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平山亜佐子『明治・大正・昭和 不良少女伝〜莫連女と少女ギャング団』-松岡正剛書評
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投稿者 藪素人 日時 2012 年 7 月 12 日 20:34:47: BhHpEHNtX5sU2
 

平山亜佐子『明治・大正・昭和 不良少女伝〜莫連女と少女ギャング団』-松岡正剛
http://1000ya.isis.ne.jp/1475.html

 橋下大阪市長がナンボのものか知らないが、役人の刺青を得意満面で禁止した。日刊セイゴオ「ひび」五月十七日号にも「数珠を持つのとどこが違うのか」と書いたように、こういう指示が社会文化の禁則としてナンボのものかを問わないで、なんであれ上から単純に決めこんでいくと、世の中、まことに奇っ怪なことになる。橋下は中之島図書館も廃棄した。
 社会は決して平均値などではできてはいない。出っ張ったり引っ込んだり、欠けたり多すぎたりする現象が組み合わさってできている。そこに役人も家庭人も商売人も、また学生もフリーターもまぜこぜにくっついている。大阪市役所が“きれいな肌”の持ち主ばかりで構成されるのはケッコーだけれど、だったら濃ゆい髭はどうなの、香水はどうなの、ミニスカどうなの、付け睫毛どうなの、サンダルどうなの、ということになる。
 それに刺青がダメだというなら、ネクタイにくりからもんもん模様を付けたらどうなのかということにもなろう。そういうモードの問題を1つや2つのルールで切り分けようとするのはどだいムリなのだ。すべてはダブル・コンティンジェントなのである。
 だから刺青を禁止しようとすると、刺青的なるものにまつわるいっさいの意匠や情緒もぶった切ることになる。凸凹(でこぼこ)の凸も凹も文様もなくす。凸凹も文様もない文化など、どう見てもつまらない。

 もともと刺青には「邪悪なものから身を守る」という意図があった。それには聖呪を併せもつ文様を身につけた。それはまた部族をあらわす標識力にもなっていた。近代社会になってからも、刺青にははぐれて行き場のなくなった者が「せめてのつながり」を持とうとした名状しがたい気分がこめられてきた。
 そこにはプレスリー派や暴走族派もいれば、博徒の誼みや秘密の誓いを示しあう義理人情も生きてきた。最近では「タトゥー」というふうに片仮名で呼ばれることが多いけれど、刺青および刺青的なるものはまた長らくファッションそのものでもあった。ヨーロッパ近代を席巻したプチロココの流行とはそういうものの代名詞であったのだし、それが転じてレースの付け襟などになったわけである。つまりは付けボクロからジョン・ガリアーノまで、これらすべてが刺青文化の範疇なのである。
 一方、愛しあった二人がこっそり太股に「君彦、命」「泰子、命」などと彫ることもある。これなど、たいそう微笑ましい。だったらこうも言いたくなる。大阪市役所の役人が「橋下、命」とか「大阪、守ります」とか「大阪、大好き」と彫ったら、さあ、どうなのか。こういう転倒した“反逆ジョーク”だって出てきてしまうのだ。

 ヤバイものに蓋をしてもヤバイことはなくならない。むしろ葛藤と矛盾がネステッドになって成立している社会を、きれいに正義と悪徳で分けようというのがヤバイことなのだ。ヤバイを排除したり制御すればいいんではなくて、ヤバイことが含まれている社会をどう包むかなのである。
 このことはヤクザや不良集団をことごとく「暴力団」とみなしたり「反社会勢力」と呼ぼうとする昨今日本にもあらわれている。すでに鈴木智彦『ヤクザと原発』(1453夜)などにも書いたことだった。
 それよりなによりぼくのモットーな生き方は、これも「ひび」六月二十八日号にはっきり書いておいたけれど、なんといっても「公私混同」なのである。それゆえふざけた公私混同弾圧をする輩には、ちょっと文句をつけておきたくなるわけだ。

 というわけで、今夜は『不良少女伝』という一冊をとりあげた。公序良俗を乱した少女たちをとりあげている。明治末期から昭和初期にかけてのバクレン少女たちの列伝だ。バクレンは「莫連」と書く。
 とくに出来のいい本ではなく、近代日本に対する歴史論的な新しい「抉り」もないが、当時の新聞記事を丹念に拾って一冊にまとめた志操が好ましかった。この芦屋生まれの著者は文筆家であるようで、「2525稼業」という俗謡ユニットのヴォーカルもやっているらしい。平山亜佐子、バンザイだ。刺青しているなら、なおバンザイ。
 原条令子の砂目モノクロームな装幀もこの本には似合っている。ベレー帽とセーラー服の少女がタバコを片手に世の中を見据えている表情が効いている。AKB48とやらには逆立ちしてもできないポーズだろう。

 不良少年の本はけっこうあった。
 そうではなくてあえて不良少女にフォーカスをした本は、ぼくの記憶ではあまりない。高橋康雄や森まゆみや群ようこ(578夜)の視野がくりだす粋でアプレな本を除くと、あるようでなかったのだ。
 本田和子の『女学生の系譜』(青土社)や黒岩比佐子の『明治のお嬢さま』(角川学芸出版)では尋常すぎた。秋山正美の『少女たちの昭和史』(新潮社)やシリーズ「コレクション・モダン都市文化」の『ダンスホール』『モダンガール』『カフェ』(ゆまに書房)の少女たちが記憶にのこるくらいだろうか。
 しかし、バクレン少女たちは明治20年代には早くも刺青しながら世を騒がせ始めたのである。このような不良で“おキャン”な少女たちが、実は日本の近代化が音をたてて驀進している足元で、けっこう好き勝手なことをボーケンしていたということ、そこに鈴木いずみ(943夜)や戸川純や沢尻エリカの先駆者たちが公私コンドーを平気でやってのけていたこと、やはりに目をとめてもらいたい。

 菊は栄える、葵は枯れる、西に轡(くつわ)の音がする。
 江戸が東京に変わり、銀座が煉瓦街となり、ジョサイア・コンドルの“一丁倫敦”が丸の内に出現して、世の中ともかく西洋開化の靴音がかまびすしくなってくると、日本人の気質にも生活ぶりにもファッションにもまったく新たな無鉄砲というものが横行するようになってきた。
 とくに日清戦争から日露戦争にかけての時期は、かたや近代グローバル主義、かたやアジア主義、かたや日本主義、かたや社会主義が一斉に噴き出て、若い世代を翻弄していった。
 そこに登場してきたのが「新婦人」や「新しい女」たちだった。田村俊子も与謝野晶子(20夜)も平塚雷鳥(1206夜)も尾竹紅吉もその一人だった。なかで「ハイカラ・バクレン少女団」の登場が公序良俗に挑んで世を賑わせた。当時は「高襟莫連女」と表記される。
 さっそく明治29年(1896)の9月7日の読売新聞に、こんな記事が出た。旧仮名で漢字が多く、総ルビの記事で読みづらいだろから、句読点もふやして適当にやさしく表記しておいたが、これが明治の新聞の書きっぷりというもの、そのことを知るにもいいだろう。事件も事件なら、記事も記事なのだ。全部を引用すると多いので、冒頭だけにしておく。
 「本所の四人娘とて両国あたりに隠れなき噂は、回向院境内の氷菓子屋の大林きくの長女お芳(20)、瓜実顔の容色(きりょう)佳しとはいかねども、まんざら南瓜(カボチャ)のようでもなく、どこか梨の汁の甘みのある女振り。次は1ツ目の経師屋(きょうじや)の娘、糊細工の人形見たようなと人は云えど、画仙紙の肌目(きめ)細かに和唐紙くらいには踏めるお定(23)とお清(17)の姉妹、いま一人は駒止橋の釣竿屋外山某(なにがし)の長女お豊(20)とて、これも白魚の色白にはあらねど気前は爼(まないた)の鯉と云われるは褒められるのやら分からず。」


大正時代の銀座の風景。
洋装と和装が入り交じって華やかな雰囲気。
[毎日新聞社]


 このお芳をリーダーにした本所四人娘が、越後縮みの行商から反物(たんもの)数十反を借り出すと、これすぐに転売して金品に替え、それぞれ奇抜に着飾ったうえで柳盛座の役者たちを芝の見晴亭に総揚げして騒ぎ散らしたというのである。
 最初は柳盛座の姉川仲蔵にぞっこんで(つまりは追っかけで)、なんとか立ち見でその渇望を癒していたらしいのだが、それではがまんならず、一挙に派手をやったというわけだ。
 これが事件になったのは、この四人娘に金品を貸した金貸し屋がひっつかまえようとしたら、娘たちが浜松や小田原に逃げたので、これを警察に訴えてしょっ引かせたからだった。「良」が「不良」に転じていったのだ。

 明治42年(1909)の読売にはこんな記事が出た。書き出しは「本所区横網町二の十三の海軍兵器製造業亀井誓(60)の二女の数代(19)という花を欺く美人が、さる三日、水も滴る銀杏返しを根元からフツリと切り落として若比丘尼の姿と成り変れるには、よほどの込み入った理由がなくてはならぬ」という思わせぶりである。
 20歳の数代は「女侠客」を任じて本所あたりのワルっぽい少女たちを集めて「銀杏返(いちょうがえし)組」を名のると、堕落学生や浮気書生を次々に釣って釣って釣りまくり、あげくは肘鉄をくらわせてはポイと捨てるという仕業をくりかえしたらしい。
 学生をナンパしたくらいではべつだん不良とも思えないが、明治の世相ではこれがれっきとした不良少女というもので、父親が娘の素行をもてあまして本所警察に届け出たためニュース記事になった。大ニュースなのである。数代はふだんは頭髪を七分三分に櫛の目正しく分けて、矢絣(やがすり)に黄八丈の羽織を着流すという男前の風情だったという。

 もっと年齢が下の不良少女たちも出現した。
 明治44年の読売には、芝のお兼という16歳の少女が女愚連隊「赤旗組」を結成して、近所の17歳のお酉やお八重を率い、毎夜芝公園を徘徊して美少年に挑んでいたという記事がのっている。
 翌年には少女団「曙組」が登場して、三田の春日神社の土工部屋で夜な夜な車座になって卑猥な話に興じていたところを、三田署の浜刑事がしょっ引いたという記事がある。18歳の長谷川ツネ、17歳の河井タメが首謀格で、子分が十数名もいたらしい。こういう少女には早くも少年情夫がいたとも書いてある。麻布飯倉町のお常(18)は左の二の腕に、好きな中井寿雄の名を文身(ほりもの=刺青)していたと報じられた。その中井某が芝白金三光町の少年だから、かれらはいまでいうシロガネーゼの高級マンション族といったところなのだろう。

 不良少女は大正期になってからはさらに本格化する。有名なのは大正元年に早くも結成されていた「モンスター会」で、ここには男装のレズビアンで名を知られた尾竹紅吉や物集和子、女優のはしりの佐藤はま子や三保まつ子が顔を揃えていた。そこにさらには田村俊子や平塚雷鳥らの名うての「新しい女」が参加して、一同、緋色の羅紗にモンスターのMを染め抜いた羽織をひっかけていたようだ。まさに“緋文字”の軍団だ。
 それだけならけっこうずくめだろうが、彼女らは劇場やカフェに出入りしては、これはと思う気に食わない連中を殴っていくという行動を好んだというので、事件扱いされた。
 これと似た一団に「黒手組」もいた。こちらは、かつてイタリアの不平党が復讐を誓ってつくった秘密結社で、そのメンバー・エンブレムとしてブラックハンド・マークを使っていたことに肖(あやか)ったもので、わが国でも高杉晋作時代に「長州黒手組」があった。そういう意気地を踏襲して、モダンガールの先頭をいく良家の子女たちがひそかに悪を懲らしめて歓んでいたというわけだ。
 極め付けの女組たちが、くだらぬ男をぶん殴るとはずいぶん気っ風のいい話だが、これにはちょっとしたワケがある。


伊豆土肥温泉に遊ぶ平塚雷鳥と当時恋仲であった
画家志望の青年、奥村博史[1914年]


 すでに「今日は帝劇、明日は三越」の時代になっていた。
 大正元年にはヴィクトラン・ジャッセの活動写真『ジゴマ』が大当たりして、悪を凝らしめる悪党の愉快が喧伝されていた。無声の活動写真は浅草だけでも10館ができ、金龍館に行ったかどうかは東京スカイツリーに並ぶどころの騒ぎではなかったのである(金龍館はのちに日本館と並んで浅草オペラの殿堂となった)。
 大正9年(1920)には松竹キネマが創立されて、栗島すみ子、梅村蓉子、川田芳子、水谷八重子らの美女たちがデビューすると、これに憧れる少女たちの勢いはもう止まらない。女たちこそジャンヌ・ダルク(78夜)となったのだ。つまりはいまでいう「美魔女」たちである。ちなみに一言付け加えておくが、江戸川乱歩(599夜)の『怪人二十面相』はあきらかに『ジゴマ』のパクリだった。
 そんなとき、映画館に入ると女たちは不気味な男から「サワリ」「ハナシ」「ニギリ」という嫌がらせを浴びる。痴漢たちの嫌がらせだ。みんな黙ってガマンをしていたが、それが許せない女たちもいる。そこでこれを徹底して凝らしめようというのが黒手組の志操なのである。昭和初期の浅草を舞台にした川端康成(53夜)の『浅草紅団』にも、そんな少女たちの大胆不敵とけしからぬ風情がいきいきと描かれていたものだ。

 もちろん犯罪すれすれのジャンヌ・ダルクもいろいろ登場した。映画館で逆ナンをしつづけて私娼になった「おさげの少女」隼のお金(17)、猫イラズをこっそり奉公先の主人の味噌汁に入れて毒殺(未遂)をはかった三輪はるえ(13)、インド人の娘ブレーニを誘拐した上田ゆき(18)、イタリア大使館で居住人のイタリア人を短銃で撃った深田せい子(16)といった例などを、本書は紹介する。
 が、本書の著者が最も関心を寄せたのは「丸ビルハート団事件」の首謀者「ジャンダークのおきみ」こと、林きみ子の例だった。これはそうとうに派手で、手もこんでいた。

 大正13年の東京朝日新聞は、暮れの12月、丸ビル一の美人で「ジャンダークのおきみ」と呼ばれ、「ハート団」の団長をしていた不良少女が逮捕されたことを報じた。19歳あるいは22歳だった。
 林きみ子は淀橋角筈の靴屋に生まれた娘で、武田女学校から邦文タイピスト養成所(日本邦文タイプライター株式会社の付属養成所)に入り、そこから丸ビル出張所に出向くようになった。当初から丸ビルを代表する美人との噂がもちきりで、男たちは悩殺されっぱなしだったのだが、新しく養成所を卒業してきた女の子たちをことごとく誘惑して「ハート団」に巻き込み、どうやら秘密裏に淫売をさせているらしい。
 そこで警察の密偵どもがいろいろ調べると、これは林きみ子が首謀となって、榛原商店の柿沼とよ子(22)、矢吹商会の鈴木しず子(18)、呉服屋の柿沼柳子(19)らと示しあわせて仕組んだもので、丸ビルを舞台に広範囲な売春と恐喝をくりかえしていたことが判明した。アジトが本郷のカフェにあり、そこでは学生たちをカモにしていたともわかってきた。
 サンデー毎日はこの事件の顛末を、「帝都に跳躍する不良団の魔手、丸ビルを根城に媚の誘惑で内外を毒したハート団の正体」という特集にまとめた。それによると、結論は「丸ビルに処女なし」というところに落ち着いたというのだから、いまの三菱地所の連中が聞いたら腰を抜かすにちがいない。

丸の内・東京駅前。
右手に丸ビル、左手に東京中央郵便局がある。
[1930年代]

東京旧丸ビル(丸の内ビルディング)の外観
[1920年代]


 林きみ子の丸ビル事件はかなり有名な事件だった。けれども、裏を返せばそういう事件がおこる世相がすでに蔓延しかかっていたともいうべきだったのである。
 まずは読売新聞が「丸ビル美人伝」という連載をして、6階大丸の遠藤澄江、矢吹高尚堂の鈴木静子、東京パン売店の大川友子というふうに、毎回写真入りの丸ビル美人を紹介していたのだから、これは昨今の女子アナ全開ブームと変わらない。のちに田村紫峰の『恋の丸ビル』(カネー社)や田中直樹の『モダン千夜一夜』(チップトップ書店)がまとめたように、このころはすでに「丸ビルは呉服や洋服を売っているだけではなくて、肉体を切り売りしている」と言われていたほどなのだ。
 「雨外套」(コート)がビルのあちこちに落ちていることもめずらしくはなかったようだ。「雨外套」はコンドームのことだ。林きみ子とはべつに「うわばみお照」という妖女があることないことをしていたという噂も、乱れとんでいた。
 こんなことだから、ここにハート団やジャンダークが何人あらわれようと不思議はなかったのだ。タイピストやショップガールは一種の隠れ蓑だったにすぎない。
 当時はまだ若くて杉山萌円というペンネームをつかっていた福岡の夢野久作(400夜)は、これらを総じて『東京人の堕落時代』(九州日報)とまとめた。九州から見るとそのころのトーキョーそのものがひどい状態になっている、「これは日本という国のヴィジョンの墜落じゃないか」という酷評だ。
 ともかくもこうして映画館やカフェや酒場や大型店舗がかなり怪しげになっていくのだが、そこに昭和になってどんどん加わっていったのがダンスホールだった。女給が相手をつとめるダンスホールは、大阪千日前の「コテージ」が最初で、これがたちまち広がって大正昭和の代表的な「出会い系」になった。
 ここでの主人公もむろん女たちである。母親は派手な市松模様の着物を召して男を誘い、娘は膝丈ワンピースに白いハイソックスと黒いワンストラップシューズをはいてお兄さんを誘惑する。そんな母子ぐるみの光景さえしょっちゅうだった。


大正時代のタイピストたち。邦文タイプライターは
1915年(大正5年)に杉本京太によって発明された。
[毎日新聞社]


丸ビルにあった洋装店「メーフェアー」で働く婦人裁縫師。
断髪、細身のジャケット、水玉のネクタイがファッショナブル。
[1924年 毎日新聞社]


取材中の婦人記者。松岡(羽仁)もと子や
大沢豊子が婦人記者第1号と呼ばれた。
[1924年 毎日新聞社]


 不良少女団の流行は、やがて文学や演劇や歌劇と交ざっていく。
 ということは不良少女を好んだのは文士たちであり、映画界や歌劇界の一獲千金を画した男どもだったということだ。
 そうしたハイブリッドな不良少女と不良男子が絡んだ様相は、たとえば昭和初期の「紅灯恋慕会」などに顕著であった。洋画家の辻文雄、その弟子の田島百合子、帝劇歌劇部の山根千世子をコアに、内田涙花、轟天明兄弟、伊沢蘭奢、沢マセロ、川合澄子、三浦シゲ子らが1カ月3円ほどを出しあって、文芸的紅蓮ともいうべき華の巣窟の様相を遊んだのである。
 本書にはほかにも、カフェほまれの女給川本百合子や谷田四道をこかむ「血ゆり団」のこと、明治屋やカフェ「ユーロップ」を根城にしていた「蛇の目団」のこと、そこに必ず不良外人たちも加わっていたことなどが、縷々レポートされている。

 が、こういうことはいずれも、とうてい昔日のこととは思えない。その後もずっと続いてきたことなのだ。
 ぼくは何度も美輪明宏さん(530夜)から聞かされてきたが、丸山明宏がまだシスターボーイとも呼ばれていないころも、江戸川乱歩や川端康成や紀伊國屋の田辺茂一や三島由紀夫(1022夜)は好んでこうした風情の不良を好み、不良少女や不良少年を傍らに近づけていたのだったし、ぼくも見聞してきた土方巽(976夜)の周辺でも、のべつそのような紅蓮の炎が燃えていた。
 いま、社会はひたすら衛生無害なものに向かっている。すべてに賞味期限を付け、刺青を禁止して、タバコを囲いの中に閉じこめる。怪しいことはこっそりウェブの困ったサイトで覗くだけ。大学教授から芸能タレントまで、いっさい困ったことをしてはいけません。そう、なってきた。こんなことで社会の気が済むはずはない。何かが封印できるはずはない。
 こんなに衛生無害の国にして、どうするつもりなのか。けれども、これは昔も試みたことだったのだ。昭和9年、浅草仲見世の入口や観音堂の脇には、「浄化の浅草」という看板がいくつもたてられたのである。世の中、いつも浄化が試みられてきたわけだ。それを川端康成が『浅草祭』で、こんなふうに揶揄をした。「浅草公園は魂が抜けた。陰がなくなった。底がひからびた」。
 

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