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【「れんだいこの2010.6.15デモ参列ならざる参列記」その1】  れんだいこのカンテラ時評749
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投稿者 韃靼人 日時 2010 年 6 月 15 日 23:10:04: XfUHcQiPmEZmc
 

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れんだいこのカンテラ時評749 れんだいこ 2010/06/15 22:40

  【「れんだいこの2010.6.15デモ参列ならざる参列記」その1】

 今年も6.15がやって来た。れんだいこは、「2004.3.20、イラク戦争開戦一周年国際反戦デモ集会」に東京へ向かったが、あれ以来参加できていない。気忙しいのと手元不如意が重なり、なかなか思いきれない。行けば行ったで必ず得るものがあるだろうに、今年もあっというまに6.15を迎えてしまった。今年の6.15はどんな按配なのだろうと気遣うが、まずはあのオールド全学連達がが互いの健康を祝し合っているだろうと推測する。若い頃によほどデモっていたのだろう年の割には健脚揃いなのに笑った。来年こそは行けたら良いと思う。

 あの「6.15」はどういう意味を持っているのだろう。60年安保闘争世代は一様に「6.15」を引きずっている。蔵田氏の論考なぞ読めば、そのことが痛いほど分かる。今も苦吟しておられる。70年安保闘争世代のれんだいこは、史実を通してしか語れないが、連中は生身で体得している。但し、「6.15」の解釈を廻っては各人各様であり、未だに総括されていない。もとより、これが「6.15の歴史的意味だ」とする絶対的結論は望むこともあるまい。「銘々の6.15」があって良い筈である。よって、れんだいこの考える「6.15」も永遠に試論であり、それで良かろう。その試論であるが、れんだいこは、既成の学生運動論、左派運動論が見落としている格別の捉え方をしている。これをここで再度問いかけ、関心ある者からの評を聞きたいと思う。

60年安保闘争を最も精力的にになったブント全学連は、60年安保闘争後、五分裂した。よって五つの見方があることが判明する。ブント以外の革共同のそれ、日共のそれ、その他の国内左派のそれ、国外左派のそれという風に数えると、十有余の60年安保闘争論があることになる。その60年安保闘争論の芯を為すのが「6.15」であり、よって「6.15」を踏まえずには60年安保闘争は語れない。この位置づけだけは恐らくそうは異論あるまい。

 れんだいこは、「6.15」をどう捉えるのか。それは、運動主体側の理論がどうであれ、政治実践的には戦後ネオシオニズム直系の岸政権を打倒せしめ、ハト派政権を呼び水した極めて英明な人民大衆闘争であったと位置づけている。幕末までの百姓一揆、戦前の農民一揆以来の伝統を継ぐ労学一揆であったと評している。この労学一揆は、戦後ネオシオニズム直系の岸政権を打倒せしめ、自民党内護憲派のハト派政権を呼び水した点で、極めて有益な闘争であった。かく評している。

 これを更に煎じつめれば、こういうことになる。戦後日本は、戦前の天皇制支配秩序、大東亜共栄圏運動の束縛から抜け出し、代わりに反戦平和運動、戦後憲法新秩序へと転換した。もとより手放しで礼賛できるほど甘くはない。戦勝国側が戦勝国特権として敷設したのがネオシオニズム支配体制であり、戦後日本は大枠では全てこの秩序枠の中に組み込まれた。よって、そのクビキの下での反戦平和運動、戦後憲法新秩序を御神体にしていたと捉えるべきだろう。

 この矛盾がその後に政治運動の型と質を規定している。戦後日本は、用意周到に仕掛けられたネオシオニズム支配秩序と、それに同調する反戦平和運動、戦後憲法新秩序と、それを食い破る反戦平和運動、戦後憲法新秩序の三極下で政治運動が進展して行くことになった。これを食い破る系にブント全学連運動が位置していた。れんだいこ史観は、そのように捉えている。ここでは「6.15」の歴史的意味を捉えようとしているので、ブント全学連運動に焦点を合わせて評して見る。

 ブント全学連運動は、60年安保闘争後、その総括を廻って五分裂した。最左派の観点から「もっと激しく闘うべきであった」として執行部の日和見性を衝いたのが革命の通達派(東大派)であった。これに対して、右派の観点から、「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」として執行部の急進主義性を衝いたのが戦旗派(労対派)であった。この両派の中間に立って「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」と主張したのがプロ通派(学連書記局派)であった。この三派の抗争に距離を保ち60年安保闘争後の新たな陣形を欲していたのが明大、中大ブントであり、関西ブントであった。この系譜が第二次ブントを創出して行くことになる。抗争三派のうち、革命の通達派は空中分解し、戦旗派は逸早く革共同全国委に吸収され、プロ通派も後追いして革共同全国委に合流して行くことになる。

 この流れをどう読むべきか、つまりどう評するべきか。この総括が未だできていない。驚くべきは、60年安保闘争時の活動家自体が未だに評する視座を求めて彷徨っている情況にある。70年安保闘争時の活動家のれんだいこが、これを評せんとして登場するのは奇異ではあるが、そういう事情によって致し方ないということになる。敢えて弁護すれば、何事も渦中の者より距離を置いた者の方が能く見えると云う場合があると云うことであろう。

 という訳で、れんだいこが60年安保闘争の歴史的意義及び限界を評して見ることにする。れんだいこ史観によれば、60年安保闘争の総括は、プロ通派が正しい。即ち「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」と評したい。従って、プロ通派が革共同全国委に合流したのは大きな間違いであったと考える。これにより、分裂解体したブントの再建を明大、中大ブント、関西ブントが担ったのは正しい。但し、それはブントの再建を担ったのが正しいと云う意味であって、ブントの理論が正しいと云う意味ではない。理論のお粗末さにも拘わらずブント運動の歴史的功績を感覚的に認め、その運動を継承せんとした感性が素晴らしいと云う意味での評である。

 第二次ブントは、その後も「6.15」を求めて彷徨い続けることになった。その過程で分裂に次ぐ分裂を繰り返し、最後に最急進主義派としての赤軍派を生みだし、その赤軍派も今日的には破産し潰えている。ならば第二次ブント反赤軍派系が何らかの党派能力を維持し今日まで辿りついているかと云うとめぼしい党派は見当たらない。中には、党派ごと転向声明している部分をも生み出している。れんだいこは、この状況で、思考を再構築せんとしている。第一次ブント、第二次ブントの感性や良し、然るにあらゆる実践で破産しているのは偏に理論の間違いによるのではなかろうかと。

 2010.6.15日 れんだいこ拝



  【「れんだいこの2010.6.15デモ参列ならざる参列記」その2】

 ならば、どこがどう間違えているのか。これを確認しておく。紙数の限りがあるので結論のみ記す。戦後日本の左派運動は、そもそもに於いて戦後日本の規定を間違っているのではなかろうか。れんだいこの学ぶところ、マルクス主義理論においては、ロシア10月革命以来、世界は資本主義対社会主義の枠で抗争しており、戦後日本は資本主義体制であり、この社会の様々の矛盾、軋轢は資本主義体制打倒によってのみ根本解決する。その手法は穏和系の議会主義的平和革命、中間係の敵の出方論、急進主義系のプロレタリア独裁革命の三理論に分かれ、それにより戦略戦術を異にしている。その後の社会主義圏の中ソ対立により、親ソ派、親中派、西欧コミュニズム間の理論対立もある。しかしながら、各派とも戦後日本=資本主義体制論であることでは一致している。

 れんだいこは、そもそもここが間違いではないかと思っている。戦後日本資本主義体制論はマルクス主義経典読みのマルクス主義知らずの愚を犯しているのではなかろうか。本来のマルクス主義に従うと、戦後日本は国際金融資本帝国主義のクビキ下に置かれていることにより複相しているが、理論的にはプレ社会主義体制として位置づけられるべきではなかろうか。特に戦後憲法秩序的にはそうであり日米安保体制的には資本主義になると云う二面構造を示しているが。

 この位置づけによると、日本左派運動は、世界史的に先取された戦後日本のプレ社会主義を護持、成育受肉化して行くのが目指すべき実践となる。つまりなべて反体制ではなく、プレ社会主義体制面では護持派、日米安保体制面では反体制派として実践して行くべきということになる。幸いなことに戦後日本は進駐軍時代より間接統治となったる。日本左派運動はこれを見抜き、政権取りを第一任務とすべきであった。だがしかし、この試みは、戦後直後の共産党運動を指導した徳求−伊藤律党中央時代を除いて記録がない。つまり、左派は永遠の外野席からの批判者に甘んじ、且つそういう風に仕向けられている。それも、急進派になればなるほどブルジョア議会ナンセンス論の色を濃くするので余計にそうなる。れんだいこは、ここが違うと見立てている。

 さてそうなると、体制側の権化たる政府自民党の1950年代から70年代までを主流派として維持したハト派系政治と何者だったのかと云う問いが出てくる。れんだいこは、体制側の顔をしたネジレ左派であり、本来の左派が政権取りを狙わなくなった代わりに政権を担い、曲がりなりにもプレ社会主義体制を護持、成育受肉化せんとしていたのではないかという仮説に辿り着いている。このネジレ左派政治は1970年代の田中派−大平派により頂点に達し、1976年のロッキード事件によって鉄槌を食らう。興味深いことに田中派−大平派の選挙運動のスタイルは何とも人民大衆的である。彼らは支持者と膝を交えて政治政局を語り合うのを悦びとしている。

 さてそうなると、そのロッキード事件時に最も強硬に田中角栄の政治訴追運動を担った宮顕−不破党中央の日共とは何者なのかと云うことになる。れんだいこは、左派側の顔をしたネジレ右派であり、口先では民主主義擁護をあれこれ述べるものの実践的には現代世界を牛耳る国際金融資本の左からの御用聞き派ではないかとみなしている。興味深いことに日共の党内支配、選挙運動のスタイルは何とも権力統制的排他的で反人民大衆的である。彼らは支持者に対して一方的に語るが、膝を交えて政治政局を語り合うのを不得手としている。

 もとへ。ロッキード事件以降、政府自民党の主流派になったのがタカ派系の福田−中曽根派であり、以降この系譜が政権を担い続けることになって今日へと至っている。これを思えば、「1960.6.15」で自民党内ハト派を政権に呼び込んだ第一次ブント、ロッキード事件で自民党内タカ派を政権に呼び込んだ日共という鮮やかな対比が見えてくる。れんだいこ史観によればそうなる。

 ブント自身が、こういう風に位置づけていないのでお話にならない。途中、田中派出自のは竹下、大平派出自の宮沢が登場しているが、福田−中曽根連合に身売りした内通派として一時の政権に与ったものでしかない。この自民党タカ派主流体制に風穴を開けたのが細川政権であり、久方ぶりの昨年の鳩山政権である。これをプロデュースしたのが角栄チルドレンの小沢であり、その小沢は常に悪玉説で政治活動を掣肘され続けている。 

 れんだいこによれば、戦後日本は、プレ社会主義体制を廻って護持派と解体派が相克している。小沢はかっての自民党内ハト派主流派時代の最期の政治家である。鳩山を後継した菅政権は、その小沢をどう処遇しようとしているのか。真相は来る参院選、その後の政局で見えてくるであろう。政治はまことに面白い。

 「6.15」を担った第一次ブントは、第二次ブントに至っても、こういう政治の流れに無自覚であり、よって何らの生産的運動を創出し得ていない。そういう意味で今日の不遇は理論の間違いによる自業自得ではなかろうかと思わせていただいている。しかしながら、れんだいこは、ブントの感性が好きである。人間的にも面白い人物が多い。そのブント運動を目の敵にして党派形成している日共、革共同のそれは胡散臭い。今後、日本左派運動が再生するとしたなら、このブント魂、ブント精神を経由してのみ可能ではなかろうかと思っている。

 というようなことが云いたかった。一応云いたいことを云ったので、これでお仕舞いとする。これを「れんだいこの「2010.6.15デモ参列ならざる参列記」とする。

 2010.6.15日 れんだいこ拝


 

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