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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その2
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 11 日 10:36:14: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記

* (3)ー6)
  上原勇作の学歴と野津道貫、高島鞆之助との関わり  

  上原勇作は、初め大学南校(後の東京大学予備門)でフランス語を学んだ。当時の陸軍がフランス式であったからだろう。
 明治8年、陸軍幼年学校第三期生として入学した。年齢がオーバーしていたが、野津大佐が年齢を1歳ごまかした願書を出し直してくれたことで入学となった。

 幼年学校は当時フランス語が主流である。上原勇作は大学南校でフランス語を修め、堪能だった。
 
 明治10年2月、西南戦争が起こる。上原らの三期生は、5月に陸士に進学したが、臨時士官に任官する前に戦争が終ったので、出征することはなかった。

 明治12年、士官生徒第三期工兵科を首席で卒業し、12月22日付で陸軍工兵少尉に任じられるが、引き続き少尉生徒として士官学校に在学した。
 明治14年2月5日、東京鎮台工兵第一大隊・小隊長に補せられるが、同期の楠瀬幸彦、森雅守の両少尉と共にフランス留学の沙汰があった。時に勇作25歳、洋行を前にして帰郷する途中、熊本鎮台に司令官高島鞆之助を訪ね、その官舎に宿泊する。
 
 西南戦争後の財政逼迫を以って、今回の留学は中止との噂もあったが、4月20日決定した。
 上原の送別会は、警視総監・樺山資紀の目白別邸で、盛大に行われた。東京出発は6月5日。
 
 当時、上原は軍・政府の高官の中で、特に高島と樺山の二人に対して親近感を持つように見える。これが二人とギンヅルとの関係によることは間違いない。
 樺山と高島はこの14年後に台湾総督と副総督となり、その地位において某重要事を秘密裏に決し、それが後日上原勇作と吉薗周蔵の生涯に大きく影響したと思うが、論究は別状で。 (2007/04/17)
 ********************

  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(4)
 ・・元帥・上原勇作とは何者か
  
 1)上原勇作の軍歴ー大陸軍事探偵行と欧州視察

  陸軍・工兵少尉上原勇作が渡仏したのは明治14(1881)年6月。
 最初はグルノーブル工兵第四連隊の隊付になり、翌年フォンテンブロー砲兵学校に入学し、在学中に大尉に進級した。この間明治17年に、参議陸軍卿兼参謀本部長の職にあった陸軍中将・大山巌が、中将・三浦悟楼、少将・野津道貫、大佐・川上操六、大佐・桂太郎ら陸軍高官を従えて兵制視察のため欧州を巡視した際、9月10日のツール運動要塞の見学に同行を命じられた。
 これは、上原中尉の応援団であった、野津か川上が仕組んだものだろう。

 4年半にわたる留学を終えて、上原が帰国したのは、明治18年12月23日で、間もなく陸軍士官学校教官を拝命し、19年12月には、東京湾の防衛のために設置された臨時砲台建築部の事務官に補せられ、技術方面を担当した。
 欧州(フランス)仕込みの知識を実地に適用しようとしたが、気候の違いにより、そのままでは用を為さない。上原は、再度渡仏=再検討の必要を感じた。

 その後の経歴を『上原伝』には、下記のように記してある。

 明治20年3月2日
 臨時砲台建築部の命により、対馬、馬関に出張。
 明治20年11月28日
 相州横須賀地方に出張を命じられる。

ところが、神坂次郎に『波瀾万丈』という著書がある。
南洋における日本人娼館の経営で知られた樺山(村岡)伊平次(1867−1945)の伝記だが、それによると伊平次は、商業視察の名目で北支から満洲にかけて旅行する上原勇作大尉の従者を依頼された。目的は大陸辺境の軍事探偵行で天津の滝領事の紹介であった。
(落合注*外務省資料では、当時天津領事は波多野承五郎)
 
 明治20年6月23日、天津を出発した二人は、行商に身をやつして、以後5ヶ月の軍事探偵行が始まる。
 北京、熱河、から内蒙古を通り満洲に入り、吉林、長春から奉天とあらゆる都市を探って歩いた。その記録を手帳に残した伊平次は、晩年になり波乱を極めた人生を追懐して、一冊の回想録をものした。虚実入り混じったものと神坂は言う。
 伊平次はしかし単なる女郎屋ではなく、陸軍の諜者でもあった。諜者たるもの秘密手記を残す常法で、樺山回想録の元になった手帳に残された『伊平次日誌』は、ほぼ真実を記したものと見てよい。

 元帥、「日本工兵の父」と讃えられる上原の偉業を伝える『元帥上原勇作伝』は、上原大尉が伊平次と同行した6月23日から11月までの5ヶ月間の行動を一切省いている。
 伝記編纂に際して、北支探策行を意図的に秘匿したのは、諜報活動が、たとい数十年前でも軍事機密に属するからか、あるいは偉大な元帥に似つかわしくない卑劣な行為を伴うからか、それは分からない。

 もっとも、軍人の伝記に限らず、およそ「伝記」とはご都合主義のものである。そもそも根底にある手記・日記の類が真実を記していないのは、誰しも都合の悪い行為は記録せず、まして発表したくないからだ。
 例の『石光真清の手記』を、世人が稀有の軍事探偵の記録として高評価するのは好いが、本当はそこに何を書かなかったか、が重要なのである。それを行間から見抜く洞察力こそ伝記解読の要諦なのだが、戦後の平和空間を生きてきた本邦史家、権威に弱い作家にはまず無理だろう。

 いくら隠したつもりでも、思いがけないところから真相が暴露される。それは、当事者の中に例外がいて真相を記録にとどめた場合である。例外者とは、身辺を嘘だらけで固めざるを得ない諜者のことで、彼らはいざという時に自分を守る目的で、真相を秘密日誌に残す習慣があり、本稿が対象とする『周蔵の手記』はそのような性質のものである。
 『石光真清の手記』には、元となった「秘密の手記」は燃やしたと述べられている。
 諜者の手記は表面上詳細な偉人伝よりも資料的価値が高い。樺山の手帳もその例であり、とにかく上原勇作の伝記に<裏面>があることを証明することになった。

上原大尉は明治22年3月19日、臨時砲台建築部長・男爵小沢武雄中将の欧州派遣の随行を命じられる。上原、34歳。
 欧州巡視の拠点は、フランスで、上原は日記に毎日の行動を記録している。
 八ヶ月の長期にわたる巡視行の中で、後に述べるポンピドー関連の私的行動があった筈だが、一切記していない、実情は分からない。

 明治23年1月に帰国、5月9日をもって少尉に任ぜられ、10月22日には臨時砲台事務官をやめて第五師団付となり、工兵第五大隊長に補せられた。
 第五師団長は、陸軍中将・野津道貫であった。
 (4)−1)終   (2007/04/18)
 ******************

  2)上原勇作の女性関係とワンワールド結社
 
 明治24(1891)年、上原は第五師団長・野津道貫中将の娘・槙子を娶る。
 上原36歳で、新婦は17歳年下であった。媒酌人は時の陸相・高島鞆之助中将で、そもそもこの縁組は、ギンヅルと高島がずっと以前から仕組み、槙子が19歳になるまで成長を待っていたのである。

 帰国後の6年間を独身で過ごした上原少佐は、単身赴任の広島時代を、後年回顧している。
 「・・自分の留学時代は、普仏戦争の10年後であり、フランス国民の臥薪嘗胆の時代であった。当時の連隊長以下、将校の大半が独身者であったのは、生活費節約のためもあるが、その主旨は挺身して奉公の任務を尽くさんとするにあった。自分もまたその精神を堅持して36歳まで、無妻主義で押し通した。・・」と語っているのだが、言葉とは正反対の真相を以下に述べる。

 ここに、上原伝記が記さない重要事実がある。
 独身時代の上原は、ギンヅルの手配で三軒茶屋の地に一戸を構え、そこで日高尚剛の血縁に当たる一女性と、半ば同棲した。時期は帰国後であろう。

 その女性は、ギンヅルが勇作に付けた見張り役でもあった。上原のこの女性関係は、高島はもちろん、野津も知らなかった筈はない。
 日高は鹿児島市山下町の実業家で、ギンヅルのいとこ(?)にあたり、且つビジネスパートナーであった。今も東京都立大学には、日高と上原の間の往復書簡が多数現存する。その何通かを掲げる『元帥上原勇作伝』だが、肝心の上原と日高の関係については何も説明していないのが奇妙に思える。
 日高の事業は、高島鞆之助が台湾副総督として行った事績に深く関係するものと思われるが、それは別条に。

 上原の女性関係は、正妻・槙子のほかに、日高血縁・某女と、大阪赤十字病院の元婦長・玉木常盤がいた。正妻を赤坂本邸に、玉木を大森別邸に女中頭として、日高血縁某女性は上総一宮の別荘にと、分散して配置していたのである。
 このような女性関係は『元帥上原勇作伝』に記載されておらず、僅かに大正2年2月、肺壊疽で入院した場面で、玉木看護婦がちらりと出てくるだけだ。

 ところが、最も重要な女性関係は、実はこの他にある。 
  
若き日の上原は、アルザス出身のポンピドーというメソジスト派牧師と親交を結び、その妹との間に娘をもうけた。「混血」娘の誕生は上原の留学時代よりもずっと後で、明治20年代と思われるが、上原とポンピドー兄妹との出会いの時期と場所は解明できてない。
 混血娘は後年、憲兵中尉・甘粕正彦の愛人となり、大正8年頃二人連れでフランスに秘密留学する。これについても別条で述べる。
   
上原がフランスでワンワールド結社に入会したことは確かで、これにポンピドー牧師が関係していることは間違いあるまい。
 時期は未確定だが、留学生を勧誘するのが秘密結社の常道だから、明治14年から18年にかけての留学時代と見るべきだろう。上原26歳から30歳であった。

 アルザスには農業を営むユダヤ系が多く、ポンピドーもその出身で、ワンワールド結社の会員であった。ポンオイドーは来日前に民国に渡り、牧師として天津南開学校関係の聖職ないし教職にあったものと思われる。同校はキリスト教会関係者が経営する、紛れもないワンワールド系の学園あった。

 日本に民国人・澎彼得の名で入国したポンピドーは神田メソジスト教会と青山学院を拠点としていた。その活動を警視庁・特高課が内偵して、記録している。
 ポンピドーの日本人脈は、教会関係者のほかは、上原勇作、甘粕ら軍人及び周恩来、王希天(周居應)、呉達閣ら天津南開学校卒の民国留学生に連なっていた。これらのことは詳しくは別条で考究する。  (2007/04/19)

http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/folder/985102.html?m=lc&p=7
 

 

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