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井戸を掘った人たちの苦労を無にする前原外相の日中離間外交 「日中最高首脳部会談考1〜3」 れんだいこのカンテラ時評838
http://www.asyura2.com/10/senkyo98/msg/452.html
投稿者 韃靼人 日時 2010 年 10 月 31 日 05:56:45: XfUHcQiPmEZmc
 

れんだいこのカンテラ時評838 れんだいこ 2010/10/30 21:11

 【日中最高首脳部会談考その1、秘密会談】 

 1972(昭和47).9.27日午後7時半、北京の迎賓館でくつろいでいた田中首相一行のもとへ、中国外務次官の漢念竜から電話がかかってきた。日本外務省の橋本中国課長が取り次ぐと、「毛沢東首席がお会いします。田中総理と大平外務大臣にお越しいただきたい」という電話の内容であった。それを聞いた田中は即座に云った。「二人だけというのはダメです。二階堂官房長官も一緒に来ているのだから、行くのなら一緒に参ります。そう応えてくれ」。

 午後8時、周恩来首相が「先ほどは失礼しました」と云って、姫鵬飛外相と共に迎えに来た。この時、ちょっとした悶着が起った。田中の護衛官が必死の形相で、「私を連れて行ってた下さい。そうでないと日本からついて来た私の職責が果たせません」と田中の袖にとりすがって再三哀願した。田中は、「いいんだよ」と軽く振り払おうとするが、護衛官はそうはさせじと頑張った。田中は彼の顔を真正面から見据え、概要「いいんだよ。分かっている。ここまで来れば煮て食われようと焼いて食われようと、いいじゃないか」と云ってニッコリと笑った。こうして三名のみが出発したが、突然の予定変更であった為、二階堂の車にはホストが不在だった。車は毛主席の住まいする中南海に向かった。

 午後8時、田中首相の一行が到着した。「毛主席は田中首相を迎えるため、部屋の外に出て、立って待っていました。田中首相は顔の汗をハンカチで拭きながらやってきました。二人はしっかりと握手し、それを中国のカメラマンがフラッシュをたいて写しました。撮影は一回だけでした」と王効賢さんは回顧している。田中首相は毛主席に大平外相を紹介し、二人は握手を交わした。その時、毛主席が「大平」を「太平」にかけて「天下大平」と云った。林さんはこれを「天下泰平ですね」と訳した。この当意即妙のユーモアに笑い声が起こった。最初は厳粛な顔をしていた田中首相の顔がほころび、それ以後、和気あいあいとした雰囲気となった。テーブルには杭州の竜井茶が入れられた。愛煙家の毛主席だったが、タバコに手を出さなかった。暑がりで有名な田中首相も、このときばかりは愛用の扇子を取り出さなかった。

 午後8時半、毛主席の書斎で日本側首脳と毛沢東主席(78歳)との会見が始まった。日本側は田中首相、大平外相、二階堂官房長官。中国側は毛主席、周総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長、これに通訳・記録係として王効賢(外務省アジア局所属)と林麗雹(共産党中央連絡部所属)の二人の女性が加わった。日本側の事務方は出席していない。会見は約1時間にわたった。田中が辞去するとき、毛は用意していた「楚辞集注」大巻を贈った。

 青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。「この二人の会談を契機に、それまで足踏みしていた国交正常化交渉は一気に進展し、二日後には共同声明の発表にまで漕ぎつけることができたのだ」、「1972.9.27日、両雄の一度だけの会談は僅か1時間で終わっている。それは日本と田中角栄の運命を決める長い1時間でもあった」。

 会談の冒頭、毛の方から口を開き、田中首相のスピーチにあった「多大な迷惑」を廻る周首相との鞘当を話題にして「チャオ(口に少)完架了マ?総是要チャオ一些的。天下没有不チャオ架的嘛」(周首相との喧嘩はすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです)と切り出した。「喧嘩はしなきゃ駄目ですよ。互いに云うべきことを主張し喧嘩してこそ仲良くなれるものです」と続けた。 田中答えて曰く、「ええ少しやりました。問題は解決しました。今は周恩来首相と円満に話し合っております。いいたいことは一つ残さずに話したつもりです」。毛曰く「そう、それで結構、喧嘩をしてこそ仲良くなれます。本当の友情が生まれます」の遣り取りが為された。

 毛主席は、大平外相と姫外相を見やりながら、「ト續c他打敗了ーノ」(あなたが相手を打ち負かしたのですね)とユーモアをこめて尋ねた。大平外相はあわてて答えた。「いいえ、打ち負かしてはいません。我々は対等に云いたいことを云い合いました」。こう云い終わるや、大平、姫両外相は声を合わせて笑った。周総理がこの会話をひきとって「両国外相很努力」と云った。「両国の外相はともに大変よくがんばった」とその労をねぎらったことになる。田中首相もこれに続けて「両国の外相は、大変努力して、多くの仕事を成し遂げました」と称えた。
 
 この道中のどこかで次のような遣り取りがされている。れんだいこが、現在漏洩されている情報から類推して再現してみる。 毛主席曰く概要「迷惑をかけたという問題はどう解決しましたか。若い人たちが、ご迷惑をかけたという表現は不十分だと云って拘っております。それも無理は有りません、中国では女性のスカートに水をかけた時に使う言葉ですから」。田中首相曰く概要「日本語の迷惑は中国の意味と少し違います。日本語の中で使われている漢字は元をただせば中国から入っておりますが、その後日本的用例も生まれております。日本語的意味では万感の思いを込めてお詫びする時にも使います。すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省していると云うことを表わす為に使う場合もあります。いずれにせよ、このことに拘られるのであればここで揉めても仕方ないので中国の習慣的解釈に添って改めるよう準備を進めております」。毛主席曰く概要「わかりました(明白了)。迷惑の言葉の使い方は、日本の首相の方が上手なようです。いろいろ困難は有りますが歴史的大義に向って邁進しませう」。

 思いがけぬ騒動となった迷惑問答は、毛主席の「わかりました(明白了)」でケリがついた。続いて雑談が少々続き、毛は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」と述べている。これについては別に論じたいと思う。これも、毛主席の慧眼ではなかろうかと思う。もとへ。大平外相が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛主席曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応えた。会談時の友好ムードが伝わる逸話である。

 その他、中国の伝統墨守的弊害、日本の選挙制度等々にも話題が及んだと伝えられている。能力のある者同士が外交やればこういう風になり、逆は逆になると云う見本のような会談内容ではなかろうか。 

 2010.10.30日 れんだいこ拝


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れんだいこのカンテラ時評836 れんだいこ 2010/10/30 18:14

【日中最高首脳部会談考その2、秘話】

2010.10月現在、日中は菅改造内閣の前原外相の下で、日中離間外交が押し進められようとしている。アジア間の悶着を誰が差し金しているのか、請け負っているのか云うまでもない。こういう時であるからこそ、かの時の田中角栄一行と毛沢東一行の日中最高指導部の秘密会談の内容を確認して見たい。以下、「日中最高首脳部会談考その2、秘話」を愚考する。

 ひと通リの挨拶と雑談が終わると、毛沢東は田中角栄の目の前で、やおら右手を頭上にあげた。その手を左右にゆっくりと振る。田中達の前で何度か同じ動作を刳り返した後、彼は視線を泳がせるようにしながら口を開いた。「田中先生、日本には四つの敵があります」。

 この発言を耳にして、田中は辟易し、内心ではくど過ぎると思ったと云う。「四つの敵」という言葉は、中国を訪問する前に行われた外務省のブリーフィングで、何度も聞いていた言葉だったからである。曰く、「アメリカ帝国主義」、「ソ連修正主義」、「日本軍国主義」、「日本共産党宮本修正主義」の「四つの敵」と戦うよう、当時の中国共産党は日本に対して盛んに訴えていた。いわば、中国革命外交のキーワードだった。「日本軍国主義」については中国訪問の当日からさんざん説明し、中国側の理解も得たはずのテーマである。それを又も聞かされるのか。

 だが、毛の口から出た「四つの敵」は田中の想像を裏切るものだった。毛は右手の指を一本ずつ折り始め次のように語った。「最初の敵はソ連です。親指が曲がった。二番目がアメリカです。人差し指がたたまれる。そしてEC(ヨーロッパ)です。中指を折りながら発言が続いた。最後がと言いつつ、毛の薬指が曲がった。それは中国です」。

 視線は四本の指を折り曲げた自分の右手に向けられたまま、田中らを見ようともしない。その姿は、瞑想に耽っているようだった。列席した人の中からは咳き一つ聞こえない。田中だけではない。大平も二階堂もこの言葉に沈黙していた。静寂の中、毛の声だけが室内に響いた。

 毛は更に話を進めた。意外な人物の名前が毛の口から発せられた。「あなた方はヒットラーをご存知ですね。今でもヒットラーは西側の一部では尊敬されていますが、私の見るところではバカな男です。彼はイギリス、フランスを敵に回し、ソ連に挑み、最後にアメリカと衝突したのです。中国人民もまた敵になったのです。彼は全世界を敵に回してしまったのです。なんと愚かな男でしょうか」。

 次に槍玉に挙がったのが、日本の東条英機だった。「お国の東条も同じでした。まず最初に中国と戦いました。アメリカに戦争を挑み、イギリス、フランスとも衝突しました。最後にはソ連とも戦う羽目に陥ってしまった。世界中が日本の敵になったのです。みんなを敵にして、東条は自滅していったのです」。

 彼らの名前を挙げて、毛は田中にこう聞いた。「あなた方はもう一度ヒットラーや東条の歩んだ道を歩むのですか。よく考えなくてはいけません。世界から孤立して、自暴自棄になって自滅していくのですか。アメリカ、ソ連、欧州、そして中国。この四つを同時に敵に回すのですか」。

 ここから先は、れんだいこが会話を推理する。毛沢東は次のように述べたのではなかろうか。「今後の世界は、アメリカ、ソ連、欧州、中国が基軸になります。この4大国は歴史的に見てもも互いに相容れず、今後とも協調しつつ対立していくことになるでせう。さて、日本は、この4大国とどう関わりあうのか、それが問題です。4大国全てと仲良くすることはできそうでできません。それはどの陣営とも腹蔵ない関係に立っていないことを証左しているに過ぎません。奥深いところで、どちらかの陣営と連合する以外に生き延びることができません」。

 毛沢東の話は続いた。「あなた方がこうして北京にやってきたので、どうなるのかと、世界中が戦々恐々として見ています。中でも、ソ連とアメリカは気にしているでしょう。彼らは決して安心はしていません。あなた方がここで何を目論んでいるのかが分かっているからです」。

 二つの大国が日本と中国の接近の行方を注視している。毛はこう云うのだった。「ソ連と較べると、アメリカはまだ幾らかはましでしょう。しかし、田中先生が来たことを愉快には思っていません」。

 ソ連が日中接近を警戒するのは分かる。日本と中国という、ソ連に対して友好的ではないアジアの二大国が関係を正常化することにモスクワは神経を尖らせていた。アメリカはなぜ気分が悪いのか。「ニクソンはこの二月、中国にきましたが、国交の樹立まではできませんでした。田中先生は国交を正常化したいと言いました。つまり、アメリカは、後から来た日本に追い抜かれてしまったという訳です。ニクソンやキッシンジャーの胸にはどのみち気分の良くないものがあるのです」。

 毛は笑いながらアメリカとソ連の心中を解説して見せた後、こう述べた。概要「田中先生、何十年、何百年かけても話し合いがまとまらないこともありますが、たった数日で合意することもありますよ。さて、今後の世界はどうなるのか。五十年、百年先を見通さねばなりません。それを思いやれば、究極、民族的、歴史的に近いところが提携するのが一番理に適っています。どうですか、田中先生、我々と組もうではありませんか。組むというなら徹底して組もうではありませんか」。

 毛沢東の口から出たのは日中同盟論だった。即答できるような話ではなかった。 

 漏洩されている会談内容はここまでである。れんだいこには、この「秘話」は極めて重要なメッセージを告げているように思われる。れんだいこ史観によると、稀代の戦略家・毛沢東は、田中角栄に同じ資質を見出し、恰も同志的もてなしをしている。まずこのことに気づくべきである。「角栄の左派的資質」―ここにキーワードが隠されている、とれんだいこは観る。その上で、「トップ・シークレット的百年の計」を授けようとしていると読み取るべきである。この視点によってこそ「毛沢東―角栄会談」の凄さが見えて来る。

 れんだいこは、実際にはもっと突っ込んだ話があったのではないかと勘ぐっている。例えば、近代から現代の世界史の動向を語り、世界を裏から支配している国際金融資本帝国主義ネオシオニズムに対する言及が為されていたのではなかろうか。その上での対抗策としての日中同盟論がぶたれていた可能性が有ると観る。但し、この線の話は「最も危険な話」であるからして徹底的に隠されざるをえない。故に推理するしかない。 

 もとへ。一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。毛主席は、書棚の中から糸とじ本の「楚辞集注」全六冊を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。「楚辞集注」は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた「楚辞」に、南宋の学者の朱熹(朱子)が注釈を付けたものである。毛沢東は、なぜ「楚辞集注」を贈ったのか。これについては別途論ずることにする。毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。こうして「歴史的な会見」は終わった。

 和やかに終始した「毛沢東―角栄首脳会談」の成功で、日中国交正常化交渉の成功は約束されたも同前だった。時間にして一時間。しかも通訳が入るので実際の会話は30分にしかならなかった。青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。

 「この二人の会談を契機に、それまで足踏みしていた国交正常化交渉は一気に進展し、二日後には共同声明の発表にまで漕ぎつけることができたのだ」、「1972.9.27日、両雄の一度だけの会談は僅か1時間で終わっている。それは日本と田中角栄の運命を決める長い1時間でもあった」。

 毛の自宅を辞した田中は大きく息を吸い込んだ。政治抜きと伝えられた日中首脳会談は、徹頭徹尾政治的なものだった。会談終了後、二階堂官房長官が日本の随行記者団にその模様をブリーフィングした。「一切、政治的な話は抜きだった」。その記事が翌朝の新聞紙面に載った。

 あれから40年、日中関係は垣根を取り払い、貿易や人の往来の面で大きく発展した。日本資本の中国市場展開も大きく進んでいる。かの時、日中最高首脳部が歴史を読み政治的決断をした「元一日」の賜物であろう。しかしながら、その後の日本政治は大きく暗転する。田中派、大平派が解体され、タカ派が専横する時代になった。中国も然り。文革期に指弾された走資派が奪権し、米中間は蜜月時代に入っている。

 れんだいこ史観によれば、日中とも国際金融資本帝国主義に手玉に取られたことを意味する。国際金融資本帝国主義は、日中の親和化を許さない。離間を図り、少なくともワシントンの意向に従うよう指令しシナリオからはみ出ることを許さない。そういう事情により、日中両国は経済的交流を深めつつも、教科書問題、歴史認識、靖国神社への首相公式参拝、ごく最近では尖閣諸島の領土問題等々の政治難題で波風が立つよう仕向けられている。こう読み解くべきではなかろうか。

 最後に「歴史的会見」に同席した王さんと林さんの声を聞いてみよう。王氏曰く「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある。そのためには、日本は過去の侵略の歴史を承認し、反省する。そこに『中日共同声明』の原点がある。教科書問題などが起こるたびに『原点に帰れ』と私は思う」。

 林氏曰く「周総理は、『飲水不忘掘井人』と言われた。今日の中日関係を考えるとき、その井戸を掘った人たちの苦労を忘れてはいけない。国交正常化に到るまでも、民間交流が大きな役割を果たした。民間大使と言われた西園寺公一先生は、国交正常化が実現するまで禁煙を続け共同声明が発表されてからタバコに火をつけて、おいしそうに一服吸った。国交正常化という仕事は、容易ではなかったのです」。  

 2010.10.30日 れんだいこ拝

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れんだいこのカンテラ時評837 れんだいこ 2010/10/30 20:43

 【【日中最高首脳部会談考その3、同志的眼差し】 

 関連して補足しておけば、「秘話」は角栄の左派的資質を窺わせるのではなかろうか。なぜなら中共政権首脳の毛沢東、周恩来が見せた眼差しが恰も同志的であるからである。毛沢東はそれまで日本共産党指導者の徳球、野坂、宮顕と会談している。この時の態度の差が興味深い。これを結論から述べると、毛沢東の徳球観は同志的であった。徳球も毛沢東を革命遂行の先達の大指導者として仰ぎ見た。その親密さは、徳球が1953(昭和28).9月に北京で客死(享年59歳)し、その遺骨を妻の徳田たつと志賀義雄が持ち帰る為に訪中した際の1955.9.13日、北京で3万人が参列する追悼大会が催され、毛沢東主席が「徳田球一同志 永垂不朽」と称えたことでも知れよう。

 野坂に対しては相手にしていない。野坂が親交があったのは後の走資派ばかりである。とかく胡散臭い。宮顕に対しては毛嫌いしており敵性的である。日中共産党の蜜月時代に於いてさえ、まともな会談が一つさえない。宮顕は二度ほど病気療養名目で訪中し大名旅行しているが、「何があれが革命家か」と不評を買っている。これを勘案すれば、角栄―大平に対して見せた同志的態度をどう理解すべきだろうか。一度しか相対せずとも肝胆相照らす仲になっている。

 これはどういうことであろうか。れんだいこには何ら解せないものがない。毛沢東は、感性的にも政治的にも徳球、角栄、大平に対して同志的であった。これに引き替え、野坂、宮顕に対しては敵性的であった。つまり左派圏内に闖入して来た異分子と看做していたと云うことであろう。ところが、日本左派運動史では逆に徳球が罵倒され、野坂、宮顕を名指導者とする論調を通説としている。野坂は晩年、モスクワ在住時の同志売りが露見し除名されたが、宮顕の地位は不動である。角栄は諸悪の元凶視されている。宮顕の後を継いだ不破の地位も動かない。その後釜の志位の評価はこれからであるが、宮顕―不破―志位と云う同一系党中央が55年有余に亘って牛耳っている。戦後日本の政党史上不倒の長期政権となって党勢をジリ貧化させている。

 もとへ。日中の左派戦線で田中角栄の評価が割れていることになるが、これはどういうことだろうか。れんだいこは、毛沢東の観点の方が正しく日本左派運動の観点の方が歪んでいると見る。但し、毛沢東を絶対視するつもりはない。れんだいこの毛沢東論は建国前に於いて最も有能であり、建国後において経済指導に失敗し凡庸になったと見立てている。その点で、戦後日本を名指導し高度経済成長する日本を牽引している田中角栄を畏敬し、一目も二目も置いていたのではなかろうかと思われる。そういう意味で、毛沢東の建国後の経済政策は失敗したけれども人物論は終始概ね正鵠であったと見る。

 この観点に立つと、日本左派運動の貧相な見識こそ恥ずべきと云うことになる。宮顕系日共党中央を始めとする日本左派運動の見識たる反福本論、反田中清玄論、反徳球論、反伊藤律論、反角栄論ほど有害なものはない。彼らは、終始反革命を指導し日本の人民大衆を騙し続けていることになる。これが、日本左派運動失速の過半の原因ではなかろうか。日本を裏で支配する勢力が日共をを始めとする日本左派運動勢力各派を上手に操っていると云うことにもなる。通りで政局のここ一番で自民党内タカ派と日共が論調を一致させる筈である。その他の左派運動勢力各派がこれにダンマリする訳である。このことが何ら不思議ではなくなる。誰かこの認識を共にせんか。

 毛沢東のその後の田中角栄に対する眼差しも確認しておこう。毛沢東はその後の角栄に並々ならぬ関心を持ち続け、角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が青木直人著「田中角栄と毛沢東」で次のように明らかにされている。概要「1976(昭和51).2.4日、突如ロッキード事件が発覚した。この時既に毛は最後の闘病の日々を送っていた。その後日本の政界は未曾有の政治危機に直面していくことになった。同年7月、毛は中国を訪れたタイのククリット首相に、『私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている』と云いながら、ウォーターゲート事件に巻き込まれたニクソンと金脈追及で辞任した田中角栄の名を挙げた」。

 『私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている』の下りは、毛沢東の客観評論としてではなく、それほど角栄を気にかけていたと窺うべきだろう。

 もう一つのエピソードが次のように明かされている。毛は最晩年まで身辺から書籍を離そうとしなかった。病床にあっても意識はまだはっきりしていた。身辺の看護を担当していた愛人の張玉鳳は、毛が選んだ本を朗読することが日課になっていた。では、毛が人生の最後に接した書籍は何であったか。諸説有るが「三木武夫」であったという説がある。

 これは何を示唆しているのか。これを読み解くのに、毛は、田中角栄逮捕となった日本のロッキード事件に並々ならぬ関心を持ち、角栄訴追の急先鋒を勤める政治家三木の分析に向かおうとしていたのではなかろうか。決して「クリーンでもないのにクリーン三木」として売り出す三木を評価して三木を知ろうとしていたのではあるまい。青木氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。

 思えば、毛沢東の評価も、田中角栄の評価も棺を置いてなお定まっていない。政治の最高度のところのものは皆、かような運命にあるのかも知れない。林彪将軍となると闇に消されたままになっている。歴史はかく偽造され、愚昧な通説ばかりが流布される。心して参ろう。自称左派運動研究家にして在家歴史学者のれんだいこが覚束ないながらも歴史の真史に挑む。誰かエールしてくれカンパしてくれふふふ。

 2010.10.30日 れんだいこ拝


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れんだいこのカンテラ時評835 れんだいこ 2010/10/29 20:52

【毛沢東―角栄会談秘話考その4、毛沢東の「楚辞集注」贈呈の裏意味考】

 現代政治、政局の痴態に食傷するれんだいこは、その反作用であろう田中角栄と再対話している。今日も久しぶりに古本屋に立ち寄り、大概の角栄本は読んでいるつもりであるが読み落としていた早坂茂三著「オヤジとわたし」(集英社、1987.1.20日初版)を見つけた。今読み進めているが、早坂氏の角栄ものの中でも傑作ではなかろうか。読了後、れんだいこの角栄論の中に取り込み、更に充実させたいと思う。

 ここでは、毛沢東―角栄会談秘話考その4として毛沢東の「楚辞集注」贈呈の裏意味を愚考してみる。

 ここに一つの逸話がある。角栄は首相就任時に「決断と実行」を掲げ、その言葉通り日中国交回復交渉に取り組み北京へと飛んだ。道中の剣呑さをも見事こなして堂々と帰国したのは衆知の通りである。ところで、ここで見落としてはならないエピソードがあるので以下記す。

 角栄は、この時、毛沢東主席と会談した際に、自筆の漢詩調の詩文墨書き4行詩を毛主席に手渡している。「国交途絶 幾星霜、修好再開 秋将到、隣人眼温吾 人迎、北京空晴 秋気深」
 (国交が絶えて久しかったが今国交回復の機が到来した。中国人民の眼は温かく、北京の空は晴れ秋の香りがする)

 毛主席が会談の別れ際に直接、そのお返しにくれたのが、詩経とならぶ中国の詩文の古典「楚辞集注全六冊」(「屈原詩註4冊」ともある)であった。世上、この毛沢東の田中角栄に対する「楚辞集注」プレゼントの意味を様々に解釈している。れんだいこを得心させるものはない。そこで、れんだいこが読み解こうと思う。「楚辞集注全六冊」の解説については「『楚辞』〜中華文明の黎明期〜」その他を参照する。 

 当時の角栄は首相就任直後の飛ぶ鳥をも落とす勢いの頃である。日中国交回復は日中共に利益のあることであったが、それを纏め上げることにはかなり難易度の高い外交問題が介在しており、日本側の田中−大平コンビ、中国側の毛−周コンビでなければ到底解決し得なかった。せいぜい先送りの糸口を作った程度で物別れに終わるのが関の山であった。それを、譲るべきところは譲り引かざるところは引かず、ものの見事に纏め上げた角栄の手腕は剋目すべきものであった。毛主席はそれらのことを踏まえた上で、角栄の尋常ならざる有能性を見抜き、最大級のもてなしを意味する会見の場を設けた。会談は1時間に渡った。田中が辞去するとき渡されたのが「楚辞集注」であった。

「楚辞集注」とは如何なる書か。れんだいこは読んではないのだが、解説本を読むのに主役は屈原である。ならば屈原とは何者か。司馬遷の史記の屈原賈生列伝に記されている屈原像、その他の文献から推定するのに、屈原の人となりは次のようなものであった。

 「屈原は中国楚の時代の辺境県に頭角を著していた楚の国の王族系重臣であり且つ優れた詩人でもあった。つまり、現代で云えばトップ級の官僚又は政治家であったと云うことになる。その性は剛直で是非の分別に明るい質であった。国を憂いて度々、懐王に経綸を奏上したが、聞き入れられないばかりか却って疎んぜられた。後に懐王は秦の張儀に騙され虜囚となり新しく頃襄王が立った。屈原はこの王にも煙たがられた。

 やがて党人といわれる君側の小人たちの嫉妬や讒言、これを聞きいれた君主の不明によって官位を奪われ、政界追放の悲運に遭う。屈原は憂愁と憤懣のうちに山野水辺を放浪し続けた挙句、国家の将来を案じながら汨羅江の淵に身を投げる。こうして自ら生を終えた悲運の人であった。5月5日の端午の節句にちまきを食べる風習があるが、屈原を偲ぶのが事始めの行事と云われている。屈原が当時の民衆から支持されていたからこその楚辞集注であり、風習の生まれであると思われる」。

「楚辞」のそういう内容を踏まえれば、れんだいこが何を云いたいのかもはや明らかであろう。帝国主義列強の草刈り場になり存亡の淵に陥っていた近代中国の危機を救った英傑毛沢東は、「英雄は英雄を知る」の心情によってか、角栄の中に本質的に見ての左派的気質、その有能性、それ故に待ち受ける壁を見抜いていた。目前に見るのは政権絶頂期にある角栄ではあったが、毛沢東は前途に立ち塞がる政治的な危機、政権基盤の危うさを見て取っていた。まさに角栄は「楚辞」文中の屈原であることを見抜いていたのではなかろうか。そういう警句と愛着を込めて「楚辞集注」を贈ったと考えられる。

 毛沢東の予感は奇しくも当たった。その後のロッキード事件に翻弄されていく角栄は屈原そのものだった。政権を手放して後の角栄はやがてロッキード事件に見舞われ、刑事被告人として磔の刑に遭う。公判闘争を余儀なくされ翻弄された姿は、屈原が憂愁と憤懣のうちに山野水辺を放浪し続けた姿とダブルではないか。国家の将来を案じながら汨羅江の淵に身を投げ自ら生を終えた屈原は、角栄の終末そのものではなかろうか。これを予見した毛沢東の慧眼恐るべし、角栄の悲哀知るべしではなかろうか。れんだいこは、「楚辞集注」贈呈の裏意味をかく読みとる。

 しかし、世の自称識者は異なる解釈で悦に入っている。毛主席が角栄に「楚辞」を渡した意図について、日本の大手新聞社記者は次のようにコメントしている。概要「(角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて)漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさいという毛主席の皮肉を込めた返礼である」。

 何とも愚にもつかぬ論評ではなかろうか。誰しも己の知の水準に合わせて政治を測るものであり多少の曲解は免れ難いが、これは酷過ぎるのではなかろうか。この記者の姿勢には、己の非力を弁えながら最高度の政治の機微とアヤを窺おうとする姿勢が微塵もない。逆に粗脳のままに粗脳的に理解し、その理解で角栄を揶揄すると云う傲慢不遜さを見せている。

 あるいは、「迷惑論争」で揺れた経緯を踏まえて、中国語の用法がふんだんに使用されている「楚辞」を贈ることにより中国的文意を知らせようとの配慮から贈られたなる解釈を開陳する者も居る。これも大手新聞社記者と同水準の説教コメントでしかない。現代中国論の権威である矢吹晋・氏は、「田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑」でかなり長文の検証をしている。しかし幾ら読んでも、どう推理しているのかが出てこないらっきょう文になっている。

 2009.5.14日付けの大金先輩情報によると、安岡正篤が「無礼、返却するのが筋」といったのは有名な話しとのことである。安岡氏の立論の構図全体が分からないが、「飛ぶ鳥を落とす勢いの角栄に不吉な屈原を重ね合わせる非礼批判」であったとしたなら、安岡氏の洞察力がさすがのもので、他の評者のそれよりはマシであることになる。しかしながら、その後ロッキード事件で倒れた角栄を知れば、毛主席の洞察力がその上を行っていたことになり、合わせて興味深い。

 これらが当代一流とされるインテリの論評水準である。何とお粗末なことだろうか。この連中の末裔が目下、小沢キード事件を仕掛け、執拗に政治訴追、政界追放を策している。彼らには恥じを知ると云う知性がないことが分かる。幾ら経験を重ねても凡庸さを深めるだけの、相変わらずの「高みの説教」を重ねる幸せな生涯を経て、それを良しとするのだろう。しかし、今後どんな新解釈が生まれようとも、れんだいこ的「角栄の本質的左派政治に注目し、角栄の前途の険しさ屈原になぞらえた毛沢東の慧眼」を見ようとしない論評は的から外れることになろう。

 れんだいこは、目下の政治、政局のチンドン芸に飽いた。論評するに値しない。こういう折には、在りし日の生きた政治が有った日々を追憶すべきではなかろうか。池田隼人、田中角栄、大平正芳時代の政治、あれはいったい何だったのだろう。今50年経って見えてくるのは、あの時代こそ戦後日本特有の面従腹背系の日本版左派政治だったのではなかろうか。これが徹底的に壊された現下の政治には知能がない。今こそ学生運動が立ちあがるべきではなかろうか。それが逆になっていると云うことは、学生運動の正体も随分怪しいものだったと云うことになる。ならば、メンツにかけて復権せねばならないのではなかろうか。今となっては余りにも脳がヤラレてしまっているけれども。

 田中角栄論新版
 (tttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/)

 田中角栄の思想と政治姿勢、資金源、人脈考
 (tttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/sisosiseico.htm)

 毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見
 (tttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/motakutokaidan.htm)
 
 2004.7.10日再編集、2010.10.29日再編集 れんだいこ拝


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コメント
 
01. 2010年10月31日 08:49:45: O8O417cQng
大東亜の共栄を画策するものは、米国金融資本から疎まれ、その飼い犬であるマスゴミ、官僚、売国議員たちを使ってとことん破産させようとする。

02. 2010年10月31日 08:54:41: EK3fqI6Vzg
日本にもFBIだとかCIAのような組織が必要だ。
公安じゃ役立たず!いや、組織改革し権限を強化したらいい!

03. 2010年10月31日 09:28:30: dpqa46ZkfQ
 すばらしい投稿だ。早起きは三文の得。
楚辞「漁父」はにっこり笑い、このように歌った、滄浪の水清まば、我が冠の紐を洗うがよい、滄浪の水濁らば、我が足を洗えばよい、と。

04. 2010年10月31日 12:48:19: l4uTgh5xOQ
大人(たいじん)外交と、未だに蒙古反転が消えない外交の相違。忸怩たる思いの去年政権交代させた有権者。

05. 2010年10月31日 12:50:56: o2nHZcL3WU
角栄が毛沢東と会うときに事務方や警護官を連れていかなかったのは、よくわかっていたってことだね。

06. 2010年10月31日 14:29:05: dpqa46ZkfQ
>>03.追加
目的はただ一つしかない。それは、前進することなのです。

最後の勝利は、喜ぶ人々の数にあるのではなく、どこまでも進撃する人々の数にある。                         
                            【魯迅の名言】より


07. 五月晴郎 2010年10月31日 14:32:44: ulZUCBWYQe7Lk : AnPH8ZXDmM
拍手!
投稿者さん、ありがとう。

08. 2010年10月31日 16:05:22: rOTGYtTFnE
とてもよい投稿です!
ポチアメリカ前原は壊し屋という呼び名が妥当でしょう!

前原には政治家としての能力が皆無です。
アメリカ移住をお勧めいたします!


09. 2010年10月31日 21:41:42: eDNh319jvI
わが郷土の英雄「田中先生」の力量はさすがであります、知る人同士であったのですね。

すばらしい投稿ありがとうございました。

今の政治状況はいかにも情けなくなります。


10. 2010年10月31日 23:13:09: co8v739Imc
コメントは称賛の嵐だ。それぞれの思惑や思い入れから、好き勝手に「れんだいこのカンテラ時評」を持ち上げているようにみえる。人のことはいえないが、阿修羅(政治板)には紅衛兵ばりのコメントも目立つ。相当乱暴な「れんだいこ史観」を単純に評価していいのか。



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