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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その11
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 12 日 08:01:18: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その11

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―3

―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡   

★欧州大戦と安直戦争の波―高島=上原ラインの暗躍 
 
  話を元へ戻す。大正六(1917)年一月、東亜煙草は辞職する藤田謙一の後任取締役に鈴木系の長崎英造を選任した。同時に菅野盛次郎が社長に就任するが、周蔵は当時欧州探索中だから、東亜煙草株を菅野と共有したのはこの時でなく、大正八年の増資の際であろう。欧州大戦の影響で、満洲の経済界は好況に沸くが、英米煙草トラスト(BAT)の活動は朝鮮・満洲では消極的だったので、東亜煙草社の売上は急激に伸び、大正六年は前年同期比51%増にもなった。ロシア革命が起こり、翌七年八月のシベリア出兵も需要増加要因となり、上昇機運に乗じた東亜煙草は、上海のイタリア系オリエント煙草を買収し上海工場とした。八年の総会では長崎が取締役を辞め、後任に鈴木商店煙草部担当・岡田虎輔が就く。中華民国では日貨排斥が盛んになり、翌年の安直戦争で親英米の直隷派が親日政権の安徽派・段祺瑞に勝ったのを見て、BAT社は積極的姿勢に転じた。苦境に陥った東亜煙草は、十月には買収したばかりの上海工場を偽装運営することを余儀なくされ、翌年にはその名義を表面上外人に変更した。

『大阪毎日新聞』大正八年七月二十九日に増資の記事がある(概要は前月号にも述べた)。
「『東亜煙草開展』朝鮮煙草官営の結果、東亜煙草会社にては今回一千万円に増資する事となれるが、増資の内情に就いて聞くに、東亜の朝鮮における煙草製造販売権は本年限りを以て一切之を総督府に引継ぎ、進んで満洲・支那・シベリア・蒙古方面の煙草界に雄飛すべき目論見にて、奉天には支店及び製造所を設け、同時に吉林付近に一大煙草栽培業を経営せんため別に姉妹会社を建て、以て、英米トラスト等と対抗して其の勢に食い入るべく大計画を樹立するものの如く、既に総督府にては十分の了解を遂げおれりと伝えられ、総督府は東亜の進出と共にかつて韓国政府時代の約束に基づき、朝鮮内に於ける煙草の専売を愈々実行する 全鮮に亘る煙草製造会社或いは個人営工場二十八箇所を買収して、内地同様の制度を設けて煙草の製造・販売をなすべき計画の由なり」

この時の増資に際し、菅野が必要とした払い込み金を周蔵が立て替えたものか。東亜煙草は十年七月、鈴木商店と契約を交わし、同商店の海外販売力に期待するが、執拗な日貨排斥とBAT社の反攻により実績は上がらなかった。 同年、朝鮮に、いよいよ煙草専売制が実施され、最大の商圏を失う東亜煙草は朝鮮総督府に補償を要求する。東亜煙草は、朝鮮の煙草専売制に先行して、大小煙草業者を買収し、煙草事業の統一に努力したのに「専売制移行に対して総督府が引取る東亜煙草資産の評価と補償額が低過ぎる」と主張したのだが認められなかった。東亜煙草の経営危機が進むにつけて、鈴木色はますます強くなり、十一年五月二日の臨時株主総会では菅野社長を含む取締役全員が辞職し、補欠選挙で新取締役七人(鈴木系六人)、監査役三人(鈴水系二人。菅野は大蔵省出身ながら天下りの当初から上原勇作の隷下にあったことは間違いない。八年の増資に際して払込金を周蔵に仰いだのも、上原(その裏はギンヅル)の差し全で、周蔵は親方の命令に従っただけである。

 東亜煙草の経営危機は更に進み、十一年の総会で菅野は辞職、取締役会は互選で新社長に南新吾、新専務に岡田虎補を選任するが、これは創立以来の「専務は専売局が推薦する専売局出身者に限る」という慣例を破るもので、「国益を担って国際市場でBAT社と戦っている国策会社の専務に鈴木商店子会社の社長が兼任するのはいかがなものか」と世間の批判を浴びたが、十四年に岡田専務が辞任して専売局出身の石原専務に代わったことで改善された。新社長・南新吾は元台湾銀行理事で、台湾銀行以来、南の側近たる松平慶猷(敬猷とも記す)も東亜煙草に入る。この松平こそ、チヤのいう★「越前松平の殿様の一族」と思われる。昭和金融恐慌の根源として日本近代史を揺るがせた★台湾銀行と鈴木商店の深い関係は、前者の実質的創業者が杉山茂丸、後者の実質的指導者が高島鞆之助→上原勇作と知れば、由来を容易に理解できるだろう。薩摩ワンワールド配下の台湾経済人から南と松平を選び、東亜煙草に入れたのは、上原勇作による人事であろう。ことほど左様に鈴木商店・東亜煙草は★高島鞆之助の遺産で、陰で上原勇作が牛耳っていたのである。

 南社長の就任後も東亜煙草の経営難は続いた。朝鮮総督府に補償を請願するが捗らず、専売局からの支援もゴールデンバットの製造受託だけに止まり、活路を求めて昭和二年に競合会社の亜細亜煙草を合併した。昭和五年不況の進行で煙草需要も低迷して経営が困難を増す最中、南社長が急逝し(自殺とされる)、代わって大蔵省出身で鈴木商店幹部の金光傭男が社長となる。金光も大蔵省でなく、実質的に鈴木商店からの派遣で、背後にはやはり上原勇作がいた。
翌昭和六(1931)年、満洲事変(「9.18事変」)が勃発するや満洲の紙巻煙草需要は激増し、、東亜煙草の業容は一転して拡大気運となった。昭和十二年七月の支那事変(7・7盧溝橋)で華北の需要も増加したので、東亜煙草は同年11月の臨時株主総会で、関係会社として満洲東亜煙草・華北東亜煙草を新設する。前者の取締役の中に松平慶猷の名を見て、チヤの言「周蔵さんの株を越前松平の殿様の一族の人に預けた」を想起する。
松平は南の自殺後も東亜煙草に残り、十二年に満洲東亜煙草設立の際、役員になったのだ。八年に死去した上原の東亜煙草に関する権力は荒木貞夫が受け継ぎ、周蔵はその配下となる。関連会社設立を決めたのも荒木→周蔵のラインで、チヤの右の言は、満洲東亜煙草新設に際して、周蔵が自分の出資分の名義を新役員松平慶猷にしたことを意味するのではなかろうか。

  <続>


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―4
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡   

★「雨蛙が大蛇を呑んだ」 満洲煙草へ突然の身売り
 
 金光社長の経営下にあった東亜煙草は昭和十四年、突然身売りする。満洲煙草社、すなわち昭和九年十二月設立の満洲煙草股扮有限公司(社長:長谷川太郎吉)であった。同社設立にあたり資金援助した大和銀行から広瀬安太郎が取締役に入り、十年に新京に小さい工場を建てて操業を始めたが東亜煙草とは比較にならぬ規模であった。ところが金光康夫は十四年八月、拓務相就任を機に所有の東亜煙草株全部を長谷川太郎吉に譲渡し、旧役員も全員辞職、新役員には長谷川新社長系の人々が、就任し、株主の大和銀行からも広瀬が取締役に入った。「雨蛙が大蛇を呑んだ」と言われたこの買収劇は東亜煙草の社員一同にとって青天の霹靂で、青島工場長水之江は独新で上京し、専売局出身の金光秀文専務に真相を質したが要を得ず、金光社長にも聞くも同様だったこの満洲こそ、大正九年の大連で周蔵が三万円を出資してスタートした「満州煙草裁商店」の後身と推断するが、いかがであろう。野村合名傘下の大和銀行から出向した広瀬が、前述ファクスの広瀬安太郎であることは間違いない。「設立に当たって大和銀行がした資金援助」とは、大和銀行が周蔵資金を自行名義に仮装して株金を払い込んだので、役員として出向した広瀬はダミーであった。要するに、大正年設立当初から周蔵の所有であった満洲煙草社の実質的創業はずっと古く、大正九年に周蔵の三万円を元金として大連で開業したが、法人化せず個人企業「満洲煙草商店」と称し、室原重成を営業責任者としてケシ煙草を販売してきたものであろう。『東亜煙草とともに』の第四章で、同社営業幹部の名を掲げ「これらの人々は東亜煙草社が苦難に耐えて地盤の維持に獣身の努力を続けてきた販売の老練家である」とする中に奉天駐在所長・室原重盛の名がある。この室原重盛は重盛の別名か、それとも家族か、とにかく室原一家を挙げて、社の内外から東亜煙草に関係していたのである。

この年、専売局は東亜煙草に対する特許の認可を廃止した。これについては、辞めていった水之江も「明治三十九年、東亜煙草社が国策会社として創立され、昭和十四年に至るまでの長い間、連綿として継承してきた専売局交付の許認可事項が確たる説明もなく水泡のように消えたことは全く理解に苦しむことであった」と嘆く。これについて、Sは前述の著書で次のように述べる。
「元東亜煙草青島工場長の水之江殿之にインタビューした記事のなかに、この事件の背景についてふれられた箇所がある。『・・・推測しうることは、日中戦争という戦時下で、軍部が占領地政策推進の一環として、たばこの財政収入および生活必需物資としての重要性に鑑み、東亜煙草を専売局の監督から軍の管理統制下に組み入れようとしたところに重大な鍵が隠されているのではなかろうか』この事件の真相をおそらく知っていたであろう水之江も、『あの身売りには深い事情があった。しかし、いまだそれを明かすべきではない』というだけで、とうとう死ぬまで、この事件の真相を明かすことはなかった」 

右の水之江のインタビュー記事は、昭和五十五年に『たばこ日本』に掲載されたものである。自伝では「理解に苦しむ」と嘆いた水之江は、インタビューでは「深い事情があったが、いまだ明かすべきではない」と述べている。後者が本音で、★深い事情とはケシ煙草の関係である。東亜煙草の身売りの真相は、専売局が東亜煙草に対する特許・監督権を解消する外見を装い、実は大蔵省の課税権を外すことで陸軍の外郭として経営の自由を保障したもので、一年前から準備し、実行にこぎつけたのは★某皇族の計らいであった。以後東亜煙草社は破天荒な利益を上げたが、軍部の後押しのため税務当局を怖がる必要もなく、決算報告は単なる作り物だった。経緯は後稿に回すが渋沢敬三と親しくなった周蔵は、東亜煙草の膨大な利益を渋沢の関わる民族学研究所に注ぎ込むが、周蔵は表面に出ず、望月郁三を介して行った。
Sが著書のなかで怪人物としてしきりに強調する望月は、チヤの話では「甘粕正彦さんの乾分(こぶん)で、東亜煙草のオーナーとなった周蔵さんが、宮原とともに東亜煙草の表側に出した人物」という。Sの著書に、民俗学研究所設立者の一人岡正雄(あの柳田の言を書名にした『本屋風情』の著者、岡書店店主*ブロガー註)が渋沢敬三の思い出を回顧するくだりがあり、「望月君という後で民族学協会の理事になったが、しまいには非常なでたらめをやっていっちゃったけれども、これが東亜煙草から金を出してもらって財団(落合註:民族学協会)の資金を作った」と証言したと記す。これが期せずして周蔵が東亜煙草に関与したことの傍証をなしている。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12) <完>。
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1

 ★知られざる大物『上原勇作伝』と『周蔵手記』に見る高島鞆之助
                                ◆落合莞爾
  ニューリーダー誌 2008.1月号

 ●杉山茂丸の一端を明らかにした『アジア連邦の夢』
 (*『ドグラマグラ』の夢野久作=杉山直樹・泰道の父親)

 前月号で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成18年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。
 
 尤も、かかる杉山の深奥部に関しては、そもそも直接資料なぞあるべくもなく、考察対象を原資料に限定する限り、已むを得ないものと思う。ともかく私としては、本誌の新連載で探究・推理を始めた日本近代史の核心部分、すなわち吉井友実・松方正義・高島ら薩摩ワンワールドと、その後継者たる上原勇作と上原に続く荒木貞夫につき「杉山茂丸という一本の補助線により極めて明瞭に裏付けられた」との実感がある。

 これ幾何学の根本定理発見にも比すべき近来の快事と自画自賛し、すぐにも論考を開始したいが、実はその前に、高島鞆之助について一通り概観せねばならない。今日は勿論、明治・大正の昔でさえ一般世間は高島の実状を全く知らなかった。私も例外ではなかったが、たまたま『周蔵手記』にチラリと出てきた高島鞆之助を調べることで、薩摩ワンワールドの存在に気付き、彼らと長州派首脳を仲介した政治的触媒が必ず存在したことを確信した。杉山茂丸こそ其の人なるべし、との推測に至るまでは早かったが、杉山が漂う政治的空間が広過ぎて、全容が掴めなかった。霧が晴れるように、しだいに山容が見えてきたのは、堀川辰吉郎に関する情報が少づつ集まってきたからで、その堀川について、堀雅昭氏が黙しているのは、多分原資料がないからと推察するが、まあ現時点では堀川辰吉郎まで分析する必要はないかもしれない。薩摩ワンワールドの真相を、私は高島鞆之助の側から見たが、堀氏は杉山茂丸側から見たと言ってもよい。高島と杉山は、言わば相手側の隠された真実を互いに証明し合う関係にある。堀氏前掲著の出現は真に時宜を得たものと思わざるを得ない。

 私が高島鞆之助の存在を知ったのは平成8年で、吉薗家から見せられた『周蔵手記』のなかの「別紙記載」にその名を見て、初めてその存在を意識した。記憶する限り、高島鞆之助なる軍人政治家の名は、それまで読んだ史書の何れにも特筆されておらず、史家から全く無視された存在であった。
 
 まず、『周蔵手記』における高島鞆之助の登場ぶりを見てみよう。陸相・石本新六が急死し、その後釜に第十四師団長・上原勇作が就いたのは明治45年4月2日のことであった。陸相の座は、高島鞆之助が31年1月桂太郎に追われて以来、桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅と3代13年に亘り長州が独占してきたのだが、寺内が朝鮮総督専任となるに及んで、後任が兵庫出身の石本新六(士官一期)と上原(同二期)に絞られた。
 
 結局、9年に亘り次官として寺内陸相に仕えたことが決め手となり、石本が44年8月寺内の後を襲い、陸相の座に就くが、僅か8か月で過労のために急死したとき、後任候補にはもはや上原しかいなかった。折から前年の辛亥革命で、東アジア情勢が一変し、これに備えるため数個師団の増設を欲する陸軍は、期待を上原一身に繋いだので、45年4月2日実に14年ぶりに薩派の陸相が生まれた。時に首相は西園寺公望であった。7月30日明治天皇の崩御により大正と改元、その2日後の大正元年8月2日、上総一宮の上原勇作別邸のお目見えから『周蔵手記』は始まる。

  続く。


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―2
 
  ●上原勇作、原敬激突「増師問題」の帰結と高島鞆之助

 
 その間の事情を『元帥上原勇作伝』(以下、単に伝記とする)に見れば、元年12月22日、二個師団増設案を閣議に提出した上原陸相は、行政整理を打ち出した西国寺首相と真っ向から対立するが、何としても引っ込めない。西園寺に同情した枢密顧問官・高島鞆之肋は自ら上原陸相を訪問して、増師案の撤回と辞職を勧告する。元帥・大山巌も同様の周旋をしたが、上原は受けようとしない(註:高島が上原を説得したのは、誰かの依頼を受けたものと思う。蓋し、当時上原を説得できるのは高島しか居なかったからで、高島に説得された上原は、増師案を撤回して辞職する決心をしたが、山県元帥の工作を受けて変心し、増師案を提出したのが真相である。山県は、西園寺に増師案を呑ますことで内閣の延命を図ったが、それを西園寺が拒否したものらしい)。上原は当時、某人に向かい「自分が西園寺と直接懇談していたら、増師案の解決も困難でなかった。山本達雄蔵相は、自分に西園寺との会見を約束しておきながら、終にその機会を作らなかった。しかもその実、内閣の実権者として増師延期論の中心となっていたのは、内相原敬に相違なかった」と語った。この意味において、増師案問題は、実に上原と原の対決であった、と伝記は謂う。原敬と上原はここに悪因縁を生じ、それが後年の大事に繋がるのである。

 閣議で増師案を否決された上原は、単身青山御所に参内し、陸相の辞表を提出した。これは、統帥権独立の下での帷幕上奏権によるもので、「閣僚辞職の場合は辞表を首相に預けるという従来の慣例を破る<暴挙>で、そのために西園寺内閣は、同月5日を以て倒壊するに至る。上原も自らこれを非立憲(ビリケン)的行動と称したほどで、暴挙を自覚していたが、陸軍内部では、軍のためなら内閣をも倒すという行動力が以後高く評価されることとなった。自然待命となった上原は、再び軍職に就かぬ覚悟をほのめかして都城に帰省、鹿児島の日高尚剛邸に静養し、翌年1月24日からは指宿温泉に逗留し、静養3週間に垂んとした。この間、陸軍中枢すなわち山県元帥、寺内朝鮮総督、楠瀬陸相らは上原の処遇について苦慮し、寺内大将が1月15日付書簡を以て、上原に軍職復帰を勧告する。寺内の手紙で心境一転した上原は、師団長への復職を希望し、政府も之を容れて名古屋の第三師団長を内定した。ところが、その通知がなかなか上原に届かない。山県元帥と政友会の原敬の意見が合わず、その調整に手間取っていたのである。ここにも原敬と上原の相剋が兆している。

 現存する2月18日付の井戸川辰三中佐(陸軍省副官兼陸相秘書官)宛て手紙で、上原は「今18日夜11時まで待つも何事も申し来らず、誠に待ち長く候」と苛々する心境を述べ、勇作身上の発表まで僅かに10日位しかないので、発表有り次第直ちに名古屋へ赴任するが、東京へは寄らず、旅行先から直接名古屋へ赴任する。都城は25日までに引上げる予定で、すでに当地の研究も済ませたので、志布志、福島、飫肥、宮崎方面に出向きたい、との所存を告げた。文面通り都城を発った上原は25日から福島に出て、飫肥、宮崎を経て小林駅から乗車したと伝記には記すが、道順としては不自然で、伝記編集者が上記井戸川宛て書簡を根拠に、適当に書き流したものと思う。

  続く。


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3
 
 ●大正天皇も憂えた上原の急病と浅山丸の神効
 

 ところが上原は車中で熱病を発し、下関を過ぎるころ益々甚だしく、尋常一様の感冒ではあるまいと途中下車して広島か姫路の陸軍病院に入ろうかと迷うも、強いて名古屋に向かおうとした。しかし発熱が猛烈なため大阪で途中下車し、旅館で陸軍病院長の来診を受け、翌朝大阪赤十字病院に入院した。京都帝大の中西亀太郎博士が来院して診察したが病名すら分からず、疲労と腸の不調と判断し、強壮剤を与えただけであった。折しも千葉の陸軍歩兵学校に行幸された大正天皇から、侍従武官長に「上原の病状はどうか」とのご下問があった。前年、戸山学校から歩兵学校を分離して千葉に移転し歩兵学校とした、その実行者が上原陸相だったから、天皇は行幸先で上原を想起されて、その病気に思いを致されたのである。

 武官長が病状を奏上すると、「有栖川宮の病状を診察するため、青山胤通博士が須磨の別荘に行くから、上原の病状も診察させよ」との御言葉があった。青山胤通は3月29日、大阪赤十字病院で上原を診察し、肺壊疸と診断し、「3年ほどは劇職は無理」と楠瀬陸相に告げた。青山の診断を聞いた上原は、当分軍務を断念して第三師団長の辞表を提出、6月9日付で待命となった。この間、見舞いに西下した槙子夫人にすぐに帰京を命じた、との逸話に添え、「彼の武士的責任感の鋭敏なることに就いては、元帥(上原)と乃木大将と共通の点があった」など、些細なことでも上原を褒めそやす伝記ではあるが、興味深い記述もある。
それは、「また高島鞆之助は、東京より西下して病院に来たり、元帥(上原)を見舞ふたが、玉木看護婦に対し『浅山丸を呑んでゐるか』と問い、玉木が『一日十五粒である』と答ふるや、『それでは足らぬ。一回に三十粒やれ』と命じたので、玉木は其の通り、一回三十粒を与えた。然るに、脈は善く、浣腸注射もやめる位になったが、翌朝に至り、元帥(上原)の眼球に斑点が生じたので、再び減量したと云ふ珍談もあった」との記事で、浅山丸の神効を語って余りある。

 大阪日赤病院に飄然と現れた高島鞆之助は、当時枢密顧問官で、陸相を引退して15年経った当時も、決して世人に忘れられた存在ではなかった。陸相上原勇作の単独辞表提出を軍部の横暴と見た世論の憤激は、西園寺の後継首相に就いた桂太郎に向けられ、憲政擁護・閥族打破を主張する在野政党と、これに同調した院外団、言論界、一般民衆の、桂首相に対する攻撃はまことに凄まじいもので、第三次桂内閣は大正2年2月11日、わずか53日で倒壊し、戦前における民衆運動による倒閣の不完全ながら唯一の例となった。
桂内閣崩壊の後、組閣の大命を受けた山本権兵衛は、多数党の政友会の支持を条件にしたが、政党内閣実現の要求に湧く党員たちとの間で政策協定が結べず、政友会内部にも亀裂が生じたため、多数の確保が困難になる。世上では、護憲運動の先頭に立つ国民党の犬養毅を入閣させて、山本内閣を一気に成立させようとの動きがあり、また「山本が閥族で駄目というなら高島鞆之助でゆこう」と尾崎行雄が言いだした。高島も薩閥の一員には違いないが、政友会に入党して党員になるなら良いではないか、という理論で、高島人気がまだ裏えていなかった証拠である。
 
 単独辞職後の上原の病気は、伝記の詳しく記す所であるが、その裏側の真相を記した資料が別に見つかった。

 まず『周蔵手記・本紀』昭和十二年条で、「昨年十一月、牧野サンカラ女中ガ使ヒニ来ラルル」で始まる箇所を要約すると・・・昭和11年11月、淀橋の天真堂医院(牧野院長)に宇垣一成から連絡があり、伊豆長岡の自宅に来て貰いたいと周蔵に伝えよと言われたと、牧野の女中が連絡に来た。宇垣は、8月5日に朝鮮総督を辞めたばかりで狩野川の辺で静養していた。訪ねた周蔵に、宇垣は悠々自適をしきりに強調しながら、「君とは四度目だな」と切り出した。二回しか党えていない周蔵の怪訝な顔を察して、「大正二年、上原閣下が大阪の病院に入院していた時、あの折の病院の廊下で会った」と言いだす。それに驚いた周蔵が、当時を思い出すままに書き留めた。「・・・あの折は上原閣下から東京に呼ばれて、陸軍指定の旅館で待っていたが、連絡がなかなか来ず隠れて同行してくれた父・林次郎と大叔父・木場周助が随分心配した。結局、大阪赤十字病院に来いとの指令が届き、一行は大阪に移動した。閣下の病気は、ギンヅルから貰っていたケシ粉(阿片末)によって回復したが、閣下がそのような麻薬を用いていることにも、当時は驚いた」と記している。
 

 ●「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」
 
 いま一つ、『周蔵手記』別紙記載の中の「1945年(昭和20年)9月末ピ 敗戦カラノ記」と題する文中、周蔵が上原に「草」として仕え始めた大正元年から2年の頃を回想した箇所があり、そこに高島が出てくる。

 要約すると、大正元年8月2日、上原陸相の使いという前田治兵衛が周蔵宅に来て、千葉・一宮の上原別荘に会いに来い、との指令を伝えてきた。お目見えにも一人でゆく度胸のない周蔵は、前田治兵衛と大叔父の木場周助についてきて貰う。お目見えに合格して、その場で「草」を命じられた周蔵は、一旦帰郷して決心を固めるが、大正3年春、熊本に居た上原から、「前年からの事と今年からの将来の事を決めるために上京せよ」との指令を受ける。上原自身は広島に寄ってから上京するとの事であった。この時も、一人で行けない周蔵は、林次郎と周助に伴われて東京へ出て、指定の旅館で待っていたが、なかなか連絡が来ない。そのうち連絡があり、「閣下は病気になり、大阪で入院しておるので、大阪に移動せよ」との指令であった。「その時にそれ(ギンヅルの薬)を届けるように」と、親爺殿が持ってきてくれたのである。大阪に移動し、病院に軍人が屯しているなかを取り次いでもらうと、本人から頼まれたと称する高島なる人物が現れ、「薬を先に渡せ」と言った。閣下はその薬を待っていたようで、婆さんは二種類の薬を呉れたが、一つは一粒金丹と同種の丸薬で、もう一つは黒砂糖で固めた丸薬であった。後者を多く持参したことを告げると、高島さんは「さすがヲギンさんだ」と言われた。その折、高島さんから「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」とはっきり言われて自信が沸いた周蔵は、以後は父や大叔父に頼らなくなった。この薬は都城・島津藩の貴重薬で、ギンヅルが作り、藩主に届ける傍ら上原にも送っていたという。

 以上が「敗戦カラノ記」の該当部分の要約である。ギンヅルの二種類の薬のうち、高島が欲していたのはむろん後者、すなわち伝記にも出てくる浅山丸である。ところが、その薬が大阪赤十字病院の上原に届いた経路が、傍線部で分かるようにニュアンスが異なり、はっきりしないが、強いて追究すべき問題でもあるまい。むしろ、高島と周蔵の初会見が大正2年春の大阪日赤病院だったこと、その際、高島が上原の親代わりのように振る舞っていたことが見えて面白い。それを周蔵が戦後まで覚えていたことで、周蔵の高島に対する感情と、高島との親密な関係がしのばれる。
 

http://2006530.blog69.fc2.com/category2-22.html


 

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