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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その9
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/364.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 12 日 07:47:19: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その9

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (10)−2

 
 ★上原応援団「第二世代」 ワンワールドの逸材たち 
 
  上原応援団の第二世代も上原勇作(一八五六生)と関係が深い。
上原より一歳年長が吉井の長男・幸蔵(一八五五生)で、これが第二世代の頭と覚しい。男性は吉井の次男で高島の養嗣子・友武(一八六七生)、その義弟に当たる高島の次女球磨子の夫樺山資英(一八六八生)、樺山資紀の長・男愛輔(一八六五生)が並ぶ。女性では、野津道貰の長女で上原の妻・槙子(一八七三生)、高島の長女で友武の妻・多嘉(一八七三生)、高島の次女で資英の妻・球磨子(一八八一生)、以上が第ニ世代の主たる処だが男女別に互いの年齢が極めて接近しており、意思疎通が極めて円滑だったと想像される。

 直系子女ではないがこれに準ずる樺出資英は、薩摩藩士で各所の知事を歴任した樺山資雄の次男である。姓名からして資紀と同族と分かるが、資紀自身は橋口家からの養子である。資英の実兄の阿多壮五郎は戊辰役で戦功あり、明治四年将兵創設に応じて上京、初任陸軍大尉。征韓論の破裂に際しては西郷に従って薩摩に帰り、西南役で奮戦死したが、今日まで伝わるその勇壮さから、西南役に巻き込まれていなかったら軍人として出世し、男爵くらいにはなったと思う。父の樺出資雄は、内務省にいたため西南役に巻き込まれずに済み、当時少年だった資英も西南役を免れて、明治二十一(一八八八)年に渡米、コロンビア大学からエ−ル大学に移り法学士、同大学院で法学修士と法学博士の学位を得た。この経歴で●資英がワンワールドの逸材ということは分かるが、学費は誰が支弁したのか不思議である。明治二十六年に帰朝した資英は、二十八年五月に台湾総督府が設置されるや陸軍省雇員・大本営付通訳官、更に台湾総督府参事官となるが、樺山総督の特命であろう。明治二十九年四月、拓殖務省が新設されるや同省に転じた資英は、大臣秘書官兼・官房秘書課長として初代大臣の高島に仕え、高島の次女・球磨子(一八八一生)を娶り、高島友武(旧吉井)と義兄弟となった。三十年八月、行政整理のために柘殖務省が廃止されるや、資英は第二次松方内閣の首相秘書官に転じるが、★吉井・高島・樺山の閨閥は金融ワンワールドの日本総帥たる松方正義とも近かった。

 明治三十一年一月第三次伊藤内閣が成立するや辞官した資英は、六月の大隈内閣には仕官せず、十一月の第二次山県内閣で樺山資紀が文部大臣に就くのを待って大臣秘書官となる。三十三年十月の第四次伊藤内閣の成立により辞官した資英の、その後の十数年は未詳だが、大正三年から五年間を満鉄理事として過ごした後、大正十二年の山本権兵衛内閣で内閣書記長に挙げられた。
以後、大正十三年から昭和十六年の逝去時まで十七年にわたり貴族院議員を勤めた。授爵にはいたらなかったが相当の大物である。その余の第二世代の人物については、後で述べよう。
(続)

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (10)−3

●陸相時代の高島鞆之助とその後の「伸び悩み」の謎
 

 明治十三年三月、一年にわたる仏独視察から帰国した陸軍少将高島鞆之助は、四月に熊本鎮台司令官に就き、翌年二月に大阪鎮台司令官に転じた。次いで西部監軍部長心得を経て、十六(一八八三)年二月に四十歳を以て中将に進級、西武監軍部長となった。以後は十八年九月に大阪鎮台司令官、二十一年五月に第四師団長となる。つまり明治二十四(一八九一)年に陸軍大臣に就くまでの十年間、ずっと大阪に駐在し、関西在住の陸軍トップとして諸般の事業に携わった。なかでも大阪鎮台指令官時代の二十一年四月、陸軍軍人の社交団体たる財団法人大阪偕行社に附属小学校を創設したことはよく知られている。現在追手門学院に発展した大阪偕行社附属小学校は、薩摩の郷中教育を建学の精神とし、さらに高島が外遊中に覚った外国語教育の必要性から、英語教育を行い国際感覚の研磨を目指し、西の学習院とも呼ばれた。

 内閣制度の発足以来、八年間にわたり陸相を独占した大山巌(一八四二生)の後、第二代陸相を高島が継いだのは明治二四年五月十七日成立の第一次松方内閣である。海軍でも大山の海陸相兼任の時期を除き、西郷従道(一八四三生)が海相を独占していたが、二三年五月十七日に樺山資紀(一八三七生)に交替した。こうして第一次松方内閣の軍部大臣には高島と樺山が揃って就いたが、十一月から始まった第二国会において政府の軍拡予算案が否定され、これに対して樺山が打った蛮勇演説で議会が荒れたので、松方は衆議院を解散する。続く第二回総選挙で、松方内閣は歴史的な選挙大干渉を行うが、それでも民党が勝利した、選挙後内相に就いた河野敏鎌の善後処置は、干渉の最も激しかった佐賀・高知両県の知事すなわち樺山資雄と調所広丈の更迭であった。閣内で選挙干渉を叫んだ高島・樺山の両大臣は、これに反対して辞表を提出したので、明治二十五(一八九二)年八月八日を以て第一次松方内閣は倒壊した。
 高島は予備役に編入、樺山も現役を退き共に枢密顧問官となる。時に高島は四十九歳、上原勇作の時代ならば陸軍少将が相当で、当然現役である。予備役入り後も陰の陸軍首脳だった高島が、日清間に戦雲渦巻く中で一体何をしていたのか、不思議である。

 二十八年八月、日清講和が済んだ後、政府は予備中将・高島鞆之助を急遽台湾副総督に任じ、追って現役に復帰せしめた。樺山総督を支援する「土匪」平定の任務で、樺山の強い要請によるものである。南進司令官として土匪討伐を果たし、十二月凱旋した高島は、翌年四月に第三次伊藤内閲が新設した拓殖務省の初代大臣として台湾総督府の監督に当たる。九月に第二次松方内開が成立するや、再び陸相(兼職)となり、三十年九月行政整理で拓殖務省が廃された後は、陸相を本官として翌年一月までその職にあった。つまり、二十五年八月を以て予備役に編入した高島は、三年後に起用されて台湾副総督となり現役復帰、その後拓殖務省さらに陸相と、二年半にわたり最重職を歴任し来るべき日露戦に備うべく軍政の重責に任じた。こうして観るに、日清戦争の直前並びに戦中において、高島が一体何をしていたのか、やはり不思議である。日清戦役の前後において、右(*上)の重責を果たした高島が位階勲等の昇叙に全く与らなかったのも不思議である。日清戦役中は予備役だったし、現役復帰後の台湾掃討の軍功は大将進級には不足だったらしい。既に十七年に子爵に叙爵、二十年に勲一等旭日大綬章を授かっていたが、勲一等桐花大綬章の沙汰もなかった。つまり、すでに達していた勲等が高過ぎて昇叙の余地がなかったことになる。結局、恩賞の沙汰といえば、大正五年逝去に際して賜わる旭日桐花大綬章と正二位(首相級の位で、追贈と思う)だけでは世間の不審が偲ばれる。

 高島は明治三十一年一月十二日陸相を辞し、長州閥の寵児桂太郎が後を継いだ。五十五歳で将官として最も油の乗る年頃での予備役編入は桂太郎による人事とされ、「その筋に大きな衝撃をもたらした出来事であった」(『日本陸軍とアジア政策』)とされる。同時に、陸軍参謀総長も小松宮彰仁親王から川上操六中将(一八四七生)に代わる。川上は薩摩藩士で、幕末に京の薩摩屋敷でギンヅルと知り合い、維新後に親密な仲になったという。桂と川上は同年の生まれで大佐進級も同日付、以後ずっと同日付で進級してきた好敵手で、軍政家の桂を陸軍大臣、軍略家の川上を参謀総長に配したのである。対露戦争計画を一身に委任された川上は、同年九月桂と並んで大将に進級したものの、翌年五月五十三歳で急逝してしまう。後任がいないので、陸軍は大変な騒ぎになるが、折しも一年半前まで陸相だった高島が予備役中将・枢密顧問官の閑職にいた。陸軍の最高首脳は高島を措いてなく、薩摩閥がその参謀総長の就任を図ったことは当然で、新発見の『宇都宮太郎日記』がその経緯を記しているが後稿で論じたい。結局参謀総長の選考から外れた高島は、四十五年四月の退役まで二度と現役に復帰せず一切の軍務に関わらず、大正五年逝去までの十八年間を枢密顧問官として過ごした。なぜ参謀総長になれなかったのか。世間は晩年の高島を評するに直情径行と才能の伸び悩みを以てするが、真相はそんな所にない。いずれ後稿で明らかにしたい。 (続)
 


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (10)−4

●鈴木商店と台湾樟脳  「実質は上原の会社」
 
日清戦役後、台湾副総督と拓殖務相を歴任した高島が最も意を用いたのは、台湾特産の砂糖・樟脳に加え、台湾で需要の多い阿片と煙草に処する政策であった。樟脳については、神戸の商人・鈴木商店を最大手業者に育て、その実際の経営を日高尚剛に任せたのは高島の処置と思う。なお、台湾阿片政策につき、★巷説は総督府民政長官・後藤新平の功績にすべてを帰すが、それは一面に過ぎず、★日本の阿片事業の発端には児玉・後藤系と高島・上原勇作系が並立していたのである。

 鈴木商店とは大正時代、驚異的に発展した総合商社で、現在は双日となった日商の前身である。主人は「お家はん」と呼ばれた未亡人鈴木ヨネ(嘉永五・一八五三年生}で、父の西田忠右衛門は元来丹波の漆掻であったが、得意先の姫路米田町の塗師福田惣平の勧めで米田町に移り、塗り師に転じた。ヨネは当初福田の次男に嫁ぐが、やがて離婚、明治十(一八七七)年に二十六歳で神戸の砂糖商・鈴木岩次郎と再婚した。岩次郎の父は川越藩の足軽の次男で、飛脚をしていたが、貧乏のため岩次郎を奉公に出す。砂糖・菓子を扱う小商人にな
った岩次郎は、店舗を親族に与えて長崎に往き、菓子職人の修業を積んだ。神戸に帰ってきた岩次郎は、弁天浜の砂糖商・辰巳屋松原恒七の下で働くうち、商才を認められて店を譲られ、カネ辰・鈴木岩次郎商店と改称した。明治七年頃、すでに洋糖引取商・鈴木岩次郎商店の記録がある。進取の精神に富んだ岩次郎は十五年ころ神戸石油商会を設立し、取扱品目として砂糖のほか樟脳・薄荷(ハッカ)にも進出した。十九年、土佐国名野川村の貧家の伜、金子直吉が丁稚として入り、前年に入店した柳田富士松が砂糖、金子が樟脳と分担して、鈴木商店の業績は上がった。二十七年に主人岩次郎が急逝し、親族が廃業を取り沙汰するが、ヨネは決然と存続を唱えた(『黎明の女たち』より抜粋)。
しかし、ながら、後年の急拡入につながる要素は、この時点の鈴木商店には全く存在しない。★ヨネに存続を唱えさせた者が背後に居た筈と思う。
 平成八年ころ「鈴木商店は日高尚剛の手の者が経営陣に入っていた。実質は上原の会社だった]と仄聞した私(落合)だが、まさかと思い、今日まで調べなかった。しかし十年あまりの間に、これに関わる情報を得た。作家★O氏との雑談中、以前帝入系の会社に勤めていたと聞き、思わず「帝入は人も知る鈴木商店の子会社だが、その鈴木商店が★実は上原元帥の持物だった」と言ったところ、O氏は「そういえば上原元帥の孫の尚作さんはウチの重役で、私らの仲人をお願いしました」と言いだし、続けて「どこかヨソの会社から突然来て超特急で昇進、あっという間に重役です」と加えた。言われてみれば、「尚作」は「勇作」と「尚剛」の融合のように見える。勇作の長男・七之助の子息上原尚作は大正十五年生まれ、昭和二十年五月一日に上原子爵家を継承した。ご存命なら、何を差し置いても教わりたいのは、大正九年吉薗周蔵が上原の親書を張作霖に届けた時、張作霖から金五百円で譲ってもらった壷が現在どこにあるのか、である。鉄袖で楚々とした秋草を描くその壺は、乾隆皇帝が秘宝として奉天北陵に秘蔵した焼物の一つで、陶磁学者上田恭輔が汝窯青磁と鑑定した。周蔵が奉天みやげとして上原閣下に献呈すると、非常に喜ばれ、後日大森邸に伺ったら家宝として応接室に飾っていた、と 『周蔵手記』にあるからだ。
 結局、上原は高島の利権というか、事業を引き継いだわけである。防虫剤として知られる★天然樟脳はクスノキから採れるが、その生産技術は元禄年間に琉球から伝わったとの説と、正徳年間に朝鮮人から薩摩に伝わったとの説がある。★薩摩藩は樟脳を特許品として藩が独占的に買い上げ、一部を小売店に卸す以外は長崎に回し、オランダ・清国に輸出していた。明治二年頃、新素材の「セルロイド」が発明されると、その可塑剤として不可欠な天然樟脳は合成品が出来る大正後期まで、極めて重要な物資とされた。
江戸時代から輸出品だった樟脳の輸出は、明治初年から神戸港が中心で、鈴木商店も主要扱い品目とした。明治二十八年、日本領土となった台湾は世界的な樟脳の産地である。薩摩藩の樟脳専売制による利益を知っていた樺山総督と高島副総督は、樟脳製造事業に注目し、早くも同年十月「官有林野及樟脳製造業取締規則」を作り、樟脳製造に官許の制限を加えた,
 翌二十九年から三十一年まで、初代拓殖務相として台湾経営の最高責任者なった高島は、台湾財政の柱として各種の官業政策を練る。二代目総督桂太郎は二十九年六月から十月まで短期間の腰掛けで実際には赴任せず、後を継いだ陸軍大将・乃木希典が三十一年二月まで総督であった。

★専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳と食塩について実施されるが、右の経緯と時期を見ても、専売政策の根幹が高島によることは自明である。総督を監督する拓殖務相は、大阪偕行社以来の乃木の上司で媒酌までした高島である。乃木は高島の指揮を受け、高島の樟脳等官業路線に忠実に従った。
 
 三十一年二月、児玉源太郎が第四代台湾総督となる。児玉がその後、総督の地位に固執したのはアヘンの価値を知悉していだからである。児玉は参謀次長や文部大臣を兼職しつつ、八年も総督に在任、民政長官に就けた後藤新平も八年間在職した。 その期間の長さのため、巷説では児玉・後藤コンビが強調され、桂・乃木時代の台湾行政に見るべきものはないと謂うが、★台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策は、実は高島拓殖務相・樺山総督時代に決まったものと観るしかない。     

  (10)完。


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(11)ー1

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(11)
―― 薩摩ワンワールドの特殊権力を継承した上原勇作

★周蔵も製糖王・藤山雷太も“大畑者”上原の」配下
 
 
 吉薗周蔵は日頃、「上原元帥は横浜と鈴木商店に関わっていた。藤山雷太を大日本精糖の社長にしたのも上原閣下である」と語っていた。明治32(1899)年、鈴木商店
は台湾樟脳の販売権を獲得し、飛躍の切っ掛けを掴む。鈴木商店は世間的には未亡人ヨネを主人と仰ぎながら、この頃から実質的に高島鞆之助と日高尚剛の隷下に入ったのであろう。
 弘化元(1844)年生まれの高島は明治31年1月12日、54歳を以て陸軍大臣を辞し予備役に編入明治45年4月の退役まで陸軍には関与しなかった。高島は予備役に方向を転じ、明治32年枢密顧問官に就任、大正5年1月11日の他界までの18年間その地位にあったが、その間砂糖、煙草、阿片、国際金融などの分野で隠れた権力を振るったものと思う。高島の特殊権力は薩摩ワンワールドの首脳吉井友実・松方正義が築いたものである。大正5年に高島が逝去するや上原が譲り受け、さらに昭和8年に上原の他界によって、荒木貞夫にその一部が移ったものらしい。
 
 周蔵と藤山雷太との関係については、『周蔵手記・本紀』大正8年10月30日条には周蔵が若松事務所で藤山を紹介され、食事に招かれたと記す。若松安太郎は、青森県下北郡大畑港の回船屋六代目堺屋甚兵衛の長男で本名、堺誠太郎、後に七代目甚兵衛を襲名した。その長男が日本文芸協会事務局長を務めた堺誠一郎で、八代目甚兵衛を継いだ。通名・甚兵衛の由来は、芭蕉の『奥の細道』にも「庄司が館は云々」として出てくる信夫庄司・佐藤甚兵衛基治にある。基治は藤原秀衡の参謀で、その子継信、忠信の兄弟が源義経に仕えたことは有名である。甚兵衛を通名とする旧家は全国に数十家存在し、概して山林地主で、紀州串本の矢倉甚兵衛、千葉成田の石川甚兵衛、福島須賀川の石井甚兵衛、秩父の大館甚兵衛、木曽の山村甚兵衛などみなこれである。元首相佐藤栄作家が基治の正統を称するが、右(*上)の石川家や石井家の近親にも佐藤姓が存在するから、各地の甚兵衛は本来みな佐藤姓なのであろう。

 海人の堺屋は海軍と関係が深かったが、六代目甚兵衛の弟・忠次郎は函館を本拠に北海道開発事業に専心し、開拓使の陸軍中将・黒田清隆、同永山武四郎に仕えた。陸軍と海軍は明治中期頃から出入りの者を峻別し、一人が両方に仕えることができなくなったので、忠次郎は海民を表す堺姓から若松に変え、今も函館市若松町としてその名を留めている。日露戦争の際、堺屋は陸軍とも関係が生じた。六代目長男誠太郎は上原勇作の諜者として働く時、叔父・忠次郎の長男になりすまし、若松安太郎と称した。表看板は長崎の水産業者島田商会の支配人で、その際には本名を名乗ったので、『大畑町史』には堺誠太郎の名で出てくる。周蔵は上原の部下として、大正3年から安太郎の後見下に置かれていたので、昭和に入るまで右の事実を知らず、ひたすら若松を本名と信じていた。ゆえに、手記の記載は生涯「若松安太郎氏」で通している。安太郎の弟を装い、若松安次郎と称したのは、屯田兵司令官男爵・永山武四郎中将の子息である。

 ところが『周蔵手記』別紙記載の『敗戦カラノ記』にも、大正14年頃、平野勇造から藤山・中上川を紹介されたと記す。前に述べたように、日本一の建築家といわれた平野は、三井物産社長・益田孝の孫婿で、曽祖父が大畑港の回船屋「カド枡堺屋」の三代目伊兵衛である。堺屋甚兵衛とは別の家系だが、元は摂津和泉をまたぐ堺tから出た同族である。三代目伊兵衛の弟が三国屋を称し、その子(あるいは孫)が堺常五郎、その次男庄太郎が徴兵逃れのために分家した時、先祖の姓池田を称した。先祖の 池田亀麿は『菅江真澄遊覧記』に出てくる文人である。つまり、平野は二代目堺屋伊兵衛の四代孫で、池田庄太郎が同じく三、四代の孫だから、二人は七〜八親等の血族であった。庄太郎の妻コトは若松忠次郎の姪で、安太郎には実のいとこにあたる。 庄太郎は大畑町で地方百貨店を営んだが、縁戚の安太郎と共同で時計や輸入雑貨の商売を行い、一糖に渡欧して、イギリスに滞在した。平野と池田と安太郎の三人は右のような親戚の関係で、極めて親しかった。
 
 安太郎が東京築地の若松事務所で、製糖王・藤山雷太を周蔵に紹介したのは大正6年10月である。前年、血液型分離法の探索のためウィーン大学医学部ランドシュタイナー教室に潜入した周蔵は、6年6月に帰国した後、アヘン研究とその隠れ蓑として糖神カウンセラーの開設を上原大将に献策し、許可を得た。その秋は独立開業の時期で周蔵はいろんな人物に会う。偶然会った相手もいれば、上原の指令で引き合わされた相手も多かった。藤山雷太の紹介は多分上原の指令で、、周蔵にケシ研究を命じた関連で、配下の製糖王・藤山を紹介させたものと思う。藤山が初対面の周蔵を食事に招待したのも上原の配慮であろう。
8年後の大正14年ころ平野が周蔵に紹介した「藤山」なる人物は、息子の愛一郎(当時二十八歳)ではなく、親の雷太(当時63歳)と思える。平野の場合は縁者として周蔵を紹介したのだろうが、周蔵はあれ以来藤山と接触しておらず、改めての紹介となったわけだが、紹介者は両度とも大畑港の出身で、上原と大畑者との間は若松父子を介して極めて近かったから、結局は同じ意味になろう。
 *************

 ★日本の金融王・松方正義、玄洋社・杉山茂丸の暗躍 へ<続>。

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (11)−2

 ★日本の金融王・松方正義、玄洋社・杉山茂丸の暗躍


  枢密顧問官・高島鞆之助の裏には、上原勇作の叔母で周蔵の祖母にあたる吉薗ギンヅルがいた。上原が台湾の砂糖・樟脳政策に関して有した特殊な権力は、高島の遺産を引き継いだものだが、ギンヅルが甥の勇作に残したものともいえる。横浜正金銀行に関しても、上原は同様な権力を持っていたと伝わる。上原の大森鹿島谷の私邸と上総一ノ宮の別荘には、旧一宮領主加納久宜子爵が絡んでいるように思うが、その御曹司・加納久朗が横浜正金の取締役となったことにも、上原の影がちらつく。『周蔵手記』には、世界大戦の戦雲迫る中でフランスヘ帰る藤田嗣治と薩摩治郎ハが必要とした為替を、周蔵が荒木大将に頼んで手当てしてやったことを記す。昭和8年死去するに当たり、上原は荒木貞夫を後継者とした。日本の金融制度を創った松方正義は、世界金融皇帝・ロスチャイルドの分身として、日本金融王であった。安田善次郎のごとき金貸しでなく、第一銀行創立者の渋沢栄一や、明治財政・産業支配人井上馨でもなく、日銀の民営化と金本位制の創設に関わった松方正義こそ、日本金融王なのである。松方が培った国際金融権力は高島経由で上原が受け継ぎ、荒木に移ったわけだ。

 国際金融には謎が多いが、杉山茂丸が関係したことは確かである。玄洋社の客将で生涯無冠の浪人だった杉山が明治30年に渡米してアメリカの工業事情を視察し、翌年再び渡米して米国金融王J・P・モルガンと単独面会し、借款を取り決めて銀行設立を討議した。それがいかなる地歩に立ったものか明快に説く史家はいない。ウイキペディアには、「杉山の興業銀行設立運動は、伊藤博文と井上馨の支持を得たが議会の混乱のためになかなか通過せず、明治33年になり日本興業銀行法は成立したが、モルガンからの外資導入は貴族院に否決された。同31年(1898)に第四代台湾総督に陸軍大将児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与したといわれる」との解説がある。
 
 要するに、経済問題では伊藤・井上、台湾軍政では児玉と、何でもかんでも長州閥を持ち出さねば世間は納得しないが、その実は、先ず軌道を敷いた薩摩人が故意に表面から隠れ、あて馬に長州閥を持ってきたものと思える。ともかく杉山が台湾銀行の創立に深く関与したのは事実で、帝大法学部同期の平岡定太郎が樺太庁長官の時、その下で第一部長に甘んじていた中川小十郎を抜擢し、台湾銀行副総裁に据えたのも杉山である。杉山は、台湾砂糖政策や台湾銀行の設立、台湾縦断鉄道の敷設などに関して、児玉のみならず背後の伊藤・井上らの長州閥を工作していたわけで、その使命は、拓殖務相・高島鞆之助と台湾総督樺山資紀とが建てた台湾基本政策を、児玉・後藤に踏襲せしめることにあったと思われる。砂糖・樟脳などは第一薩摩藩の薬籠中の物資で、長州人が関与すべくもない。杉山が籍を置いた玄洋社自体、表面は旧黒田藩士の結社と見せながら、実は薩摩ワンワールド首脳の指導下にあり、その背後には謎の貴公子・堀川辰吉郎が見え隠れする。上原勇作が後年玄洋社を私的機関のごとく使いこなしたのも、吉井・松方に始まり高島・樺山が受け継いだ薩摩ワンワールドの特殊権力を引き継いだからであろう。尤も両者の関係は注意深く隠され、史家はこれに気づいていない。上原の政治的ライヴァル後藤新平も不思議な人物である。俗流史観は児玉と後藤の関係を濃厚な癒着の如く修飾するが、果たしてその通りならば後藤を帰化長州人と呼ぶもおかしくはないが、真相はどうか。後藤の岳父安場保和は、明治19年福岡県令となるや、県下の鉱区権を悉く玄洋社に与え、玄洋社はそれを炭坑主に売却して活動費とした。年来安場の恩を受け女婿にもなった後藤が、安場が財政面で育てた玄洋社を拠り所としたことを示唆する巷間の噂に、
@後藤は満鉄総裁として自由に行動する目的で児玉を暗殺した、
A後藤は玄洋社員を使唆して原敬を暗殺せしめた・・・というものがある。
 
 


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