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大器晩成おおいに結構!
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/646.html
投稿者 2012 日時 2012 年 2 月 26 日 17:34:15: oRUoduzfTINKk
 

(回答先: 井口さん、ケンカ売ってるなら買うけど? 投稿者 2012 日時 2012 年 2 月 21 日 22:37:34)

平井憲夫の「原発がどんなものか知ってほしい」:まさに「大器晩成」である。
http://quasimoto.exblog.jp/17414237/

「幕末、佐賀出身の兵道者九牧仲太郎が、鹿児島城外華倉(けくら)茶屋において、島津斉興(なりおき)側室お由羅の方の命令で、西陣人形をもって相手の肖像となし呪詛調伏した秘法が葉蔭流であったと、「嘉永朋党事件顛末」の本には出ている。」
1117 謀殺 17 より:
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html

台密九流

「新田系図」によると----新田太郎義重の四人の息子の内で、長男義俊は里見家の祖となり、次男義範は山名伊豆守となる。三男義純は新田家を継ぎ、そして、四男義季が徳川四郎と呼ばれ、これが徳川家の祖となるが、のち、世良田と分かれて、世良田二郎三郎の代にその宗家を継ぎ、やがて、「徳川家康」を名乗る事になり、そこで、この系図を徳川家に代々貸与していた上州新田の岩松満次郎は幕末には呪(まじな)い絵を描き、「ねこまん」の別名で知られているが、明治に入ると新田男爵となって華族に列せられる事になる。
 
さて、その世良田郷に、産土神を祀る「真言院」とよぶ拝み堂があった。白山信仰か薬師如来を本尊とする東光系のものだったらしい。
 
が、その当時は、そこには豪春なる者がいて、「葉上流」の秘儀をもって知られていた。
 
この時代より半世紀前になると、仙波喜多院で創案したと伝えられる「返音切」といった発声による呪法も生れてくるのだが、まだ、その当時は、「桓武天皇御相承黒箱」別名を、「山王一実神道許可」とよぶ、如来秘密神通力という修法が世に広まる少し前の事である。
 
後、この原文を本居宣長が、これぞ神代文字であると、版木に彫って発表したところ、「それは朝鮮の諺文(おんもん)である」と、若狭小浜藩士上がりの当時の大衆作家伴信友に叱責されたというが、それは幕末に近い頃に起きた話で、それまでは一般に天海僧正創案のものとして尊ばれていた。
 
また、呪法は、比叡山延暦寺からは、「台密九流」として、「雙厳房流、三昧流、大原流、石泉流、法曼流、谷流」などの流儀と、穴太流、蓮華流、西山流の各派が色々に分かれ伝わっていた。
 
しかし、草深い上州の世良田の庄あたりへ、そうした難しい、例えば、「一を谷、ニを三、三を雙、四を穴、五を西、六を大、七を石、八を蓮、九は法」といった相承(しょうしょう)伝授の法をとる、言わば隠語だらけの密教が持ち込まれたとしても、説法を聞いても住民に呪法など判ろう筈はないから、まともな信者などあったとも思えない。
 
「葉上流」の秘儀が広まって、土地の人々の渇仰を得たのは、現実的なもっと即物的な効果を御利益として与えたからではなかろうか。

 幕末、佐賀出身の兵道者九牧仲太郎が、鹿児島城外華倉(けくら)茶屋において、島津斉興(なりおき)側室お由羅の方の命令で、西陣人形をもって相手の肖像となし呪詛調伏した秘法が葉蔭流であったと、「嘉永朋党事件顛末」の本には出ている。が、葉の上にしろ葉の蔭にしろ、それらは、まぁ似通ったような呪法だったのだろう。さて、そうした詮索は後回しにして、その真言院の拝み堂に、元龜元年(1570)以来住みついている一人の修験者がいた。
 
当時の上州は、榛名山麓箕輪城長野信濃守の勢力範囲で、厩橋城の長野左衛門が世良田辺りは押さえていた。
 
ところが天文二十年の大洪水で、それまで北を流れていた利根川が、今日の如く前橋の西へと変ったからして、「関東管領」として上州平井城にあった上杉憲政が、これまでの天険の防ぎを失い、やむなく越後の長尾景虎の許へ逃げ込んだ。
 
そこで、上杉の姓と管領の肩書を譲られた景虎が、関白近衛前嗣(まえつぐ)卿を伴って上州へ攻め込み厩橋城を占領、そこを近衛卿の城とし、関東制覇のため小田原攻めを敢行した。
 
そして、その翌永禄四年(1561)九月十日が血染めの川中島合戦になるのだが、小田原攻略に失敗したので近衛卿が帰洛した後は、北条(きたじょう)高広が景虎の命令で厩橋城の城代をしていた。
 
しかし、永禄六年十一月になると、攻め込んだ武田信玄は、この城を力攻めで奪ってしまった。そこで上杉方も放ってはおかず取り返した。
 
が、三年たった永禄九年に、上州箕輪城を落した武田信玄は、又も厩橋を手中に納めてしまった。そして今川義元亡き後の駿遠二か国をも、ついでに己が領国になさんと信玄は企てた。
 
信玄は本願寺裏方の姉三条氏を妻にしている立場を利用し、当時、一向宗と呼ばれた石山派の僧達を住民宣撫工作に招いた。
 
元龜二年の織田信長の比叡山焼き討ち後は、英俊、亮信、豪盛とよばれる延暦寺の名うての僧達も、焦土と化した山を下って信玄の庇護を求めてきた。そこで信玄は彼らを、「宣撫工作斑」として信州、上州の各地に派遣し、堂を設け寺を建てて付近の住民を集めさせ、「信仰は御仏、領主は武田」といった説教をして聴かせていた。
 
ところが、この武田方の進出に怖れをなしたのは徳川家康である。自己防衛のために織田信長と攻守同盟を結び、元龜元年十月には、「上杉家文書」や「歴代古案」によれば、越後の景虎の許へ音物(金目の贈物)をなして、同盟を結び武田信玄に対抗した。
 
しかし、それでも武田方の仏教団が、「甲斐の権僧正(ごんそじ)は鬼より怖い。どどっと来たって、どどと斬る」といった触れ唄を、御詠歌調で口から口へ流すのには閉口した。
 
なにしろ幕末までこの地口(ぢぐち)は伝わり、「甲斐の吃安[どもやす]、鬼より怖い。どどっと吃れば、人を斬る」と転用される程だから、その当時にあっても、権僧正の位をもつ武田信玄の威名は鳴り響いていたのであろう。
 
そこで家康は、今は仏法僧で名高い愛知県挙母(ころも)鳳来寺の猿女と呼ばれる者達のいる薬師寺に、対抗策を講ずるよう求めたのである。そこで、「家康こそは何を隠そう、鳳来寺薬師堂十二神将の一体の生まれ変わりである」
と説いて廻って、後には関ヶ原合戦に薬師寺系の大名をみな寝返りさせた程の実力のある全国的な組織ゆえ、「かしこまって候」と、鳳来寺から各地の医王山へ指令がとび、それぞれの修験者達が家康のために武田方に対抗せんと上州へも潜入してきたものらしい。
 
まぁ、書かでもがなの事ではあるが、武田方の一向宗、つまり後の浄土宗や真宗の本願寺派は、西方極楽浄土を説くのに対し、薬師寺医王山派というのは、白衣を纏い正反対の「東方瑠璃光如来」を教える東光派である。
 
教義がまるで逆で、墨染めの衣を纏って読経するより、修験(じゅけん)、修法(じゅほう)を旨とする白衣派ゆえ、「武田一派の本願寺派を折伏せん」とばかり各地から動員されて集まってきた中の一人が、世良田の真言院へ、「てまえは会津二本松裏条稲荷堂より参った者」として訪れてきたとしても、別に怪しまれもせず、住持の豪春より、「よぉ渡らせられた」と迎えられたのである。
 
というのは、稲荷信仰は元々稲生(いなり)で、「神代記」にも信心(保食神腹中に稲生けり)とあるのが、そもそも五穀豊饒を祈る神だった。が、その御食津(みけつ)を三狐(みけつ)と当て字してからはコンコン様になり、飯綱(いづな)の法とか狐使いといったのも現れ、これが病を治すとされていたので、薬師寺派の呪術による医王仏信仰に繋がっているとされたからである。
 
だから今では五万分の一地形図の、「福島十一号」の二本松の図においても、裏条の稲荷堂は、薬師堂に変わっている。

(笑)  

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