★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK99 > 889.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(4)(5)(6)(7)(8) 
http://www.asyura2.com/10/senkyo99/msg/889.html
投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 11 月 20 日 19:46:51: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: <中国社会科学院日本研究所>など 本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(3)  投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 11 月 14 日 11:39:05)

本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(4)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51683642.html
本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(5)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51683803.html
本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(6)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51683962.html
本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(7)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51684251.html

上記から下記を転載投稿いたします。

=転載開始=

2010年11月17日
本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(4)

<言論も官財閥主導の日本> 

 数日、田舎の埴生の宿に行って明るんできた柚子をもいだ。お世話になった宇都宮さんの子息に宅急便で送った。無農薬と新鮮が唯一の取り柄である。家庭菜園の大根を数本抜いて東京土産とした。巨木になった楠木の枝をはらった。70年代、自民党記者クラブ(平河クラブ)に同党が「緑を増やそう」というキャンペーンを行ったさい、クラブに持ち込まれた苗木を3本いただいて植えたものが1本だけ成長、今や埴生の宿の土台を揺るがすまでになって手がつけられない。

 移し替えればよかったのだが、それをする知識がなかった。無知の怖さだ。同じように鳩山―小沢体制は、官僚任せ政治から政治主導の政治に切り替えるさい、官僚の防衛術を十分理解していなかった。用意周到でなかった。官僚体制を十分掌握していなかったことが敗北原因である。今後の教訓となろう。
 官僚と財閥は検察だけではない。言論も配下に手なずけているということも。これこそが日本権力の実像であると、中国の日本研究者に知らせる旅だったのだが、果たしてどれほど理解できたものか。
 この官財閥の基本路線が天皇制と日米同盟である。日本の学会も野党も気付いていない。日本が民主化出来ない高いハードルである。

 妻が珍しく11月13日付け朝日新聞の朝刊を買って居間に放置してあった。昔はずっと愛読紙だったが、16年か17年前に右翼の武装攻撃に遭遇するや、反権力という言論の基本を放棄した朝日である。現在は読売体制寄り新聞に傾斜して迫力がないので、新聞購読を止めた。
 リベラルな自民党の元閣僚などは東京新聞に切り替えた。友人弁護士は毎日新聞に代えたが、仕事の都合でまた朝日に戻した。目を通すと不平が先に立つ。「新聞はリベラルでなければ健全といえない。権力に屈する新聞はジャーナリズムではない。言論の腐敗は許されない」といつも警鐘を鳴らしていた宇都宮さんであった。
 彼は保証人となってナベツネと氏家を読売新聞に送り込んだ。彼の生涯の失敗作だった。この二人が、マスコミ界を未だに牛耳っている。マスコミの右傾化はいかんともしがたい現状といえよう。

 さて13日付けの朝日を開いてみて、改めて官僚にゆだねる紙面構成が、筆者の目に飛び込んできた。3面に「日本外交は誰が中心でしょう」「ぶれる官邸の指示」「対米関係の失敗が発端」という見出しが躍っている。
 菅―前原外交を皮肉っているのだが、見出し最後の「対米関係失敗」は、鳩山内閣の普天間問題が原因だと決めつけている。これはひどい。
 普天間基地はいらない。そうした思いを実現しようとした鳩山外交を日本のマスコミは、あげてワシントンの言い分ばかりを支持・支援報道をした。そして日米外交を壊したとして、鳩山内閣を退陣させた。それが菅外交にも引き継がれているというようにも読める。悪質な朝日の記事である。読売や産経レベルである。日米同盟礼賛の立場を貫いている。

 極めつけは元外交官・霞が関の官僚を登場させて「菅内閣は日米安保を生かし折衝を」と言わせている。なんとも低級な論調であろうか。馬に食わせるような紙面である。社説1本に100万円、150万円も払うという官財閥新聞に成り下がってしまったのか。
 まだある。4面の肩の記事は、これまた官僚宣伝である。写真まで載せている。「憂う2官僚、さらば霞が関」「シンクタンク設立へ」「内からの改革に限界」という見出しである。
 官僚は行政官である。法律を正しく公平に運用する業務である。政治を采配するものではない。官僚の思いを、政党・政治家が採用しないから「辞める」というのでは筋違いだろう。役人失格だ。そんな人物を宣伝する紙面だ。「自民党政治であれば辞めなかった」ということらしい。
 この傲慢な官僚を誰が資金提供するのか。ここを知りたいのだが、朝日は意図的かどうか記事にしていない。腐敗レベルの内容でしかない。友人弁護士のように朝日復活という気分には、とてもなれない。

<北京での電話取材> 
 
 本題に戻ろう。11月2日午後、宿舎の外交学院国際交流センターに戻ると、夕食にはまだたっぷり時間があった。ありがたいことに中国の市内電話は無料だ。公共交通も安いが、電話はタダである。知り合いに電話をかけた。
 北京で観光業を営んでいる陳君の携帯に電話した。彼は「尖閣・釣魚問題は、お互い自分の言い分をぶつけ合っている。それにしても、日本の過剰な報道ぶりには日本政府もかんでいると理解している。これでは解決できない。喧嘩するよりも共同開発がいい」と指摘した。正論だろう。
 対立に成果など生まれない。仲良く、が良いに決まっている。それでいて、なぜ中国漁船拿捕という前原決断だったのか。これまでは海保の巡視艇が追い払うだけで済んできた。それを今回は漁船拿捕と船長逮捕であったのか。
 担当大臣の判断にはワシントンの後押しもあったと推測可能であるが、そこまではっきりと彼にはわからないだろう。ひたすら友好を祈る陳君である。
 彼に「前原が率いる松下政経塾を知っているか」と尋ねてみた。「知らない」と言った。それでも「前原はアメリカの支持を得ているだろう」との感触を口にした。日本外交に日本単独行動はない。ワシントンの役割について、日本でも仕事をした陳君には、何となく理解できるようだ。こうも言った。「清の時代、中国は海上封鎖した。その間、日本が手を出したのではないか。いずれにしろ民族主義的な一方通行のような立場を貫くと、軍事問題へと行ってしまう」と懸念を漏らした。
 隣人とは友好にこしたことはない。喧嘩両成敗だ。人類の知恵であろう。

<民主党に失望する元老外交官> 

 北京大学卒業が元副総理の唐家センと同じだったという陸さんがつかまった。彼とは東京の中国大使館時代に知り合った。帰化を手伝った福建省出身の祝さんという女性の後見人のような人物だった。彼は現役時代、台湾問題の仕事をしていた。そのせいか一人娘が台湾人青年と結婚したほどである。
 北京に戻って夫人とのんびり過ごしていたが、今年の年賀状で「妻を亡くした」という訃報を知らせてきた。これはきつい。経験者でないとわからないだろう。人間はいずれ皆、こうした運命に遭遇することになる。人生最大のピンチを誰しも救済不可能だ。生きる糧がなくなる。気になって電話したのだが、案の定、以前のような鋭い日本分析をする気力を失っていた。「政治に関心は薄い」という。大いに納得するしかなかった。雑談で気を紛らわせるほかなかった。

 娘の話題から台湾が話に出た。「台湾印象はいい。大陸の人にも親切に応対してくれる」と娘の新たな故郷を評価した。大陸も台湾もいい方向に進行しているのであろう。
 その勢いでか「来年は春先に日本にも行きたい」とも言った。郷愁のなせる技かもしれない。桜の季節を見たいというのである。そう言ったあと「来年の状況がどうなるか」とも懸念も漏らした。「日本の右翼が問題を起こすかも」という不安である。
 「中国には、一部の過激な行動をする若者などが一般の中国人の中にはいない。日本のように全ての日本人を反中派にするようなやり方をしない。日本政府はおかしい」と政府批判を口走った。当たり前の反応なのだ。
 それというのも「民主党には期待を抱いてきた」からである。しかし、現実は「悪くなってしまった。非常に残念だ」とうめく。

<松下政経塾政権に反省しきり> 

 政権を手にした松下政経塾のことに話題を変えてみた。なんというか。
 「政経塾はよく中国に来ていた。其の時はとても親中的で好感を抱いていた。どうして政権を取った途端、急に思想、やり方が変わった。不思議でならない」
という。騙しの手口に引っかかったことに、今ようやく気付いて「不思議だ」と繰り返した。「窓口は外交学会だった。其の時は時々付き合った。いま中国は反省している」とも打ち明けてくれた。

 財閥・松下が中国に飛び込んだのは速かった。北京空港から市内に向けて車を走らせると、松下工場が現れる。この宣伝効果は絶大だった。
 幸之助本が市場経済に突き進む中国人の手本だった。松下経営陣に中国政府は破格の待遇を与えてきた。比例して政治集団の松下政経塾も。外交学会を手始めに中国社会科学院にも。あっぱれな手口である。これぞ敵を欺く孫子の兵法なのか。

 筆者は彼らの政治思想に懸念を抱いて10年以上たつ。改憲軍拡派という正体に気付いたからである。自民党の反中派で知られた青嵐会を連想したからでもある。少なくとも平和・軍縮派ではない。国民に奉仕するリベラル派ではないということも。
<両国とも知恵を出せ> 中国の学者は誰ひとり聞き入れなかった。松下財閥の戦略に多かれ少なかれ引っかかっていたのであろう。陸さんの背景説明で理解できた。やがて陸さんの政治感覚に鋭さが蘇ってきた。
 「政経塾の民族主義・国家主義は危険である。そういえば一部の報道で彼らが憲法9条を改正しようとしていると知った。危ない。自民党右翼と同じではないか」
 「いま両国の交流ルートは狭くなっているのが心配だ。唐家センはまだ活躍しているが。私は活動を止めてもう6年ほどになる。日本への留学生はアルバイトが忙しくて本当の日本を知らない。お互い知恵を出し合って、なんとかこの事態を乗り切る必要がある」

 「己を知り相手を知れば100戦危うからず」という。中国はこの故事に気付いたようである。外交学院の4年卒業生が政経塾論文をまとめて、晴れて院生になった。筆者の警鐘に応じてくれた学生の存在に感謝したい。
 健全な民族主義を否定してはならない。偏狭な民族主義と国家主義に権力をゆだねてはならない。官財閥主導の政経塾・ネオコン政権は、民衆の味方ではない。アジア諸国民にとってみても。
2010年11月17日11時10分記

2010年11月17日

本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(5)

<外交学院の講義> 

 11月3日午前10時から外交学院の日本語学科の3年生と4年生を相手に、日本政治の権力構造について社会科学院日本研究所で行った講演とほぼ同じ内容を分かりやすく話した。実はこの講義は本来、日本語教師の海老原先生の時間である。彼女が筆者のために時間を提供してくれたものだ。彼女の日本語教育は、その道においてよく知られている。中国政府から感謝状をいただいているほどである。

 恐縮しながらの講義である。この授業でも戦前の日本の権力に軍閥・財閥のほか官閥の存在を説明した。財官閥の生存権確保の手段が、神格天皇制を人々に徹底することと、超大国との軍事同盟であったことを理解させた。そうすることで日本は、日清戦争と日露戦争に勝ち抜くことが出来たと。
 大英帝国と同盟を結ぶことで武器弾薬面の有利さを確保、かてて加えて天皇のための死が靖国神社の英霊の道につながるという幼児からの異様教育と神道崇拝を徹底することで目的を達したものだ。因果の法則をわかってもらった。皇国史観なる異様な歴史観の存在が、今日までみられる日本の不思議さを理解してもらえたかもしれない。
 アングロサクソンのアジア政略にも言及した。アジア人同士を戦わせるのである。そうすることで自らは手を汚すことはしない。愚かなアジア人同士の殺し合いによって、大英帝国はまんまと莫大な利益を懐に入れることが出来るだろう。
 この悪しき政略はロンドンから現在のワシントンに移転している。従ってアジアは、こうしたアングロサクソンの政略の罠にはまってはならないのであると。今のワシントン戦略は日中分断にあるということも。
 アメリカの恐怖は日中の連携にある。それがアメリカの消滅をも意味しかねないからである。
 なぜワシントンは、鳩山内閣を普天間問題で追い詰めて退陣させたのか。それは明瞭だろう。東アジア共同体の実現に動き出した鳩山内閣に、ワシントンは恐怖感を抱いたのだ。自立する東京にワシントンは震え上がったのだ。
 ワシントンの実権を握る産軍複合体は、緊張する東アジアでのみ莫大な軍事利権を手にできる。東アジアを平和の地帯にしてはならない。これがワシントンの策略なのだ。
 韓国での哨戒艦沈没事件の真相と真犯人も透けて見えてくるだろう。30人ほどの学生が講義に頷いてくれた。
 住井すえさんの「橋のない川」についても紹介した。日本にも立派な女流作家が存在したということを。

<午後は院生交えて真剣勝負> 

 午後1時30分から1,2年生の大学院生を中心に座談会形式で講義を行った。3,4年生と院生からの質問を受けて、それに回答しながら進めた。苑崇利教授ら日本研究センターの教授3人も加わった。
 日本語が未塾な教授、学生らのために院生が通訳した。わかりにくい説明には、苑さんが通訳を補完した。質問は以下の通り。
 「ロシア大統領が北方領土を視察した理由は何か」「釣魚島での中国漁船拿捕と船長逮捕は、どうして発生したのか」「日本政府が国会に提出したビデオは改ざんされていないか」「日本の抱える領土問題というと、ロシア・韓国・中国とあるが、この違いは何か」「日米同盟に終わりはあるのか」「民主党の鳩山内閣はアジア重視・日米対等を打ち出して、中国との関係がよくなった。ところが、菅内閣が発足、前原のもとで衝突事件が表面化した。中国も対抗措置をとった。背後のアメリカも事件原因の一つだろう。中国は主導権を取り戻せるのか」「前原と菅総理の考えはどうなのか」「日本のマスコミはどうして反中国報道に必死なのか」「小沢はかわいいおじさん。彼の運命はどうなるのか。気になって仕方ない」

 午前と午後に渡ってぶっ続けの講義となると、やはり疲れる。1時間ほど部屋で休息をとった。しかし、およそ日本のおしゃべり不勉強学生を知る者にとっては、中国のエリート学生とのやり取りはそれなりに真剣勝負である。うれしい疲れだ。
<社会科学院の胡さん> 社会科学院の窓口になってくれたのは、日本の婦人問題を研究している胡さんである。幸せな家庭を築いている中産階級の学者だ。夫はビジネスにと役割分担している。
 子供を連れてよく旅行もしている。近くに両親もいる。日本での苦労が見事に花開いている、そんな印象を受ける。何よりも他人に優しく親切である。貧者の日本人ジャーナリストに大好きな粥料理店へと誘ってくれる。この日の夜もそうだった。
 「先月は両親を連れて上海万博に行ってきた。高齢の両親のお陰で混んでいる館を見学できた」と言って白い歯を見せた。筆者などは混んでいなかったアフリカ館しか見られなかった。もっぱら人間を眺めて過ごした。彼女には幸運の女神がいつもいるらしい。
 彼女は筆者を理解してくれる数少ない中国人である。そして今回も「社会科学院の日本研究はしっかりしている」と太鼓判を押した。別の友人から松下政経塾研究を開始している、との情報を得ている。彼女の車の運転もなかなかのものである。
<夜の訪問客> 利発そうな院生らが訪ねてくれた。大学のキャンパス内だから学生寮も近くにある。数分で宿にやってきてくれる。原因は苑教授が貸してくれたパソコンの操作がうまくいかない。作動しない。そこで学生が助けてくれたのだ。
 普段は聞かれない話を打ち明けてくれた。秘密でもなんでもないのだが、筆者にとってありがたい情報である。
 それはインターネット規制に対する怒りである。
 「深センでの台湾財閥企業で出稼ぎの青年が次々と自殺した。12人まで犠牲者の名前がネットに出ていたが、13人目から消してしまった。役人と企業の腐敗ではないのか。許されない」というのである。もっともだと同情した。
 資本と権力の癒着が、事態を悪化させている。日本も同じである。財閥と官閥の癒着は、資本と権力の一体化なのだから。

 このとき初めて中国外交部が、若者らの批判にさらされているという事実を知った。弱腰外交を批判されているのだ。
 日本政府は「いけいけどんどん」とばかり突っ走った。其の結果、レアアースの輸出禁止という対抗措置となった。すると、あわてて財界からクレームがついて中国船長を釈放した。釈放すると、今度は日本政府に「弱腰」との右翼からの批判が噴出した。攻守所を変えたのだ。
 歴史は、弱腰と非難を受けることの方が後になって評価を受けるものである。

 筆者は日本人の常として平和デモに賛成である。非暴力抵抗主義はガンジー流として人類が評価している。だが、学生は「政府は平和デモさえも抑制している。北京・上海の規制は特別」というのである。「内陸部の規制は弱い」とも言った。
 学生の中には「NHKはやりたい放題。小さいことでも大きく報道する。しかし、中国はその反対。ストレスは高まる一方だ」との声もあるという。これもわかる。
 こうした苦悩する中国政府と若者の事情を多くの日本人は知らない。中国の党と政府は、日本政府や前原外交批判を必死で抑制しているのである。日本人批判、日本人嫌いではない。反日でもない。前原や菅内閣の反中行動に怒っているのだ。それさえも抑制する中国政府・外交部に反発しているというのである。

<宏池会に久しぶり> 

 話は変わる。本日午後、東京・青山で高校時代の同期会が20年ぶりに開かれた。筆者は初めて参加者なので48年ぶりか。浦島太郎そのものだから、相手の顔と名前が一致しない。10人程度の同期会と予想したのだが、30数人が参加した。人間は隣国ともそうだが、普段からの交流がとても大事なのだ。
 現に話の合う同期生は少なかった。筆者のよく知る小坂善太郎・同徳三郎が関係した信越化学の広報担当をしていたMさんとおしゃべり出来た。彼は肺がんの手術をしたというが、表面上はしゃんとしていて安心した。もう一人は、嫁いだ先の夫の両親を10数年介護したというTさんである。血がつながっていない義理の親たちを、真剣にそれこそ自分の命をかけての自宅介護したTさんに人間性を強く感じた。両手は介護の厳しさを物語っていた。世の中に良い人間はいるものなのだ。心が洗われた。
 帰宅途中、赤坂の宏池会に寄ってみた。1年ぶりか、もっと長いだろう。事務所正面に宮澤喜一の筆による宏池会の大文字の額が飾ってある。事務局長の佐々木君がいた。「政経塾内閣は自民党右翼レベルだ」というと、彼は「確かに政経塾のコントロール塔であるPHP研究所の出版物は異様な本ばかり」と相槌を打った。
 菅内閣も長くは続かない。解散なのか?「自民党は選挙区の3分の1が未だ支部長が決まっていませんよ。来年は統一地方選挙。総選挙は無理でしょう」という。すると菅内閣総辞職、代わりは岡田か前原だが、「政経塾総理は無いでしょう」と予測した。岡田内閣なら日中関係は今よりも改善することになる。果たしてどうなるのか。
2010年11月17日22時45分記

2010年11月18日
本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(6)

<中日友好協会を訪問> 
 
 11月4日午前、苑さんの案内で北京市のド真ん中にある中日友好協会を訪問した。地下鉄利用なので時間調整が楽である。少し早く着いた。歴史を感じさせる協会の建物は、随分前に来て見たことがある。日本人もよく知る孫平化会長との会見、その後に20人の仲間を案内して北京・天津を旅した時、副会長の肖向前さんにここで講演してもらった思い出も残っている。そこへと久しぶり足を踏み入れた。

 改装されていた。華麗さを備えて、一段と歴史の偉容を感じさせていた。快晴だったので、落葉樹からの零れ日で中庭を和らいだ雰囲気に包んでいた。同じく改装された正面反対側の建物が、かつて西園寺公一が住んでいたのだという。初めて知った。
 近くには北京最大の大通り・長安街が走っている。王府井(ワンフーチン)も。79年の初訪中を思い出した。大平正芳総理はここで餃子を食べた。筆者は一人で百貨店に入ったりした。するとどうだろう、黒山の人だかりができた。まるで有名俳優になったようだった。
 少しばかり歩けば、権力の中枢の中南海である。天安門と100万人も集会が出来たこともある広場も。人民大会堂も見えてくる。広大すぎる長安街の主人公は、かつての自転車から自動車に変わっている。目の回るような中国の工業化・近代化であった。筆者は誰よりもその証言者なのだ。
 間もなく総人口13億人から14億人になるらしい。

<周恩来通訳・王コウ賢夫人> 

 今回の訪問は周恩来通訳として有名な王コウ賢夫人。中日友好協会副会長と周恩来トウ頴超研究中心顧問である。我がパソコンに正確な「コウ」の漢字がないのが寂しい。
 入口の門に友好交流部の李昆さんが出迎えてくれた。玄関先には対外友好協会理事も兼務している劉子敬理事が待ち構えていた。粗雑人間にとって、こうした礼儀正しい対応ぶりは恐縮してしまう。主役の王夫人に対して冒頭「宇都宮徳馬事務所で見かけたが、その時は名刺交換する勇気がなかった」と切り出して、その後に夫人の中日友好史を語ってもらった。
 彼女が印象に残る日本人は高良とみ。戦後に平和・婦人運動家で活躍した女傑で、高良が北京大学3年生の王さんをスカウト、52年に大学を中退して通訳の道に飛び込んだという。日本人女性が彼女の能力を見染めたというのも興味深い。
 53年に紅十字訪日団の通訳として日本の土を踏んだ。「ものすごい歓迎」に圧倒された。「びくびくでした」と言って懐かしそうに零れそうな笑顔を見せて振り返った。そして「京都の市民は私たちを見て、なんだ!日本人と同じではないかと。それまで日本では、ソ連を鉄のカーテン、中国を竹のカーテンと呼んでいた。新聞は竹のカーテンが開かれたと報道した。朝7時に出発、戻るのは夜の10時。すごい日程でした」とも。
 高良との出会いと初訪日の印象は特別なのであろう。

<命を賭して日中友好に貢献した浅沼稲次郎> 

 毛沢東と日本要人との会見も思い出してもらった。浅沼稲次郎と石橋湛山との通訳である。社会党書記長・委員長を歴任する浅沼は、北京で「米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」という本質を突いた有名発言で、帰国後に右翼青年に刺殺(60年)された。黒幕は?CIAなのか。
 「毛沢東主席は湖南省訛りが強い。なかなか聞き取れない。そこで周総理が事前に自分との会見に同席させてくれた。耳を慣れさした後に大役を果たした」という秘話は面白い。広大な中国は通訳泣かせなのだ。ちなみに王夫人は東北出身である。
<共通する岸・菅内閣> 彼女は浅沼の貢献を終生忘れなかった周恩来を次のように紹介した。「浅沼先生を、周総理は論理明晰で、日中はアジアが大事だ、何としてもアジアを良くしたいと言っていたと。外交学会などでの講演では、先見の明があった日本人の中には、命を犠牲にした方もいる、と言って浅沼先生に言及していた」という。
 浅沼の勇気と行動力が今の政界には、とことん欠けている。言論界もそうだ。右翼化することで身の安全を図る輩ばかりが目立つ。鳩山や小沢に続く政治家の台頭を祈りたい気分である。
 「鳩山―石橋内閣が中日友好関係の高揚期だった」と指摘する周恩来通訳は「岸内閣当時の総理は、よく民をもって官を促すといって、民間重視を繰り返し訴えていた」とも明かした。

 岸内閣で友好関係は破綻した。今の菅内閣同様に。現在は民間交流を重視する時なのだ。「岸は台湾の大陸反攻を支持した。中国の見本市で中国旗が破られる事件が発生(長崎国旗事件)したが、犯人を処罰しなかった。こうして貿易が中断、困ったのは日本の中小企業だった。総評議長が北京にやってきた。周総理は貿易3原則を打ち立てて対応した」という。

<石橋を案内した宇都宮> 

 そのころ、石橋が宇都宮の案内で北京を訪問した。国慶節に合わせてだった。天安門上で毛沢東と石橋は対面した。このときの通訳も王夫人だった。
 石橋内閣は日中国交回復を外交政策の柱にして、これを実現しようとした。だが病魔に倒れてしまい挫折、岸内閣が誕生すると、友好の流れはもろくも逆転してしまった。蒋介石とワシントンの右派と連携する内閣なのだから。衝撃を受けた石橋は、宇都宮と図って北京に入る。周恩来との会談で、特に健康に自信のあった平和・軍縮派の宇都宮は、重大な決意を固めた、と筆者はみる。むろん、周―石橋・宇都宮会談にも王夫人が通訳したはずである。
 宇都宮に「一番尊敬できる中国要人は」と質問すると、彼は即座に「それは周恩来だよ」と断定した。不思議な魅力を兼ね備えていた指導者なのだ。多くの中国人も同様である。
 周批判を聞いたことがない。池田内閣が誕生すると、再び両国の関係は良好になってゆく。
2010年11月18日15時00分記

2010年11月19日
本澤二郎の「北京・天津友好の旅日記」(7)

<池田内閣の対中友好政策> 

 宏池会を設立、そこを足場に政権を担当した池田勇人内閣について周恩来通訳の王コウ賢夫人は、先輩の孫平化さんから聞いたという話を紹介してくれた。
 「池田総理は、僕は2枚の顔がある。1枚はアメリカに、もう1枚は中国の顔だ。松村謙三さんを中国の顔になってもらった」

 筆者は初めて聞いたのだが、恐らく事実であろう。富山県の福光町に行くと、親中派の松村記念館がある。同町は妻の父親の出身地だ。岳父の親は村長か町長をしている。自宅など不動産を町に寄贈したため、現在は広岡家の墓地しか残っていない。時事通信の内外情勢調査会の講師として富山市で講演をしたさい、ついでに立ち寄って当時の町長と面会、確認したのだが、そのさい、松村の故郷であることを知って記念館を見学した。

<背後に大平戦略> 

 池田の中国重視は、先輩の吉田茂の影響もあろう。実際は大平正芳が推進していた。官房長官・外務大臣として、である。この下りを肖向前さんから教えてもらった。大平の友好への情熱が72年の国交回復へと結びついたものである。彼はそのためにも田中内閣結成に力を振り絞った。
 たまたま筆者は自民党大平派を担当した。大角連合は三木派を巻きこんだ。小数派の中曽根派も。そうして台湾派の岸信介や佐藤栄作が支援した福田赳夫を破って田中内閣が誕生した。大平は幹事長を蹴って池田内閣に次いで2度目の外務大臣に就任、3カ月後に決着をつけた。
 あっぱれ大平戦略である。浅沼や石橋の夢を実現したのは、田中と大平、実際は大平が池田内閣から積み上げてきたものだった。それは宇都宮の悲願でもあった。機会あるごとに筆者の訪中を進めたのは宇都宮である。
 それにしても池田の作戦も抜きん出ていた。

<宇都宮の北京ルート> 

 宇都宮の北京パイプは想像するに皇族の世界を飛び出して、戦後に北京に渡って周恩来の信頼を手にしていた西園寺ではないか。彼を宇都宮邸の観桜会で目撃したことがある。車いすだったが。宇都宮は戦前、皇族内閣で知られる近衛文麿ブレーンをしていた、と筆者に打ち明けている。其の時に西園寺と面識が出来たのではないだろうか。二人とも同い年だ。
 数年前、二人の生誕100年祭が北京で行われた。「ここの場所でしたよ。私もあいさつしました」と王夫人は語った。ということは、生誕100年を祝う会を北京の元西園寺邸で開催したようなものなのだ。
 彼女は「宇都宮先生は周総理に石橋さんを紹介していました」と証言したのだが、民間大使となった西園寺を通じて周総理は、いち早く宇都宮のことを承知していたのだ。石橋を国慶節に招いたのも、周恩来―西園寺ラインだったのだ。そうしてみると、西園寺亡きあと遺族の面倒に必死だった宇都宮を理解できる。
 田中はロッキード事件、大平は福田派の攻勢によって最期は病に倒れてしまった。反中右翼の源泉に天皇制を利用する、それこそ悪しき勢力の存在に辟易するばかりである。宇都宮が「諸悪の根源」と決めつけた理由もはっきりしてくる。官閥と財閥は、今回も牙をむいて鳩山と小沢に襲いかかった。しかし、両者が消え去ったたわけではない。断じて屈してはならない。

 周総理の通訳人は、苦労人で実業家、そして政界入りした高碕達之助のことにも言及した。LT貿易の主役で知られる。それにしても彼女の記憶力はずば抜けていてすばらしい。どうして高碕と中国の関係が出来たのか。
 「55年のインドネシアのバンドンで開かれた国際会議で周総理は高碕先生とお会いになりました。私はLT貿易の関係でリョウ承志さんと何度も会いました」
周恩来発言で印象に残る言葉を紹介してもらった。
 「日本軍国主義はごく少数の者たちだ。広範な日本人民も被害者である。これを何度通訳したことか。また中国に残って国共内戦を戦った日本人に対して、それこそ周総理は感謝をこめて、友好の種、平和の種であると繰り返しました。解放戦線で軍医として、また従軍看護婦として。しかも彼ら彼女らを強制して中国に残したものではない。自発的なものだったと。ですから絶大な信頼をもっていたのです。友好の種と何度も何度も言っていました」
 「特に撫順の戦犯管理所に関心を寄せていました。武器を手放せば、もはや敵ではない。日本からの家族の手紙を許せとか面会をさせていました。中国は食糧不足だというのに、日本人は白米を食べているのだから、と言って白米を出していました。全て周総理の指示でした」
 こうした史実を知るのに筆者でも大分時間がかかった。今の人たちにとって不思議なことかもしれない。しかし、事実なのである。争いから得る物は何もない。友好がいいに決まっている。共に幸福を享受できるのだから。
 中国の発展に周恩来の果たした役割は実に大きい。彼のいない中国を誰も想像出来ないだろう。中国からの帰還者の多くが周恩来ファンになって当然であることも、王コウ賢夫人の思い出話で理解できるだろう。
 「昭和5年生まれ」という夫人は大連の小学校で日本語を学んでいる。長春の女学校で中国語を学んだという語学の天才だ。
2010年11月19日9時45分記  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK99掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK99掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧