★阿修羅♪ > カルト8 > 373.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その16
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/373.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 13 日 15:52:50: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その16

●『俗戦国策』 杉山茂丸 (3)

●ー億三千万弗借款事件

 ★黄金王モルガンとの問答


 夫(それ)から予定の通り、米国貿易商会の社長「スチブン」氏の案内で各製造所を見て、庵主の頭に入るだけの視察と必要書類とを得て大抵要領を得、直ぐに加奈陀(カナダ)に入り、暫く「ヴァンクーバア」に船待をして其の地方を視察し、匆々に「インプレス・インデアン」号で帰朝し横浜に着いたのが其の年の11月の3日であったと思う、丁度横浜を出て153日目であった。

夫(それ)から金子子爵や由利子爵と相談を定め、今度は金子子爵の手紙を1本持って渡米したのは、その翌31年の3月1日であったと思う。          
金子子爵の手紙は、「ゼー・ピー・モウガン」商会の法律顧問たる「フレデリック・ゼニング」氏に宛たものであった。その文面は、

 「此の手紙を持って行く・・・は、子(金子)が同郷の友人であって、日本に於て最も進歩したる経済的要務を帯びて欧米を巡視する者である、子は貴下が米国に於て最善の指導を与えられん事を望む、云々」

 と云う様な事であったと思う。今度は横浜を「インプレス・チャイナ」号で「ヴァンクーバア」に向い、米国に着いてユックリした宿に泊り込み、方々の観光に出掛けて、一向、誰にも面会せぬのである、折柄金子子爵の手紙を受取った「ゼニング」氏が庵主の宿を訪問して来て、
 「貴下は何か経済上の要務を帯びて居られると金子氏の手紙で見たが、ソーですか」
 と云うから、
 「・・衷心より貴下の御来訪を感謝致します。金子氏の手紙にある如く、小生は或る経済上の視察をするのでありますが、米国はその旅行の途中の道程であります・・昨年参りまして、米国の各製造所は巡視しましたが、マダ少しも米国各地の様子も見ませんでしたから、今回は観光を主とする積りであります。昨日『ナイヤガラ』から帰って参りました」

 「ハア、そうですか、実は★金子氏からのお手紙でしたから・・丁度その頃『モウガン』氏にその別荘で会いましたから、東洋の経済問題の為、その人に1度会っては如何と申しましたら、氏は『来る水曜日に紐育に帰るから、その翌日の木曜日の午後2時頃、2〜30分間位なら面会しても差支ない。併し沢山面会せねばならぬ人を断って居るから・・極秘密にして置いて貰いたい』・・・との事であったから、
幸いの機会であるから、君、お逢いになって置く方が良いと思い升(ます)が」
「夫は何ともお礼の申し様もない御厚意であり升・・世界各国の元首でさえ、此の国に来て『モウガン』氏に面会する事の困難な程の世界の黄金王でありますから、願うてもない事とは思い升が、小生は全く書生の観光旅人であって、何等日本政府の『オーソリチー』等も持って居らず、全く無責任の世間話位で『モウガン』氏に面会しては、第一敬意を欠く事になりますまいか」

 「夫は・・好き御注意ではあるが・・・私は既に貴下の事を話したら、面会すると時刻まで指示された位故、兎も角面会なさってはドウです」
 「誠に有がとう存じ升が・・・甚だ恐入ますが・・小生が全くの米国観光旅人で、何等官憲の命令も何も持って居らぬでも面会して下さるかドウかと、貴下より今一応『モウガン』氏にお尋ねを願いたいと思い升。夫が東洋人の礼儀とも敬意とも心得て居ますから」

 「貴下のお考えはよく解りました。夫では今度聞いて木曜日の朝までに御返事致します・・・「モウガン』氏は、自分の気が向くと思いも寄らぬ人に面会をします・・・此の間も突然費府(フィラデルフィア)の工学生の寄宿舎に行って、椅子も無しに講話をしました位ですから・・イヤ、屹度貴下に御面会すると私は思い升」 と云うて「ゼニング」氏は帰られた。夫から水曜日の午後の2時頃に「ゼニング」氏から、
 「明日の午後2時頃『モウガン』商会に来られよ」
 との事であった。その木曜日の1時頃「ゼニング」氏が庵主の宿の「フィフサベニュー・ホテル」に来られた。

「隙があったから迎いに来ました・・『モウガン』氏に貴下の趣旨を話ましたら『兎も角時間が明けてあるから面会する』と云われました」
 との事である。此の「ゼニング」氏と云う人は実に立派な紳士で、金子氏の手紙の為めでもあろうが何所まで親切な人であるか解らぬと思うた、夫から馬車を共にして「モウガン」商会に世界の黄金王モルガン氏を訪うた。チャンと部屋に待って居た、其の容貌は平面の顔で、頭は半白の髪が房々として、眼が鳶のように茶色の瞳子(ひとみ)から異様の光を放って居る、而して其の目元の愛嬌と云うたら、比類なしである、「ゼニング」氏は庵主と共に直立して居たら、

 「シットダウン・・・(坐せよ)」
 と云うて突然として「モウガン」氏が発する声は、最も底力のある威圧を感ずる簡明な物であった。
 「亜細亜大陸の開発は、ドウしたら好いと云う意見ですか」
 「開発を考える前に、大陸に充填する天産地産の豊富にして、夫が原始の儘封鎖せられて居る事を知らねばなりませぬ」
○「其の価値は」
 「世界無比に安価と思います」
 ○「ナゼ」
 「河川海洋の便によりて、国を狭小に区画する事を得る地形にあり升から、運輸の距離が甚だ近接になり升、故に豊富なる天産は世界無比に安価であり升」
○「日本民族の特長は」
 「情義に富んで、勤勉で忍耐にして、持操があります。その他悪い習慣も沢山ありますが、米国程ではありませぬ」
 ○「支那民族の特長は」
 「忍耐、勤勉ではありますが、人類の持操に乏しいように思います、故に威圧力善導の外、道がありませぬ・・・悪い習慣は米国以上であります」
 ○「開発の利益は何所で得られる」
 「米国の悪習慣は、理論的であり升から、仕方がありませぬ、支那の悪習慣は、無理論的であり升から、対症治療の威圧的善導で片付ます、何でも徹底的に片付かぬ事は結局損であるから、高価く(ママ)付きます、早く片付いた事は総て安価であり升」
 ○「夫(それ)では外国人は、威圧器械を特って開拓に行かねばならぬと云わるゝのか」
 「外国人が直接に亜細亜を開拓すると、世界無比に高価になり升、其の開拓を全部日本に嘱託するが一番宜いです。日本は距離が近くて、威圧器械も具備して居升(おります)」
 ○「嘱託を受ける程の信用が日本に有りますか」
 「日本は政治上の内乱と経済上の恐慌は折々来ますが、50年の長年月、外国の負債取引支払い元利共一度も信用を怠った事はありませぬ」
 ○「日本民族が世界の代表者となって、亜細亜開拓を嘱託せらるる資格は如何」

 「日本は東西両洋の文明を理解し、其の負うたる責任を果たさざる事は今日まで一度もありませぬ」
 ○「開拓の資本は誰が供給する」
 「夫は小生にお尋ねにならずとも、賢明な貴下がよく御存じと思い升・・屹度米国が貸すのです、夫は東洋の為めでなく、米国自己の為です・・・米国は世界黄金の実権を把握して居り升(ます)、鉄と小麦粉と唐もろこし(コーン)だけでも、モウ欧羅巴には売れませぬ、東洋を開柘して夫に黄金と鉄と麦粉と唐もろこしだけでも売る場所としなければ、世界坤與の上に、モウ売る場所がござりませぬ。夫を実現する方針を定める責任は、日本でも米国でもありませぬ、全部貴下御一人のお考にある事は、世界の何人に問うも異議はござりませぬ」

 ○「ドンナ方法で開拓費の『インベスト』をする積りですか」
 「絶対に米国が損をせぬ方法が基礎です」
 ○「政府が引受けるのですか」
 「日本の政府は、商売人ではございませぬ、商売を保護する者であります」
 ○「夫では資本引受会社を拵えて、政府は『セコンド・ギャランチー』をするのですか」
 「夫で結構と思います」
 ○「夫を日本政府は為し得ますか」
 「為せたら為るであろうと思い升」
 ○「夫では支那の事は後にして、先ず日本自己の開拓をする事を政府が保護して後に、支那の事に及ぶの外あるまい・・・日本だけで幾千(いくら)の資本を要する見込ですか」
「解りませぬが・・・先ず1億位から始めるが適当かと思い升(何だか此の時1億円と云う事を云わなかった・・・『モウガン』氏は夫を1億弗(ドル)と思うたと見える)」
 ○「それでは案は直ぐに立つと思う、先ず、

(1)工業開発会社を起し、其の会社が債券を発行するのに、政府が第二の保証をする事
(2)その金額は1億弗以上1億3千万弗位を限度とする事
(3)年限は50年位とする事
(4)利子は五朱以上に貸付けてはイケない、利息が高いと事業利益が少なくなるから、資本の需要が 多くならないから
(5)利息は必ず3歩5厘として、その会社が1歩5厘を取ったらよいと思う。」
 
 「ソンナ事で、貴下が尽力せらるゝ事を拙者は承認し升」
 「誠に結構な御指導です・・・小生は今お話の事を『メモウ』(覚書)に書いて戴きたいと思い升」
 と云うと「モウガン」氏は暫く沈黙して居たが、庵主も「ゼニング」氏も驚く程の大声を発して
「モウガン」氏が、
 「『ゼー・ピー・モウガン』が承認(エース)ですぞ」
 と云うと共に、非常に昂奮して「テーブル」の端をドンと叩いたので「ゼニング」氏も庵主も通弁も度肝を抜かれて、顔色がサッと変わった。・・・庵主は徐に云うた。
 「今一度テーブルを叩いて戴きたいと思いますが」
 と云うと「モウガン」氏は緊張した声で、
 「ナゼ (ホワイ)」
 と云うから、
 「今一度テーブルを叩いて戴いたら、その音響が日本まで聞えはせぬかと思い升・・・小生は先日『ゼニング』氏を以て敬意を表しました通り、米国観光の一旅人でござり升、何等政府の命令も、国民の依頼も、受けて居ませぬ、併し貴下に拝顔の光栄を得る事を許されたから、恐る恐る伺候して御高諭を蒙った訳であり升、其のお話は実に日米両国の為めに、重大なる事件と思い升から、欧州行を中止しまして、明日にも帰国仕ようかと思うて居る所であり升、大には世界黄金界の大権力者たる『ゼー・ピー・モウガン』氏の、東洋に対する大なる親切の声か音かを、日本の政府及国民に聞かせたいと思い升許りであり升、小生は貴下の承認を信ずるの信ぜぬのと云うような資格のある男でない事は始めから、念を入れて申上げて置きました筈であり升、貴下が『テーブル』を打たるる音よりも、アノ美人の手にある『タイプライター』の音の方が便利ではないかと思うて願うたのでござい升」
 と云うと、暫く又沈黙して居たが、
 「エス・オーライ(承知しました)」
 と云うて、側の「タイピスト」の女にペロペロと云うた、其文書をサアッと取上げて一目してスラスラと「サイン」をして庵主に渡したのが、即ち明治31年の伊藤総理大臣と井上大蔵大臣に手渡した夫(それ)が、彼の日本興業銀行計画の基礎である。夫を伊藤公と井上候が実行すると受合って置いて、時の日本銀行総裁・岩崎弥之助氏及び重役の鶴原定吉氏が本となって反対したから、全東京の高利貸銀行の全部が反対し、「ソンナ安い金を貸されては、全銀行は上ったりじゃ、反対せよ反対せよ」と云うて、一致協合して此の案叩き潰しの大騒ぎを始めたから、金子子爵、由利子爵等、その他幾多の巨姓大名の人々が、是非とも此の低利永年賦の工業資本を輸入しようと提唱せられて、其年の議会の下院を通過せしめたが、上院では之を潰した。

 其の次の大隈内閣が不得要領であって、其の次の31年11月に成立した山県内閣で、山県総理大臣が、之を中心として危くも上下両院を通過させて呉れて日本興業銀行が出来たので、ヤット金子、由利両子爵の顔は立ったが、日本中の銀行屋や金持方が、安い利で貸されては、抵当は取上げられる、高利貸は出来ぬ事になるので、捻じてもコジても連合して、此の外資を入るゝ事を阻止して、トウトウ「モウガン」氏との契約を揉み潰して、やはり興業銀行を日本普通の高利貸銀行となして仕舞うたのである。

★黄金王モルガンとの問答  完。


●『俗戦国策』 杉山茂丸 (4)

●日露開戦 の章に茂丸のロシア観や文学観を吐露した一文がある。

 伊藤博文との関連で紹介しておきます。

 ****************

★我が露西亜(ロシア)観

 此の如く我日本は、日露戦争以来、我国の先輩長者が身魂を砕いて築き上げて来た犠牲の結果とも云うべき、対露戦勝の我国家を、其子弟たる現代の日本国民は、又、悲惨にも、現代の露西亜が発散する高毒素の宣伝にて毒殺(poisoningshou)せられんとしつつあるのである。
彼の「レーニン」「トロツキー」の高唱したる主義は、論拠を或る学問的意義に取りて、露国民を全部、発狂せしめた、即ち其目的が、革命である、曰く、
 一、階級を破壊する事、
 二、財産を共有する事、
 其次に高唱したのは、
○目的は、手段を聖化せしむるものなり。
これらの宣伝に、天性単純とう愚(バカ正直)なる露国民は発狂して之を実行したのであるが、其目的の実行とはドンな事であったか、先ず皇帝を銃殺する事と、皇后を辱めて虐殺する事と、皇族を悉く穴に入れて埋め殺す事と、国民が先祖以来働いて蓄えて居た財産を悉く没取する事とであった。

 此等の主なる目的を達する為には、ドンナ手段を取ったか、1ケ月に平均1千人ずつの反過激派を虐殺した、国民の財産と云う財産は全部剥ぎ取った、国民の弱者と云う弱者は、男女とも全部これを凌辱した、其の他に何事もしたこと事はないのである。ソンナ手段が、ドンナ目的の為めに、聖化せられたか、世界の歴史始まって、未だ見た事も聞いた事もない程の惨害を実行して、矢張り国じゃとか、政治じゃとか名を付けて、少しも恥しいとも何とも思わぬのである、而してやはり、日夜の声を続けて「サイ
エンス」呼わりをして居るではないか。
そもそも学問とは何物であるか、地球に土地あって以来の歴史に伴うて発生したる、吾人祖先人類が、伝統的に思念考慮したる種々なる記録にして、吾人以後、尚お幾億万年も継続して、思念考慮したる発明的記録を子孫に伝統せねばならぬと云う、純然たる未製品の筆記である。
左様な不完全なる薬剤を以て、僅かに60年の「ライフ」を「リミット」として生存して居る人間に向って之を療下せしめんとするは、危険此上もない事である、此等は恰も、薬局法未定の、有毒素の粗製薬品を以て人類に手指で投薬するのと一般である。
現代の世界各国は殆んど全部、此の未製品の学問中毒に罹りて、未定薬局法、投薬の原理、原則と云う毒素に内蔵其の他の生理的機能を破壊せられて、正に死に瀕しつつあるのである。
読者よ、欧北半暮の国たる露国と云うは、往古より大豪傑も出で、大学者も出たが、其性、懇頑ならざれば深酷、一種の偏倚性を有するのである故に、彼の文豪「レフ・トルストイ翁」の如きも其流暢なる文章で一篇の小説を綴るにさえ其の罪囚を保護し、一方、官憲を罵る行文の随所にも終始一貫して彼の懇願性と深酷味は顕われて居るのである。

今ちょっと其の一節の意味を抜き出して見れば、

◎「ペテルブルグ」の監獄に繋がれて居る幾多囚徒達の運命を自由自在に左右して居る男は、沢山の勲章を侍って居る最もイカメしき老将軍であって、彼は不断、襟に慈悲の表彰たる白十字章を吊して居る大官である。

 世間では遠の昔から彼は耄碌して居ると云われて居るけれど、ソーでないかも知れぬ証拠は、彼は立派な男爵で、将軍で、監獄最高の大官である、彼はドウして斯る光彩ある位置を得たのであるかと云えば、彼は多数の百姓達を強制にて其の頭を短かく刈込ませ、強制にて軍服を着せ、強制にて銃剣を担がせ、自ら夫(それ)を強制にて指揮し、強制の表現とも云うべき軍律なる印刷物を以て総てを圧迫し、監禁、幽閉、刺殺、銃殺を以て威嚇し、而して彼等百姓達の生命を掛けて保護防衛した物は、彼の老将軍等の単独な位置や、自由や、家産や、其の血族等の幸福と安寧等とであった。而して其の目的を達した時は、彼等百姓達の死屍は何千何万と血みどろになって、累々として原野に横わったのである。

 これだけの事を強制的に遂行した功労によりて、彼、老将軍が頂戴した幾多の勲章が、アノ胸間に燦爛ときらめいて居る彼品(あれ)である、夫から又彼将軍は波蘭(ポーランド)にも勤務した事がある。其所でも彼は百姓の食を奪うたり、衣を剥いだり、鞭で叩いたりした功労によりて色々の勲章や襟飾りを頂戴した、而して彼は今や高大な邸宅の中に、世界中で一番柔かにして暖かな「アーム・テヤー」(ママ)の中に老体を埋めて、尚お且つ旧来の位置を保って居るのである。

 併し彼は長年の習慣性で、上長官の命令が一度降下すると、恰も猛獅(ライオン)が兎を見付けたように「アーム・テヤー」から刎起きて、満身の精力を傾尽して、如何なる皮の鞭でも、鉄の棒でも、氷の刃でも、鋭利な鉄砲でも軽々と操縦して、其行為の前には、慈悲も、不憫も、気の毒も一切ないのである。
彼は斯の如く厳重に命令を奉ずる事のみを大切にして、此以外には譬え自己を人類外に放棄しても、其上司の命令に忠実なる無情惨酷を平気で遂行する能吏である、夫が即ち彼の今日の位置と、富と、幸福と、安寧とを築き上げたのである、故に彼が毎日職責と称して、身心を傾けて信じて居る事柄は、幾多の男女を、網羅したる罪人を、要塞の奥の独房の中に監禁して、10年間に夫等の半数が牢死したり、狂気したり、肺病となったり、自殺したり、餓死したり、硝子の破片で動脈を切って眠死したり、網紐で縊死したり、木片で柱を摺りて焼死したりするようの待遇を、アノ禿髪、白髭、跙歯屈腰(そはくつよう)の年まで、夫を光栄として瑕瑾なく勤務したる、光栄のある役目と思うて居る、男爵で、将軍で、大官で、富裕なる男であるのである。而して彼が、巨額なる国費を以て使役する幾百千の下吏僚属は、因襲的に彼を羨み、彼を学び、尚お一層それ以上に職務の能率を向上せしめんと務めて居るのを、彼老将軍は、全く自己の良心から視て、悪い事とも思わず、多くの罪人の苦しんで居るのは、アレハ純然たる天災の、風や、雨や、地震の如く不可抗力の災難に遭うて居るのと同じように心得て、自己単独の感覚に対しては、特殊の刺戟を受けぬのである。ナゼなれば、斯る総ての事柄は皇帝の御名によりて発布し、皇帝の聖鑑によりて執行せられる法律の遂行であるから、我々に何等の関係なく、関心なく我々に月給やら勲章やらを恵まるる上司の命令をのみ大切に遵奉するのに何の不思議があろうぞ。此等の事より発生する多くの故障と損害は、総て皇帝陛下に於て責任して下さるのであるから、ドンな大変が起ろうが、大乱が兆そうが、吾人の享有すべき月給と、年度進級と、養老年金と、合理的の賄賂の上には、何等の故障も及ぼすべき事ではない、故に此老将軍の愛国と云うも、忠義と云うも、正義というも、皆全部総て以上の行為の中に含まれて居るのである、云々。

 と、この「トルストイ」大文豪はスラスラと此を書いているのである。茲で読者は一考せねばならぬ、此「トルストイ」の此筆致と云うたら、何等の深酷であろう、何等の挑発であろう。

 此文豪の煽動に掛ったら殆んど踊り出さぬ者はない、飛出さぬ者はないのである。元来昔から文豪などと云う名は、動(やや)もすれば煽動名人の別号かと思わるゝのである。「ルーソー」(ママ)は自由平等の逆理窟を云うて全世界の政治界を煽動した、近松巣林子は非条理の男女恋愛を書いて満天下の心中情死を煽動した、「トルストイ」は偏倚なる反抗心を挑発して露国の下層民を煽動したのである。素より国家的統一心と常操とを有せざる戇頑なる露国民を、斯く念人りに丁寧に小説的にまで分け入って、為政家の困難する様にと煽動したのであるから、露西亜の政治は昔日から政治らしき政治は絶対に出来ぬように造り上げられたのである。ナゼなれば元々政治上の一部人として単なる罪人の監視者ばかりを攻撃する丈にても、政治的に反抗したる経歴とは犯罪者の警醒教訓と共に、一言も之を道破する所がないのである、只だ一向に筆を舞わし文を踊らして、其の彼等の犯罪と反抗とに対して、煽動奨励のしっ放しの跡より外、何物も見る事は出来ぬのである。

 ソコデ実際に於て「アナキスト」(無政府党)「ソシヤルスト」(社会党)「ニヒリスト」(虚無党)「ボルセビーキ」(共産党)等が蛆虫のように孵いて来て、露国は国でもなく、人民でもなく、単なる悪性の遊牧動物的となったのである。

此の如き露国が殆んど欧亜の地半面を占領して、其の披煽動者として、最も有力なる民族が殆んど一億数千万人も蠢動して居るから、其の気運はドウしても欧洲の他の国家や東洋の支那や日本等へも、風靡波動して来るのは当然である。而して其の風靡波動は、先づ第一に「サイエンス」に耳目を刺戟せられる学徒に媒介せられて、トウトウ教育界の色彩を混濁せしむる事となるのである。

★要心せよ日本国民

 此の故に、今日我日本帝国に於ても、現在お互の産んだ子供は悉く善良であり升、夫を学校に入れて置くと、其の日から漸次に此毒素に中傷せられて、段々に目が耳の辺まで裂けて来て、尻尾が一寸二寸ずつ伸びて来て、全部獣物になるつつある所であり升(ます)。                
 夫(それ)に直接間接に3〜4億円の学費を掛けて、此の獣物を製造しつつあるのであり升、その製造掛りには、国家が、学士博士の称号を付したり、或は爵位や年俸の壱万円内外を与えて、上下官民共に挙って之を奨励しつゝある事を、決して忘れてはなりませぬ。

学問と云う物は人類の品位を飾る物にして、一日も廃してはならぬ物でありますが、人類、脳細胞の意思系統を刺戟する文学は、決して之を、意識する以上に「アップライズ」しては、大変な片輪を製造する事になるものであり升。
夫は庵主の説明までもなく、現世界の総ての人類が、理化学、科学工業以外に働きつつある文学的毒素は、露西亜その他の国家に「デベロップ」して居る事実丈けで、十分に分るのであり升(ます)。
即ち今の日本は、露西亜を征伐して勝った復仇に、学問的の高毒素を以て毒殺されつゝある所であり升。

 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー1

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)

 「大西郷の後継者」から「人格異変」? 高島鞆之助の実像
  ニューリーダー 2008年2月号


●謎多き政治フィクサー、玄洋社・杉山茂丸の暗躍
    
薩摩藩士高島鞆之助は戊辰戦争に功あり、明治4年の御親兵募集に応じて上京したが、西郷隆盛と吉井友実の計らいで宮中に入り、侍従となった。翌年侍従番長に挙げられ、天皇側近として幾多の勅命を果たした後、明治7年陸軍に転じて初任大佐、10年に少将、16年に満39歳で陸軍中将に昇り、翌年施行の華族令で子爵に叙された。21年からの大阪第四師団長時代は名軍政家として知られた高島の陸軍におけるその位置を、三宅雪嶺の『同時代史』は、「第四師団長たりしとき、大西郷の後継者たるべしと見らる」と語る。24年、第一次松方正義内閣の陸相として政界入りした高島は、時に47七歳の分別盛りであった。

 これに先立つ明治17年、朝鮮国京城で甲申事変が起きた。世界史は帝国主義の最終段階に差しかかり、南下意欲を露にする帝政ロシアに対し日本帝国が存立しうる条件は、朝鮮半島の独立性確保に懸かっていた。しかし朝鮮は依然清国の属国に甘んじ、その清国すらロシアに狙われていた。

朝鮮がこの状態から抜け出すためには、日本と結ぶしかないとする金玉均・朴泳孝らの独立派が、クーデタを実行する。王宮を護衛していた日本軍も出動したが、袁世凱率いる駐留清軍に破られて、クーデタは失敗、親清派が臨時政権を樹立した。翌(明治18)年4月の天津条約で、日清両国は、朝鮮内政に干渉せず、出兵の場合は相互に事前通告することを約したが、朝鮮の政権は親清派の事大党が掌握するところとなった。海軍の大膨張策を採って周辺国を威嚇する清国の姿勢は、あたかも今日の中華人民共和国を彷彿するもので、19年には長崎に来航した清国水兵がわが警官・市民らを殺傷し、暴行を働く事件が起きた。軍拡を背景に中国兵が増長し、アジア各地で侵犯を働くのは歴史の通例である。

 明治22年12月、外相大隈重信の条約改正問題で黒田清隆内閣は総辞職する。玄洋社の杉山茂丸が不平等条約の原案を不満とし、来島恒喜を操って大隈重信を襲撃せしめたのである。代わって第一次山県有朋内閣が成立したが、何せ国際問題をすべて軍事カで解決した時代である。

26歳ながら海外事情に精通していた杉山は軍備拡張の必要を痛感し、山県内閣を動かして軍拡予算を通そうとした。しかし、翌年7月の第2回総選挙で勝利した民党が、11月の第一回帝国議会の予算案審議に大幅な予算削減案を提出して通過させるや、民党の勢いを懼れたた山県は忽ち内閣を投げ出してしまう。その後を受けた第一次松方内閣は、外相に榎本武揚(幕臣)、司法相に田中不二麿(尾張)、文相に大水喬任(佐賀)、農商務相に陸奥宗光(紀州)、逓信相に後藤象二郎(土佐)を配し、長州人は内相・品川弥次郎ただ一人であった。この内閣は、伊藤博文と山県が背後で操縦する「黒幕内閣」と呼ばれ、「世論を配慮した伊藤の智恵により薩長色を薄める人事にした」との解説が当時から専らであるが、これは長州ないし伊藤の買い被りであろう。

事実を観れば、松方首相が蔵相を兼務し、陸相に大山巌→高島、海相に樺山資紀と、要部を大陸積極派の薩人が占め、長州色はまことに薄いが、誰の目にも薩色が薄いとは見えない。長州が恰も「黒幕」に見えるのは、深慮遠謀のためてはなく、ひたすら民党を恐怖して薩長の陰に隠れたその姿ゆえである。財政家の松方さえ軍拡を最大の責務と考えた時宜なのに、長州では陸軍長老の山県さえ民意を恐れて非戦派であった。凡そ明治20年以後の近代史は、大陸積極策且つ官僚専制派の薩摩閥と大陸消極策で民党と結んだ長州閥の思惑が、光学的干渉のごとき縞模様を顕しながら進展していくが、その間にあって両者を仲介したのが玄洋紅の軒を借りた杉山であった。

杉山は、薩摩と政治的スペクトルを同じくする玄洋社に属しながら、日常の交際を専ら長州閥の要人としていた。薩摩の意思を長州に伝えるためと見えるが、或いは、杉山その人が長州浜を調略していたのかも知れず、杉山の考究なくして日本近代史は語れないが、それは別条に譲るしかない。
  
 <続く>


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー2

●閣内で選挙干渉を叫び辞職、薩摩ワンワールド総長に? 

明治24年11月の第2国会において、政府の軍拡予算案が否決されると、軍部の内大臣は黙しておらず、海相・樺山が「薩長政府などと罵るが、本邦今日の隆盛を来たしたるは薩長政府の功績ではなきか」と吠えた蛮勇演説で議会は荒れに荒れ、松方は衆議院を解散した。第2回総選挙は、品川弥次郎内相と白根専一次官の長州コンビが、史上有名な大選挙干渉を指揮する。それにも関わらず民党が勝った理由は、民党の激化を懼れた伊藤及び山県・井上馨ら長州要人が選挙干渉の手加減を品川に要請したために品川が腰砕けになったからである(堀雅昭著『杉山茂丸伝』)。選挙干渉が最も激しかった高知(調所広実)と佐賀(樺山資雄)の知事はどちらも薩摩人であった。福岡では、杉山がかつて県知事に押し込んだ安場保和(後藤新平の岳父)が選挙干渉を主導し、杉山もこれに協力した。選挙後、品川は引責辞職し、後任の内相が副島種臣(佐賀)松方(首相兼務)と一時凌ぎの後、司法相兼務で就任した河野敏謙(土佐)が、人心収攬のために佐賀・高知の知事更迭を図った。閣内で選挙干渉を叫んでいた高島・樺山は、あくまで軍拡を重視する態度で、更迭に猛反対して辞表を提出、これにより第一次松方内閣は25年8月8日を以て倒壊、第二次伊藤内閣に代わる。同日高島は予備役編入、樺山資紀は退役し、共に枢密顧問官に転じた。

 この時期の枢密院議長は、大木喬任佐賀)→山県有朋(長州)→黒田清隆(薩摩)で、副議長は東久世通禧(公家)である。また枢密顧問官は、薩人では前海相・仁礼景範、元海相・樺山資紀、元海軍卿・川村純義(樺山の子息愛輔の岳父)、旧幕臣では元海軍卿の勝海舟、同じく榎本武揚、さらに前海軍軍令部長・中牟田倉之助(佐賀)と海軍の元首脳が20数名中にこれだけいた。日清の開戦迫るこの時期に、自ら軍政を離れた高島は、一体何をしていたのか。

★結論を言えば、24年4月に死去した枢密顧問官・吉井友実が保持した秘密権力を引き継ぎ、薩摩ワンワールドの総長の座に就いたと、私は考える。

海軍首脳といえばワンワールドの上席と観るのが世界の常識だが、日本も多分同じで、海軍首脳が居並ぶ枢密院は、高島にとって恰好の居場所だったものと思う。

  <続く>
 

 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3

 ●現役復帰、拓殖務相などを歴任するも恩賞なしの謎

 朝鮮国では親日派政権の樹立に向けた朝鮮改革の動きが進み、これに応じた民間志士が26年8月、朝鮮独立を目指す実力結社の天佑侠を釜山に設けた。時を同じくして杉山茂丸は参謀次長川上操六中将に会い、清国との早期開戦を訴える(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。軍拡を益々進めた清国は、しきりに軍艦を日本近海に航行させ、挑発的な軍事演習を繰り返していた。大局はもはや事事行動による解決しかないと説得する杉山に、川上は長州閥の巨頭で枢密院議長の山県有朋大将への呼びかけを懇願した。山県は伊藤・井上の平和論に押され、且つ彼我の兵力差を憂いて開戦論を拒否するが、やがて川上の意見を入れて開戦論に転向した。因みに、薩摩と玄洋社の大陸政策にとっての障害は常に★伊藤の非戦論で、その因縁が後年ハルピン駅頭の伊藤暗殺をもたらしたものと思われる。
 
対清戦争の目的は、第一に条約改正を国力(軍事力)により推進すること、第二は日朝の連携を実現するためであった。既に国家の実質を失った李氏朝鮮国の支配を巡って、日清露の間で覇権争いが激化しつつあり、朝鮮国内では東学党の農民軍が決起を控えていた。東学党の騒乱に乗じて玄洋行が清国を挑発し、開戦の口実にしようと考えていた有様を、杉山の子息夢野久作が傑作『犬神博士』のなかで語っている。明治27年3月、東学党の蜂起と金玉均の暗殺を開戦の口実として、日清間に戦雲が沸き立った。現役に復帰し海軍軍令部長に就いた樺山資紀は、講和ごの28年5月海軍大将に進級、台湾総督に補せられた。樺山総督は6月17日、台北城内で閲兵式を行い19日に南進を開始するが、土匪の抵抗が激しいため一個師団では不足と判断し、28日大本営に対し一個混成旅団の増援を請求した。台湾総督府は民政を中断して軍政に移行、8月6日、台南平定の南方作戦を指揮すべき副総督を置くこととし、樺山総督の要請により、予備役中将高島鞆之助を8月21日付で之に任じ、現役に復帰せしめて南進軍司令官とした。作戦計画を決定した南進軍司令部に対し、22日付で南進命令が下り、激戦ここに2カ月、10月21日の安平陥落を以て台南征討は成り、樺山総督は11月6日を以て南進軍の編成を解いた。

28年12月に凱旋した高島は、翌年4月、第三次伊藤博文内閣が新設した拓殖務省の初代大臣に就く。台湾総督府の監督に当たった高島は、9月に第2次松方内閣に移行するや、拓殖務相兼職のまま2度目の陸相に返り咲くが、30年9月の行政整理で拓殖務省が廃された後は陸相を本官とし、31年1月までその職にあった。3年前、25年8月に予備役入りした高島は現役に復帰し、台湾副総督から拓植務相、さらに陸相を兼務したが、なかでも1年半に亘る陸相の座は、日露決戦の時機迫る折から、国内で最も重要な職位であった。28年8月5日、硝煙いまだ漂う中で早くも軍功表彰があり、戦時中に軍務大臣だった大山・山県・西郷従道が勲一等旭日桐花大大綬章を授かり、野津道貫(第一軍司令官)、樺山(台湾総督)、川上操六(参謀本部次長)、伊東祐亨(海軍軍令部長)が旭日大綬章を受けたが、この勲章を既に8年前に受けていた高島には何の恩賞もなかった。既達の爵位勲等が高過ぎて昇叙の余地なく、次の機会にという所だったのだろうが、その機会は大正5年の逝去まで終に来ず、没時に勲一等旭日桐花大綬章を賜わるまで実に30年もの間、何らの恩賞も受けなかった(位階の正二位は侯爵・首相級で、生前の贈位と思うが年次は未詳)。

  <続く>
 
http://2006530.blog69.fc2.com/category2-17.html

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > カルト8掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > カルト8掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧