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戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩
http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/266.html
投稿者 吐息でネット右翼 日時 2011 年 2 月 05 日 21:29:13: fq6z4wyhxyxZg
 

2011年2月5日21時0分 朝日

http://www.asahi.com/culture/update/0205/TKY201102050167.html

 戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。

 ドイツの国立軍事文書館の資料で、10年ほど前にドイツ側の研究者が存在を紹介したが、詳細が不明だった。

 箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。

 (1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。

 この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

 会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。


http://www.asahi.com/culture/update/0205/TKY201102050167_01.html

 箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

 明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。

(渡辺延志)
 

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コメント
 
01. 2011年2月05日 23:35:09: sfnXj9InaA
うーん、惜しい、プロイセン軍人の指導があったら、薩長に負けなかったのに。

会津庄内の侍魂はきっとプロイセン騎士精神とあいまって、英米の覇権国家に操られた維新勢力を退けたであろう。


02. 2011年2月06日 12:51:46: OicPpBYGsY
わたしゃ今頃、ドイツ人ってわけですな。グーテンタグ!

03. 2011年2月06日 17:02:12: GrJZXj2oCS
フランスにも、土方歳三の軍事手腕を賞賛する文書が残ってます。

04. 2011年2月06日 17:57:06: xO1eNzjKtM
プロイセンは既にユダヤに牛耳られていたのでしょ
大日本帝国憲法もユダヤ憲法ですし。

05. 2011年2月06日 22:15:29: dlp5rHUhkk
薩摩と長州は大英帝国にコントロールされていた。伊藤や井上は英国のエイジェントであった。アーネストサトウやグラバーと繋がっていた。戊辰戦争は英国の極東戦略の一環であった。武器はグラバーが調達していた。武力の差が20倍です。幕府側が負けるのは当然です。しかし徳川は自分だけ助かって会津や庄内を見捨てた。会津は京都守護職です。朝廷や徳川を守っていたのです。龍馬もグラバーと関係があったようです。武器を扱っていた。戊辰戦争、明治維新、征韓論、明治の西南戦争についてもまだわからないことが多く存在しています。将軍家茂や孝明天皇の死も不思議です。敗者側から戊辰戦争を研究することも大切なことです。歴史は勝者が都合の良いように作る物です。真実が消されています。

06. 2011年2月07日 10:45:58: qDVeDsWthg
ユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンは、英国系を薩・長、仏蘭西系を幕府に
接近させ、対決・内戦作戦を立てたが、危うく西郷・勝によって内乱を防いだ。
江戸城開城時に徳川慶喜は、対決を諦めた。
官軍側は、すでに英国フリーメーソンの手中に嵌っており、天皇も完全に薩長の
手中に落ちていた。
これでは、会津などの東北諸藩が連合して抵抗したところで勝ち目はなかった。

明治維新とは、完全にユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンの謀略による
日本支配なのである。

無論、欧米列強といわれる各国を裏から実効支配しているのは、今日もこの連中
である。


07. 秋元健一 2011年2月07日 11:29:23: EjfswsyCJQQaY : HG211M8xd
国際政治家としてのビスマルクの判断力に敬服

08. 2011年2月08日 23:18:11: HjsyTJ8Wqc
鉄血宰相ビスマルクか。岩倉使節団と面会してるんだよな。時の悪戯ってやつか…

09. 2011年2月13日 23:16:14: HQ3prt7jX2
会津人として一言。

庄内(酒井家)は戊辰戦争では連戦連勝。薩長に負けなしの快挙を成し遂げています。薩長を相手にして、会津へ援軍まで出そうかという余力さえありました。凄いというか、羨ましいかぎりで、酒井家の名誉のためにももっと喧伝されればと思います。些細なことかもしれませんが、ほとんど全勝のまま降伏したのです。会津の不甲斐なさをお詫びします。

※「藩」の呼称は当時はまず使いませんし、侮蔑の意味もあるので個人的には避けています。


10. 2012年6月06日 14:23:58 : HkvM1VZQeg
西郷隆盛は庄内藩を友好的に捉えてます。
明治になって庄内から薩摩に留学生を送ってます。
西郷隆盛は日本人に人気があります、西洋の本質を見抜き、長州を見抜いてました。
それは関が原合戦の負け組みである、毛利の反体制的復讐心が長州の原動力であるのを見抜いてたことです。

当時どの藩でもこのぐらい気づいているはずです。

庄内出身者ですが、おそらく領民は幕府にも反感をもってませんでした、藩や本間様の悪口をあまり聞きません、村の地主の悪口は聞きましたが。
庄内藩が攻め入った藩もありますが、会津藩は同盟者、東北、越後の諸藩には今も感謝しています。

ちなみに、信念のだんまりを決め込んだ徳川慶喜を尊敬しています。


11. 2014年11月10日 00:44:42 : DdHoZuU3mk
ふむふむ、勉強になるな。こんなの教科書にも載ってなかった。
何だか、教科書は重要な事を抜いてるなぁ。

12. 2018年12月30日 12:38:57 : tc6rHs4iVE : GMA_IyC_0g8[1] 報告
当時は北海道は日本の領土って感覚はないからな。

しかもこれ会津藩の正式な依頼ってより、一藩士の提案ぐらいだったんじゃないのか。

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