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やくざと警察国家の歴史について
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投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 17 日 12:15:52: 3SipOypTxKjgk
 

(回答先: いるみなてい 投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 16 日 16:51:30)

やくざと暴力団をごっちゃにしてはいけないですね。(笑)

論考・八切史観  4より:

役座が「やくざ」に

これまで唯一の研究所として、故田村栄太郎著「やくざ考」改題「やくざの生活」(吉川弘文館)という本があるが、これには「八九三」を以て「やくざ」の語源とし、花札3枚の勝負で合計20は役に立たない数だから、その隠語から出たものだと巻頭に解明してある。これが戦前からの説で、今では通説になりつつある。
 
しかし花札賭博が一般化したのは極めて近世で、「八九三」のオイチョカブの如きは明治時代に入ってからのものなのである。
 
文献的に明らかにされている庶民的博打は応仁の乱の頃より、「宝引き」(ほうびき)という藁しべの束から引き合って、長短または印によって勝負をつけるものがあり、戦国時代には流行し、後にはこれから「褒美」という言葉も生まれている。次に「波形」と呼ぶ銭の裏表を当てる賭博。
 
そして京の周辺では「賽子勝負」が飲茶博打と共に古くからあったが、賽子の本物は入手困難だったから、大根などを角に切って用いていた。今日「大根を賽の目に切って・・・」等と今日言うのもこの頃の名残であろう。
 
さて、名暦二年版の「武者物語」の中に、陣中賭博の禁として、「古き侍の物語に曰く。荒らし子(力持ちの小者)部屋の役付きもの(部屋頭)寝茣蓙を特にたまわるを役座というが、陣中にまで卷き持ち来たりて、これにて藁の長短
を引く勝負をさせ、その内より損料としての役座銭をとるという」云々の記載がある。
 
すると、「やくざの語源が八九三」というのは明治時代以降の後世の説で、戦国時代は足軽部屋の頭分を「お役座」とよんでいたのだから、この方が語感からも本当ではなかろうかと訂正したい。
 
さてまた、田村栄太郎著では「寺銭」の事を、「寺社奉行管轄の社寺で博打をすれば江戸時代は手入れがなかったから、そこで始めたのが語源」とあるが、これもどうであろうか。というのは江戸時代どころか足利時代の「看聞御
記」という伏見宮貞成(さだふさ)親王の応永23年(1416)の日記には、「茶七所当て、各賭け物と取り合う。相残りし賭け物は寺銭に取り落とす」と、はっきり「寺銭」の文字が出てくるからである。この博打は口に次々に茶を含んで、その産地を当て合うのだが、「勝負なしだった分は寺へ奉納」という事になっている。つまり室町時代は茶の栽培や輸入の権利が各寺院にあったせいである。
 
が、この親王様の日記には、「抹香をもりて一寸燃やす間、各賭け物をかけ争う」等という箇所もある。
 
いま焼香に用いている香を3センチぐらいの山に各自積み上げ、それに点火して、親王様や女御様達がフウフウ息を吹きかけ、「それ二番ッ、あっ三番でました」興奮して勝敗を争っていたものらしい。
 
つまり室町時代の寺は現代と違って、カジノであって、ルーレットやスロット・マシンはないが、色々な博打をさせ、これを「ご開帳」と呼び、どんどん寺銭をとったから、「坊主丸儲け」の言葉も案外こんなところから生まれたものかもしれない。
 
しかし月にむら雲、花に風のたとえで、現在の美濃部東京都都知事のような人が現れ、「ギャンブル追放」を命じた。織田信長その人である。
 
それまで寺の本堂で、「茶賭博」で勝負するのはエリートだけだったが、門前の小僧習わぬ経をよむで、いつか庶民も門前に集まって真似をしだしたから、「賭け茶屋」というのさえできた。後の賭け茶屋のことである。そこで、「一茶(いっちゃ)やるべし」のちの(いっちょうやるべぇか)と、飲みわけの青茶勝負。蓋をとって茶柱でかける唐茶勝負が盛んになった。
 
ところが繁盛しているその「闘茶勝負」を、呑むだけの侘しい茶へ信長は変えさせたのである。これが今も伝わる「わびすきの茶」だが、さて寺から博奕権を奪ったばかりでなく、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と彼は、延暦寺、高野山と片っ端から焼き討ちまでした。 ところが、織田信長の父信秀たるや、「山科言継卿記」の天文二年(1533)7月14日の記載によれば、「朝飯の時、織田信秀来たり、盆の料(しろ)として飛へ百疋、予と蔵人へ五十疋持ち来たる」とある。
 
これは京では食えなくなってきて、蹴鞠の家元飛鳥井中納言と都落ちした一行が、信秀の城で百姓を呼び集めて、てんでに勝負に賭けさせた分の配当で、一疋とは銭十文である。
 
「盆をしく」とか「盆のしろ」というと近世の言葉のようだが、織田信長の生まれる一年前に、時の従三位権中納権のお公卿様が、その自分の日記に書いているのだから、当時もギャンブル時代だったといえよう。


流浪の民

また信長などの率いていた戦国武者というのは、室町御所奉行衆などと違って、「丹羽の五郎左」「前田の犬千代」のように、上に在所の地名をつけ、「の」の字を入れて呼びあっていた。
 
つまり後年の「清水ノ次郎長」「黒駒ノ勝蔵」などというやくざの呼称と同じである。 また、「次郎長十二人衆」といった言い方なども、「黒ほろ十人衆」「赤ほろ十人衆」等という戦国時代の呼び方そのままである。
 
さて織田の時代が終わり、豊臣の世になり、やがて徳川の天下となると、処世に巧みであった者の他は、あわれや浪人となった。
 
ところが今の「一般大衆とは百姓」と誤られた見方では、「帰農」というようにこれを扱う。だが、戦争中に疎開した人たちも、みな田舎へは行ったが本格的な百姓はしていなかった筈である。
 
今も昔も耕せる所は決まっているし、それに、百姓がやたらに田畑など他人に貸すわけがない。
 
では浪人やその家族はどうなったかといえば、かつては武者や侍でも浪人すれば「何々分限帳」等と呼ばれる城の人別からは削られるから、山へ入って、そこの頭目の下で「きこり」「石切り」「漁師」「炭焼き」になるか、街道筋を流して歩く「流浪の民」となった。
 
しかし物乞いばかりしてもいられぬから、やがてこれが行商や旅芸人の群れへと世過ぎの為に変貌していった。
 
もともと戦国武者というのは、「天孫系渡来の時に、戦いに破れて山へ逃げ込んだり、捕らわれたりして別所とよばれる収容地域に押し込まれた浮囚の末裔」であって、これが応仁の乱の人手不足で山から人買いの手で集められて、一条兼良などに「悪党」とよばれる存在となり、戦場での矢よけの楯代わりにされ、この集団が「足軽」という新興階級になり、その中で辛うじて生き残れ連中のうちで、戦場でかっぱらった槍や鎧で恰好をつけた者らは、「寸法武者」とよばれ、立身したのが「戦国大名」にまでなった素性だから、また時世時節で落ちぶれてしまうと「落つれば同じ谷川の水」というわけで、山へ入ったり流浪したのだが、この連中こそ「やくざ」の源流という事になる。
 
だから慶応元年12月20日、もと新徴組の酒井家見廻り組の隊列へ「ご直参であるぞ」と、それを鼻にかけた旗本永島直之丞が馬を乗り入れてきたとき、「おのれっ」と素早く眼にも止まらぬ早業で「無礼者ッ」跳躍して斬り倒してしまい、月番老中岡崎五万石の本多美濃守や立花出雲守の指図で、やむなく屠腹する段になっても、「切る前にはよく腹の皮を揉んでおこう」
 
にこにこ笑顔で腹を指先で揉みほぐしてから、見事に臍を中心に十文字に切り、芝増上寺塔頭清興寺の酒井家代々の殿様の墓と並んで石碑の立っている中村常右衛門も、「甲州博徒祐天之助子分で、とんがり常」というのが、その前名であった。
 
この祐天仙之助一家の隊士の中には、のちハワイへ渡って女王の用心棒となり、壮烈に死んだのもいるが、この他に黒駒の勝蔵一家とか、尾張集義隊の雲風一家など数えきれぬほどに、維新の官軍にはやくざが多い。
 
しかし利用されるだけで最後は捨てられ、明治に入ると自分らの血を流して作った新政府の博徒総刈り込みで、生き残った者も牢へ放り込まれてしまう運命になる。
 
だが、「やくざは戦国武者の成れの果ての子孫」という事を誰もこれまで解明していないが、この筋道がわかるとすべて納得しやすい。
 
江戸時代には「百姓」と「民」が別々であって、「無職(ぶしょく)」とよばれたのは(というのも、江戸時代には百姓と民が別々であって、無職といわれるのは「石切り、左官、きこりといった非農耕系上がりだった」と説明するのが面倒だから、講釈師がみな有名やくざを百姓の庄屋の次男三男から身を持ち崩したようにしたせいである)
 
さて、それまでの途中、というとおかしいが、江戸中期の年代において、(今は流浪の民になり行商人をやっていても、将来はやくざになるであろう)ところの彼らに眼をつけ、これを利用しようとした飛んでもないのが現れた。


大岡越前守忠相

江戸後期から明治初年に、少しも実録ではないものを「実録小説」と銘打って版木屋が出版し、大いに流行させた。そしてその中の白眉は何といっても「大岡政談」で、死後250年たつが、「名奉行」という通説がまかり通っている。
 
しかし大岡越前の名判官ぶりというのは、皆中国からの翻案物に過ぎないのは衆知である。となると歴代百五名もいた江戸町奉行の中で、なぜ大岡だけがこわもてしたのか、という事になるが、これには理由がある。
 
つまり、大岡越前守の実像というのは、「裁判の公正と市政の整備に心を配り、後世まで名を知られた」などと角川版「日本史辞典」に記載されているような存在ではなかったらしい。
 
現在、日本のあらゆる雑誌や書籍に「奥付」という項があるのも万国条約で定まったものだが、日本では彼の考案で、(何書物によらず、こんご新版の物は、作者並に版元の実名奥書に致させ申すべき事)と、亨保七年(1722)に発令されたのがその後今も続いているのである。
 
その他、家康の事には絶対触れてはならない。これまでの通説を破るような親切は、絶対に世上へ流布させてはならない、この御停止を破ったら厳罰に処する、などと、大岡越前は徹底的に今でいう出版統制令をひき、事前検閲制度まで行った。(私は尾張徳川史料で、厳秘とされる「重代記」を昭和44年に見せてもらうまでは、この家康のことについて触れるなという厳命は、当時の作家に対する弾圧策と思っていた。ところが驚くなかれ、この布令の相手は尾張宗春だった。
 
俗説では宗春は吉宗と将軍職を争って破れ、放蕩三昧に日を送ったのが、幽閉にされた理由というが、真相は「桶狭間合戦における家康」を「庚申聞記」として、堀杏庵に、「二人の家康の決戦」を堀田恒山に書かせたのが失脚の原因だった‥‥詳細は「徳川家康は二人いた」七百枚に解明してある)
 
さて、越前が名奉行の如く今日まで伝わってきた事の真相は、「彼が国家権力を握って猛威をふるった」結果であり、だから死後も彼を讃える事によって奉行所の心証をよくしようと、名判官物語を各版元が出したからに過ぎない。
 
警察国家を目指した越前は、享保二十年(1735)11月6日に、「江戸在住の香具師(やし)連中は出頭せい」と召集し、5日後には早くも「御趣(おんおもむき)」とし、彼らに「抜け荷をして売買する者を見つけ次第、ご領主御代官または地頭の役所にとめ置き、その旨を御月番まで訴えでるべし」と命令をした。 アメリカ州並に、各大名の領国で法が違っていたこれまでの地方警察制に対し、統一国家警察体制を越前は初めてここに樹立した。
 
また、抜荷」と呼ぶ密貿易を重大視したのは、従来の説のような珊瑚や唐絹の類ではない。日本では一片も産出しない火薬原料の硝石を、長崎出島だけで徳川家は独占輸入していたから、その密輸入の取締まり。勝手に各大名が入手するのを弾圧し、反乱を防止する為の方策だった。

さて、和製FBIの原型を越前守は創案したのだが、この「やし」の分類に「暦売り、易者、飴屋」等に混じって、辻講釈や祭文語りまでが含まれていたから、「講釈師、見てきたような嘘をいい」で大岡越前は彼らの張り扇や四つ竹でも有名となり、立派にもされてしまったが、不思議な事に「歌舞伎」や「文楽」には現れてこないのである。
 
何故かというと、これにはわけがある。これらのものは各地とも弾左衛門(地方によっては弾正または太夫)の取締まりに入っていたから、「大岡なんて、なんだ。あの野郎ッ」と彼らは、それを芝居にしたり、人形芝居にすることを拒み通してしまったからである。
 
この理由は、呼び出しをうけた中でも、「江戸にいつも在住の者」は除外され、「諸国往来の行商や旅芸人」に限られたせいで、この「御用申付け」によって、元々は一つの流浪の民だった原住系の勢力を分散させるため、越前が二分してしまったからである。
 
つまり、今の小説やテレビのごとく、「隠密や忍びの者が、鳥追いや飴屋」に変装するのでなく、正真正銘それらの者へ、「兼務」でFBIの探索方を命じたのゆえ、これでは除けられた方が憤る筈である。
 
さてそのうちに道中往来をするはずだった者が定着、という現象も起きてきたが、それでも特権を笠にきて、浅草元旅篭町の兵助、清次郎は、寛政八年[1796]二月に町奉行所へ、「私どもは大岡様御勤役の時代に、やしとして別扱いされてきましたのに、五年前より下谷山崎町の仁太夫という者から、葭簀囲いにて一ヶ所で立ち商いを続けるなら、これは吾ら手下の家業である。よって人頭税を一人頭四十八文ずつ支払えと責められております。しかし、仁太夫手下になりますと、猿若太夫や門付けなみとなって、旅に出た場合も泊まる宿その他で難儀します」と訴え出ている。
 
弾左衛門配下とは、あくまで別のものだと今日でいう保護願いをだしている。
 
この文中の仁太夫というのは「山崎仁太夫」といい、首斬りで知られた「山田浅右衛門」と同様に、浅草新町の「弾左衛門六人手代衆」の一人である。
 
つまりそれまでは道中往来の者だけが「お上御用の探索方」と決まっていた区分が、この時から崩れた。そして従来、弾正または弾左と名乗る定着居住の頭領の下に、「破戒僧、逃散百姓、相対死損い」といった寺人別帖から名を削られた連中が、「非人」の名目で払い下げられてきて、これが牢番とか処刑人というのを勤めてきたのが、「捕える警察権だけは、改めて定着したやしの親分たちに」と、ここに分離してしまい、二足草鞋のやくざが発生する土壌が生まれてきた。
 

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