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日本で私有権が制度化されてから、わずか150年しか経っていない
http://www.asyura2.com/10/social8/msg/652.html
投稿者 墨染 日時 2012 年 5 月 07 日 10:38:49: EVQc6rJP..8E.
 

http://www.trend-review.net/blog/2012/05/002258.html

西欧の中世と日本の鎌倉〜江戸時代は、同じ「封建時代」という言葉で括られていますが、その実態は全く違うものだったようです。
国王から領土を貸し与えられた西欧の封建貴族が、貸し与えられた領地の所有権及び支配権を国王から奪っていきましたが、江戸時代の大名は領地の管理者にすぎませんでした。
『私権要求の塊であった西欧の封建貴族と、領地管理者にすぎなかった江戸時代の大名』
それどころか、江戸時代には農地の私有権など存在していなかったのです。

■「農民の一揆」と「江戸時代の反乱」の違い
しかし厳密にいえば、封建主義なるものはヨーロッパで中世の初期と後期に生じたある特定の社会形態であって、価値観を伴わない言葉である。当時、国王やその他の上級君主が封臣たちに広大な領地、都市や村を「封土」として与えた。封臣たちは、その土地とそこに住んでいる人間とを借り受け、領主の名の下にその土地を管理した。
ヨーロッパの封建主義はしかし退廃していった。
それは、封土やそこに住む人々が封臣貴族の世襲財産になってしまうことを防ぐ措置が、その制度に中に取り入れられていなかったからである。
領地を管理する権利は、やがて領地の所有権及び支配権の要求へと発展し、ついには、王ではなく、封臣貴族による支配こそ神の御意志であると解釈するまでに至った。それによって、権力の濫用を食い止めるいかなる規定も崩壊してしまった。
日本では事情は全く異なっていた。
大名にとって君主は幕府の将軍であった。大名は二百六十余人いた。
彼らは領地に配属された管理者であって、決してその土地やそこに住む人間の所有者ではなかった。彼らは領地を侵すことは許されなかった。売却することも担保にすることもできなかった。
幕府は、大名たちをいつでも任地から呼び戻したり、配置換えしたりする権利を持っていた。実際、鎖国時代の最初の十数年には、それはしばしば行なわれた。また大名が死亡し、その息子が後継者となる時は、将軍の同意を得なければならなかった。新しい将軍が政権についた時も、全ての大名は新将軍の承認を得なければならなかった。
どの大名領地にも城下町があった。大名は居城に住み、それを管理、維持する義務があった。幕府の許可なく城を改築することは許されなかった。大名はその領地のサムライの最高雇用主であり、大名には裁判権の行使の義務があった。しかし領地内で起きた事件であっても、全国的な重要性を持つものであれば、直ちに幕府に報告しなければならなかった。大名は他の大名と、民事的な争いであれ、経済の問題であれ、直接に交渉しではならなかった。そのような場合には、将軍に報告し、将軍の判断を仰がなければならなかったのである。
大名を厳密な監視下に置いておくために、将軍は全ての大名に一定の期間、江戸に居住する義務を課した。具体的には、参勤交代といって、一年おきに一年間江戸に住まなければならない制度である。そのため大名は全て江戸に自分の屋敷を持ち、維持しなければならなかった。この屋敷の大きさ、そこに駐在するサムライの人数など、全て指示されていた。

『私権要求の塊であった西欧の封建貴族と、領地管理者にすぎなかった江戸時代の大名』
事実、「農民一揆」と言われている出来事の大半は、天候不順の為に収穫量が落ち込んだので、農民たちが配慮を願い出るといったような正当な申し出をしたとか、町へ静かに出かけて行って、自分たちの事情を説明してから、また静かに立ち去っただけに過ぎない事が証明されている。

『陳情にすぎない江戸時代の百姓一揆と、血塗られた欧州の農民反乱』
反抗が無かったということは、ヨーロッパの庶民族と違って日本人が卑屈な意志の弱い民族だという事を示す証だと言われてしまう。そこで日本の多くの歴史家は、古い史料の中に農民たちの不満が読み取れる些細な出来事を探しだして、そこにせめて革命の花火だけでも見つけ出そうと懸命になっているのではないだろうか。

『陳情にすぎない江戸時代の百姓一揆と、血塗られた欧州の農民反乱』
しかし、本当の所は日本では同時代のヨーロッパ諸国と比べて、公正と自冶が高度に機能していた。農民たちは現存の統治システムに対して反抗しなければならないという感情に駆られることが少なかったのである。大名の改易や幕府の解体を求め、市民による統治を叫ぶ革命的な試みは、その萌芽さえなかった。そしてその理由は、欧米で良き鵜耳にするような、日本人が卑屈な民族だったからではなく、また当時自由を求める努力や試みが情け容赦なく弾圧されたからでもなかったのである。

『陳情にすぎない江戸時代の百姓一揆と、血塗られた欧州の農民反乱』
だからルターは、「強盗のような殺人者のような農民の群れに抵抗する」と言ったビラを発行した。その中で彼は、支配者の不正に対して蜂起し、暴動を引き起こす者たちを断罪し、迫害した。「彼らを閉め出し、絞殺し、そして刺殺さなければならない、密かに、あるいは公然と」と書き、それに次のように付記している。「扇動的な人間ほど、有毒で、有害で、悪魔的な者はいない」。

『陳情にすぎない江戸時代の百姓一揆と、血塗られた欧州の農民反乱』
一方、ルターと同じ宗教改革者で、農民の側に立ち農民と一緒に命を落としたトーマス・ミュンツアーはこう書いている。 「休まずにどんどんやれ、続けろ、火が燃えているのではないか。刀を血で濡らせ。そこにいるあいつらがお前たちを支配している限り、誰もお前たちに神について語ることはできない。なぜならそこにいる奴らがお前たちを支配しているからだ。休まず続けるのだ、がんばれ、時が来た、神が先に行く、神に続け」

『陳情にすぎない江戸時代の百姓一揆と、血塗られた欧州の農民反乱』
ルター時代の農民たちの血なまぐさい暴動は、残酷なやり方で無慈悲に打倒された。蜂起した農民のうちおよそ十数万人が殺された。彼らに大半は、稚拙に組織された一揆が崩壊したのちに、領主による裁きによって殺されたのだった。

『陳情にすぎない江戸時代の百姓一揆と、血塗られた欧州の農民反乱』
このように、江戸時代の百姓一揆のほとんどは陳情にすぎず、血塗られた欧州の農民反乱とは大きく異なるが、注目すべき点がもう一つある。
日本では明治維新の後、地租改正や学校制度が導入された時に、それに反対する一揆が起こっていることである。
それは、地租改正という農地の私有制度や学校制度が共同体を破壊するものだったからである。

■江戸時代には私有権など存在していなかった!
鎖国時代の日本では、農地を所有していたのはだれか? 何時でも欲しい人に売却できる権利と定義するならば、実は誰も私有していなかったことになる。つまり、農地は売却できないものと理解されていた。農地は売却できないほど高いものであったからである。農地は全国民の食料の基盤であったから、全国民の生存は、農地の永続的かつ最大限に利用することにかかっていた。
幕府は農地の私有者が変わると食料の供給不安をもたらす事を懸念していた。そこで幕府は、農地の所有が営利的な関心の対象にならないように、あらゆる手立てを考えていたのである。但し、これは、農業と林業の為の土地についてのみ幕府の基本政策だった。

『江戸時代には、農地の私有権は存在していなかった』
真の大地主は幕府で将軍一族で日本の全農地に1/4以上所有していた。これが幕府の権力の基盤となっていた。結局、国家(幕府)だけが大地主であったのである。

『江戸時代には、農地の私有権は存在していなかった』
明治政府が行った多くの改革のひとつが、1872年の農地改革(地租改正)だった。「土地の所有」を貸権と使用権のことだとする従来の日本人の考え方はヨーロッパの尺度に従えば原始的であるとみなされた。そして新しく個人的な土地所有権の概念が取り入れたてたのである。
このことは農民たちにとって、農地の共同所有や賃貸契約の申し合わせといった長年培われてきたシステムが、たちまちにして崩壊してしまうことを意味した。

『日本では農地私有は地租改正によってはじめて確立した(その1☆)』
農民たちが今まで共同の財産と思っていたものが、また村の自治のもとに共同で育て、使ってきたもの全てが、今や1枚の紙によって不安になるほどに完璧なやり方で、ある特定の人、特定の家族、あるいは有限会社、合資会社、株式会社といった法人に委ねられてしまった。
農地改革に伴い、国家の所有となった森林の管理のために、森林局が設置された。森林を育成する村の役割は村人から官僚へ移行した。道路や橋を造る役割は村に代わって県当局と政府がその義務を負うことになった。
農民たちは各自公正証書を受け取った。そこには、各自がそれぞれ何世代にもわたって耕作してきた田畑の所有権を獲得し、所有権は未来永却に文書によって保証されていると書いてあった。第一の根本的な改革は、農民たちが今や真の意味で「所有した」土地を自分の自由裁量で売却できるようにあったことであった。そして第二の根本的な改革は、農地が自分のものになったという喜びとともに、地租の支払いもついてきたということであった。

『日本では農地私有は地租改正によってはじめて確立した(その2☆)』
むしろ農地の個人所有というヨーロッパの概念の導入は、農業日本は、たちまちにして投機の渦の中に巻き込まれてしまったのである。
彼らは、急速に発展する都市で、もっと良い暮らしをしたいと望むようになった。金を持った都会の商人の多くは、チャンスとばかりに、あっという間に農地を手にし、大地主になった。時の流れについていけない小心な農民たちは簡単に騙されてしまい、甘い話に惑わされて土地を二束三文で手放してしまったのである。
投資家たちは短期間の内に稲田を次々と手に入れた。彼らはまた漁業権を買い、湾の使用権を買った。彼らは日本の農業機構を完全に変えてしまった。鎖国時代の日本には全く存在しなかったものが出現した。大地主である。

『日本では農地私有は地租改正によってはじめて確立した(その2☆)』
農民たちが自分たちの村で確保していた自治、窮乏の時に仲間であることを実感させたあのかつての自主独立は、大きく損なわれて、あるいは消え失せてしまった。長い間、村を支えてきた相互援助のシステムも大幅に壊れてしまった。以前の人々の心根は、新しいヨーロッパの精神に取ってかわられた。階級意識である。
『日本では農地私有は地租改正によってはじめて確立した(その2☆)』

■結論
民主主義と私有権要求は不可分一体であり、かつ、大衆民主主義と大衆の私有権は金融勢力をはじめとする支配者の都合によって大衆に分け与えらたものである。従って、支配者の都合によって、例えば支配者が追い詰められれば、民主主義は簡単にファシズムに転化し、大衆の私有権は簡単に剥奪されるのである。 『民主主義と私有権は不可分一体であるが、大衆のそれは支配者の都合によっていつでも剥奪され得る』
で明らかにしたように、民主主義と私有権要求は不可分一体である。実際、日本の明治政府も、まず地租改正等によって私権制度を法制化した上で、議会制度等の民主主義制度を導入したのである。

そして、
私有権がいったん共認されると、社会の全ての土地と物財は私有の対象となり、人々は私有権を獲得しなければ生きていけなくなる。従って、誰もが私権(地位や財産)の獲得を目指して争うようになり、私権闘争の圧力が社会の隅々まで覆い尽くしてゆく。かくして、飢餓の圧力を下敷きにして作り出されたこの私権闘争の圧力は、否も応もない強制圧力となって人々をその中に封じ込める。

『るいネット』「私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた」
つまり、私有権が共認されると私権の強制圧力によって人々は私権のことしか考えられなくなり、集団や社会をどうする?という課題は二の次、三の次になる。ここに民主主義のカラクリがある。自らの私権のことしか考えられない状態に置かれている大衆が、民主主義によって私権要求の塊になるのは必然である。こうして、民主主義によって大衆は自我・私権要求の塊となり、集団や社会の課題を捨象するように仕向けられてきた。
これが「民主主義が自我の暴走装置」「脱貧困の素朴な願いが民主主義を媒介して、自我・私権欠乏にスリ変わる」という構造である。

それに対して、江戸時代の日本には、私有権も民主主義も存在していなかった。
あったのは、武士も農民も商人も、イエという経営体(共同体)を母胎にして、集団や社会をどうする?という当事者意識である。
「イエという経営体(共同体)を母胎に観念追求がなされた江戸時代」で紹介したように、そこでは、自我・私権原理に立脚した民主主義とは全く違う、共認原理に立脚した社会統合観念が追求されていた。

江戸時代の共同体と当事者意識⇒社会統合観念の追求を破壊したのが、明治政府による私権制度の法制化と民主主義である。
加えて近代観念の教宣機関たる学校制度である。

『るいネット』「明治時代初期:なぜ、学校一揆や学校焼き討ちが起こったのか?」には、次のようにある。
当時の庶民にとって学校教育は、現実の役に立たないどころか、村落共同体を破壊しかねないものだった。その学校教育を押し付ける国家に対する反発が、「学校一揆」や「学校焼き討ち」だったのではないだろうか。

地租改正という農地の私有制度や学校制度に対して一揆が起こったということは、私有権や民主主義や学校制度が江戸時代までの共同体(共認原理)と如何に対立するものであったかを示している。

これら私権制度と民主主義と学校制度は近代国家(金貸し支配国家)の三点セットであり、その強制的な導入によってはじめて日本は金貸し支配国家になってしまったのである。

金貸し支配国家の3点セットのうち、土台を成すのは私権制度である。
それなしには民主主義も学校制度も機能しない。
例えば、私権(地位や身分)を獲得するという動機付けがなければ学校制度も機能しなかったであろう。

その私有権が日本において制度として確立したのはわずか150年前のことにすぎない。歴史的に考えれば、つい最近のことである。
それまでは、日本人は共同体を母胎にして共認原理にもとづく社会統合観念を構築しようとしていたのである。これが、来る共認原理の世界をリードする日本人の可能性の基盤の一つであろう。
 

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コメント
 
01. 無段活用 2012年5月08日 02:09:14 : 2iUYbJALJ4TtU : pnFKtUyAeE
ならば、中世の荘園はどう考える?

日本の歴史は、家康を以て始まったわけではない。


02. 2012年5月08日 11:26:59 : a5JRWJuq3c
日本人と日本社会の近代化に秘匿されていたモダニズムとは・・
畢竟、日本人の脱共同体化(ユダヤ主義)への宣教だったようだ。
それが、太平洋戦敗北、GHQ民主化政策より以前、明治維新に支度されていた歴史の陥穽を指摘した論考は正しい。

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