95%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%BBEU%E3%83%BB%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E5%88%B6%E8%A6%87%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B-%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8A/dp/4062152010

著者Parag Khanna(パラグ・カンナ)について、資料・・・・
http://www.grips.ac.jp/forum/USA/No.7.htm


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(P.26〜29「序章 三つの“帝国”の関係」)

■地政学(ジオポリティックス)とは何か

ルイス・キャロルは「後ろしか向かないというのは記憶の哀れな性(さが)だ」と書いたが、地政学は歴史と異なり、明快に、前を見ることを目的として後ろを向く純粋な科学だ。
国際関係論を「時事の天気予報のようなもの」に例えるなら、地政学は「気候風土学のようなもの」であり、天気と違って地政学的な要因が一晩で変わることはない。

本論に入る前に、ここで地政学がどのようにして生まれ、発達してきたかを極簡単に辿っておこう。

20世紀のはじめに、ドイツのフリードリッヒ・ラッツェルという政治地理学者が、「帝国は生き延びる為に膨張を続けなくてはならない」という理論を唱えた。
ちょうろ輪ゴムを伸ばして輪を大きくしていくように、帝国は境界を広げながら、その地域内の事実を変えつつ国家を確立してゆく。
そして境界の輪ゴムが切れない限り遠くまで、領土となった地域の支配を広めてゆく。

“地政学”という言葉は、ラッツェルの教え子だったスウェーデンのルドルフ・チェレンという人が作った造語だ。
だが、ナチスの将校だったカール・ハウスホーファーという地理学者が、「ドイツはドイツ民族のみによる単一人種の生存権を必要とする」という自国の膨張理論を使った為、地政学のイメージが悪くなった。
ハウスホーファーによる純粋な学問からのこのような逸脱が、その後十年にわたって地政学の純粋さを汚すことになったといえる。

一方、イギリスの有名な地理学者ハルフォード・マッキンダー卿は、ユーラシア大陸に台頭する強国が世界を支配するようになることを心配し、大陸の勢力からイギリスを守ることに心を砕いた。
ユーラシア大陸の内陸部は海から到達することが出来ない為、当時世界最強のイギリス海軍でも攻略出来ない。
そこでマッキンダーはこの地域を地球上で最強の天然の砦であると考え、“ハートランド”と呼んだ。
しかし、アメリカ海軍の戦略家アルフレッド・マハンは、海軍力こそ世界支配のカギであると主張し、「海の帝国こそ、間違いなく世界の帝国である」という言葉を残した。

その少し後、フランスのフェルナン・ブローデルという学者が「歴史を見るには、長い年月の間に起きたことを大きく眺めることのほうが、個々の出来事を細かく分析するより重要である」という歴史研究のアプローチ法を唱えた。
それ以来、地政学は海と陸の両面から考える総合的なものに進化してゆき、世界中の出来事を長期的な時間の流れの中で捉える戦略研究に用いられるようになった。


■地政学的要因とグローバリゼーションの関係

過去の歴史を見ると、地政学的な要因が衝突した後にはきまって壊滅的な大戦争が起きている。
世界支配の序列を決める大戦争はおよそ100年に一度の割合で続き、最近の例はナポレオン戦争(1803〜1814年)と第一次、第二次の世界大戦(1914〜1945年)だ。

今からほぼ100年近く前に起きた第一次世界大戦は、歴史、文化、地理的空間、政治機構など共通点をたくさん持っていたヨーロッパの強国の間で、
それらの共通点があるにもかかわらず誤った推測とほんの些細な誤解がきっかけで起きた。
だが今日のアメリカとEUと中国は、そういった共通点を殆ど持っていない。中国など民主主義国ですらない。このように決定的に異なる現代の帝国の間で、第三次世界大戦の発生を防ぐ方法はあるのだろうか。

実は、世界戦争の歴史的な繰り返しを止めることが出来るかもしれない力が、最近一つだけ浮上してきた。それがグローバリゼーションの力だ。
今やグローバリゼーションは、地政学と同じように世界のシステムとなり、どのような超大国もこの新しいグローバリゼーションを単独でコントロールすることは出来なくなっている。
それが止まる時は、地球上のすべてが止まる時だ。
昼も夜も貨物船や石油タンカーが海を行き交い、何十万人もの人々がそれまで行ったことのない土地に飛行機で運ばれ、金融市場は世界中に資本を動かしている。
その一方で、各地の内戦は燃えさかり、テロ攻撃が起き、核を搭載した兵器が世界中に配備されている。
そしてたくさんの評論家や専門家が、グローバリゼーションは美徳だとか、地政学は邪悪だとか過大に強調している。
実際、この二つは正反対の概念でもあり、グローバリゼーションが地政学の対極として扱われること自体、ある種の進化の現れなのだ。

“グローバリゼーション”という言葉が使われるようになったのは最近だが、この出来事そのものは今に始まったことではなく、昔から歴史を通じて盛んになったり衰えたりを繰り返してきた。
だが、それが今ほど広く大規模に行われるようになったことはない。1990年代にはいわゆる“反グローバリゼーション運動”が起きたが、今ではすっかり消えてしまった。
そのかわりに登場したのが、「いかにして“人間的なグローバリゼーション”を達成するか」という真剣な討論だ。

今やグローバリゼーションは、どのような社会にとっても、生き残り進歩する為に欠かせないものとなっている。
デモ隊がWTOサミットに押し寄せて、既存のルールを廃止せよと叫んでいた時も、彼らがその声を代弁していると主張していた砂糖や綿花を栽培する貧しい小作農家は、生活の為にいつものように仕事をつづけていなければならなかった。
2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロでさえ、グローバリゼーションを推進する貿易自由化やコミュニケーション技術の爆発的発展を止めることはなかった。

経済が発展するには国家間の相互依存が必要になり、相互依存が進めば国家間の緊張を緩めて争いを武力によらない競争に変えることも可能になる。
実際、世界経済が一つだけのエンジンで動くことはなく、三つノー帝国の経済はお互いに深く絡み合っている為、衝突した場合に支払わなければならない代償は非常に大きなものになる。
三つの帝国はみな貿易帝国でもあり、世界中の物資供給を支配する巨大な国際企業は、しばしば他の帝国の勢力範囲にオペレーションセンターを持っている。
つまり、それらの企業が繁栄するかどうかは、他の帝国の弱さではなく、強さにかかっている。
こうして今や三つの帝国は、まるで体がつながった三つ子のようになっており、どの動脈が切れても3者がみなダメージを受ける。
このような形でグローバル化したつながりのみが、この小さな地球の上で帝国同士が軍事的に対決するような、かつての地政学的な対立の再来を防ぐことが出来る可能性がある。


(P.30〜33「序章 三つの“帝国”の関係」)

■人間を動かす「恐れ」と「強欲」

とはいえ、グローバリゼーションの力だけで、地政学的な衝突の歴史が繰り返される危険を防ぐことは勿論出来ない。
歴史的にグローバリゼーションは、帝国が自分の体制とルールを他国に押し付けたり引っ込めたりする度に、つまり帝国のエゴによって発展や交代を繰り返してきた。
古代ギリシャが勢力を拡大出来たのは、自分が持っていない資源を通商で得ることによって築いた富で大きな兵力を維持し、また他国の指導者を買収して、自国の排他的貿易圏を守ることが出来たからだった。
近世以降に起きたグローバリゼーションの波もみな完全に重商主義的であり、ヨーロッパの強国が他の国の天然資源や人的資源を支配しようとする過程で起きている。
将来たとえ世界が一つにまとまろうとも、衝突を引き起こす原因となる「経済的・政治的な支配の序列」と「それによって支配される側が抱く不公平感や不当感」を消し去ることはないだろう。
何故なら、人間は「恐れ」と「強欲」という二つの力によって突き動かされているからだ。

このようにグローバリゼーションを推進する帝国は両刃の剣である。帝国は平和と繁栄を齎す力になることも出来るが、もし他の帝国の領域に侵入出来る機会があれば、帝国がそれを放っておくことはまずない。
そしてグローバリゼーションの発達は、かつてないほどそれを容易にした。世界が小さくなった分だけ、より熾烈な競争の時代が到来することを予告している。
昔の植民地は武力で他民族を征服して作られたが、今日では、国はカネで買われる。
一時、“グローバリゼーション”という言葉を“アメリカナイズ”と同義に考える人たちがいたが、事実は逆で、むしろグローバリゼーションが「アメリカの力による平和」を終焉に向けて劇的に加速している。


■国もまた人間

トインビーは、「国家も個人と同じように、それぞれみな特徴のある性格を持っている」と書いているが、実際、信頼やリスペクト、強欲、復讐心など、あらゆる人間的な感情は国際政治でも交錯する。

(中略)

国家の心理が個人の心理と類似している例はいくらでも挙げることが出来る。軍拡競争は、対抗するギャンググループが、構想で相手より大きな武器を持とうとするのと何ら変わるところはない。
一国のアイデンティティーを形作る歴史は、一家の歴史や家族の写真アルバムと同じように、世代から世代へと伝えられてゆく。
そして最も重要なことは、人も国も、アブラハム・マズローの唱えた“ニーズのピラミッド”に従うということだ。つまり、人間の最も基本的なニーズとは、飢えやのどの渇きを満たすことだが、それと同じように、国にもまず財政上のニーズがある。そしてその次に、人間なら雨風や暑さを防ぐ為の住居や、暮らしの安定へのニーズがあるが、国にとってそれにあたるのが安全保障だ。
そして最後のニーズは、個人なら所属意識、愛情、他人からのリスペクトや承認などだが、国にとっては「自国の存在感を持つこと」がそれに相当する。
「民主的な国家運営」はこの最後の段階で、「生きる為に食べる」という最も基本的なニーズが満たされ、次の経済的なニーズが何とかなってはじめて、人は民主的な政治に積極的に参加出来るようになる。
純粋に完全な民主主義というものは、例えて言えばオートクチュールのようなものだ。人はそれに憧れるが、日々の生活に使えるほど実用的ではない。

世界の人々の最も抗しがたい理念は、実は民主主義でもなければ資本主義でもなく、その他のどのような“○○主義”でもない。それは“成功すること”だ。
すべての社会が求めているのは、1759年にアダム・スミスが著書『道徳情操論』で喝破したように、「自分たちの状態を、現在より良くすること」なのだ。
つまり、「最高のものは無理でも、達成し得る次にベストなものは、またはステータスは何か?」ということだ。
イラクで2005年に行った世論調査で、今望むものは何かと聞かれた多くのイラク人が「ただ“ノーマルな”国がほしい」と答えている。

今日、何をもって“成功”と呼ぶかについては、国や人によって様々に異なり、答えはいくらでもある。そして世界権力が地政学的な世界市場にある今、小さな国々は様々な方法によって、自分たちの望むものを手に入れようとする。
人と同じで、国家にも頭や心が機能するには大抵まず胃が満たされる必要がある。そこで第二世界の国はそれぞれの外交手段を通じて、自分たちが必要とするものを与えてくれる世界権力と組む。
そして、それを一番よく与えることが出来た帝国が、他の帝国を出し抜くことになる。

もし「友人を獲得し、他の人々に影響を与えること」が個人にとって重要だとすれば、国家にとっても「同盟国を獲得し、他の国々に影響を与える」ことは同じように重要になる。
そこで第二世界の国々は、三つの帝国がそれぞれの勢力を拡大してライバルの足を引っ張る為に用いる戦略を、比較して見るようになった。
そしてそれらの第二世界の国の行動が、世界の力のバランスを変える可能性すらある。
中には、いくつもの顔を使い分け、世慣れた手法によって、一つだけでなく二つや三つの帝国から利益を引き出そうと試みる国もある。
その逆に、三つの帝国をうまく競わせることが出来ず、特定の一つの帝国の影響下にどっぷり入ってしまう国もある。
第二世界の産油国、特にヴェネズエラ、リビア、サウジアラビア、カザフスタンは、態度を曖昧にする戦略がどれほど有効かを観察出来る恰好の舞台となった。
広い意味で、第二世界の将来が三つの帝国とどう関わり合うかにかかっているのと同じように、三つの帝国の将来は、第二世界の国々をどう管理するかにかかっている。


(P.268〜270「〈コラム〉中国の進出」)

■〈コラム〉中国の進出

アフリカ中にある中国大使館の巨大さが象徴しているように、中国はアフリカ人が部外者にオープンであることにうまくつけ込んでいる。
その主な武器は兵器ではなく、グローバリゼーションだ。中国のアフリカ諸国に対する投資額は、今やEUとアメリカに次いで世界第3位になり、2005年貿易額は500億ドルに達している。
アメリカとの関係が冷え込んでいる政権とは特に積極的に取引を強め、戦略的同盟を築いている。
天然資源への飽くことを知らない欲求がある中国は、アンゴラ、アルジェリア、スーダンなどでの石油と天然ガスの生産で他国をリードし、アフリカからの石油の輸入量は、サウジアラビアからの輸入量を凌いでいる。

アフリカでは、他の超大国と同様、中国がスーダンに国連平和維持軍を送ったが、ついでに自分の石油施設とそこから紅海まで延びているおよそ1500キロのパイプラインを守る為の人員を、その中に密かに紛れ込ませていた。
そしてスーダン南部の内戦と西部のダルフールの民族浄化(大量殺戮)を止めようとする国連決議に猛然と反対し、石油を得る見返りにこの国の独裁政権を支持し、機関銃を大量に輸出している。
スーダンの首都ハルツームでは、アメリカの経済制裁にもかかわらず、リビアと中国が不動産を買いまくっている。

こうして中国はアフリカ諸国の政権を“パートナー”として扱い、それらの政府の高官は“中国方式”について熱っぽく語っている。
“中国方式”とは、政権は一党独裁で外部に対して閉ざしたまま、経済だけ開放政策を取るやり方のことだ。中国は援助、職業訓練、医師の派遣をパッケージにして、“やれることをやる”友愛精神をアピールし、欧米の強引な“ショック療法”的なやり方との違いを際立たせている。
また中国は、アフリカ諸国の負債のほとんどを帳消しにして利率の低い借款(しゃっかん)を与え、アフリカからの輸入を数十倍に増やしている。

中国のこれらの手法の為、最近効果がなくなってきたと言われる欧米の援助の効果が更に危うくなっている。
欧米はこれまでに数十億ドルにのぼる援助を行いながら、ナイジェリアに鉄道を建設することも、“アフリカの角”と呼ばれる地域に送電線網を築くことも、ともに短期間のうちに失敗したが、中国は短期間のうちに完成させた。

アメリカは1990年代のエリトリア・エチオピア戦争で“アフリカの角”から撤退したが、中国はエチオピアにダムを建設した。このダムはナイル川上流の水源地帯にあり、今では水力発電所が稼動している。
アフリカ連合の本部が置かれているアジス・アベバ(エチオピアの首都)は、中国がアフリカ諸国に武器を売る為の拠点になっている。

とはいえ、アメリカも、EUも、中国も、アフリカ諸国の政治を良くすることよりエネルギー資源確保のほうが大事だという点では、すべてみな同じだ。
アフリカ一の穀倉地帯だったジンバブエを、飢餓と争乱の国に変えてしまった独裁者ムガベの政権を支援したのが中国なら、アメリカは非人道的な赤道ギニアの盗賊政権に大金を与え、毎日50万バレル以上の石油を受け取っている。

究極的には、中国の“資源わしづかみ”は、多くのアフリカ諸国の経済基盤を文字通り侵食している。
中国は40以上に及ぶアフリカ諸国と条約を結び、その結果それらの国に中国繊維製品が津波のように押し寄せるようになった為、アフリカ人は数え切れない仕事を奪われて骨抜き状態になっている。
その一方で、中国はWTOの規約の抜け穴をついて、モロッコのタンジールの工場で作った布地をヨーロッパに輸出しており、アフリカの零細輸出業者はいとも簡単に出し抜かれている。

アフリカ諸国にある中国の石油・天然ガス施設の多くでは、中国の刑務所にあふれている囚人を連れて来て働かせており、彼らは仕事現場で寝泊りさせられる為、現地のアフリカ経済に何一つ貢献しない。
最終的に、中国はアフリカ諸国を第三世界から引き上げつつも、それと同じくらい、彼らが第三世界のままでいるように押さえつけていると言えるかもしれない。


(P.352〜355「第27章 アジアの底流」)

■東アジア諸国の特徴

マレーシアの大学で行われたセミナーで、中国系マレーシア人の歴史家が述べた。
「東アジアの国には、植民地時代以前から根付いている歴史と文化があります。それで私たちは、植民地時代の後に国が出来たアフリカやアラブの国々と比べて、はるかに安定しているのです。
私たちには、一つの国が繁栄することが他の国と争いを起こすことになる理由がありません」

日本と中国は、しばしば永遠の敵対関係になるように見られがちだが、実際には、この二つの国は東アジアが経済発展する為の両輪だ。この2国にシンガポールと韓国を加えた四つの国が、
全世界の外資準備の3分の2にあたる2兆ドル(約200兆円)を、主にアメリカドルで持っている。
100年前、アメリカの大統領ウォーレン・ハーディングは、国内の争いを治める為に、「世界を武力ではなく、平和的に、商業的に征服しに行こうではないか」と演説した。
今や東アジアの人たちは、彼のアドバイスに従っているかのようだ。

だが東アジア諸国には、社会は開かれていても政治がオープンでないという特徴がある。彼らにとって、民主主義は最上位に位置すべき最も重要なことではなく、目的を達成する為にいくつもある手段のうちの一つに過ぎない。
皮肉なことに、東洋のこの考えは、古代ギリシャの哲人プラトンが『国家論』で「国家は賢人哲学者の王によって支配されることを理想とする」と述べたのと同じ考えに根ざしている。

今日のアジアで好まれる政治スタイルは、シンガポールやマレーシアの自由主義的な準民主主義だ。これらの国には野党もあるし選挙もあるが、野党は政権が取れないし、最高指導者は選挙ではなく後継者を指名することで決められる。
集団的エゴイズムと呼んでもいいこの方法は、他民族国家のマレーシアに代表されるように、多数民族の利権に国が乗っ取られることを防ぐ為だ。
シンガポールやマレーシアの事実上の一党独裁政治は、民主主義のフィリピンなどよりはるかに国民に対して責任を負うし反応も速い。フィリピンの指導者は選挙で選ばれるが、民主主義であっても反自由主義的で、クーデターばかり起きる。
タイヤ台湾も民主主義だが、選挙で僅かな差で勝っても勝者が全部を取ってしまうシステムの為、非合法的な争いや大統領の弾劾やクーデターがやはり絶えない。
インドネシアでも民主主義が国を不安定にしている上、腐敗は酷いこの国を他の国が羨ましがることはあり得ない。
「西洋式の民主主義は時間の無駄ですよ」とマレーシアの外交官は吐き捨てるように言った。

東アジアの古い伝統では、市民権や国民の政治的権利より社会全体の利益や国の経済が優先される。だがそれが個人の自由や言論の自由を守らないことを正当化する結果となり、それがまた人権に関するアメリカの考えと対立する。

古代中国の儒教者、孟子は、「食物や物質的な利益への権利を犯すことは、政治的な権利を否定することより大きな犯罪だ」と述べた。
中国では華々しさやエゴイズムではなく、謙譲と思いやりが美徳とされ、“孝行”の大切さは東アジアの多くの国で法律で定められている。
個人主義ではなく、家族のような形の社会が理想的であると多くの人たちが考えており、中国では一人っ子政策の為、子供(特に男の子)は文字通り一家の将来と見なされている。

勿論、東アジアは問題もたくさん抱えている。極一握りの人たちの発展が殊更宣伝され、それが他の多くの人たちが依然として貧困に喘いでいることを隠す為に使われることも多い。
儒教は毛沢東主義や共産主義の防波堤にならなかったし、中国、カンボジア、ベトナムでは、過去50年間に戦争や争乱で合計1000万人近くの人々が命を落とした。
中国、台湾、日本の組織暴力犯罪集団の活動はとどまる所を知らず、彼らと比べればアメリカのギャングなどアマチュアに見える。
また政府と企業の癒着による特権階級の温情主義的な腐敗の根は深く、職業的な能力ではなく血縁や上下関係や恩義などの人間関係で物事が決まることが多い。
とはいえ、これらの欠陥には、彼らの試行錯誤の過程に更なる自信を吹き込んできた面もある。
中国系マレーシア人の学者がこう批判する。
「今や、経済成長も社会的安定も手にしているわけですから、国の主導者や警察や企業の幹部は、責任ある行動が取れないことの言い訳はもう言えなくなったということです」

しかし、欧米の一流大学で学んだマレーシアや中国やシンガポールのエリートたちですら、国の安定と自分たちの個人的な利益を守る儒教的な縦社会には忠実だ。
シンガポールの議員があっさり言ってのけた。
「私たちはカネのことではリスクも冒しますが、主義や信条の為にリスクは冒しませんよ」


中国は第三世界ばかりでなく第一世界とも活発に関係を深めているが、特に地元の東アジア・西太平洋地域の第一世界である日本、韓国、シンガポール、オーストラリアとの関係を重視している。
これらの国は、中国との相互依存が進むとともに、徐々に、しかし明らかに、軸足をアメリカから中国寄りに移しつつある。


(二頁へ続く)

(一頁からの続き)


(P.391〜397「第31章 大きさこそすべて」)

■大きさこそすべて―中国帝国の実力

中国とアメリカは国土の大きさも緯度もほぼ同じで、ともに東岸の中部から南部にかけては台風(アメリカではハリケーン)や洪水に見舞われることが多く、北西部は雪が深く、西部には月面のような荒涼とした砂漠や山が続くなど、土地の形状も特徴がよく似ている。

だが中国はEUの3倍、アメリカの4倍半の人口を持ち、第三世界的な封建制度に第一世界的なエリート集団が結びついている点が大きく異なる。
中国を地理的に分けて眺めれば、香港と上海がある南東地方に富の60パーセントが集中し、都市はアメリカやEUとほぼ同じくらい発達している。

北京を含む華北や東北地方も今では第三世界的な状態から抜け出し、工業化とインフラの建設が急速に進んでいる。
内陸の中央部と、新疆(しんきょう)とチベットを含む西部は今でも広大な第三世界で、ここに眠る天然資源と7億人の貧しい農民がこの帝国を養っている。
これに海外に住む5500万人の華僑を加えたものが、第二世界の超大国となった今の中国を構成している。

数千年にわたる中国の歴史は、この広大な土地を一つの政権のもとにまとめようとする努力の連続だった。
19世紀半ばにアヘン戦争に敗れてイギリスから屈辱的な不平等条約や治外法権を押し付けられ、第一次世界大戦後のベルサイユ条約ではドイツが植民地にしていた地域を日本に譲渡された。
このようないきさつから、昔からの専制政治主義に愛国主義が加わり、中国が強い反西欧感情を持つようになったのは極自然の成り行きだった。
アメリカは中国を植民地にはしなかったが(当時のアメリカ国務省には極東を扱う部署すらなかった)、ヨーロッパの列強が中国で次々と商業利権を拡大させているのを見て、ヨーロッパに負けていられないとばかりに、
その権利はすべての国に平等にあると主張して“門戸開放政策”を唱えるようになった。

中国共産党は1921年に上海で結成されたとされている。その後、毛沢東が率いた共産軍は山村や農村を拠点に活動を続けて次第に力をつけ、第二次世界大戦後、国共内戦に勝利する。
毛沢東は次の有名な言葉を残したと言われている。
「革命は晩餐会でもなければ文学的な修辞でもない。絵でもなければきれいな刺繍でもない。それをそっと、少しずつ、注意深く、思いやり深く、丁寧に、礼儀正しく、地味に、控えめに行うことは出来ない」

毛沢東は“近代化”と“世界革命の勝利”の名のもとに、当時の中国の3億人の国民をすべて犠牲にする用意があった。
事実、1950年代末から始まった大躍進政策の失敗と1960年代末の文化大革命の混乱と内部の粛正で、飢餓や過労死を含めれば7000万人が死亡したと言われている。
この数は、ヒットラーとスターリンに殺された人の数を合計したよりはるかに大きい。
この混乱から抜け出す為、1970年代に入ると周恩来は農業、工業、国防、科学技術の“四つの近代化”を掲げ、国家としての自信のなさを克服しようとした。
そして1970年代末にケ小平が実権を握ると、「改革開放」(内部の改革と外部へ門戸を開く)の歴史的な政策転換が始まる。

だが中国を第三世界からようやく引き上げたのは、現在のリーダーたちの継続的な努力だ。1980年から2010年までの30年間は、西欧によって不当に奪われた領土を回復し、目覚しい発展を遂げた歴史的な30年として構成に記憶されるだろう。
2008年の北京オリンピックはその象徴となる大事業だったのだ。

中国の指導者たちにとって、発展の継続は至上命令であり、彼らは過去の時代の無上の栄光を常に意識している。
この国の長い歴史から見れば、共産主義は一時的な野望だったに過ぎない。だが、それが「屈辱の19世紀に破壊された過去の栄光を取り戻す」という、共産主義よりはるかに大きくて本質的な目標への道を開いた。

19世紀の停滞さえなければ東アジアの大帝国であり続けたはずだと信じる中国にとって、今やその道を再び歩むことに何ら動揺はない。
最近、2049年に統一100年を記念して超大国達成の大祝賀会を開催することが決められた。帝国は、支配する権利を自ら信じた時にスタートする。
中国にとって、その名の通り“世界の中心の王国”の地位を取り戻すということは、封じ込まれていた常態を破って世界に向けて拡大することを意味した。


■“超大国”の中国的解釈

中国人にとって。中国は宇宙そのものであり、世界最大の自己充足的な文化的空間だ。文学も、哲学も、劇的な国家の形もすべてあり、外部から文化を輸入する必要もなければ、外部に対して自分を説明する必要もない。

過去3000年のほとんどの時代がそうだったように、今の中国は再びアジアの文化と貿易の中心になり、多くの人が海外に出て活躍している。
1000年前、中国はグローバリゼーションの中心だった。世界の三大発明といわれる羅針盤、火薬、活版印刷はすべて中国人によって発明され、それが東から西へと伝わっていったのだ。


■鄭和の大航海

15世紀はじめ、明朝時代の鄭和(ていわ)という武将は、皇帝の命を受け、大艦隊を率いてジャワ、タイ、インド、アラビア、更にアフリカ東岸に至る、計7回の大航海を行っている。
これに比べれば、バスコ・ダ・ガマやコロンブスも見劣りするほどだ。この航海は莫大な国費を消費する為その後廃止されたが、もし続けていたら中国は海の帝国になっていたかもしれない。
中国では、鄭和の航海は侵略が目的ではなく、貿易と文化的吸収の為だったと考えられており、今日の中国が平和的で善意の国であることを示しているとされている。
また鄭和がイスラム教徒だったことから、中国人の国際性を表しているともされる。

だが、鄭和の物語を詳しく調べてみると、中国人のナショナリズムの正当化出来る面と、事実が歪曲された面の両方が見えてくる。
特にここ数年、中国が東アジアの中心であるとする見方を強める為に、歴史の捏造がピッチを上げている。
例えば、胡錦濤主席は2003年にオーストラリア議会でスピーチをした時、「鄭和の航海が中国とオーストラリアの何世紀にもわたる接触のきっかけになった」とかなり怪しげなことを述べたが、
これは作り話であり、将来オーストラリアの支配権を主張する口実に使われるかもしれない。

更に、鄭和はただの“友情の使者”ではなく、ジャワやスリランカでは戦争もしているし、一時はスリランカの王を捕らえて奴隷にしている。
またマラッカ海峡沿岸部にいくつも駐屯地を作り、今日のミャンマーや雲南省あたりの地域から明朝皇帝への献上品を大量に集め、ベトナムでは抵抗を受けると残虐な暴力で押さえつけることを指示している。
鄭和の物語は、昔の中国文化が戦略的に暴力を使用していたことを証明している。


■中国の言う“調和のとれた世界”とは何か

今日、世界各国はアメリカやEUの政策や経済を見つめるのと同じように、中国の政策や経済を注意深く見つめている。
そして中国はアメリカやEUと同じくらい、専門化の批判に反駁(はんばく)して論陣を張る能力を持っている。
中国はアメリカの戦略や政策レポートを綿密に調べ、アメリカの投獄率の高さや収入の不平等さや暴力犯罪の多さを批判する人権レポートさえ出している。
大学や省庁にはリサーチ専門の研究所があり、政府の世界政策の決定に関わっている。
北京の知識人が自慢げに言った。
「旧ソ連の社会科学アカデミーがなくなった今、我が国の社会科学アカデミーは世界最大のシンクタンクですよ」

今や中国政府内部では、ワシントンやブリュッセルで交わされているのと同じくらい激しい論争が交わされ、その結果が世界の秩序に大きな影響を与えている。

中国が言う“平和的な台頭”とは、世界の頂点に立つ為に他国を押し分けて突き進むことを正当化する新しい統治の理論だと言う人もいる。
だがもし中国の考えが“中国による世界秩序”を築くことだったとしたら、その戦略はどんなものになるだろうか。中国は単にアメリカの覇権と入れ替わろうとしているだけではないのか?

中国が示している政策でそれを判断する材料となる唯一のものが、胡錦濤の言う“調和のとれた世界”だ。だがそれは大胆だが欠陥があり、野心的だが中身は空虚だ。
胡錦濤はその中で、国家の主権を完全に尊重することを説いているが、その考えは今では第三世界諸国ですら次第に放棄しているものだ。
というのは、それを突き詰めていけば国家間に争いが起こり、国内紛争が国境を越えて周辺国に波及することになるからだ。

これからの世界に必要なのは、国々が自分の主権ばかり主張することではなく、協力し合って共同で行う活動だ。
だが胡錦濤の言う“調和のとれた世界”では、“多国参加主義”とは国々が共同で問題解決にあたることではなく、新しい世界権力(つまり中国)が台頭してアメリカを阻止することを意味する。

中国の“調和のとれた世界”は、特に地域間の貿易を通じて、中国との経済の共同開発を支える。
中国はアフリカで開発プロジェクトや低金利借款(しゃっかん)を増やしているが、間違いなくこれは多くの貧しい国にとって発展の為に重要になっている。
だがそれはまた同時に中国の重商主義を推し進め、それが壊滅的な環境破壊に結びついたり、第三世界を永久に資源輸出に依存させてしまうことにもなる。
中国が進める“調和のとれた世界”とは、それほど良い世界ではないかもしれない。

だがこのスローガンは、外部に対する発言であると同時に、中国内部に潜伏しているナショナリズムをなだめる為の国内向けの発言でもある。
これまで中国政府は。繁栄や余暇を求める大衆のエネルギーをより高尚なものに向けさせることなく、信用を失った共産主義に代わる手段として国家的プライドを煽り(鄭和の物語もその一例だ)、
国民のナショナリズムを特に反米の方向に向くようにしてきた。実際、アメリカは中国人の“最も嫌いな国”に毎年選ばれている。


(P.400〜411「第31章 大きさこそすべて」)

■EUの関わり方

一方、EUはソフトパワーで中国を変えることが出来るか、もしくは少なくともアメリカの戦略よりは自分たちの戦略のほうがより多くを達成出来ると考えている。
EUの対中国貿易額はアメリカのそれを凌いでおり、中国のEU諸国への輸出額はアメリカのEU諸国への輸出額より大きい。
中国は“市場経済の国”として世界から認められることを渇望しているが、EUは中国に対して「もしその地位を得たければ、EUの介入を受け入れなければならない」と既に明言している。
今や中国は、民主化、人権、経済改革に関するアメリカの圧力には耳を傾けないが、EUのガイダンスは歓迎している。
実際、中国がモデルにしているのは、西ヨーロッパでは当然のことになっている国家資本主義と社会民主主義であり、それはそれらが中国の社会主義イデオロギーと共通のルーツを持っているからだ。
中国はアメリカに送るよりはるかに多い外交官や専門家や留学生をヨーロッパに送っている。

アメリカと同様、EUも中国に対する兵器禁輸をしているが、いくつかの国は2005年にもう少しで解除しそうになった。実際、ヨーロッパ諸国は兵器そのものは売らなくても、ハイテク兵器技術は既に売っている。
民間のガリレオ衛星システムには中国の参加を受け入れていて(中国はそれとは別に、自前の全地球測位システムの開発も進めている)、
アメリカはそのことが中国のミサイルの命中精度を向上させることに使われるのではないかと心配している。
またEUは、紛争で殺戮を行ったり国民を武力弾圧している政権に中国が見境なく武器を売っていることに対して、何ら条件やペナルティを科していない。
これらのことは、ひとたび自分たちの利益がかかるとなると西ヨーロッパ諸国はモラルのリーダーとして弱いことを示している。


■中国に味方するグローバリゼーション

既に書いたように、中国の指導者が言う“調和のとれた世界”というレトリックは時代遅れに聞こえるが、彼らのグローバリゼーション戦略はまったくそうではない。
アメリカの保守派は中国の軍事的な脅威を警戒するが、ビジネスの世界では、アメリカ人を含む世界中のほとんどの人が中国を機会と捉えている。

日本は自力で発展したが、中国の驚異的な台頭は外国からの投資と技術で実現した。
今や中国は外国からの投資額でアメリカを抜き、世界一の貿易立国の地位を日本から奪い、日本を上回る1兆ドル以上の外貨準備を持っている。
国営企業を通じて行う海外市場への投資は増え続け、それによって自国経済の不安定さを埋め合わせるとともに、原材料への飽くことのない需要に応えている。
更に、最新技術を得る為、国営企業に出資してアメリカのトップ企業の株を買い漁らせている。


■先進国のノウハウを“丸ごと利用”

中国の戦略のもう一つの柱は、第一世界の優秀な企業のしていることを丸ごとコピーして、その相手を出し抜くというものだ。
例えば、シンガポールのテマセク・ホールディングスの協力で江蘇省蘇州市(こうそしょうそしゅうし)に工業団地を建設した時、中国はそれをそっくり丸ごとコピーした施設を別の場所に作る計画を同時に平行して進めており、既に投資を集め始めていた。
上海の空港と市の中心部を結ぶマグレブ高速鉄道(磁気浮上式リニアモーターカー)を建設したドイツのシーメンス社は、そのプロジェクトを受注する条件として、中国がその技術を習得するのを助ける為に研究所も建てなくてはならなかった。
中国は近い将来、その技術を使って上海と北京を結ぶマグレブ高速鉄道を建設する計画だ。

また中国は、機能していない株式市場を立て直す為、自国の銀行の為に香港とシンガポールに資本を集めさせた。
そして長年の無計画な融資の為に利潤が上がっていない膨大な資産に対処する為、外国の大手銀行に更に大きな資産を買わせてリスクを分散させるとともに、それらの銀行の財務処理能力を利用した。

このように中国は外国のノウハウを使って膨大な利益を得ており、第一世界諸国は対抗するのに大変な苦労をしている。
少し前までは、外国企業が中国の工場に請け負わせていたのは低賃金の部品組立作業だけだったが、それはもう過去の話だ。
今では電気製品の組み立てやコンピューター用モジュールなどの生産でシンガポールや台湾と競争し、ドイツの技術者はかつて技術を教えた中国人と競争しなければならなくなっている。

更に中国はヨーロッパの兵器を分解して技術を研究し、コピーが作れるようになると、そのヨーロッパのメーカーはもう要らないといって付き合わなくなる。
上海の自動車メーカーはそのうちに中国で販売しているアメリカやドイツの自動車メーカーを廃業に追い込み、そっくりなものを作って格安でアメリカに売るようになるかもしれない。

だが多国籍企業が国内で操業し、何百万人もの中国人に雇用を作り出していることについては、中国にとってまったく異論はない。
ほとんどの外国企業は、そもそも出口戦略などはじめから持っていないのだ。

かつて、中国の国営企業は多くが内陸の僻地(へきち)で操業していた。そしてそれらが閉鎖された時、仕事を失った人たちが大量に都市に流入して社会不安を引き起こした。
その為一部の地域では、僻地の農村から都市に移住した人たちを、強制的に農村に再移住させねばならなかったほどだ。

だが現在中国で操業している外国企業は、例えばアメリカのウォルマートの工場だけでも20万人が働いている。
そしてどの会社の工場だろうが鉱山だろうが、中国人労働者は労働者の権利などほとんどないに等しい状態で働き、今や“過労死”という言葉が頻繁に使われている。
それでも10億人以上の人たちが基本的な生活物資を持てるようになり、中国は大量生産・大量消費の巨大経済圏を形成しつつある。

こうして彼らが物を買うたびに中産階級が拡大し、それがまた国内市場を拡大する。
それが意味するのは、この巨大市場にアクセスする為なら、外国企業はほとんどどんな条件でも呑むということだ。
かつて中国では、1ヵ月に20ドル稼ぐ人は金持ちだった。今では100万ドル以上の資産がある人、つまり億万長者が30万人もいる。中国がEUとアメリカに次いで世界第3位の高級消費財の市場になる日も遠くはないだろう。
「金持ちになるのは素晴らしい」と共産党のケ小平が言ったのは有名だ。


■海賊版の無法地帯

世界のグローバリゼーションは中国が決める条件で進行している。市場を開放せよというアメリカやEUの圧力を受けつけず、中国はWTOの基準を受け入れるのにも条項によって選択している。

それが最もよく表れているのが、知的所有権の分野だ。中国ではあらゆる製品の海賊版が洪水のように流通している。
音楽や映画のCDやDVDは言うに及ばず、タバコ(しかも有害物質が入っている為本物より命を縮める)、薬品、電池、時計、アパレル、それに車まである。BMWの高級スポーツセダンの完全コピー車が、上海の街を堂々と走っている。

流通する量の多さは、質の悪さをカバーする。中国政府はアメリカやEU諸国の苦情を静める為、時折北京などで、大量に山積みした海賊版DVDをトラクターで潰すイベントを行っているが、
そのようなジェスチャーをしても誰も感銘を受けない。
何故なら、中国政府は世界最大の海賊版制作業者の手入れを行わないからだ。行えるわけがない。それは人民解放軍なのだから。

人民解放軍は国内のあちこちにある工場でマルチメディア関係の製品の偽物を大量に制作し、それを販売した儲けを予算の足しにしている。
もし中国人が知的主有権を尊重する日が来るとしたら、それは彼らが先進国のあらゆるものをコピーして、海賊版の力で第一世界にのし上がることが出来てから後のことだろう。

ところが中国は、ひとたび自分のパテントが侵害されたとなると、驚くべき速さで行動し、自分の市場を守ろうとする。
中国に対する巨額の貿易赤字を抱えるアメリカとEU諸国は貿易戦争に反撃を開始したが、上海のあるエコノミストはあからさまにこう言った。
「もし我々が、知的主有権などというものを本気で嘲笑おうと思ったら、欧米が制作出来るものなどなくなってしまいますよ」


■格差を縮める努力

中国の発展の本当の奇跡はまだ始まったばかりだ。1980年の時点ではまだ1960年代の文化大革命の混乱から癒えておらず、国民の3分の2が荒廃の中に暮らしていた。
だが当時5億人もいた1日1ドルで暮らす極貧層も今では5000万人にまで減り、中国はもう貧困を減らす為の国際機関の援助を受けていない。
中国では家族がお互いの面倒を見るので、人口が同じくらい多い第三世界の国インドと比べると、ホームレスや物乞いをする人たちが圧倒的に少なく、秩序や尊厳のレベルもずっと高い。

これまで諸外国からの投資は、その80パーセントが太平洋岸地方に集中してきた為、内陸部との間に大きな貧富の差を生じさせた。
僻地から沿岸部の大都市に移住した人たちは、それまで見たこともない新世界にやって来たようなものだ。
彼らはゴミ捨て場を漁ってでも田舎の貧農暮らしより多くのカネを稼ごうとするが、都市の金持ちは彼らを動物の群れのように見下している。当然、この不平等は犯罪発生率の上昇となって現れる。

僻地から3億人もの人々が大移動して来るのを止めることは不可能だが、中国政府は彼らの生活環境を向上させて教育する努力をしている。
目下たくさんの億万長者が誕生している中国だが、政府は下層の人たちを押し上げなければならないこともよくわかっている。
4000億ドルを投じて地方のレベル向上をはかるプロジェクトを進めているが、地方の農村部ではかつての社会主義がまだ根強く残っている為、政府は「新しい社会主義を築こう!」というスローガンを使っている。
中国政府のこうした政策に加えて、太平洋岸の都市に出て働いている人たちからの送金が、8億人以上の農民が住む内陸部の貧困を減らすのに貢献している。

このような人口大移動の典型が、四川省東部の重慶市だ。重慶は今や人口3000万人を超える世界最大の都市となり、今後も400億ドルを投資して工業地帯を刷新し、35の市を包み込む1億人の経済圏を作る計画だ。
この人口だけでもヨーロッパのどの国より大きい。ちなみに、中国には現在人口100万人以上の中規模の都市が100ヵ所以上ある。
この急激な開発の規模の巨大さは、鉄鋼の生産量によく現れている。現在中国は世界の鉄鋼の総生産量の3分の1を生産し、アメリカやEUの2倍の量を消費している。


■止まらない環境汚染

だが、急激で大規模な工業化の代償は、都市に住む中国人の肺に蓄積される有害物質の急激な増加に現れている。
炭鉱や製鉄所が極度に非効率な為、都市は濃いスモッグに覆われ、空港の視界不良で飛行機が着陸出来なくなる事態すら発生し、黒い雪が降る町もある。
世界で最も汚染が酷い都市のワースト10のうち、6都市が中国にある。大気汚染は中国内部だけにとどまらず、まもなくカリフォルニアの大気汚染の3分の1が、中国からジェット気流で運ばれてくる煤煙(ばいえん)によって引き起こされる事態になると言われている。

中国は欧米先進国を追いかけているのだから、このまま豊かになって行けば当然環境問題にも先進国のように取り組むことになるだろうと考える人もいるが、
問題は、他のすべてのことと同様、中国では汚染の規模も進行の速さも桁違いにスケールが巨大だということだ。
西欧の工業化は200年という長さをかけて徐々に進行したが、中国はその過程を経ずに、主に外部からの投資と援助によっていきなり結果だけを得た。
そして10年間でアメリカに次ぐ世界第2の公害発生国になった。だがそれはまた、他の国が中国の安い労働力を求め、中国を“世界の工場”として大喜びで使った結果でもあるのだ。


■一国二制度の行方

一国二制度という言葉は元々“中国本土と台湾”という意味で用いられたが、今では“市場主義的レーニン主義”という二元論的な意味合いのほうが強い。
西洋の常識では、資本主義が独裁権威主義の政府と両立出来ないのは自明の理だが、今の中国ではそれがまさに現実として存在しているのだ。
過去の長い歴史を通じて、外部のどのような大国も、中国の不可解な朝廷政治を理解出来たことは一度もなかった。従ってこれについても、「これが中国なのだ」と諦めて受け入れる以外にない。

過去半世紀の間に中国共産党が犯した誤りを数え上げればきりがないが、中国でそれが問題になったことは一度もない。
“党”の唯一のゴールは、あらゆる方法をもって“使命”を遂行することだとされている。従って、天の使命を帯びている“党”が他者から挑戦を受けることはほとんどあり得ない。
毛沢東主義は失墜しても、毛沢東の残した「政治権力は銃身から生まれる。従って“党”は銃を支配しなければならない」という格言は論争にもされない。


■儒教の復活

天安門事件と旧ソ連の崩壊はほぼ同じ時期に起きたが(天安門事件は1989年、ソ連崩壊は1991年)、その後の中国とロシアは非常に異なる道を歩むことになった。
共産主義を捨てた中国が選んだのは、ロシアのような
新権威主義的で世紀末的な資本主義ではなく、“アジア的なスタイル”を作り出す変遷への道だった。

中国共産党は、国共内戦に勝利して権力を握った後に急いで組織を作ったにもかかわらず、最近では“民主的な中央集権主義”などという明らかに自己矛盾するキャッチフレーズを、
あたかもそれが何千年も前から受け入れられてきた英知であるかの如く声高に宣伝している。

だがある意味で、それは何千年も前から受け入れられている英知なのだ。今の中国には、“党”の正当性を示すのに間に合わせるかのように、儒教が戻って来ている。
儒教は、国家資本主義と社会民主主義という、“党”の二つの柱を広く正当化し、安定、権威の尊敬、実力主義、手本を示すことによるリーダーシップなどの大切さを説いている。
北京のエリート大学、精華大学のキャンバスにある蓮華池には、それを象徴するかのように孔子の銅像が立っている。


■それでもやはり一党独裁

だが、“党”だイデオロギーをどのように行使しようが、いくつかのタブーは変わらず残ったままだ。
例えば、4000万人のキリスト教徒にも、3000万人のイスラム教徒にも、宗教の自由はない。それに関する限り、マルクスの「宗教はアヘンなり」が今でも厳然として生きている。
そして領土問題でも妥協はない。その代表が、台湾、チベット、新疆(しんきょう)だ。

一党独裁支配を続ける現在の中国共産党は、これまでの中国の歴史上のどんな王朝よりも力がある、洗練された複雑な組織だ。
だが、ケ小平後の時代になると、カリスマ的な指導者は現れなくなり、新世代の官僚出身者が増えてくる。彼らは実力主義で影響力の競争をしあい、これまでの指導者たちよりずっと大きな責任を負っている。
“党”の役員にも、じきに任期制が導入されるようになるかもしれない。

勿論、野党が存在する国より、一党独裁の国のほうが腐敗が酷くなるのは当然だ。中国の組織的な腐敗は、昔から“立ってはいるが中が腐っていて実がならない木”に例えられてきた。
賄賂を受け取って行政府の役職を売る、役人が企業に介入する、公共事業の資金を抜き取る、製品の安全基準が存在しない、貧しい農民の土地を没収して勝手に開発業者に売り飛ばす、
銀行の運営がでたらめである、地方行政間が地位を悪用して安ホテルや病院を経営する、軍が営利事業を行っているなど、政治と資本主義の合体が横道にそれた例を数え上げればきりがない。

それでも尚、中国の人々は、外国に搾取される弱い政府よりは、強い政府のほうがよいと考えている。
西洋では、法は弱い大衆を権力者から守る為に機能するが、中国では歴史的に、支配者が大衆に指図する為に上から下へと下される。

2004年の統計によれば、報告されているだけで7万4000件のデモがあったが、そのほとんどが物価の値上がりや土地の強制収用への反対や、職場での権利を要求したものだった。
つまり、中国共産党に対する世論のうねりのような反対はまったく存在しない。
またこの国では昔から貧しい農民の反乱が頻繁に発生しているが、それは国の指導者が掲げる理念や社会の分配システムに反対だからではなく、それを実行する役人の仕事ぶりの悪さに対する反乱だ。

自己犠牲の精神は今でも多くの人々に強く残っており、国家に対する忠誠心が常に育てられ、衰える気配はまったくない。
中国共産党は多くの誤りを犯し、様々な問題を抱えているにもかかわらず、人気は衰えるどころか増しているようにも見える。


■2050年まで民主化はない

中国は民主主義国家ではない。だが国民が“同志”と呼ばれていた時代から“市民”に変わる過渡期は、天安門事件が起きる前に既に始まっていた。
今では何百万もの家族が初めて不動産を所有する権利を認められ、全土が開放されて消費世界が生まれつつある。
賄賂を受け取る腐敗役人や悪質な警察官が逮捕され、罰せられる様子も国民に報道されるようになった。
倫理規定のハンドブックが配布され、象徴の予算がインターネットのホームページ上に掲載されている。地方では100万以上の村で既に選挙が行われている(もっとも、不正が行われることが多いので、まだ今はテスト期間中だ)。
大衆の意見や要求を聞く為に、調査会社と契約してアンケート調査をしている市もある。

だが中国には、中産階級の人口を2050年までに一定の数まで引き上げるという大目標があり、これが達成されるまでは民主化だろうが何であろうが、構造的な変化を求める声に耳を傾けることはないだろう。
実際、将来もしこの国に完全な民主主義がおとずれることが例えあったとしても、それまでにはまだ1世紀か、或いはそれ以上かかるかもしれない。
しかも、もしそうなった場合でも、その為の争いは純粋に内部で行われ、外国に口を挟む余地は与えないだろう。

だが一方で、中国人が社会的、市民的な秩序にプライドを高めていることは、情報公開の環境を増やすことにつながる可能性がある。国の統制が強力なので、メディアに独立した権力を与えることなく政府への批判をある程度許すことが出来るのだ。

だがそうは言っても、シンガポールと同様、“党”の自信はまだ十分ではない。国民にインターネットの普及が進む中で、中国政府は数多くのウェブサイトをブロックしている。
自主規制を行ったものは報奨を与えられ、メディアは自然災害の報道ですら事前に政府の承認を受けねばならない。

しかし、メディアが報道の自由を持つ環境こそ、健全な議論や、透明性や、大衆の教育に欠かすことが出来ないものだ。
多くの著名な中国人の映画監督や作家が、真実を語ることが危険なこの国を逃れて今も海外で亡命生活を送っているが、彼らが世界中の人々から尊敬を得ているのを中国政府が止めることは、もはやほとんど出来なくなっている。
少なくともこの分野に関する限り、中国は西洋の教えを取り入れたほうが、今よりはるかに賞賛されながら東洋のリーダーになれるに違いない。


(三頁へ続く)

(二頁からの続き)


(P.412〜419「おわりに――世界に力の“平衡”は可能か」)

■世界に力の“平衡”は可能か

21世紀はじめの世界の流動性の激しさは、いくら協調してもしきれない。
アメリカは国際社会を避けたり歓迎したりと揺れ動き、中国共産党はブラックボックスのままであり続け、EUは注意深く戦略的な力を行使している。
更に、これら三つの帝国が牛耳る世界にまた別のシナリオが加わることも考慮しなくてはならない。

今後アメリカは、今までのような過剰消費がもう出来なくなるかもしれない。EUは拡大を続けることが出来なくなるかもしれない。中国は環境問題と国内の問題が手に負えなくなってくるかもしれない。
アメリカも、EUも、中国も、世界に対して負っている責任が果たせなくなるかもしれないし、周縁国との混合(アメリカとラテンアメリカ諸国、EU諸国とアラブ諸国その他、中国と東南アジア諸国の混ざり合い)があまり重荷になってきたら、帝国を縮小していくかもしれない。
だがどのようなことになっても、人類の歴史の宿命である興隆と没落のサイクルが止まらず続いてゆくことだけは間違いない。

これまでのアメリカの、世界規模の自信と自己を押し進めてゆく行動の大部分は、「軍事力に“自由”の守護者」、「世界で最も豊かな社会」、そして「ダーウィンの進化論的な意味で最も活気のある民主主義国家」という地位に基づいていた。
だがアメリカはダーウィンをずっと誤解し続けてきた。ダーウィンは自然淘汰論の中で、荒々しい力を持った強いものが最も長く生き残るとは、一言も言っていない。
彼は、「生き残るのは最も強い種(しゅ)でもなければ最も知的な種でもなく、変化に対して最もよく対応出来る種である」と書いている。
つまり、勝利するのは、世界の変化に対して最も適応性のある政治システムであるに違いない。

今アメリカは、そのハードパワーもソフトパワーも効果的に機能せず、歴史は誰にでも平等に、アメリカにすら起きることを学びつつある。
伸ばした輪ゴムが切れる時には、伸ばしていった時よりはるかに素早く切れるのと同じように、帝国の輪ゴムも、伸びることが出来る限界まで伸びきった後は、崩壊するまであまり時間はかからない。
アメリカは、アジアとヨーロッパの強国から安全に離れたままでいたいと願い、だが同時に、距離を保ったまま指図していたいと願っている。
それは、今からおよそ100年近く前、第一次世界大戦を終了させる為に行われたパリ講和会議の後に、
ハロルド・ニコルソン卿が、「アメリカは大西洋で隔てられているお陰でヨーロッパの戦乱から永遠に守られ、自分は責任を逃れつつ、独り善がりな正義感を満足させたいと願っている」と非難した常態からあまり変わっていない。

だが地理的に離れていることが利点となるのは、同盟国が重荷を分け合って背負ってくれる場合だけである。
アメリカ帝国は世界を遠くから間接的に支配するシステムを作り上げたが、最近では同盟国を徐々に失い、いわゆる“有志連合”なるものもみな自国の利益だけを追求する戯れのようになりつつあり、それとともに世界での投資による利益も減少している。
今のアメリカは世界のリーダーどころか、ますます単独で行動せざるを得なくなってきており、NATOを“民主主義の枢軸”に作り変えたところでこの状況をひっくり返すことは出来ないだろう。

イラク戦争という大冒険の失敗は、これまで無条件で同盟を結んでいたイギリスの心すら離れさせ、東アジアでは日本もますます用心深くなり、これら2国さえ、もはや見せかけの同盟国にしか見えなくなっている。
かつてアメリカの安全保障の傘の下に入っていた他の国の多くも、自国の軍備を強化して、傘の下からすり抜けるように出て行こうとしている。
一方アメリカは、世界中の出来事に関わり合いを持つことが、その為にかかるコストと結果に値するかどうかの判断が出来なくなっている。

国内に募る不満と、世界に対する責任の遂行を維持出来ないことだけをとってみても、帝国の過伸長を示す重要な兆候のように見える。


■重要性を増す第二世界

三つの帝国はそれぞれのスタイルを世界に推し進めているが、それぞれが影響を及ぼす地域はますます重複し合っている。
それに対して第二世界諸国は、いわばある帝国からは経済援助、別の帝国からは軍事援助、更にもう一つの帝国とは貿易協定といった具合に、バランスをとりつつ、勝ち馬に乗ろうとしている。
そしてアメリカ、EU、中国の三つの帝国は、友人でありまた同時に敵であるという状態をますます深めている。

このような状況のもとでは、世界と関わりを持たないことは影響力の放棄に等しい。
帝国はどうしても競争に勝たねばならず、それぞれのスタイルを世界に広める為に、以前にも増して多くの政府幹部を世界中に派遣する競争が始まっている。
アメリカは新たに“転換外交”を始め、国務省外交局の多くの職員を世界の過酷な任地に赴任させている。
同様にEUの欧州委員会も事業、開発、政治の専門家による外交団を送り出し、中国も世界中に拠点を増やして援助要員を派遣している。

一方、第二世界の反帝国主義ベルトを構成するヴェネズエラ、イラン、カザフスタン、リビア、マレーシアその他の資源国は、ワシントン、ブリュッセル、北京との関係を深めると同時に、彼ら同士の結びつきも強めている。
これらの国は三つの帝国を最大限に利用しようとするだけでなく、今後は様々な面でお互いの連携をますます深めるようになるだろう。既にアラブ諸国、南米諸国、中国や東南諸国を結ぶ航空路のネットワークが出来ている。

帝国にとっては、国連のような世界機関を通じるより、地域ごとに大使を置いたほうがより効果的に問題解決に当たれるようになってくるかもしれない。
だがアメリカは、転換外交政策はあるものの、ますます非アメリカ的になってゆく世界と対峙しつつ、次第に今より内面を向くようになることも予想される。


■帝国の危険な綱渡り

人類の歴史が始まって以来初めて、文化も性格も明確に異なる三つの大帝国が存在し、地球がますます小さくなり資源が減少する中で競争しあう時代が訪れた。
このような状況のもとで、それぞれの帝国にとって最も重要かつ倫理にかなったことは、自分が何故存在しているのかという「存在理由」と、それに基づいた世界秩序に関する展望を広めていくことだ。
だがその為に、アメリカが様々な事案で自分例外だと考えれば考えるほど、ライバルたちもそれぞれ自分も例外だと主張するようになる。
このような形でそれぞれの帝国がそれぞれのやり方を推し進めてゆく結果、世界をまとめる国際的な枠組みは徐々に弱体化し、国際法や制度が帝国の競走の暴走を抑えることが出来るという虚構すら意味を失ってゆく。

もしアメリカが国連を、権威ある世界外交の為の国々の集まりとして支えていたなら、他の国々も、例え不完全な国連でも支え続けたかもしれない。
だがアメリカが横暴なやり方で国連を軽んじたことが、他の国々にも同じようにする口実を与えてしまった。
第二次世界大戦後、世界秩序を構築するにあたって、アメリカは他のどの国より大きく関わった。だが今や、他のどの国とも同じくらいそれをばらばらに壊すようなことをしている。
アメリカは世界の人権問題の対して、他の国が手本に出来るほどの努力を重ねてきたにもかかわらず、二重基準と戦争を肯定する孤立主義がそれを帳消しにしてしまい、先制攻撃をしても制裁を受けないという悪例を作ったことで、安全保障理事会の権威を失墜させてしまった。
もはや国連は、ひとたび超大国の利害が絡めば、かつての国際連盟と同じくらい悲惨なほど現実性がないことを証明した。

目に見えないグローバル化の拡大が進む中、カスピ海地方をはじめ世界各地で“発火”の危険性も増している。
更に、アメリカの金融機関に混乱が起きれば世界経済が大混乱に陥り、政治的な対立が深まり、軍事的な緊張も増す。
戦争は軍産複合体(軍と兵器産業が結びついた巨大な政治的・経済的・技術的利権の構造)に大きな利益を齎し、どの国でも常に愛国主義的な勢力に支持される。
とはいえ、世界の主導権をめぐる米中の対決という筋書きは、時期尚早のうえ考えが単純過ぎる。もし両者が衝突すれば、資本が安全な場所を求めて逃げ出し、ヨーロッパが勝者になってしまうからだ。

今の世界は、三つの帝国が作り出すこれらの大きな緊張に覆われているが、どの帝国も単独で世界のシステムを支配する力は持ち合わせていない。
その為世界の安定は「国際法による平和」と「帝国の力による平和」の間にぶら下がっているが、前者は執行力がなく、後者は常に力の行使が過剰になりやすい。
ヨーロッパでは19世紀以来、戦争を回避するシステムを作る為に勢力均衡理論と集団安全保障の考えが何度も繰り返されてきた。
だが歴史は繰り返しているものの、単にぐるぐる回っているだけではなく、前進もしている。


■3極による力の“平衡”は可能か

アメリカ、EU,中国の3極を持つ今の世界は、ちょうどカメラの三脚のようなものだ。どの一つが欠けても全体が立っていることは出来ず、三つの脚が支える力のバランスが取れてはじめて安定する。
だが現在この三脚はぐらぐら揺れており、そこで今また歴史が繰り返されるのを防ぐ為に必要なのが、勢力均衡とは少し違う「力の均衡」という考えだ。

“平衡”とは、絶え間なく動きながらバランスを取っている常態であり、静止した安定ではない。それゆえ、単一の強大な覇権国が支配している状態よりもバランスを保つのが難しいが、
自然に任せて結果が安定するのを待つのがよいという考えや、かつての勢力均衡理論よりは進化している。
だがそこでは、分別だけで世界に対する責任を果たすことは出来ず、大国同士が重荷を分かち合わなくてはならない。今後の世界の平和、正義、秩序を可能にするには、このような形で得られる力の平衡によるしかないだろう。

3極が力の平衡を保つには、アメリカ、EU、中国が、地政学的ゲームのルールを共同で決める必要がある。
そしてそれぞれにとって重要な事案で妥協しあい、国際的な決定を内政に反映させて国内法の整備をするなどの複雑な作業が伴わなければならない。
だが、誰でもすぐわかるように、国際間のバランスをとる為に自国の力を意図的に低めて、多国を持ち上げるような法制度を作るのは非常に困難だ。

21世紀の世界はあまりに複雑で予測がつかない為、天才物理学者のスティーブン・ホーキングですら、「この混乱と環境破壊の中で、人類はあと100年もつだろうか」と悲観的なことを述べている。
世界権力が拡散し、巨大帝国が争い合う状況のもとで、将来を予測するのは極めて難しい。
「序章」でも述べたように、地政学的な力の衝突を防ぐ唯一の方法がグローバリゼーションだとしても、それだけで世界戦争のサイクルを断ち切ることは勿論出来ない。

その究極の課題に対処するには、人間の理性をただ信じるだけでは十分ではない。事実、過去の歴史を見れば、人類は理性が最も必要な時に、しばしば理性とは程遠い行動をしている。
人類の将来の進路を変えるには、ただ理性に頼るのではなく、第二世界の政治学について深い知識を持ち、帝国同士が正確な理解を共有し、事前に対策を講じることの出来る柔軟な内政と外交の政治手腕がなくてはならない。

これまでにも、様々な学者や政府の元高官たちが、世界秩序を管理する為の様々な展望を唱えてきたが、現実は常に理論と食い違う。
戦争を経ずに国際法が進化すれば、間違いなく最も大きな利益を得るのは超大国だろうから、その道を進むことは難しくないはずだが、現実にそうなったことはない。
劇作家ブレヒトはこう書いている。
「戦争とは恋愛のようなものだ。もう二度としないと誓っても、必ずまた向こうからやって来る」

おそらく人類は、心が進歩した程度だけしか進歩出来ないのだろう。ハロルド・ニコルソン卿の言葉を借りれば、外交とは「交渉による国際関係の調整・管理」であり、その意味で、戦争は政治の延長ではなく停止である。

100年近く前、グローバリゼーションは地政学的要因に敗北し、第一次世界大戦が勃発した。近い将来、同じ歴史がまた繰り返されるかどうかは誰にもわからない。
何故なら、今日の地政学的要因とグローバリゼーションはともに第二世界の国々によって形作られており、今や外交は芸術作品を作るより難しくなっているからだ。


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(四頁へ続く)

(三頁からの続き)


≪ケ小平と「先富論」について 〜ネット上で収集した資料から編集〜≫

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3

http://www.geocities.jp/shokatusei/dengxiaoping/01.html

http://www.geocities.jp/shokatusei/dengxiaoping/02.html

http://blogs.yahoo.co.jp/f_asadaca1wannet/24783130.html

http://blogs.yahoo.co.jp/f_asadaca1wannet/24783417.html

http://blogs.yahoo.co.jp/f_asadaca1wannet/24783539.html

◆   ◆   ◆


■ケ小平 - 生い立ち

ケ小平は1904年、中国南西部の四川省広安県(現在は広安市と改称)の裕福な客家系地主の家庭に生まれた。当時の中国は封建王朝の末期にあり、社会は激動の中にあった。

ケ小平の父はケ文明といい、小地主だった。母は談氏で、ケ文明の二人目の妻である。
彼らは広安県中心街から数キロ離れたところ、協興郷牌坊村に住んでいた。広安県は四川省の東部に位置し、ここには小高い山や渓谷などが多く遍在している。この村は重慶の北方約100キロにある。
ケ文明は約5〜10haの土地を所有していて、豊作の時には、10トン程の農作物を取ることが出来た。つまり、30人分の年間食糧を生産出来るので、十数人の大家族で食べても、収穫の半分は余剰として残るほどの豊かさだった。

広安は大きな地方で、大土地所有者も多いが、四川省では最も繁華な地区ではなかった。四川省には西南から東北に向かって長江という大動脈が、途中でその支流を併せながら四川省を突き抜けて走っている。
広安はその長江の支流、嘉陵江を北上し、合川で支流渠江に入った東側の丘陵地帯に広がる。広安県城から牌坊村までは約6キロだ。

ケ小平の生家は、かなり目立つ構えの伝統的な三合院、すなわち中庭を三方から囲む「コ」の字形の作りである。
部屋数は全部で19あるが、このうち三部屋はいま、「ケ小平記念室」にあてられているそうだ。ケ小平の父、祖父、曾祖父と三代にわたってこの家に住んできた。

ケ小平の遠い先祖にあたるケ鶴軒は、大明帝国を建てた朱元璋の洪武13年(1381年)に江西省吉安府盧陟県から四川省に移住したとされる。元々漢民族の血を引く客家人である。

[参考資料]
客家人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A2%E5%AE%B6%E4%BA%BA

ケ鶴軒は当時「兵部員外郎」(陸軍省の高級官僚)を務めており、命じられて四川省広安県に移住し、ケ家湾で没したが、この一族はその後、続々と進士を輩出した。
例えばケ鶴軒から数えて三代、五代、六代、七代は進士に合格者を出しており、八代目のケ士廉は史部尚書(歴史を司る役所の長官)になっている。
大明帝国から大清帝国に代わった時、ケ縄其、その孫がケ時其である。

ケ時其は乾隆時代(在位1736〜1796年)に現在の法務大臣にあたる「大理寺正卿」まで昇進し、これを記念して村の入口に牌坊(中国の伝統的建築様式の門の一つ)を建てることを許された。
ケ小平の村が牌坊村と呼ばれる所以(ゆえん)だ。この人はケ小平から数えて七代前の先祖にあたる。

ケ小平の五代前の先祖が分家し、『分譜』を作った。
これによって、ケ小平の一族は「仁心をもって、祖先の事跡を継承し発展させ、国家有用の英才を養成し、まさにその時さかえ楽しむべし」という文字を世代ごとに一文字ずつ当てはめて名前を付けることになった。
ケ小平の本名、ケ先聖の「先」や父ケ紹昌の「紹」はこれに由来する。祖父の世代には「克」が付き、孫の世代には「培」を付ける決まりである。
これらの系譜は、ケ小平の従兄弟であるケ先遠家に伝わる『ケ氏分譜叙』によって確認されている。

ケ小平家の先祖が朱元璋の高級武官であった事実は興味深い。毛沢東の先祖、毛太華もまた朱元璋の部隊に身を投じた下級軍官であったからだ。
比較すれば、軍人としての地位はケ小平家の方がはるかに高い。毛氏一族は、武官は排出したが、科挙とは縁が薄かった。しかし、ケ氏一族は「歴史長官」や法務大臣も輩出している。

四男三女の長男・ケ小平の父・ケ文明は、清末に成都の法政学校に学び、その後長らく郷里を離れて働いた。
ケ文明は、広安県の郷紳軍事政権の重要なメンバーであり、
四川省の軍閥・楊森の部下として1928年には広安県団練(自衛団)局長になり、6〜700人の手下を指揮し、かなりの羽振りであった。
張氏を正妻に迎えたが、子がなかったので、その後、淡氏を妾に迎えたのである。

ケ小平は淡氏を母として生まれた第二子で、長男である。ケ小平が生まれた紫檀のベッドはいま記念室に保存されている。
母は1927年に結核で死去するまでに、姉のケ先歴(ケ先烈とも書く。夫は唐恵民)と二人の弟、ケ墾(元武漢副市長、1990年引退)とケ蜀平を生んだ。

ケ小平の実母・淡氏の死後、ケ文明は蕭氏を娶り、四男・ケ先卿(四川省政府役人)を生んだが、継母・蕭氏は三年足らずで死去した。
ケ文明はその後、更に夏伯根を娶った。夏氏は前夫陳氏との連れ子であるケ先芙(四川省党委員会で工作)の他に、次女と三女を生んだ。
連れ子であるケ先芙はその夫とともに、ケ小平が通った広安第二中学で教鞭をとったことがある。

ケ小平からみると、姉一人、弟三人、妹二人の七人兄弟であり、その中で彼は長男として育てられた。
ケ小平の正式の名、すなわち族譜の定める決まりに従って命名された名は“ケ先聖”だが、学名すなわち入学にあたって用いられた名は“ケ希賢”である。

ケ小平と名乗ったのは1927年夏、蒋介石の上海事変直後に武漢で秘密工作に従事した時以来だ。
1909年、ケ小平は5歳の時に協興郷の私塾に入り、二年間学び、新式の初級小学が出来るとそれに転じた。その後、広安県の高級小学、中学に進み、1918年に14歳で卒業した。
少年ケ小平(ケ希賢)は、その名のとおり「賢い子」であり、「本を三度読めばもう暗唱することが出来た」という。


■ケ小平 - フランス留学

1919年、国で全国に波及した売国的な軍閥政府に反対する学生運動が起こった。
当時15歳だったケ小平の在学していた中等学校もそれに巻き込まれ、学生の授業拒否が始まり、学校の正常な授業が出来なくなった為、ケ小平は家に戻る他なかった。

家に帰ってまもなく、父親の後押しの下で、ケ小平は重慶に開設されたフランス留学(フランス勤工倹学)の為の予備校に合格し、翌1920年夏に卒業した。
(ケ小平は三歳年上の叔父(父の弟)ケ紹聖とともにこの予備校に入り、同じ船でフランスへ旅立った。予備校時代には、ロシア十月革命が起こり、これに刺激されて中国で半植民地からの解放を求める反帝国主義運動が始まった)
中国の若者の目の中では、当時のフランスは民主政治の手本であり、文化も栄えで科学も発達し、見習うべき国であった。
翌年、16歳になったケ小平は、願いどおり他の82名の若者と一緒にフランス留学に赴いた。40日間余りの旅を経て、一行はパリの西郊外のコロンブスに到着した。

しかし、第一次世界大戦終結直後のヨーロッパは不景気の中にあった。就職や入学どころか、生活さえ困窮する状態であった。
ケ小平はお金を節約する為、高い生活費のかかるパリから200キロも離れた町にやってきて、その市立中等学校に入った。しかし、半年も経たないうちに、生活のために学校をやめなければならなかった。

半月後、ケ小平はフランス南部のある鉄鋼工場で働くことになったが、1カ月も経たないうちに仕事があまりにもきつ過ぎることと、職場の親方の差別扱いに耐えられなくなった為、この工場を辞めた。
その後、生活の為、レストランのボーイや埠頭の運搬労働者、清掃労働者などの仕事をした。自分の背が低いのは恐らくフランス滞在中いつも腹一杯食べられなかったからかもしれないと、ケ小平氏はかつてこう語ったこともある。

苦難にみちた生活の試練を経て、ケ小平は次第に円熟することになった。
1922年10月、何がしかの貯えが出来きたので学校に入ろうと思い、費用を節約する為、再び仲間と別れ一人で辺鄙な町の市立中等学校に入り、3カ月学校に通った。
これはケ小平のフランス滞在の5年間の最初で、そして最後の学生生活となった。また同1922年、ケ小平は中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。

1923年2月の初めに、ケ小平氏はパリ近郊のルノー自動車工場に入り、仕上げ工の見習いになった。数カ月後に、一人前仕上げ工になり、収入も増えた。
こうして、ここでかなり長い間働き続けた。

一方で、ケ小平がフランスに留学していた頃、中国では刻々と情勢が変化していた。
軍閥が中国をそれぞれに割拠する時代となり、西藏(チベット)、新疆地方を除けば全てが戦時下であった。

フランスで働きながら勉強する期間、ケ小平氏は国内の政治闘争に呼応する為、密かに革命活動に携わっていた。
1925年、若干21歳のケ小平は、中国共産党ヨーロッパ支部の指導メンバーとなった。その為にフランス政府に危険分子として睨まれ不満を招いた。
身の安全に鑑みて、1926年1月7日、ケ小平氏はフランスでの留学生活を終え、パリを離れて当時の共産主義の故郷といわれていた旧ソ連のモスクワへ向かった。
東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ為だった。しかし、ケ小平がパリを離れた数時間後に、フランスの警官はその住居を捜査した。
そして10日間後に、パリの関係当局はケ小平らを国外に追放する命令に署名した。この追放令は歴史の資料として現在でも残っている。

ケ小平にとって、5年間のフランス留学体験は、自らの意志を鍛え、政治の才能と経験を積み上げ、後に傑出した政治家になるうえで役立つものとなり、その人生に大きな影響を及ぼしたと言っても過言ではない。


[参考資料]
フランス租界 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%A7%9F%E7%95%8C

[参考資料]
苦難にみちた海外留学体験(当時の写真あり) - 北京週報.com
http://www.bjreview.cn/JP/04-32/32-zhongyao-1.htm


■ケ小平 - 帰国後

1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。
1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。
しかし、コミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うケ小平を失脚させる。

1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。
この後、華北方面での抗日ゲリラ戦や、1946年以降に国民党と戦った国共内戦で行われた淮海戦役・揚子江渡河作戦などで大きな戦果を収める。
1949年の中華人民共和国の成立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。

1952年、毛沢東により政務院常務副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。
更に昇進を続け、1956年の第8期1中全会において党中央政治局常務委員に選出され、党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。
1957年には、総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後、その99%以上が冤罪であったと認められた事件だった。


■ケ小平 - 文化大革命

ケ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。
大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記のケ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。
この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。
その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、更に翌年、江西省南昌に追放された。
「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、ケ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。
南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、ケは何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、ケ小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。
(ケ小平は1968年から5年間、追放の上、倒れても砂糖水しかもらえない状況で、強制労働をさせられるが、1973年、ここでまたしても周恩来に救われ、彼が病気でなかなか動けなかったことから、ケ小平がそれを補佐していく形が出来上がった)

同1973年8月、第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には、毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。
1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。
その際に訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展の為には製鉄業の拡充が急務と考え、≪新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。≫
1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、
1976年1月8日、最大の擁護者だった周恩来が没すると、ケ小平の運命は暗転する。
清明節の4月4日から5日未明にかけて、元々周恩来を邪魔に思っていた江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。
すなわち第一次天安門事件である。

この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、ケ小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。
しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。
同1976年9月、毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒(かこくほう)を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。


■ケ小平 - 権力の掌握

こうして華国鋒を推して復帰を果たしたケ小平は、ここでまず文化大革命が終了したことを宣言し、国内の建て直しを計る。
更に翌年1978年には日本を訪れ、その発展ぶりに目を見張ることになるが、こうした日本の姿から「社会主義の近代化建設」構想が生まれていった。

1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。
翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。
ケ小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

≪1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換の為、中国首脳として初めて訪日し、
昭和天皇や日本政府首脳と会談した他、千葉県君津市の新日鉄君津製鐵所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。
この訪日でケ小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。≫

同1978年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において、
文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。
また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。
ケ小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表された時は、全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

≪1979年1月1日、米中国交が正式に樹立されると、ケ小平は同28日から2月5日にかけて訪米。
首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。
前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視したケ小平は、改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。≫

ケ小平の目には、明らかに近代化に遅れた中国の現実がはっきりと見え、これに追いつくには開放政策、それも日本やアメリカなどの資本主義国家の技術を取り入れなければならないと思ったのであろうが、
こうしたケ小平の前に立ち塞がるのは相も変らぬ共産主義と言うイデオロギー、その教条的な思想である。
華国鋒はこうしたケ小平の路線に、やはり毛沢東と同じように“反共”を見てしまうのであり、毛沢東路線を堅持しようとする華国鋒とケ小平はこうして対立していくことになる。
しかし、ケ小平らの改革解放路線は、それなりの成果も治め始めていたことから、民主化運動に火をつけ、こうした民主化運動の力を借りて、国民からの圧倒的な支持を集めるまでになって行く。

ケ小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、ケ小平は華国鋒の追い落としを目論む。
華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、ケ小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。
北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、ケ小平を支持するものであった。
華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。

最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、
1982年、ケ小平同志の推挙によって胡耀邦(こようほう)が中国共産党主席、
そして前年の1980年には、ケ小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、いずれもケ小平の部下だった者がそのトップに立ち、
ケ小平自身は党軍事委員会主席のみ、あとは一般党員となったが、事実上ここにケ小平体制が確立され、スタートする。

≪ケ小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。
1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で、
「自由化して党の指導が否定されたら建設など出来ない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。≫

翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。
しかし、政治改革に全く反対だというわけではなく、ケは、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部たちを自らと共に党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。
ただし、ケ小平自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題にはケ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。
1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。


(五頁へ続く)

(四頁からの続き)


■ケ小平 - 天安門事件

生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わった為か、ケ小平は中国共産党の指導性を揺るがす動き(すなわち、自らに敵対する動き)には厳しい態度で臨み、
1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

この事件については、初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、
軍部を掌握していたケ小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。
天安門事件当時、台湾や香港(当時はイギリス領事下)ではケ小平氏の死亡説が流れたが、中国政府が事実無根のデマと否定した。

ケ小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、
同1989年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。


■ケ小平 - 政策

政治面では社会主義と中国共産党の指導性を強調し、経済面では生産力主義に基づく柔軟な経済政策がケ小平の基本姿勢である。

ケ小平の行った代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。
外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」に表れている。

1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していたケ小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。
経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、
天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。

[参考資料]
一国二制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%BA%8C%E5%88%B6%E5%BA%A6


■ケ小平 - 死去

ケ小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。
遺言は唯物主義に則り(のっとり)、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これはケ楠の希望で実施されなかった。
同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台はケの死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。
しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだ時に盛大に国葬が営まれたのと対照を成す。
ケ小平の死後、ケが唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、ケ小平理論として中国共産党の指導思想に残された。

[参考資料]
ケ小平理論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3%E7%90%86%E8%AB%96

→先富論、「我們的政策是譲一部分人、一部分地区先富起来、以帯動和幇助落伍的地区、先進地区幇助落伍地区是一個義務(可能な者から先に裕福になれ。そして落伍した者を助けよ)」
しかし、現実はそれを実現出来ておらず、沿海部と内陸部では雲泥の差の経済格差があり、中国最大の商業都市上海においても格差は広がっており、先に裕福になった人々と、そうでない人々が同居している状況である。

[参考資料]
中国の地域発展戦略及び主要経済圏等の配置(図表) - peoplechina.com 2009年8月24日
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2009-08/24/content_213248.htm


■ケ小平 - あだ名

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。
また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「ケ蝟子(ハリネズミのケ)」、「ケ矮子(チビのケ)」と呼ばれたりもした。
毛沢東はケ小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。


■ケ小平 - 逸話

 1.フランス留学経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかったケ小平は、いくつかの趣味を持っていた。
とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

[参考資料]
コントラクトブリッジ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8

 2.フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

[参考資料]
ホー・チ・ミン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3

 3.フットボール好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

 4.背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからだと後年、語っていた。

 5.≪ケ小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。
実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最もケが好んだ言葉であり、毛沢東がケを弾劾する際にその理由の一つとしている。≫

 6.≪1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。
また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」と見なしてきた中華人民共和国首脳としても、大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。
「日本と中国が組めば何でも出来る」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。
訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた時、電気ショックをうけたように立ちつくした。大使館に帰って「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話した。≫

 7.ケ小平の実子であるケ樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。
事実、紅衛兵によるこういった、或いはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、ケ小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。
ケ小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。

[以下、(その他の逸話に関する)参考資料]

毛毛(ケ小平の実娘)著『わが父・ケ小平』徳間書店 1994年刊より、P.401〜P.417を抜粋
http://www25.big.jp/~yabuki/doc/toku9402.htm

黄華元外相が語る条約交渉秘話(インタビュー) - peoplechina.com
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200311/zhuan28.htm

日本観察記(12)「舐犢情深」の田中角栄 - - peoplechina.com(薩蘇)
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-03/24/content_257666.htm

田中清玄・大須賀瑞夫 著『田中清玄自伝』文芸春秋 1993年刊 - 松岡正剛の千夜千冊 2006年2月20日
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1112.html

中国の市場経済化を推進したケ小平の正体 - オルタナティブ通信 2008年11月1日
http://alternativereport1.seesaa.net/article/108920188.html

「尚、ケ小平一族の経営する保利実業は、ロスチャイルド系軍事産業としてイラン・イラクなどに毒ガス・細菌兵器・核兵器部品の輸出を行って来た。
このドレフュス=アメックス=キッシンジャー=ケ小平の「直接的な資金窓口」となって来たのが、米国中央銀行FRBを「創立」したウォーバーグ銀行である」

「この中国共産党そのものである、「民間企業CITIC」の指導者・李嘉誠グループは、イスラエルと深く連携している。

世界最大規模のメディア企業ホリンジャー・グループは、カナダ・米・イスラエル・英国に新聞社80社、週刊誌を115所有・経営し、経営陣には、金で殺人を請負うカナディアン・マフィア=ブロンフマン一族を「迎え入れている」。
このホリンジャーは、傘下にネオコン派の牙城の1つである、イスラエルのエルサレム・ポスト紙を抱え、この新聞社の重役リチャード・パールが、ブッシュの国防政策会議議長としてイラク戦争を「決定」して来た。
このホリンジャーが、次々とメディア産業を買収して行く資金は、カナダ・バンクーバーの「表向き」独立投資会社のジー社から出資されていた。
このジー社の経営は、李嘉誠グループによって行われていた。

イラク戦争を推進したブッシュ=ネオコン派と、中国共産党指導部が、どれ程、深く歴史的に「一体化」して来たかを、これは示している。
更に、キッシンジャーという「ヌエ的な」二重スパイが、そのパイプの中核に居続け、現在はロスチャイルドの手足として動いている背後には、ロスチャイルドと中国共産党指導部が、
どれ程、深く歴史的に「一体化」して来たかが、強く垣間見えている」


◆   ◆   ◆


(六頁へ続く)

(五頁からの続き)


【黄色い猫と黒い猫(V) - この者に天のご加護を 2010年3月26日】

http://blogs.yahoo.co.jp/f_asadaca1wannet/24783539.html

注目箇所「」、注釈≪≫

「ケ小平が進めた改革は、それまでの国際的な対立から融和に方針が転換され、国際平和、国際協調が世界に向けて発信されていたことから、
天安門で自由を求める学生達を弾圧することに躊躇した江沢民体制は、学生達に人気が有った趙紫陽をこの説得に向かわせるが、
ここで涙を流し学生達を説得する趙紫陽をテレビで見ていたケ小平は、「あの馬鹿が、中国を崩壊させるつもりか」と呟くと、すぐさま軍関係者に指令を出し、これを徹底的に鎮圧しろと命じ、
その際死者が出ても構わないと告げる。
そして江沢民たちのもとを訪れると、「何をやっている」と激怒し、苦しい乱世の経験のない江沢民たちに、政治とはどう言うものかを眼前に示して見せるのである。
このケ小平の態度は国際的には非難を浴びる。

しかし、元々混乱する国家をまとめる時には独裁政治が最も効果があり、それから緩やかに民主化へと向かうのが、一番理想的な混乱社会の収拾方法である。
具合が悪ければあとで何とかすれば良い、今必要なことを今やらねば中国は4つか7つに割れていく。
10億か、それとも1万人か、もし1万人が死んでも10億が助かればそれが政治だ・・・、流石に2つの世界大戦を潜り抜け、資本主義とも共産主義とも闘い続けて来た人物だと思う。
このケ小平の厳しさのおかげで中国は分裂せずに、ソビエトの二の舞にならずに済んだのであり、その後改革が順調に進んだ中国はいまや世界第2位の経済大国であり、その礎を築いたのは間違いなくケ小平、その人である。

ケ小平は1997年2月19日この世を去った。
享年92歳、何度も失脚し、命の危険にまで晒され、それでもその絶望の中から這い上がってきた彼は、決して中国の国家主席になろうとはしなかった。
また死後は使えるものがあったら全て使って、残りは献体にでも使えと言って死んで行ったが、流石に恐れ多く、角膜は使ったものの、体は荼毘に付され、その遺骨は中国の領海にまかれた。

またこれも本人の遺言らしいが、自分が死んだからと言って特に何もするな、平常どおりの1日にしてくれとの事だったので、毛沢東が死んだときのような派手な式典も何も無く、
ケ小平が死んだその次の日も、そのまた次の日も、中国は昨日と同じように1日が始まっていたのである。

現在の胡錦濤(こきんとう)国家主席は、戦争を経験していない国家主席である。
だが、彼の行動を見てみると良い。日本へ来れば卓球の福原愛選手と卓球をして楽しみ、そして自国へ帰ればウィグル地区での徹底した弾圧だ。この男を甘く見たら大きな怪我をするだろう。
そして、中国と言う超大国に立つ者とはこうしたものであり、良い人が国のトップに立ったなら、中国は7つ以上に分裂するに違いない。

≪またこれは余談になるが、新聞各紙が余り大きく取り上げないので、ここで取り上げようと思うが、
実は今、アフリカ諸国などの大使館が日本から撤退し、随時中国に大使館を開き、結果として中国大使館で日本外交の実務を兼務してる国が増えてきていて、
こうしたケースの反対、つまり日本の大使館で中国外交の実務を兼務しているケースは全くない状態が起こっている。

少なくとも10カ国が日本に大使館を置かず、中国大使館で対日本外交を兼務していることが分かっているが、そのうち8カ国はアフリカであり、
コンゴ共和国、ギニア、トーゴ、ギニアビサウ、シエラレネオ、ニジェール、ブルジン、セーシェルが1990年から2000年にかけて、逐次日本大使館を閉鎖し、中国大使館で対日本外交を兼務している。
またキプロスとマルタは地中海の国だが、いずれも日本に大使館を置かず、これも中国大使館で日本外交をカバーしている。

日本と中国の国際的な影響力の差が少しずつ目に見える形となってきているが、資源確保を目的に世界進出が目覚しい中国、アフリカでも今や日本の影響力は低下し、
反対に中国の影響力が高まりつつあり、これは中東でも同じことが言えることを、日本は自覚しておくことが必要だろう・・・・≫」


◆   ◆   ◆


【問われる「先富論」の功罪 - 中国経済新論(中国社会科学院経済研究所ミクロ経済研究室主任 韓朝華) 2005年12月14日】

http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/080219kaikaku.htm

注目箇所「」

「過去30年間の改革開放を振り返ると、富と個人利益を追求する中国の民衆のエネルギーが解放され、社会経済と国民生活は大きく改善された。
しかし同時に、機会主義的な非生産的な利益追求行為が氾濫しているのも事実である。

社会利益と他者の利益を明らかに損なう様々な行為はずっと抑制されることなく、豊かになる行為(発展)において「悪貨が良貨を駆逐する」という逆淘汰が深刻化した。
遵法者は報われず、違法者だけが良い思いをしており、社会全体の道徳的価値観はほとんど混乱状態に近い。
社会において善し悪しが顛倒するという現象はすでに恒常化しており、最低限のモラルすら守られていない。

このような機会主義的な利益追求の競争から生じた「先に豊かになった者」と「後から豊かになった者」の間の対立、更には「先に豊かになった者」と「豊かになれない者」の間の対立は、激化する社会における軋轢の温床となった。

このような問題は既に広く認識され、反省も行われている。
市場経済は法治経済、更には道徳経済であるという言い方も生まれた。このことは、ポスト文化大革命期に意義があった理念が既に時代に合わなくなったことを意味している。

中国は、制度作りというより普遍的な次元で、個人の利益追及行為の基本原則を再定義する必要がある。
ルールを欠いた自由放任は、現代市場経済の本質的な特徴ではなく、中国経済の長期的かつ持続可能な発展を支えることが出来ない。

中国社会は、個人の蓄財、一部の人が先に豊かになることを単純に奨励し続けるべきではなく、個人の蓄財を正当化すると同時に、誰が、どのような方法で豊かになるかについて、明確で公平なルールを定める必要がある。
勤労により豊かになる者が尊敬され、違法者は侮蔑を受けるようにならなければ、道徳の再建、調和の取れた社会云々は単なる掛け声と化してしまう」


◆   ◆   ◆


【問われるケ小平路線の功罪―社会主義初級段階論を超えて― - 中国経済新論(関志雄) 2007年3月30日】

http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/070330-1kaikaku.htm

注目箇所「」、注釈≪≫

「ケ小平は、1978年の三中全会において、文化大革命の階級闘争を軸とする路線を否定し、経済建設を軸とする路線に転換した。
それ以来、「発展こそ硬い道理だ」(発展才是硬道理)という有名な言葉に象徴されるように、一貫して、経済建設を最優先課題と位置づけてきた。

南巡講話において、「社会主義の本質は生産力を解放し、発展させ、搾取と両極分化をなくし、最終的にはともに豊かになることである」とした上、
「資本主義のものか、それとも社会主義のものか・・・・を判断する時、主として社会主義社会の生産力の発展に有利かどうか、社会主義国の総合国力の増強に有利かどうか、
人民生活水準の向上に有利かどうかをその基準とすべきである」という認識を示した。

(1){生産力重視}

その中でも、次の発言のように、ケ小平は生産力の発展を最も重視した。

「我々が言う社会主義とは共産主義の第一段階であり、共産主義の高次のレベルでは、各人が能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けることが実現される。
その為には、社会的生産力が高度に発展し、社会の物質的富が極めて豊富になることが求められる。したがって、社会主義の最も根本的任務は生産力を発展させることに他ならない。

社会主義の優位性は、結局、その生産力が資本主義に比べてより速く、より高く発展することにあり、また発展した生産力の土台の上で人民の物質的、文化的生活を次第に改善することにある。

もし建国後、我々に欠陥があったとすれば、生産力の発展に対し、ある種の軽視をしたことであろう。社会主義は貧困を根絶する。貧困は社会主義ではなく、ましてや共産主義ではない」(1984年6月30日)

生産力を語る際、ケ小平は「経済発展を速めるには、科学技術と教育に頼らなければならない。私は、科学技術が第一の生産力と言っている」(南巡講話)と強調した。

(2){共同富裕論}

「一部の人、一部の地域が先に豊かになれ」というケ小平の「先富論」は有名だが、
これは、「一部の人、一部の地域が先に豊かになることによって、最終的に共に豊かになる」ことを目指す「共同富裕論」の一部に過ぎない。

実際、ケ小平は、「南巡講話」において、「先富」から「共同富裕」への道筋について、次のように述べた。

「社会主義の道を歩むのは、ともに豊かになることを逐次実現する為である。ともに豊かになる構想は次のようなものである。

つまり、条件を備えている一部の地区が先に発展し、他の一部の地区の発展がやや遅く、先に発展した地区が後から発展する地区の発展を助けて、最後にはともに豊かになるということである。
もし富めるものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなれば、両極分化が生じるだろう。社会主義制度は両極分化を避けるべきであり、またそれが可能である。

解決方法の1つは、先に豊かになった地区が利潤と税金を多く納めて貧困地区の発展を支持することである。勿論、それを急ぎ過ぎれば失敗してしまう。いまは発展地区の活力を弱めてはならず、「大釜のメシ(悪平等)」を奨励してもならない。

いつこの問題をとりたてて提起し、解決するか、どのような基礎の上で提起し解決するかは検討する必要がある。今世紀末にまずまずの水準に達したとき、この問題をとりたてて提起し、解決することが考えられる。

その時になれば、発展地区は引き続き発展し、利潤と税金を多く納め、技術を移転するなどの方式で未発達地区を大いに支持すべきである。
≪未発達地区はたいてい資源に恵まれており、発展の潜在力は極めて大きい。≫要するに、全国的範囲に考えて、我々は必ず沿海と内陸部の貧富の格差という問題を一歩一歩スムーズに解決出来る」

(3){現代化に向けての「三つのステップ構想」}

1987年にケ小平は、現代化という目標に向けて三つのステップ構想を打ち出した。
同構想は、第一のステップとして1990年には一人当たりGDPを1980年から倍増させ、「温飽問題」(衣食問題)を解決し、第二のステップとして、2000年にそれを更に倍増させ、「小康水準」を達成し、
第三のステップとして21世紀半ばまでに一人当たりGDPを更に四倍にすることを目標とした」

[参考資料]
改革開放 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E9%9D%A9%E9%96%8B%E6%94%BE

西部大開発 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E5%A4%A7%E9%96%8B%E7%99%BA


◆   ◆   ◆   ◆   ◆

◆   ◆   ◆   ◆   ◆


(七頁へ続く)

(六頁からの続き)


≪BGM≫

YouTube - JAPAN - 「Still Life in Mobile Homes」[TIN DRUM(ブリキの太鼓)収録]
http://www.youtube.com/watch?v=kFRyY1jOuug

YouTube - JAPAN - 「Still Life in Mobile Homes(1982,Live)」[Oil On Canvas収録]
http://www.youtube.com/watch?v=OOM7N924Rls

YouTube - JAPAN - 「Art of Parties」[TIN DRUM(ブリキの太鼓)収録]
http://www.youtube.com/watch?v=hzkVpF_mWW4

YouTube - JAPAN - 「Visions of China」[TIN DRUM(ブリキの太鼓)収録]
http://www.youtube.com/watch?v=HJZPjJal_Ag

YouTube - JAPAN - 「Cantonese Boy」[TIN DRUM(ブリキの太鼓)収録]
http://www.youtube.com/watch?v=Tomu8YrkQF0

YouTube - Mick Karn - 「Sculpture(1983)」
http://www.youtube.com/watch?v=1KaXj-9at3k

YouTube - EINSTURZENDE NEUBAUTEN - 「Feurio!(bonus track REMIX)」[Haus Der Luge収録]
http://www.youtube.com/watch?v=Lb8ZFYSg1Tw

YouTube - EINSTURZENDE NEUBAUTEN - 「Feurio!(1990,Live)」[Haus Der Luge収録]
http://www.youtube.com/watch?v=ZAoFkYaDImY


火事! Feurio! {歌詞日本語訳}


圧力と体温が/われらの混合から/生む 核融合 放たれる
魔物すさまじい/エネルギー

ムダだといおうか/だが加速する/加速するなら/いずれ滅びも/滅びとならない
よりよく知れ 叫びのわけを/知って叫べ 火事(Feurio)!

マリヌス、マリヌス、聞こえるか
マリヌス、あれはおまえか/あの火災王
テフロンにアスベスト/世の半分を占めるだけ/残りは燃える
たまさか点火/見ろ 晴れやかに/そら 灼々(あかあか)/灼々
みな捧げよう火災王に!

おまえは世の光
われらもまじる/融けこんで 全然不明――誰が・・・・・・誰?
われら決然/われら断然/可燃・爆発危険物
触れたら最後/火災王の火気に!


YouTube - EINSTURZENDE NEUBAUTEN - 「Ich Bin's(1990,Live)」[Funf Auf Der Nach Oben Offenen Richterskala収録]
http://www.youtube.com/watch?v=B7wCShAQYN8

YouTube - EINSTURZENDE NEUBAUTEN - 「Haus Der Luge」[Haus Der Luge収録]
http://www.youtube.com/watch?v=_LDfaTVvlTA

YouTube - EINSTURZENDE NEUBAUTEN - 「Haus Der Luge(2004,Live)」[Haus Der Luge収録]
http://www.youtube.com/watch?v=JZ4Q9_bDwLY

YouTube - The d.e.p - 「Mr.No Problem」[Mr.No Problem(single)収録] ※Vocal:Vivian Hsu
http://www.youtube.com/watch?v=-SvciGYuOj4

YouTube - The d.e.p - 「Mr.No Problem(2001,Live)」[Mr.No Problem(single)収録] ※Vocal:Vivian Hsu
http://www.youtube.com/watch?v=zw6uHOPp7Ws

YouTube - Vivian Hsu - 「8月のバレンタイン(1996,Live)」
http://www.youtube.com/watch?v=DCB34lrn794

YouTube - Vivian Hsu - 「Beautiful Day」[Beautiful Day(single)収録]
http://www.youtube.com/watch?v=sZy5oCp-_U8

YouTube - Vivian Hsu - 「親愛的」[Love Vivian収録]
http://www.youtube.com/watch?v=mHxgZ34435s

YouTube - Dali's Car - 「Dali's Car」[The Waking Hour収録]
http://www.youtube.com/watch?v=iD_e5Ym7r1A

YouTube - Dali's Car - 「The Judgement is the Mirror」[The Waking Hour収録]
http://www.youtube.com/watch?v=FWTLgBkw5fI


◆   ◆   ◆   ◆   ◆

◆   ◆   ◆   ◆   ◆


(全七頁完)

※この文章は、最初に山科ブログのコメント欄(下記URL)に投稿する為に作成したものです。

それを「意識」の俎上に載せよ - 山科恭介 夢想弄翰 2010年5月18日
http://kyosukeyamashina.blog62.fc2.com/blog-entry-356.html#commenttop

 

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コメント
 
01. 2010年5月19日 06:36:39: Yfxy7ql7SE
勉強になりました。最近のアフリカ地域での中国の進出と功績 しかし最近それに対しての民族意識の復活 いろいろときな臭いものを感じていましたが、よくわかる文章でした。ありがとうございます

中国は共産党独裁の独裁国家 一党独裁の元では「自分達の意見は必ず通って当たり前」の考えがあるのでしょうか。先日のCOPでの中国の横暴ぶりは目に余るものでした。

印象的だったのは
「中国の人々は、外国に搾取される弱い政府よりは、強い政府のほうがよいと考えている・・」

結局自分達が勝てばそれで良い・と中国国民も思っているわけですね。これでは絶対に世界の一員とはなれないはずです。現実中国人と韓国人はヨーロッパ・アメリカで最も嫌われている民族と言われています。

日本も急成長のとき「エコノミックアニマル」と言われ嫌われていましたが、中国はこれからがその時期なのでしょうか。

中国のメッキの繁栄はすぐに剥がれるでしょう。

中国共産党独裁政治が終わらない限り日本は中国と親しくすべきではないですね


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