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エジプト・トルコ対イスラエル:「完全な断絶」  (ROCKWAY EXPRESS )
http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/345.html
投稿者 新世紀人 日時 2011 年 3 月 01 日 12:35:36: uj2zhYZWUUp16
 

http://rockway.blog.shinobi.jp/

エジプト・トルコ対イスラエル:「完全な断絶」

反イスラエルでまとまりつつある中東

◆3月1日

 「完全な断絶」、という言い回しは、英語では「A clean break」である。これは実はある戦略的提言としてなされた文章のタイトルとしてつけられた言い回しである。この提言書はアメリカのネオコンのグルームがイスラエルに向けて作成した「完全な断絶:イスラエルの領土保全のための新戦略」というものだ。
 
 完全な断絶とは、過去の和平への努力のやり方から「完全に断絶」し、力による「平和」を達成する、という意味である。今のネタニヤフが1996年に政権を握った時のイスラエルの戦略として提言された。

 今再びネタニヤフがイスラエルの政権を担っているが、この論文では、イスラエルが同盟を強化すべしとしたトルコやエジプトとの間に、今や「完全なる断絶」が生じてきている、と皮肉を込めて論じている。時代は変わりつつある、ということだ。

 このブログでは既に、2月23日号の「イラン軍艦:スエズ運河通過」で示したのを中心に何回も、今回のアラブの民主化革命がイスラエルに不利になる点を指摘してきたが、それはトルコばかりか、エジプトというアラブの盟主を気取っていた国家さえもその政権が倒され反イスラエル・反欧米という民衆の意思が国家の意思としてより鮮明に打ち出されてくる体勢ができる情勢になるからだ。

 このブログでも、さまざまな工作を通じてことを成し遂げようと画策する国際金融資本勢力とそれに繋がる者たちの思惑は、次々と暴露され、破綻し、どうもなぜかうまくいかない、という結果になってくると指摘した(1月12日号、2010年10月14日号など)ように、「完全なる断絶」を進めようとするイスラエルの意図は、道半ばで挫折し、今や、逆の意味での「完全なる断絶」が進められている。

 このような歴史の流れを見て、賢いものは悟らなければならないだろう。賢くなければ、その結果は押して図るべしである。


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●エジプト・トルコ対イスラエル:「完全な断絶」
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=23361
【2月24日 by Eric Walberg】

 オスマン・トルコの覇権を受け継いだのは、遠いアメリカから支援されているイスラエルではなく、トルコとエジプトのあるレベルでの協調関係であった・・・

 エジプト革命は国内問題、つまりパンとバター、腐敗、圧政、などの問題であるが、その直接の影響は、国際的である。エジプトがこの中東で大きな影響力を示しだしたのはそれほど昔のことではない。22カ国で構成されるアラブ連盟の内少なくとも13カ国はその影響を受けている:アルジェリア、バーレーン、ジブチ、エジプト、イラク、リビア、モーリタニア、スーダン、シリア、チュニジア、イエメンだ。

 しかしイスラエルでの影響も同じく大きなものだった。イスラエルはエジプトとトルコのような民主的ではっきりとした隣人をかつて持ったことはなかった。

 アメリカがNATO(1949年4月設立)の総仕上げをしている時、トルコがイスラム国家として初めて1949年3月にイスラエルを公認した(イランは翌年公認)。自国の軍が注意深く見詰める中、トルコとイスラエルは外交、経済、軍事分野での密接な関係を冷戦時代を通して保持し続けた。

 最初のトラブルは1987年にパレスチナ人に対する「イスラエルの弾圧」に対し、トルコが非難した時である。しかし、強い批判的声明が出されだしたのは、公正発展党が2002年に与党となった後である。2004年トルコは、イスラエルによるハマスのシェイフ・アハメド・ヤシンの暗殺を「テロリストの行為」として、またイスラエルのガザでのやり方に対し、「国家主導のテロ」と非難した。

サウジ王国の石油からの収入はアメリカのドルに全面的に依存しているのだから、アメリカ・イスラエルの覇権に対しサウジアラビアが同意したことは理解できる。アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官(当時)がビジネス・ウィーク誌に語ったように、1973年にエジプトがイスラエルと戦争している時、サウジがエジプトを支援するために対米石油輸出禁止措置を取った後、アメリカに「協力しなければ政治的不安定をもたらしたり、安全を脅かすような大規模な政治的戦争をサウジアラビアやイランのような国々に対し行う」ことになるような姿勢はとられなくなった。

 彼の言葉は、根拠がないわけではなかった。エジプト人とパレスチナ人を支援するためにリスクを負ったファイサル国王は、その後暫くして暗殺されてしまった。そして彼のアメリカに対する反逆の行為はサウジによってなされた最後の反逆になった。しかしながら、エジプトは、イスラエルとの和平へと進んだ。トルコのイスラエルに対する反発が強くなってからでさえ、イスラエルは、敵との間の冷たい平和ではあるが、ムバラク大統領との関係を歓迎していた。

 明らかに敵である。過去30年間、正式の外交関係とエジプトとイスラエルの指導者達の握手の写真があるにもかかわらず、2006年のエジプト政府による世論調査では、エジプト人の92%はイスラエルを敵と見ていることが分かった。ムバラクは恐らく、イスラエルと良好な関係を維持することに不快さを感じていたのだが、アメリカからの2番目に大きな援助(イスラエルが1番目)を貰うことで彼はアメリカの意思に従ったのだ。

 今のイスラエルの軍事的戦略は、1980年代初期、軍事的脅威としてのエジプトを除去してから明確になった。アリエル・シャロンは1981年、レバノン侵攻の少し前に、イスラエルは隣国との平和を考慮するのではなく、自らの影響力を、「トルコ、イラン、パキスタンなど、更にペルシャ湾とアフリカ、とりわけ北・中央アフリカ」を含む地域全体に拡大することを求めることを公表した。イスラエルが地域大国になるというこの考え方は、シャロン・ドクトリンとして知られるようになった。

 シャロンの1982年のレバノン侵攻は、直接侵略の伝統的帝国主義的戦略に倣ったもので、この場合では地域のエリート集団であるキリスト教徒のグループと共闘した。しかし、既にこの力の政策は見直されようとしている。レバノンではこれはイスラエルのためにならなかった。このようなグループがイスラエルに盾突いたり、転覆させられるリスクが常に存在している。

 イスラエルをこの地域の覇権国にするという更に急進的な新イスラエルのゲームプランは、オデド・イェオンの「1980年代のイスラエルの戦略」である。イェオンは弱く依存的で、ある程度の民主主義的装いを持った小国群を生み出すため、「分断し支配する」彼の提案のため「不和の種まき男」というニックネームを持っていた。これは丁度アメリカの中央アメリカにおける戦略に似たものである。このような小国は互いに戦い、もし事態が悪化してポピュリストのリーダーが出てきても、簡単に妨害できる−サルバドール・オプションである。ヒズボラの指導者であるハッサン・ハスララは、イェオンの理論を基礎とするこのイスラエルの政策を評して2007年に、「民族と宗派によって分断された小国家群をこの地域に生み出そうとするものであり、それが新しい中東というものなのだ」と述べている。

 イェオンは、オスマントルコのシステムをモデルとして利用している。そこでは、細分化された多様な宗教的共同体をモスレムのシャリア、キリスト教のカノン、ユダヤ教のハラカを使って裁判所が統治するものだ。レバノンは、スンニー派、アラウィ派、キリスト教徒、ドゥルーズ教徒に分けられる。イラクはスンニー派、クルド人、シーア派に分けられた。サウジアラビアとエジプトは、宗派ごとに分けられるであろう。イスラエルは議論の余地のない主人となるだろう。

「本当の共生と平和は、アラブ人たちが、ヨルダンと地中海の間をユダヤ人が統治する以外には彼らが生存したり安全であることはない、ということを理解する時にのみ達成できるのだ」
 イェオンは第二次世界大戦後イギリスによって設定された現在の中東国家は、不安定で、従って簡単に反発し合う、多くの少数グループによって出来上がっているという事を正しく見ていた。全ての湾岸諸国は「石油しかない含んでいない砂の繊細な家の上に建てられている」のだ。

 1982年、イェオンの戦略に従って、リチャード・パールの1996年の「完全な断絶」が述べている:「イスラエルはトルコとヨルダンと協力してシリアを弱体化し、封じ込め、後退させることで自らの戦略的環境を形作ることができる。このために、サダム・フセインをイラクの権力の座から除去することに勢力を集中することになる。イスラエルの固有の権利として重要な戦略的目標である」

イスラエルのアビ・ディヒター国内治安情報機関長は、2003年のイラク侵略の直後に、「イラクの弱体化と孤立化はエジプトの弱体化と孤立化と同等以上の重要性を持っている。エジプトの弱体化と孤立化は外交的方法で達成されたが、イラクの完全で包括的な孤立化はあらゆる方法でもってなされねばならなかった。イラクは軍事的脅威としてまた統一国家としては消滅した」

 ハアレツの特派員であるアルフ・ベンは、2003年のアメリカによるイラク侵略の前日に、シャロンと彼の仲間達が、「サダム・フセインが倒されることで、アラファト、ハッサン・ナスララ、バシャール・アサド、イランのアヤトラ、そしてムハマール・カダフィさえも含めた、イスラエルのその他の敵国の指導者らにも似た事が起きるドミノ効果を目論んでいる」 アメリカの実行支配を示しアメリカ・ロビーを使うことで、イスラエルはアメリカの中東における計画の中心に自らを保持し続けることになろう。

 イラク侵略は常にイラン侵略のプレリュードであった。イスラエルのロジックは、間違えることは殆どないのだが、以下のような内容だ。今は占領されているイラクは不安定で親イランであるシーア派の多数派が統治を主張しているので、イランは強化されてきていて、この地域に反イスラエル勢力の頭を叩くため、イランに対する同様の戦争計画が必要である。そのイランは今や単にシーア派からの支援のみならず、アメリカ・イスラエルのアラブ世界全体に対するプロジェクトに反対するスンニー派からの支援も受けている。ベン・エリエザーは人々に、「彼らイランとイラクは双子だ」と語った。

 地平線に湧き上がっていたトルコの暗雲が見えてはいたが、2011年1月25日までは、イスラエルの計画は中東の帝国主義的強国として、かつてのオスマントルコの代わりをなすものだった。アラブ国家(イギリスの<分断して支配する>戦略と地方独裁者政策でで出来上がった)は、石油への安全なアクセスを保障するため、分断され弱体化されイスラエルに依存する体制が保持されるはずだった。イスラエル型の平和が地域全体で生じるはずだった。

 しかし、この絡まったクモの巣は解かれてしまったのだ。イスラエルとの平和条約以来のエジプトに対する360億ドルのアメリカの軍事援助やエジプト軍のアメリカ化にも拘わらず、wikileaks-egypt.blogspot.comによれば、アメリカ高官は、将軍達が中央政権の力を更に削ぐための変化と経済改革に従順でないエジプトの後ろ向きの性格」(イスラエルがエジプトの主敵である)に不満を持っていた。

 エジプトのムハマド・タンタウィ国防大臣は、「対外軍事援助(FMF)の使途を変更することに抵抗していた。また軍事的任務を増大する治安問題に向けさせることに障害となった中心人物であった」 エジプトの事実上の国家元首は、エジプト軍を広域NATO軍による非対称的脅威に対する戦争(テロとの戦争)に参戦させるという、新アメリカ・イスラエル戦略に沿った方向を取ること、ならびにイスラエルを地域覇権国として認めることを拒否したから、アメリカによって批判された。

 ムバラクはエジプトの独裁者でシャロンのこの地域に対する戦略に合致していた人物だったが、想定外の方法・・・つまり民衆革命によって彼は追放されてしまった。イェオンの、分断して支配するという戦略は、エジプトでは、イスラム教徒を扇動してコプト教徒に向かわせる、というものだが、そこでおきた民衆革命によって頓挫した。この民衆革命の一つのシンボルは新月と十字架なのだ。

 確かに過去において「完全な断絶」は存在したが、パールが予想したようなものではなかった。彼の企図は、以下のように言い換えることができる:エジプトとトルコがシリアとレバノンと協調しながら戦略的環境を整え、イスラエルを弱体化し、封じ込め、後退させる、と。

 ディヒターの傲慢性がどう事態を見ているのか、この時点でイラクの将来がどうなるか予見することは不可能だが、彼が考えているようにはならないだろう。そしてイランはほっと息をついているところだろう。

 1年半前、イスラエルの潜水艦がスエズ運河を通って紅海に出て演習をした。これはイランに対する抑止のメッセージを送ることで、イスラエルとエジプトとの協力関係を示していた。ムバラクが追放されてたった一週間後に、スエズ運河は抑止のメッセージを送るために使用されたが、今回はシリアの港に向かうイランの軍艦が通過したことで、イスラエルに対する抑止のメッセージとなった。

 アラブ世界で今起きている騒乱はイェオンが願った宗派間の闘争というものはない。バーレーンでのシーア派の騒乱でさえ、シーア派とスンニー派の対立以上に、イギリスがもともと押し付けた圧政的な新植民地主義君主体制に対するものである。

 イスラエルのリーバーマン外相はエジプトのモスレム同胞団に対し、「平和条約を危うくする」と恐れを表明した。この条約に対しては85%のイスラエル人が歓迎している。しかし、彼は恐れる必要はない。エジプト人がイスラエルを好きでないとしても、自分より明らかに強く残忍な隣人に戦争を仕掛けようとは誰も考えてはいないからだ。

 リクード党の者たちが一番困ったことは、新エジプトと新トルコとの協調関係が、イスラエルを中東の地域的帝国として設定せんとするシャロン・イェオン戦略をお蔵行きにするだろう、ということだ。イスラエルは中東国家の国際礼譲にガキ大将としてではなく、責任あるパートナーとして参加せざるを得なくなるであろう。

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2011/03/01 (Tue) 戦略


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