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驚愕の結末!「怒り」に心がえぐられる 絶望の先にあるものは・・・3作品を紹介 
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投稿者 軽毛 日時 2016 年 7 月 09 日 14:59:56: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

驚愕の結末!「怒り」に心がえぐられる
絶望の先にあるものは・・・3作品を紹介
2016.7.9(土) 松本 大介

 物心ついたときから、なんとなく不安感とともに生きてきたように思う。

 それもそのはず。黄色人種では、「幸せホルモン」といわれるセロトニンを運ぶセロトニントランスポーターの働きが弱く、ラテン系の人々や黒人はこの働きが強いと言われている。

 その差はセロトニントランスポーターの遺伝子タイプの違いにある。セロトニンの量が少ないと、不安やうつになりやすいとされるので、日本人は遺伝子レベルで絶望を感じやすいらしい。

 絶望という言葉を目にすると、タモリの顔が思い浮かぶようになってしまった。タモリは自分にも他人にも期待していないとの論理を展開し「タモリ=絶望大王」説を唱えた樋口毅宏の書籍『タモリ論』を読んだのがきっかけだ。

 また、堺雅人主演のドラマ「Dr.倫太郎」において、精神科医である主人公の日野倫太郎は、ことあるごとに「僕の尊敬するコメディアンが」と、心を病んだ患者に対してタモリの言葉を、決め台詞として引用していた。

 タモリのサングラスの奥にある「真意」をここで暴きたい気持ちはやまやまであるが、前述した『タモリ論』という傑作に勝る論理展開はできそうにない。他にタモリに絡めて3冊紹介するということも難しいので、今回は「絶望」のほうについて3冊を挙げて考察したい。

 その前に、唐突だがここで問題。あなたのなかで絶望とは何色でイメージされるだろうか。もしよければ回答を用意したうえで、本コラムを読んでみていただきたいと思う。

『悪人』を超える超大作

『怒り(上)(下)』(吉田修一 著、中央公論新社) 

『怒り(上)』(吉田修一 著、中央文庫, 600円、税抜)
 この本の作者である吉田修一は、同時代に生きていることを感謝したくなる当代随一の作家である。

 昨年、又吉直樹が受賞して話題を集めた純文学の登竜門とされる芥川賞を『パークライフ』で受賞した。そして、同じ年に山本周五郎賞という、一般的には直木賞に次ぐ(業界内では周五郎賞のほうが信頼度は高いという人が多い)位置づけの大衆文学賞も受賞している。まさに文学界のハイブリッドだ。

『怒り』は、その吉田修一の魅力が十分に発揮された作品であり、今年の秋に映画が公開予定である。この『怒り』にテイストが似た作品で、数年前に吉田修一原作として映画化された『悪人』は大ヒットを記録したので、期待に胸を膨らませている人も多いのではないだろうか。

 きっとその期待は、いい意味で裏切られるだろう。なぜなら、物語の構造において『怒り』のほうが、数倍すごいからである。

『悪人』では、犯人=祐一と分かってしまうので、物語は逃避行の様子を中心に進んでゆく。主人公・祐一が殺人に至るまでの閉塞的な状況が丹念に描かれる一方で、彼の心理描写は一切されない。

 それは、祐一の心のあり様を想像させることが、物語の根幹をなす部分であるからだった。タイトルの『悪人』の意味を、そしてラストシーンの祐一の行動の意味を考えろというメッセージによって、この物語は読者に強烈なインパクトを残した。

 一方『怒り』では、まず始めに殺人が起きる。

 その現場の壁には、血文字で「怒」と書きなぐられており・・・と、このように物語は幕を開けるのだが、犯人の名前と顔を整形したとの情報が読者に提示されるだけで、その後まったく意外な形で物語は進行することとなる。

 千葉、東京、沖縄のそれぞれの場所で、世間へと公開された犯人の顔に似た3人の男が現れ、3人のうち誰が犯人なのか明かされないまま物語は進む。

 自分の前へと現れた「彼ら3人」と、それぞれ関係を築く周囲の人々の心理の変化もじっくりと書かれ、葛藤が読む者の胸にまで流れ込んでくるかのようだ。これほどまでに深く人の心をえぐり、構成に厚みを持たせた物語を私は他に知らない。

 つまり『悪人』と比較すると、単純に事件の容疑者として追われるスリルは3倍で、そこに「誰が犯人なのか」という謎解きの要素が加わり、さらには「愛する人が犯罪者なのではないか」という疑念を有した時にどのような選択をするかを、読む者に問う内容となっている。

 逃亡、整形、潜伏と並べられたキーワードでピンと来た人もいるかもしれないが、この小説は実際にあった事件をモチーフにして練られたフィクションである。何の事件を下敷きとしているのかは、実際に読んでお確かめいただきたい。

 現実を超えた驚愕の結末と、「怒」と書き殴った犯人の内面に、心がうすら寒くなる。

佐世保小6女児同級生殺害事件

『謝るならいつでもおいで』(川名壮志 著、集英社)

『謝るならいつでもおいで』(川名壮志 著、集英社、1500円、税別)
 犯罪加害者と、加害者の周囲の人々の振り回される心情と、信じたいのに信じることができずにもがき苦しむ様子を、巧みに描いた『怒り』は、先に述べた通り広い意味ではメタフィクションである。

 そして、これから紹介する『謝るならいつでもおいで』は、実際に起こった殺人事件に対し愚直なまでに事実を積み重ねることで、真実を浮き彫りにして見せたノンフィクションの傑作である。

 2004年6月、小学6年生の女児が同級生の女児の首をカッターナイフで切りつけ殺害した。「佐世保小6女児同級生殺害事件」は、11歳の女子児童が、小学校の敷地内で起こした事件として、世間に少なくない衝撃を与えた。

 新聞記者であった被害者の父。その父と同僚だった著者が、被害者と被害者家族にとことん寄り添いながら取材する様子はとても痛々しく、読みながら心が切り刻まれるような思いさえする。

 事件の発生直後から少年法の壁に守られて、なかなか表出しなかったエピソードもさることながら、10年の時を経ても褪せることのない被害者家族の悲しみや喪失感が、あえて感情を排した筆致で冷静に紡がれている。

 読んでいる最中に、何度も嗚咽がこみ上げてきた。むせび泣き、憤り、ただただやるせなかった。

 わが子を亡くしてなお気丈に振る舞う被害者の父親の姿、のちに発達障害と診断される罪の意識を抱けない加害少女、そして10年前で時が止まってしまった被害者少女の命。

 もし自分が当事者だったらと考えずにはいられない。絶望とはこういう状況のことを言うのだろう。救いのなさに無力感を感じる。

 しかし、この本はそれだけでは終わらなかった。事件から10年の時を経て登場する3人の証言者たち。彼らの証言がこのノンフィクションの本当の肝(きも)だ。その10年目の告白に、あなたは表紙の挿絵と、この本に付けられたタイトルの意味を知るだろう。

絶望に効くのは絶望の本

『絶望読書――苦悩の時期、私を救った本』(頭木弘樹 著、飛鳥新社)

『絶望読書』(頭木弘樹 著、飛鳥新社、1389円、税別)
『謝るならいつでもおいで』に書かれているように、昨日と同じ今日がやってこなかった時、明日を思い描けなくなった時、私たちはどうすればいいのか。答えは簡単に出るものではない。

 本書『絶望読書』の著者である頭木弘樹氏は、大学3年生で突然難病を発症すると、終わりの見えない闘病生活に入り、とてもつらい体験をする。

 それまで病気ひとつしたことがなかった頭木さんは、「あなたは一生治らない病気で、親御さんにこれからの面倒をみてもらうしかない」と宣告され、目の前が真っ暗になったと胸中を告白する。

 これからの自分の人生については、誰しも考えていることと思うが、まだ二十歳の前途洋洋な若者が、問答無用に入院生活を強いられ、未来の展望を失ってしまう理不尽さ。著者が絶望という言葉の意味を知るのに、そう時間はかからなかった。

 この本で印象的だったのは、絶望は瞬間ではなく「期間」だと述べている著者の言葉だ。

 絶望を感じたとき、立ち直ろうと気持ちが上向くまでは、倒れたままで過ごすことの重要性を著者は繰り返し説いている。未来に対して何の光明も見いだせず、欝々とした気持ちで入院していた時、お見舞いに来てくれた友人たちが持ってきてくれる「前向きな本」が、著者には苦痛以外の何ものでもなかったという。

 心遣いはありがたいと感じても、心がついていかずに読めば読むほど気持ちが沈んでいく「いい話」。心のきれいさを押し付けてくるような「闘病記」。それらを無理して読むことによって、絶望の期間はそれらを読まない時に比べて長くなる可能性もあるとの主張に、なるほどと思う。いわゆる「こじらせる」というやつだ。

 そんな実体験を経て、著者は本書を書くきっかけとなったある発見をしたのだった。

 絶望しているときは、絶望した気持ちに寄り添うような本、つまりは主人公や登場人物が絶望的な状況に置かれているとか、絶望で塗りこめられたような心理を描写しているものだとかのほうが、自分の心にやさしく効く。そのことに気づいたのだ。

 そうしたショック療法的な本を差し入れしてくれたのはやはり、自身も長期で入院した経験のある人だったという。その体験を共有したことや、同じ感情を分かち合ったという意識によって、大いに勇気づけられたと著者は語る。

 誰かが自分のこのつらい体験を分かってくれている、過去に自分と同じようなつらい体験をしたことがある、そういったことを知るだけで救われ、気持ちは軽くなることがあるのだ。共感力こそが、絶望から抜け出す第一段階であると認識し、知識として知っておくだけでも、とても価値のある本だと思う。

 本書の第2部に挙げられている読書リストは、「絶望」の期間に備えるための心のバリアにもなってくれるだろう。

 キルケゴールの著書に『死に至る病』というものがある。端的に言うと、死に至る病とは絶望のことであって、死に至らない病には必ず希望がある、そう述べている本だ。ただ、この本は後ろのほうで、キリスト教の信仰に絡めて絶望が考察されており、特定の宗教を持たない人が多い日本人には、分からない部分もあるかもしれない。

絶望の「種」はどこに植えられているか分からない

 ここで冒頭の問題である。あなたにとって絶望の色は何色か。考えながら読んでいただけただろうか。

 色とは、対象の物体が反射する可視光線の波長である。その波長に応じて「色」が決まるわけだが、黒だけが唯一例外で、あらゆる波長を完全に吸収し反射することがない。

 きっと多くの人が絶望の色のイメージを「黒」であると回答したのではないだろうか。すべてを吸収してしまう黒は、まさに絶望の色にふさわしい。

 しかしながら、黒く見える物体であっても、全く可視光線を発しない物質は、実はこの世に存在しないという。したがって完全なる黒色は、この世界には存在しないのだ。であるから、本当の意味での絶望は、死を選ぶほどの生の諦念はこの世に存在しないことになる。

 喜劇王チャップリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という言葉を残している。

 絶望へとあなたを誘う「種」は、いつどこで植えられているか定かではない。その種が芽を出したときに摘み取ることができればよいが、萌芽に気がつかずにいつの間にか成長して、あなたに災いをもたらすときが来るかもしれない。そう考えると、最悪の事態を想定して人生のリスクマネジメントをしておくに越したことはないだろう。

 そして、もし絶望が瞬間ではなく期間であるというのが本当なら、絶望し続けていると解釈され、それを否定しないタモリは、やはり尊敬に値する人物だと思うのだ。先の喜劇王チャップリンの言葉を、誰よりも深く心に刻んでいるのは、きっとタモリに違いない。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47286  

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