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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その7
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 12 日 07:30:41: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その7

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (8)ー2 

  ●「長州ファイブ」とワンワールドの関係
 江戸時代主として民営であった造幣事業は、近代国家では民営は馴染まないが、ここにもワンワールドの匂いが濃厚に漂う。大阪造幣局の起源は明治元年の貨幣司で、翌年2月に造幣局となり、知事に甲斐九郎が就いた。3月には大蔵省造幣寮となり、4年に操業を開始し、10年に造幣局と改称される。造幣印刷機はイギリス製で、それを香港から買い付けてきたワンワールドの政商グラバーが、造幣技術の指導のために香港印刷局長ウイリアム・キンダーを引き抜いてきた。キンダーは元陸軍少尉で、れっきとしたメーソンである。政府はイギリス系の東洋銀行に造幣工場の運営を委託し、キンダーを工場長とした。
 長州ファイブの一人遠藤謹助は天保7(1836)年の生まれ、井上勝よりも7年の年長で、文久3年の密航時には27歳であった。英国では化学と造幣術を学んだが、肺結核のため慶応2年に帰国した。同年に行われた英国のキング提督と毛利敬信父子との会見では、井上馨とともに遠藤が通訳に当たった。明治元年に兵庫運上所司長を拝した遠藤は、翌2年3月に退官するが、10月には民部省に入って通商大佑に就き、3年6月には通商権正に昇進した。

 明治4年9月から5年2月までの半年間と、明治6年6月から10年1月までの3年半の間、造幣頭は不在で、御雇い外人キンダーが工場長として工場運営を任され、日本側の実質的なトップは造幣権頭の遠藤であった。明治3年11月に造幣権頭となった遠藤は、7年7月にキンダーとの不仲から造幣局を去るが、その直後に政府に建白し、東洋銀行との契約を解除せしめ、且つキンダーを解雇せしめた。
遠藤は14年11月に造幣局長として復帰し、、以来制度の変遷で官名が変わることがあったが、26年6月まで12年間、実質的に造幣局長の地位に在り、権頭時代を含めると16年にも及ぶその経歴はまさに「日本造幣事業の父」と呼ばれるに相応しい。

 造幣局発足時からの歴代トップ(造幣頭・造幣局長)と遠藤謹助との関係は表の通りである。表に見る通り、のほかには井上馨、伊藤博文、井上勝と、長州ファイブのうち山尾を除く四人までが造幣事業に携わっている。長州ファイブ以外の造幣頭(局長)は、馬渡悛偶・石丸安世と数日間だけの大野だけであるが、三人とも人名辞典に名を残していない人物で、経歴は分からない。長州ファイヴとワンワールド結社との関係は今から他書により証明されるだろう、本稿では深追いしないが、造幣事業がワンワールドの範疇にあるのを、右の人事は示唆していると思う。

 郵便事業も江戸時代は民営の飛脚であった。明治4年7月29日、大久保利通の推薦により和歌山藩から浜口儀兵衛を召して初代駅逓頭とした。浜口の着任早々の8月15日、前年6月から欧州視察に出ていた駅逓権正・前島密が帰国し、浜口の郵便事業に対する見解を問う。浜口が民営を論ずると前島は激しくこれを反駁、大蔵大輔井上馨に自らを駅逓頭とするよう直訴し、8月17日を以て二代目に就いた。浜口は故山に帰り、紀州藩大参事となる。前島は新潟人だが、これを見ても長州ファイブの系列に属する帰化長州人というべきであろう。


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)−3
●「翔ぶが如く」の典型というべき樺山資紀
 
  上原勇作応援団の一人たる樺山資紀は、天保八(一八三七)年に薩摩藩士橋口家に生まれた。野津道貫より四歳、高島よりも七歳の年長の樺山は、幼名を覚之進と称した。生来剽樺な気質で知られ、その一端は津本陽の小説『薩南示現流』に記されている。すなわち、薩摩の若手侍が連れ立って京の市中を徘徊中、新撰組に襲われた時、朋友を見殺しにしてその場を逃れた同輩の首を、朋友の葬式の場で、橋口が一刀で断った話である。因みに、司馬遼太郎作のテレビドラマ『翔ぶが如く』は、川路利良を主人公とし、薩摩男児の言動を活写したものと言われているが、このドラマのタイトルこそ高鳥鞆之助か薩摩男児を形容した言葉である。
 島津藩兵として二番進撃隊に属した樺山は慶応三年、禁裏守衛のために上京する。その際、京の薩摩屋敷を支配する吉井幸輔(友実)から女中頭吉薗ギンヅルを引き合わされたものと思う。戊辰親争の勲功で覚典禄八石を下賜された樺山は、西郷隆盛が行った献摩の藩献改革に参加し、明治二(一八六九)年六月加世田郷地頭(代官・後の郡長)に親くが、二年後に御親兵献進のことが起こる。
 御親兵とは、明治四年二月に薩摩・土佐・長州の三藩が藩士を献進して明治政府直轄の兵力としたもので、廃藩置県はこの武力を背景に実行されたのである。同年四月、国内治安後持のために要地に鎮台を置くことになったが、鎮台兵には御親兵の一部が転じたが、ほかに全国の士族から志願兵を募った。これを「壮兵」という。四月に津山鎮台(石巻) ・西海鎮台(小倉)を置いたが、八月にはこれを廃して東京鎮台・大坂親台・鎮西鎮台(熊本) ・東北親台(石巻)の四鎮台とした(鎮西鎮台は五年四月熊本親台に、東北鎮台は六年一月仙台鎮台に改称された)。その一方、五年二月に近衛条例を制定し、天皇に直属する近衛都督の下に近衛兵を創設し、壮兵だけを以て編成した。六年一月制定の徴兵令による徴兵はすべて鎮台に配置され、近衛兵は壮兵だけを配備したので、両者は別系統である。

 御親兵の献進に際して、薩摩藩では歩兵四大隊、砲兵四隊が上京する。野津兄弟や高島鞆之助は上京後だが、西郷は国元に残す常備隊の大隊長として、樺島を残した。四年八月、前進のように熊本に鎮西鎮台が置かれると、常備兵一大隊は鎮西鎮台に吸収され鹿児島弟二分営として編成されたので、大隊長樺山資紀は分営長に横滑りした。その辺りを『大日本人名辞書』には「九月二十七日付で大隊長となり、初任少後、鎮西鎮台の鹿児島分営長に輔せられ、五年に「大貳心得を拝す」と記す。親台は後の旅団(その後師団)に、また分営は後の部隊に相当する。鎮西鎮台には熊本本営のほかに広島の第一分営と鹿児島の第二分営があり、分営司令官の官名は大貳だが、分営長とも呼んだらしい。相当階級は中佐で、樺山の場合大蔵に「心得」が付いたのは、階級が少佐だったからである。
 
 さて、次章のタイトルは、

 ●<並々ならぬ機微がある「征韓論」と「征台論」>

 であるが、言い得て妙なるものだと思うし興味津々の一章。

 あの、松岡正剛も近著『日本という方法』(NHK出版2006.9.30)で、めずらしくこう述べている。

 「・・・ある大学の情報系の研究所で日韓関係の話題になったとき、・・・日清戦争前後の事情を説明した。・・そのとき「なぜ西郷が征韓論を唱えたかの説明がつかない限り、日本の近現代史は何も解けないですよ」といったことを口走りました。

 ・・・私もいまなお西郷が征韓論に追いこまれたことを簡潔に説明できないのですから・・・」

 松岡氏には是非本稿にアクセスいただき、その編集力で、提議される「事実」の統合の力業を示してもらいたいものだ。「簡潔」にでなくとも結構、存分に「征韓論」を論じてもらいたい、と言っておこう。

 以前本<読書日記>には次のような「檄」というか「ジャブ」と言おうか、落合氏からのコメントがあった。・・・
 気付きにくいとこだろうから、あえてここに記す。
 http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-163.html#comment29

 ★ 加地氏(註:加治将一氏のこと)についてはよく知らないが、文筆界に登場のしかたと、著書の内 容からするとワンワールドから発信方に任ぜられたと感じる。簡単な愉快犯と見るべからず。
 フルベッキ写真の原本は元来、古野直也氏の所有と本人から伺い、大室寅之佑にかんする共著を申し出られたが、当時はフルベッキ写真について疑義があり、お受けしなかった。
 日蓮曰く、もしは信もしは謗、ともに仏道を成ぜんと。論駁大いに楽しみにしてます。
 【2007/07/10 07:06】 URL | 落合莞爾 #- [ 編集]

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)−4
●並々ならぬ機微がある「征韓論と「征台論」
  
 明治六年の政変は、西郷隆盛らの征韓論を大久保・岩倉・木戸らが封じたために生じたものである。征韓論と言うが、表面で争われたのは『国交を促す大使として西郷を朝鮮国に派遣する事の可否である。むろん、西郷を派遣して朝鮮王に開国を説かせれば、因循な朝鮮朝廷と重大な外交紛争が生ずることは想像に難くなかった。その西郷派遣はすで勅裁を得ており、ただ岩倉団の帰還を待ち、彼らに報告したうえで実行する段取りであったが、太政大臣三条実美が優柔不断でそれを押し通せなかったので、争論となった。薩長出身の高官たちは、どちらが正しいかは容易に判断できず、殊に第二級以下の人士はどちらに付くべきか分からず、右往左往した。薩人には、やがて西郷が官職に復帰するものと考えて、現職に止まっていた者も多かった。

  この問題には並々ならぬ機微があるように思う。岩倉・大久保らの主旨が内治の改良を優先することにあったのは、蓋し岩倉使節団を編成して欧米を巡察してきた結果とされている。しかしながら、本当を言えばワンワールド首脳の意思が介在したのではないか。そもそもフルベッキが企画・周旋した岩倉使節団の真の目的は、岩倉・大久保・木戸以下の顕官が欧州各所のワンワールド拠点を訪れて秘かにその首脳にお目見えすることであった筈だ。そして旅行の途次、東京で征韓が論じられているのを知ったワンワールド首脳から、岩倉・大久保に対して、朝鮮問題に関する何らかの指示がなされたのではあるまいか。   
 
 当時の政府は、朝鮮問題のほかに台湾問題・樺太問題を抱えていた。台湾問題は、明治四年、台風により琉球御用船が台湾に漂着し、乗組員が原住民に虐殺された牡丹社事件に始まる。政府は清国に賠償を求めたが、琉球国は薩摩藩に属しながら清国にも朝貢していたので、清国は琉球人を日本国民と認めなかった。事件の根底には琉球の帰属問題が横たわっていたのである。そこで琉球国の宗主国たる薩摩藩から台湾征討が提議され、鹿児島県参事大山綱良も明治五年九月、台湾への軍隊派遣を提言した。樺山少佐は、熊本鎮台鹿児島第二分営大貳心得の身でありながら、積極的に暗躍策謀し、薩摩出の政府高官に建議した結果、十一月に樺山自身の清国・台湾視察命令を取り付けた。これを契機として樺山は以後台湾関係に精通することになる。
 
 征韓派を一掃して実権を握った大久保利通が、内治改良を優先するためとの口先と完全に矛盾する台湾出兵に追い込まれたのは、伊藤痴遊の「明治裏面史」によれば、下記の事情があった。

 西郷が参議を辞して薩摩に帰ったが、西郷が薩摩から連れてきた邏卒隊は東京に残って、公安警察業務に服していた。のちの警視庁に相当するものである。監督の坂本常光は素より西郷信者で、参議・黒田清隆に対し「費用と兵員が問題で征韓論を封じたのならば、我輩に許可を戴ければ邏卒隊を率いて独力で朝鮮を征服してくるから、是非再論議して貰いたい」とねじ込んだ。黒田が「樺太問題こそ焦眉の大事で、放置は許されない。朝鮮を討つ余力があるのなら、むしろロシアと事を構えるべきである」と応えたのは、実のところ樺太問題の処理については、すでに政府内で方針が定まっていたのに、嘘をついて坂本の鋭鋒を樺太に向けさせたのである。諸事他端な折、邏卒隊が遠征するなど到底不可能な情勢が黒田にこの嘘を言わしめたものである。これを怪しんだ坂本は黒田に同道を求め、二人で外務卿・副島種臣に会見するが、副島は黒田の嘘に同調しなかった。そこで坂本は大久保に会い、「西郷の復職か自分の朝鮮征伐のいずれかを認めよ」と迫るが、大久保は取りあわない。すると坂本は、岩倉から「西郷の下野は病気のためだから仕方ないが、朝鮮征討については考慮中だから近日政府方針を発表する」との言質を取り、それをメモにして岩倉に確認を求めた。このメモが台湾征伐の原因となった。
 西郷の今後と征韓諸の先行きを案ずる薩摩健児たちを、坂本が静めて回ったのは、このメモを信じたからであるが、一向に事態は進展しない。業を煮やした坂本が大久保を詰問すると、大久保は「先日、岩倉が応えたのは征韓ではなく、征台の事だと思うが……」と言いだした。メモに征韓とあるのを見せても、「いや、これは聞違いじゃ」と言いだし、「事によると台湾征伐をやるかも知れぬ」と言うので、坂本はそれなりに納得した。しかしながら、台湾征討のことも進展しない。大久保は六年二月から副島外務卿を清国に派遣したが、談判は要領を得ず、七月に空しく帰ってきた。清国政府は福建省附属の行政機関として台湾府を置いていた台湾鳥を「化外の地」と説明したが、これは台湾を清国の実効支配の及ばない無主の地と宣言したに等しい。西郷派と長州人に挟撃されて苦しい国政運営のなかで、大久保はしだいに台湾征討の腹を固めていた。

 六年の歳末、坂本は再び大久保を訪ねるが、大久保は「その時機には沙汰をするから待て」としか言わない。七年三月になっても大久保が確答しないから、坂本は決心し、薩摩から連れてきた三百数名の邏卒を率いて、政府に辞表を出した。大久保はじめ、黒田や西郷従道が宥めても聞かず、薩摩へ引き揚げてしまい、ために市中に邏卒の姿が消えた。

 台湾征討を決意した大久保が閣議に諮ると、参議木戸孝允が「朝鮮出兵を否定しながら台湾征伐するのは矛盾ではないか」と非難するなど、政府部内でも反対が強まった。
長州の第二級高官すなわち山田顕義、島尾小弥太、三浦梧楼などが木戸を支援して動き回る。


ここに於いて、征台論は前年の征韓論とまったく同じで、薩長間の政争となった。すると陸奥宗光ら野心家が機会に乗じて薩長の離間を計り木戸を煽り立てたので、木戸は七年五月、参議兼内務卿を辞職する。代わって内務卿に就いた大久保は木戸の反対を無視し、七年四月、西郷従道を陸軍中将に任じ、台湾蕃地事務都督(征討軍司令官)に袖した。西郷従道は樺山資紀を従えて長崎に至り、出帆の準備をした。薩摩に帰っていた坂本は同志を集め、義勇兵を組織して都督西郷従道の部下になった。
 木戸の辞職により政府部内で政争が起こり、台湾征討を機会に大騒乱に発展する虞が生じたので大久保は五月三日、計画の延期を伝えるため長崎に行くが、西郷はその前に独断でさっさと出航していた。尤もこれには、予め大久保との間に密約があったとの説がある。昨年の征韓が駄目なのに今年の征台が良いとは理屈の通る話でなく、やはり征韓に限ってワンワールド側から抑止指令があったと見るしかあるまい。それとも、大久保が独断で敢行した台湾征伐は、ワンワールドの指令に背いたものだったのか?
 
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)−5

●台湾征討軍から始まる
   谷千城・樺山資紀コンビ 

 明治七年五月七日、征討軍の第一陣が早くも上陸し、西郷都督も二十二日に上陸した。以後、総勢三千六百名の兵員が、悪天候と風土病に悩まされながら、原住民を制圧した。六年六月、大久保は清国に乗り込み、談判の後で清国から償金五十万両を得たが、うち十万両は被害弁償金で、同十万両は軍事賠償金だが全戦費の一割にも満たなかった。しかし大久保は、十万両を被害者の遺族に与え、四十万両は清国に返還した。理田は「化外の民たる生蛮の行為について、清国政府が責任を認めたことに満足した日本政府は軍費を清国に負担させることを是とせず、この金は返還する」というもので、各国外交官の賞賛を得た。

 台湾征討軍の司令官(台湾蕃地事務都督)は西郷従道中将、参謀長(台湾蕃純再務参謀)が谷干城少将、その下に樺山少佐がいた(中佐進級の時期は未詳)。海軍では海軍少将川村純義が蕃地事務局出仕に補せられた。土佐藩きっての武人とされた谷は樺山とは同年(天保八年生まれ)で、少時江戸に出て安井息軒に学び、幕末は国事に奔走し、戊辰戦争で功績を挙げて賞典録六十石。同年春の三藩の御神兵献進に加わり初任陸軍大佐、五年九月二日に陸軍少将に進級した時は三土六歳の若さであった。六年に熊本鎮台司令長官に就いた谷は、七年春の佐賀の乱を鎮圧した後、五月には台湾征討軍のナンバー・ツーとして出征した。
 八年六月、凱旋した谷は熊本鎮台司令長官を辞し、後任に野津鎮夫

少将(道貫の兄)が就いた。ところが、野津の後を受けて九年六月司令官となった種田政明少将は、十月二十四日の「神風連の乱」で戦死する。十一月九日付けで谷が熊本鎮台司令長官に再任され、これに先立つ十月二十九日に樺山中佐が熊本鎮台の参謀長に補せられていたので、台湾征討軍における谷・樺山コンビが再び出現することとなった。

 ***(8)−5、完。

http://2006530.blog69.fc2.com/category2-26.html

 

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