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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その1
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/353.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 11 日 10:21:32: tZW9Ar4r/Y2EU
 

(私のコメント)
上原勇作なる人物の子分である吉薗周蔵という人物の手記がひょんなことで、落合莞爾という人物の手に触れることとなる。落合氏が「ニューリーダー」なる雑誌にて記したものをある人物がブログ上で公開している。私はこのブログの存在を藤原肇の指摘で知ったわけだが、読んでみると、とても興味深い内容で、今まで、聞いたことがなかったことばかり、日本の真の歴史、裏面史に触れたと確信した。以前より、このブログをプリントアウトして読んでいるが、この掲示板に立ち寄られる方にも、興味がそそられる内容が多いと思い投稿することにした。投稿する版がカルト版がふさわしいのか否か?は不明だが。(管理人様に委ねる)ただ、量が多いので、スローペースでの投稿になると思いますが、ご容赦願いたい。興味のある方は、ぜひとも閲覧ください。ただ、コピーペーストをするだけなので、順番が飛んでいたりするかもしれないが、コピー元がそうなっているので、この辺もご理解願いたい。

(引用開始)

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記
  

  ・・・*以前から捜していた、落合莞爾氏の『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』。
 
  先日、偶然に横浜の古書店のHPで見つけて、早速注文。
 一昨日無事に、落手した。

 好機到来。

 しばらく途切れていた落合氏の『ニューリ−ダー』誌での連載=「日本近代史の真相 」ー陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」も再開した。

 ここ当分の間、のめり込むことにする。・・・
 
  <メモ>として、『ニューリーダー』誌の落合論文の要点を、2007年1月号から順次記して

 いくことにする。
『ニューリーダー』・落合論文。
*ここへ、『ニューリーダー』誌2007年1月号から再開した、落合莞爾氏の
 <日本近代史の真相・陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記>の要点を
 記していく。

 *所謂「差別的用語」もでてくるが無視して書いていく。
  その時点の一般的な「使用語」を現今の「差別意識」から糾弾して  も無意味だと思うからである。 

 (1)2007年1月号 通巻231号

 1)近代史の核心にふれる第一級資料 

かつて本誌に連載した『陸軍特務吉薗周蔵の手記』は、元帥上原勇作付きの陸軍特務吉薗周蔵が自らの経験と見聞を記した手記を、落合が解読して、解説を加えたものである。・・合計117回に及ぶ長期連載であった。(平8年4月号〜平17年12月号)・・・

 前稿10年の連載中は 、掲載の後になって新たな情報を得たり、解釈の不徹底に気づいたことが少なくない。それらの新情報と新解を以って補充したした本稿は、内容に深みが加わり、歴史の真相に一層近づいたと自負している。

 ついては、前稿の編年体を紀伝体に改め、以って読者のご理解の得やすきを願った。もうひとつ、吉薗周蔵手記の実在性、真作性の証明はもはや達成されたと思うので、本稿では原文の掲載を敢えてせず、必要のある場合に限りいんようすることとしたい。

 2)日向国西諸懸郡小林村字堤の吉薗家

  手記の記述者の説明

明治27(1984)年5月12日、上記地で、吉薗林次郎と妻キクノとの間に生まれた。周囲を山林に囲まれた小林盆地は島津本家の領地だったから、住民は薩摩人を自認している。豊な土地柄である。(日向米、野菜、葉タバコ、薩摩餅の賃加工、薩摩節=鰹節の一種の加工等で。)

 吉薗家のように「薗」の字のつく姓は、盆地を支配する大隅隼人の末裔である。宗旨は浄土真宗本願寺派である。

 3)周蔵の祖母ギンヅルの生涯

 周蔵の血筋はしかし、吉薗家代々のものではない。周蔵の父は吉薗家のギンヅルが生んだ公家・堤哲長との間の子で、吉薗林次朗と称した。そのギンヅルも都城藩士・四位具張が岩切氏の女に産ませた子で、吉薗家には養子として入ったのである。母のキクノは隼人系の木下家から嫁いできたが、その母系は未詳である。・・・
 隼人族は広義の縄文人で、公家の堤家も縄文血統と推定されるから、周蔵の血脈は縄文系で、それもかなり濃いものである。・・・

 祖母ギンヅルのことは今日まで全く世に知られてはいないが、大正・昭和期の陸軍を20年にもわたって支配した上原元帥の叔母に当たり、幼少から育てた上原を通じて日本近代史を裏から動かしていた人物なので、ここにその背景を詳述しておきたい。
 ギンヅルの生年は天保7年(1838年)と思われ、昭和6年(1931年)に他界した。父は都城藩士四位具張、母は後妻岩切氏(名不明)である。四位家の先妻有馬氏がタカを生んで他界した後を受けて足入れした岩切某女は、双子の女児を生んだため畜生腹(ママ)として四位家をおわれ、妹娘のツルを抱いて入水を遂げた。姉娘ギンは母の実家の岩切家で育てられ、妹の名を貰ってギンヅルと名乗ったという。(落合注:双子の名前がキンヅル・ギンヅルだったフシもある。)
 
 6歳になった弘化元年(1843)、ギンヅルは吉薗喜佐に嫁入りする叔母岩切某女の連れ子となり、喜佐夫妻の養女となった。その際、実家からは20町歩の田地山林のほか、耕作・管理人として木場伊作・トラ夫妻と13歳の息子周作が付けられた。木場家は当地でヤマンゴと呼ばれる山民である。

 翌年、弟の萬助(1844−1901)が生まれた。総領の姉とはいえ、生い立ちの事情もあって吉薗家に居づらかったギンヅルは、自ら志し、15歳にならぬ身で単身京に上り、実家岩切氏の縁を辿って京の薩摩屋敷に出仕した。
 筆も立ち、茶札・立華・作法など教養全般を身につけたぬきんでた才女のギンヅルは、やがて薩摩屋敷の女中頭に昇るが、そこで公家の堤哲長と知り合う。直ぐに哲長の種を孕んだギンヅルは薩摩藩邸を出て京の市中に一家を構えた。

 4)周蔵の祖父・堤哲長は孝明天皇の側近

 堤家は格式を「名家」という下級公家で、江戸中期に甘露寺家から分かれた。家禄は30石3人扶持で、甘露寺の200石、武者小路・勘解由小路の130石と比べても格段に小さく、典型的な貧乏公家であった。公家でも旧家でならば、定まった稼業があり副収入に繋がるが、堤家にはそれがなかった。

 正三位右兵衛督に昇った堤哲長(1827−1869)は孝明天皇の側近で、絵筆も立ち、泉湧寺に今も伝わる孝明天皇像を描いた才子であった。
 哲長が10代の時、ご霊前に住む町医者渡辺家の娘ウメノ(ウネノかもしれぬが、一応ウメノとしておく)が堤家に女中奉公にきた。
 ウメノは数歳年下の哲長とすぐに親密になり、家伝の薬事書を持ち出して哲長に筆写せしめ、医術を手解きした。そのお蔭で哲長は医薬を覚え、医師の副業によって、幕末の貧乏暮らしを凌いだのである。ウメノはやがて哲長の種と称する一子を生み、それを機に哲長の許を去った。

 ウメノの後の妾となったギンヅルに哲長が薬事と医術を教えた処、思いがけない才能があった。江戸時代にひそかに海外と通商(密貿易)していた岩切家では、国分(葉タバコ)栽培の裏作として外国の薬種を栽培し、それを用いた製剤もしていた。そのためか岩切で生まれ育ったギンヅルには薬事の素養があり、おまけに商才もなかなかのものであった。幕末の一時期、ギンヅルは哲長を誘って故郷・小林に赴き、長く逗留して二人で山村医療に携わった。
 
 哲長とギンヅルには二人の子供が生まれた。一人が慶應元年(1865)の生まれの林次郎で、もう一人についてはギンヅルが小林の堤家に入れようと画策したようだが、その間の経緯とその後の消息は不明である。
 哲長は、明治2年(1869)4月、39歳で他界してしまう。
 哲長の死後、様々な混乱も経験したギンヅルは明治5年、吉薗家に戻ってくる。
 2007/04/03
 *************************


  (1)−5)渡辺ウメノと政雄にまつわる数多くの秘話 

 渡辺ウメノが生んだ哲長の種と称する一子は、性別ははっきりしないが、女子と思われる。とにかくその子を通じて、ウメノの孫の渡辺政雄が生まれた。政雄は大正6年ころ盛岡の医専を出たらしく、周蔵と同年輩である。
 
 手塩にかけて育てた政雄を、ウメノが医専に入れたのは、上田吉松・出口ナオらと組んで始めた皇道大本(大本教のこと)の仕事に携わらせる目的があった。
 外科医となった政雄はそれを警戒し、同じ哲長の孫として従兄弟にあたる周蔵を頼り、大正6年に東京に移ってきた。
 政雄は、周蔵が作った上高田救命院という私設の研究所で、ケシ栽培の研究を行う。
 この間の経緯は、中華民国留学生の周恩来や王希天、呉達閣が登場して面白いのだが、それは別に述べる。

 政雄は後年、祖母・渡辺ウメノの母系の丹波国桑田郡曽我部郷穴太村の上田家の伝承を、周蔵に詳しく教えた。
 ウメノが哲長に教えた薬の原料は特殊のケシで、その種子は江戸時代にオランダからはいってきて、穴太村・上田家に伝わったものらしい。
穴太村は、古代に朝鮮半島の南端の加羅の安羅(アナ)から渡来してきた石工・穴太(アナフ)衆の旧址である。
 
 穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部(あまべ)で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。海部・上田家は、古代に渡来したイスラエルの子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。
 これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽に聞こえるかも知れぬが、他の伝承などに照らしても、充分首肯しうるものである。

 さらに、古くからオランダとの取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。

 その子が上田鬼三郎(*これが本名で、どこかで喜三郎と変えたらしい)すなわち後の大本教の聖師・出口王仁三郎である。渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治25年に皇道大本を立ち上げるのである。

 なお、周蔵は大正3年に青森県下北郡の古畑温泉で吉松に会ったことを「手記」に記している。吉松の没年は、伝えられる明治初年とは大違いで、本当は大正年間まで長生きしたのである。 

*陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(2)

  −ギンヅルの二つの秘薬、周蔵の三つの遺伝子

 1)神効の「浅山丸」=人胆主原料の結核の妙薬。

 ギンヅルの製造した薬は「苦味チンキ」など幾種類もあるが、なかでも特筆すべきものは「浅山丸」である。
 これはもともと日向の岩切家が製造していた薬で、ギンヅルから上原勇作を経由して都城四万石の島津分家に届けられ、同家の大事な薬となっていたと『周蔵日記』に含まれる「敗戦カラノ記」にある。(前稿では堤哲長から教わったものと解説したが、ここに訂正します)。

 『大江戸死体考』によれば、江戸小伝馬町大牢の刀剣試し役・山田浅右衛門が製造・販売していた人体生薬「山浅丸」は引く手あまたで、ために浅右衛門は浪人ながら極めて裕福であり、しばしば幕府に献金していた。

 薩摩においても浅山丸を製造していたことは、尾崎三良が記している。(三条実美の従者から男爵にまで登りつめた維新の功、尾崎は、明治18年の春国会開設に先立ち民情視察のために九州各地を巡回した)
 尾崎は、鹿児島での見聞を下のように記す。
 「宇宿村というところに、旧藩時代の死刑場がある。死刑があるときは、藩士おのおのその所持の刀剣の切れ味を試さんために争ってこれを切る。中にはその胆を掴み出し、浅山丸を製し、これをある病気の特効薬として用いる習慣あり。・・」

 刑死人の内臓を取る目的を、尾崎は「刀剣の切れ味試し」と記すが、実はニセ(=若衆)達の肝試し・度胸試しだった。
 これは、「冷え者取い」(ひえもんとい)という薩摩独特の習慣で、刑場の夜来の外に待機していた健児たちは、死罪が行わるるや矢来を破って乱入し、我先に死体に取りつかんと競う。
 一番乗りの勇者に対しては「ひえもん」すなわち胆嚢が与えられ、二番にはアキレス腱の周囲の脂肪が与えられる。
 このとき、刃物を使うことは許されず、自らの歯をもって死体から食い取らねばならぬとされた。
 胆嚢は自ら食してもよし、製薬原料として換金することもできた。

 人胆を主原料とする浅山丸は何病に聞くのか。
 尾崎は「ある病気の特効薬」としか書かないが、当時は死病だった、労咳(=結核)の妙薬とされたようである。
 
 大正2年、上原勇作中将は第三師団長(名古屋)に補されるが、赴任の途中で発病し、大阪赤十字病院に入院する。故郷・小林村にいた周蔵に、ギンヅルは二種類の薬を託し、上原に服用させるため大阪まで届けに行かせた。薬のひとつは「ケシ丸薬で、もうひとつは「浅山丸」であった。
病院で薬の到着を待っていた陸相・高島鞆之助は、「薬ば先に渡してたもんせ」と催促するが浅山丸の方を多く持ってきたことを周蔵が告げると「さすがオギンさん」と感心した。

 その後、上原の病気は肺壊疽と定まったが、治療が覚束ない。それを浅山丸とケシ薬が治してしまった

 人体生薬の神効は古来漢方が秘伝とするところで、西洋医の理解のおよぶものではなかった。
 あらゆる動物の胆嚢は肝臓病に効き、ことにヒトの胆嚢は効き目が著しいという。鹿児島、宮崎では今もその製法が行われているらしい。 2007/04/10
 
 2)ギンヅルと「一粒金丹」、津軽で製造されていた高級薬

 ギンヅルの製造した薬のうち、浅山丸と並ぶ双璧は「ケシ丸薬」であった。前記「敗戦カラノ記」は次のように説明する。

 「婆さんは 哲長から 特別だと言う薬の種子を貰って 早くから 小林にて植えていた。
 それを 畑の畦や川べりに蒔いて 薬を取っていた。・・・
 何のことは無い 一粒金丹と同じである。
 一粒金丹の場合 そこに ショウガ汁などをくわえる。三居(ギンヅル)は 黒砂糖などを加えた」

 ギンヅルが丸薬に使用したケシは、哲長からもらった種子から増やしたものである。成分は津軽の百姓が作っていた一粒金丹とほとんど同じである。(以後はギンヅル製のも一粒金丹と呼ぶ)
 一粒金丹は、元祖の明国では阿片膏を粳米と合わせて丸めた丸薬の名である。それがケシと一緒に戦国時代に津軽に渡ってきて高級薬になった。一粒金丹は寛政11年(1799)に津軽藩から販売許可がでた売薬である。
 一粒金丹については、さらに時代は下って明治初年には、上田吉松(別名:氏家省一郎)と槙玄範がこれを用いて図南藩士の窮状を救ったことでも知られるが、詳述は別条とする。

 ギンヅルは、浅山丸と一粒金丹の製造販売の売り上げで、哲長の生前から公家の堤家を経済的に支援していた。

 哲長の三人の妻妾、すなわち山本清容院・渡辺ウメノ・ギンヅルの間には陰湿な諍いなどはまったくなく、互いに連絡を取りあい、事ある度に助け合っていた。 

ブロガーの余談: 因みに、<一粒金丹>で検索してみると以下の通り。
 
 配合生薬:膃肭臍・阿芙蓉・朱砂・原蚕蛾・龍脳・麝香・射干

 四目屋が津軽藩にお教えした精力剤(?)。津軽家伝精力剤として知る人ぞ知る処方、効果は配合生薬を見れば一目瞭然。

 一粒金丹処方 膃肭臍…………2銭
           阿芙蓉…………2銭
           朱砂……………3分
           原蚕蛾…………3分
           龍脳……………1厘
           麝香……………1厘
           射干……………適量
 射干エキス(焼酎で煮出す)で練り、丸薬とする。・・・

 ラーメンからカフェまで出てきて、興味はつきない。
 みなさんもどうぞ。(2007/04/10)

 
(2)−3)ギンヅルと薩摩健児たちーその錚々たる交遊録 

 
 慶応3年の末、戊辰戦争の戦火が近づくと、ギンヅルは、古巣の薩摩屋敷や島津藩の屯所に浅山丸と一粒金丹を売り込んだ。
 万能の薬効を知っていた薩摩健児たちは、薬欲しさにギンヅルに低頭する立場になった。当時、ギンヅルと親交を結んだ人物を以下に挙げる。

 ☆ 野津鎮雄   陸軍中将
 ☆ 野津道貫   元帥・侯爵
 ☆ 高島鞆之助  陸軍大臣・子爵
 ☆ 大山巌     元帥・侯爵
 ☆ 川上操六   陸軍大将・子爵
 ☆ 西郷従道   陸軍中将・海軍大将・侯爵
 ☆ 山本権兵衛  海軍大将・首相・伯爵

 7歳年下の高島鞆之助、12歳年下で20歳の川上操六、16歳の少年兵・山本権兵衛らに目を付けたギンヅルは、その後も交際を続けた。

 年齢を二つ水増しして出征した後の首相・山本権兵衛(16歳!)は、ギンヅルを姉のように慕った。
 川上操六のごときは後年、ギンヅルと親密な仲になったとさえ伝わる。

 高島鞆之助に至っては、ギンヅルの一生を通じての仕事仲間であった。史家が想像もつかぬ高島鞆之助の真相に前稿が全く触れなかったのは、私(落合)が当時は全く気づかなかったからである。これは、後に詳述することとしたい。 (2007/04/12)

  2)−4)吉薗林次郎の戸籍ー七歳まで無戸籍だった当主
 
  明治5年に作成された壬申戸籍の、萬助を戸主とする吉薗家の戸籍にギンヅルの名はない。
 つまり、ギンヅルは別に戸籍を作ったわけである。姓は本来吉薗の筈だが、本人は公家になったつもりで堤の姓に拘り、終生堤姓を名乗っており、周蔵への手紙にも<堤・ギンヅル>と書いている。
 後年、そのことで、小林市役所と訴訟になったようだが、詳細はわからない。現在の市役所によれば、「当時の戸籍は既に廃棄済み」ということなので、もう調べようもない。
 小林に連れ戻された次長は、認知争いの渦中にあったため、7歳まで無戸籍のままであった。最後には吉薗萬助とギンヅルの長男ということにして、萬助の戸籍に入れられ、以後吉薗林次郎と呼ばれることとなる。
 
 一方ギンヅルは、壬申戸籍で生年を6歳も若く偽った結果、萬助よりも年下になり、今でも曾孫たちは萬助の妹と思い込んでいるという。
 年齢詐称は、愛人・哲長を惹きつけておくためで、「女は化粧の仕方で5〜6歳は化けられる」と周囲にうそぶいていたらしい。
 そんなわけで、昭和6年に他界したギンヅルは享年95歳の筈だが、詐称の度合いをもっと大きく見る周蔵は、実際には99歳はこしていた、と目算していたと伝わる。

 吉薗家に住んだギンヅルは、明治6年(1873)自分の姪(?)にあたる細野村の岩切八右衛門の長女ハツノ(安政2年生まれ)を養弟・萬助の嫁にし、以後吉薗の家内事に悉く関与した。
 明治23年、林次郎の嫁に細野村の木下キクノ(慶応3年生まれ)を貰うと、家内の不和は頂点に達し、ハツノは明治25年、細野の岩切家に戻ってしまう。

 明治34年に萬助が死に、林次郎が当主となると、隠居に準ずるという意味の方言で「三居」と呼ばれるようになったギンヅルは、吉薗家の家事一切を支配した。 (2007/04/12)
  


 日本近代史の真相
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(3)
 ・・周蔵の生涯に大きくかかわった人々 
   
 1)国語きらいの数学好きー吉薗周蔵の生い立ち

 2)薄幸の秀才・加藤邑と「綿子」の少女

 3)武者小路実篤との出会いー外面と内面の大きな乖離

 4)周蔵が陸軍特務として仕えた上原勇作の家系

 5)上原勇作上京の陰にあったギンヅルの指示

 6)上原勇作の学歴と野津道貫、高島鞆之助との関わり
 
 *陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(4)
 ・・元帥・上原勇作とは何者か
  
 1)上原勇作の軍歴ー大陸軍事探偵行と欧州視察

 2)上原勇作の女性関係とワンワールド結社

 3)川上操六と野津道貫の強力な引きで参謀本部に  (2007/04/12)
 *******************
 
   陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(3)
 周蔵の生涯に大きくかかわった人々

 1)国語嫌いの数学好き、吉薗周蔵の生い立ち
 

  吉薗林次郎は、大隅隼人の木下家からキクノを娶り、7人の子供を生んだ。その第三子が明治27年生まれの長男・周蔵である。

 周蔵の幼少の頃、父の林次郎は黙々と農作業をはじめ家業に勤しんでいたが、祖母のギンヅルは長期間吉薗家を留守にすることがあった。
 東京や京都に出掛けていたのである。
 
 その目的は、当時枢密顧問官だった高島鞆之助らを動かす政治工作であるが、上京後の上原勇作の教育のためでもあった。
 当時は宮崎から東京・大阪への船便があり、個室の一等船客となり宮崎の港を出航すれば、上等の食事とともに、安全で疲れない旅行が楽しめた。

 明治34年に小学校に上がった周蔵は、幼少時に柿の木から落ちた後遺症で、右手で文字を書き続けることができなかった。それが学業に影響をを与えたのか、ことに国語が嫌いだった。
 しかし数学は好きで、どんどん自習をしていき、進みすぎて訓導を困らせた。
 当時の学制では、飛び入学が可能で、小学校5年終了で県立・都城中等学校(現:県立都城泉が丘高校)に入学を許可された。
 (ヒロモト・註*もちろん何の関係もないが、いまをときめく、あの東国原知事の母校である。知事にメールでもしたい気もあるが、反応や如何。時代の流れだからしょうがないとはゆうものの、ハンカチ王子の初勝利にコメントするよりは・・・止めておこう。)
 時は明治40年の春の筈で、かなりの秀才だったのである。

 小林からの通学は困難で、周蔵は都城に下宿した。しかし、10日ほど通学した後、勝手に退学してしまう。旧制中学程度の数学では物足りなかったのである。
 心優しい林次郎は知らぬふりをしてくれたが、ギンヅルは収まらない。戊辰戦争以来の縁で親しい前海相・山本権兵衛に頼みこみ、熊本工業の入試を、特別に(予備試験なしで)受験させてもらうことになった。これを退学の翌年(明治41年)のこととすると、満14歳である。
 
 入学試験の前夜、下宿で悪友に誘われた周蔵は、断りきれずに登楼し、朝になっても娼家から出られず、試験をさぼってしまう。
 小林に帰ることもできず、やむなく下宿でゴロゴロしていた周蔵は、同期の<五高生>たちが解けずに苦労していた幾何の難問を次々に解いてやり、五高生たちを驚かせた。
 受験するはずだった熊本工高が五高よりも学力が低いと聞き、複雑な心境の周蔵に、五高生たちは、「自分達が数学の師と仰ぐ人がいるので、その人と数学の試合をしてくれ」と迫った。(2007/04/15)
 **************** 


(2)−5)吉薗周蔵の母系ー隼人族の血と運命
 

 吉薗周蔵の遺伝子を構成する第三の要素は、母系木下家の有する<隼人族の血>である。吉薗家の血統も、萬助までは大隅隼人であった。

 隼人族と天孫大和朝廷との間には元来深い関係があった。逆に言うと、原初の「日本皇室」は隼人族と近縁であったはずである。

 六尺褌を締め込む姿から、フンドシ族とも呼ばれる隼人は、風習・形質を見ても明らかにポリネシア系で、古くから国禁を無視して、東南アジアの海洋を自由に往来し、各地の同族と通交してきた。同族は、現在もインドネシアにいるという。

 隼人は居住地により幾つかの部族に分かれ、大隅半島の「襲の国」を根拠としたのが<大隅隼人>である。
 <阿多隼人>は薩摩国・西南部の阿多地方に拠った部族で、後に<薩摩隼人>と呼ばれる。

 隼人の名が「日本書紀」に出てくるのは天武11年(683)で、大勢の隼人が入貢し、大隅隼人と阿多隼人が朝廷で相撲を取り、大隅隼人が勝ったと記されている。

 当初は親朝廷であった大隅隼人が、大宝律令の施行(702)以降、一転朝廷に強く反抗したのは、王朝が新たな渡来人に交替したことが原因と思われる。
 新王朝の施策に応じない隼人に対して、和銅6年(713)に大隅、曽於(襲)などの四郡を独立させて大隅国とし、また翌年に豊国・稲積郷から5000人に及ぶ人民を隼人町に移住させたのは、隼人制圧を目的とした新王朝の政策であった。

 こうした朝廷の圧制に対し、大隅隼人は養老4年(720)に大反乱を起こし、国守・ヤコノフミマロを殺害する。
 朝廷は大伴旅人を征・隼人の大将軍に任じ征討軍を派遣し、援軍として豊前国の宇佐軍が加わった。宇佐軍とは、宇佐近辺に定住した秦人(ハタビト)の軍隊と思われる。
 果敢に抵抗した隼人も、やがて1400人の犠牲を出して壊滅し、100個の首級が宇佐に届けられた。この隼人征伐に際して、宇佐族(秦氏)の果たした役割は大きく、宇佐神宮では今日に至るまで中秋祭を開いて、隼人の霊を慰めている。

 稲積からの移住民も秦人で、隼人町に定住し、郷名を、豊国郷、稲積郷と名付け、氏神を<韓国宇豆嶺神社>とし、聖山を韓国岳と呼んだ。これは彼らが朝鮮半島南部からの渡来民だったからで、元来この地は韓国・朝鮮とは何の関係もない。

 隼人は以後も大和朝廷の支配に対して抵抗したため、大隅国では班田制の施行さえ永らくできなかった。そこで朝廷は大隅国一帯を名目的に近衛家領とし、隼人族を荘官に任じることで朝廷の面目を保つこととし、隼人は院・薗・荘の付く姓を名乗り、それぞれ海・盆地・山林を実効支配した。

 その後、九州に移ってきて当地の領主となる島津氏も、出自は秦氏の武人にあると思える。
 (2007/04/12)


 ****************
  *落合莞爾という人物
   *ここまで落合氏の論文を紹介してきているが、ここでその人物紹介をしておく。

 大島一洋・『芸術とスキャンダルの間』という著作に「簡にして要を欠かない」紹介の一文が記されているので、引用する。
 (講談社・現代新書 NO1854 2006.8.20刊)

 
 以下引用

 **************

 ・・・落合莞爾とは何者か。
 著者紹介(落合著『天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実』=1997年、時事通信社刊=の著者紹介)を見ると、昭和16年和歌山市生まれ、東京大学法学部卒、住友金属、経済企画庁調査局、野村證券を経て、昭和53年落合莞爾事務所設立、株式会社新事業開発本部社長とある。著書は6冊あり、半分は経済モノで、経済評論家のようだ。が、やがてわかるように調査のプロであり、筆もたつ。『天才画家佐伯祐三・・・』は推理小説を読むような面白さで、最後まで読者を引っ張る。彼は真作派の旗手であり、武生市の贋作疑惑をことごとく粉砕していくのである。・・・

 筆者(大島氏)に(佐伯の作品の)真贋を判定する力は無い。ただ、もし絵は贋作としても、あの大量の「吉薗資料」はいったい誰が書いたのだろうか。
 資料は本物で絵は贋作なのか。謎の多い事件である。・・・

 ************

 
<補足>

 上記の著作『天才画家・・・』とほぼ同時期に刊行された藤原肇との対談本『教科書では学べない超経済学ーメタエコノミクス』*副題ー波動理論で新世紀の扉を開く*の<著者略歴>もチェックしてみると。

 「経済企画庁調査局」は、「経済企画庁内国調査課(出向)」とより詳しく記されている。
 <東興書院> 設立は昭和62年12月で、<設立にあたって>という宣言の一文「百年の良書を望む」も東興書院・各刊行本の巻末にある。

 私の知る同社の刊行本としては『間脳幻想』(銀座内科医師・藤井尚冶と藤原肇氏との対談。1988.11月刊)と『世界革命とイルミナテイ』(ネスタ・H・ウエブスター著、馬野周二訳1990.6月刊)があるが、どちらも「良書」の宣言を汚すことの無い一冊だった。
 
 特に、『間脳幻想』は、対談集が売れないこの国にあって、稀有の結実だと思う一冊。
 私は何度読み返したかわからないほどだ。

 とにかく「叡智」・「智慧」がさりげなく、叩き込まれている! 

 余談になるが、中央競馬の登録馬に「ヤナギムシ」「トリリウム」など現役の競争馬がいて、その馬主が落合莞爾とある。地方競馬にも。

 落合莞爾氏ご本人なのだろうか。

 中央競馬の馬主の資格審査は厳しいものと聞くが、一応書き留めておく。


  <メモ>
 
 ご参考までに、馬主の資格とは下記のようである。

 *中央競馬の場合、個人馬主ならば、(1)2年連続で年収1800万円以上、(2)2年連続で資産9000万円以上、という資産要件を満たすことによって取得が可能となる。軽種馬生産法人馬主ならば、(1)資本金1000万円以上で代表者が50%以上を出資、(2)代表者の所得が2年連続で1100万円以上、(3)自己所有の繁殖牝馬6頭以上、(4)牧場規模15ヘクタール以上(うち50%以上は自己所有)、という資産要件を満たすことによって取得が可能となる。

 *地方競馬の場合、個人馬主ならば、(1)年収500万円以上、という資産要件を満たすことによって取得が可能となる。法人馬主ならば、(1)定款の目的に競馬事業が明記されていること、(2)代表者の年収が500万円以上、(3)法人としての出資額が300万円以上、という要件を満たすことによって取得が可能となる。組合馬主ならば、(1)組合契約を組合員間で締結していること、(2)組合員が3名以上10名以内であること、(3)組合名義の定期預金が300万円以上、(4)組合員各々の年収が300万円以上、という要件を満たすことによって取得が可能となる。(2007/04/12)


吉薗周蔵の手記(3)ー2)

 薄幸の秀才・加藤邑と「綿子」の少女  
  
 それ(五高生たちが数学の師と仰ぐ人物)は、加藤邑という青年で、熊本市出水の名家に生まれた秀才である。
 東京帝大医学部教授・呉秀三の弟子となり、東京(または京都?)の精神病院で助手をしていた時、不幸にもハンセン病を発病したので、郷里に帰り逼塞していた。
 
 後の大正3年、18歳で陸相・上原勇作にお目通りした周蔵は、上原から48歳に見えると言われた。老けて見えるというより、日本人離れした彫りの深い顔立ちであった。
 五高生たちも周蔵を自分たちよりずっと年長と見ていたが、加藤は一目見るなり周蔵の年齢を当てて、皆を驚かした。
 これが、二人の出会いとなり、以後の周蔵は加藤に私淑する。
 智謀と深慮に恵まれた加藤は精神医学と漢方薬学および民族学の知識によって、周蔵の一生に大きな影響を与えることとなる。

 周蔵の失敗談を聞いた加藤は、即座に市立熊本医専を受けるよう勧めた。学歴不要、予備試験を通れば入試が受けられるという。熊本医専
 に、首尾よく合格した周蔵は、一年も通わないうちに、親戚の旅館
に遊びに来ていた一少女と知り合う。
 時に明治42年とすれば、15歳である。
 周蔵より年上に見えた少女は、下宿屋に推し掛けて周蔵を誘う。早熟の少女は妊娠したと偽り、所帯を持とうと周蔵に迫った。
 医学生でありながら、生理学をよく知らなかった周蔵は、子供が子供を産むという事態に驚愕し、少女を下宿に置き去りにしたまま下宿屋を逃げ出し、ついでに医専も辞めてしまった。

 熊本まで後始末をしに行った林次郎に、件の少女は「あれは綿子だった」と告げた。
 後に、その意味を尋ねた周蔵を、ギンヅルは「綿子も知らんのに、女に近づくな」と叱った。

 <綿子>とは、真綿を腹に巻いて妊娠したかに装う偽計で、遊郭が金満家から大金を巻き上げるための詐術だが、古来宮中や大奥などでも、政治的に利用されたらしい。
 吉薗家の家族は、本人を詰問した結果、少女と周蔵との間が単なる子供の悪戯に過ぎぬと分かり、一同腹を抱えて笑い転げたという。

 *「綿子の少女」は後、大正・女性解放運動家になり、婦人雑誌のカバーにも出ていた。これについては、別条で。 (2007/04/15)
 ****************

   吉薗周蔵の手記(3)ー3)

 武者小路実篤との出会い 外面と内面の大きな乖離  

  熊本医専を逃げるように中退した周蔵が上京したのは、明治43年(1910)と思われる。ギンヅルの指示の通り、堤家の縁戚の公家たちを尋ね歩くが、その中に勘解由小路光尚の家があった。
 堤の本家の甘露寺吉長伯爵の夫人の兄にあたる光尚は兄の勘解由小路子爵の継嗣となったものの、明治18年自ら廃嫡を願い出て、三浦半島で農業を営んだ。
 その生き方が甥の武者小路実篤に影響を与えて、白樺派の思想的基盤をなしたものらしい。
 周蔵が尋ねた時、光尚はすでに亡く、未亡人が柿畑を営んでいた。

 ギンヅルが周蔵を託した武者小路実篤は明治18年生まれ。周蔵より9歳の年長で、時に25歳であった。
 子爵の次男で、母は勘解由小路の出だから、光尚の甥に当たる。折から学習院の学友・志賀直哉らと計り、文芸雑誌『白樺』を創刊したばかりで、意気揚々としていた。
 その書生としてしばらく仕えた周蔵は、実篤の実態が世間面とは全く違うことに呆れた。
 全国からファンレターを添えて菓子などが送られてくるが、菓子だけを頂戴して手紙には目もくれなかった。

 周蔵は、白樺派に外国の猿真似の臭いを感じて同調できず、明治44年に宮崎に帰った。
 右肩の後遺症のため、3年後の徴兵検査の合格は無理だと感じていた周蔵は、小林に落ち着きゴマ油の会社を創ろうか、などと考えていた。
 翌年、陸軍大臣・上原中将の密使が小林に来て、周蔵の前・半生が決まることになる。(2007/04/15)
 ****************

    吉薗周蔵の手記(3)ー4)
 
 周蔵が陸軍特務として仕えた上原勇作の家系 

  周蔵の前・半生は上原勇作個人に仕える陸軍特務であった。

 元帥・陸軍大将・従一位大勲位功二級・子爵に上がった上原勇作は、島津支藩・都城の藩士・龍岡伝五左衛門資弦の次男として、安政3年(1856)11月9日宮丸村に生まれた。
 龍岡家は島津の士族で都城藩の家老格である。家紋は三階菱で、もとは北郷の姓を称したが、正徳3年に龍岡と改めた。

 資弦(養子)は武士的気象の人で、よく言えば豪放磊落、悪く言えば短慮粗暴の嫌いがあった。生産をこととしない為、龍岡家は裕福ではなかった。
 勇作が「・・頭脳明晰にして打算的に長ずる所あるは祖父・親宝の感化により、その思想純潔にして私なく、武士道精神に富んだ所は、父・資弦の感化によるもの」と『元帥上原勇作伝』は評している。
 勇作は、大学南高在学中の明治7年上原家を継ぎ、以後上原姓を称した。上原氏の祖先は薩摩・伊佐田城主で南北朝時代は北朝・足利直冬に属し、後に北郷氏の重臣となる。家紋は丸に四つ目結びである。

 勇作の実母は、龍岡家に嫁いだ四位治兵衛昌張の娘タカ(後に貞、1823年生まれ)である。タカの母は有馬氏の長女でタカを生んで早死にした。後妻が岩切氏から来て異母妹のギンヅル姉妹を生むが、双子のために「畜生腹」のそしりを受け、姉を抱いて入水し、妹のギンヅルだけが残された。ギンヅルの生年を天保7年(1836)とすると、タカより13歳の年下である。

 龍岡家に嫁いだタカが慶応元年に43歳で世を去る。勇作10歳のときである。資弦は後に美坂派長谷右衛門の娘ナカを後妻に貰う。
 タカの異母妹ギンヅルはこの年に林次郎を生む。当時数え年30歳のギンヅルは哲長を伴ってしばしば宮崎に帰り、実家の吉薗家に逗留し、小林地方の農村医療に携わっていた。

 四位次兵衛はしごくの好人物で、岩切家に戻した娘のギンヅルを気に懸け、何くれとなく面倒を見た。
 母を亡くした勇作に叔母ギンヅルを近づけたのも次兵衛だった。

 明治2年4月に死去した哲長の葬式費用を賄ったギンヅルは、次長(林次郎)の認知を求めて明治5年まで京に居座っていたというが、精確には京都と宮崎を往復していたのであろう。当時は日向と大阪の間に船便があったものと思われる。(2007/04/15)
 ****************

 (3)ー5)
 上原勇作の上京の陰にあったギンヅルの指示  
 
 明治2年7月、都城藩主・島津久寛(安政6年生まれ)の鹿児島遊学が決まり、学友に選ばれた勇作は造士館で文武の研鑽2年間に及んだ。
 14歳の勇作に、ギンヅルが上京を強く勧めたので、勇作は学問のために上京を決意する。(明治4年12月)

 明治4年4月、新政府は兵権統一のため直属の親兵を設け、東西に鎮台を設置する。薩摩・長州・土佐の三藩の兵を充てることになった。 
 このとき、薩摩藩の三番大隊附の教頭として30歳の野津道実(1841〜1908)が出仕する。
 野津は明治4年7月23日を以って陸軍少佐に任命されたが、鹿児島城下から連れて行った人材の多くは文武官吏に登用され、軍人に欠員が生じた。そこで今度は、支藩からも人材を徴募することとなり、これに応じて勇作の兄・龍岡資峻らが上京した。
 資峻は慶応4年の戊辰戦争に二番組頭として従軍、奥州を歴戦して帰国し、翌明治2年には大隊長となり、都城藩の家老職に就くが、同年兵制が改まり、小隊長に下げられた。
 明治4年8月、軍職を辞して上京し、御親兵の第二大隊に編入される。

 兄・資峻は、野津の一歳年上である。(天保11年=1840、生まれ)
旧藩における地位は組頭や大隊長で、野津の鹿児島藩での地位と同等。資峻は、明治5年に陸軍・伍長に任ぜられ、西南戦争従軍中に中尉に昇進、明治17年には大尉に昇ったが、22年に50歳の満期となり、後備に編入された。退職・恩給の年額345円は当時としては、結構な金額である。明治26年1月23日死去、青山墓地に葬られた。

 この兄・資峻の出仕に刺激された勇作が、自ら上京の志を抱き、そのための旅費の都合をつける事情などを『元帥・上原勇作伝』は詳細に語るが、どこまで本当かは分からない。

明治4年の暮に上京した勇作はが落ち着いた先は、野津道貫邸である。
兄・資峻の住まいがあるにも関わらず、野津邸に下宿した経緯を『勇作伝』は、「・・伍長の官舎では狭すぎるから・・」と説明するが、これが本当の理由ではない。

 勇作が野津邸の住み込み書生となったのは表向きで、実はギンヅルの指示により、野津と同居していた高島鞆之助を頼ったのである。
 高島は野津より3歳下の従兄弟で、二人は極めて仲がよく、麹町区下二番地の邸には野津夫妻、高島夫妻、高島の母貞子の他に使用人と書生ら、合わせて18人が暮らしていた。
 野津邸とはいうが、両家はここで共同生活をしていたのである。 (2007/04/17)
 *****************

http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/archive/2007/4/25?m=lc

 

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