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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その13
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 13 日 15:30:08: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その13

●『杉山茂丸伝』ー(4)

★第二章 日清開戦の機運 も目次に見るとおり興味深い記述が続くが、
 
 落合論文の関連として、よりテーマに近い第三章へ進みます。

 ★第三章 膨張する視座

 ●幻の『露西亜亡国論』

 三国干渉の副産物は閔妃暗殺事件だけではない。内田良平の『露西亜亡国論』の発行もその一つだった。明治34(1901)年に彼が主催する黒龍会から出された対露主戦論を説いた書で、以下の三つの内容が記されていた。
一、日露戦争の予言。
二、その戦争で日本が勝利する予言。
三、日本の勝利で帝政ロシア(ロマノフ王朝)が滅び、革命ロシアが出現する予言。
 内田も福岡の玄洋社出身者で、日清戦争のきっかけを作った天佑侠の一人として東学党を助けた一人であった(第二章参照)。そのため三国干渉で遼東半島の返還を求めてきたロシアに反感を抱いたのである。
 
三国干渉から4ヵ月後の明治28年8月下旬、彼はロシア偵察のために単身ウラジオストックに入った。その後一旦帰国し、翌明治29年春に再びウラジオストックに赴き、柔道場を開設しながら密偵を続けた。ウラジオストックーバイカル湖−イルクーツクーペテルスブルグーストレーチエンスクーウラジオストックのルートの往路でシベリア横断探査を行ったのが明治30年8月で、翌31年7月に帰国して、日露戦争に備えた民間組織として明治34年2月に黒龍会を立ち上げるのだ。頭山満の主催する玄洋社が筑前勤王党の遺族や遺児によって組織されたのに対し、黒龍会は更に若い世代と幅広い人脈を集めて全国的な組織として作られた(黒龍会の初期陣容には、天祐侠の系譜を継ぐ玄洋社員や『二六新報』の記者、民権党派のメンバー、社会主義研究会をつくった人物など多彩な顔ぶれがあった)。その結果、内田がロシアの内情分析に基づく対露主戦論として明治34年9月に、前掲の『露西亜亡国論』を黒龍会から出版したのである。しかしロシアとの開戦を予言する過激な内容に政府は即刻発禁処分を決め、全てを押収した。ちなみにこのときの内閣は第四次伊藤博文内閣で、親露政策を進めようとしていた伊藤の逆鱗に触れた結果だった。このため内田は政府と交渉し、内容を少しやわらげたものを『露西亜論』と改題してようやく出版に漕ぎつく。このような経緯により、発禁処分となった『露西亜亡国論』は表紙以外に現存していない。
 
一方、内田がロシア偵察を始めた頃と思われるが、杉山茂丸も、「新潟にてウラジオストックより密航し来たる同志に面会して、またこちらより同方へ密航させねばならぬ用向きに従事した」と『百魔』で語っている。つまり彼もロシアの動きを探っていたのだ。このとき山岡鉄舟の門下生だった新潟県知事の籠手田安定(こてだやすさだ)に面会しているので、籠手田の赴任期間である明治24年4月から明治29年2月までの間の話であったことがわかる。籠手田はロシア偵察の問題で官憲が動き始めているから気をつけるよう茂丸に情報を流した。日清戦争に前後する時期に、★茂丸もまた内田と同様、ロシアの動きに敏感になっていたのである。
 
日清戦争と日露戦争は戦った相手が違うので異なる戦争名になっているが、茂丸や内田の意識の中では、二つの戦争は連続したものだった。


●台湾鉄道の敷設

 台湾に近代的な鉄道を敷いたのは日本だった、といっても過言ではない。日本本土で鉄道が近代化の原動力だったように、日清戦争後に日本の統治下に置かれた台湾でも、台湾鉄道を敷くことで近代化が進むのである。これを植民地政策という言葉で切って捨てれば簡単であるが、現実は日本政府が多くの負担を強いられた。そして、この事業に中心的に関わった長州人に、工学博士の長谷川謹介が知られている。安政2(1855)年に厚狭郡千崎村(現山口県山陽小野田市千崎)に生まれた長谷川が明治32年4月、44歳のときに台湾鉄道・敷設部技師長となり、台湾鉄道敷設に邁進したからだ。第四代台湾総督の児玉源太郎が、同じ長州出身の長谷川に台湾鉄道敷設の一切を任せた結果である。

 しかし、その先駆けとなったのは杉山茂丸だったことを知る人は少ない。明治29年から30年にかけて茂丸と同居した月成勲は、ハ丁堀の事務所へ毎日出向き、台湾鉄道会社の出資者を求めるために茂丸が奔走していた様子を昭和10年8月1日付の『玄洋』で語っている。つまり最初は、台湾鉄道も民設で計画されていたのだ。
 
 台湾鉄道は清国統治時代に基隆から新竹までが敷設されていたが、台湾北部の一部に過ぎず、しかも線路の勾配がきつく、汽車が壊れたりで日清戦争後は使えない状態になっていたのである。そこで初代台湾総督に就任した★樺山資紀が明治28年8月に「南北縦貫鉄道の敷設」「基隆築港」「道路開墾」の三本柱を政府に建議したことで、台湾鉄道の整備がはじまる。これにより近衛篤麿をはじめとした265名の連盟で、明治29年5月に台湾鉄道株式会社創立の願い出が台湾総督府に提出された。総代には頭山満から筑豊炭田を買い取った原六郎や、財界の大物の渋沢栄一、茂丸が福岡県令に勧誘した安場保和たちが名を連ねていた。茂丸が奔走したのはこの頃で、測量隊を組織したり、同ホウ義塾を開設して以来付き合いのある広崎栄太郎(第二章参照)を横浜の米国商館に遣わして機関車や機械類の調査をさせたりした。河原アグリに聞かせた築地一丁目の待合「柏屋」の暢気倶楽部(第一章参照)を拠点に、台湾鉄道敷設の準備を進めていたのである。

 ところが突然の計画変更を迫られる。日清戦争後の不況で株式募集が困難となり、台湾鉄道株式会社が行き詰まるのだ。以後は政府が公債を発行して資金を集めたことで、明治32年11月7日に台湾総督府・鉄道部官制が発布され、官設の鉄道として工事がッ進んで行く。長谷川謹介の活躍も、そこからだった。それから9年後の明治41年11月24日に台湾縦貫鉄道開通式が行われた。このとき茂丸は、「台湾鉄道全通式ノ大典ヲ祝ス」(『台湾鉄道史 下〔未定稿〕』)という祝文を寄せている。

●台湾銀行の創設

 明治29(1896)年度の日本政府の全税収が8000万円だった当時、台湾への国庫補助として690万円もの大金が当てられた。第二次松方正義内閣の時代だが、これがもとで明治30年末に内閣は総辞職する。台湾を一億円でフランスに売却する案が出たのも、この頃だ。

 続いて誕生したのが第三次伊藤博文内閣(明治31年1月12日成立)である。しかし台湾という大赤字を抱えていることに変わりはなく、そのため大蔵大臣になり手がなかった。第二次伊藤内閣で蔵相を務めた渡辺国武も就任を断り、伊藤は仕方なく友人の井上馨に無理をいって大蔵大臣を任せることになる。

 台湾経営がうまく行かなかったのは樺山資紀、桂太郎、乃木希典という歴代台湾総督が抗日ゲリラとの戦いに明け暮れていたことにも象徴されていた。そこで第三次伊藤内閣で陸軍大臣として入閣した桂太郎は、同じ長州出身の児玉源太郎を第四代の総督に据えることにした。そのうえで岩手県出身の後藤新平を民政長官に任命し、この二人のコンビにより台湾統治を成功させてゆく。

★その児玉、後藤コンビの裏にいたのが杉山茂丸だった。後藤が民政長官として手腕を発揮しはじめた明治32年頃、茂丸は浅草観音の裏にあった吾妻座という芝居小屋に後藤と入り、芝居見物をしながら台湾経済が自立できる方策として台湾銀行の創設を口にした。そのとき後藤が興味を示したことで、茂丸は次に経済通の松方正義を訪ね、自らの石炭貿易の経験から、香港経済の発展の裏にイギリスの香港上海銀行の存在があることを訴え、台湾にも同じような銀行を作るべきと進言したのである。

 台湾銀行の設立計画が表面化したのは、それから1カ月後だった。児玉が東京にいた茂丸の所へ銀行の頭取の人選を願い出たのである。このとき茂丸は郷土の友人で財政経済学者の添田寿一を推薦した。こうして台湾銀行は明治32年に創設されたのである。なお、後年、台湾銀行が経営破綻した理由を、後藤が民政長官から南満洲鉄道総裁に転任した際、台湾銀行を大蔵省直属にして中央集権化したからだと茂丸は語っている。台湾銀行は台湾を自立させるための銀行であるべきと彼は考えていたのだ。

一方、台湾の基幹産業の育成にも茂丸は寄与していた。児玉が総督として台湾に赴任する直前、築地の瓢屋(ひさごや)に茂丸を呼び出して意見を聞いたことがあった。茂丸は、「砂糖で台湾経済のもとを立てその上にて他の行政軍備の基礎となすべき他の生産の調査を進めてみたいものと思います」と答えた。これに児玉が同意したことで、以後製糖業が台湾の経済政策の柱となるのである。その後、後藤が新渡戸稲造を台湾総督府技師として招き(明治34年)、品種や栽培方法のの改良を加えたことで台湾の製糖業は軌道に乗った。

 続く。

●『杉山茂丸伝』ー(5)

★第三章 膨張する視座 

●経済策士の資本主義

 第二次伊藤内閣が戦った日清戦争の勝利で、日本は新たな一歩を踏み出す。それは近代資本主義社会へ仲間入りする第一歩であった。ここにおいて杉山茂丸は早くも海外貿易で資本主義の現実を知っていたと息子の夢野久作は見ている。「その頃は支那に於ける欧米列強の国権拡張時代であった。したがって彼、杉山茂丸は、その上海や香港に於いて、東洋人の霊と肉を搾取しつつ欝積し、発酵し、糜乱(爛)し、毒化しつつ在る強烈な西洋文化のカクテルの中に、いわゆる白禍の害毒の最も惨烈なものを(父は)看取したに違いない。資本主義文化が体現する処の虚無思想、唯物思想の機構の中に血も涙もない無良心な、獣性丸出しの優勝劣敗哲学と功利道徳の行き止まり状態を発見したに違いない」(『近世快人伝』)
 同時にまた、この行き止まり状態を克服するのも近代資本主義に他ならないことを茂丸は香港で知るのだ。それは香港にいた中川恒次郎(領事)の紹介で知り合ったイギリス人商人・シーワンとの関係からはじまった。あるときシーワンが、日本の発展のためには工業立国になる必要があると説いたからだ。イギリスのように安い原料を輸入してそれを加工し、完成した製品を外国に高値で輸出すれば日本は豊かになると教えたのである。しかも日本には石炭が豊富にあることで火力エネルギーに恵まれ、川の流れも早く水力発電で電力エネルギーも得やすいので、工業発展の条件はそろっているというのである。ただし工業発展のための工業銀行や、農業育成のための農業銀行という具合に、それぞれの分野に専門銀行を作り、低利で金を借り易くすることが必要であると指摘した。

 茂丸が大蔵大臣の根方正義と銀行論争したのも、その頃である。松方が開墾拓殖のための勧業銀行を設立したいと考えていたのに対し、茂丸は工業銀行を優先させるべきと論争になったのだ。もっとも松方は既に総理大臣経験者で、一方の茂丸は無為無冠の青二才。そんな若造を相手に、松方は何時間でも真面目に相手をした。茂丸は当時のことを次のように回想している。「日本の経済の神様と称せられた松方正義候と、端なく経済上の意見を異にし、暇さえあれば経済上の意見を戦わして侯爵邸に出かけて行って、深夜まで話をしたものであった」(『俗戦国策』)

 経済策士の異名を持つ茂丸の経済的知識は、海外貿易の経験やシーワンからの教授、そしてこのときの松方との論戦によって培われた。もっとも茂丸の工業銀行設立案は松方を説得できず、松方は次の答えを返しただけだった。
 「アータの議論も、もっともとは思いますが、マア勧業銀行の方は皆が意気込んヂョリますから、先にやりますことに致します」


●第一回渡米と八幡製鉄所

 日清戦争後の第二次松方内閣当時の話である。香港貿易で工業銀行の必要性を痛感した杉山茂丸は帰国後に横浜に赴き、知人のアメリカ人、ジェームス・モールスを訪ねて香港でのシーワンとのやり取りを話した。このときモールスが、資本主義を学ぶならアメリカの工業資本を手本にすると良いと言ったことで、茂丸はアメリカ行きを決める。

 茂丸はまた、暢気倶楽部の一員で渡米経験のある金子堅太郎(農商務次官)にもそのことを伝えた。すると金子も茂丸のアメリカ行きに大賛成した。製鉄所の設置案は早くも明治24年、第一次松方内閣で第二回帝国議会に提出されており、日清戦争後に急速に現実味を帯びた話として進み始めていた。その結果、金子を委員長とする製鉄事業調査会が立ち上がり、明治29年には400万円を越える設立予算が通っていたのである。金子にしてみればアメリカの工業界の現状を茂丸に調査してきて貰いたかった。しかし毎度のことながら茂丸には渡米のための費用がなかった。そ
こで若い頃から世話になっている大阪の豪商、藤田伝三郎のもとに走るのである。

 藤田は3000円の渡航費を貸し、茂丸は横浜に戻って再びモールスと具体的な渡米計画を打ち合わせた。ニューヨーク、シカゴ、フィラディルフィア、バッファロー、そしてその西南に位置するダンカークの各地で鉄鋼会社や貿易会社を経営する社長たちにモールスが紹介状を書いてくれたのもこのときだ。しかも茂丸が関係していた朝鮮の京仁鉄道や神戸水道を敷設した手数料の名目で、滞在費2万円を援助してくれた。ところがこの2万円を茂丸は頭山や玄洋社社員たちに分配したのだ。外務省の友人から「通訳を連れて米国に行くのに、3千円位で行けるものか」と揶揄されたが、実際、滞在費用が足らなくなった。幸いにも藤田が3000円の小切手を追加で送付してくれたので、明治30年9月末に横浜からチャイナ号でアメリカ行きを果たせるのである。このとき同行の通訳がモールスの斡旋した清水林吉で、彼と二人でアメリカ中を走り回って必要書類を手に入れていく。
 もっとも視察旅行が順調だったわけではない。列車でニューヨークからバッファローに向かう途中、ハドソン川岸の崩落事故に遭遇しかけている。幸い一列車遅れたことで一命をとりとめたが、ワシントン在住の駐米大使の星亨から彼らの無事を外務省に報告する一幕もあった。ともあれ二人は11月3日に何ごともなく横浜に戻ることができたのである。

 帰国後、暢気倶楽部の会場だった「柏屋」に農商務大臣を辞めたばかりの榎本武揚を招き、日本にも近代的な製鉄所が必要であると茂丸は力説した。そしてアメリカで手に入れた資料を榎本の部下だった金子に渡した。このことで、八幡製鉄所が設立され、明治33年11月に第一炉(東田高炉)が完成する。時は流れ、既に第四次伊藤内閣のときである。
   続く。
 


●『杉山茂丸伝』ー(6)

★第三章 膨張する視座
 
 ●第二回渡米とJ・P・モルガン

 明治30(1897)年11月に第一回目の渡米を終えた杉山茂丸は盲腸炎にかかり、翌31年1月まで赤十字病院に入院していた。第二回目の渡米を果たすのは盲腸炎が治った3月のことである。それは当初からの目的であった工業発展のための銀行設立の調査で、交渉相手はアメリカ一の金融王ジョン・ピアポント・モルガン(J・P・モルガン)だった。彼は1893(明治26)年の金融不安を解消し、以後はアメリカ最大の鉄道グループを従えた大実業家である。そのためモルガン商会の法律顧問フレディック・ゼニング宛てに金子堅太郎が書いてくれた紹介状を携え、金子が用意した通訳の神崎直三を随行させての大がかりの旅となる。

 一方、第二次松方正義内閣で農商務省次官を務めた金子は、在任中に工業銀行の必要性を首相の松方から聞いていた。かつて茂丸との銀行論争で議論にあがったものだが、渡米経験のある金子はニュー∃―クの銀行が低利で資金を融通していることでアメリカ経済が発達した実際を知っていた。そこで明治30年春に農商務大臣の榎本武揚が辞表を出したことで一緒に下野したのを機に、茂丸を呼んで製鉄所の建設案(前述)や工業銀行の創設案を話し合っていたのだ。

 茂丸と神崎がニューヨークで泊まったのは、五番街を挟んでマジソンスクゥエアガーデンの向かいに建つフィフスアベニューホテルだった。そこに金子から連絡を受けていたゼニングが迎えに来たので、二人は馬車でモルガン商会へ赴いた。茂丸は部屋に待っていたモルガンに、日本をはじめとするアジアの現状を片言の英語で説明し、モルガン商会によるアジア開発の代理を務めたいと口にした。そのために低金利で外資を導入した銀行を立ち上げたいとヽ申し出たのである。モルガンは次の五つの条件を満たすなら融資は可能と答えた。

一、工業開発会社を設立し、債権を発行して日本政府が保証すること。
二、貸出願は一億ドルから一倍三千万ドルまで。
三、貸出年限は五〇年。
四、利息が高いと事業利益が減るので五パーセント以上の利息は取らないこと。
五、モルガン商会への支払利息は三・五パ−セントで、工業開発会社への
マージンは1.5パーセント(『俗戦国策』)。
 『其日庵叢書第一篇』の「借金譚」で自ら語るよう、茂丸の一生は借金の連続だった。そしてついにニューヨークでモルガンから一億三千万ドルの借入れを約束するに至るのだ。実に日本の近代資本主義の第一歩は、経済策士の杉山茂丸の借金によってもたらされたことになる。このとき茂丸はモルガンに覚書が欲しいと申し出た。モルガンは傍らのタイピストに契約内容をタイプ打ちを命じたが、そのメモ書きこそが明治31年、第三次伊藤内閣で伊藤博文と井上馨に提出された工業発展を目的とする銀行設立のための基礎資料となるのである。茂丸たちが二度目の渡米から帰国したのは明治31年4月頃だった。

●ニューヨーク

 ニューヨークのフィフスアベニューホテルに星一(はじめ)が訪ねてきた。
 SF作家星新一の父で、後に星製薬の社長となる人物だが、このときは教会の無料宿舎暮らしをしながらコロンビア大学で学ぶ苦学生だった。そのため日本の新聞や雑誌を英訳してアメリカの新聞社に売り込むアルバイトをしていたのである。異郷での貧乏生活を物語るように星の靴はボロボロで、それを目にした茂丸が丈夫な編み上げ靴を10足買って与えたのがこのときだった。全部履き破るまで仕事と勉強に励めという意味があった。
 星新一の『明治・父・アメリカ』によると、アメリカ留学を考えていた星一が神田の英語塾に通っているとき、同じ塾で学んでいた同世代の安田作也という人物から茂丸を紹介されたということである。その頃、茂丸は芝佐久間町の信濃屋という宿屋を下宿兼事務所に使っており、星はそこで茂丸と初対面を果たすのだ。日清戦争がはじまる前の明治26年の話で、その翌年、屋は勉学のために自費で渡米した。

 茂丸が靴10足をプレゼントしたのは、異郷で再会した星に懐かしさを感じたからだ。その励ましが通じたのか、翌明治32年に星はニューヨークで永続した最初の邦字新聞『日米週報』を発行し、更に翌々年の明治34年にブロードウエーのビルに事務所を構えて月刊英文誌『Japan & America』の創刊に漕ぎつく。

 ところで茂丸の方は、この頃、ニューヨークで何を見、何を感じたのか。
 オランダ人移民の街(*ニューアムステルダム)として始まったニューヨークは、その後イギリス人の街として拡大し、19世紀には多民族都市の様相を見せていった。特に1881(明治14)年からロシアでユダヤ人大虐殺が始まると、排斥されたユダヤ人たちが詰めかけ、欧州の貧民層や迫害者の受入先となった。この頃からニューヨークは活気に満ちはじめる。1875(明治8)年に10階建てのウェスタン・ユニオン本部が設置されたのを皮切りに、高層ビルの建設ラッシュに突入し、人と物と情報の集積地となった。大経済国への道は、亡命ユダヤ人たちの経済活動の結果であり、それを象徴する場所がニューヨークだった。

 だが茂丸の滞在と重なる1898(明治31)年にアメリカは新しい局面を迎えていた。米西戦争でスペインに勝利したことでアメリカはフィリピン諸島、グアム島、プエルトリコ島をスペインから奪い取り、更にハワイ諸島を併合する。海外膨脹主義や帝国主義の熱気がニューヨークには漲っていた。ヨーロッパの移民から始まった国が、世界帝国の第一歩を歩き始めたときだ。その何とも形容しがたい熱風の中に、茂丸は近代日本のモデルを発見したのであろう。

●日本興業銀行

 東京駅丸ノ内界隈は巨大ビルの乱立地帯だが、中でも圧巻は大理石に覆われた絢爛豪華な日本興業銀行である。明治31年初頭に杉山茂丸が第2回目の渡米をし、J・P・モルガンと交渉した結果が、この銀行になるのだが、設立までには紆余曲折があった。
 2度目の渡米から帰国した茂丸の動向は経済界の注目を集めていた。そのことは明治31年6月7日付けの『東京日日新聞』の記事によってわかる。6月4日の九州倶楽部に茂丸が招かれ、経済記者懇話今月訳合の席上で「帝国工業銀行」の設置について講演しているからだ。もとより彼が「帝国工業銀行」の設置を訴えたのは、第三次伊藤内閣において提出したモルガンとの契約に、首相の伊藤博文と大蔵大臣の井上馨が難色を示したことにある。低利で金を貸す銀行が出現すれば、国内の銀行が大打撃を受けるというのが政府側の見解だった。

 そもそも第三次伊藤内閣が成立したのは、第二次松方内閣が台湾経営に行き詰まって倒れたからだ。日本国内の経済界は危機的で、これを克服するために伊藤は挙国一致体制の政府を考えた。自由党の大隈重信と板垣退助らの入閣を求めたのものそのためだ。一方、大蔵大臣の井上は増税で経済的苦境を乗り切ろうと考え、これに対して茂丸も当初は同意したが、それは外資導入をした「帝国工業銀行」を設立するという条件との引き替えだった。ところがその後、外資導入案が日本銀行と大勢の銀行家の反対で提出できなくなったと伊藤が告げたことで茂丸が怒り、京釜鉄道の敷設で共に行動していた小美田隆義と組んで井上の増税案へ攻撃を始める。結果は5月19日から開会した第12回帝国議会で早くも表面化した。茂丸の引導による自由進歩両党の攻撃でヽ政府の増税案が満場一致で否決されたからだ。これにより6月には第三次伊藤内閣が終わる。続いて大隅と板垣を中心とした隅板内閣が立ち上がるが、両者を結びつけたのが玄洋社の平岡浩太郎だった。

 先に『東京日日新聞』で見た九州倶楽部での茂丸の講演は、そんな時期に行われたものだ。金子堅太郎が述べるところでは、「日本興業銀行」と命名したのは茂丸との話合いの結果とのことで、この頃、外資を導入した銀行案には全国の工業家が賛成し、藤田伝三郎や由利公正(明治初年の太政官札の発行者の一人)も強力な賛成者だったそうだ。もっとも隅板内閣も同年11月には幕を閉じ、続いて第二次山県内閣が誕生した。茂丸は「興業銀行設立の法案」の草案を書き、「興業銀行条例」を作って日本興業銀行の創立に向けた挑戦を第二次山県内閣でも続けるが、大蔵大臣の松方正義が反対して法案が通らず、結局、モルガンから融資を受けない従来どおりの高利貸しの銀行として、日本興業銀行の設立が決まるのであった。
     続く。


『杉山茂丸伝』ー(7)

●『杉山茂丸伝』の著者・堀雅昭氏は 〔付記−本書刊行までの経緯について〕で

 次のように書いていた。

 ・・・(全力投球で5年を費やした) 本書は2005年11月末に刊行される予定だった。ところが印刷を終え、製本直前になって茂丸の曾孫にあたる杉山満丸氏より、いったんは出版社をまじえた協議の末に合意したはずの「杉山文庫」(福岡県立図書館に満丸氏が寄託)所収の諸資料・写真類の引用・使用をすべて許可しない旨の通告を受けた。
 理由は、本稿が杉山茂丸の清濁両面を描いたからだと思われる。満丸氏は「濁」の部分のみの削除を求めたが、著者は「濁の部分もあってはじめて茂丸の実像に迫ることが出来、本稿の存在意義もある」と主張して譲らなかったため、前記の不許可となった。
 
 氏が問題視したのは、条約改正をめぐる大隈重信への爆殺未遂事件及び金玉均、李鴻章、児玉源太郎、原敬、伊藤博文、大杉栄などの暗殺事件への茂丸の関与をうかがわせる“匂い”であった。
 
 そこでやむなく、すでに刷り上がっていたものを全面廃棄し、「杉山文庫」所収の諸資材を引用・使用した部分を削除するなど修正を施し、また杉山家所蔵の写真類は著者が独自に収集したものと差し替えたうえで刊行することにした。こうした一連の作業のため刊行が大幅に遅れたことを記し、読者の皆様に心よりお詫び申し上げる次第である。
                             著者識
 ************

  曾孫・満丸氏が求めた茂丸の「濁の部分」から、児玉源太郎、原敬、伊藤博文、
 大杉栄の暗殺事件について、本書から紹介していきます。

 ●児玉源太郎「暗殺」事件


●『杉山茂丸伝』ー(8)

第四章 日露開戦への道

 ●義太夫と日露戦争

 日露戦争直前のロシアは強権的な態度に出ていた。明治33(1900)年の義和団鎮圧(北清事変)を境に、ロシアが満洲の占領を強化していたからだ。その年の7月に連合国軍(日本、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア)が天津を攻撃した際、義和団と連携した清国軍が黒龍江(アムール河)対岸のブラゴヴェシチェンスクのロシア軍弾薬集積所を爆破し、将兵30人近くを殺傷した。それを口実にロシアは中国人居住者約4500名もの大虐殺を行い、1万を越える軍隊を密かに派兵し、満洲全土を制圧した。更に明治35年1月30日に日英同盟が締結された(公示は2月12日)後も大軍を満洲に派遣し、旅順口の要塞工事を急いで水陸両面から満洲併呑の機会を狙っていた。この頃のロシアの姿勢を批判したのは徳富蘇峰の『勝利者の悲哀』だけでなく、後に社会主義者を自称する石川啄木でさえそうだった。啄木がロシアとの開戦を歓喜したことは明治37年2月11日の日記で知られている。

 既に見たように、日露戦争前の日本の外交には大きく★二つの流れがあった。日英同盟のもとでロシアと戦おうという山県有朋、桂太郎、青木周蔵、小村寿太郎、加藤高明たちの一派と、韓満交換論を支持してロシアと交渉しようとする伊藤博文や井上馨たちである。そして前者の主戦論者たちの裏にいたのが杉山茂丸だった。

 この頃の茂丸は、向島の其日庵(玄機庵)で桂や児玉たちと密談ばかりしていた。戦争を戦い抜くための秘密の話し合いで、頻繁に彼らを招いて開催していたのが義太夫会だった。この時期に茂丸が王催した義太夫会には皆がよく悩まされたと陸軍中将の堀内文次郎は語っている。柏屋、花本、酔仙亭など、日本がロシアと闘っている最中に、茂丸はあちこちで義太夫会を催していた。

 東京だけでなく、茂丸は大阪の御霊文楽座にも頻繁に出入りしていた。そしてまた、義太夫会に集まったのは堀内だけではなかった。桂太郎や児玉源太郎、それに開戦直前にアメリカの支援を得るため渡米した金子堅太郎たちも、皆そうである。茂丸は義太夫の本質について『義太夫論』で次の説明をしている。「大和魂なるものは、己れの信念及び恥辱の為に遺憾なく死を実行するものにして、これを薫陶育成したるものは義太夫節という音曲の力最もその多きにるを断言し得べし」
 
 浄瑠璃の開祖である近松門左衛門の「曽根崎心中」が心中事件を題材にしていることを例に、茂丸は日本の文楽の基礎が死であったと述べる。そして「容易く死するの教育」を行うのが義太夫節に他ならないという。つまり此岸と彼岸を結ぶ死の哲学が茂丸の義太夫だった。日露戦争開戦当日に其日庵で吟じたのが「一谷搬軍記」だったと『浄瑠璃素人講釈』で書いているが、彼の並外れた会話術も、この義太夫節に帰着されるものである。更にまた戦争指導までも、それを通じて行っていたのだ。
 
 *『浄瑠璃素人講釈』( 杉山茂丸/内山美樹子)は 2004年 10月 岩波文庫で刊行された上・下本がある。 

●最初の著書『帝国移民策新書』

 日露戦争勃発の前年である明治36(1903)年に杉山茂丸は最初の著作である『帝国移民策新書』を発行した。意見書というべき形式の和綴じの冊子で、親しい政治家や営僚たちに配ったと思われる。これは大陸政策の源流といわれた茂丸の考えを知る上で貴重な資料だ。というのは植民地経営ではなく、移民を民間事業として行うことを主張しているからだ。しかも、「無用を変じて有用となし、低廉の労力をもって最大の利益を得ること」という具合に日本国内の経済発展のための移民の奨励で、それはかつて井上馨が主張した考えとよく似ている。

 井上の移民思想は彼の出身地である山口県において明治18年にハワイ官約(?)移民という形で成就していたが、明治26年のハワイ革命と続く同31年のアメリカによるハワイ併合により、民間会社が周旋する移民へ姿を変えた。その際、旧自由党系の星亨は、広島県で最大規模の海外渡航株式会社移民会社)に子分格の菅原伝、日向輝武、渡辺勘十郎らを送り込むほど、ハワイ移民の実質的支配者となった。茂丸はその関係から移民の必要性を悟り、『帝国移民策新書』を書いたのであろう。明治31年と翌32年のハワイ出稼ぎ移民からの送金の三分の一が貯蓄され、広島県で15万円に達しているという具体例を示していることで、それを知ることができる。

 しかし移民思想の嚆矢は長州藩閥の井上馨というより、明治4年の廃藩置県以来、家郷を失った没落土族たちの郷土再取得という意識において西郷隆盛の征韓論に、より深く重なる。『其日庵叢書第一篇』で茂丸が述べる、「庵主が生涯中に一番愉快に思うこと、いわゆる嗜好と云うものは日本の領土の広くなることと、未開の地を開拓すること」という意識である。あるいは夢野久作が『近世快人伝』で述べた、「祖先伝来の一党を提げて西郷さんのお伴をして、此の不愉快な日本を離れて士族の王国を作りに行かねばならぬ」という怨嵯に満ちた国家膨脹主義だ。アメリカ帰りの社会主義者・片山潜でさえ、明治34年に『渡米案内』を書いて海外雄飛を煽り、茂丸もまた同時期に三度目と四度目のニューヨーク行きを果たしていた(前述)ように、多くの日本人が海外に渡りはじめた時期だった。実際、日清戦争で手に入れた台湾を開発するため、桂太郎は台湾協会学校(拓殖大学の前身)を明治33年に立ち上げていたし、茂丸自身も児玉源太郎や後藤新平を通じて台湾の近代化を指導し、そのための移民の重要性を口にしていた。したがって日露戦争の直前に改めて『帝国移民策新書』を刊行したのも、日清戦争で台湾が新しい郷土になったのと同様、日露戦争の勝利による満洲の獲得と、それにともなう経済圏の更なる拡大を予測した移民の奨励だったのである。

 ●ロシア革命とユダヤ人

 大正10(1921)年に杉山茂丸の著した『明石大将伝』には、同郷の友人である陸軍大佐の明石元二郎が日露戦争時にストックホルムを中心に対露秘密工作を行った詳細が記されている。それによると田中義一の諜報活動を受け継ぐ形で明治35年8月15日にロシア勤務を命じられて以後、明石は情報収集のためにアナーキストや社会主義者たちに接近したという。そして茂丸もこの時期、明石と連絡を取り合っていた。

 明石は開戦直後の明治37年2月27日にストックホルム入りし、新聞記者として日本に滞在した経験を持つ★シーリヤスと、フィンランド憲政党首領のカストレン宅を訪ねた。驚いたことにカストレンの部屋の正面には、ロシア皇帝の署名入りの追放状と明治天皇の御真影が飾られていた。第一次ロシア革命の中心的役割を果たす彼らは、日本を頼りにしていたのである。そこで明石は彼らと手を組み、ロシア兵の輸送用鉄道を破壊するなどの秘密工作を企てる。このような活動に使われた諜報費は70万円を越えたが、もちろん茂丸を通じて筑豊炭田の売却資金が流れたことも容易に想像がつく(第二章参照)。

 一方、もう一つの資金源がユダヤ財閥だった。ユダヤ人たちは帝政ロシアに迫害され続けていたことで革命の主体になった。この頃、ロシアにいたユダヤ人が日本に親近感を持っていたのは、石光真清が旅順停車場にいた明治37年1月に「しっかりやってくれ」と励まされた言葉でもわかる(『曠野の花』)。あるいはユダヤ人のヤコブ・シフが高橋是清に日露戦争資金を貸した話でも、日露戦争の裏に日本とユダヤの密約があった事実が知られている。

 明石が革命工作を始めて少し経った明治37年5月27日、福岡の玄洋社が満洲義軍を門司から送り出した。当時の日本軍の兵力は二、三〇万で、対するロシア軍は百数十万の兵力。ロシア軍は敷において圧倒的に日本軍に勝っていたのである。にもかかわらず日本が勝てた理由は、正規軍による戦いに加え、革命援助と満洲義軍のゲリラ戦による結果だった。なお、日露戦争当時にユダヤ人の母を持つレーニンが日本軍に賛美のエールを送っていたのも、明石工作の一つの表れだった。後に茂丸が、「庵主は好んで社会主義者と交わる。彼らは決して非愛国者でもなければ、また乱暴過激な徒でもない」と『青年訓』で口にしたのも、その頃からの流れを語ったものだろう。あるいは夢野久作が大正11年1月にレーニンが亡くなった際、「レーニン死す/兵士が流す熱涙が水柱になった/素晴らしいレーニン」という詩を詠んだのも、父親たちが戦った日露戦争を助けた協力者への追悼と読み替えることができる。そこから見えてくるのは、日本が独立国として生き残るためには常識的な枠組を飛び越えていくという茂丸たちのマキアヴェリズムである。
   続く。

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