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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その14
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 13 日 15:38:23: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その14

●『杉山茂丸伝』ー(9)

●機密情報の漏洩

 日露戦争で満洲の奉天が陥落した頃、つまり明治38(1905)年3月のことであるが、第一回目の渡米時(明治30年)のスポンサーになって以来交友を深めていたモールスが、ニューヨークタイムスの秘密通信員を名乗るナップという人物を連れて杉山茂丸のところにやって来た。最近会ったオランダ人とドイツ人から日本軍の機密情報がドイツに流れているとナップが聞いたというのだ。

 驚いた茂丸は、あまりのショックから鼻血を流しながら聞いたばかりの談話を満洲軍・総参謀長の児玉源太郎に向けて暗号電文で送った。軍事情報が洩れているので、講和に持ち込むべきである、と。更に真夜中ではあったが山県有朋のところへ走ると、山県も別のルートで軍事機密の漏洩をつかんでいた。
「ネー杉山、この種の事を、もらすような奴が、日本の軍人中に、出て来るような事があってはもういくさは止めじゃぞ」
 口にすると山県は桂太郎に連絡を入れた。翌日、茂丸は桂邸を訪ね、ナツプから間いた一部始終を伝えると、早く講和を行うべきであると忠告した。「どこに講和を申し込むのじゃ」と桂が聞くので、「米国に申し込むのでございます」と答えると、「ドウして米国に申し込むのじゃ」と桂は首をかしげた。茂丸は友人の金子堅太郎を通せば、アメリカが有利な形で仲介役を果たしてくれると考えていた。金子は7年間の留学でハーバード大学を卒業し、第26代大統鎖のセオドア・ルーズベルトと大学の同窓になっていたからだ。しかも開戦当時、アメリカがロシア寄りに傾いた時、金子がワシントンで旧友ルーズベルトと会ったことでアメリカが日本に味方する発言を早くも引き出していた。

 このような状況においても日本側はどうにか勝ち続け、5月27、8日の日本海海戦の勝利でいよいよ講和に向けて動き出す。結果、茂丸のいうとおりルーズベルト大統領が日露両国間の講和で必要なら自分が仲介役になると日本政府に申し出だのが6月10日だった。そして7月3日に日本側の全権委員として小村寿太郎(外務大臣)と高平小五郎(駐米公使)が任命され、ロシア側はウイッテ(枢密顧問官)とローゼン(駐米大使)が決まる。

 一方、山県が奉天の視察のために東京を発ったのが7月14日であるが、このとき山県の副官だった堀内文次郎が茂丸と初対面を果たした。

 その出会いも尋常な形では行われなかった。堀内に茂見を紹介したのは山県だが、茂見が途中で船に乗り込んでくるのでよろしく頼むと手紙で伝えていたのである。
 そして実際、奉天に向かう山県らの乗った河内丸が門司沖に差しかかったとき、追いかけてきた水上艇から茂丸が飛び乗って来たという。茂丸は山県と連絡を取り合い、戦後処理のために一緒に奉天へ向かうことにしていたのである。

●児玉源太郎と南満洲鉄道

河内丸に乗り込んで大連に到着した茂丸は、明治38年7月21日に大連から夜汽車に乗り、翌2日の午後に奉天の停車場に到着した。その後は満洲軍総参謀長の児玉源太郎の部屋に閉じこもり、児玉の副官だった田中義一を交えて南満洲鉄道株式会社の経営案を練る。日露戦争の勝利により帝政ロシアが敷設した東清鉄道(ハルビンー旅順間)と支線及び付随利権を日本は手に入れるが、その鉄道を日本側が経営することを前提として南満洲鉄道(以下、満鉄と略す)と命名したのである。今、門司のレトロ地区に赤レンガ壁の外観を誇る「国際友好記念図書館」が建っているが、これは大連にあった東清鉄道のオフィスを平成6年に北九州市が復元して建てたものである。

 堀内文次郎によれば、関東州に軍政を敷いて、その地を租借して日本的な自治をしたのも、更には満鉄経営の計画を立てたのも、すべて茂丸だったということである。そのこと1つとっても茂丸の功績は計り知れない。

 児玉や後藤新平を通じて台湾統治に成功していたので、満洲も同じテキストで統治できるという確信を茂丸は持っていた。ところが満鉄経営に暗い影を落とす問題が起きた。軍事的な危険を避けるため、井上馨と渋沢栄一がユダヤ系アメリカ人資本家のハリマンに満鉄の売却を計画したのであるが、これに対して小村寿太郎が猛反対したのだ。山座円次郎がポーツマスから帰国して小村に鉄道売却の動きを伝えたところ、激怒して待ったをかけたのである。もとより日露戦争はユダヤ人の助けで成功した戦争だったにもかかわらず、その恩を忘れてハリマンを疎外したことで、日米関係に対決の火種を残すことになる。

 小村の進言により、明治39年5月22日の閣議で満鉄を日本側が独立経営をする会社組織にすることが決まった。イギリスの東インド会社をモデルにした行政権をはじめとした権限を与えられた国策会社としたのである。茂丸と児玉は台湾にいた後藤新平を満鉄総裁に推したが、後藤は即答を避けた。しかし7月に児玉が急死したことで後藤が満鉄総裁を引き受けることになった。

 一方、前述のようにハリマンを排除したことでアメリカ国内の反日感情が高まり、対日戦争計画である「オレンジ・プラン」が輪郭を露にし、それが後に日本側が「大東亜戦争」と呼ぶ日米戦争を引き起こす。昭和になって松岡洋右が口にした、「平面的の欧州文明に対立して居る立体的の東洋文明」としての満洲は、早くも満鉄経営のスタート時に芽生えていたのだ。
     続く。


●『杉山茂丸伝』ー(11)

●次に進む前に、この『杉山茂丸伝』に対する批評を紹介します。

 先ず、「其日庵資料館」 より。(坂上氏)
 http://www1.kcn.ne.jp/~orio/sonohi-an/sonohian_idx.html

 題して、★「虚構と妄言の偽伝 −「杉山茂丸伝」批評−」。
 http://www1.kcn.ne.jp/~orio/sonohi-an/shohyo002.html

 ***********

 本稿で批評する堀雅昭著「杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》」は、杉山茂丸の偽伝である。虚構と妄言、そして誤謬に満ちみちている。ある側面において、実によく調べて書かれていることは否定しない。いくつもの事項で、筆者は本書から杉山茂丸の事蹟に関する新しい知識を得たことを認める。しかしそれ以上に、妄言と呼ばざるを得ないほど根拠なき憶測や邪推が展開されることに加え、随所に存在するさまざまな誤謬は、本書を杉山茂丸の伝記と呼ぶことを肯んじ得ないものにしている。その意味で、これは偽伝と呼ぶしかない。
 ・本篇について評する前に、本書のあとがきに付された「付記」に言及しておく。ここで著者は、本書が版元の予告よりも大幅に遅延して出版された経緯を説明し、読者に対して陳謝する姿勢を示しているのだが、この文章からは読者への陳謝にことよせて杉山満丸氏を非難する意思が芬々と匂ってくる。杉山氏が著者への協力を拒んだのは、この著者が本書の中で弄したレトリック、即ち著者自身がいうところの「匂い」を是とできなかったからであろうが、その杉山氏の行動を非難するために同じレトリックを用いるところに、筆者は何ともいえぬ不快感を覚える。この文章で杉山氏への非難を「匂わされた」不特定の読者に、杉山氏は自己の弁護を行うことができない。武器を持たない者が戦闘機で空から攻撃されたようなものだ。筆者には、どのような事情があったとしても、こういう遣り口が正当とは思えないのである。なお、本篇の批評においても、後ほどこれと同旨のことを述べようと思う。
もうひとつ、この「付記」に関して付け加えておく。著者は杉山氏からの協力拒否を受け、福岡県立図書館杉山文庫収蔵資料からの引用などを削除したと記しているが、筆者の見るところ、それは正確な記述ではない。相撲界の入間川親方や、陸軍の真崎甚三郎大将の回想、ラス・ビハリ・ボースと茂丸との会見の様子などは、杉山文庫に収蔵された談話速記などを参照しなければ書けないものだ。釜山港埋築に関する記述は「釜山日報」を参照しているが、この釜山日報の記事は原稿用紙に書写されたものが杉山文庫に所蔵されているから、或いはこちらを参照したものかも知れない。ほかにも杉山文庫所蔵資料を参照したと考えられる記述は随所にある。著者が「杉山文庫所収の諸資料を引用・使用した部分を削除するなど修正を施し」たというのが、具体的にどのような行為を指したものであるかが不明であるので、こうした事実のみここに記しておく。

筆者はかつて、杉山茂丸を伊藤博文暗殺の黒幕に擬した「暗殺・伊藤博文」(上垣外憲一・文春新書)(★註この「文春新書」は「ちくま新書」の誤り。2000年10月20日刊)と「伊藤博文暗殺事件」(大野芳・新潮社)への批判を試みたことがある。その当否はともかく、両著に対する筆者の批判の中心は、それぞれの著者が杉山茂丸という人物について、いかほどの研究をして著書を上梓したのかという部分にあった。しかし本書は、まさに杉山茂丸について、著者自身の言を借りれば「五年」もの間「全力投球」で調査研究してきたものの精華である。それだけに筆者は、このような著述が生み出されたことが不思議でならないのである。
  ・・・中略・・・

 筆者は、これほどに虚構と誤謬に満ちた著作が出版され、杉山茂丸に関心を持つ若い読者に読まれるのかと思うと、慄然たる想いを禁じ得ない。筆者は幸いにして、本書の正当な価値をいくばくか読み解く知識と資料を持ち合わせていたが、茂丸に関心を持ちながら関係書籍の高騰する古書価に手が出ず、本書の刊行で初めて茂丸の生涯を俯瞰しようとする若者が、多くの誤った知識を植え付けられるのだとしたら、本来文化的営みであるはずの出版という事業が、実に罪作りな営みに変じてしまうのである。誤謬を見抜けないままにこの著作を出版した弦書房は、もと葦書房のスタッフによって興された出版社であると聞いたが、あの良質な図書を数多く生み出した出版社にゆかりの版元から、このような出版物が登場してしまったというのも、悲しい限りである。  (2006.02.05)

 *************

 いまひとつの批評を、

 「谷底ライオン」
 http://tanizoko2.hp.infoseek.co.jp/sugiyama_sigemaru.html より。

 (51)杉山茂丸<アジア連邦の夢> 堀雅昭著 弦書房 

 「暗殺・伊藤博文」の系譜を引く茂丸暗殺黒幕説ものの一つ。伊藤だけでなく、児玉源太郎、原敬の死にも茂丸が関与したとする書。伊藤だけでも大概だが、原、児玉にいたっては、まさに開いた口がふさがらない。ゲリマンダーもここまで来ると怒る気すら無くなる。自分もあまり暇では無いので、ばかばかしくって読み終えるまでが大変辛かった。「暗殺〜」は著者が茂丸の事を知らないだけ、まだましといえるが、本著は著者がこれだけ茂丸の事を調べるのに費やした労力の大きさがわかる分だけ、「なぜ、ここまで調べているにも関わらず、この内容なのか・・」と気落ちせずには居られない。“アジア連邦の夢”という副題も取って付けたようで空々しく感じる。あと、あとがき。あんなことを書く著者も著者だが、そのまま載せる編集者にいたっては職業的倫理観を疑問視せざるを得ない。そら〜、怒るよ、普通。まぁ、お陰でこの本に杉山家は全く納得していない事が明記されたと見る事も出来るが。正直、現時点で一番手に入りやすい茂丸本がこの著だという事は大変不幸なことと思う。

 ****************  
 
 いずれも「為にする批評」でないのは明らかで、是非ご一読をお薦めします。

 ただし、論旨は「瓜二つ」です。

 ★左下のリンク先の「其日庵資料館」・「谷底ライオン」をクリックしてどうぞ。
 

 <補記>

  「谷底のライオン」(ブログ)の書評によれば、次のようにあるので、「補記」としておきます。
  *******
 
 (59)『其日庵の世界(其日庵叢書合本)』 杉山茂丸著 書肆心水 

  なんとまぁ、其日庵叢書まで出しちゃうとは、すげえよね。ここまでくると知る人ぞ知るという著作ではあるが、茂丸の思想を知る上では大変重要。“其日庵叢書の第二編 青年訓“に至ってはあっしも読んだこと無かった位です。皆が待望していた杉山茂丸の全貌に迫る長文解説「法螺丸の虚実」は、我等が“夢野久作をめぐる人々“の坂上さんによる力作。茂丸に興味のある人なら、解説だけでも買いです。
   


●『杉山茂丸伝』ー(12)

 『杉山茂丸伝』に戻って続けます。
 
 ●韓国統監になった伊藤博文

 日露戦争に勝った日本は、ポーツマス条約に基き、第二次日韓協約を締結した。明治38(1905)年11月のことである。これにより伊藤博文が韓国統監に任じられ、以後、ハルビンで暗殺される少し前の明治42年6月まで約3年半、その職を担った。
 しかし赴任に際して、伊藤は治安の悪い半島での生活を憂慮していた。そこで浪人壮士に顔の利く杉山茂丸に相談を持ちかけたのである。この部分を「日韓合併思ひ出話」(『近世快人伝』)から読みとくと、茂丸は、「それには持ってこいの人物がおります」といって内田良平を伊藤に紹介したという。そして一方の内田には、伊藤が朝鮮に赴任するに際して同行して不平分子を抑えてくれと伝えた。もちろんそれだけで内田が納得するはずがないので、用心棒は表向きで、日頃の憂さ晴らしを朝鮮でしてくれば良いと耳打ちした。やがて伊藤の使いの栗野慎一郎(日露戦争当時の駐露公使)が内田のところに来て、随行の意志を確かめた末に内田の渡韓が決まる。明治39年2月21日に内田は東京を発ち、大阪で伊藤一行に加わり、宮島参詣と呉鎮守府の視察を終えると下関経由で釜山に渡り、3月2日に統監府のある漢城(ソウル)に着いた。

 内田がそこで目にしたのは、統監府の設置により反日運動が起きていた現実だった。そんな矢先、東学党から発展した一進会が内田に助けを求めてきた。投獄中の宋秉峻を助けてくれというのだ。宋の投獄の理由はこうだった。

 かつて金玉均を暗殺した李逸植(第二章参照)が日露戦争においてロシアに協力したものの、ロシアが日本に敗れてからは立場が急落し、政敵の宋秉峻に救済を求めたのだ。ところが意外にも宋が快く承諾したことで逆に宋自身が投獄の憂き目にあう。そこで一進会の運営に困った李容九が、内田に助けを求めてきたのだ。このとき李は、樽井藤吉の『大東合邦論』の教えに従い、一進会を通じて日韓合邦(日韓併合)に努力することを内田と約束した。

 内田は宋を助け出し、以後は一進会を指導しながら日韓合邦(日韓併合)を進めてゆく。それは大きく三段階に分かれていた。第一が日露戦争中の明治37年8月に締結された第一次日韓協約。第二が日露戦後の明治38年11月に締結され、伊藤が統監に就任することになる第二次日韓協約。そして第三が明治40年7月に締結された第三次日韓協約。

 この第三次日韓協約の直前である明治40年3月2日に釜山から戻った茂丸が、伊藤博文と芳川顕正と後藤新平を東京築地の新喜楽に招いて朝鮮問題に関する話合いを持った。釜山港の第二期埋立工事が明治39年10月から始まっていたこともあり(第三章参照)、朝鮮と日本の間を頻繁に行き来していたときである。その後も茂丸は伊藤博文や宋秉峻、寺内正毅、山県有朋、桂太郎の間を走り回り、朝鮮にいた内田とは電報や書簡で連絡を取り合いながら日韓合邦(日韓併合)の準備を進めていく。

 ●未完のアジア連邦

 陸軍が長州閥(岩国出身)の長谷川好道を通じて機密費10万円を一進会に下賜金として与えたのは明治40(1907)年5月15日のことである(『硬石五拾年譜』)。日露戦争へ協力した礼であったが、これにより資金難に苦しんでいた一進会は息を吹き返し、日韓合邦(日韓併合)は再び加速した。杉山茂丸は内田良平と情報交換をしながら日本側の山県有朋や桂太郎と、一進会側の宋秉峻や李容九を結びつける。これらの準備を進めながら11月2日に朝鮮の京城(*註)へ赴くと、日韓併合に向けて本腰を入れるよう伊藤博文に訴えた(『建白』)。

 しかしながら茂丸や内田が当初理想としていたのは日韓併合ではなく、日本と韓国が対等に合併する「日韓合邦」だった。これについて私は『李容九小伝』の著者である西尾陽太郎さん(明治45年生まれ)に質問したことがある。すると次の答えが戻ってきた。
 「当時、アメリカは合衆国、イギリスやドイツは連邦です。だから一進会の李容九も杉山茂丸も、日本と韓国を一緒にしてアメリカやヨーロッパのような集合国家にしたいと考えていたのです。その意味では非常にインターナショナルな視点で日韓合邦を考えていたわけです。日本も弱い、韓国も弱い、その弱い国同志が一緒になってドイツみたいになろうという、つまり小さな国同士が集まって西洋に対決できる強い国になるうという〈アジア連邦〉の構想ですよ」
 「その〈アジア連邦〉に中国も入れるつもりだったのでしょうか。辛亥革命では茂丸も玄洋社の連中も、かなり本気で援助していたようですが」
 「中国は大きいので、すぐには無理でしょうが、日本と韓国の合邦がうまくいった暁には、中国も加わってもらおうと考えていたはずです。李容九なども満洲への移住を考えていたわけですからね。彼らが最終目標にした〈アジア連邦〉というのは、まあ、アジア版のアメリカ合衆国みたいなものでしよう」

 実際、一進会のメンバーを一旦、間島(現在の中国吉林省東部で北朝鮮との国境近く)に移住させ、日韓両国が「合邦」した際、彼らを満洲へ移す計画があった。このため内たは桂首相に満洲移住費の150万円の下賜を懇願した程である。そして満洲に移った一進会を足掛かりに「日満連邦」を組織し、それを更に拡大した〈アジア連邦〉を作る構想があった(『日韓合邦秘史』)。にもかかわらず実際は韓国が日本に併合されて終わることで、李容九は失意の中で病に伏せる。

 ところで伊藤博文の刀剣趣味は有名であるが、伊藤が茂丸の影響を受けて愛刀家になったのも同じ時期だった。きっかけは伊藤が第三次日韓協約(明治40年7月)を締結して帰国したとき、茂丸が大磯の伊藤邸に出向いたときであった。このとき伊藤は自らの所蔵する幾つかの刀剣を茂丸に鑑定してもらい、それ以来、刀剣に興ずるようになるのである。

 合邦か併合かで揺れているとき、茂丸はその両者の間を走り回っていたのである。
     
*注 明治43年に朝鮮が日本に併合されるまで京城(ソウル)は李朝の王都として漢城の地名であったが、茂丸たちはそれ以前から京城の地名を使っていた(第三章「京釜鉄道の敷設」参照)。
    続く。


●『杉山茂丸伝』ー(13)


第五章 アジア連邦の夢

 ●伊藤博文の韓国統監辞任
 
 伊藤博文が韓国統監を辞し、その地位を曽根荒肋に譲るのが明治42(1909)年6月である。辞任の発端は、伊藤が韓国駐在の各国総領事を官邸に招いた際、日韓併合(*注)の意志がないことを口にしたからだ。この発言に驚いた杉山茂丸は新調の着物と袴を身に付け、短刀を懐に忍ばせて京城の統監官邸に飛び込むと伊藤に詰め寄った。
 「東京でお約束を致しましたとおり、まず統監制をこしらえ、統監となって韓国にいどみ、内外政治権の全部を総覧し、そのうえにて日露の戦果に伴う、〈日本の永久把握すべき大権を収得する〉という日韓併合の方針はお止めになったのでございますか」
 伊藤は間接統治により、時間をかけて朝鮮をまとめようと考えていたのである。しかし性急な茂丸は納得せず、「ご辞職をなされませ」と続けた。伊藤が、「辞職をしなかつたら君はドウする」と切り返すと、茂丸は懐から短刀を取り出してテーブルに置き、「御自殺を願います・・私もこのままお伴を致します」(『俗戦国策』)と迫った。
 
茂丸は伊藤の顔を見据えると、荒尾精と日清貿易研究所の卒業生たちが日清戦争で犠牲になった話を続け、ここに及んで日韓併合を推進しなければ彼らの死が無駄になると毒づいた。更にまた、二度目の渡米で日本興業銀行の設立のためにJ・P・モルガンから外資導入の約束を取りつけて帰国したにもかかわらず、井上馨の増税案だけ通して外資案を握り潰した恨み(第三章)を述べ、ことあるごとに伊藤を殺そうと思っていたことを告白した。

 思い起こせば明治17年に再上京したのも伊藤暗殺のためだったし、日清戦争後の下関講和条約に際しても遼東半島割譲を巡って伊藤とは意見が対立した。その後、日露戦争に向けて政友会設立の手助けをしたが、肝心の日露戦争を巡っては伊藤と意見が合わず、伊藤の不在を作って桂と組んで日英同盟を締結させ、伊藤を政治的死に追いやった経緯がある。今度という今度は、目の前で死んでくれというのだ。これに対して伊藤は、「今ここで君と共に死ぬと、君は刺客となり、僕は君に暗殺された事になるぜ」と制したものの、暫く考えた後でテーブルの上にあったブランデーをコップで飲み干し、「杉山君、誠に以て親切の御忠告、僕は何の躊躇もなく君の説に従うて辞職する事にする」と答えたのだった。こうして伊藤の辞任は決まり、後任として同じく長州出身の曽根が統監に座る。しかし曽根もまた伊藤の意志を継ぎ、日韓併合には反対の立場をとった。
 
伊藤がハルビンで暗殺されるのは統監辞任から僅か4ヵ月後の10月26日のことだ。この事件を機に日緯併合は急加速した。同時に狙撃犯として逮捕されたのは韓国人の安重根だった。しかし伊藤暗殺事件は多くの謎を残した。
 *注 この頃は茂丸も現実路線として日韓併合として動いていたので、以後、この呼び方に統一する。
 
●安重根発射の弾丸
  
 明治43(1910)年10月26日に起きた伊藤博文暗殺事件の最大の謎が、誰が狙撃したかという真犯人についてである。逮捕された狙撃犯の安重根がハルビン駅のプラットホームで整列したロシア兵の間からブローニング銃を水平に引いたのだが、弾はなぜか上方から下方に向けて貫通していた。当時の伊藤の着衣は山口県立山口博物館に保管されており、残された弾丸跡から、その事実を確認できる。

 一方、発射された実物の弾は衆議院憲政記念館で目にした。平成13年春の「伊藤博文と大日本帝国憲法特別展」で展示されていたもので、直径8〜9ミリ、長さが1.5センチ程の鉛色の小さな弾である。それは伊藤本人を直撃したものではなかった(随行の田中清次郎から摘出された)にせよ、確かに「安重根発射の弾丸」と明記されていた。

 伊藤の暗殺は日英同盟締結による第一の死(政治的死)に続く第二の死(肉体的死)という見方が当初からあった。いうまでもなく日英同盟は杉山茂丸が桂太郎と画策したものだ(第四章参照)。そして実際、山県邸で伊藤の死を知らされた茂丸は、「それではやはり伊藤公はとうとうやられましたか」と口を滑らせたことで、「やはりとは何じゃ。とうとうとは何ということか。それでは君は知っておられたのか」と山県から叱責された場面があった(『山県元帥』)。
 不思議なことに、この事件で損をした人は1人もいない。韓国人に暗殺された伊藤は日本側の英雄となり、日韓併合に弾みがついた。狙撃犯の安重根も韓国の愛国者として祭られた。更に伊藤が死んだことで、以後、山県は元老として君臨することにもなった。
 
ここで狙撃犯の安重根であるが、彼は明治12年に黄海道海州府で朝鮮の貴族階級である両班の家に生まれ、東学党の乱に際して彼らに抵抗して戦い、そのことでフランス人の教会に落ち延び、キリスト教に帰依した人物だった。にもかかわらず伊藤の狙撃後に獄中で書いた「東洋平和論」(未刊)は、東アジアを侵す勢力は欧米列強の白人に他ならず、アジアは連携してこれと戦うべきであるという、かねてより茂丸たちの提唱していた大東合邦論(後に日韓併合を用意する)に近い理想を待っていたことがわかっている。もしかすると安と茂丸たちとは、どこかで繋がっていたのかもしれない〔*注〕。そういえば伊藤の死も、金玉均が暗殺されたことで日清戦争へ突人した状況(第二章参照)と似ていた。金が日清戦争の人柱になったように、伊藤が日韓併合の人柱になったようにも見える。実際、そのような見方で安重根以外に実行犯がいたとして、茂丸を中心とした玄洋社人脈(内田良平、明石元二郎、山座円次郎たち)と軍との画策で伊藤が暗殺されたと推論したのが上垣外憲一の『暗殺・伊藤博文』だった。それと似た視点で大野芳も『伊藤博文暗殺事件』を書いている。なお、昭和9年に茂丸は『涙を垂れて伊藤公の霊に捧ぐ』という小冊子を出している。表題とは裏腹に伊藤が死ぬのを待ち詫びていたかのような内容は非常に興味深い。
 *注 日帝時代に日本が建立した朝鮮神宮の境内の一部であった南山中腹(ソウル市内)に、安重根を記念した「安義士記念館」が建っている。館の前庭に安重根の書を刻んだ大きな石碑がいくつも据えられ、入口に高さ4.4メートルの安の銅像がある。館内には安の家系略図や写真パネル、獄中遺墨などが展示されているが、興味深いのは父である安泰勲が金玉均や朴泳孝らの甲申事変に連座して官職を追われていたことだ。また、安の左手の指は茂丸と同じように切断されていたが、これは1909(明治42)年に国権回復のために命をかける同志11名と「断指血盟」を行った結果だった。


●『杉山茂丸伝』ー(14)

第六章 第二維新準備

 ●暗殺された原敬
 
 東京駅の改札近くの壁面に「原首相遭難現場」と記されたパネルがあり、足もとに一つだけ濃い色のタイルがはめ込まれている。そこが大正10(1921)年11月4日に原敬が刺殺された場所だった。

 原は京都で開かれる政友会京都支部大会に出発のため改札口に向かう途中で刃渡り5寸の短刀で襲われた。その場に倒れた原は駅長室に運ばれたが既に絶命。犯人は19歳の大塚駅の転轍手である中岡艮一(こんいち)だった。
 
原は藩閥に属さない日本初の政党政治家で、原の担ぎ出しに奔走した杉山茂丸は、当然ながら原内閣の成立を喜んでいた。そんな茂丸が、3年後の原の暗殺事件にも一枚かんでいたとすれば、これほど不思議な話もない。実は、茂丸と原の確執は早くも原内閣の成立直後からはじまっていた。原は政党主義者で、自分は天皇主義者だったために意見が合わず、遂に自分の意見は原に採用されることはなかったと茂丸は『俗戦国策』で語っている。茂丸は暗殺事件の前日にも原に面会を求めたが冷たく断られていた。その日、博多湾築港を視察するために田中義一と八代六郎とともに九州へ向かう予定になっていたので、「ここで少し心意の方針を改めねば、直ちに打殺されてしまうぞ」と言い残して、茂丸は田中や八代たちと汽車で九州に旅立った。原の暗殺を知らせる訃報が届いたのは、翌日、博多の常盤館で3人で酒を飲んでいたときである[*注]。事件を予見しながら博多に来たと疑われると困るから明朝には東京に戻るうと、茂丸は2人に伝えた。

 彼らは帰途の列車内で、犯人は9月28日に起きた朝日平吾による安田善次郎の刺殺事件に影響を受けた中岡艮一であることを知った。朝日が内田良平と関係があったのと同様、中岡の背後にも頭山満や内田と関係の深い五百木良三(いおぎりょうぞう)がいた。しかし茂丸は無関係を装った。中岡の原刺殺の動機は幾つかあったが、主なものは満鉄事件と尼港問題だったといわれる。前者は原の出身母体であった政友会の幹事長、森恪が経営する満洲の炭鉱を不当高値で満鉄に売りつけ、政友会の政治資金にした事件だった。両者の売買の仲立ちをしたのが原の推挙で満鉄副社長となった中西清一(前逓信次官)だったため、中岡は原への悪感を募らせたのだ。一方、後者は大正9年3月にシベリアのニコライエフスク(尼港)で出兵中の日本軍民600名以上がソ連のパルチザンによって虐殺され、このとき原が無責任な態度を見せたことについての不満であった。おそらくホルワット政権樹立を望んでいた茂丸も、後者の出来事には憤懣やるかたない思いを感じたに違いない。それにしても興味深いのは、暗殺事件の半年以上も前(大正10年2月)に、原が自らの暗殺を予見した遺書を書いていたことである。
  
*注 頭山満と同様、茂丸も酒を飲まなかったと伝えられるが、『俗戦国策』(「寺内・原・加藤」)では「三人で酒を飲んで居た」と自ら記している。また、友人の下村海南も茂丸没後に以下のような回想文を書いている。「庵主(茂丸)はいんぎんに下座からあいさつを申し上げると、汐時を見はからってノソリノソリと床の間近くへ乗り出す。
〈オイ後藤〔田中〕 一杯もらおうか〉とばかりドッコイショとエンコして、四本半になった指先をぐっとさしだす」(『東京朝日新聞』「杉山茂丸翁〔中〕」昭和10年7月28日号)

後藤は後藤新平、田中は田中義一のことであるが、これらのことから茂丸が酒を飲めなかったのではなかったことがわかる。一方、毒殺方法を知る革命家の護身術として有名なのが酒を飲まないことであった。茂丸も、その辺りの事情から人前で飲酒しなかったのかもしれない。なお、第四章「〈凱旋釜〉の石碑」で示したように、暗殺説があった児玉源太郎の死も、飲酒後の出来事であった。

 ●暗殺された原敬 了。
 
 
  ★原敬といえば茂丸よりも山県との確執が私などには印象深い。

 <参考>までに、あまりにも有名な「原敬日記」の一節を引用しておく

 明治41年  6月23日
  ・・・尚ほ本日参内し、親しく(徳大寺)侍従長と内談せしに。同人の内話によれば、山県が陛下に社会党取締の不完全なることを奏上せしに因り、陛下に於かせられてもご心配あり。何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召もありたり。
  ・・・徳大寺も山県の処置を非難する語気あり。徳大寺の如き温厚なる人の口より此の如き言を聞くは意外なりき。・・・
 ★ 山県の陰険なること今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し、この奸手段に出でたるならん。其の癖余が一日大磯に赴くとき新橋より大磯まで同車し絶えず談話をなしたるに、一言も政事談をなさず、無論社会党に言及せず、彼の性行は常に斯くの如くなり。
   
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 その他、メモ。(何れもウイキペディアより)

 山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていたが、現存する資料から山縣の在塾期間が極めて短かったことが判明しており、実際に松陰からどの程度の薫陶を受けたかは不明である。なお、松陰の文章における山縣の初出は、安政4年(1857年)9月26日付の岸御園宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことを知ることが出来る。

 その死に際しては、当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。

 皇室でも不人気だったらしく、明治天皇は山縣に「キリギリス」というあだ名をつけていた。明治天皇は、陰険な山縣よりも、明朗快活で冷静であった伊藤博文を信頼していた。また、大正天皇は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。言うまでもなく、何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。

 また山縣がもつ異常なほどの権力への執心、★勲章好きについて原敬は「あれは足軽だからだ」という一言で述べ、軽蔑の意を込めていた。

 加えて長州閥の代表格であったことから、戊辰戦争で敵対した旧幕諸藩の出身者からも評判が悪かった。明治期を通じて会津藩や南部藩出身者などを「朝敵風情が」と見下し、会津松平家出身の秩父宮勢津子妃の婚姻に反対するなど様々な妨害工作を行った。理不尽な仕打ちを受けた事による薩長閥への恨みは、負の遺産となって会津若松市民の山口県出身者へのわだかまりとして現在も残ってしまっている。

  第六章 第二維新の準備

 ●大杉栄と伊藤野枝


 佐賀県との県境近く、福岡市早良区内野の山間部に浄土真宗の西光寺がある。この寺には鐘楼の前に大杉栄と伊藤野枝の墓石が据えられていたが、二人の娘の伊藤ルイさんが人目につかない所に移し、既にルイさんも他界し、墓石がどこに移ったか不明となった。

 関東大震災は当時の新聞が伝えたように日露戦争を上回る死者を出した。それには震災直後に広まった朝鮮人暴動を煽動した咎で殺害された大杉栄と愛人の伊藤野枝まで含まれていた。アナーキストの大杉は大正12(1923)年9月16日の夜、麹町憲兵隊長の甘粕正彦大尉によって野枝と甥の橘宗一と共に殺害された。しかしそれより一週間前の9月9日に、東京から戻った久留米市議の岡本三郎が記者に対して大杉が日暮里駅で暗殺されたと語っていた。もちろん誤報だが、このエピソードは大杉暗殺の噂が事前に流れていたことを意味していた。しかも殺される直前まで、杉山茂丸と奇妙な行き来を大杉はくり返した。
 
 『大杉栄自叙伝』(「お化けを見た話」)が語るところでは、大正5年10月初旬頃に野枝が遠緑筋にあたる頭山満の所へ借金の申し込みに出向いたとき、頭山が玄洋社の金庫番の茂丸を紹介したことに二人の出会いは始まったということだ。彼女は茂丸のいる台華社に赴くが、話を聞くうちに茂丸は大杉本人に会いたくなり、大杉を呼び出す。そして参上した大杉に向かって、国家社会主義者になれば金は出してやるといった。樽井藤吉や山路愛山のようになれば良いと思っていたようだが、大杉は無視して台華社を出ると、会話中に茂丸が口にしていた後藤新平のところを訪ね、政府が自分たちを迫害するから金が無いとまくし立て、資金援助を仰いだ。大杉が要求したのは3、4、百円程で、後藤は要求をのみ、二人だけの秘密事項と釘を刺して金を出す。この金は今でいうところの機密費で、後藤からいえばアナーキストたちの地下情報を機密費で買ったことを意味した。

 一方、陸軍士官学校出身の末松太平(明治38年生まれ、2・26事件に連座入獄)は、茂丸の書生から戦後になって興味深い話を聞いたそうだ。茂丸主催の朝食会に大杉が度々顔を出し、フランス語の堪能な大杉からフランスの情報を入手し、それを茂丸が軍部の中枢に流していたというのである(「対談・右翼と左翼のあいだ」『第三文明』1977年8月号)。

 茂丸は震災直後に『黒白』をガリ版刷りで復刊した(12月号)が、その中でも甘粕の大杉殺害の行為について、誰も非難できないと遠回しに擁護している。同時にまた、「黒白評論」と題する本文では、街が破壊されたのを良いことに、新たな都市構想計画を提唱している。実際、震災から2カ月を経た11月22日に、茂丸はハワイホノルル在住のデリングハムの代理人C・F・クライと「東京湾築港契約」を結んだ。全部で10条からなる契約書で、末尾に茂丸とクライのサインが入っている正式な書類である
 大杉栄と伊藤野枝 了。 

 以上で『杉山茂丸伝』の紹介を終わります。

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