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投稿試驗
http://www.asyura2.com/10/test20/msg/189.html
投稿者 卍と十と六芒星 日時 2010 年 10 月 02 日 16:00:07: xsXux3woMgsl6
 

(回答先: 投稿試驗 投稿者 卍と十と六芒星 日時 2010 年 10 月 02 日 11:29:47)

 
 
 
 
「第三の選擇」の爲に、
ソビエト版スペース・シヤトル「ブラン」と、
其の打ち上げ用ロケツト「エネルギア」は開發され、
生物聯鎖や植物の温室栽培を含む新しい生命維持システムの實驗をも含む、
閉鎖環境の長期實驗が成され、
宇宙ステーシヨン「ミール」に據る、
長期宇宙空間滯在實驗が成されてゐた。

公表されてゐる公式的な情報に於いても、
技術的には1995年3月22日を以つて、
有人火星旅行及び火星居住技術は確立した。

そもそもソビエトと云ふ國家は、
有人火星旅行及び火星居住技術の確立と云ふ役割を、
ブリテン世界權力から與へられてゐたと云ふ事なのだらう。
 
 
 
 
Soviet Conquest of Space
ブラン 運用予定
http://homepage3.nifty.com/junji-ota/B/yotei/index.htm
 
 
8.2 殆どが今も国家機密である、ソ連版シャトルミッション

 1976年2月に出された国の通達では、エネルギア−ブランシステムがゴールとするものは、第一には、本来、軍事目的でした。よって、民生用衛星の配備および、宇宙ステーション関連のような回収ミッションは、あとから付加された目的でした。全ての使い捨てロケットを廃止することを前提としたアメリカのスペースシャトルとは異なり、ソ連版シャトルは元々、使い捨てロケット艦隊を全て置き換えることを想定しておらず、ソ連版シャトル向けに独自に企画されたミッションを補完するものに過ぎませんでした。
 ソ連版スペースシャトルオービターのためにデザインされたペイロードおよびフライトプログラムに対する要求は、

  ・1981年12月
  ・1985年8月
  ・1987年8月

に、それぞれ通達として発行されました。
 1981年から1982年において、軍事宇宙R&D協会TSNII-50は、「COMPLEX」と呼ばれるブランの軍事使用の研究を指揮しました。
 1984年1月、国防省(MOM)と科学アカデミーは、1995年までのブランミッションを共同で発行しました。
 1989年1月には、国と党は2000年までのブラン使用に関する通達を出しました。
 なお、これらの通達と研究は、今も機密扱いのままです。
 
 
 
 
Soviet Conquest of Space
ソ連版スペースシャトル
http://homepage3.nifty.com/junji-ota/B/BUbun.htm
 
 
…んで、結局のところ、ソ連版スペースシャトルの存在意義って何だったのでしょうか?? 有人宇宙活動なら、ミール宇宙ステーション・ソユーズ宇宙船が有るし。ミール2宇宙ステーションへの物資補給にしても、プログレスやTKSがすでに有るんだし、30トンもの補給物資を一度に運ぶ「必然性」も無さそうだし。今のISSのように、大規模なトラス構造物などあるにはあるけど、それだけのために10兆円以上もかけてブランを開発する必要ってあったのかな?それに、元々ブランは無人自動操縦が可能なのだから、有人である必要は無いんだし。20トン一塊で、地球に持ち帰る必然性があるペイロードも、…どうなんでしょう?

やっぱり、軍事目的とか、秘密の目的で作られたとしか考えられないよね〜。米スペースシャトルが初飛行に成功するや否や、ソ連政府は「スペースシャトルは、衛星撃墜用の宇宙兵器だ。即刻中止を求める」とコメントしましたけど、実はソ連のシャトルも、ソレ目的で開発されたんじゃないでしょうか?

または、小HPの「ソ連有人火星旅行計画の歴史」で述べた、「人類火星移送計画」と関連があるとか。貨物室を客室に改造すれば、一度に数十人の人間と火星片道分の食料・水を宇宙に運べそうだし。
 
 
 
 
Soviet Conquest of Space
ソ連 有人火星旅行計画
http://homepage3.nifty.com/junji-ota/Planet.htm
 
 
ソ連 有人火星旅行計画(1956〜1995)

1957年のスプートニクで始まり、2000年のミール廃棄で終焉した、ソ連の宇宙開発。
アポロ月面着陸・スペースシャトル・ボイジャー探査機・バイキング探査機など、派手なアメリカの宇宙開発とは対照的に、ソ連宇宙開発は、おおむね以下のような印象を持たれているのではないでしょうか。

・1957年〜1966年…スプートニク、無人月探査、ボストークなど、初物づくしの「共産主義の宣伝の道具」
・1967年〜地球周回軌道上における、宇宙ステーションにおける地道な活動。特に長期宇宙滞在記録の更新に対する固執。
・惑星探査機は金星に固執

一見、何の脈絡も無いこれらソ連宇宙活動には、「有人火星活動の実現」という、しっかりとした「メインテーマ」が存在していたことがソ連崩壊後に明らかになりました。

ソ連では、スプートニク打ち上げの前年であり、ガガーリン初飛行より5年前の1956年から有人火星探査が計画され、一大国家プロジェクトとして多大な労力と資金が注がれ、それは2000年のミール廃棄まで継続しました。ソ連は、水も大気も資源も無い死の世界であることが最初からわかりきっている月へ人間を送り込むことは、元々眼中にはなかったのです。

宇宙滞在記録の更新への固執は、まさに有人火星旅行実現のための地球周回軌道上での実験そのものでした。サリュート1号〜7号およびミール宇宙ステーションに共通の、大小二つの円筒状を繋ぎ合わせた形態、およびそのサイズと重量(直径4.1m、重量20トン)は、1960年代前半に設計が終了した有人惑星間宇宙船「TMK」と共通でした。結果として有人月着陸に用いられた超大型ロケット「N1」は、元々TMK有人惑星間旅行のために1956年にTMKとワンセットで設計が開始されたものであり、1987年に初飛行を行ったエネルギアロケットは、有人火星旅行船の打ち上げをも視野に入れて開発されました。

常に計画の事前発表を派手に行うアメリカに対して、ソ連は、全く計画を発表しませんでしたが、有人火星旅行は1959年の時点で1971年6月8日打ち上げ、1986年の時点で2000年打ち上げ、1989年の時点で2001年打ち上げとセットされました。これらの計画は、20世紀をとうに過ぎたいまだに有人火星旅行のめどが立っていない現状からすると、一見無謀で壮大に思えます。しかし、ソ連は、壮大な計画実現のために、44年間にわたって着実に努力を積み重ね、堅実に技術と経験を蓄積させ続けて(すなわち人材の育成)いました。特に、2001年に出発する予定だった有人火星探査計画「マルス1989」には、技術と経験に裏づけされた確実なリアリティーが存在しました。また、ソ連崩壊後の1994年に立案された「マルス1994」は、資金さえあれば1995年3月の時点での技術力でも、2010年には有人火星探査を実行することを示しました。

アメリカは、壮大な計画を技術・資金など、あらゆる根拠も裏付けも無いのに、大統領が変わるたびに人気取りの手段として有人火星探査をセンセーショナルに発表していました。対してソ連は、壮大な計画は立てても決して発表はせず、黙々と着実に技術と経験を蓄積し続け、無謀な計画の発表は絶対に行いませんでした。

火星着陸はおおむね1年半〜2年、火星接近飛行は約1年の航程です。そして1995年3月22日、ワレリー・ポリャコフ飛行士は、ミール宇宙ステーションで486日間の長期宇宙滞在記録を作り、健康な状態で地球に帰還しました。つまり、ロシアはついにこの日、長期にわたる有人火星旅行に必要な技術と経験を実証し、資金さえあればいつでも火星旅行を行う能力があることを実証したのです。
 
 
 
 
Soviet Conquest of Space
ソ連 有人火星旅行計画
http://homepage3.nifty.com/junji-ota/pb/index.htm
 
 
ソ連邦 有人火星旅行計画(1956〜1995)

このページでは、「ソ連宇宙開発の歴史のメインテーマ」であった、1956年から1995年のミール宇宙ステーションにおける486日間連続宇宙滞在記録達成まで一貫して継続した、有人火星旅行計画の立案から終焉までについて、以下の7章に分けて触れます。

1 有人惑星間旅行の動機
2 有人惑星間宇宙船「TMK」および打ち上げロケット「N1」の開発(1956年〜1974年)
3 閉鎖環境における生命維持システムの構築と長期閉鎖環境実験の成功(1956年〜1970年)
4 惑星のソ連領土化の試み(無人惑星探査機の惑星命中・国章の送り届け)(1960年〜1971年)
5 N1ロケット使用を前提とした有人火星宇宙船(着陸)の研究開発 (1960〜1966)
6  長期無重力環境への人体適応の実証(1970年〜)
7  超大型ロケット「エネルギア」の開発成功(1976年〜1987年)
8  確かに存在した、ソ連が20世紀中に火星旅行を行った可能性
9 遂に、有人火星旅行に必要な技術と経験を立証!(1995年)
 
 
1 有人惑星間旅行の動機

これはひとつの説ですが、毎年国家予算の10%を宇宙開発につぎ込んでいたほどソ連が宇宙開発を重視した真の目的は、火星を植民地にするため、です。

1957年 、アメリカ・アラバマ州のハンツビルで、国際科学者会議が開かれました。その席上、われわれ人類が石油その他の化石燃料を大量に消費する事によって、大気中に放出される炭酸ガスの量が幾何数級的に増えていることが問題になりました。大気中の炭酸ガスの濃度が上がると、太陽からの入射熱は変わらないが、地表から放散されるはずの熱が出て行かなくなる。つまり、地球は熱くなる一方で、早い話、地球を丸ごとすっぽりと温室に入れたような「温室効果」と呼ばれる恐ろしい現象が起こり、そのため、地球は猛烈な異常気象に襲われる。

@その結果、南北両極の氷が融け始めて、海の水位が上がり、世界の主要都市の殆どは水没してしまうに違いない。

Aまた、温室効果がさらに進行すると、地球全体が金星のように熱せられて、人々はあらゆる生物とともに灼熱地獄にあえぎながら死んでいかなくてはならないだろう。

というものです。

しかもそれは、1960年代から始まり、次第に加速されて、今世紀末には取り返しのつかない事態に至るだろうと言われました。会議では、人類を救う三つの案が出されましたが、その第三の選択とは、 人類という種の保存のために、一万人程度を火星に人類を移住させる というものでした。言ってみれば、現代版「ノアの箱舟」です。そのためには、さしあたり、「二酸化炭素による地球温暖化」を世界の国民に秘密にし、米ソともに今から火星への人類移送に向けて大掛かりに宇宙開発を進めるべきだ、と言うものでした。

また、1965年にアメリカのマリナー火星探査機の結果を元に、火星大気は4〜7mbしかないとNASAが発表するまでは、天文学者たちは地球からの観測により、火星大気は100〜700ミリバールの酸素と水を含んだ大気を持っていると見積もり、植物が生息していると考えていました。つまり、 1965年までは、火星は、宇宙服など特別な装備なしで人間が住める環境と考えられていた わけです。

1977年6月20日の情報ですが、その後1980年代後半にもなって、「二酸化炭素による地球温暖化」と言う文字が本当に新聞などメディアに登場するようになったので、この話は実にもっともらしいものだと私は思います。

単なる科学的探査目的に、1950年代後半!から45年間も一貫して、一大国家プロジェクトとして有人火星旅行を推進するだろうか?


上の新聞記事:地球温暖化により、この24年間で北極圏の氷がぐっと小さくなっていることを報道しています。こうなることは少なくとも1957年からわかりきっていたことなのです。「二酸化炭素による地球温暖化、およびそれによって引き起こされる異常気象と人類滅亡の危機、火星移住計画の存在」は、1977年6月20日、イギリス・アングリアTVのレギュラー科学番組「サイエンス・レポート」で「Alternative3(第三の選択)」という副題で放映されましたが、余りの反響の大きさに、テレビ局自身「あれはフィクションです」と声明を出したそうです(番組の趣旨はその名の通り科学番組、キャスターは知名度のある現職国会議員だったのですから、誰も冗談とは思わないでしょう。僕もビデオで見たことがありますが、番組の組み立ても論理的・緻密で、大変リアリティーに富んだものでした。火星移住計画の存在の真偽はさておき、『二酸化炭素増加による地球温暖化』をはじめてメディアに流したのは、この番組が世界初では?)。しかし、1980年代後半にもなって、実際に地球規模での地球温暖化および異常気象が顕著になったのは、皆様も周知の通りでしょう。
 
 
2 有人惑星間宇宙船「TMK」および打ち上げロケット「N1」の開発
                             (1956年〜1974年)

有人火星船打ち上げロケットは、これはすでにHPにアップしましたが、 1956年に立案され、1960年から本格的に開発が始まった超巨大ロケット「N1」は、元々は有人火星旅行のために立案・計画されたもので、大気も水も無い死の世界であることがわかりきっている月面に人間を送ることは、1964年まで全く考えていませんでした。

有人火星旅行計画は、超大型ロケットN1と同時に、スプートニク打ち上げの前の年、1956年から本格的に研究がスタートしました。1950年代末、ソ連の宇宙開発関連技術者たちは全員「1960年代のうちに、有人火星旅行を実現させる」と確信していたそうです。

1956年に、まず有人火星着陸の先駆的研究が行われました。その結果、化学燃料を使った場合、有人火星宇宙船の重量は地球周回軌道上で1630トンと見積もられ、これはN1ロケット24機の打ち上げ・自動ドッキングを必要とすることが判明しました。当時としてはこれは非現実的であるため、 有人火星着陸は原子力エンジン開発後に実行することとし、まずは、1機のN1ロケット (打ち上げ能力75トン)と既存の化学燃料で火星に打ち上げることが出来る、20トンの有人火星・金星宇宙船(着陸は無し)を実用化して、惑星間旅行のノウハウを蓄積してから火星着陸を行うこととしました。

この 重量約20トンの有人惑星間宇宙船(着陸は無し)は、「 TMK 」とい う名前で開発が1959年から始まり、1962年には設計が終了しました。なお、このときに決定されたTMKのサイズ、直径4.1mというのは、1971年のサリュート1号宇宙ステーションから1985〜2000年のミール宇宙ステーションまで、一貫して共通のサイズとなりました。

結果として後にソ連有人月面着陸のために用いられた超大型ロケット「N1」は、1956年から有人火星接近飛行のために構想・開発されたものであり、そのため、N1ロケットは当初、第一段エンジン24機、低軌道打ち上げ能力75トンと、TMK有人火星接近飛行計画にあわせた能力として設計・開発されました。1964年8月に「ソ連も有人月面着陸をせよ」と政府命令が出されて、N1ロケットで有人月面着陸が出来るように検討したところ、第一段に6機のエンジンが追加され、結果として完成した打ち上げ能力105トン、第1段エンジン30機のN1ロケットが建造されたわけです。

TMK有人惑星間飛行計画は、下のアニメのように、682日間かけて、火星・金星をめぐって地球に帰還する、というものです。打ち上げは1971年6月8日にセットされました。ちなみに当時のソ連宇宙技術陣は、有人火星旅行に関しては明確な実施目標を立てていましたが、有人月面着陸に関しては「No date set」(期限を設けず)としていました。有人月旅行に関しては、5機のR7ロケットの自動ドッキングによって組み立てられる「ソユーズABV月接近飛行計画」(月の裏側を廻って帰還。後のソユーズL1計画の原型)が、卓上のプランというか「既存の技術でこういうこともできますよ」程度で存在した程度でした。
 
 

上:実際に完成したN1ロケット。初飛行は1969年2月。高さ105m、低軌道打ち上げ能力105トン。本来の開発目的は、TMK有人火星金星接近飛行宇宙船を一度で打ち上げるためであった。


上:TMKの模型と火星の合成画像。TMKの直径はミールのコアモジュールやサリュート宇宙ステーションと同じ。形状も良く似ている


上:N1ロケット第一段を下から見る。24機のロケットエンジンが円周状に、6機が中央に配置されているが、元々は有人火星接近飛行用として打ち上げ能力75トンのロケットとして開発されたものであるため、中央の6機は1964年の設計変更で追加されたものである。
 
 
下動画:TMK 有人火星・金星接近飛行計画の概略
 
 
なお、この有人惑星間旅行計画は、1964年の「ソ連も有人月面着陸を行え」という政府命令により、いったんは凍結され、有人月旅行計画に力が注がれるようになりましたが、一方ではソ連技術陣は、有人火星旅行の実現のための研究と努力を継続しました。

アメリカは、1961年に有人月面着陸計画(アポロ計画)をスタートさせ、有人火星旅行計画は1970年頃から構想が浮上しましたが、ソ連は順番が逆で、有人火星・金星旅行を1956年に、有人月旅行を1964年にそれぞれスタートさせたわけです。
 
 
3 閉鎖環境における生命維持システムの構築と
        長期閉鎖環境実験の成功(1956年〜1970年)

1年を超える惑星間旅行を実現させるために、「宇宙医学・宇宙生物学」という、ソ連独自の学問分野を作り上げました。

モスクワの航空医学研究所は、実験用の犬をロケットに乗せて、高度100キロから500キロまで順次上げていき、その過程で発生する加速度と無重力の影響と、その特殊な生理学的変化の研究、緊急事態発生時の救急手段と生命維持システムの確立への努力が続けられました。

最初の人工衛星「スプートニク1号」の1ヵ月後の1957年11月4日に打ち上げられたスプートニク2号には、実験用としてライカ犬が乗せられていました。生物を使って宇宙飛行の生体機能に与える影響を研究することが、その後に続く有人宇宙飛行の不可欠な前提条件となっていました。

このため、航空医学の経験のみならず、海洋医学、高地医学、極地生理学、その他多くの分野の医学の学理と臨床経験が動員されました。そして、宇宙医学と宇宙生物学を統合する研究機関として、1964年に「生物医学問題研究所」(略称 IBMP  創設当時 200人)が創設されました。

こうして、 IBMP が最初に手がける事になった大型プロジェクトは、3名のボランティア被験者を対象とする1年間の長期閉鎖環境実験でした。この実験は、閉鎖環境の長期実験であるとともに、生物連鎖や植物の温室栽培を含む新しい生命維持システムの実験も含んでいました。このユニークな実験は、地上のTMKで、1967年3月5日から68年3月5日にかけて成功裏に行われました。

さらに、1970年からは、容量が350立方mで、全ての生命維持装置を備えており、将来の火星旅行に備えた設備が完成しました。

つまり、 1968年3月5日の時点でソビエト連邦に残された課題は、火星接近飛行なら往復約1年、火星着陸なら往復約1年半の無重力環境に人間が耐えられることを実証するだけとなりました。

こうして、ソビエト連邦は1970年のサリュート1号から、殆ど切れ目無く一貫して宇宙ステーションを持ち続け、連続宇宙滞在記録の更新に努めるようになりました(当時のソ連の言い分としては、「スペースシャトルで短期の宇宙実験を行うより、宇宙ステーションに連続滞在させたほうが安上がりで効率的だから」というものでした)。
 
 
4 惑星のソ連領土化の試み
  (無人惑星探査機の惑星命中・国章の送り届け)(1960年〜1971年)

下の図は、世界初の人工衛星「スプートニク」から、約4年半の間に、米ソが打ち上げた衛星の記録である(出典: 宇宙開発史にHP管理人が加筆)。まあ、ざっと見てください。




 
 
このように、スプートニクを打ち上げてからの4年半は、アメリカの人工衛星が通信・軍事・気象・地球物理など多種多様にわたっているのと対照的に、ソ連は有人宇宙船ボストークと月・惑星探査機のみに集中していたことが明らかです。その理由は、やはり、当時のソ連宇宙技術陣が有人惑星旅行に重点を置いて、無重力環境における人間の健康と、各惑星の状態を早く知りたがっていたことを反映しているためと私は思いますが。いかがでしょう?

次に、下の米ソ両国の、無人火星探査機打ち上げ年表をご覧ください。

アメリカの火星探査機は、初の火星着陸の試みは1975年のバイキングでしたが、ソ連はなんと、その13年も前の1962年から火星着陸を6度も送り込んできました。1965年、アメリカのマリナー4号の観測結果から、火星大気は4mb〜7mbしかないと発見されるまで、天文学者たちはスペクトル観測から火星には100〜400mbの酸素を含む大気が存在し(水が液体として存在できる)、火星には湿地が広がっていると予測していました。火星の大気の密度すらわかっていない1962年からすでに火星着陸機を打ち上げる理由とは… 

また、金星には、1966年にヴェネラ3号が金星に命中し、ソ連の国章ペナントを送り届けています。余談ですが、1961年に金星命中を狙って打ち上げられたヴェネラ1号の着陸機には、ソ連国章とレーニンの肖像が搭載され、当時金星に存在すると考えられていた金星の海に浮かび続けるように設計されていたそうです。

初期のソ連惑星探査機(着陸機)は、素人目にも、余りにも生き急ぎすぎと思われますが、高校時代に図書室で読んだ1970年代前半の本によると、「 ソ連が金星や火星に一番乗りをして国章ペナントを打ち込むのは、将来金星や火星を自国の領土と主張するためと考えられる 」と記述してありましたが、いかがでしょうか?
 
 
5 N1ロケット使用を前提とした有人火星宇宙船(着陸)の研究開発 (1960〜1966)

5-1 TMK-E

一回のN1ロケットで打ち上げられる有人火星・金星旅行船「TMK」(着陸は無し)と並行して、2機のN1ロケット打ち上げ・自動ドッキング、および原子力発電をエネルギー源としたイオンエンジンの使用を前提とした、有人火星着陸を目的とした「TMK-E」(重量150トン)が考案されました。概要は以下のとおりです。

・直径6m長さ18mの「TMK-E」居住モジュール(最後部)。6人が居住する。
・二つのソユーズ型帰還カプセルとつなぐ、細長い与圧トンネル。
・イオンエンジンと燃料タンク
・火星探検車と離着陸機を含む、4つの火星着陸カプセル
・原子力エンジンからの放射線をブロックする大直径シールド
・長い格子状ブーム先端に付属する原子力発電装置

4つの着陸機は、それぞれ異なった目的を持つ円筒状の火星車が搭載されており、火星表面で連結され、4連結トレーラーとして、北極から南極へ1年間かけて火星を縦断する計画でした。1971年の打ち上げを想定し、出発から地球帰還まで1075日を予定していました。
 
 
5-2 KK(1966年4月提案)

上記TMK-E計画をさらに現実的なものへと洗練させた計画として、「KK」計画が提案されました。TMK-Eと同様、2機のN1ロケット打ち上げおよび自動ドッキングにより、地球周回軌道上で組み立てられます。

従来の「TMK-1」からの大きな変更点としては、@定員の減少(6人→3人) A火星表面への着陸方法の変更(TMK-1計画では、いったん母船とともに火星を周回後、4機の着陸船を切り離すことになっていたが、KKは、火星到着寸前に一機の着陸船を切り離し、直接火星大気に突入する。火星を周回するのは母船のみ) B火星滞在期間を1年から30日に変更 C旅行期間が、1075日から630日に短縮

打ち上げは1980年とセットされ、設計が完了しましたが、1966年8月、KKを提案した設計局「OKB-1」のすべての人材・資材・時間を、有人月旅行計画に集中せよ、という政府通達により、火星旅行宇宙船の研究開発は中断しました。

ただ、イオンエンジンのエネルギー源となる強力な宇宙空間用原子力発電装置は、軍事目的という名目で、研究開発は続けられました。1970年代半ばには実用化したようです。

また、原子力で直接燃料を熱する原子力ロケットエンジンも開発が進みました。1985年には、「RD-0410」という原子力エンジンを実用化しました。
 
 
6 長期無重力環境への人体適応の実証(1970年〜)

1970年 ソユーズ9号

1969年7月、アメリカは有人月面着陸を成功させ、ソ連のムーンレース敗北は決定しました。ソ連は裏では1974年まで有人月面着陸の準備を進めていましたが、一方で、宇宙ステーションにおける長期宇宙滞在記録の更新へと宇宙開発目標のベクトルを変えました。これは、有人火星旅行を実現させるという、原点回帰と言えるものです。ちなみに当時は「長期間の無重力環境は、循環器や筋肉の負担が減るので、人体には悪影響どころか好ましい影響を与えるだろう」と、楽観的な予測がされていました。よって惑星間旅行で懸案とされていたのは、長期間にわたる放射線被爆と微小隕石への対策でした。

長期宇宙滞在実験の準備的飛行として、ソユーズ9号にニコライエフとセバスチャノフ飛行士が、17日間という当時としては史上最長の宇宙滞在記録を打ち立てました。しかし・・・狭いソユーズで17日間も無重力状態に置かれた二人の体力減少は、ソ連宇宙技術陣の予想を完全に裏切るもので、二人の飛行士は地球帰還直後、自力で歩行できないほどでした。

「やはり、長期にわたる惑星間旅行は無理なのか…」この一件は、技術陣に暗い影を落としました。しかし楽観論がこれを制し、後につづくサリュート宇宙ステーションでの一連の長期宇宙滞在記録更新への試みへとつながりました。

1970年〜1977年  第一世代宇宙ステーション(サリュート1号〜5号)

これらの宇宙ステーションは、ドッキングポートがひとつだけでした。1号、4号は民生用(DOS)で、2号、3号、5号は軍事用(Almaz)でした。サリュート5号では68日間の連続滞在を記録しました。また植物の水耕栽培や動物の孵化・飼育など、長期宇宙滞在に必要なさまざまな技術を立証しました。


民生用宇宙ステーション サリュート1号、4号


軍事用宇宙ステーション サリュート2号・3号・5号

1977年〜1986年  第二世代宇宙ステーション(サリュート6号、7号)

これらの宇宙ステーションは、ドッキングポートが二つあります。よってソユーズ宇宙船が二つ同時にドッキングできるので、要員交代の際も有人滞在を維持することが出来ました。要員交代の際には、大抵1人の外国人宇宙飛行士がゲストとして1〜2週間滞在し、アルバニアと中国以外の全ての社会主義国の宇宙飛行士+アフガニスタン人、インド人、フランス人が訪れました(西ドイツ人よりも東ドイツ人が、また、日本人よりもベトナム人・モンゴル人が、ずっと先に宇宙飛行を行ったと言うのは興味深い)。また、無人貨物補給船「プログレス」も同時に運用を開始し、連続宇宙滞在記録を大幅に伸ばすことが可能となりました。 1984年には、サリュート7号宇宙ステーションで、連続宇宙滞在237日を達成しました。

宇宙滞在記録が237日を越えると、西側の政治家・宇宙技術陣もさすがに「ソ連が宇宙滞在記録をひたすら更新し続けることに固執するのは、経済性の追求というソ連の言い分をそのまま鵜呑みにするのはばかげている。ソ連の長期宇宙滞在記録の更新は、明らかに、有人火星探査を意識してのものだ」と気づき始めました。当時の西側諸国首脳陣は、ソ連の有人火星探査実施時期を、ロシア革命100周年に当たる2017年であろうとおおむね予想していました。

左:サリュート6号の模型


上:TKSおよびソユーズとドッキングしたサリュート7号宇宙ステーション

1986年〜2001年  第三世代宇宙ステーション「ミール」

1986年に打ち上げられ、ソ連崩壊のとばっちりで極度の資金難に陥りながらも、1996年に当初の予定通りに完成した「ミール宇宙ステーション」は、本来の予定では1989年内には完成する予定だったそうです。そのコンセプトは、 模擬火星宇宙船!

左:ミール宇宙ステーション外観

下:ミール宇宙ステーション概要

●1987年12月21日打ち上げ ミール第三回ミッション。

本ミッションでは、翌年12月22日までの、一年間の長期宇宙滞在を予定していました。そして予定通り、 1988年12月22日 、ウラジミール・チトフとムーサ・マナロフの両宇宙飛行士は、 連続宇宙滞在366日を記録して、健康な状態で地球に帰還しました。つまり、この日ソビエト連邦は、有人火星接近飛行(着陸は無し)に必要な技術と経験を立証したわけです。

●1988年11月26日打ち上げ ミール第四回ミッション。

この日に打ち上げられミールにドッキングした「ソユーズ TM7号」の乗組員の一人、 ワレリー・ポリャコフ 宇宙飛行士は、一年半の宇宙滞在を行う予定でした。実現していれば世界初の「模擬火星着陸旅行」でしたが、資金不足から、翌年4月27日に帰還させられました。

その後しばらく、ミール宇宙ステーションは、資金不足から無人自動運転となりました。

それにしても、1988年頃から1990年代後半までのソ連・ロシアは、政治も経済も何もかもメチャクチャで、年間インフレ率数百%とか、公務員の給料遅配9ヶ月とか、年間経済成長率マイナス30%とか、とにかくメチャクチャでしたが、そんな状況においても、ミール宇宙ステーションを維持し続け、なおかつモジュール拡張まで行って、人類史上初の本格的宇宙ステーションを予定より7年遅れでとうとう完成させた、ソ連宇宙技術陣の情熱には全く持って恐れ入ります。
 
 
7 超大型ロケット「エネルギア」の完成(1987年)

開発に失敗したN1ロケットの後継機として、1976年から、低軌道打ち上げ能力100トン超の、超大型ロケット「 エネルギア 」の開発が始まりました。

エネルギアロケットは、左の図(ソ連版スペースシャトル 『ブラン』 を載せた場合)のように、真ん中のコアブースターに液体水素エンジン4基、横に液体酸素-ケロシンを燃料とする補助ブースター4本を備えたロケットです。

ソ連版スペースシャトル「ブラン」は、アメリカのスペースシャトルとは構成が全く別物で、ブラン自体はメインエンジンを持っていません。巨大なエネルギアロケットの背中に乗っているだけです。

補助ブースターについている4つのノズルは、エンジンも4つに見えますが、実はターボポンプは一つ、ノズル4つの、一つのエンジンです。このエンジンは、「RD-170」と言って、推力は806トンであり、サターンVの第一段エンジン「F-1」の推力689トンをしのぐ、史上最強のエンジンです。

エネルギアロケットは、打ち上げ時に全てのエンジンに点火し、途中で補助ブースターを切り離して、そのまま一気に地球周回軌道へ運搬する「一段式」ロケットです。「ブラン」以外にも、100トンの貨物を地球周回軌道に乗せることが出来ます。

また、 補助ブースターの本数を2本〜8本に変える事により、打ち上げ能力を調整することが出来ます 。

1987年 、エネルギアロケットは、左の図のように、 重量約100トン の宇宙工場「ポリウス」をロケットの背中に乗せて、打ち上げに成功しました。

1988年 には、ソ連版スペースシャトル「ブラン」を載せて打ち上げに成功しました。

 

エネルギアロケットの、補助ブースター8本版は、左の図のように、 「Vulkan」 と呼ばれます。その低軌道打ち上げ能力は、何と 200トン!! 200トンの構造物と言えば、考えられるのは唯一つ。

そう、目的は有人火星旅行船打ち上げ!

 

1987年にエネルギアロケット実用化、1988年11月にソ連版スペースシャトルの実用化、同年12月に宇宙滞在記録を366日に更新… ソ連はさらに、エネルギアの補助ブースターを8本に増やした強力版を開発中で、その低軌道打ち上げ能力は200トンと発表しました。

また、1988年8月6〜8日のジュネーブでの米ソ首脳会談では、ゴルバチョフ書記長が米ソ共同の有人火星探査を積極的に提案するという動きもありました。

これらの動きを受けて、米国首脳は、ソ連有人火星探査の実行時期の予想を「ロシア革命100周年の2017年」から大幅に縮めて考えるようになりました。元NASA宇宙飛行士で米国宇宙会議議長のブライアン・オレアリー氏は、「たとえアメリカが米ソ共同有人火星探査プロジェクトに加わらなくても、ソ連は単独でも、1999年には有人火星飛行を実行すると確信する」と結論付けました。また、元アポロ宇宙飛行士で上院議員のハリソン・シュミット氏の予想はもっと大胆で、1992年、つまりロシア革命75周年およびコロンブス新大陸発見500周年に行われる、というものでした。

しかし、1990年にはソ連が崩壊し、財政難から、エリツィン大統領の命令で、一連のエネルギアロケットの生産および生産設備に対する予算は完全にカットされ、エネルギアロケットは正式に中止されてしまいました。

それでも、ミール宇宙ステーションは維持され続け、有人火星旅行を目指して、長期宇宙滞在記録の更新への努力が続けられました。下の図のように、宇宙滞在記録を順調に更新していきました。


 
 
8 確かに存在した、ソ連が20世紀中に火星旅行を行った可能性

1980年代前半には、超大型ロケット「エネルギア」の完成のめどがつき、また1985年には「模擬火星宇宙船」ミール宇宙ステーションの運用も始まりました、これでソ連宇宙技術陣はすっかり自信を取り戻したのか、20世紀末を実行目標とした有人火星旅行計画を具現化しました。

当時は確かに、アメリカにも有人火星旅行計画のプランはいくつか存在しました。しかし、いずれの計画も、スペースシャトル数十回の打ち上げおよび有人船外活動による組み立てを前提とし、予算は100兆円程度と見積もられていました。アメリカ宇宙開発における宇宙空間長期滞在記録は、1973年のスカイラブ宇宙ステーションで達成した86日間のみ、それ以後の有人ミッションはすべて2週間以内の短期滞在なので、長期宇宙滞在に関するノウハウが全く無いのですから当然です。そのためか、アメリカの有人火星旅行宇宙船は、回転による人工重力を用いた巨大な宇宙船ばかりが構想されては消えていきました。スペースシャトルも、1985年のチャレンジャー事故以降、点検項目が極めて煩雑になり、シャトル飛行は年に3〜4回程度となり、しかも費用は一回につき500億円以上ですから、それを何十回も使って火星旅行宇宙船を組み立てると言っても、リアリティーは皆無です。

対してソ連は、長期宇宙滞在に関しては、1971年からミール宇宙ステーションまで一貫して続けてきたので、ノウハウは豊富です。しかも、打ち上げロケットは、能力100トンで使い捨て、打ち上げ費用約数百億円のエネルギア数機。また地球周回軌道上での組み立ても、1967年の無人ソユーズ(コスモス186号・188号)以来、すべて自動ドッキングです。サリュートやミールへの運搬手段として、人員輸送にはソユーズ、貨物輸送にはプログレスが用いられてきましたが、200回以上の自動ドッキングを成功させてきました。とくにプログレス無人貨物輸送船は、自動ドッキングの成功率は完全無欠の100%です(ミール宇宙ステーションに衝突したたった一度の失敗は、資金難から、自動ドッキングを実施できないため、手動ドッキングを行った際に起こったもの)。

前章で「元NASA宇宙飛行士で米国宇宙会議議長のブライアン・オレアリー氏は、「たとえアメリカが米ソ共同有人火星探査プロジェクトに加わらなくても、ソ連は単独でも、1999年には有人火星飛行を実行すると確信する」と結論付けました」と記述しましたが、それを裏付けるリアリティーは確かにあったのです。

そして、オレアリー氏の予想通り、実際にソ連では、20世紀末に有人火星着陸を行う準備が着々と進んでいたのです。

・マルス1986(出発予定年:2000年)

1974年6月23日の政府命令によって開発が中止されたN1ロケットに代わり、1976年から超大型ロケット「エネルギア」の開発が始まりましたが、1978年から、エネルギアロケットで打ち上げることを前提とした有人火星旅行船(着陸あり)の開発が始まりました。そして、1986年1月には設計が終了しました。概要は以下のとおりです。

・両端に、イオンエンジン用の原子力発電装置(15メガワット)を搭載。
・ 乗組員は4名、うち2名が火星着陸。768日間の宇宙滞在、うち火星表面滞在は30日間。
・エネルギアロケット5機の打ち上げおよび自動ドッキングで地球周回軌道上に組み立てられる。
・生命維持装置は、TMKシリーズで開発されたものから、サリュート・ミールで実証済みのものに変更。

・マルス1989(出発予定年:2001年)

宇宙船・着陸船など、基本的にはマルス1986を踏襲していますが、最大の変更点は、イオンエンジンのエネルギー源を、原子力発電装置からミール宇宙ステーションで実用化した新型太陽電池に変更したことです。概要は以下のとおりです。

・乗員4名、うち2名が火星着陸。宇宙滞在は716日間、うち火星表面滞在は7日間。

基本構成:

・軌道モジュール:直径4.1m 長さ23m、80トン。
・火星着陸機:直径3.8m、長さ13m、重量60トン。
・地球帰還カプセル:10トン。
・イオンエンジンおよび太陽電池:40トン。15MW。
・燃料:165トンのキセノン。

このマルス1989は詳細に計画が練られ、3つのフェーズにわけて実用化することに決定しました。

●フェーズ1

ミール宇宙ステーションへ、プログレス宇宙船により技術実用の「マルスモジュール」を運搬し運用する。この重量1.3トンの「マルスモジュール」は、太陽電池・イオンエンジンその他、有人火星旅行宇宙船に必要な技術開発・実証を行う。後に、プログレス宇宙船により燃料補給が行われ(重量5.5トンとなる)、火星軌道へと出発し、火星軌道まで到達した後、地球に帰還する。

●フェーズ2

次に続く有人火星旅行のための準備。太陽光で駆動されるイオンエンジンタグが、火星周回軌道に二機の着陸機を送り届ける。ひとつは、 有人火星着陸・火星周回軌道帰還のための完全な着陸船(バックアップとして用いる)。もうひとつは、複数のマルスホード(無人火星探査車)を搭載しており、火星に着陸し、有人火星着陸に適した地点を予め調査しておく。

●フェーズ3

有人火星旅行。

このように、1989年には、ミール宇宙ステーション、または、本来の予定では1990年代前半に完成する予定だった「ミール2」宇宙ステーションで、2年間の長期宇宙滞在を実証すれば、有人火星旅行を1999年〜2001年に実行する準備が整っていたわけです。

しかし、ミール宇宙ステーションの完成を待たずして、1991年にソ連が崩壊し、資金難からミール2宇宙ステーション計画も凍結されました。

それでも、ソ連宇宙技術陣の有人火星旅行実現に対する情熱と執着は凄まじく、1994年には、マルス1989をさらに進化させた「マルス1994」の概要をまとめます。これは、宇宙空間滞在期間が460日間と大幅に短縮され、既存のミール宇宙ステーションでも実証可能と目論まれていました。またエンジンは、1985年に既に実用化済みの原子力エンジン「RD-0410」を用いることにしました。つまり、既存の技術を最大限生かしたもので、実現可能性という点では、リアリティー満点です。

●マルス1994の概要

・火星着陸船は、直径3.8m長さ13m。火星表面滞在時間は30日間。
・地球帰還船は、火星着陸船と全く同じものを用いる。
・居住区画は、直径5.5m長さ33mの円筒状。生命維持装置はミールのものを搭載。
・長さ36.5mの液体水素タンク6本が居住区画を囲むように配置される。4本は地球出発時、2本は火星到着時に燃料として使用され、それぞれの直径は6m、5m。
・火星出発時用の、燃料タンク・エンジン区画。長さ11.5m。
・エネルギアロケット9機の打ち上げ・自動ドッキングで組み立てられる。

火星への出発時期は2010年とされましたが、これは、技術的な問題より財政的な問題を考慮しての時期設定だと、私は思います。1994年ごろのロシアといえば、資金不足のためミール宇宙ステーションの運用もままならぬ状況でしたから。エネルギアロケット計画も、1992年に中止され技術者も離散しましたから。当然、マルス1994はロシア政府から計画の承認および予算を獲得することはありませんでした。

 左:RD-0410 世界で唯一実用化された原子力エンジン。原子力(熱核分裂)の熱で液体水素を噴射する。

この時点で、ロシアが有人火星旅行(着陸)を実現させるのに必要なものは、たったの二つ。

@ 資金  
A 460日間以上の連続宇宙滞在記録の実証
 
 
9 遂に、有人火星旅行の技術と経験を立証!

そして 1995年3月22日 。 ワレリー・ポリャコフ 宇宙飛行士は、ミール宇宙ステーションで、資金難や政治の混乱による数々の困難を乗り越え、連続宇宙滞在記録478日を記録し、健康な状態で地球に帰還しました。そしてソユーズ帰還カプセルから自力で這い出して、すたすたと歩いて見せました。

つまり、 1995年3月22日。ついにこの日、ソ連(ロシア)は、資金さえあれば今すぐにでも、1956年以来一貫して可能性を追求してきた有人火星着陸探査を行うことが可能であることを実証したのです。
 
 
 
 
 

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